#261/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 06/04/30 23:58 (448)
お題>該当作なし 3 永山
★内容
近付いてきた男は、粘っこい口調で注意してきた。丸顔に丸眼鏡と、愛嬌の
ある容貌だが、目は、早くこの面倒を片付けたいと訴えている。
言葉を選ぼうと間を取る若山に先んじて、余田が口を開いた。
「源之内氏が倒れたかどうかしたと小耳に挟みまして、真偽も含めて気になり
ましてね。荒耕社の方を探していたところです。ご存知ありませんか?」
「その件はまだ……」
顰め面をなし、語尾を濁す編集者。若山はすかさず、「あそこで協議してい
るんですか?」と、鍵の掛かった部屋を指差した。
編集者は見上げる仕種をし、次いで、問題のドアへ視線を移した。
「いいえ。何を根拠にそう思われたのか分かりませんが、そこはずっと閉めて
います。だからこそ、立入禁止にしている訳ですし」
「……何故、あの部屋を閉鎖しているんです? さっき、編集者らしき若い人
が、入って行ったと思うんですが」
「えっと、そんなはずは……」
小男編集者は、二人の間を割るようにして、当の部屋に向かうと、ノブを回
そうとしてみせた。
「ご覧の通り、鍵が掛かっています。あることが起こって以来、ずっと閉めて
おりますから」
「それは入った人が、中から鍵を掛けたのでは」
「そんなことをする理由がありませんよ。少なくとも、会議ができるほど、こ
の部屋は広くないし、私の耳に入っていないというのも……」
「それじゃあ、開けてくださいよ」
食い下がる若山に対し、編集者は意外にもあっさりと承知した。
「私は胡桃沢と申します。イベント中、保養所内の使わないスペースの管理を
受け持っております。只今も見回っていたところで、鍵ならここに」
何故か得意げな物腰になり、胡桃沢は懐から鍵の束を取り出した。少し時間
を要したが、該当の鍵を見つけ、手早く鍵穴へ。
「どうぞ」
軽く頭を下げながら、ドアを開けて、中を見るように促す胡桃沢。若山は気
後れを覚えた。すでに結果は見えていると思ったのだ。何故なら、胡桃沢も室
内の様子を一瞥したはずであり、その落ち着き払った態度から、異変など起き
ていないことは明白だからである。
無論、そんな理由だけで部屋を見るのをやめはしない。この編集者も“ぐる”
である可能性、ゼロとは言えまい。若山は中に入った。
「……」
すぐに嘆息した。誰もいないのは明白だった。人影はなく、隠れるところな
どどこにもない、がらんとした居室に過ぎなかった。どうやら、若山達に宛が
われた部屋と同じ造りらしい。
「納得されましたか」
編集者の物腰が、ことさら慇懃丁寧になったようだ。振り返って表情を伺う
と、にこやかに口をU字にしていた。
「念には念を入れたい。窓を……」
最早、悔し紛れに過ぎない台詞を吐き、窓ガラスへと歩を進め、そこのクレ
ッセント錠がしっかりロックされているのを視認してから、くるりと引き返し
て来た。そして俯きがちになり、胡桃沢編集者の前を通り抜け、外に出た。
「さすが、疑り深いですね。ミステリマニアの方には、これも誉め言葉になり
ましょう」
胡桃沢の台詞が、皮肉に聞こえた。
空騒ぎに、疲労感がどっと押し寄せた。その割に眠くはならず、思考がぐる
ぐると同じ場所を回っているような感覚があった。
若山は404号室のベッドで仰向けになり、片手で額を押さえていた。隣室
を訪ねる気力も萎えた。
いや、それよりも、405号の余田を多少、恨んでもいる。彼に妙な噂話を
吹き込まれたおかげで、こんなことになった。人間消失の件は若山自身の早と
ちりだったようだが、源之内が死んだ云々は全くのでたらめなのではないか。
(まさか、余田さんが僕を陥れるために、嘘をついたということも……?)
妙な考えを思い付いてしまった。だが、疲れているせいだという一言で片付
けるには、案外、説得力がある思い付きのように感じられる。
(だとしたら、あの人の態度も納得が行く。編集者に聞いてみようと言い出し
た癖に、途中で急に消極的になったからな。動機は……『ローリングクレイド
ル』で一席を獲った僕に恥をかかせる。ひょっとしたら、僕が独力で解いたの
ではないことも、感づいているのかもしれない。許せない気持ちを抱いたとし
ても、おかしくない)
一瞬、この推理を気に入った。だが、すぐに疑問がわく。源之内のことだ。
彼が倒れたとの噂を口にした際、胡桃沢編集者は語尾を濁した。否定しないの
は、噂が事実だからではないか。
(そうなると、余田さんは嘘を言ってないことになる。消極的になったのは、
大人の判断てやつなのか)
源之内の生死はともかく、倒れたか否かを確かめる方法はある。毒殺トリッ
クの部屋に参加した人を見つけ、聞けばいい。箝口令が敷かれているかもしれ
ないが、こちらも承知している素振りを見せれば、案外容易く聞き出せるので
はないか。
そうと決めたら、居ても立ってもいられなくなった(元々、横たわっている
のだから、そのまま動かなければ条件を満たすが……)。若山は鏡の前で身だ
しなみをざっと整えると、廊下に出た。何となく、忍び足になったのは、隣室
を気にしたせいかもしれない。
時刻は夜の十時半を少し回ったところ。就寝するには早すぎる。きっと、あ
ちらこちらでミステリ談義の花が咲いているに違いない。部屋の中でやられて
はお手上げだが、一階のロビーか、食堂なら、聞き耳を立てれば、どんな話題
なのかも分かるだろう。早速、エレベーターで一階に降りた。
扉が開くと、早くもざわめきが聞こえる。ロビーにいくつかあるテーブルと
椅子は、若山の思惑通り、ミステリ談義の花で埋め尽くされていた。
人を探すふりをしながら歩いて回り、各テーブルの話題を把握すべく、耳に
意識を集中する。結果、テーブルで話すグループに、毒殺トリックの部屋にい
た人物を、確信を持って特定することはできなかった。その代わり、通り掛か
った二人組が、毒殺トリックに関する会話を交わしていたのを聞き咎めた。黒
髪と茶髪の男二人で、若山よりも年下なのは間違いない。大学のミステリ研究
会の面々だろうか。少し後をつけ、彼らが二人とも毒殺トリックの部屋にいた
と確信した。
好都合にも、二人組はエレベーターで部屋に向かうところらしい。
「あっ、乗ります」
若山は急ぎ足になり、三人目として箱の中に滑り込んだ。ボタンを見ると、
すでに四階のランプが点っていた。扉を開けてくれたことに対して礼を述べ、
上昇を始めたのと同時に、主題を切り出す。
「お二人とも、毒殺の部屋にいましたよね?」
「――ええ」
警戒されたのは一瞬だった。向き合っていた二人は、ほぼ同時に若山を見や
ると、快活な調子で応えた。名札はまだよく見えない。
若山は名乗ってから、鎌を掛けるつもりだった。ところが、茶髪が先に口を
開いた。
「途中で打ちきりになったあとは、仕方がないから、密室の部屋に行ったんで
すが、満席で参っちゃいましたよ。今さら密室なんて人気ないだろうと思って、
向かったのにね」
「そうそう」黒髪が呼応する。真面目そうな顔立ちだが、唯一点、赤縁の眼鏡
を掛けているだけで、とっぽい印象を醸し出していた。
「結局、孤島の部屋に入って、あれはあれで結構、ためになったな。閉鎖状況
を作るパターン、その方法と理由の分析」
「惜しむらくは、途中からしか聞けなかったことぐらいで。――えっと、若山
さんですか。あなたは打ち切り後、どちらへ?」
名札を見たのだろう、茶髪が親しげな口ぶりで聞いてくる。
「私ですか? 私は……例のハプニングが起きてすぐ、密室の部屋に飛んで行
きまして、どうにか入れたんですよ」
「へえ、見切りが早いんですねえ。あ、じゃ、もしかして、口止めされている
ことは聞いていない、とか?」
「え? と言いますと……」
話がうまく運んでいることを肌で感じつつ、表情に出さないように努める。
「源之内先生が倒れたことは、他言無用というお達しが出たんですよ。もう誰
かに言ってしまいましたか?」
「いえ。幸か不幸か、私は一人で来たから、話すような相手はいないし、吹聴
するものでもないなと思っていたので。ああ、あなた方に話しかけたのは、会
話から、毒殺トリックの部屋にいたのが分かったので。源之内先生の今の容態
を知っているんじゃないかと……」
話す内に四階に着いた。
「いや、残念ながら」
黒髪が、外に誰もいないのを見てから、それでも声を潜めて話を続けた。
「長机を担架代わりにして、運び出されたのを見たきりで、そのあとのことは、
全く伝わって来ないな」
「若山さん。よかったら、僕らの部屋に来ませんか」
ややぶっきらぼうな黒髪の言葉が途切れるや、茶髪が持ち掛けてきた。渡り
に船だ。若山は二つ返事で受けた。
彼らに宛がわれた415号室は、二人部屋だった。
自己紹介によると、二人はともにB大学のミステリ研究会に所属する学生で、
茶髪は陣内君尋、黒髪は妹尾妹子と名乗った。後者は冗談かと思ったが、名札
にあるのだから間違いない。
「ペンネームでしてね」
口元をほんの少しだけ歪め、愉快がる様子を垣間見せた妹尾。
「本名は小野。小野矢一郎」
「面白いペンネームだが、こういう場では本名を記すものではないかなあ?」
半ば呆れながら、そんなことを指摘した若山。すると、妹尾は急に口をへの
字にし、
「作家がいちいち本名を名乗るのは、おかしいでしょうが」
なるほど、今度のイベントに顔を出している推理作家のお歴々は、ほぼ全員
がペンネームを用いているはずだが、誰も名札に本名を書き込みはしまい。だ
が……。
「妹尾君は、作家じゃないだろう? 作家志望で今の内から、ということなの
かもしれないけれども、やっぱり、ねえ」
「あ、こいつ、何度か入選経験があるんですよ」
陣内が急いだ風に、口を差し挟んだ。
「と言っても、ショートショートがほとんどで、あとは短編ミステリが一度き
り。それも、アマチュアのアンソロジーなんですけどね」
「ほう……それはお見それした」
「そのアンソロジーっていうのが、荒耕社主催で、だから今回、ペンネームを
名乗るのは当然だという理屈なんです」
「選んでおきながら、向こうは私のことを、全然知らなかったようだがね」
自嘲めいた台詞を吐き、妹尾は首を横に振った。眼鏡の色合いと相俟って、
エキセントリックな性格らしいと知れる。
投稿経験はあっても落選ばかりだった若山からすれば、ショートショートや
短編アンソロジーでも入賞したのは大したものだと感じる。反面、それだけで
作家と称するもどうかと思う。妹尾の書く小説が、ぼんやりと想像できた。恐
らく、独り善がりの文章で、ひどくひねくれた筋書きではなかろうか。
「それにしても」
話題を転換する若山。聞きたいのは、源之内の件についてだ。起こった当時
の様子や、今後何らかの発表があるのかどうか等々。
「源之内先生は、大変そうだったね。一日も早く回復して、健筆を奮ってほし
いもんだ」
「そうですね……」
陣内が応じた。彼もまた見た目と違い、しかし妹尾とは逆に、実直な性格ら
しい。
「実際、健康そうに見えたんですが。最初、演技かと思ったぐらいですよ。毒
殺トリックの部屋だから、一服盛られたお芝居が始まったんだなって。だから、
にやにやしつつ、眺めていたのに、荒耕社の人の様子がおかしくて、どうもこ
りゃ芝居じゃないなと察したときには、顔面蒼白って感じだったなあ……」
「僕はよく覚えていないんだが、源之内先生はあのとき、何かを口にされてい
たっけ?」
「どういうことです?」
と、これは妹尾の発言。丁寧になったが、語気は鋭い。多少、圧倒されなが
らも、若山は答えた。
「うん、まさかとは思うが、芝居ではなく、本当に毒を口にした可能性をね、
ちょっと考えてみたいんだ」
「だとしたら、警察が来てもっと騒ぎになっていると思うが、そういう事実を
あなたは掴んでいるのか?」
「いや。でも、これだけの人が集まったイベントを開催中なのだから、騒ぎを
起こしたくないのが主催者の本音だろう。極秘裏――は大げさだが、穏便に処
理しようとしているんじゃないか」
「我々に知られぬよう、すでに警察は来ており、捜査が始まっている?」
「それは分からない。荒耕社の人達が善後策を講じている段階かもしれしない
し、源之内先生を病院に連れて行き、そこで判断を仰いでいるかもしれない」
「根拠なしに、推理だけですか」
見下すような響きに、若山は反発を覚えた。年下の学生風情に、こんな口を
聞かれては、黙っていられない。
「実は、編集者の会話を小耳に挟んだんだ。しかとは聞き取れなかったんだが、
源之内先生の命が危ないらしい、とね」
余田の体験――余田が嘘をついていなければ――を、自分のことのように話
した若山。誰の体験であろうと、聞き手二人にとっては同じ伝聞だ。
「ふむ」
思慮深げに目を細めた妹尾。沈黙が生まれそうになるが、それを陣内が埋め
る。
「それだけじゃ、犯罪があったかどうかの決め手にはなりませんよ? 病気か
もしれないじゃないですか」
「だからこそ、君達に聞いたんじゃないか。あのとき、源之内先生は飲食物を
口にしたかどうか。私が思うに、順調な執筆活動を続け、選考の討論でも元気
いっぱいに自説を展開していた人が、突然、命に関わる病に倒れる可能性は低
い。これがイベントの二日目なら、まだ分からないでもない。環境が変わった
せいで、疲労を溜め込んだとでも考えられるからね。しかし、初日の晩、酒も
入っていないのに、倒れるのはおかしい」
「一応の理屈は飲み込めましたが……倒れる直前、源之内先生は確か、水差し
からコップに水を注ぎ、一口飲んだ。でも、それまでに何杯か飲んでいたはず
だから、あれに毒が入っていたとは思えませんよ」
「……そうだったか。私は後方の席で、しかと見えなかったのでね。念のため
に聞くけれど、水差しに誰かが触れたり、水を注ぎ足したりした様子は?」
「ありませんでしたよ。水差しは源之内先生が一人で使っていたし、誰かが水
を注ぎ足せば、嫌でも目に着きます」
「そうか。……私の記憶力も、まだ捨てたもんじゃないな」
妹尾の視線を感じ、若山は言葉を足した。根掘り葉掘り聞く態度を怪しみ始
めたのかもしれない。仮にはったりがばれても、どうということはないとは思
うが、折角見つけた目撃証人を逃すのは惜しい。
「思考実験としては面白い」
妹尾が唐突に言った。赤縁眼鏡とは対照的に、低く重々しい口調だ。威厳を
込めようと意識した風に聞こえる。
「何らかの薬物を盛られたとして、その動機は何か。個人的な恨みから来る犯
行なら、こんな場で決行する必要はない。今ここでやらねばならない切羽詰ま
った理由となると、真っ先に思い浮かぶことがある」
「……もしかすると、選考会?」
妹尾のあとを引き継ぎ、陣内が呟いた。
「そうだ。源之内氏がいれば自作が選ばれない、落とされると考えた者が、薬
物による排除を試みた。そういう推理が成り立つ」
「推理が当たっているとして、最有力容疑者は……。源之内先生が選考会で明
らかに低い評価を下していたのは、『殺人探偵』だけだったかな。てことは、
江本正吉が怪しいって訳だ」
陣内が砕けた物腰で言い、笑みを浮かべた。本当の事件として捉えていない
のなら、彼のような態度も仕方があるまい。だが、若山は真剣に受け止めてい
た。妹尾の推理は卓見だと感じる。
テーマを現実に引き寄せようと、若山は口を開いた。
「そういえば、選考はどうなるんだろう? 源之内先生の件が病気だろうが犯
罪だろうが、最早、今回の選考に携われないの可能性大だと思う。その場合、
残る四人で決めるのか、誰かを補充するのか、もしくは選考そのものを延期か」
「荒耕社も体面があるでしょうから、延期はないんじゃないですか。去年まで
なら延期もあり得たかもしれないけれど、今年は、これだけ人を集めて派手に
やってますからね」
この陣内の意見に、若山は「同感だ」と答え、妹尾を見た。
「自分も同感。ただ――ああ、今は仮定の話じゃなかったっけ。なら、言うこ
ともないか」
「ん? それは、犯罪と仮定した場合、何か意見があると言うこと? ぜひと
も聞かせて欲しいな。君の言う通り、思考実験として興味深いのは事実だ」
早口で言って促す若山。妹尾はじろりと見返してから、唇を嘗めた。
「ここにいる三人と同様の結論に、犯人も辿り着くに違いない。ならば、次の
段階も想像ができるはずだ。つまり、源之内氏を排除しても、源之内氏の意向
は選考に影響を与える。残り四人で決めるにしても、五人目を補充するにして
も、源之内氏の意見を大切にしようという意識が、彼ら選考委員に働くだろう。
故に、恐らく、『殺人探偵』が選ばれることはない。少なくとも大賞はない」
「それは……どうかな」
頭の中で検討しつつ、否定的な言葉を吐いた若山。
「論理的な見方だとは思うが、そこまで考えて行動するものだろうか? もっ
と短絡的に、自分の作品を否定する選考委員がいなくなれば、受賞の確率が高
まる、という動機じゃないかな」
「推理小説を書く人間が、そんな単純思考の持ち主とは、信じられない」
「はいはい、そこまで」
陣内が苦笑混じりに割って入る。
「世の中、みんながみんな、君みたいに常に論理的思考に努めている訳じゃな
いさ。何度言ったら分かるんだい」
「世間全員とは言っていないぜ。推理作家に限定した話だ」
憮然として反駁する妹尾だが、陣内は柳に風といった体で、ふんふんとうな
ずくばかり。受け流す様はこなれている。若山の目には、いいコンビに映った。
「君の理屈を採用するなら、逆に、源之内先生が最も推していた作品、『反転』
で応募してきた松岡という人こそ、一番怪しいことになっちまうよ」
陣内の指摘に、なるほどと内心うなずかされる若山。源之内の意向を大事に
するということはすなわち、『反転』に賞を与えるということだ。
「ああ。充分、あり得る線だと思っている」
妹尾は当たり前のような顔をして答え、ずれた眼鏡をくいっと押し上げた。
若山へ向き直り、陣内が言う。
「どう思います?」
「うーん。さっきも言った通り、もっと単純じゃないかと。第一、犯罪だった
として、いかにして毒物を投じたのかの問題があるしねえ」
喋りながら、若山はおかしくなってきた。先程、余田が急に冷めた態度を取
ったのが、理解できた気がしたのだ。
(突飛な言動をする者を目の当たりにすると、こちらは妙に冷静になれるな。
人間消失を唱えた自分を見た余田さんも、同じ気持ちだったのかもしれない)
そう考えると、全てが馬鹿らしく感じられた。犯罪めいたことは起きていな
いのに、妄想を膨らませて勝手に騒いでいる……今の我々はこれなのではない
か、と。
「薬物投入トリックをまな板に載せるのは、犯則だ。大前提に反する」
妹尾が唇を尖らせる。確かに、その通りだ。
「うん、悪かった。ただ、よくよく考えてみたら、候補者を犯人と見なすのに
は、無理があると気付いたからなあ。候補者は選考会以外は、個室に軟禁され
ていいるようなものなんだから。毒殺トリックの部屋にいたはずがない」
「え。そうなんですか」
陣内が頓狂な声を上げ、相棒と顔を見合わせた。妹尾も、唇を結んでいるも
のの、このことは初耳らしく、意外そうである。若山は、食事の際に同席した
綾川達から知らされた話を、二人に伝えた。
聞き終わるや、妹尾がまた憮然とする。
「そのような隠し球があるのなら、早く明かしてもらいたかった」
まるで、おもちゃを使った遊びに熱中したところを、そのおもちゃを取り上
げられて拗ねた子供みたいに、膨れ面をなしている。だが、妹尾はまた別のお
もちゃを見つけたようだ。
「毒を投じる方法は不明でも、その場にいなければ不可能――という観点から
アプローチするなら、毒殺トリックの部屋にいた面々で、源之内氏と親交のあ
る者の疑いが濃くなるな。恐らく、業界の人間……誰がいたっけな?」
実際にはいなかった若山は、小首を傾げる仕種だけをし、陣内に顔を向ける。
「名前を知っていても、顔を見たことのない作家は結構たくさんいるからねぇ。
ましてや、編集者となるとほぼ全滅だから。まあ、確実に言えるのは」
と、ここで言葉を切った陣内。意味ありげに、妹尾に対してにやりと笑う。
「僕が記憶の扉を開く前に、妹尾、釈明してくれないかな」
「何だ?」
「さっき君は、わざわざイベント開催中に決行するからには、切羽詰まった動
機があるに違いないとかどうとか、そんな推理をしたよね。賞の候補者を除外
すると、いったい誰が、どんな切羽詰まった動機を持つんだい?」
「……」
雄弁だった妹尾が、ぴたりと静かになる。逆に、陣内の口は絶好調を迎えた。
「毒を盛ったんだとしたら、その毒は予め用意してきたことになる。一方、切
羽詰まった動機ってのは、予測できない場合が多いと思うんだけど、どう?
今日この場所において、毒を使うような事態を予測でき、かつ、切羽詰まった
動機が生じ得るのは、候補者ぐらいしかいないんじゃないかなあ」
「……素晴らしいよ、陣内クン」
横を向いたまま、妹尾が小声で言った。
結局、源之内の一件は、選考委員をどうするかも含め、いずれ発表があるだ
ろうということで落ち着き、犯罪性のあるなしはうやむやなまま終わった。そ
れから若山は学生二人と、ミステリ談義に時間を費やし、彼らの部屋を去る頃
には、日付の変わり目が近付いていた。
(普段なら起きている時刻だが、明日の予定はどうなってたっけ……)
そんなことを考えつつ、自室に足を向ける。その途中、エレベーターの扉が
開き、誰かが出てくるのを認めた。
どうせ見知らぬ人ばかりだからと、顔を確認しない内に頭を軽く下げて通り
過ぎようとしたが、思いも掛けないことに呼び止められた。
「あ、若山さん。ちょうどよかった」
その女性の声に、聞き覚えがある。若山は振り返った。
「あ、中畑英実……さん」
「通り過ぎるから忘れられたのかと思った。覚えていてくれて、光栄です」
冗談めかす相手に、若山は顔が赤らむのを自覚した。
「な、何か」
聞き返しながら、「サインを頼んで、忘れてしまっていたか?」と不安に駆
られる。いやいや、食事の席で、そんな無粋なお願いはしなかったはず。
「あなたを信頼できる人と見込んで、内密の話が……。他人に聞かれたくない
ので、一階にある会議室へ。よろしいですか」
「か、かまいませんが、会議室、ですか?」
一瞬だけ、艶っぽい想像が頭をよぎった若山だが、会議室と聞いてそれはな
いと打ち消した。
「ええ。とにかく、エレベーターで降りましょう」
そうして、エレベーターで降りる間も惜しむように、彼女は説明を始めた。
「ちょっとしたトラブルが発生して、本来なら警察に届けるべきところを、若
山さんの推理力に期待して、協力をお願いする訳なんです」
「トラブルというと、もしかして、源之内先生の……」
「やっぱり、ご存知でしたか。荒耕社の胡桃沢さんから聞いていますよ。それ
もあったから、あなたに協力を仰ごうということになったんですけれどね。余
計な手間を掛けずに済むという」
一階に着いた。足早に移動する。若山は今日会ったばかりの評論家のあとを
追うのが精一杯で、どこか夢見心地だった。
「こっち」
砕けた調子で通された部屋は、二十人は集まれそうな広さがあった。机や椅
子の数から推しても、それくらい規模の会議を行えるであろう。だが、今現在
は五、六人しかおらず、蛍光灯の白い光と相俟って、妙に寒々しい。
「おお、早かったね。やはり、美女に迎えに行ってもらった効果は抜群だ」
雰囲気にそぐわない明るい声でジョークを飛ばしたのは、選考委員の一人。
「綾川……さん、これはいったい?」
「非常に小説的な展開が起こって、みんな面食らっているところですよ」
要領を得ない。若山は、他の顔ぶれを確認した。
中畑と綾川に加え、他の選考委員もいる。ただし、頭数は四。福原と西田は
いるが、源之内の姿はない。
彼ら以外には二人いるが、どちらも若山の知らない顔である。中年だが体格
のいい男性と、おかっぱ頭で丸顔の若い女性。前者は作業着のような鼠色の衣
服、後者は鮮やかな緑のスーツと対照的だ。
「ここの管理を任されている、堂本均といいます」
「荒耕社『P.E.』編集者で、譲原美春です。源之内さんを担当させていた
だいています」
二人が相次いで自己紹介し、それから編集長の西田が口を開いた。
「えー、若山さん。初めまして。いきなりですが、どこまで説明を?」
「と言われましても」
多分、ほんのさわりしか説明されていない。若山はエレベーター内で聞いた
ことをざっと話した。
西田編集長は一度、軽く頷くと、おもむろに話し出した。
「最初に言っておきましょう。源之内先生が倒れられたのは、事実です。それ
が毒物によるかどうかは、分かっていません。当然、病院へ搬送し、今は容態
も安定しつつあると連絡を受けています。このような大がかりなイベントを催
していることもあり、ごく内々に処理をしていることを、ご理解願います」
「え、ええ。それよりも、何故、私なんかを」
「源之内先生が倒れたあと、堂本君が報告に来た」
あとは任せるという風に、管理人へと顎を振る西田編集長。堂本は一旦、起
立しかけ、思い直したようにまた座った。椅子が軋む。
「作家先生が倒れたと聞き、病院の手配をと管理室に駆け込んだ折、そこの窓
口に、脅迫状が差し込まれているのに気が付いたんです。あ、最初はただの手
紙みたいに見えましたが」
巨躯に似ず、丁寧な言葉遣いの堂本。
「脅迫状とは、穏やかじゃない」若山は思わず呟いた。
「内容は、『探偵小説大賞を中止しろ。さもなくば、選考委員及び最終候補作
作者の身に危険が降りかかる』とだけあり、署名や宛名の類は一切なし。文字
は、恐らく家庭用のプリンターで印刷されたものでした」
「現物がここにあります」
編集長が、机の下から透明なビニール袋を持ち出した。袋の中身は、白い封
筒。その中に、脅迫状が収まっているのであろう。
「お見せしたいところですが、後々、警察に証拠として提出することもあり得
るので、これでご勘弁を」
「はあ。その警察に届けないのですが」
「ええ。先程も言いましたが、イベント開催中であり、また、今はもう深夜だ。
病院へはこちらから出向けても、警察へ通報となると、向こうからやって来て、
ここは大騒ぎになりかねない。そんなことになったら、下手すると、イベント
自体が中止に追い込まれかねない。つまり、脅迫状を出した犯人の思う壺とい
うことですよ。馬鹿らしいでしょう、そんなのは」
西田の話しぶりは、安定していないように聞こえた。一読者を相手に、どの
ような言葉遣いが適切なのか迷っている内に、地が出たといったところだろう。
「かといって、このまま手をこまねいている訳にも行かない。源之内先生が最
初の犠牲者だとしたら、犯人は本気であり、次の犠牲者が出る恐れも高い。解
決も内々に、かつ、自力でできればそれに越したことはないが……」
不意に、続きを言いにくそうに語尾を濁した西田。彼は自分以外の選考委員
達へ視線を送った。それを受け、代表する形で、綾川が答える。
「ここにいる面々で、二時間ばかり頭を悩ませたんだが、解決の糸口は見つか
らなかった。硬直状態を打破する意味で、新しい頭脳、新しい視点を導入しよ
うと思いましてね」
それから、にやりと笑って、若山を見据えてくる。
「あなたを推薦したのは、この僕です。期待を裏切らず、推理力を発揮してほ
しいな」
「そんな。期待を掛けられても……」
か細い声で応じた若山。犯人当てで一席になった自分を、だからといって実
際の事件に駆り出すなんて、まともじゃない。いや、内密に処理したいという
理由があるのだから、素人に意見を求めるのはありとしてもいい。ただ――。
(私は、張り子の虎なんです)
そう言えたらどんなに楽か。
推理小説の犯人当てなら、自信ゼロということはない。むしろ、ある程度の
自信はある。いささか詰めが甘い(容疑者を二人まで絞れたがそのあとが絞り
きれないとか、推理は完璧でも決定的証拠を見落すとか)が、論理的思考は好
きな方だし、得意だと思っている。だが、あくまでも物語上でのこと。
「たちの悪い冗談にすら聞こえますよ。私の推理力なんて、現実に役立つかど
うか、怪しいもんです」
訴えた若山。だが、この場にいる人達は、そんなことは百も承知のよう。
「我々だって、ミステリで培った推理力を用い、事件に取り組んでいる。冗談
でも何でもない。そのミステリのプロ達が、あなたの推理力を認めているんだ。
『ローリングクレイドル』に見事正解した推理力をね」
「……」
最早、辞退できない状況に追い込まれていた。
「ここまで話を聞いて、今さら逃げないでもらいたいもんですね、若山さん。
言うなれば、あなたは我々の秘密を知ったも同然なんだし」
西田編集長が真顔で、責め立てる風に言う。
「秘密?」
「そう。事件を認識しながら、警察を呼ばず、内輪で片付けようという選択肢
を取ったこと。これを外に漏らされると、困るんです。ここは一蓮托生で行き
ましょうや」
「……分かりました。で、でも、推理が的外れであっても、責任は持ちません
から。それだけは認めてくださいよ」
「無論です。あなた一人に責任を押し付けるつもりは、毛頭ありません」
福原が初めて発言した。にこやかな笑顔だが、瞬きの回数が不自然に多い。
緊張している節が見受けられるのは、彼女も脅迫のターゲットの一人であるた
めかもしれない。
「みんなで知恵を出し合おう、というだけのことですわ」
「それなら、肩の荷も軽くなります」
こうした成り行きで、若山は素人探偵団の末席に座ることになった。座らさ
れたと表現する方が、適切だろう。
――続く