#332/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 08/10/20 00:41 (478)
鍵を開けて外へ 1 永山
★内容 24/04/29 02:27 修正 第2版
手首と足首、それぞれを手錠で拘束されていた。
頭がずきずきする。手を苦労して頭に持っていき、さすってみた。血が滲ん
だが、ほぼ止まっている。うまく殴ってくれたものだ。加減を知らない奴だと、
あの世行きにされていたかもしれない。それとも、こうして生きているのは、
偶々なのだろうか。
そんなことはあるまい。
文字通り目と鼻の先に、血まみれの人間が転がっているのだ。臭いこそまだ
大人しいが、明らかに死んでいる。すり切れ掛かったカーペットの灰色に、血
が染み込んで黒くなっていた。両刃のぎざぎざしたナイフが、少し離れた床に
置いてあった。
開いた喉から目をそらす。殺しの罪を擦り付けられる、哀れな生贄。そのた
めに自分は気絶させられ、こうして死体の近くに放置された?
上半身を起こし、自分が横たえられていた場所の認識を試みる。広さ十二畳
ほどの部屋には、事務机が二つ、直角をなす位置関係で並べてある。書類を綴
じたファイルの束や電気スタンド、ホワイトボードにロッカー等があるが、固
定電話が見当たらない。全体に雑然としている――否。これは家捜しのあと、
短時間で可能な限り元に戻そうと試みた結果のようだ。ファイルの向きが一つ
だけ前後逆になっているのが、その証拠と言えないだろうか。
ドアは一つに、窓も一つ。窓からは、ガラスを通して自然光が差し込んでい
る。ドアの方は、磨りガラスがはめ込まれているが、向こうに続く廊下だか部
屋だかが暗いためか、差し込む光は乏しい。
誰だか知らないが、犯人はこの自分をわざわざ手錠を使って拘束した。単に
気絶させて転がしておくだけでは、警察の到着前に意識が戻ったら、逃げられ
てお仕舞いとなるからだろう。
反面、この拘束は濡れ衣を着せるには余計な小道具だ。殺された男と同様、
かわいそうな被害者だと思われる可能性が出て来る。それなのに敢えて、拘束
したからには、もっと大きな理由があるに違いない。
体育座りのような格好をしてから、勢いを付けて立ち上がった。死体を避け、
窓際に寄る。三日月型の錠が下りていて、開けられない。
もしやと思い、今度はドアの方へ。足枷のおかげで、少し進むだけでも一苦
労。焦って転び、血まみれになるのは御免だから、慎重に行こう。
やっと辿り着き、ノブに手を伸ばす。後ろ手にされなかったのは、不幸中の
幸いかもしれない。
手応えは固かった。ドアも窓もロックされている。閉じ込められたというよ
りも、これは恐らく……。
そのとき、遠くからパトカーの音が聞こえたような気がした。それは確かに
近付いている。今いるここが目的地だとしたら、誰かが通報したのか? なる
ほど、窓から覗けば、異変を発見することはできるが、どうもおかしい。
このままの状況で警察に来られては、まずい立場に置かれる。確実に犯人扱
いだ。さっき想像しかけたように、ここがいわゆる密室状態だとしたら、決定
的だ。殺人犯が運よく助かった被害者を装い、自ら手錠をして気絶の演技をし
ていた――そんな見方をされるに違いない。
逃げるに限るが、時間的にも物理的にも難しかろう。となれば、せめて密室
を開いておかねば。
眼前のドアは、ノブ上のつまみを倒すことで、開けられた。念のために窓へ
と戻り、三日月錠も開けておく。
パトカーの急行音は、いよいよ大きくなり、やや通り過ぎたような感じがし
たあと、収まった。
「名前は?」
「紀邑拓哉(きむらたくや)。字面は、免許証を見てください」
「……ふむ。職業は」
「一応、探偵。ちゃんと届けを出しています」
「届けを出しているのに一応とは何だ」
「一週間ほど前に開業したばかりで、今、やっと二つ目の依頼を手掛けている
ところでしてね」
「一週間で二件の依頼とは、繁盛しているじゃないか」
「一件目はお決まりの、逃げたペットの猫探しでしたが」
「なるほど。で、ここに来たのは、その二件目の依頼の関係でか?」
「いいえ。気付いたら、ここに転がされていた有様で。ここ、どこなんで?」
「……どうやら、聞くべきことがたくさんありそうだ。死んでいた男との関
係は?」
「初対面のときには死んでいましたよ。何者かすら知りません」
「じゃあ、意識を失う前のことを――救急車が来た。続きはあとで聞く」
舌打ちすると、刑事は離れた。確か、徳井(とくい)と名乗った。いやに早
く駆け付けた気がしたのだが、耳に飛び込んできた制服警官の会話から判断す
るに、非番の徳井刑事が散歩中、パトカーの音を聞いて様子見に来て、そのま
ま合流したらしい。凶悪事件の多さに対して、人員不足は深刻と見える。
入れ替わりに救急隊員がやって来て、具合を尋ねながら、車へと誘導してく
れる。精密検査を受ける羽目になるようだ。
運ばれる間、次に刑事に尋ねられたときのために、記憶を手繰り、話を整理
しておこう。
まず……二件目の依頼を受けたのが、今朝九時。始業と同時に、依頼人がや
って来た。
待てよ? 今日は本当に“今日”なのか、確認しないと。腕時計を見る。そ
れから、(多分)血圧を測ってくれている隊員を見上げ、時刻と日にちを尋ね
た。うむ、ずれていない。今日は九月十五日だ。
今朝九時に駆け込んできたのは、遠藤信男(えんどうのぶお)という四十が
らみの男。えらが張っていて眉が太く、押しが強そうであるというのが第一印
象。前々日の土曜から、妻の邦恵(くにえ)が姿を消した。黙って泊まり掛け
の旅行に出るような質じゃないし、心当たりに電話しても見付からない。家を
出て行かれる理由にも覚えがない。探し出してもらいたい――というのが当初
の依頼だった。話し終わるのを待っていたかの如く、遠藤の携帯電話が鳴り、
通話する内に彼の表情が見る間に青ざめた。警察からで、A川の河川敷で女性
の遺体が発見された。身に着けていた携帯電話の登録番号に掛けているが、心
当たりがあるのなら身元確認に来てもらいたい。
仕事が逃げて行ったと、落胆した。が、遠藤という男、年齢や見掛けの割に
動揺しやすい性格なのか、一人では恐ろしくて行けない、電車で来たから足も
ない、何かの縁だから着いて来てくれと頭を下げる。渋ると、ガソリン代と半
日分の探偵料を払うとまで言い出し、金を押し付けてきた。
思えば、ここで怪しむべきであった。警察が遺体の身元確認を電話で呼び出
すだけなのかどうかは知らないが、発見場所の河川敷に呼び付けるのはおかし
くないか。探偵としての日の浅さと、目の前のはした金に目が眩んだことが、
今の状況につながったのかもしれない。
中古の軽で慌ただしく出発したあとは、遠藤の指図するがままに走った。実
際、A川の河川敷に辿り着いたが、事件が起きたような様子は見つけられず、
車を降りて、あちらこちら探し回る内に、頭をがつんとやられ……今のていた
らくに至る。
そういえば、車はどうなったんだろう。河川敷に放置されているのか、さっ
きの事件現場に運び込まれるのに使われたか。中古も中古だから、犯人が乗っ
ていったなんてことはあるまい。
「はい、着きましたよー、紀邑さん。これから降りて、移動します。ちょっと
揺れますが――」
幸い、頭の怪我は軽傷だった。中の方も異常なしの見込みだが、正式な診断
はしばらく待たねばならない。
「軽傷だったそうで、何よりです」
個室で待たされていると、姿を見せたのは徳井刑事。初対面時よりも表情が
柔らかくなっている。ドアをきちんと閉めると、喋り出した。
「あなたを診た医者の話だと、自分で傷を付けるには無理な角度だろうってこ
とでしたんでね。疑いのレベルを引き下げた訳ですよ」
「完全に払拭できてはいないと」
「当たり前でしょう。共犯がいるかもしれないし、被害者から反撃を食らった
のかもしれない」
瀕死の被害者から反撃されるだけでは飽き足らず、意識を失い、手錠で拘束
される殺人犯? そんな間抜けはいまい。
「とにかく、あなたから話を伺わないと始まらない。現場にいた経緯を、説明
してもらいましょうか」
救急車の中で思い出し、整理していたことを語る。
刑事はどう受け取っているのか、黙ったまま、首を小さく縦に振ったり横に
振ったりしていた。
「遠藤の実在を示す証拠を、全部出してもらいたい」
「証拠? いや、身元を示す物は見ていないし、名詞一枚もらっていない。せ
いぜい、押し付けられた金ぐらいか。ああ、あと、車がある。指紋が出るはず
だ。そうだ、刑事さん。車がどこにあるかを――」
「殺人現場のすぐ裏手に停めてあったよ。あそこは元は貸店舗で、現在使って
いるのが、紀邑さんとご同業と言ってよかろう、便利屋さんだ。興信所的な仕
事以外に、溝掃除や蜂退治、お年寄りの話し相手もすると謳っている」
「何て名前の人です?」
「桜木翔太郎(さくらぎしょうたろう)と梅沢太平(うめざわたいへい)、男
二人の共同。聞いたことのある名前はないか?」
「……顔写真を見せてください。お持ちでしょ?」
求めると、徳井刑事は眉一つ動かさず、写真を二枚、すっと差し出してきた。
こっちの指紋を採る気かな?などと勘ぐりつつ、受け取り、一葉ずつ眺める。
そして気が付いた。
「亡くなっていたのは、この梅沢って男に似ていますが……?」
「その通り」
もっと喋ってくれるかと期待していたのだが、短い肯定のあとは、口を噤ま
れた。仕方がない、こちらも手の内を明かすとしよう。
「桜木の方は、居場所は分かってるんで?」
「何故、桜木だけ聞く? 女の方は気にならないのか」
刑事の口調が再び荒っぽくなるのを感じ取り、急いで言葉を補充する。
「実は、桜木の弟、桜木孝助(こうすけ)とは高校、大学と同じ学校に通った、
まあ、親しい友人です」
「ほう。翔太郎との面識は?」
「ありません。兄貴がいるとは聞いていましたが」
「孝助は今、何の仕事をしているんだろう」
「保険会社に勤めているはずです。商品企画だか運用だかは忘れましたが、営
業じゃないのは確かだ」
「真っ当なサラリーマンか」
舌打ちが聞こえた。怪しげな探偵と被害者の共同経営者とを結び付ける存在
に、疑惑の目を向けるのは常道と言えよう。
「あいつは基本的にいい奴ですよ。失業していた私に、探偵でもやってみない
かと道を示してくれた」
「……アバウト過ぎるアドバイスに聞こえるが」
「私、以前は銀行マンでしてね。成績は悪くないつもりでしたが、対人関係か
ら来るストレスのためか、体調を崩した。治らないまま数年経って、これはも
ういられないなと辞めたんです。その前後から、心配してくれたのが桜木孝助
って訳で」
「それにしても、探偵ねえ? ま、銀行よりは、対人関係のストレスはなさそ
うだが」
「私にとって、個人でやれるものなら何でもよかったんです。最小限、食うに
困らないだけの蓄えはまだあるんで、何かして世間とつながっていたかった」
「念押しするが、探偵を強要されたんじゃあないと?」
「……資格がいらない、準備に必要な物が少ない、兄も似たようなことをやっ
ているから、いざとなったら助言してやれる、とは言われた記憶が。そう、そ
れに冗談めかして、客が来ないようだったらうちの加入者を紹介してやれる、
とも」
「なるほど。強要されてはないが、お薦めされている」
にやりと音がしそうな笑みを作る刑事。
「あなたには面白くない話だろうが、桜木兄弟の陰謀に思える。桜木から恨み
を買う覚えは? いや、ないだろうな、それだけ信じ切っているのだから。い
いように利用されただけと解釈するのが妥当だろう」
「……たとえば、保険金を手に入れるために、桜木は共同経営者を殺害し、私
を犯人に仕立てた。そもそも、事件に巻き込むために、探偵になるよう仕向け
た」
「動機は知らないが、図式はそんなところじゃないかね。これから裏付けや証
拠を固めていかねばならないが」
信じられなかった。徳井刑事の推測だと、遠藤なる男も桜木達の共犯になる
のだろう。三人でやって充分な実入りがあるほど、高額の保険を掛けていたの
か? 確かに、孝助は保険会社勤めだから仕組みには詳しいに違いないが……。
考える内に、違和感の正体に気付く。
「私は桜木翔太郎の顔を知らない。だったら、遠藤の役回りを翔太郎がすれば
いいはず。敢えて三人で行うメリットがありませんよ」
「桜木の兄があなたと直に会ったら、あなたが生きている限り、顔を知られる
危険を伴う。計画が瓦解する。だから遠藤を使ったんじゃありませんかね」
「う……。だが、濡れ衣を着せる相手に、被害者と何ら接点のない私を選ぶ理
由が分からない。刑事さんの言う通りに計画が行われたとして、では犯人達の
想定した“紀邑拓哉の犯行”とは、どんなものになるんでしょう? 見ず知ら
ずの男を殺し、金目の物を奪うでもなく、遺体と共に殺人現場にとどまる。馬
鹿げていますよ」
「……尤もな見方だ。桜木兄弟がどうしようもない愚かな犯罪者ならまだしも、
そうではないのは明白だ」
考え込む刑事。少なくとも、桜木兄弟犯人説に固執するつもりはないようだ。
こちらとしても一安心できる。お兄さんのことはよく知らないが、桜木孝助が
殺人に手を染めるとは、とても考えられない。
「桜木の弟から話を聞きたい。番号を教えてくれますか」
刑事が思い付いたように言う。私は手首の傷を気にしながら、手帳を取り出
した。
「おや? 携帯電話は?」
「持っていません。昔は持っていましたが、あれこそがストレスの元凶だった
気がして」
「なるほど。だから意識を取り戻しても、電話できなかったか。現場には電話
がなかったし」
番号を教えると、刑事はメモ書きした上で、自らの携帯電話を取り出した。
掛けるか否か、迷っている風である。疑いが残っており、容疑者相手に独断で
は動けないのだろうか。
「自宅と勤め先の住所も教えていただけますか。翔太郎の住所なら分かってい
るんだが、同じではないでしょうから」
逡巡したのだが、断れる状況ではない。手帳を開き、桜木孝助の住んでいる
番地を伝えた。社員寮のはずだ。勤め先は聞いていない。社名のみ伝える。
「出勤しているかどうかだけ、問い合わせてみるか」
呟くと同時に、刑事の眉間にしわが寄った。何事かと思ったら、手にした携
帯電話が低く唸り、ディスプレイが光っている。この病院での使用はOKなん
だろうかと、詮無きことを考えた。
会話は極短く、また、刑事の返事も「ああ」だの「そうか」だのに占められ
ていたため、内容はまったく分からなかった。
電話を仕舞うと、刑事は立ち上がった。
「今は、これで結構です」
そして出て行こうとする。その背中に尋ねる。
「私はこのあと、どうすれば?」
「もう少ししたら、似顔絵の得意な刑事が来ますから、遠藤信男の似顔絵作り
に協力してもらいます。ああ、それと、自宅に戻られたら、変に出歩かないよ
うに。犯人があなたを再襲撃する可能性、なきにしもあらずなんだから」
何か分かったら教えてくださいと頼んだが、それに対する返事はなかった。
やがて現れた“似顔絵の得意な刑事”とは婦警で、しかも親切であった(よ
うな気がする)。似顔絵作りが終わると、自宅まで送りましょうと言ってくれ
た。ありがたいが、車に乗って帰らないといけない。そのことを告げると、あ
なたの車は証拠調べに回されているはずですよと教えられた。そうか、指紋の
件があった。
「ということは、私も警察に行って、指紋を採取されるんですね。区別するた
めに」
「そうなります。こちらに回す人員がないので、足を運んでもらうことになる
でしょう」
「じゃあ、いっそ、今日これから行って、やってもらった方が」
「体調は大丈夫ですか」
むしろ一日おいた方が、動くのが辛くなりそうな予感がある。今はまだ、興
奮が残存している。こんなときこそ、休むべきなんだろうが、実際には神経が
高ぶって休めそうにない。
結局、その日の内に指紋を採ってもらうことになった。
自宅兼事務所に戻ると、デスクの上の目覚まし時計に目をやった。孝助の奴
が、「自由の利く職業でも規則正しく起きられるようにしないとな」なんて言
って、開業祝いにくれた物だ。自分も目覚ましは持っていたから、枕元ではな
く、デスクに置いている。
時刻は午後二時を回っていた。昼を食べていないが、食欲はあまりない。買
い置きのパンとインスタントコーヒーで済ませる。
食欲がなくても、喉に飲食物を通したことで人心地付けたようだ。同時に、
頭の傷がずきんずきんと痛むのを感じ始めたが、思考するのには影響ない。事
件に関して考えてみる。
犯人が誰かとか、桜木兄弟がどう関わっているかは、棚上げとする。ただ、
遠藤と名乗った男が一枚噛んでいるのは、間違いあるまい。遠藤初恵なる女性
の遺体が発見されたという事実は、警察では確認できていないそうだ。つまり、
私を騙して事件に巻き込んだ。目的は濡れ衣を着せるため。ではその生贄とし
て、何故、この駆け出しの探偵を選んだのか。
わざわざ依頼者のふりをして接近して来たほどだ、誰でもよかった訳ではな
いと思われる。知らぬ間に恨みを買っていたのだろうか。思い返すとしたら、
銀行員時代だろうが……殺人を起こしてまで濡れ衣を被せるくらいなら、私自
身を始末するのが理屈ではないか? 梅沢の命は奪ったが、私に対する恨みは
さほどでもないということなのか。どうもしっくり来ない。
桜木兄弟に疑いを向けるために、敢えて私を巻き込んだ。この考え方はどう
だろう。現実に、警察の疑いは最初こそ私に向いていたが、じきに桜木兄弟に
転じている。
孝助の性格なら、探偵事務所を開くのに合わせ、早速知り合いに宣伝してく
れたことだろう。その中に、悪意を抱く者がいたとすれば。新米探偵を巻き込
むことで、間接的に桜木兄弟を陥れようと画策……あり得なくはない。ただ、
この説だと、桜木兄弟の少なくとも一人にはアリバイが成立しないこと、そし
てそれを犯人が知っていることが条件になる。
多分、孝助は出社していてアリバイがあるだろう。ならば、翔太郎か。たと
えば、私と同様、偽の依頼でひと気のない、監視カメラの類もない山奥でも走
り回されていた(いる?)ら、アリバイは証明できない可能性が高い。現場を
密室状態にしたのも、私ではなく、密室を作ることのできる者、つまり鍵を所
有する桜木翔太郎を犯人と見せ掛けるためだったのではないか。
ここまでの推理が正しいとして、問題は、真犯人がいかにして現場の鍵を掛
けることができたのか、に移る。梅沢も鍵を持っており、それを奪ったという
線はあるまい。桜木翔太郎に濡れ衣を着せる目的から外れる。
他に妙案は浮かばない。刑事から情報を引き出したいところだが、それには、
自分が密室状況を崩したと打ち明けなければならない。今になって言い出して
も、恐らく再び疑われるだけで何も教えてもらえない恐れが大だ。「頭を殴ら
れたせいで、ぼーっとしたまま行動し、証言するのを忘れていた」で通るだろ
うか? 苦しい気がする。
行き詰まると、痛みがぶり返してきたようだ。ベッド、いやソファで横にな
ろうかと考えていると、電話が鳴った。のろのろとした動作で出る。桜木孝助
の声が耳に飛び込んできた。刑事が訪ねてきて、事件を知らされたらしい。
「大丈夫か? 具合は?」
「うん、平気だよ。それよりも、お兄さんのこと……」
「ああ、実は兄貴の行方が分からない。携帯電話もつながらないんだ」
「こっちは大丈夫だから。翔太郎さんの心配を」
「もちろん、心配してるさ。だが、おまえのことも心配だ。探偵業を始めた途
端、これじゃあ、俺のせいみたいじゃないか」
こういう考え方をする奴だったな、と何故か懐かしく思う。気にするなと答
えてから、鍵について尋ねる。
「事務所の鍵? ああ、兄貴が保管していると聞いたことある。梅沢って人に
は、渡していないはずだ。でも何で鍵なんか気にする?」
質問返しに、一瞬だけ逡巡し、正直に答えた。警察には言わないでくれと前
置きして。
「そうだったのか。聞いたのが俺じゃなかったら、容疑者の筆頭は兄貴とおま
えになるな、確かに」
「怒らないで聞いてほしいんだが、お兄さんと梅沢さんとの間に、トラブルは
ないよな?」
「以前、気が合わなきゃやってられない、と言っていたからな。稼ぎも取り決
め通りに分けていたそうだし、まあ、兄貴が梅沢さんに殺意を持つことはない
と思う」
「じゃあ、自称遠藤信男に心当たり、ないかな?」
記憶にある男の容貌を、口頭で伝える。
「うーん、分からないな。俺、勝手に宣伝したからな、おまえの探偵業のこと。
営業の何人かにも頼んだから、俺の知らない人物にも伝わっているんだ」
また済まなげな声になるのを止めるべく、話の接ぎ穂を探す。
「ああっと、そっちに行った刑事、徳井って人?」
「うん? 違う。確か、沼田(ぬまた)だったぞ。二人組で来るものとばかり
思っていたが、一人なんでちょっと意外だったな」
「そうか」
徳井刑事が出向いたのなら、後々、話が通じやすいかもしれぬと期待したの
だが。
「意外と言えば、俺のところに来た刑事にしても、おまえの会った刑事にして
も、割と物分かりがよくて、優しいのな。警察なんて、強面か嫌味な奴ばかり
だと思っていたよ」
「そりゃあ、事件解決の協力を求めてるんだから、犯人相手のときとは違うだ
ろう」
「いやいや、兄貴達から聞いた話だと、ひどいのもいる。依頼で墓の掃除をし
ていたとき、やたらと偉そうに近付いてきて、最初から不審人物扱いされたと
さ。依頼人に証言してもらって、信じてもらえたものの、それでも胡散臭がら
れて、帰るまで監視されたらしい。仕事にかこつけて、墓荒らしするとでも思
ってるのかね」
ピラミッドや名前のある古墳ならともかく、日本の一般的な墓を荒らしても
仕方があるまい。
「もしかしたら、捜査中だったのかもしれない。誘拐事件で、身代金の受け渡
し現場に張り込んでいて、犯人が現れるのを待ち構えていたとか」
「近くに林があるものの、開けた場所だと聞いたぞ。真っ昼間、身代金の受け
渡しをするには向いてない。半年ほど前の話だが、そういう事件もなかったは
ずだ」
「たとえばの話だよ」
「うむ。まあ、兄貴があとから思ったのは、掃除の前後の状況を依頼人に見せ
るために、写真をぱちりぱちり撮りまくった。あれが怪しまれたのかもしれな
いってさ。あ、時間だ。兄貴の行方が気になるんだが、この程度では仕事を休
めないんだよ」
こちらの返事が届くか届かぬかのタイミングで、電話は切られた。忙しいの
は分かるが、兄の行方(もしかすると安否)に不安がある状況なのだから、も
う少しどうにかならないものか。憤慨したあと、自分の勤め人時代を思い出し、
あきらめた。
そのことはともかくとして、鍵の問題がはっきりしてきた。犯人は桜木翔太
郎の鍵を用いたと思われる。孝助には言わなかったが、暴力に訴えて奪った恐
れすらある。幸か不幸か、警察は翔太郎を少なくとも重要参考人レベルと見な
し、探しているに違いない。敢えて鍵のことを伝えなくても、その探査能力に
差は生じまい。
最悪のケースを想定するなら、犯人はこのあと、桜木翔太郎を自殺に見せ掛
けて殺害し、その懐に鍵を戻すという段取りなのかもしれない。命を奪わずと
も、彼に梅沢殺しの罪を押し付けるつもりでいよう。となれば、どこか人目に
付かぬ場所で、翔太郎を監禁している可能性が高いのではないか。
急がねばならないのは分かるのだが、自分に何ができるか、妙案がさっぱり
浮かばない。が、家に閉じ籠もっていてもだめなのは分かる。監禁場所になり
そうなところを探して回るか? 宛てはないが、とにかく家を飛び出した。
と、外に徳井刑事がいた。道を挟んで、堂々と張り込み?をしている。
車へと向いていた足を、彼の方へと転じた。
「何ですか」
「護衛と言いたいところだが、それは半分でね。あとの半分は見張り。あなた
をシロと決定するにはまだ早いってのが、現時点の見解なので」
「仕方ないでしょうね。ただ、てっきり、あなたが捜査の中心なのかと思って
いましたが、見張り役とは」
「非番が消し飛んだのを斟酌されて、しばらくはあなたに張り付くだけでいい
となった。よろしく」
「ご家族もさぞかし、残念がっているでしょうね」
「その家族ってのが妻子のことなら外れだ、探偵さん。いないよ」
「それは……失礼を」
見た目から想像した年齢から判断したのだが、刑事の結婚は総じて遅いのだ
ろうか。
「別に、失礼じゃない。どこにでも転がってる話。刑事の妻でいることに着い
ていけなくなったとかで、離婚。あとには広すぎる一軒家が残った。結婚前に
身元調査するが、刑事の妻として適正があるかどうかまでは分からないものだ。
それよりか、紀邑さん。隠していることはないね?」
「え?」
結婚なんてまだ早いですよと答えていたら、大ぼけになるところだった。殺
人事件に関する質問に決まっている。
「何も」
「たとえば、桜木兄を庇って、何らかの嘘をついていないか」
「犯人でないと信じていますが、たとえ犯人であっても庇いやしません」
「つまり、己の保身のためになら、嘘をつくこともある訳だ」
「どういう意味ですか」
「見張りと言ったでしょうが。こうして話せる機会を、あなたが犯人である可
能性を見極めるために使わない手はない」
「……で? 私が何か隠したり、嘘をついたりしたと思う根拠があるんですか」
「往来でするには、相応しくない会話だと思いませんか? このあと特に何も
なければ、私の車の中で」
顎を振った先には、グレーの没個性な乗用車が。張り込み用の警察車両だろ
うか。とりあえず、私の車よりはランクが上である。同意し、乗り込む。
「停めた車の中で、男二人が長々と話し込むのも、意外と目立つので」
そう言うと、刑事は車を走らせ始めた。警察車両には無線が付き物と思って
いたが、それらしき機械は見当たらない。ひょっとすると、この車は張り込み
専用なのか。外から無線機を見られたら怪しまれる、という理由で載せていな
いんだろうと納得した。現代は携帯電話もある。
「ドライブも悪くはないですが、怪我を負ったばかりなんで。話を早く進めて
もらわないと」
「何か考えていること、おありなのでは?」
乗り込む前の会話とつながっていない。はぐらかすつもりか。
だいたい、こっちが胸に秘めている推理は、まだ明かせるタイミングにない。
「頭脳労働はしばらく休みですよ。それよりも、あなたが私を疑る根拠を」
「そうですなあ、たとえば、便利屋と探偵でつながりがなかったのか、とかね」
「はあ」
「あなたと便利屋の弟とは知り合いで、似たような仕事を始めるに当たって、
協力関係ができていて不思議じゃない。そこから、便利屋が狙われるような事
情を、実は知っているのではないのかと思ったんですがね」
「知りませんよ」
速度が上がるのを感じつつ、否定した。始めた経緯や孝助の兄とは面識がな
かったことは説明済みなので、繰り返さないでおく。
「本当に? 桜木兄から預かり物をしている、なんてことはありませんかね。
殺しの動機につながりかねない預かり物を」
二度、同じ返事をするのが面倒で、無言で首を横に振った。刑事は粘り強く
言う。
「現場には微妙だが、荒らした痕跡が認められた。そこで思ったのが、犯人の
狙いは、何か形ある物なんじゃないかってことです。便利屋の二人が、あるい
はどちらか一人が巧妙に隠したために、犯人は見つけられないでいる……」
「その何かを、孝助の兄が私に託した? 仮にそうだとしたら、私はとうに殺
されているでしょう。預かり物とやらを奪ったあと、気絶だけで許してくれる
ような犯人とは思えません」
「あなたを気絶させた段階では、あなたがそのブツを持っているとは、犯人は
考えもしなかったのかもしれない」
「穿ちすぎですよ、刑事さん」
「あなただって、知らない内にブツを預かる形になっているのかもしれない。
開業祝いなんて名目で、何かもらわなかったですかね」
「……目覚まし時計を」
人に話すと気恥ずかしさを覚える。だが、聞いている刑事の表情は真剣だ。
「ふむ。その時計、さっきの家に? 調べさせてもらってもよろしいか?」
「何かを隠せるようなサイズではないですよ。それに、くれたのは孝助だし」
「兄が弟に託したとも考えられる」
「協力は惜しまないつもりですが、いくら何でも考え過ぎでしょう。令状が出
たなら、素直に提出します」
口ではそう答えたが、帰ったあと、念のために調べてみようと頭の片隅にメ
モをした。
と、そのとき、徳井刑事がスーツのポケットに手をやった。携帯電話を取り
出す。車を停め、小声で何らかのやり取りを始めた。内容はさっぱり聞こえない。
通話はじきに終わり、電話を元のポケットに仕舞うと、刑事が振り向いた。
「すまない。緊急の招集が掛かった。すぐさま、署に戻らねばならない。あな
たを家に送り届ける暇がないんだが」
「それは……困ります。今朝の事件に関することなら、私も警察署に行っても
いいんですが」
「さっきの呼び出しが何なのかは、部外秘なので喋れません。――そこの喫茶
店で時間を潰していてくれませんか。署に着いたら、すぐに婦警を迎えにやら
せますから」
「しかし」
「何なら、お茶代もポケットマネーから出しますよ」
「……」
おかしい。うまく説明できないが、大きな違和感がある。ポケットマネー云
云の申し出もそうだが、先程、徳井刑事が電話を取り出したときの光景――脳
裏に懸命に再投影させる。
長らく携帯電話を持たない生活を続けてきたせいで、感覚が鈍っていたと思
い知る。今どきの携帯電話は、掛かってくればマナーモードにしていても発光
するんじゃないのか? その光った印象が残っていない。機種によって違うの
だろうか……いや、以前に見たじゃないか。病院で徳井刑事が電話を受けたと
き、ディスプレイは間違いなく光った。
掛かってきたふりをしたのだとしたら、何のために? 容疑者扱いするのな
ら、わざわざややこしい芝居を打たなくても、そのまま警察に連れて行けばい
い。第一、徳井刑事がやろうとしているのは、まるで逆。私を置いてけぼりに
しようとしている。
「どうします?」
急かすような口ぶりの刑事。
私は孝助の話を思い出した。墓地で警察関係者らしき男と遭遇し、嫌な目に
遭った兄達の話を。
もし、そのときの男がこの徳井刑事で、偶然にも今度の事件の担当になった
のだとしたら。――違う。偶然ではない。「非番で散歩中、パトカーの音を聞
き付けて現場に行ってみた」なんてことを言っていたではないか。大きな本部
ならともかく、半端な町の警察署に、捜査班がいくつもあるとは思えない。本
部からの応援が来る以前に事件に関わってしまえば、捜査陣に狙い通りに加わ
ることは容易ではないか。
「刑事さんの携帯電話を貸してください。タクシーを呼んで帰ります」
推測が当たっているとしたら、徳井刑事は私を下ろしたあと、警察に向かう
と見せ掛けて、私の事務所兼自宅に直行するはずだ。桜木孝助からもらった目
覚まし時計を調べるために。
「お茶代は出せても、タクシー代は厳しいですなあ」
「かまいません。自腹で帰ります」
「仕方がない」
刑事は携帯電話を開き、自ら掛けようとする。ごまかされてはまずい。
「あ、自分でやりますよ。贔屓にしている営業所があるので」
「やれやれ」
刑事はため息混じりに呟くと、電話をポケットに戻し、車を急発進させよう
とする。
飛び出すか、残るか。瞬時の判断を迫られた。
――続く