AWC 飛井田警部の事件簿番外編:空振りの犯罪 上   永山



#379/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  11/02/22  23:57  (495)
飛井田警部の事件簿番外編:空振りの犯罪 上   永山
★内容                                         11/02/23 23:40 修正 第2版
 道路脇の側溝を流れる水は、澄んではいるがひどく冷たそうだ。正月休みを
こんなことで潰すとは腹立たしい。その上、東京でも珍しい大雪に、冬とはい
え南の地で見舞われるなんて、運が悪いにもほどがある。
 そう思いつつも、大黒励一(おおぐろれいいち)は呼出しに応じずにはいら
れなかった。
 朝早くから彼を呼び出したのは、篠山隆太郎(しのやまりゅうたろう)。仕
事は?と問われれば、前衛芸術家と答える篠山だが、それだけで糊口をしのい
でいる訳ではなかった。プロ野球選手の大黒から金をせびり取っている。
 篠山に言わせれば、これは正当な商取引で、自分のこしらえた芸術作品を大
黒が高値で買ってくれるのだとなる。形式上は確かにその通り。だが、実態は
口止め料だった。
 もう五年前になる。大黒は下積み時代、時間があれば練習するか愛車でドラ
イブという生活パターンだった。球団内に遊び仲間はいたが、一人で車を転が
すことの方が多かった。
 “事故”が起きたのは、帰省先の九州で迎えたクリスマス。大黒はようやく
一軍に定着し、来シーズンからはレギュラーを狙える位置まで来ていた。
 故郷を離れている間にできた新しい道路だった。故に初めて通る道で、雨も
かなりきつかったが、特に気にしていなかった。油断したつもりはなかったが、
結果から見れば、注意散漫になっていたのだろう。道路左端を行く自転車に気
付くのが遅れ、軽く接触した。雨合羽の男は――あとで分かったことだが――
老齢で、ふらついたかと思う間もなく転倒。道は土を盛った高い位置を通る上
り坂で、道路左の向こう側は藪の茂った斜面になっていた。雨合羽の男は自転
車を残し、そこを転がり落ちていった。
 大黒は車を急停止させると、雨中に飛び出し、男の安否を確認した。
 息はなかった。転倒と転落による衝撃、低い気温に加えて雨による体温低下、
上り坂でペダルを賢明に漕いでいたことも要因に数えられるかもしれない。
 呆然としていた大黒にとって、時間の感覚は定かでない。どれぐらい立ち尽
くしていたかしれないが、不意に背後から声を掛けられ、我に返った。
「あんた、大丈夫か」
 首から上だけで振り向くと、背は低いが横幅のある男が立っていた。この男
も雨合羽姿だが、自転車ではなく徒歩らしい。
「じ、自分は大丈夫だ。それよりも、自転車の人を……」
「脈、なかったんだよな?」
 隣に来た男は決め付ける風に言った。大黒の行動をだいぶ前から目撃してい
たようだ。
 大黒は空唾を飲み込みつつ、首を縦に振った。
「なら、今さら救急車を呼んでも仕方あるまい」
「じゃあ……警察」
「何を言ってるんだ?」
 今度は叱りつけるような調子で、男が言った。携帯電話を操作しかけていた
大黒は、その手を止めた。
「逃げりゃいい。ざっと見たが、車の傷はないに等しい。自転車の方も似たよ
うなもんだ。何かが付いてたって、この雨が洗い流してくれる。おまえさん、
プロ野球の大黒だろ?」
「知って――」
 喉がからからに渇いて、声が途切れた。
 男は皆まで言うなとばかりに、にやりとして頷いた。
「知ってるに決まってる。地元じゃ期待の星だったし、今年は結構出てたじゃ
ないか。よくテレビで見たよ、あんたの活躍ぶり」
「……」
 どうもと言いかけ、口をつぐむ。この状況で礼を述べるのもおかしい。
「あんたは夢を掴みかけてるんだ。すぐそこまで来てる。こんなことで棒に振
ってほしくねえな」
(あの年、もしも不甲斐ない成績で終わっていたなら、正直に事故を届ける選
択肢にも眼が向いたはずだ)
 チャンスを逃したくなかった大黒は、男の――篠山のささやきに乗る。
 今でもしっかりと記憶している。頭にこびりついていると言っていい。篠山
のこの言葉はしばらくの間、大黒に安寧をもたらした。新聞の地方版、その片
隅に<自転車の老人が運転ミスで転落死>と報じる記事を見つけたことで、も
う完全に危機は去ったと確信したのだった。
 事態が一変するのは二年後。大黒は一軍に定着し、レギュラーポジションこ
そまだだったが、代打要員として重宝されるようになった。年俸もぐっと上が
った。そんな折、事故の際に連絡先を交わしたきり、疎遠になっていた篠山隆
太郎より連絡が入ったのだった。
 最初は少額の金の無心が繰り返され、大黒も求められるままに出していた。
が、いつまでも続けるのは心理的に負担が大きい。調子が落ちると、篠山のせ
いではないかと考えることもあった。だから、一年が過ぎた頃、篠山にそろそ
ろ最後にしてくれないかと持ち掛けた。すると――写真が郵送されてきた。
 接触事故を起こしたあと、自転車や被害者の様子を見る大黒の姿を、篠山は
密かに撮影していたらしい。ヘッドライトのおかげで、顔も判別可能な程度に
は捉えられていた。カメラを持っている素振りさえなかったので、大黒は驚き
でしばらく絶句したほどだった。
 以後、大黒は篠山の口座にふた月に一度の割合で振り込んでいる。一年間払
い続けたあと、まとまった金額で問題の写真とネガを買い取ったが、定期的な
振り込みは終わっていない。仮に篠山が「野球選手の大黒を脅迫していた」と
警察に自首すれば、証拠写真がなくても、振り込みの記録によって世間はひき
逃げが事実だと判断しよう。篠山が生きている限り、金を渡さねばならない。
「直接会おうとは、どういう魂胆なんだ?」
 水の流れる側溝を横手に見ながら、雪道を慎重に歩いて篠山宅まで来た大黒
は、玄関の扉を開けるなり、語気鋭く言った。この家を訪れるのは二度目にな
る。最初は、篠山から写真を送り付けられたあと、“支払い条件”を詰めるた
めに会う必要があった。
 奥から現れた篠山は、家の中にいたとは思えないほど厚着をしていた。元の
体型もあるが、そのシルエットはまるで達磨だ。
「正月というのにその挨拶はないだろう。日本人なんだからここは、明けまし
ておめでとう、だ」
「……ああ、そうだな」
 日本人に限るまいと思いながら、大黒は認めた。様々な防寒着にくるまった
篠山は、毛糸の帽子とマフラーを握りしめていた。まだ着ようというのだろう
か。
「すぐに本題に入ってもいいんだが、正月だしな。まあ、上がってくれ」
 頬を緩ませつつ、招き入れる。相手の余裕を感じ取り、大黒は不承不承、従
った。
 通されたのは居間らしき部屋。ソファ二脚ずつがテーブルを挟んで向き合い、
窓際には低い棚がしつらえられている。その棚の上には、捻れた脚を持つ華奢
なグラスや角のような取っ手付きの壺、こすれば魔人でも現れそうな古めかし
いランプなどが並べてあった。
 大黒は帽子とサングラスを取ると、テーブルに置いた。座ろうとはせず、篠
山に背を向けると、自然と窓を向く形になった。華奢なグラスが視界に入り、
手に取ってみた。
「正月だから、酒でも振る舞ってくれるのかな?」
 ワインやシャンパンを連想した大黒は、皮肉めかした。
 対する篠山は、マフラーを首の周りに一周させてから言った。
「そいつは注文を受けて作った物だから、丁寧に扱ってくれよ。酒なら全てが
終わったら、出してやってもいいさ。朝っぱらから呼んだのは他でもない、こ
の大雪に原因がある」
「何だって?」
「雪かきをしてくれ。あと、雪下ろしも」
「何だって?」
 同じ台詞を繰り返してしまった。二度目は声が大きくなる。近所には他に人
家はないとはいえ、人が通り掛からないとも限らない。自制を心掛ける。
 篠山はマフラーをずらして口を覗かせると、はっきりと言った。
「雪かきと雪下ろしを頼むよ。業者だと金が掛かる。あんたなら体力あるし、
トレーニングを兼ねてると思やいい。合同自主トレはまだまだ先だろ?」
「そんなことで……。だいいち、雪かきはともかく、雪下ろしの経験がない。
万が一、落ちて怪我でもしたら、軽傷だったとしても球団から説明を求められ
る。間違いなくな」
「命綱をしてりゃあ、平気だって。いやあ、本当は俺の芸術のために購入した
ロープとフックなんだけど、まさかこんな雪が積もるとはな。新たに買い込ま
なくていいのは助かる」
 そういうと、相手はソファの向こう側から、ロープとそれにつながる銀色の
フックを持ち出した。
「フック、どこに引っかる? 屋根にはアンテナぐらいしかない」
「二階のベランダの手すりがある。大丈夫、頑丈さは確かめておいた。長靴や
軍手もある。寒さ対策に、耳当てもあるから遠慮なく使ってくれ」
 そこまで準備できているんなら、てめえでやれ!という言葉を飲み込み、大
黒は篠山からロープとフックを受け取った。先に雪かきをして身体を慣らして
から雪下ろしをと考えた大黒だったが、篠山の指示は逆。
「当たり前だ。雪かきしたところへ屋根の雪を落としたら、二度手間になる」
「言われてみれば、そうか」
「野球のことばっかり考えてないで、他にも頭を使ってくれよ、ははは」
 かんに障る物言いに笑い方だったが、大黒は我慢した。

 桃色の耳当てを装着したのは、寒さ対策というよりも、篠山のお喋りが煩わ
しいという理由が大きかった。
 屋根に上がってみると、想像以上に高く感じた。雪の白のおかげで、感覚を
掴みづらいのがかえって怖い。それに広くて、時間を要しそうだ。ただ、三角
屋根の傾斜は緩やかで、雪もまだ完全には凍っておらず、慎重さを保てば足を
滑らさずに済みそうだった。何より、命綱の感触が心強い。最悪、ロープが切
れたとしても、雪の深みにすっぽりとはまる程度だろう。
(……いや。南側はロープが切れるとやばいな)
 彼は南向きに立って、斜め下を眺めながら思った。庭とも呼べないようなス
ペースを挟んで、篠山宅の横には幅の広い側溝があった。上手からの雪解け水
だろうか、水量は意外に多い。流れの勢いはたいしたことないが、もしこの寒
さでこの深さの水にはまったら、しばらく動けなくなる恐れがある。
 そんな考えを振り払い、雪下ろしに集中する。目算で三十センチ前後に積も
った雪に、最初こそ苦戦したが、コツを掴むとスムーズに進められた。子供用
ソリに似たスノーダンプがあれば、もっと効率よく運ぶに違いないが、あいに
くそこまでの用意はない。
 側溝の存在を気にして、最後に回した南側に取り掛かったとき、篠山が姿を
見せた。相変わらず、寒そうにしている。中に引っ込んで何をするのかと思っ
ていたが、とんかちで叩くような音が耳当てを通してたまに聞こえたので、芸
術活動に打ち込んでいたようだ。
「おっ、かなり進んだねえ。残りはどんな具合だい?」
 大黒の方を見上げ、のんきな口調で尋ねてくる。悪意のなさに、大黒は思わ
ず苦笑してしまった。そんな自分が腹立たしくもある。耳当てを外し、答えた。
「じきに雪下ろしは終わると思う」
「そうか。ご苦労ご苦労。屋根が終わったら、休憩してくれ。十時半だ。お茶
を入れとく。そのあと、もうひと仕事ふた仕事、頼む」
 脅迫者とは思えぬ言動に、大黒は呆れた。腹立ちが高まり、シャベルを扱う
手に余計な力が入る。視線は、きびすを返して玄関の方へ歩き出した篠山の背
中へ。
「くそ」
 悪態をついてふるったシャベルから雪の塊が離れ、屋根を滑っていく。一抱
えほどもある雪は、勢いが必要以上に付いていた。スキージャンパーのように
庇を飛び出し、弧を描いたそれは、篠山の後頭部に命中した。崩れ落ちた篠山
は、運悪く、側溝のある右側に倒れた。そして水没する音。
「あ!」
 勝手に声が出た。手を伸ばしてみたが、どうにもならない。飛び降りて助け
に行くこともできず――実際はこれまでに落とした雪に飛び降りれば無事に着
地できたかもしれないが――、ロープをたぐって急いで戻る。ほどくのに手間
取り、ほどいてからフックを外せば早かったと気付いたが、今はどうでもいい。
階段を駆け下り、篠山が落ちたであろう地点まで走った。
「篠山?」
 側溝を覗く。篠山は身体の左側面を上にして倒れていた。気絶したのか、顔
や身体の右半分が水に浸かっているにも拘わらず、ぴくりとも動かない。厚着
した服が水を吸っている。
 大黒は地面に手をつき、側溝の内側に降り立った。長靴越しでも水の冷たさ
を感じる。篠山に近寄ると、改めて名を呼ぶ。反応はない。
「おい、しっかりしてくれ!」
 相手の肩に手をやり、揺さぶってみたが、無反応のままだ。大黒は篠山を抱
え起こそうとした。とにかく、水中から顔を出してやらねば、溺れ死んでしま
うかもしれない。
(……溺れ死ぬ?)
 動きが止まる。少しの間、考えを巡らせる。企みはじきにまとまった。四十
五度ほど起こした篠山の身体を、再びゆっくりと傾けていき、元のように水に
漬けた。息を詰め、耳を澄ませ、様子を窺う。
 水流の音に混じり、うめき声が聞こえた気がした。慌てて両手で篠山の顔全
面を、水に押し付けた。
 篠山の身体がほんの少し動き、抵抗の意志を見せた。が、大黒が頭を押さえ
続けると、やがて収まった。
 大黒は篠山の死亡を確認した。人間の死を確かめるのは二度目だからか、冷
静でいられた。
 それから大黒は篠山の死が単独の事故に見えるよう、小細工を始めた。まず、
最前まで自分の命綱を果たしていたロープを取ってくると、篠山の胴に一旦巻
き付け、緩く結んでみた。そのまま頭の方に引っ張り、輪っかを抜く。それを
持って二階ベランダに戻り、フックで手すりに固定すると、屋根に上がる。大
黒自身の残した足跡の内、助けに走った際の不自然なものだけ消しつつ、命綱
を適当な位置に放った。次いで、シャベルを屋根から南側に投げ落とす。
(篠山は一人で雪下ろしをしていたが、命綱の結び方が甘く、足を滑らせた拍
子にすっぽ抜けた。庭に転落して立ち上がったものの、ふらついて溝に落ちた。
運悪く頭を打って気絶、そのまま溺死……こう見えるだろうか)
 上から眺め、大黒は足りない点に気が付いた。屋根から庭に落ちた人の痕跡
がいる。彼は躊躇なく屋根を滑ると、雪に向かってダイブした。
 思惑通りの位置に跡をつけたことに満足の笑みを浮かべる大黒。身体を起こ
すと、篠山の死体のある方角を見定め、そちらに向かって歩く。ふらついた足
跡を作るためだ。これも思惑通りに行った。
(これであとは篠山に手袋をし、長靴を最後に……)
 途中ではっとした。命綱の結び目に意識が向いたのだ。正確には結び方であ
る。
(もしかすると、この結び方では、篠山自身が結んだのではないとばれてしま
うかもしれないな)
 大黒はどうすればよいかを考え、即座に答を出した。篠山の靴に眼をやる。
靴紐を見れば、篠山がどんな結び方をしていたかが分かる。幸い、紐付きのス
ニーカー履きだ。結び方を比較する。
(本人から見て、大きな輪が左に来ている。同じだ。いいぞ)
 やり直す手間を掛けずに済んだ。こんな小さなことでも、幸運を感じる。
 篠山の靴を脱がせた大黒は、側溝から出て、家に入った。帽子とサングラス
を居間に置いている。あれを忘れては、元も子もない。篠山の靴は玄関に置い
ておく。
 上がって居間の戸を開ける。と、予想外の光景が目に入った。
 窓際の棚にガラスが散乱していた。見た瞬間、窓ガラスが割れたものと思っ
たが、近寄って見ると違った。どうやら、棚に置いてあったグラスか、何かの
拍子に倒れて割れたらしい。
(カーテンが風に揺らめいた? しかし、寒がりのあの男が、窓を開けていた
とは考えられん。他に誰かがいてグラスを割ったんだとしたら、厄介だぞ。独
り暮らしと聞いていたが、正月だし、不意の来客があったとしても不思議じゃ
ない……)
 警戒を強め、室内を見回す大黒。廊下まで戻って、左右を振り返りもした。
だが、第三の人物の存在は感じられない。念のため、玄関に引き返し、履き物
を見てみた。誰かが来たのなら、それらしき靴があっていいはずだが、読みは
空振りに終わった。
(……ひょっとしたら、これも芸術作品とやらの制作途中なのか? 割れたグ
ラスの欠片を使うとか、前衛芸術っぽい気がしないでもない)
 そう結論づけ、大黒はサングラスと帽子を探す。テーブルに置いたはずだが、
そこには見当たらない。邪魔になってよそに移動されたか。
(畜生。どこに動かしたんだ? 隠した訳じゃないから、目に着くところにあ
るに違いないが……)
 目を皿のようにして探すとはこのことか。部屋のあちこちに、探照灯のごと
く、視線を向ける。
(あった!)
 床上に新聞紙が開いてあり、その上にサングラスと帽子が乗っていた。床に
直接置くのは気が引けたのだろうか。
(それにしたって、いくら置き場所がないからといって、人の物を床に置こう
とするか?)
 まあよい。目的の物は回収できた。他に見落としがないか、頭を働かせる。
 ふと思い付き、台所を覗いた。
「やっぱり」
 無意識の独り言。顔はほくそ笑んでいた。シンクにはお茶の用意が途中まで
してあった。当然、二人分。やかんを火に掛けるまではしていなかったが、こ
のまま放置しておくと、警察が来客の存在に思い当たり、変に疑いを抱く可能
性がある。
 大黒は急須の中身を捨て、湯飲みとともに洗って片付けた。
(さあて、残る問題は二つ。まず、携帯電話だ。メールは送られた覚えがない
からいいとして、通話記録は確か、電話を壊しても残るんだよな。会話の中身
までは分からないから放っておくか。しかし、死ぬ前日や当日に電話を掛けた
相手が俺で、近くの町に実家があると知ったら、警察は話を聞きに来るだろう
か?)
 逡巡の結果、持ち去って破棄することにした。警察が本腰を入れて捜査すれ
ば、篠山が契約している携帯電話を突き止め、通話記録を調べ上げるぐらい、
容易であろう。遅かれ早かれ知られるのなら、少しでも遅れさせるために、携
帯電話を持ち去るのが得策との判断だ。
(話を聞きに来られても、同郷なのだから、野球が縁で知り合ったと言えば怪
しまれまい。ひとまずはこれでよかろう。
 もう一つの問題――写真は本当に以前受け取った分で全てだったのかが気に
なるが、家捜しの時間はなさそうだ。いっそ、火を放ってやりたいところだが、
人を集めるような真似はしたくないしな)
 脅迫者にしては妙に優しい、あるいは手緩い面を持っていた篠山だ。あのと
き真っ正直に、ネガと写真全部を吐き出したと信じたい。信じるしかない。
 大黒は意を決すと、篠山宅を出た。帽子を被り、サングラスを掛け、手には
自分の靴。長靴履きで篠山の遺体まで行き、そこで自分の靴に履き替え、長靴
を遺体に履かせた。
(これでいいだろう)
 側溝から出た大黒は、改めて遺体とその周囲を見下ろし、深く頷いた。
 かつて一度、ひき逃げを隠蔽することに成功している彼には、今度もうまく
行く自信が湧き始めていた。
(俺だって、野球以外でも頭を使えるんだ)

 飛井田警部は休暇を取り、妻と二人で九州旅行をしていた。
「どうもすみません。鹿児島に来て、こんな大雪に降られるとは。ほんと、助
かりました」
 尤も、妻にとっては旅行というよりも帰省である。今日、正月三日は、泊ま
りの同窓会があるからといそいそと鹿児島市内に出掛けていった。飛井田の方
は、こちらの署に異動になったかつての同僚・今村に挨拶をしておくことにし
た。当初、妻の実家の車を借りるつもりだったが、ここ数日の積雪により断念
し、路線バスに変更した。無事到着したのはよかったのだが、挨拶を済ませて
帰ろうかという段になって、昼過ぎに再び降り始めた雪がたちまち積もり、バ
スの運行スケジュールが大幅に狂った。いつ帰れるか見通しが立たず、途方に
暮れていたところへ、助け船が。
 今村が伊集院という若い刑事をよこしてくれたのだ。パトロールの名目で送
ってもらえると聞いて、飛井田は内心恐縮していた。
「困ったときはお互い様です。私が東京に行ってトラブったときは、飛井田さ
んに助けを求めますので、よろしく頼みますよ」
「もちろん。任せてください」
「まあ、雪ならこうして対処できますが、降灰は私、だめなんですよ。こっち
に長く暮らしているのに、本格的に降られた経験がなくて。今、近くの県境の
街では大量の降灰にやられてますが、ああなるとどうしていいのか途方に暮れ
てしまいます」
「火山灰なら、義父――妻のお父さんが処理するのを見たことありますが、今
回のような量だと、どうなんだろう」
 飛井田が呟くように言った次の瞬間、事件発生を告げる無線連絡が入った。
民家のすぐ近くで変死体が発見されると同時に、現場にいた不審者が逃走中と
かで、急行を指示している。住所のくだりを聞き、割と近くだなと飛井田は感
じた。
 伊集院は若干、顰め面になって、
「こりゃあ行かないとまずい。飛井田さん、お付き合い願いますよ」
 と言った。飛井田の返事より先に、無線で応答していた。
 そのやり取りが終わるのを待って、飛井田は伊集院に答えた。
「かまいやしません。どうせ戻っても、心底のんびりできる状況じゃあないん
だし」

 現場付近まで来た時点で、逃亡者を拘束したとの一報が伝えられた。だから
といってここで引き返す訳にも行かず、そのまま現場である山中の一軒家に向
かう。到着してみると、警察車輌が複数台、既に集まっていた。慣れない雪道
の割に迅速な対応ができている。
「あ、湯川さんと有園さんがいる。あの人達なら、端から見ているくらいは許
可すると思いますが、飛井田さん、どうします?」
「後学のためにも、ぜひ」
 足下に注意を払い、車から出る。伊集院は先に湯川・有園の両名と思しき男
達のところに向かい、事情を伝えてくれたようだ。
 二人の内、巨漢だが細面の西郷隆盛といった風貌の方が、飛井田のそばまで
来た。互いに自己紹介をし、彼が有園刑事だと知れた。
「さっき、今村さんからも聞きましたんで、まあ、一人で動き回られるのは困
りますが、伊集院と一緒なら。あと、私らは口を出されてもかまわんので、気
付いたことがあったら遠慮なく言ってもらって結構です」
「どうもすみません。こちらから聞いて邪魔になっても悪いと思いますが、基
本的な点は押さえておかないと、話にならない訳で……どういった事件なんで
しょうか」
「今、伊集院に湯川さんが――あの額の広い人です――伝えております。あと
で彼から聞いてください。では」
 有園はその体格の割に機敏な動作で、捜査に戻っていった。入れ替わりに、
伊集院が駆け戻ってくる。
「飛井田さん、肩透かしになるかもしれません」
「というと?」
「変死体ですが、他殺かどうかはまだ断定できないようです。事故の可能性が
高い雲行きで」
「逃げた者がいると言ってましたが、あれは何だったんで?」
「窃盗の前科がある、頼家という男です。捕まった直後の言い分だと、この辺
を車でドライブしていたが雪で動けなくなったので、助けを求めにこの家に来
た。すると溝に人が落ちていて、死んでいるみたいだった。関わり合いになり
たくないので立ち去ろうとしたら、通り掛かった警官に見つかったので逃げた
……と言っていますが、色々とおかしい。この天気でこんな山の中をドライブ
なんてね。それに、動かなくなったとかいう乗用車、ちゃんと動いたそうです」
「空き巣狙い、でしょうかね」
 飛井田が想像を口にすると、伊集院は腕をさすりつつ、「恐らく」と答えた。
「その警官は何でまたこんな場所に通り掛かったんですか」
「あー、そこまでは聞いていません。パトロールかな? 本人がその辺にいる
と思うんで呼びましょうか」
「いえ。あとで確認して、教えてもらえたら充分です」
「分かりました。ま、留守だと思って侵入してみたら、雪かきをしていた家人
と出くわし、側溝に突き落としたという線に落ち着くか、それとも頼家は本当
に無関係で、事故死なのか。どちらになるかで大きく変わってきますね。ただ、
二階のベランダの柵に、命綱らしきロープが固定してあったといいますから、
後者の可能性が高い」
「遺体とその発見場所、見られます?」
「遺体は運び出したあとかもしれませんが、場所はあちらだそうです。行きま
しょう」
 側溝の上流を目指し、雪を踏みしめて歩く。捜査員が行き交っているが、足
下が悪い分、スピードが上がらないようだ。
「亡くなった人の名前、なんて言うんです?」
「篠山隆太郎、四十七歳。前衛芸術家で、あの家を住宅兼工房としていたそう
です。先ほど言った警官とも顔なじみで、たまに顔を合わせると言葉を交わし
ていたが、前衛芸術家という響きから受けるイメージと異なり、ごく普通のお
じさんだったとかどうとか。これは彼個人の感想です。ああ、そこみたいです
ね」
 伊集院が指差した先には、まだ人の身体が横たわっていた。鑑識活動は序盤
のようだ。
「これはお邪魔できないな。先に、家の方を覗けませんかね」
「どうでしょう。一応、カバーの予備は持ってますが……」
 靴を覆うカバーを取り出してから、家の方の様子を窺う伊集院。顔見知りを
見つけたらしく、飛井田からすっと離れると走って行き、しゃがんだ鑑識員に
肩越しに話し掛ける。じきに飛井田の方を振り返ると、手招きをした。飛井田
は足下を注意――転ばないようにするだけでなく、犯罪現場周辺の足跡にも注
意しながら、家の玄関口に向かった。
「家の中は、土間は済んだとかで、見られるのはそこだけになりますが」
「かまいません。実は履き物を見てみたいんです」
「何でまた?」
 念のため、靴カバーをしてから、開けてある戸をくぐり、土間に立つ。
「さっき、遺体は厚着していた。下半身も、厚手のズボンを穿いて、さらに下
にはズボン下でも履いているのか、膨れた感じだった。そこに長靴を履いてい
たが、裾が窮屈で、無理に押し込んでるように見えたんですよ」
「そういう風にして履く人もいるでしょう。この寒さだし、ズボン下を脱ぐの
を面倒がっただけかも」
「そういう見方を否定しませんが――ああ、これを見てください、伊集院さん」
 上がり框の真ん中辺りに置いてあった靴に注目した飛井田。伊集院と一緒に
なって、その紐付きスニーカーがよく見えるようにしゃがんだ。
「この靴が何か」
「何でこのスニーカー、こんなに濡れてるんでしょう?」
 飛井田は尋ねながら、問題の靴をしげしげと観察した。水が染み、全面が黒
ずんでいる。
「さあ? 雪の中を歩いたからじゃないですか」
「雪ねえ。ここまで濡れるかな? 中までぐっしょりだ」
「……確かに」
 上から覗いて、納得した様子で頷く伊集院。首を捻りながら彼は意見を述べ
た。
「篠山氏は最初、スニーカー履きで雪かきを始めたが、こんなに濡れたので長
靴に履き替えた、というのはどうです。地元の人間だと、こういう大雪に慣れ
ていないので、甘く考えて普段の靴のまま、雪かきをする。ありそうじゃない
ですか」
「なるほど、ないとは言えません。――このスニーカーの靴紐と、仏さんが使
っていた命綱それぞれの結び目が同じかどうか、調べたいんですがね」
「分かりました。自分が見てきましょう。どれどれ――」
 スニーカーの紐を凝視する伊集院。
「左右とも、輪が左に来ていますね。考えていることが分かりましたよ、飛井
田さん。命綱の結び目がもしも違っていたら、別の人物が関与している証拠に
なる」
 飛井田は黙って首を縦に振った。

 結果から言うと、飛井田の見立ては一つが外れ、もう一つは採用された。外
れたのは結び目の件で、命綱とスニーカーの紐は同じ結び方がされていた。一
方、スニーカーが不自然なほど濡れていた点は、捜査陣の間でも注意を惹いた。
長靴が、雪下ろしの作業をしたにしては、篠山の足に馴染んでいないように見
えたことと合わせ、本人以外の人物が履かせた可能性が浮上、論議されている。
「あと、制服警官があの時間、あの場所を通り掛かったのは、見回りの一環で、
積雪で困っていないか、独居老人を訪ねるのが主な目的だったという話でした」
「なるほどね、頼家と出くわしたのは偶然でしたか」
 警察署内の廊下にある椅子に腰掛け、伊集院の話を聞いた飛井田は、何度か
頷いた。伊集院はそんな相手を見、次いで時計を見た。
「尤も、その老人は割れたガラスで怪我をして、病院に行っていたらしいんで
すがね。それよりも飛井田さん。帰らなくてもいいんで? だいぶ遅くなりま
したが」
「ああ、少し前に電話しておきました。妻も同窓会で泊まりだから、文句言わ
んでしょう」
「それにしても、折角の休みを……」
 呆れたように語尾を濁した伊集院が、「あ、今村さん」と声の調子を変えた。
座っていた飛井田は伊集院の視線の先を見て、今村の登場を確認した。
「迷惑にならない程度に、関わらせてもらいたいんだが、どうかな。だめか?」
 先手を打つ飛井田。今村は現れたときのままの渋い顔を、さらに渋くした。
「縄張りってものがある。隣同士の県ならまだしも、おまえは東京からの旅行
者で、休暇中の身だろ」
 鋭い視線を投げ掛け、人差し指を胸に当ててくる。飛井田はその指を穏やか
に払い、笑みを作った。
「何か気になるんだ。もちろん、ここの警察に解決できないと言ってるんじゃ
ないよ。見届けたいだけさ」
「心配するな。殺人事件として捜査する方針だ。伊集院、まだ言ってなかった
のか」
「あ、はい」
 若い刑事は頭を掻いて、ごまかした。今村はしょうがないなと舌打ちし、説
明する。
「飛井田、おまえが結び方に注目させてくれたおかげだ。結び目に違いは見つ
からなかったが、命綱に使われたロープには、結び直した形跡があったんだ。
どうやら二人の人物が、あのロープを身体に巻いたらしい。一人は篠山で、も
う一人は篠山よりも体格がよかったようだ。結んだ跡から輪を再現すると、着
ぶくれした篠山よりもさらに一回り大きいサイズと推定された。この男――恐
らく男に違いない――が、篠山を事故に見せ掛けて殺害した疑いがあるという
訳だ」
「殺人事件として捜査するなら、現場周辺の足跡は詳しく調べたんだろう?」
「頼家や警官に加え、被害者自身の足跡も何度も往復しているし、屋根から落
ちた雪もあるしな。他の足跡があったとしても踏み消されてしまっている。車
のタイヤ跡も同様さ。手掛かりになりそうにない」
「そりゃ残念」
「手掛かりゼロってことではないぞ。被害者が最後に会った人物に、目星が付
いた」
 今村はそこまで喋ってから、ここは捜査内容を語るにふさわしい場所でない
と気付いたらしい。伊集院をどこかにやると、飛井田と二人だけで手近の空き
部屋に入った。ドアがきっちり閉じられるのを待ち、飛井田が尋ねる。
「最後って、いつ頃だい? 昨日とかじゃあ、話にならない」
「それはまだ分からん。今言いたいのは、その人物だ。プロ野球の大黒励一っ
て知っているか?」
「ああ、顔は朧気だが、名前は聞き覚えがある。若いがなかなか勝負強いバッ
ターじゃなかったか。その大黒選手が、篠山氏に最後に会った人物?」
「そうかもしれないってことだ。被害者は独り暮らしで、子供もいないんだが、
県内に親戚がいる。そこに電話して、事件について告げたところ、面白い情報
が得られた。そこの子が小学何年生だかで、野球ファン、最近は特に大黒をひ
いきにするようになったという。その話を聞いた篠山が、大黒励一と正月に会
えそうだから、サインをもらってやると約束した。我々としては出任せの可能
性もよぎったが、同じ市内に実家があるというし、確かめない訳にはいかない」
 一気に喋った今村が一息つく。飛井田は「いきなり大黒選手へ問い合わせた
のか?」と驚きながら聞いた。
「まさか。有名人を調べるときは、ある程度の目途が立ってないとな。大黒選
手に直接聞く前に、もっと具体的なとっかかりがいる。被害者の携帯電話に何
か履歴が残っているかもしれないが、電話そのものが見当たらなかった。所持
していたのは間違いないので、携帯電話会社に照会し、ついさっき、記録が入
手できたのさ。被害者は昨晩と今朝早くに、大黒の携帯電話に電話している」
「篠山氏と大黒選手が知り合いだったというだけで、今日、会ったかは分から
ない訳だ。それでもとっかかりには充分」
「だろ? 他にここ最近、頻繁に電話した相手も見当たらないしな。明朝、大
黒に会いに行く。断っておくが、一緒に来ようったってだめだ」
「やむを得まい。居場所を教えてくれれば、自分の車で行くよ」
「冗談はよせ。それもだめだからな。聞きたいことがあるなら、質問を預かっ
てやるよ。濡れた靴やら結び目やらのお返しだ」
「今の時点じゃなあ、当たり前の質問しか思い浮かばない。履いてる靴が紐靴
なら結び目をチェック……いや、結び方に違いがなかったのにチェックしたっ
て、無意味か」
「意味ないと思うが、チェックしたければユニフォーム姿の全身写真を取り寄
せればいい。拡大すれば分かるだろうよ」
 どこか皮肉を込めた口調の今村。飛井田は頭を掻いた。
「特にないな。首尾だけこっそり教えてくれればいいよ」
「確か、主にセンターだ」
 野球ファンの今村が放ったジョークに、飛井田は気付くのが遅れた。三秒ほ
どして、「ああ」と呻くにとどめる。
「あとで何か思い付いたら、連絡するよ」


――続く




#380/598 ●長編    *** コメント #379 ***
★タイトル (AZA     )  11/02/23  00:00  (498)
飛井田警部の事件簿番外編:空振りの犯罪 下   永山
★内容                                         11/02/23 23:41 修正 第2版
 早朝から刑事の訪問を受け、大黒は衝撃を隠すのに必死だった。
(もう? 早すぎるだろ。心の準備が……)
 二人組の刑事は今村と有園と名乗り、「篠山隆太郎さんのことで話をお聞き
したい」と確かに言った。家族がいるので家に上がられるのはちょっと……と
難を示すと、では車の中でと提案された。
「パトカーの中も困る」
「いえ、今日は普通の車ですので。スポーツ記者さんの姿も見当たらないよう
ですし、問題ないでしょう」
 押し切られ、彼らの乗ってきた車内で、事情を聴かれることになった。後部
座席に収まると、隣に今村と名乗った方が座った。有園は運転席だ。
(塀が近くて、こちらのドアを開けることはできない……)
 万々が一、窮地に追い込まれて逃走を図ろうにも、これでは刑事を殴り倒す
必要がある。大黒は覚悟を決めた。話を聞かねば始まらない。
「篠山隆太郎さんをご存知ですね? 自宅は、ここから車で二十分と掛からん
でしょう」
 今村刑事が単刀直入に質問をぶつけてきた。
「確かに知っている。自宅に行ったことも数度あるから、車でならそれぐらい
掛かるだろう。彼が何か」
「どういうご関係で?」
「ご関係と聞かれてもな。知り合いとしか言い様がない」
 ゆっくりとした喋りに努める。少しでも時間を稼ぎ、頭を働かせたい。
「まあ、ファンの一人だな」
「携帯電話の番号を教えるとは、特別なファンなんでしょうな。どういうきっ
かけで知り合われたのか……」
「ああ、それなら簡単だ」
 大黒は唇を嘗め、用意しておいた答を口にする。
「昔、こっちでドライブ中に、トラブってね。車がうんともすんとも言わなく
なって、途方に暮れたんだ。そこへ偶々通り掛かったのが篠山さん。助けても
らって、お礼をして、そういう縁で親しくなったんだ」
「ふむ。では、二日から三日に掛けての電話の用件は、何だったんです? ぜ
ひ教えていただきたい」
「話してもいいが、何があったかを教えてもらわないと。何だか気味が悪い。
篠山さんが何かしたとでも言うんですか」
「いえいえ。テレビではやっていないかもしれないが、新聞には載ったと思う
んですがね。ご覧になっていない?」
「ああ。一体何が。気を持たさないで、教えてくださいよ、刑事さん」
 だいぶ慣れてきた大黒は、軽い調子で尋ねた。
「篠山さんはお亡くなりになりました。事故か事件かの判断をしなきゃいかん
ので、こうして知り合いの方を回っている次第なんですよ」
「事故か事件? どういう風に死んだんです、彼は」
 大黒は今村刑事の両肩を掴まんばかりの勢いで聞いた。驚いてみせるのはい
いが、芝居がからないようにしなければいけない。
「いつ鹿児島にお帰りになったか知りませんが、こっちはここんとこ大雪だっ
たでしょう? 篠山さんは昨日、雪下ろしをやっているときに、足を滑らせて
屋根から転落し、亡くなった可能性が高いんですが……ま、一応、他殺の線も
調べています」
「そうでしたか……さぞかし、苦しかったろうな」
「――ええ、恐らく苦しかったと思いますよ」
 今村が妙な間を取ったのに気付いた大黒。目をしばたたかせ、何か変なこと
を口走ったろうかと思い返す。そうする間にも、今村は言葉を重ねた。
「雪の上に転落しても、意外と衝撃はあるかもしれません。ましてや、溝に落
ちてそこで溺れたのなら、尚更だ。息苦しいに違いない」
「――さっき苦しかったろうなと言ったのは、寒くて苦しかったろう、辛かっ
たろうなという意味だ。あなた達は知らんだろうが、篠山さんは極端な寒がり
なんだよ。そんな人が雪の中で死んだら、そりゃあ苦しいだろう」
「分かりました。話を戻しますが、電話は何の用件だったんですかね」
「ああ……新年の挨拶と、またサインをくれないかという話だったな。具体的
にではないが、また会いましょうと約束して電話を切ったよ」
「なるほど。ところで、この人物をご存知じゃないですか」
 今村刑事が懐から一葉の写真を出した。差し出されて受け取る。胸から上の
男の写真だった。正面から捉えられた表情は、どちらかといえばむすっとして
いる。
「知らないなあ。誰です?」
 正直に答え、写真を返す。今村は写真を仕舞うと、きっぱりとした口調で答
えた。
「知らないのなら結構。現場近くで目撃された男が、こいつかもしれないとい
うだけです」
「その男が犯人かもしれない?」
 大黒は内心で喜んでいた。別の容疑者が既にいるのなら心強い。
「事件かどうかすら不明な段階です。ご不満かもしれませんが、申し上げられ
ない」
「いえ、納得した。もしも殺人だとしたら、絶対に犯人を見付けてくださいよ」
「無論、そのつもりです」
 今村は自信ありげに答えた。
「いずれよい報告をお届けしますよ。ああ、こちらにはいつまで滞在されるん
です?」
「一週間ぐらいいるつもりだったが、火山灰の影響が気になるんでね。収まれ
ばいいが、噴火が続いて風向きが悪くなったら、飛行機も鉄道もだめになるか
もしれない。早めに戻ろうと考えています。明後日か明明後日には」
「そうですか。またお話を伺うかもしれないので、なるべくこちらにいてもら
いたいのですがね。事件解決を直接お知らせするためにも」
 似合わない笑みを浮かべた今村に、大黒は「どうなるか分からんが、考えて
おきましょう」とだけ答えた。

 雪は止んだが、からっと晴天とはならず。積雪をこのまま放置していると、
氷になって面倒が増すかもしれない。
 正月が明け、いよいよ妻の実家でごろごろしている訳に行かなくなった。飛
井田は朝から慣れない手つきで雪かきに精を出していた。二時間弱ほどして、
昼食を用意されたところで、ちょうど携帯電話の呼び出し音が鳴った。今村か
らだった。お茶を一口すすってから出る。
「待ってました。雪かきの最中にかけてくれたら、もっとよかったのんだが」
「雪かきしているのか。ご苦労だな」
「で、何か分かったのかい?」
「当人の証言は後回しにして、一番重大な点を教えてやる。ただし、現時点で
は他言無用だ」
「もちろん、承知しているよ」
「写真を見てもらうふりをして、指紋を採った。急いで現場指紋と比較した結
果、篠山氏の芸術作品に付いていた指紋のいくつかが、大黒のものと判明した」
「へえ? でもかねてからの知り合いだったとしたら、被害者宅の物品に大黒
選手の指紋が付いていても、おかしくない。今度の事件と結び付けるには弱く
ないか」
「それがな、ラッキーなことに、問題の芸術作品は依頼された物で、事件前日
に完成したと分かっている。歪んだワイングラスみたいな代物なんだが、それ
を写真に撮って添付したメールを、被害者宅のパソコンから依頼者に送ってい
るんだから間違いない。依頼者は気に入らずに作り直しを求めるメールを翌日、
つまり事件当日の朝、返信している。篠山氏が返信をチェックしたのが午前十
時過ぎ。写真を撮ったときの光の具合が悪かったのかもしれないから、もう一
度撮って送る、という風な内容のメールを送っている」
「死亡推定時刻の絞り込みに役立ちそうな話だ」
「それ以上さ。すでに知ってるかもしれんが、問題のグラスは割れていた」
「いや、初耳だ」
 電話を持ち直す飛井田。
「撮り直しの提案に対する返信メールが来ていないというのに、グラスは割れ
ていた。依頼者の作り直し要求に憤慨して割ったとしたら、そもそも写真の撮
り直しを言い出す必要もないと思うんだが。ま、割れたおかげで、大黒は指紋
を拭くに拭けなかったと踏んでいる」
「ふーん。その事実を突き付けに、今からまた大黒選手のところへ?」
「ああ。最初に会ったとき、早めに実家を発つようなことを匂わせていたから
な。足止めしてやる」
「身体のサイズは? 命綱にあった結んだ痕跡に合いそうなのか」
「無論、計測するなんて芸当はできなかったが、見た感じでは合いそうだった。
案外早く、解決するかもしれん」
「そりゃよかった。ただまあ、プロ野球選手が犯人だとしたら、世間的にショ
ックが大きいだろうな」
 飛井田が何の気なしに言うと、向こうからは存外、真剣な返事があった。
「慎重にやるさ。実は、署に戻った途端、えらいさんから『本当に大丈夫か? 
慎重にやってくれ』と念押しされて、ちょっと動きにくい空気なんだよ。大方、
球団のキャンプ再誘致を目論む筋から抗議でも来たんだろう。厄介なことにな
らなきゃいいんだが」
「なるほど。裏があるもんだ。証言の方は? 被害者との関係をどう説明した
んだろう?」
「予想通り、ファンの一人だと。そう聞いて、『携帯電話の番号を教えるとは、
特別なファンなんでしょうな』と畳み掛けたつもりだったんだが、肩透かしを
食らった。『昔、こっちでドライブ中にトラブルで動かなくなり、困っていた
とき、通り掛かった篠山さんに助けてもらった。それが縁で親しくなった』だ
とさ」
「年明けに電話で何度か話をしても、さほど変じゃないという主張か」
「こんなことよりも、おまえが好きそうな返事を引き出したぜ。正確には、引
き出したんじゃなく、相手が勝手にぽろっと言っちまっただけなんだが」
「興味あるねえ」
 電話ということも忘れ、身を乗り出す飛井田。手に力が入る。
「篠山隆太郎の死を伝えると、『さぞかし、苦しかったろうな』と感想を漏ら
したんだ。雪下ろし中の事故で亡くなった可能性があるが、念のため殺人でも
調べているという風に言ったのに、だ」
「なるほど。『苦しかったろうな』だと、溺死したことを知っていたように聞
こえる」
「ああ。発表でも溺死のことは伏せていたしな。俺もその場でおかしいぞと気
付いたので、すぐさま、どういう意味なのかを問い質した。あなた今妙な返事
をしましたよと仄めかす具合にな」
「いいぞ。で、首尾は?」
「守備はセンターだと――このネタはもういいか。大黒は『寒くて苦しかった
ろうなという意味だ』と、怒ったみたいに答えたよ。実際、篠山氏は相当な寒
がりではあったらしいんだが」
 話を聞く内に、飛井田はつい噴き出した。
「はは、苦しい弁解にしか聞こえんねえ。『雪に埋もれて窒息することだって
ある』とかならまだ分かるが、『寒くて苦しかったろう』だと、動揺がばれば
れだ。大黒励一の線で確定かな」
「だと思うんだが。さっきも言った通り、強力な証拠がない限り、上は積極的
に動くつもりはないらしくてね」
「二度も言うってことは、今村、助けて欲しいんだろう?」
 しばらく沈黙があった。飛井田が助け舟の台詞を考えていると、ようやく今
村からの声が返って来た。
「……まあ、いざというときには、飛井田、おまえにバトンタッチだ。よそも
んのおまえなら、上の言うことにも気兼ねせずに行動できる」
「比較的気兼ねせず、だ。好き勝手できる訳じゃないことぐらい、承知してい
るくせに。最低限、おまえのお墨付きというか後ろ盾が必要だ」
「ああ。それぐらいはしてやるさ」
 力を貸してもらおうとする割に偉そうな口ぶりの友人に、飛井田は首を振っ
て苦笑いをした。

 大黒が落ち着かない午後を過ごしていると、三時過ぎになって、再び今村刑
事が現れた。今度は一人だ。
「真相が分かったんですか」
 冷静さを取り繕い、大黒は刑事の車に乗った。問い掛けに対し、今村は「残
念ながら」と首を横に振った。
「重要な事実が判明しまして、帰られない内にと思いましてね。どうしても聞
きたいことができたんで」
「何だろう?」
「現場にあった物から、あなたの指紋が検出されたんですよ」
「……それが? 俺は何度かあそこの家に行ってるんだよ。指紋が出ようが、
髪の毛が落ちていようが、大した問題じゃないだろう」
 気色ばむのが自分でも分かった。犯人であろうがなかろうが、ここは怒って
もいいはずだ。
「いえね、それがグラスから出たから、頭を悩ませているんですよ。篠山さん
が作ったばかりのグラスで、正月二日の夜に完成し、三日、篠山さんの死が発
覚したときには割れていたので、その間に触ったとしか考えられない」
「……」
 忘れていた。心中で舌打ちをした大黒。指紋を残したと気付いていたとして
も、割れていたのだから拭いようはなかったろう。持ち去っていればよかった
のか。だが、後悔しても遅い。
「最初、あなた宛てに作った物かと思ったんですが、別の人が注文した物と分
かったので、さあ困った。大黒さんに話を聞かねばならない、と、こうして早
早の再訪問になった訳です」
「……分かった。三日の朝、篠山さんの家に行った。それは認める」
 大黒は懸命に善後策を構築した。
「だが、彼の死には関与していない。そこはしっかり押さえてもらいたいんだ。
何せ、俺が彼の家を離れた時点で、彼はぴんぴんしていたんだから」
「詳しく伺いましょう」
 疑いの色を浮かべた眼になる今村。両手にはペンと手帳を、何とでも言えと
ばかりに構えた。
 大黒は唾を飲み込むと、自らを落ち着かせながら話し出した。
「電話を受けて、サインを書いてやるなら早めに行くべきだなと思った。だか
ら、三日の朝、篠山さんを訪ねたんだ。八時過ぎに着いたんだっけ。そうした
ら、彼が雪かきで悪戦苦闘しているのが見えた。気の毒に思えたんで、少しだ
けなら手伝いましょうと申し出たんだよ。交替して、屋根に上がり、雪下ろし
をしばらくやった」
「何時までやりました?」
「あれは……」
 思い出そうとするふりをして時間を稼ぎ、頭の中で懸命に考える。死亡推定
時刻を刑事に言わせたあとなら、簡単に答えられるが、これでは迂闊に答えら
れない。かといって、死亡推定時刻は何時頃なのかと改めて聞く訳にもいかな
い。
(あの日の八時頃に到着し、雪下ろしを少しの間してやったというシナリオな
んだから、少なくとも一時間、いや、挨拶や準備を含めて一時間半はあの家に
いたことにしなきゃまずいか。てことは……)
 唇を嘗め、大黒は答えた。
「何時までやったかは、はっきり覚えていない。ただ、篠山さんの家を出たの
は、九時三十五分か四十分ぐらいだったと記憶している」
 篠山が死んだのはそれから約一時間後だった。死亡時刻が正しく推定されて
いれば、今の答で問題なかろう。
「九時三十五分から四十分の間ですね」
 メモを取った今村刑事だが、突っ込んで聞いてくることはなかった。だが、
安心する間もなく、大黒の隙を突くかのような質問をぶつけてきた。
「サインはどうしました?」
「サイン?」
「サインを書いてあげるために、訪問したんでしょう? 現場には色紙が見当
たらなかった」
「あ、今、言われて気が付いた。サインを書かずに、帰ってたんだ。雪下ろし
に熱中したせいで、すっかり忘れてしまったんだな」
 考えられる中で最も自然な返答ができた。そう思う大黒だが、刑事は納得し
ていないようだ。首を捻っている。
「サインのために出掛けたのに、それを忘れるなんて。あなたが忘れたとして
も、篠山さんが覚えているものだと思うんですが」
「知らんよ。帰り際になっても、彼は何も言い出さなかった。事実はこうなん
だから、仕方がない」
「ははあ。ま、ちょうど篠山さん宛に仕事関係のメールが来ていたようですし、
そちらに意識を取られていたのかもしれませんな。あとは……そうそう、雪下
ろしの際、命綱を使いましたね?」
「当然。使わなければ、危なくてしょうがない」
 簡単な質問にほっとする大黒。
「大黒さんが雪下ろしを終えたあと、篠山さんに交替したんでしょうか」
「あ、ああ、そうだよ」
「篠山さんも身体にロープを結んでいましたが、あれもあなたがしてあげたと
いう解釈でよろしいですか?」
「その通り。問題ありましたか」
「いえ。単なる確認です。ただまあ、こういう話をしていいものかどうか、足
を滑らせた篠山さんは、命綱の輪っかから身体がすっぽり抜けた結果、屋根か
ら地面に落下したようでしてね。その衝撃が抜けきらないまま、ふらふらと歩
いた挙げ句、溝に落ちて意識を失い、溺死してしまったという風にも想像でき
ます」
「……もしも結び方が悪くて落ちたんだとしたら、遺族の方にはできる限りの
ことをするつもりです」
「篠山さんには遠い親戚がいるぐらいですが、お会いになるのは、この捜査の
結論が出てからでいいと思いますよ。早い段階で責任を感じて、いらぬ約束は
しない方が賢明だ」
 大黒は無言で首を縦に振った。尤も、刑事が言ったアドバイスぐらいは、承
知していたが。
「さあて、大黒さん。篠山さんの死が事件と確定していなくとも、現場に指紋
があった事実は大きいんですよねえ。すみませんが、いくつか提出していただ
きたい物があります」
「提出……?」
「ええ。現場を訪れた三日に着ていた衣服と靴、その他身に着けていた物を」
「……拒否すればどうなるんだろう?」
 恐る恐る尋ねる。返ってきた台詞は、予想通りの内容だった。
「正式に家宅捜査令状を持ってくるまでのことです。大げさにならない内に出
していただけるとありがたい。大黒さんも、マスコミに嗅ぎつけられたくない
でしょう」
 大黒はしばし考え、渋々ではあったが承知した。
「服は洗濯してしまった物もあるが、いいんだろうね。帽子とコートは、全く
の手付かずだが」
「やむを得ません。協力に感謝します」
「もうこれっきりにしてもらいたいものだ」

 また刑事が来た。軽いランニングをしていた大黒は、実家近くの公園に差し
掛かった折、今村刑事の姿を視界に捉えた。辟易と不安を同時に覚える。ばれ
るはずがないという思いと、何かミスをしでかしただろうかという思いがせめ
ぎ合う。
 予想よりもあまりに早く自分の存在に警察が気付き、目の前に刑事が現れた
ときは総毛立った。どうにか平然と振る舞ったつもりだが、それでも失言はゼ
ロではなかった。膨らんだ不安に負けて、大黒は球団や地元後援会の関係者に
話した。「知り合いが不審な死を遂げたことに関して、警察から疑われて迷惑
している。何とかならないか」と。
 すぐさま手を回してくれたらしく、二度目以降、刑事の口調は気味が悪いほ
ど丁寧になった。
「大した根拠もなしに疑われちゃかなわない」
 そう言うだけで、追い返す効果があった。なのに、また刑事が現れたという
ことは、いつまで効き目が持続するか怪しい。
 顔馴染みになってしまった今村刑事が、今日は新たな刑事を連れて来ていた。
飛井田というこの刑事、やけに馴れ馴れしく、それでいてこちらに過度の不快
感を抱かせることなく、入り込んでくる。
「もういい加減にして欲しいんですがね。身体が資本なので、少しずつ動き出
さないといけないのに、警察に連日来られては、ペースが狂う。精神的にもよ
い影響があるとは思えない」
 公園内のベンチに腰を下ろし、嫌々ながら話に応じる。他に利用者が誰もい
ないことが救いだ。
「いやあ、申し訳ありません。大黒さんが仕事のためにそうお考えになるのは
よく分かります。私らも仕事なので、もう少しだけ、お付き合いください」
 刑事達が現れてから、ほぼ、飛井田とだけ会話している。今村刑事が口を噤
むのは、こちらからの圧力が効いているのだろうと理解できる。ならばこの飛
井田という刑事は何だ?
「協力する気がないとは言わないが、限度がある。新しい刑事をよこしたって、
こっちからすれば同じ警察だ」
「同じじゃないんですよ。私は鹿児島ではなく、東京の方から来ました。たま
たま、まあ、研修みたいな形で参加させてもらっている訳です」
 頭を軽く下げ、柔和な表情をなす飛井田。大黒は一瞬怯んだ。が、落ち着く
ことを心掛け、いつもの主張を繰り返す。
「……だからといって、やることは一緒でしょうが。こっちも何を聞かれたっ
て、答は同じ。無駄だと思うよ」
「それはそうかもしれませんが、自分の耳で聞いてみたいんですよ。その方が
細かいニュアンスが掴めて、イメージが固まるというか、事件の構図がはっき
りする」
「俺が無関係だということを、早くはっきりさせてもらいたいもんだ」
「ええ、はっきりさせるつもりです。とりあえず、グラスの件でお尋ねしたい」
「グラスって、割れたグラスに付いた指紋なら、もうそちらの今村さんにお話
しした。あのままですよ。当日の八時過ぎ、篠山さんに会いに行ったことは認
めた。そのとき、グラスに触ったことも認めた。だが、篠山さんが亡くなった
のは、俺が帰ったあとの話だろう。多分、事故死だよ。彼にとって何の慰めに
もならんが」
「どうしてその事実を、最初に話してくださらなかったんです?」
「そりゃあ、あれさ。曲がりなりにもプロ野球選手だからな、死亡事故の少し
前までその場に居合わせたとなると、何を言われるか分からない。人間がまだ
まだできていないもんでね。煩わしいことを避けたかった。今にして思えば、
悪かったと反省している。ただ、罪にはならんでしょう?」
「さて、どうですかね」
 飛井田刑事が意外なことを言い出した。ぎょっとするのを隠さない大黒。
「まさか。冗談はなしですよ」
 勝手に言葉遣いが、相手の機嫌を伺うような丁寧さを帯びた。
「いえね、私が言うのも何ですが、別件逮捕する気になれば、警察はあれやこ
れやと理由付けを捻り出しますからね。大黒さんの態度は、警察から事情を聴
かれながら正直に話してくれなかったんだから、捜査妨害と言えなくもない」
「脅かさないでくださいよ」
「ええ、今のは出任せです。それでですね――」
 大黒に安堵する間を与えず、飛井田は続けた。
「確認ですが、ロープを結んであげたのも大黒さんですか」
「ロープ? 命綱のことなら、その通り」
 用意しておいた答を口にする。そうすることで冷静さを保てる。
「俺が雪下ろしを時間が許す限り、ざっとやったあと、残りは篠山さんがやる
ことになった。交替するときに、結んでやった訳さ」
「なるほど。結び目とは別に結んだ痕跡があったので不思議に感じましたが、
今のお話で辻褄が合います」
「それはよかった。疑いは晴れたかのかな」
「まだまだ。できれば事故死であること自体を証明したいのですが、それは難
しい塩梅でしてねえ」
「事故死の証明は警察の問題だ。俺にどうしろと?」
「大黒さん個人が無関係であると示すには、別のやり方がある。篠山さんが亡
くなった時点であなたはあの家を遠く離れていた――こう証明できれば、すっ
きりする」
「言っている意味は理解できるけれどね、刑事さん。その証明も俺には難しい
と思うよ。本人の証言だけじゃだめなんだろ?」
「はい」
「死亡した時刻が分単位ぐらいに絞れているのなら、アリバイの申し立てがで
きるかもしれないが、実際のところ死亡時刻には幅があるんだろう?」
「はい、残念ながら」
「結局、同じことを言うしかない。俺にどうしろと? 事件だか事故だか知ら
ないが、直前に現場に寄ったことを認め、そのときの服だって提出した。これ
以上、何を……」
 必死に訴えてみせた大黒に対し、飛井田は片手を挙げて話を制する。
「死亡推定時刻ですが、大まかには出ていましてね。大黒さんが篠山さん宅を
離れたのは、何時頃でしょうか」
「今村刑事に答えたはずだが」
「すみません。あなたの口から聞きたいので」
「九時三十五分から四十分にかけてだ」
 ぶっきらぼうに答えてみせる。
「確かですね」
「あ、ああ。そのあとしばらくは、一人で車を転がしていた。誰も証人はいな
いが、間違いない」
「うーん、ちょっと困りましたな」
「何が。死亡推定時刻に被っているとでも言うのか?」
「死亡したのは午前十時からの一時間半と推定されています」
「だったら、何も問題ない」
 ほっとする自分の態度を隠さず、大黒は笑顔になった。
 飛井田は手帳を開き、何かを確かめる仕種をした。
「問題なのは、被害者の行動でして。篠山さんはパソコンでメールを受信して
いるんです、午前十時過ぎに。あなたがお帰りになった直後、雪下ろしに取り
掛かった篠山さんが、二十分ほどで作業をやめ、パソコンに向かったというの
は解せない」
「……そんなことを言われても知らんよ。あの人はスポーツマンではなかった
からね。二十分でへばったとしたって、おかしくない」
「受信したメールについて、約十五分後、返信している。しばらくパソコンの
前に座っていたことになる。へばって雪下ろしをやめ、パソコンを十五分ほど
やったあと、すぐ雪下ろしを始めて事故に遭ったと」
「……忙しないが、そうとしか思えない」
「ところで大黒さん。グラスが割れていたことには、気付きましたか」
「グラスってのは、俺が触ったあれか?」
「はい、その通りで」
「いや。俺が見たときは割れていなかったからこそ、触れたんだ」
「篠山さんの家を出るまでに、グラスをもう一度見ませんでしたか? 割れて
いたかどうか」
「……」
 大黒は密かに奥歯を噛み締めた。質問の意図が読めない。どう答えるべきな
のか。
(すでに否定的な返事をしてしまった。その上、グラスが割れたなら、篠山が
片付けようとするはず。だが、実際は片付けられていなかった。だからシナリ
オとしては……篠山が雪下ろし中、もしくは篠山が死んだあと、グラスは何か
の拍子に割れたことになる。篠山が雪下ろしを始める前に現場を離れた俺は、
当然、割れたグラスを目にしていない。よし、これだ)
 ごく短時間で結論を出すことに成功し、大黒は知らず、得意顔になった。
「いや、見ていないね。俺が彼の家を出たあとなんだ、きっと」
「だとしたら、また話がおかしくなるんですよ、これが」
「そんな馬鹿な! 見ていない物を見たとは言えない」
 声を張り上げた大黒。自信があっただけに、つい、大声になってしまった。
道路側に目をやるが、人通りはなかった。
「まあまあ、興奮しないで。誤解させたようで申し訳ない。説明が付かないこ
とがあるので、一緒に考えていただきたいんです。実は、先ほど言及したメー
ルは、グラスについてのやり取りでして。依頼者からだめ出しされて、篠山さ
んは反論のメールを送っている。だから、篠山さんが腹立ち紛れに自らの手で
グラスを割ったとは考えられない。窓ガラスは閉めてあったので、風でカーテ
ンがなびくようなこともない。では何故割れたのか。警察は一つの結論に行き
着きました。その結論に照らし合わせると、グラスが割れたのは、十時二十三
分過ぎですが――」
「ちょっと待った。どうしてそんなことが分かる?」
 怪訝さから大黒は眉根を寄せた。深いしわができる。
「慌てないで。順を追って話しますよ。年が明けてから、霧島連山のS岳が活
発に活動をしているのは、ご存知ですね?」
「ああ。ニュースで見た。詳しくは知らないが」
「事件当日にも爆発的噴火が起きています。午前十時二十二分から二十三分に
掛けてのことです。そのとき、空気が衝撃波となって広範囲に伝わる、空振が
起きた」
「そういえば、ニュースでやっていたな。別の日だったが、学校の窓ガラスが
割れたとかどうとか……」
 喋る内に、嫌な予感を覚えた。大黒は飛井田の顔を見返した。
「篠山さんの作ったグラスも、空振のせいで割れたんですよ」
「え? 割れるのは窓ガラスみたいに外に面した物だけじゃないのか」
「あのグラスは窓際に置かれていました。聞いたところによると、空振の衝撃
波は、単純にそのパワーでガラスを割るんじゃない。一旦ガラスを内側に押し
込み、気圧の急変という要素が加わって、割るんだとか。窓ガラスのすぐ側に
置いてあったグラスは、空振によって内側に押し込まれた窓ガラスに押され、
バランスを崩した結果、倒れて割れたんです」
「……よく分からんが、空振でグラスが割れることは、まあ認める。だが、そ
れが篠山さんの死とどうつながる?」
 膝上に置いていた手で、ベンチの縁を叩く。
 飛井田は手帳を再度取り出すと、とあるページを繰り当て、一瞥してから話
し始めた。
「大黒さんに提出してもらった衣服の内、帽子から微細なガラス片が検出され
ています。鑑定の結果、篠山さんが作ったワイングラスの破片の一部と判明し
ました」
「――そんな物」
 絶句する大黒に、飛井田は淡々と続けた。
「本当に微細で小さな物だから、気付かなかったとしても無理はない。さて、
あなたが現場を離れたあとに割れたグラスの欠片が、どうしてあなたの帽子に
付いたのか、合理的な説明を考えましょうか」
 大黒の耳に、刑事の声はしかとは届いていなかった。別のことを思い起こし
ていたからだ。
(空振とは……耳当てをしていたせいで、全く気付かなかった。――そうか。
篠山が休憩を持ち掛けてきたとき、妙なことを言うなと引っ掛かったんだ。)
 脳裏に、篠山の台詞が甦る。
『そうか。ご苦労ご苦労。屋根が終わったら、降りてきて休憩してくれ。お茶
を入れとくから。そのあと、もうひと仕事ふた仕事、頼む』
 引っ掛かっていたのは、最後の箇所だ。
(雪下ろしを続けろという意味なら、『もうひと仕事』だけでいいはず。わざ
わざ『ふた仕事』と付け足したのは、雪かきのことかと思ったが、それも変だ。
どうやら篠山の奴、割れたグラスを俺に片付けさせようと目論んでいやがった
んだな! それにしても、何故、グラスの破片が帽子に付いた? テーブルま
で飛び散ったとは考えにくい。床に移動させられていたが、あの位置だって、
ガラスの破片は飛ばないだろう。じゃあ一体……)
 考えても納得の行く答は見付からなかった。
「――大黒さん? こういう場合の沈黙は、犯行を認めたと受け取られかねま
せんが、よろしいんで?」
 飛井田刑事の声がした。大黒はのろのろした口調で「ああ」とだけ返事した。
 その答を待っていたのか、今村刑事が割って入って来た。
「よし。では、署で正式な調書を取るから、行こうか」
「ほんとにガラス、付いていたんで? 引っ掛けじゃ……」
「ああ、付いていたとも」
「どうして付いたか、さっぱり分からない。ガラスの破片が飛ぶような場所に
置いてあったら、もっときちんと調べて、洗濯したかもしれないのに」
 首を傾げた大黒は、今村に促されて歩き始めた。その背中に飛井田の声。
「想像するに、帽子はグラスのすぐそばに置かれたんじゃありませんか」
「いや、俺はテーブルに置いたんだ。サングラスと一緒に」
 肩越しに振り向いて応じる。飛井田刑事は分かっているという風に首肯した。
「篠山さんが棚に移動させたんでしょう。そしてグラスが割れ、帽子はガラス
の破片を被った。そのままじゃまずいと思い、篠山さんは帽子をはたき、ガラ
ス片を払ったんじゃないかと」
「……言われてみれば、俺があそこを去る前、帽子とサングラスは新聞紙の上
に置いてあった。あれは、細かいガラスが付いたから、危なくないよう、とり
あえず退けておくために敷いた新聞か」
 合点が行き、大黒は疲れた苦笑を浮かべた。

 出迎えた今村の部下が、大黒を連れて警察署の建物に入って行く。
「事件関係者に有名人がいたら、いつもならサインをもらうんだけどねえ。今
回は最後になってようやく会えて、かと思ったら逮捕。おかげでもらい損ねち
ゃった。妻のご機嫌取り、どうするかな」
 見送りながら、飛井田が冗談めかして言う。今村はその肩を叩いた。
「嘘をつけ。あの嫁さんがそんなものを喜ぶか」
「いやいや。いくら元警察でも、有名人のサインには弱い。有名人が犯人だっ
たとしても」
「そういうものか?」
「結婚したら分かる」
 そう言うときびすを返し、飛井田はバス停を目指して歩き出した。
「帰るのなら、送るぞ。功労者をそのまま帰しては、面子が立たん」
 追い掛けて、隣に並ぶ今村。飛井田は首を横に振った。
「功労者とは持ち上げてくれる。ガラス片の証拠が上がった時点で、誰がやっ
ても追い込めたさ」
「しかし、空振との関連に気付いたのは飛井田、おまえのおかげだ。あれがな
ければ、また証言を翻されていたかもしれん。とにかく、飯ぐらいおごらせろ
よ。今夜は無理だが、おまえがこっちにいる間には必ず」
「分かった。代打成功のボーナスだな。連絡を待つとしよう」

――終




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