AWC 飛井田警部の事件簿番外編:空振りの犯罪 下   永山


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★タイトル (AZA     )  11/02/23  00:00  (498)
飛井田警部の事件簿番外編:空振りの犯罪 下   永山
★内容                                         11/02/23 23:41 修正 第2版
 早朝から刑事の訪問を受け、大黒は衝撃を隠すのに必死だった。
(もう? 早すぎるだろ。心の準備が……)
 二人組の刑事は今村と有園と名乗り、「篠山隆太郎さんのことで話をお聞き
したい」と確かに言った。家族がいるので家に上がられるのはちょっと……と
難を示すと、では車の中でと提案された。
「パトカーの中も困る」
「いえ、今日は普通の車ですので。スポーツ記者さんの姿も見当たらないよう
ですし、問題ないでしょう」
 押し切られ、彼らの乗ってきた車内で、事情を聴かれることになった。後部
座席に収まると、隣に今村と名乗った方が座った。有園は運転席だ。
(塀が近くて、こちらのドアを開けることはできない……)
 万々が一、窮地に追い込まれて逃走を図ろうにも、これでは刑事を殴り倒す
必要がある。大黒は覚悟を決めた。話を聞かねば始まらない。
「篠山隆太郎さんをご存知ですね? 自宅は、ここから車で二十分と掛からん
でしょう」
 今村刑事が単刀直入に質問をぶつけてきた。
「確かに知っている。自宅に行ったことも数度あるから、車でならそれぐらい
掛かるだろう。彼が何か」
「どういうご関係で?」
「ご関係と聞かれてもな。知り合いとしか言い様がない」
 ゆっくりとした喋りに努める。少しでも時間を稼ぎ、頭を働かせたい。
「まあ、ファンの一人だな」
「携帯電話の番号を教えるとは、特別なファンなんでしょうな。どういうきっ
かけで知り合われたのか……」
「ああ、それなら簡単だ」
 大黒は唇を嘗め、用意しておいた答を口にする。
「昔、こっちでドライブ中に、トラブってね。車がうんともすんとも言わなく
なって、途方に暮れたんだ。そこへ偶々通り掛かったのが篠山さん。助けても
らって、お礼をして、そういう縁で親しくなったんだ」
「ふむ。では、二日から三日に掛けての電話の用件は、何だったんです? ぜ
ひ教えていただきたい」
「話してもいいが、何があったかを教えてもらわないと。何だか気味が悪い。
篠山さんが何かしたとでも言うんですか」
「いえいえ。テレビではやっていないかもしれないが、新聞には載ったと思う
んですがね。ご覧になっていない?」
「ああ。一体何が。気を持たさないで、教えてくださいよ、刑事さん」
 だいぶ慣れてきた大黒は、軽い調子で尋ねた。
「篠山さんはお亡くなりになりました。事故か事件かの判断をしなきゃいかん
ので、こうして知り合いの方を回っている次第なんですよ」
「事故か事件? どういう風に死んだんです、彼は」
 大黒は今村刑事の両肩を掴まんばかりの勢いで聞いた。驚いてみせるのはい
いが、芝居がからないようにしなければいけない。
「いつ鹿児島にお帰りになったか知りませんが、こっちはここんとこ大雪だっ
たでしょう? 篠山さんは昨日、雪下ろしをやっているときに、足を滑らせて
屋根から転落し、亡くなった可能性が高いんですが……ま、一応、他殺の線も
調べています」
「そうでしたか……さぞかし、苦しかったろうな」
「――ええ、恐らく苦しかったと思いますよ」
 今村が妙な間を取ったのに気付いた大黒。目をしばたたかせ、何か変なこと
を口走ったろうかと思い返す。そうする間にも、今村は言葉を重ねた。
「雪の上に転落しても、意外と衝撃はあるかもしれません。ましてや、溝に落
ちてそこで溺れたのなら、尚更だ。息苦しいに違いない」
「――さっき苦しかったろうなと言ったのは、寒くて苦しかったろう、辛かっ
たろうなという意味だ。あなた達は知らんだろうが、篠山さんは極端な寒がり
なんだよ。そんな人が雪の中で死んだら、そりゃあ苦しいだろう」
「分かりました。話を戻しますが、電話は何の用件だったんですかね」
「ああ……新年の挨拶と、またサインをくれないかという話だったな。具体的
にではないが、また会いましょうと約束して電話を切ったよ」
「なるほど。ところで、この人物をご存知じゃないですか」
 今村刑事が懐から一葉の写真を出した。差し出されて受け取る。胸から上の
男の写真だった。正面から捉えられた表情は、どちらかといえばむすっとして
いる。
「知らないなあ。誰です?」
 正直に答え、写真を返す。今村は写真を仕舞うと、きっぱりとした口調で答
えた。
「知らないのなら結構。現場近くで目撃された男が、こいつかもしれないとい
うだけです」
「その男が犯人かもしれない?」
 大黒は内心で喜んでいた。別の容疑者が既にいるのなら心強い。
「事件かどうかすら不明な段階です。ご不満かもしれませんが、申し上げられ
ない」
「いえ、納得した。もしも殺人だとしたら、絶対に犯人を見付けてくださいよ」
「無論、そのつもりです」
 今村は自信ありげに答えた。
「いずれよい報告をお届けしますよ。ああ、こちらにはいつまで滞在されるん
です?」
「一週間ぐらいいるつもりだったが、火山灰の影響が気になるんでね。収まれ
ばいいが、噴火が続いて風向きが悪くなったら、飛行機も鉄道もだめになるか
もしれない。早めに戻ろうと考えています。明後日か明明後日には」
「そうですか。またお話を伺うかもしれないので、なるべくこちらにいてもら
いたいのですがね。事件解決を直接お知らせするためにも」
 似合わない笑みを浮かべた今村に、大黒は「どうなるか分からんが、考えて
おきましょう」とだけ答えた。

 雪は止んだが、からっと晴天とはならず。積雪をこのまま放置していると、
氷になって面倒が増すかもしれない。
 正月が明け、いよいよ妻の実家でごろごろしている訳に行かなくなった。飛
井田は朝から慣れない手つきで雪かきに精を出していた。二時間弱ほどして、
昼食を用意されたところで、ちょうど携帯電話の呼び出し音が鳴った。今村か
らだった。お茶を一口すすってから出る。
「待ってました。雪かきの最中にかけてくれたら、もっとよかったのんだが」
「雪かきしているのか。ご苦労だな」
「で、何か分かったのかい?」
「当人の証言は後回しにして、一番重大な点を教えてやる。ただし、現時点で
は他言無用だ」
「もちろん、承知しているよ」
「写真を見てもらうふりをして、指紋を採った。急いで現場指紋と比較した結
果、篠山氏の芸術作品に付いていた指紋のいくつかが、大黒のものと判明した」
「へえ? でもかねてからの知り合いだったとしたら、被害者宅の物品に大黒
選手の指紋が付いていても、おかしくない。今度の事件と結び付けるには弱く
ないか」
「それがな、ラッキーなことに、問題の芸術作品は依頼された物で、事件前日
に完成したと分かっている。歪んだワイングラスみたいな代物なんだが、それ
を写真に撮って添付したメールを、被害者宅のパソコンから依頼者に送ってい
るんだから間違いない。依頼者は気に入らずに作り直しを求めるメールを翌日、
つまり事件当日の朝、返信している。篠山氏が返信をチェックしたのが午前十
時過ぎ。写真を撮ったときの光の具合が悪かったのかもしれないから、もう一
度撮って送る、という風な内容のメールを送っている」
「死亡推定時刻の絞り込みに役立ちそうな話だ」
「それ以上さ。すでに知ってるかもしれんが、問題のグラスは割れていた」
「いや、初耳だ」
 電話を持ち直す飛井田。
「撮り直しの提案に対する返信メールが来ていないというのに、グラスは割れ
ていた。依頼者の作り直し要求に憤慨して割ったとしたら、そもそも写真の撮
り直しを言い出す必要もないと思うんだが。ま、割れたおかげで、大黒は指紋
を拭くに拭けなかったと踏んでいる」
「ふーん。その事実を突き付けに、今からまた大黒選手のところへ?」
「ああ。最初に会ったとき、早めに実家を発つようなことを匂わせていたから
な。足止めしてやる」
「身体のサイズは? 命綱にあった結んだ痕跡に合いそうなのか」
「無論、計測するなんて芸当はできなかったが、見た感じでは合いそうだった。
案外早く、解決するかもしれん」
「そりゃよかった。ただまあ、プロ野球選手が犯人だとしたら、世間的にショ
ックが大きいだろうな」
 飛井田が何の気なしに言うと、向こうからは存外、真剣な返事があった。
「慎重にやるさ。実は、署に戻った途端、えらいさんから『本当に大丈夫か? 
慎重にやってくれ』と念押しされて、ちょっと動きにくい空気なんだよ。大方、
球団のキャンプ再誘致を目論む筋から抗議でも来たんだろう。厄介なことにな
らなきゃいいんだが」
「なるほど。裏があるもんだ。証言の方は? 被害者との関係をどう説明した
んだろう?」
「予想通り、ファンの一人だと。そう聞いて、『携帯電話の番号を教えるとは、
特別なファンなんでしょうな』と畳み掛けたつもりだったんだが、肩透かしを
食らった。『昔、こっちでドライブ中にトラブルで動かなくなり、困っていた
とき、通り掛かった篠山さんに助けてもらった。それが縁で親しくなった』だ
とさ」
「年明けに電話で何度か話をしても、さほど変じゃないという主張か」
「こんなことよりも、おまえが好きそうな返事を引き出したぜ。正確には、引
き出したんじゃなく、相手が勝手にぽろっと言っちまっただけなんだが」
「興味あるねえ」
 電話ということも忘れ、身を乗り出す飛井田。手に力が入る。
「篠山隆太郎の死を伝えると、『さぞかし、苦しかったろうな』と感想を漏ら
したんだ。雪下ろし中の事故で亡くなった可能性があるが、念のため殺人でも
調べているという風に言ったのに、だ」
「なるほど。『苦しかったろうな』だと、溺死したことを知っていたように聞
こえる」
「ああ。発表でも溺死のことは伏せていたしな。俺もその場でおかしいぞと気
付いたので、すぐさま、どういう意味なのかを問い質した。あなた今妙な返事
をしましたよと仄めかす具合にな」
「いいぞ。で、首尾は?」
「守備はセンターだと――このネタはもういいか。大黒は『寒くて苦しかった
ろうなという意味だ』と、怒ったみたいに答えたよ。実際、篠山氏は相当な寒
がりではあったらしいんだが」
 話を聞く内に、飛井田はつい噴き出した。
「はは、苦しい弁解にしか聞こえんねえ。『雪に埋もれて窒息することだって
ある』とかならまだ分かるが、『寒くて苦しかったろう』だと、動揺がばれば
れだ。大黒励一の線で確定かな」
「だと思うんだが。さっきも言った通り、強力な証拠がない限り、上は積極的
に動くつもりはないらしくてね」
「二度も言うってことは、今村、助けて欲しいんだろう?」
 しばらく沈黙があった。飛井田が助け舟の台詞を考えていると、ようやく今
村からの声が返って来た。
「……まあ、いざというときには、飛井田、おまえにバトンタッチだ。よそも
んのおまえなら、上の言うことにも気兼ねせずに行動できる」
「比較的気兼ねせず、だ。好き勝手できる訳じゃないことぐらい、承知してい
るくせに。最低限、おまえのお墨付きというか後ろ盾が必要だ」
「ああ。それぐらいはしてやるさ」
 力を貸してもらおうとする割に偉そうな口ぶりの友人に、飛井田は首を振っ
て苦笑いをした。

 大黒が落ち着かない午後を過ごしていると、三時過ぎになって、再び今村刑
事が現れた。今度は一人だ。
「真相が分かったんですか」
 冷静さを取り繕い、大黒は刑事の車に乗った。問い掛けに対し、今村は「残
念ながら」と首を横に振った。
「重要な事実が判明しまして、帰られない内にと思いましてね。どうしても聞
きたいことができたんで」
「何だろう?」
「現場にあった物から、あなたの指紋が検出されたんですよ」
「……それが? 俺は何度かあそこの家に行ってるんだよ。指紋が出ようが、
髪の毛が落ちていようが、大した問題じゃないだろう」
 気色ばむのが自分でも分かった。犯人であろうがなかろうが、ここは怒って
もいいはずだ。
「いえね、それがグラスから出たから、頭を悩ませているんですよ。篠山さん
が作ったばかりのグラスで、正月二日の夜に完成し、三日、篠山さんの死が発
覚したときには割れていたので、その間に触ったとしか考えられない」
「……」
 忘れていた。心中で舌打ちをした大黒。指紋を残したと気付いていたとして
も、割れていたのだから拭いようはなかったろう。持ち去っていればよかった
のか。だが、後悔しても遅い。
「最初、あなた宛てに作った物かと思ったんですが、別の人が注文した物と分
かったので、さあ困った。大黒さんに話を聞かねばならない、と、こうして早
早の再訪問になった訳です」
「……分かった。三日の朝、篠山さんの家に行った。それは認める」
 大黒は懸命に善後策を構築した。
「だが、彼の死には関与していない。そこはしっかり押さえてもらいたいんだ。
何せ、俺が彼の家を離れた時点で、彼はぴんぴんしていたんだから」
「詳しく伺いましょう」
 疑いの色を浮かべた眼になる今村。両手にはペンと手帳を、何とでも言えと
ばかりに構えた。
 大黒は唾を飲み込むと、自らを落ち着かせながら話し出した。
「電話を受けて、サインを書いてやるなら早めに行くべきだなと思った。だか
ら、三日の朝、篠山さんを訪ねたんだ。八時過ぎに着いたんだっけ。そうした
ら、彼が雪かきで悪戦苦闘しているのが見えた。気の毒に思えたんで、少しだ
けなら手伝いましょうと申し出たんだよ。交替して、屋根に上がり、雪下ろし
をしばらくやった」
「何時までやりました?」
「あれは……」
 思い出そうとするふりをして時間を稼ぎ、頭の中で懸命に考える。死亡推定
時刻を刑事に言わせたあとなら、簡単に答えられるが、これでは迂闊に答えら
れない。かといって、死亡推定時刻は何時頃なのかと改めて聞く訳にもいかな
い。
(あの日の八時頃に到着し、雪下ろしを少しの間してやったというシナリオな
んだから、少なくとも一時間、いや、挨拶や準備を含めて一時間半はあの家に
いたことにしなきゃまずいか。てことは……)
 唇を嘗め、大黒は答えた。
「何時までやったかは、はっきり覚えていない。ただ、篠山さんの家を出たの
は、九時三十五分か四十分ぐらいだったと記憶している」
 篠山が死んだのはそれから約一時間後だった。死亡時刻が正しく推定されて
いれば、今の答で問題なかろう。
「九時三十五分から四十分の間ですね」
 メモを取った今村刑事だが、突っ込んで聞いてくることはなかった。だが、
安心する間もなく、大黒の隙を突くかのような質問をぶつけてきた。
「サインはどうしました?」
「サイン?」
「サインを書いてあげるために、訪問したんでしょう? 現場には色紙が見当
たらなかった」
「あ、今、言われて気が付いた。サインを書かずに、帰ってたんだ。雪下ろし
に熱中したせいで、すっかり忘れてしまったんだな」
 考えられる中で最も自然な返答ができた。そう思う大黒だが、刑事は納得し
ていないようだ。首を捻っている。
「サインのために出掛けたのに、それを忘れるなんて。あなたが忘れたとして
も、篠山さんが覚えているものだと思うんですが」
「知らんよ。帰り際になっても、彼は何も言い出さなかった。事実はこうなん
だから、仕方がない」
「ははあ。ま、ちょうど篠山さん宛に仕事関係のメールが来ていたようですし、
そちらに意識を取られていたのかもしれませんな。あとは……そうそう、雪下
ろしの際、命綱を使いましたね?」
「当然。使わなければ、危なくてしょうがない」
 簡単な質問にほっとする大黒。
「大黒さんが雪下ろしを終えたあと、篠山さんに交替したんでしょうか」
「あ、ああ、そうだよ」
「篠山さんも身体にロープを結んでいましたが、あれもあなたがしてあげたと
いう解釈でよろしいですか?」
「その通り。問題ありましたか」
「いえ。単なる確認です。ただまあ、こういう話をしていいものかどうか、足
を滑らせた篠山さんは、命綱の輪っかから身体がすっぽり抜けた結果、屋根か
ら地面に落下したようでしてね。その衝撃が抜けきらないまま、ふらふらと歩
いた挙げ句、溝に落ちて意識を失い、溺死してしまったという風にも想像でき
ます」
「……もしも結び方が悪くて落ちたんだとしたら、遺族の方にはできる限りの
ことをするつもりです」
「篠山さんには遠い親戚がいるぐらいですが、お会いになるのは、この捜査の
結論が出てからでいいと思いますよ。早い段階で責任を感じて、いらぬ約束は
しない方が賢明だ」
 大黒は無言で首を縦に振った。尤も、刑事が言ったアドバイスぐらいは、承
知していたが。
「さあて、大黒さん。篠山さんの死が事件と確定していなくとも、現場に指紋
があった事実は大きいんですよねえ。すみませんが、いくつか提出していただ
きたい物があります」
「提出……?」
「ええ。現場を訪れた三日に着ていた衣服と靴、その他身に着けていた物を」
「……拒否すればどうなるんだろう?」
 恐る恐る尋ねる。返ってきた台詞は、予想通りの内容だった。
「正式に家宅捜査令状を持ってくるまでのことです。大げさにならない内に出
していただけるとありがたい。大黒さんも、マスコミに嗅ぎつけられたくない
でしょう」
 大黒はしばし考え、渋々ではあったが承知した。
「服は洗濯してしまった物もあるが、いいんだろうね。帽子とコートは、全く
の手付かずだが」
「やむを得ません。協力に感謝します」
「もうこれっきりにしてもらいたいものだ」

 また刑事が来た。軽いランニングをしていた大黒は、実家近くの公園に差し
掛かった折、今村刑事の姿を視界に捉えた。辟易と不安を同時に覚える。ばれ
るはずがないという思いと、何かミスをしでかしただろうかという思いがせめ
ぎ合う。
 予想よりもあまりに早く自分の存在に警察が気付き、目の前に刑事が現れた
ときは総毛立った。どうにか平然と振る舞ったつもりだが、それでも失言はゼ
ロではなかった。膨らんだ不安に負けて、大黒は球団や地元後援会の関係者に
話した。「知り合いが不審な死を遂げたことに関して、警察から疑われて迷惑
している。何とかならないか」と。
 すぐさま手を回してくれたらしく、二度目以降、刑事の口調は気味が悪いほ
ど丁寧になった。
「大した根拠もなしに疑われちゃかなわない」
 そう言うだけで、追い返す効果があった。なのに、また刑事が現れたという
ことは、いつまで効き目が持続するか怪しい。
 顔馴染みになってしまった今村刑事が、今日は新たな刑事を連れて来ていた。
飛井田というこの刑事、やけに馴れ馴れしく、それでいてこちらに過度の不快
感を抱かせることなく、入り込んでくる。
「もういい加減にして欲しいんですがね。身体が資本なので、少しずつ動き出
さないといけないのに、警察に連日来られては、ペースが狂う。精神的にもよ
い影響があるとは思えない」
 公園内のベンチに腰を下ろし、嫌々ながら話に応じる。他に利用者が誰もい
ないことが救いだ。
「いやあ、申し訳ありません。大黒さんが仕事のためにそうお考えになるのは
よく分かります。私らも仕事なので、もう少しだけ、お付き合いください」
 刑事達が現れてから、ほぼ、飛井田とだけ会話している。今村刑事が口を噤
むのは、こちらからの圧力が効いているのだろうと理解できる。ならばこの飛
井田という刑事は何だ?
「協力する気がないとは言わないが、限度がある。新しい刑事をよこしたって、
こっちからすれば同じ警察だ」
「同じじゃないんですよ。私は鹿児島ではなく、東京の方から来ました。たま
たま、まあ、研修みたいな形で参加させてもらっている訳です」
 頭を軽く下げ、柔和な表情をなす飛井田。大黒は一瞬怯んだ。が、落ち着く
ことを心掛け、いつもの主張を繰り返す。
「……だからといって、やることは一緒でしょうが。こっちも何を聞かれたっ
て、答は同じ。無駄だと思うよ」
「それはそうかもしれませんが、自分の耳で聞いてみたいんですよ。その方が
細かいニュアンスが掴めて、イメージが固まるというか、事件の構図がはっき
りする」
「俺が無関係だということを、早くはっきりさせてもらいたいもんだ」
「ええ、はっきりさせるつもりです。とりあえず、グラスの件でお尋ねしたい」
「グラスって、割れたグラスに付いた指紋なら、もうそちらの今村さんにお話
しした。あのままですよ。当日の八時過ぎ、篠山さんに会いに行ったことは認
めた。そのとき、グラスに触ったことも認めた。だが、篠山さんが亡くなった
のは、俺が帰ったあとの話だろう。多分、事故死だよ。彼にとって何の慰めに
もならんが」
「どうしてその事実を、最初に話してくださらなかったんです?」
「そりゃあ、あれさ。曲がりなりにもプロ野球選手だからな、死亡事故の少し
前までその場に居合わせたとなると、何を言われるか分からない。人間がまだ
まだできていないもんでね。煩わしいことを避けたかった。今にして思えば、
悪かったと反省している。ただ、罪にはならんでしょう?」
「さて、どうですかね」
 飛井田刑事が意外なことを言い出した。ぎょっとするのを隠さない大黒。
「まさか。冗談はなしですよ」
 勝手に言葉遣いが、相手の機嫌を伺うような丁寧さを帯びた。
「いえね、私が言うのも何ですが、別件逮捕する気になれば、警察はあれやこ
れやと理由付けを捻り出しますからね。大黒さんの態度は、警察から事情を聴
かれながら正直に話してくれなかったんだから、捜査妨害と言えなくもない」
「脅かさないでくださいよ」
「ええ、今のは出任せです。それでですね――」
 大黒に安堵する間を与えず、飛井田は続けた。
「確認ですが、ロープを結んであげたのも大黒さんですか」
「ロープ? 命綱のことなら、その通り」
 用意しておいた答を口にする。そうすることで冷静さを保てる。
「俺が雪下ろしを時間が許す限り、ざっとやったあと、残りは篠山さんがやる
ことになった。交替するときに、結んでやった訳さ」
「なるほど。結び目とは別に結んだ痕跡があったので不思議に感じましたが、
今のお話で辻褄が合います」
「それはよかった。疑いは晴れたかのかな」
「まだまだ。できれば事故死であること自体を証明したいのですが、それは難
しい塩梅でしてねえ」
「事故死の証明は警察の問題だ。俺にどうしろと?」
「大黒さん個人が無関係であると示すには、別のやり方がある。篠山さんが亡
くなった時点であなたはあの家を遠く離れていた――こう証明できれば、すっ
きりする」
「言っている意味は理解できるけれどね、刑事さん。その証明も俺には難しい
と思うよ。本人の証言だけじゃだめなんだろ?」
「はい」
「死亡した時刻が分単位ぐらいに絞れているのなら、アリバイの申し立てがで
きるかもしれないが、実際のところ死亡時刻には幅があるんだろう?」
「はい、残念ながら」
「結局、同じことを言うしかない。俺にどうしろと? 事件だか事故だか知ら
ないが、直前に現場に寄ったことを認め、そのときの服だって提出した。これ
以上、何を……」
 必死に訴えてみせた大黒に対し、飛井田は片手を挙げて話を制する。
「死亡推定時刻ですが、大まかには出ていましてね。大黒さんが篠山さん宅を
離れたのは、何時頃でしょうか」
「今村刑事に答えたはずだが」
「すみません。あなたの口から聞きたいので」
「九時三十五分から四十分にかけてだ」
 ぶっきらぼうに答えてみせる。
「確かですね」
「あ、ああ。そのあとしばらくは、一人で車を転がしていた。誰も証人はいな
いが、間違いない」
「うーん、ちょっと困りましたな」
「何が。死亡推定時刻に被っているとでも言うのか?」
「死亡したのは午前十時からの一時間半と推定されています」
「だったら、何も問題ない」
 ほっとする自分の態度を隠さず、大黒は笑顔になった。
 飛井田は手帳を開き、何かを確かめる仕種をした。
「問題なのは、被害者の行動でして。篠山さんはパソコンでメールを受信して
いるんです、午前十時過ぎに。あなたがお帰りになった直後、雪下ろしに取り
掛かった篠山さんが、二十分ほどで作業をやめ、パソコンに向かったというの
は解せない」
「……そんなことを言われても知らんよ。あの人はスポーツマンではなかった
からね。二十分でへばったとしたって、おかしくない」
「受信したメールについて、約十五分後、返信している。しばらくパソコンの
前に座っていたことになる。へばって雪下ろしをやめ、パソコンを十五分ほど
やったあと、すぐ雪下ろしを始めて事故に遭ったと」
「……忙しないが、そうとしか思えない」
「ところで大黒さん。グラスが割れていたことには、気付きましたか」
「グラスってのは、俺が触ったあれか?」
「はい、その通りで」
「いや。俺が見たときは割れていなかったからこそ、触れたんだ」
「篠山さんの家を出るまでに、グラスをもう一度見ませんでしたか? 割れて
いたかどうか」
「……」
 大黒は密かに奥歯を噛み締めた。質問の意図が読めない。どう答えるべきな
のか。
(すでに否定的な返事をしてしまった。その上、グラスが割れたなら、篠山が
片付けようとするはず。だが、実際は片付けられていなかった。だからシナリ
オとしては……篠山が雪下ろし中、もしくは篠山が死んだあと、グラスは何か
の拍子に割れたことになる。篠山が雪下ろしを始める前に現場を離れた俺は、
当然、割れたグラスを目にしていない。よし、これだ)
 ごく短時間で結論を出すことに成功し、大黒は知らず、得意顔になった。
「いや、見ていないね。俺が彼の家を出たあとなんだ、きっと」
「だとしたら、また話がおかしくなるんですよ、これが」
「そんな馬鹿な! 見ていない物を見たとは言えない」
 声を張り上げた大黒。自信があっただけに、つい、大声になってしまった。
道路側に目をやるが、人通りはなかった。
「まあまあ、興奮しないで。誤解させたようで申し訳ない。説明が付かないこ
とがあるので、一緒に考えていただきたいんです。実は、先ほど言及したメー
ルは、グラスについてのやり取りでして。依頼者からだめ出しされて、篠山さ
んは反論のメールを送っている。だから、篠山さんが腹立ち紛れに自らの手で
グラスを割ったとは考えられない。窓ガラスは閉めてあったので、風でカーテ
ンがなびくようなこともない。では何故割れたのか。警察は一つの結論に行き
着きました。その結論に照らし合わせると、グラスが割れたのは、十時二十三
分過ぎですが――」
「ちょっと待った。どうしてそんなことが分かる?」
 怪訝さから大黒は眉根を寄せた。深いしわができる。
「慌てないで。順を追って話しますよ。年が明けてから、霧島連山のS岳が活
発に活動をしているのは、ご存知ですね?」
「ああ。ニュースで見た。詳しくは知らないが」
「事件当日にも爆発的噴火が起きています。午前十時二十二分から二十三分に
掛けてのことです。そのとき、空気が衝撃波となって広範囲に伝わる、空振が
起きた」
「そういえば、ニュースでやっていたな。別の日だったが、学校の窓ガラスが
割れたとかどうとか……」
 喋る内に、嫌な予感を覚えた。大黒は飛井田の顔を見返した。
「篠山さんの作ったグラスも、空振のせいで割れたんですよ」
「え? 割れるのは窓ガラスみたいに外に面した物だけじゃないのか」
「あのグラスは窓際に置かれていました。聞いたところによると、空振の衝撃
波は、単純にそのパワーでガラスを割るんじゃない。一旦ガラスを内側に押し
込み、気圧の急変という要素が加わって、割るんだとか。窓ガラスのすぐ側に
置いてあったグラスは、空振によって内側に押し込まれた窓ガラスに押され、
バランスを崩した結果、倒れて割れたんです」
「……よく分からんが、空振でグラスが割れることは、まあ認める。だが、そ
れが篠山さんの死とどうつながる?」
 膝上に置いていた手で、ベンチの縁を叩く。
 飛井田は手帳を再度取り出すと、とあるページを繰り当て、一瞥してから話
し始めた。
「大黒さんに提出してもらった衣服の内、帽子から微細なガラス片が検出され
ています。鑑定の結果、篠山さんが作ったワイングラスの破片の一部と判明し
ました」
「――そんな物」
 絶句する大黒に、飛井田は淡々と続けた。
「本当に微細で小さな物だから、気付かなかったとしても無理はない。さて、
あなたが現場を離れたあとに割れたグラスの欠片が、どうしてあなたの帽子に
付いたのか、合理的な説明を考えましょうか」
 大黒の耳に、刑事の声はしかとは届いていなかった。別のことを思い起こし
ていたからだ。
(空振とは……耳当てをしていたせいで、全く気付かなかった。――そうか。
篠山が休憩を持ち掛けてきたとき、妙なことを言うなと引っ掛かったんだ。)
 脳裏に、篠山の台詞が甦る。
『そうか。ご苦労ご苦労。屋根が終わったら、降りてきて休憩してくれ。お茶
を入れとくから。そのあと、もうひと仕事ふた仕事、頼む』
 引っ掛かっていたのは、最後の箇所だ。
(雪下ろしを続けろという意味なら、『もうひと仕事』だけでいいはず。わざ
わざ『ふた仕事』と付け足したのは、雪かきのことかと思ったが、それも変だ。
どうやら篠山の奴、割れたグラスを俺に片付けさせようと目論んでいやがった
んだな! それにしても、何故、グラスの破片が帽子に付いた? テーブルま
で飛び散ったとは考えにくい。床に移動させられていたが、あの位置だって、
ガラスの破片は飛ばないだろう。じゃあ一体……)
 考えても納得の行く答は見付からなかった。
「――大黒さん? こういう場合の沈黙は、犯行を認めたと受け取られかねま
せんが、よろしいんで?」
 飛井田刑事の声がした。大黒はのろのろした口調で「ああ」とだけ返事した。
 その答を待っていたのか、今村刑事が割って入って来た。
「よし。では、署で正式な調書を取るから、行こうか」
「ほんとにガラス、付いていたんで? 引っ掛けじゃ……」
「ああ、付いていたとも」
「どうして付いたか、さっぱり分からない。ガラスの破片が飛ぶような場所に
置いてあったら、もっときちんと調べて、洗濯したかもしれないのに」
 首を傾げた大黒は、今村に促されて歩き始めた。その背中に飛井田の声。
「想像するに、帽子はグラスのすぐそばに置かれたんじゃありませんか」
「いや、俺はテーブルに置いたんだ。サングラスと一緒に」
 肩越しに振り向いて応じる。飛井田刑事は分かっているという風に首肯した。
「篠山さんが棚に移動させたんでしょう。そしてグラスが割れ、帽子はガラス
の破片を被った。そのままじゃまずいと思い、篠山さんは帽子をはたき、ガラ
ス片を払ったんじゃないかと」
「……言われてみれば、俺があそこを去る前、帽子とサングラスは新聞紙の上
に置いてあった。あれは、細かいガラスが付いたから、危なくないよう、とり
あえず退けておくために敷いた新聞か」
 合点が行き、大黒は疲れた苦笑を浮かべた。

 出迎えた今村の部下が、大黒を連れて警察署の建物に入って行く。
「事件関係者に有名人がいたら、いつもならサインをもらうんだけどねえ。今
回は最後になってようやく会えて、かと思ったら逮捕。おかげでもらい損ねち
ゃった。妻のご機嫌取り、どうするかな」
 見送りながら、飛井田が冗談めかして言う。今村はその肩を叩いた。
「嘘をつけ。あの嫁さんがそんなものを喜ぶか」
「いやいや。いくら元警察でも、有名人のサインには弱い。有名人が犯人だっ
たとしても」
「そういうものか?」
「結婚したら分かる」
 そう言うときびすを返し、飛井田はバス停を目指して歩き出した。
「帰るのなら、送るぞ。功労者をそのまま帰しては、面子が立たん」
 追い掛けて、隣に並ぶ今村。飛井田は首を横に振った。
「功労者とは持ち上げてくれる。ガラス片の証拠が上がった時点で、誰がやっ
ても追い込めたさ」
「しかし、空振との関連に気付いたのは飛井田、おまえのおかげだ。あれがな
ければ、また証言を翻されていたかもしれん。とにかく、飯ぐらいおごらせろ
よ。今夜は無理だが、おまえがこっちにいる間には必ず」
「分かった。代打成功のボーナスだな。連絡を待つとしよう」

――終




元文書 #379 飛井田警部の事件簿番外編:空振りの犯罪 上   永山
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