AWC お題>該当作なし 2   永山


        
#260/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  06/04/30  23:56  (444)
お題>該当作なし 2   永山
★内容
「本格推理の中には、お伽話めいた作風の物もありますが、登場人物の行動に
不自然な点があれば、きちんと指摘しないと、フェアじゃないわね」
「そう言うのでしたら、全部の候補作をもう一度取り上げ直さなくちゃ。西田
さん、時間は大丈夫?」
 編集長に目をくれる中畑。返答は、イエスだった。
「ただ、今日のところはこれくらいで切り上げたいですね、主催社の立場から
言えば。明日は午前中、作者の方々から反論の場を設ける予定になってますが、
その前に、少し時間を取ることでいかがでしょう」
「かまわないんじゃないですか」
 綾川が気楽な調子で応じた。中畑も首を縦に振り、同調の意を示す。源之内
は、「後の進行に支障を来さぬ程度なら、臨機応変、好きなように変更してく
れたまえ」と、腕組みをして背もたれに身体を預ける。年齢から来るものか、
疲れが出た模様だ。
 残る福原は、遠慮がちに手を挙げ、西田に問い質した。
「私達はかまいませんけど、候補者の皆さんはよろしいんでしょうか。そちら
の方が気になるわ。下手をしたら、あなた達の反論の時間を削ってしまう可能
性だってあるのだから」
 と、四名の作者達を心配げに見下ろし、それから西田に顔を向ける。編集長
はすぐさま、候補者達の意向を聞いた。
 反対意見は出なかった。雰囲気に流されたのではなく、各人の揺るぎない信
念からの返事だと思えた。

 初日の公開選考会が終了してから、およそ三十分後の午後六時、夕食となっ
た。大食堂に出て来ての食事が原則のようだが、お偉方の幾人かは自室で摂っ
ているらしく、姿が見えない。その数、十数名に上るだろう。
「面白かったけれども、想像していたほど突っ込んだ議論じゃなかったなあ」
 若山は先ほどの選考会の印象を述べ、隣席の余田に感想を求めた。食事はバ
イキング形式。豊富な品数の中から好きな物を好きなだけ取って、皿に盛り、
トレイで自ら運ぶ。
「まあ、いくらプロとは言え、作者当人を前に、ひどく厳しいことも言えない
でしょうしねえ。それと、報道陣対策じゃないですか」
「と言うと?」
「選考会でネタバラしして、深く突っ込んだ議論を展開したとしましょう。そ
れをそのまま記事にされたら、まずいでしょう。悪くすると、本の売れ行きに
も響きかねない。加えて、現段階ではどれが受賞作になるか分からないのだか
ら、発言のセーブのしようもない」
「なるほど。書評欄を持つ新聞の中には、平気でネタをバラす、悪質なところ
もありますしね」
 その“悪質な”新聞社の記者が来ている可能性を思い、声を潜める若山。
 同時に、背後で人の気配がしたので、心底慌てた。本当に新聞記者に聞こえ
てしまったか?と、肝を少々冷やしながら、ゆっくりと振り返る。男女のペア
が、並んで立っていた。
「失礼。同席してもよろしいですか」
 穏やかさを仄かに漂わせた綾川有人は、テーブルの周りを少し移動すると、
トレイから片手を離し、若山の正面の席の背もたれに掛けた。その後ろに付き
従うかのようにいるのは、中畑英実だ。
「え――っと、も、もちろん」
 面識のない作家や評論家から声を掛けられ、気持ちが上擦る若山。余田に目
を向け、「いいですよね?」と尋ねる。余田も裏返り気味の声で、「どうぞ。
光栄です」と二人の専門家に返事した。
「何故、我々と……? 他にいくつか空席がありますが」
「その前に、確認を。あなたは若山剣一さん、あなたは余田満夫さんで間違い
ありませんね?」
「はあ」
 名前を知られていると分かり、ますます困惑する。若山も余田も首を傾げた。
 綾川が悪戯げな笑みを口元に乗せ、両手を組んだ。
「不思議そうな顔をされてますね。編集部の人間に教えてもらったんです。例
の犯人当ての件ですよ。作者として、あなた方に興味があって。あははは、子
供っぽくてすみません」
「ああ、そうか!」
 この素晴らしい空間に招かれた端緒を、若山はすっかり失念していた。余田
の方はとうに思い当たったらしく、ばつの悪そうな表情をなしていた。
「どんな頭脳の持ち主なのかなと、お会いするのを楽しみにしてました。残念
ながら、もうお一方は欠席だそうですが、いやあ、こうして会ってみると、確
かに聡明そうだ」
「ご冗談を。見た目で分かるはずもないし、それに私は運がよかっただけで」
 余田が懐に右手を入れながら、左手を激しく振った。名刺を渡すべきか否か、
迷っている風だ。話をつなぐためだろう、この歯医者は若山を指差した。
「こちらの若山さんこそ、本当に優れた推理頭脳の持ち主ですよ。あの解答文
は見事だったと、心の底から思います」
 若山は急いで首を左右に振った。もう食事どころではない。コップの水を飲
み干し、それでも足りなくて湯呑みの熱い茶に口を着けた。喉の渇き――精神
的な渇きがやっと落ち着く。
「自分は単なるマニアに過ぎませんよ」
 案外、普段通りの声で応対できた。これで度胸が据わった。
「たまたま、閃いただけです。綾川先生の作る問題が解けたのも、あの『ロー
リングクレイドル』が初めてでして、それまで綾川先生の作品を読んでも、探
偵の先を越せたことはただの一度もありません」
「運がよかっただの、閃いただのと言われたら、喜んでいいのか悲しんでいい
のか、判断に悩むね」
「全く」
 綾川と中畑は顔を見合わせ、苦笑で頬を緩めた。
「いえ、再現Vのナレーターが犯人だったなんて、意外性たっぷりだし、その
上、ロジックも複線を丁寧に拾っていって、やっと分かる緻密に計算されたも
のでした。感動しました」
「ありがとう。ところで、正解には独力でたどり着いたのかな」
「と言いますと?」
 内心、どきりとしながらも平静を装う若山。
「別にどうってことないんだけどね。理想の名探偵は、やっぱり、一人で難事
件に立ち向かうべきだと思ってる訳。家族に相談したりとか、インターネット
でわいわい検討したりとかも結構だが、作り手の美意識からは外れている」
「ああ、なるほどー」
 もっともらしくうなずき、若山は勢いに任せて言葉を続けた。
「僕も同感です。他の人物を煙に巻き、一人先に真相にたどり着いてこそ、名
探偵ですよね。自分自身、『ローリングクレイドル』を考えてるときは、孤独
でした。ははは」
「その努力が実ったと」
「まあ、結果的にそうなりました」
 嘘だ。
(ネットの掲示板で、みんなで気付いた点を挙げ、色んな角度から検討したか
ら、やっと真相が分かったんだ。自分一人の力じゃあ、時間が足りず、恐らく
完全正解に到達することは不可能だったろう)
 忸怩たる思いに心がちくちくと痛む反面、ばれるはずないと高を括っている
部分も、どこかにあった。若山は悠然たる動作に努め、湯呑みに手を伸ばした。
「頼もしいな。将来、犯人当て第二弾があったときも、その調子でお願いしま
す。ふふふ」
 楽しげに言うと、食事に本腰を入れ始めた綾川。
「このあとのコンベンションは、何の部屋に参加するつもりです?」
 フォークでパスタを絡め取りながら、中畑が聞いた。そのパスタを口に入れ
つつ、視線が余田、若山の順で移っていく。
「私は、叙述トリックの部屋を一番に希望してます」
 まず、余田が答えた。きれいな並びの歯を覗かせ、続ける。
「将来――といってもだいぶ先の話ですが、隠居したらミステリを書いてみよ
うと朧気に夢想してまして、できることなら叙述トリックを駆使した作品を仕
上げたいと目論んでます。その勉強の第一歩になれば、といったところです」
「ほほう。それは楽しみだ。と同時に、恐ろしくもある。いずれ、ライバルに
なる訳ですからね」
 綾川が愉快そうに笑う。そしてコップを持った手で、若山を示した。
「あなたは?」
「さ、作家になりたいかどうかですか?」
「いえいえ。それも興味なくはないけれど、まず知りたいのは、どのコンベン
ションへの参加を希望されるのかなってことですよ」
 質問の取り違えに気付き、若山は上気して火照りを覚えた。赤くなったであ
ろう顔を隠すために、額を片手で掻く仕種を挟んで、「あ、そうでしたね」と
ごまかす。
「叙述も捨てがたいんですが、やはり本格好きとしては、密室が気になって仕
方がありません」
「密室には未来がない、なんて空気が蔓延して、閉塞感を味わうだけかもしれ
ませんよ」
「ありそうな話で、恐いなあ。それでも、密室は本格の故郷ですから」
「まあ、行き詰まっているのは、密室トリックに限らないからね。コンベンシ
ョンの意義を否定するようで後ろめたいが、各種トリックをテーマに掲げた議
論には、多くを望めそうにない。いかに新しい謎を創造していくかに目を向け
るべきだと思う」
「作家の立場からすれば、当然の意見でしょうけど」
 中畑がからかい気味に口を挟む。
「そう遠くない将来、その言葉があなた自身の首を絞めることになるかもしれ
ませんよ」
「手厳しいな。まだまだ枯渇せず、こんこんと湧き出すはずなんだけどねえ、
我が知恵の泉は」
 綾川はそう言うだけあって、デビュー以来、何らかの意味で新しいタイプの
謎をメイントリックに据えた長編を、最低でも年一作のペースで上梓し続けて
いる。さすがに短編では、典型的な密室物、典型的なアリバイ物が多々あるが、
十年目になる今年も、創作意欲は衰えていないようだ。
「とにもかくにも、同じ部屋になったときは、よろしく」
「え? 綾川先生はどちらの部屋に?」
 ついつい、「先生」と付けてしまう若山。
「私達は出入り自由ですから、あちこちを覗くつもりでいるんだけど、議論が
白熱すれば、一箇所に留まるかもね」
「そうなんですか。あ、じゃあ、候補者の方達と同席するかもしれない訳だ」
 余田が言って、胸の高さで人差し指を天井に向けた。面白いことに気付いた
己を自画自賛する風に、にやりと笑う。
「さっきの選考会のあの発言が気に入らない、なんて食ってかかられたら、一
悶着起きる場合も?」
 対して、「それはないですよ」と、やや呆れ口調で応じたのは中畑だった。
「公の場以外で、選ぶ側と選ばれる側の接触を許していては、トラブル云々以
前に、選考結果に関して余計な疑いを招きかねないでしょう。この食堂に、候
補者の皆さんの姿がないことに、お気付きでない?」
「おお。言われてみれば」
 大げさな動作で、首をぐるりと巡らし、見回す余田。若山も、この歯科医よ
りは控え目に確認を行った。綾川が口元を隠しながら言った。
「皆さん、個室で食事を摂っているはずですよ。原則として、選考が終わるま
で自由に出歩けない」
「そりゃあ、きついですなあ。ミステリマニアなのに、このあとのイベントに
参加できないとは。受賞できるかどうかの瀬戸際で、気もそぞろかもしれない
が、それにしても……」
「初の試みなんで、主催社側も手探りの部分があるみたいでね。思うに、一日
で受賞作を決定しちゃった方がいいんじゃないかな。この状態で、二日も待た
されるのは精神衛生上、よくないに決まっている」
 そう述べた綾川は、どこか愉快そうだ。多分、食事に満足したのではなく、
自分のときは同じ立場に置かれなくてよかったと考えたのだろう。若山は作家
の機嫌がよい内にと、おずおずと切り出した。
「あの……綾川先生ご自身のこと、伺ってかまわないでしょうか」
「聞くのはかまわないけれど、答えるかどうかはこちらの自由ってことで。答
えた場合も、それが嘘でないとは保証しない。こんな条件下でよければ、何で
も聞いてください」
 箸を持つ手を止めて、両腕を広げた綾川。若山が呆気に取られていると、当
の作家は首を右に傾げて、笑い声を立てた。
「失礼。ジョークのつもりでしたが、分かりにくくて相済みません。答えられ
る範囲で、お答えしましょう。作家たる者、読者も大事にすべきだ」
「それじゃ、遠慮なく」
 安堵した若山は、ここぞとばかりに、質問を矢継ぎ早に繰り出した。その語
勢は、中畑英実から「自分だって、顔写真を公開してない、謎の翻訳家のつも
りだったのに」と僻まれるほどだった。

 食後の夜は、テーマ毎に小部屋に別れてのコンベンションが、同時進行で催
され、更けていく。
 若山は叙述トリックと密室トリック、どちらの部屋に参加しようか、間際ま
で迷った。結局、自らでは決断できず、余田が叙述トリックの方に参加を決め
たので、事後の情報交換を約して密室を選択した。
 密室の部屋には、いわゆる業界人の姿は見当たらなかったが、盛況を呈して
いた。席は全て埋まり、目算でざっと五十名はいるであろう。ミステリのため
には仕事を休み、家族サービスもせず、普段使わない大金を注ぎ込むような人
種が集まっただけあって、まだ正式にスタートしない内から濃い話が飛び交う。
「少なくとも、糸と針を利したような密室トリックは、もう願い下げだね。や
るんだったら、心理的な隙を衝いた密室にしてもらいたい」
「結局のところ、始祖ポーと同時にスタートした密室トリックは、これまで書
かれ過ぎた。その結果、今日の先細りに到っている」
「そうは言っても、飽きる飽きないを基準にすれば、密室トリックが一番飽き
ませんよ。他の定番トリック、たとえばアリバイなんかや、日常の謎派に比べ
て、密室の謎は読者を惹き付けます。恒常的にね」
「でしょうね。多分、参加者数を比べてみても、ここが一番多いんじゃないか
なあ」
 雑談が収まったのは、進行を担当する「P.E.」編集者がマイクを通して
お静かに願いますと三度呼び掛けたあとだった。
「では、プログラムに沿いまして、密室トリックについての講演から始めます。
お話は六戸友毅先生。ここにおられる方々に改めて説明するまでもないとは思
いますが、六戸先生はミステリの評論家であると同時に研究家でもあり、その
トリック蒐集と分析の豊富さはつとに有名です。ご成果は弊社刊の『知の無知』
他三冊の著書にまとめられ、いずれも好評を博しています」
 短い紹介のあと、最前列の席にいた長身だが小太りの男が立ち上がり、振り
返った。黒縁眼鏡と鼻髭が印象的だが、ぱっと見は冴えない中年男性といった
風情だ。ただ、じっくり観察すれば、目つきの鋭さに気付くだろう。
 ノーネクタイ、灰色のスーツという出で立ちの六戸は、軽く頭を下げてから、
意外に優しい声で「ご紹介にあずかりました、六戸友毅です」云々と簡単に挨
拶を済ませ、上座の椅子に着いた。すぐ前にテーブルがあり、その上にはコッ
プと水差し、それと講演の原稿か資料だろう、少々の紙の束が載っている。
 そして、ご質問等は先生のお話が終了後に願いますとの注意が担当者からあ
り、いよいよ始まった。
「えー、『密室について』という味も素気もない演題ですが、これにはちゃん
と意図がありまして。たとえば『密室概論』なんて付けると、密室トリックの
歴史を振り返らなくてはならない。そんなことに時間を取るほど、皆さんは初
心者じゃないでしょうからな」
 片方の肘を机につき、リラックスした態度で喋る六戸。
「その辺はすっ飛ばして、密室トリックの現状が抱える問題とそれを乗り越え
る策というか“しあん”――試みの案でもわたくしの案でもいいのだが――を
提示してみようというのが、本論の目的です。始まるまでに皆さん盛んに喋っ
ておられた中にも、問題は何度も口に上っていた。今一度、はっきり言ってお
きましょうかね?」
 言葉を切り、にやりとする。効果を狙い、楽しむかのような顔つきに、聴き
手側もつられて微苦笑を浮かべる。
「一言で表すなら、飽きた、となるのかもしれないが、それでは足りない気も
する。何故なら、それでもなお密室に心惹かれるマニアは大勢いるのだから。
たとえば我々みたいに」
 ちょっとした拍手で室内が湧いた。
「確かに、解決が針と糸による操り人形紛いの遠隔操作では、その推理小説を
壁に投げつけたくなる。風呂場の密室で排水孔を使うとか、雪の密室で足跡が
実は後ろ向きに歩いただけでした、とかいうのも同様。密室として駄目だ。何
が駄目なのか。理由の全てではないが、一つとして考えられるのは、独創性が
ゼロであることだと思うんですよ」
 唐突に呼び掛け調に戻る六戸。
「完全にゼロとは言いにくいが、まあ、ゼロコンマ以下であると断言してもか
まわんでしょう。一から全く新しい物を創造するのは難しい。極論すれば、密
室自体が他人の真似をした謎なんだから。今後、斬新で独創的な密室トリック
が現れる可能性は非常に低いと見なさざるを得ない。勢い、既存トリックの組
み合わせや変形といったバリエーションに頼ることになる。けれども、下手に
頼ると、駄目密室の系譜に一つ付け加えるだけに終わる。繰り返し言っている
ように、バリエーションに頼るにしても、独創性を少しでも多く織り込む必要
があります。じゃあ、独創の度合いをアップするにはどうすればいいか。たと
えば、こういうのはどうでしょう。針や糸を持ち込めないはずの屋敷で針と糸
を使ったとしか思えない密室を出現させれば、それは新しい謎と言える、と私
は考える訳ですよ」
 聴衆の一角から関西弁で「針や糸を持ち込めへんてどんな状況や?」と突っ
込みの声が上がり、笑いが起こる。六戸は形だけの拍手をして、髭を親指の腹
で撫でた。
「素晴らしい指摘だ。が、そこも作者の腕の見せどころでしょう。ヌーディス
トのビーチパーティとかね。開発が始まったばかりの月面基地で、物資の持ち
込みが厳しく制限されているなんてのもあるかなあ」
 後者のSFめいた案は本人も自信がないらしく、音量が小さくなる。
「先ほど挙げた使い古された他の例も、排水孔に鼠の死骸があって使えなかっ
たとすれば改良だし、足跡が雪洞の天井にまで続いていたら新しい謎になる」
 声の大きさを元に戻して一気に喋ると、六戸は水をコップに注ぎ、三口ほど
飲んだ。
「バリエーションのこしらえ方を言ってきましたが、お気付きのように普遍性
がない。個別の事例に対応するのは、新しい物を生み出すのに近い苦心が必要
となるでしょうな。ただ、ここで一つ提案したいのは、凶器及び鍵の入手に関
する密室です。これはうまく開拓していけば、新しい密室のジャンルになるか
もしれない、と言っては自画自賛が過ぎるかな」
 資料片手に立ち上がった六戸は、ホワイトボードに向き直った。ペンを手に
取り、繊細な女性が書きそうな流麗な字で「死体」だの「凶器」だのと物騒な
単語を綴っていく。
「たとえ被害者が野原の真ん中に倒れていたとしても、鍵でないと誰も入れな
い部屋に飾ってあった短剣が凶器なら、密室殺人と言えないか。無論、凶器の
あった部屋は犯行後も密室であることが条件になる。凶器までもが密室内に存
在していればなお難解になって、よいね。
 また、鍵で施錠することで作られた密室は通常、単純すぎて密室としての謎
を持続し難い。が、その鍵を使えた人が非常に限られた状況設定ならば、長編
をも支え得る謎になろう」
 熱く語る六戸。ああ、この人は本当に密室トリックが好きなんだなと思わせ
る熱っぽい口調だった。

 充実した時間を過ごせた。そんな満足感に浸り切り、半ば夢見心地で自室に
戻った若山を、余田が待ちかまえていた。
(廊下で出迎えとは、この人も相当のミステリマニアだ。話をしたくてたまら
ないんだな)
 なんて思いつつ、片手を挙げた若山に、余田は足早に駆け寄った。
「何か噂、聞きませんでしたか?」
「――噂って何です?」
「ああ、そちらの耳には入ってないと……。確かかどうか、さっぱり分からな
いのだが……」
 前置きをした余田は、辺りを憚るように視線を左右に振った。少し思案し、
「続きは、私の部屋でどうです?」
 と促してくる。若山は無論、オーケーを出した。部屋に入り、飲み物を用意
したところで、余田は始めた。
「コンベンションからの帰りしな、今朝、通じがなかったことを思い出し、ト
イレに行ったのですが……個室に入っていると、、外から会話が聞こえて来ま
して。毒殺トリックの部屋で、本当に毒殺事件が起こったとかどうとか」
「え? ……ご冗談でしょう?」
 相手の表情を伺いつつ、ほほを緩めてみせた若山。だが、余田の表情は硬い。
「私も事実か否か、知りません。ただ、内緒話のようにひそひそ声を交わして
いたのは、間違いなく担当者同士だった。深刻な口ぶりでね」
「じゃ、じゃあ、事実だとしましょう。誰が死んだと?」
「源之内さんと聞こえた。他に似た名前の人がいなければ、恐らく、源之内平
蔵氏でしょう」
 若山はベテラン作家の姿を思い浮かべた。年は食っていても、矍鑠たるもの
で、選考会の席上でも元気いっぱいに見えた。
「源之内氏が……で、でも、全然、表は騒がしくなってませんよ? 普通、救
急車を呼びますよ。仮に呼吸が止まっていても、蘇生を試みるもんだ」
「この施設に常駐の医者がいるのか、あるいは死亡が明白で、警察に通報すべ
きか否か、協議中なのかもしれない。事件性の有無を判断するのは難しい」
「毒殺なら、事件でしょう」
 眉根を寄せた若山に、余田は軽く首を振る。前言撤回のニュアンスらしい。
「ああ、それは会話していた二人の言葉の綾と思いますね。毒殺の部屋で源之
内氏が倒れたので、短絡的に毒殺と結び付けた、と」
「……余田さん。我々で議論していても、埒が明きませんよ。出版社の誰かを
掴まえて、問い合わせるのが近道だと思います」
「そのつもりで、念のため、あなたも噂を耳にしたかどうかを伺ったのですけ
どね。聞いたのが私一人だとしたら、困りましたな。あのとき、トイレの個室
からすぐに飛び出して、聞けばよかった」
 余田がかすかな苦笑を交えたのは、実際には用足しが終わっておらず、飛び
出そうにも無理だったということか。
「このままでは落ち着かない。聞きに行きましょう」
 若山は強い調子で言った。
「間違いだったら、それでいいじゃないですか。この場合、笑い話になるに越
したことはありません」
「そう……ですね。まさか、秘密を知ったからと言って、我々が脅されること
もありますまい」
 ジョーク付いてしまったか、余田は再び微苦笑を浮かべ、腰を上げた。

 この保養所の従業員を見かけたが、聞いても答えられるかどうか、心許ない
と判断し、見送った。主催サイドの人間を掴まえるべきであろう。
「ただ……」
 廊下を相前後して静かに歩きながら、余田が言う。
「我々のような一般参加者が聞いたところで、正直に明かしてもらえるもので
すかね? 事件だろうが、単なる事故だろうが、騒ぎを広めぬために、箝口令
が敷かれて当然だという気がしてきた」
「その手の心配は、そうなったときにしましょう」
 若山は早口で答え、歩みも速めた。余田の隣に追い付き、少しばかり笑みを
浮かべて続けた。
「もしも殺人だったら、我々にも知る権利がある。自分自身の命に関わるかも
しれませんからね」
 不謹慎かもしれないが、どことなくわくわくしている自分がいる。興奮と不
安が競り合って、呼吸を荒くしている感じだった。
「――あの腕章」
 T字に交差する廊下、その交点を横切った男性の左腕に、彼が荒耕社の人間
であることを示す腕章があった。年若い外見で、大学を出てまださほど経てい
ないと思われた。
「若い衆には事情が伝えられていないかもしれない。トイレで聞いた声は、も
っと歳だった気がする」
 余田が暗に、もっと年長者に当たろうと意思表示するが、若山はその台詞を
振り切った。ついさっきまで、先導するかのように前を歩いていたのに、急に
弱気の風が吹いたようだ。あるいは、その言葉の通り、トイレで聞いた声の主
を探していたのかもしれぬ。
 だが、若山は余田の台詞を振り切った。一刻も早く、問い質したくてたまら
ないのだ。交点まで駆け足で到達すると、さっきの編集者――多分、編集者だ
――が歩いて行った方へ、身体ごと向き直って声を張ろうとする。
 ところが。
「あ? あれ?」
 編集者の姿はどこにもなかった。いや、T字の横棒に当たるその廊下に、若
山とあとから来た余田以外に誰もいない。両サイドにドアがいくつか並び、突
き当たりには非常階段に通じるのであろう、ガラスの入った金属製の扉が見え
るばかり。
 しかも、廊下を横切る形でロープが腰の高さに張られ、立入禁止の札が掛け
られている。ご丁寧に、きちんと印字されたアクリル板か何かだ。このロープ
のおかげで、T字の左上端には全く進めない格好である。
「おかしいですね」
 若山が説明せずとも、余田も状況を承知している様子で、首を傾げた。
「これくらい、跨げない高さじゃないが……」
 と、実際に跨ぐ格好だけをした余田。若山は念のため、しゃがんでみた。下
をくぐることも可能だ。
「この立入禁止は、我々外部からの参加者にだけ当てはまるもので、荒耕社の
人は関係なく出入り可能なのかも」
 考えを述べつつ、思い切ってロープをくぐった。
「あんまり勝手なことはしない方が……。他の人に見つかったら、もめる種だ」
「いや、だって、さっきの人があの部屋のいずれかに入ったのは間違いないん
だし、ちょっと話を聞くぐらいはいいでしょう。何せ、緊急の用件を抱えてい
るんですから」
 自分への説得の意味も込め、若山は強い口調で言い切ると、手近のドアをノ
ックする。
「一部屋ずつ、見て行くつもりで?」
 余田の呆れたような声を右肩で受ける。若山は室内からの反応がないのを見
て取ると、ノブをがちゃがちゃさせた。
「そうするしかないでしょう。――鍵が掛かっている。当然か」
「やりすぎだよ、若山さん。他の人を当たろう」
「そうですか? ますます怪しくなったと思ってます。この部屋のどこかに、
荒耕社の人達が集まって、善後策を協議しているんじゃないかってね」
 会話をしながら、ドアを次々にノックする若山。やはり返事はなかったが、
二部屋目以降の鍵は掛かっていなかった。すっと開いたドアの向こうは――が
らんとしていて空間があるばかりだった。それが続く。
 しばし、黙って見守っていた余田が、気抜けしたように息をついた。
「協議しているならしているで、かまわないんじゃないかな。いずれ、正式な
発表があるだろう」
 仕方ない体で、あとをついて歩く余田。いささか呆れ気味なのは、若山にも
分かっていた。それでも敢えて、理由付けをする。
「隠蔽される可能性もゼロじゃないですよ。他殺を事故死や病死にしてしまう、
とか」
「何のために? いくら本格好きでも、現実の出来事には明白な動機が欠かせ
ない」
「そりゃあ、いくらでも考えられますよ。荒耕社にとって大事な人が犯人、な
んてケースだったら、社を挙げて庇うでしょう」
「まさか」
 余田はこらえきれなくなった風に、ぷっと噴き出した。
「とてもありそうにないが、一歩譲ってあるとしても、社長や会長クラスでし
ょう。そういう肩書きの人達は、この場にいないはずだ」
「稼ぎ頭の大作家先生が犯人なら、庇うんじゃありませんか?」
「そんなことをするほどの大きなメリットがあるかな? むしろ、殺人犯とし
て警察に突き出して、その模様を雑誌に掲載すれば、大幅な売り上げ増が見込
めるね。ははは」
 全てのドアをノックしたが、応答はどこからもなかった。鍵も、最初の部屋
以外は開け放してあり、室内に誰もいないことが確かめられた。
「ここまで来たんだから、最後まで――非常口も調べさせてください」
 先の編集者が何らかの理由で姿を隠す必要があったとしても、それは一番手
前にある部屋がせいぜいであり、他の部屋へは無論のこと、非常階段へ出よう
としたのであれば、若山の目にとまらないはずがない。
 実際、外へ通じるドアは堅く施錠された上、埃が黒くこびりついていた。長
らくの間、使われていないのは明白だった。
「これで確信が持てました」
 若山は最初にノックした部屋の前へ、急いで引き返した。余田はゆっくりし
た足取りで、あとに続く。
「先程我々が見かけた男性は、この部屋に入り、中から鍵を掛けた。そうとし
か考えられません」
「人間消失なんて、現実に起こるとは思えないから、それが妥当だろうね。鍵
を掛けた上に、ノックに返事しないってことは、よほど大きな問題が持ち上が
って、話し合っているんだ。我々は待つだけだよ」
「しかし……こんな端っこの部屋でしなくても、一階の大きな部屋を使えばい
いのに。気に食わないなあ」
「そうまで言うのなら、他の社員を呼んで、そこの部屋のドアを開けるよう、
頼みなさい。すまないが、私はもう付き合いきれないよ」
「あなたが言い出したことじゃないですか、余田さん」
「人間消失となるとねえ」
 大げさなほどの苦笑を浮かべた余田。ミステリは本格好きでも、現実主義ら
しい。疲れたのか、ズボンのサイドポケットに両手をそれぞれ突っ込み、嘆息
混じりに続ける。
「私は、その部屋で協議していると判断した。隠蔽工作などはなく、真っ当な
善後策がね。それなら待とうと思う。まあ、あなたが他の編集者を見つけて、
源之内氏の安否を尋ねるというのなら、付き合いましょう。そこの部屋に闖入
するのは御免です」
「……」
 若山が迷っているところへ、第三者の声が届いた。目をやると、T字の交点
に、小男が立っていた。腕章から、やはり編集者と知れる。話し声を聞き付け
たようだ。
「どうかされましたか? ここは立入禁止で、勝手に入られては困るのですが」

――続く





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