AWC アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(8) 佐藤水美


        
#205/598 ●長編    *** コメント #204 ***
★タイトル (pot     )  03/12/11  11:14  (499)
アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(8) 佐藤水美
★内容
 ステファンはかしこまって答えると、立ち上がって夫妻から数歩離れた。
「あの……私に何か用でも?」
 ようやく振り向いたフィリスが、おずおずとした口調で訊く。
「殿下、私との約束をお忘れになってしまったの?」
「約束?」
「私と一緒に、午後のお茶をいただいて下さるはずでしたわ。もう夕方になってし
まいましたけれど」
 マリオンはいかにも残念そうに言い、フィリスの襟元に手を伸ばした。スカーフ
の結び目をていねいに直している。
「……そうだったっけ? すまない、よく覚えていないんだ」
「では明日こそ、ご一緒して下さいますわね?」
「ああ、もちろん」
「うれしい! きっとですわよ」
 満面に笑みを浮かべて、夫の胸に寄り添う。フィリスの顔は、たちまち真っ赤に
なった。
 見せつけてくれるじゃないか、ふたりとも。
 ステファンは心密かに苦笑した。特にマリオンは挙式前夜、アストールに帰りた
いと言って泣いたというのに、何という変わり様だろう。しかし理由はどうであれ、
夫と妻が仲むつまじいに越したことはない。
「ところで殿下、この城には屋上にもお庭があると聞いたのですけれど、本当です
の? 私、信じられませんわ」
「えっ、いったい誰からそんなことを……?」
 フィリスが疑いの眼差しをこちらに向ける。
マリオンは庭の存在を誰に聞いたのだろう。いや、それを詮索するよりも、ここ
はまず友の顔を立ててやらなくては。
「妃殿下、その件については私からご説明申し上げましょう」 
 ステファンは微笑んで言い、夫妻の前に進み出た。
「空中庭園という言葉を、お聞きになられたことはございますか?」
「ええ。おとぎ話の中でなら」
「最近の研究で明らかになったのですが、古代には空中庭園が実在しておりました。
といっても、土の塊が宙に浮いていたわけではありません。それは宮殿の屋上に造
られた庭だったのでございます。しかし残念ながら、当時の造園技術は失われてし
まいました」
「ちょっと待て、ステファン」
 フィリスが慌てた様子で口を挟む。
「殿下のお気持ちはよく存じております。ここは私にお任せ下さい」
「いや、でも……」
「ステファン王子、先を続けなさい」
「はい、かしこまりました。妃殿下もご存じのように、殿下は秀才の誉れ高きお方。
あらゆる学問の研鑽を積まれた結果、ついに造園技術の復元に成功なされたのでご
ざいます。長い時間と多額の金をかけて研究に情熱を注がれたのは、ひとえに妃殿
下の御為。ギルトはアストールの隣国とはいえ、妃殿下にとっては見知らぬ土地な
れば、何かと不安なこともおありになるでしょう。庭園の美しい花々で、少しでも
お心を慰めていただきたい。殿下は、そのようにお考えになっておられたのでござ
います」
「まあ、私のためにお庭を? それならそうと、早くおっしゃって下さればよかっ
たのに」
 マリオンは目を大きく見開いて、夫の顔を見た。
「はは、まいったな……」
 フィリスは微苦笑を浮かべ、あいまいな返事をした。口裏を上手く合わせられな
いところが、いかにも友らしい。
「お言葉ではございますが、殿下はご自身で打ち明けるおつもりだったのですよ。
城の者たちは皆、そのために口止めされていたのです。つい先ほど、この私にも他
言してはならないとのご命令があったばかり。殿下のお心づかいを無にした粗忽者
は、いったい誰なのですか? 私がきつく叱っておきましょう」
「ここはアストールではありませんよ、ステファン王子。命に背いた者への処罰は、
殿下がお考えになることです。口を慎みなさい」
 マリオンはつんとすました顔をして、ぴしゃりと言い放った。言っていること自
体は間違っていないのだが、態度や口調が少々癇に障る。ステファンは、喉元まで
出かかった小言を慌てて飲み込んだ。
「出過ぎた物言いを致しました。どうかお許し下さい」
「本当にそう思っているのなら、証拠を見せていただきたいわね」
 しっかりと化粧を施した顔に、意地悪な笑みが浮かぶ。妹に恨まれるような真似
は、ひとつもしていないはずなのに。
「マリオン、何もそこまで言わなくてもいいじゃないか。王子に悪気がなかったこ
とぐらい、君もわかっているよね?」
 フィリスがマリオンの腰に手を回して、優しい声を出した。
「それに私は、犯人捜しをするつもりはないよ。庭の件は、いずれきちんと説明す
るつもりだった。話すきっかけが早くできて、かえって良かったと思っているんだ」
「なんて寛大なお言葉なのでしょう! さすが殿下でいらっしゃいますわ」
 マリオンは感激した様子で言うと、少し背伸びをし、フィリスの唇に長い接吻を
した。友の顔がさらに赤みを増す。
いかにも新婚夫妻らしい行為だった。挙式前夜の出来事は、これで帳消しになる
だろう。ステファンは、心の底に残っていた罪悪感が薄れていくのを感じた。
「恐れ入りますが、屋上の庭を一度ご覧になってみてはいかがでしょうか。中庭と
違って、まだ明るいかもしれませんよ」
「ぜひ拝見させていただきたいですわ、殿下。よろしいでしょう?」
 マリオンは甘い声で言いながら、両手でフィリスの顔を慈しむように包んだ。友
は目を潤ませ、ぼんやりとしている。再び接吻されたら、失神するのは確実だろう。
「やっぱり駄目ですの?」
「いや……、見てもいいけど……」
「よかった! さあ、まいりましょう」
 マリオンはフィリスの手を取り、ステファンに背を向けた。こちらの存在など、
忘れてしまったかのようだ。
 妻の尻に敷かれるなよ、フィリス。居室を出て行くふたりの後ろ姿を眺めながら、
心の中でそう話しかけた。

 大公夫妻が屋上庭園の美しさに見とれている頃、ステファンは暗澹たる思いを抱
いて階段を下りていた。
 客間に戻り次第、シド博士に手紙を書かねばならない。フィリスの決意を知った
ら、あの老人はどんなに嘆き悲しむだろうか。
 しかしステファンの心を滅入らせたのは、これだけではなかった。帰国後には、
ギルトでの出来事を父王の面前で報告する義務があるのだ。同盟を結んだ国が大教
会から独立しようとしていることを明かせば、父王は激怒するに違いない。マリオ
ンを強制的に離婚させて同盟を解消し、国交断絶を通告するだろう。大教会をめぐ
る政争からアストールを守るには、こういう方法しかないのもまた事実なのだが。
 ステファンは立ち止まり、振り返って階段の上方に目を向けた。居室でのフィリ
スとマリオンを思い出す。ふたりの幸せを壊したくない。
 今は何も聞かなかったことにしよう。フィリスが一日も早く、石板を元の場所に
埋め戻してくれれば、それでいい。独立の件は後回しだ。
「ステファン様!」
 突然アランの声がした。手すりから身を乗り出して下を覗き込むと、急いで駆け
上がってくる青年の姿が目に入った。
「お帰りが遅いので、つい……」
 アランは主人の顔を仰ぎ見るなり、息を弾ませて言った。青い目が濡れたように
潤んでいる。
「疲れた」
 思わず本音を吐いた瞬間、ステファンは客間での喧嘩を思い出して、急に決まり
が悪くなった。
「例の話はしていない」
 視線を逸らし低い声で呟くと、再び階段を下り始めた。子供じみていると思いな
がらも、逃げるように足を速めてアランの脇をすり抜ける。
 フィリスの変化を的確に見抜けず、アカデミア時代の思い出を引きずったまま話
をしたのは、他ならぬ自分自身だった。
 せめて皇太子の地位にあったなら、状況を変えられただろうか。
そう思った途端、胸の奥が締めつけられた。大教会と闘いたくても、同じ舞台に
さえ上がれないのが、今の現実なのだ。
階段が終わって客間に通じる廊下に出ると、ステファンは突然足を止めて振り返
った。後からついてきたアランが、慌てて立ち止まる。
「……アラン」
「はい?」
「客間では、その……悪かった」
 アランは一瞬ぽかんとした表情を見せたが、すぐに意味がわかったらしく、片膝
を床について身を屈め、右手を胸に当てて頭を垂れた。
「いいえ、私こそ己の身分もわきまえず、数々の無礼を働いてしまいました。どう
かお許し下さい」
「お前は謝らなくていい」
 アランが驚いたように顔を上げる。
「今日は、自分の未熟さを嫌というほど思い知らされた。お前の言葉が、つくづく
身に染みたよ」
「すると殿下は……」
 ステファンは小さなため息を吐いて、首を横に振った。アランの表情がたちまち
厳しくなる。
「詳細は客間に戻ってから話そう。とにかく、やっかいなことになってるんだ」
「承知致しました」
 居室での話の内容を知ったら、アランはどんな反応を示すだろうか。
 長い夜になりそうな予感がした。

 フィリスとの会談から十日後、ステファンら一行はアストールに向けてカスケイ
ド城を出発した。
この日は朝からよく晴れて気温が上がり、昼頃には初夏を思わせるような陽気と
なった。マントを身につけていなくても、汗ばむくらいだ。街道には光が溢れ、木々
の新緑が目に眩しい。
だが、馬上で手綱を握るステファンの心は、暗く沈んだままだった。あの日以来、
フィリスが明らかにこちらを避けるようになったからだ。
ミレシアがヴェーネ・ルードの審査に合格したことを知らせに来たのは、宰相の
ランバートだったし、口添えの礼を言うために会いたいと申し出ても、多忙を理由
に断られた。出発前夜の晩餐はおろか、見送りにさえ現れず、マリオンには新婚早々、
夫と兄の板挟みになるという辛い経験をさせてしまった。
 友情とは、こんなに脆いものだったのか。
「ステファン様、いかがなされました?」
 いつの間にか、アランが真横に並んでいる。
「いや、別に……」
「今の速さで進むと、ガレー城に着くのは夜になってしまいます。日が落ちてから
の街道は物騒ですから、もう少し急がれたほうがよろしいかと」
「ああ、そうだな」
 愛馬に鞭を入れる前に、肩越しに後ろを振り返る。二頭立ての馬車が視界の片隅
に入った。
 あそこにはミレシアが乗っている。狭い空間の中で、心優しい少女は病気の見習
い騎士を看病してくれているのだ。
 お役に立ちたいのです。
 そう言ったときの、彼女の眼差しは真剣そのものだった。
「ステファン様」
「何だ?」
 視線を逸らさずに訊く。
「前をご覧にならないと、危のうございますよ」
「わかってる!」
 ステファンは声を荒げて言い、馬の尻にぴしりと鞭を入れた。

 ガレー城に到着したのは日没直前だった。
旅装を解き食事を済ませる頃には、夜もすっかり更けていたが、ステファンはミ
レシアを己の寝室に招き入れた。男としての下心が全くないと言えば嘘になるが、
まずは彼女とゆっくり話をしたかった。その目的に合わせれば居室を使うべきであ
ろうが、自分のわがままで城の太守を追い出すわけにはいかない。
入ってきたミレシアは少し緊張している様子だったが、ソファーに座るよう促す
と、素直に従った。ふたりきりになるのは、シド博士の家で別れて以来だ。
「今日は疲れたでしょう?」
 ステファンはミレシアの隣に腰を下ろし、優しい口調で話しかけた。
「ううん、そんなことない……あっ!」
 しまったというような顔をして、慌てて口許に手を当てる。その仕種が可愛らし
くて、ステファンは思わず微笑んだ。
「……いえ、大丈夫です」
「普通にしゃべっていいよ、ここには君と私しかいないんだから」
「ありがとうございます。でも、言葉づかいには気をつけないと……」
 おそらく博士に言い含められたのだろう。リーデン城に出入りするうるさい連中
のことを考えると、話し方には、普段から気を使っていたほうがいいのかもしれな
い。だが、ふたりでいるときだけは、そういう余計な気苦労をさせたくなかった。
「ミレシア」
 愛しい少女の手の上に、己の手を重ね合わせる。
「礼を言うのは私のほうだよ。君は自ら進んで病人の世話をしてくれた。本当に感
謝している」
「私はただ、ステファン様が困っていらしたから……。あの人、少しでも良くなっ
てくれるといいのだけれど」
「君が看病してくれたんだ、きっと治るよ。明日にはベッドから起き上がっている
はずさ」
「まさか……。ステファン様は、私を買い被っておられます」
「気づいていないかもしれないけれど、君には何か特別な力がある。私の身体から
酒毒を消してくれたのが、その証拠だ。あのとき君が側にいてくれなかったら、私
は今頃どうなっていたか」
 決して誇張ではなかった。フィリスとの会談の翌日、ステファンは施療院の医師
の診察を受け、酒毒が体内に残っていないことを確認している。むろん、新たな不
調も感じていない。
「私に力なんて……」
 ミレシアの顔に困惑の表情が浮ぶ。
「こういうことは、今までに一度もなかった?」
「……ないわ」
 ミレシアは小さな声で悲しげに呟き、幼女のような仕種で首を左右に振った。
「でも、これは事実なんだ。私たちが初めて出会った、カスケイド城の屋上庭園を
思い出してくれ。最初から、あんなに美しかったのかどうか」
「私が行ったときは、まだ薄暗くて……」
「あの庭は荒れ果てていたそうだ。庭師たちが手を尽くしても、木や草花は根づか
なかったという話も聞いたよ」
「本当なの?」
 ミレシアが不信そうな目でこちらを見る。ステファンは重ねた手に力を込め、黙
ってうなずいた。
「私、何もしていないのよ……」
 ミレシアがそう言うのも無理はなかった。彼女は自分の出生にまつわる秘話を全
く知らないのである。だが、祖父のシド博士でさえ本人に明かさなかったことを、
赤の他人がこの場で軽々しく口にするのはためらわれた。
「おそらく君には、人や生き物を癒す力があるんだ」
「癒す……力?」
 どうしたわけか、ミレシアの声は震えていた。大きな目がたちまち潤んでくる。
「だけど……、母さまは死んでしまったわ」
ミレシアは沈痛な面持ちで呟き、目を伏せた。ひと粒の涙が、ステファンの手の
甲にこぼれ落ちる。
「私にそんな力が……あったら……、母さまはきっと……」
 悲しさの滲む台詞を耳にした瞬間、ステファンは返す言葉を失った。ミレシアが
初めから癒しの力を発揮できたのであれば、母親は今も生きていただろう。何故こ
んな自明の理に気づかなかったのか。
「すまない、ミレシア。つまらぬことを言った」
ステファンは泣いている少女の肩に腕を回し、滑らかで白い額に接吻した。
「悪気はなかったんだ、許してくれ」
 ミレシアの身体を優しく抱き寄せて言う。花を思わせる甘い匂いが、誘うように
鼻孔をくすぐる。
「私、母さまのことになると……どうしても……」
 ミレシアはステファンの胸に顔を埋め、熱い息を吐いた。
「泣いてもいいんだよ。親を亡くすのは、誰にとっても悲しいことだから」
 ステファンは穏やかな声で話しかけると、ミレシアの頭に接吻した。腕の中の少
女は、幼児に戻ってしまったかのように、何度も顔を擦りつけてくる。
 すぐにも抱き上げてベッドに運び、何もかも自分のものにしてしまいたい。だが
ステファンは、荒々しい欲望を堪えた。ミレシアはヴェーネ・ルードとして、ギル
ト公国を代表する外交官のような立場にある。彼女を未来の正妃として迎え入れる
ためにも、軽はずみな行動は慎まねばならなかった。
「大丈夫?」
 背中を撫でながら訊いてみる。ミレシアはうなずいたものの、まだしゃくり上げ
ていた。落ち着くまで、もう少し時間がかかりそうだと思ったとき――。
「ステファン様!」
 くぐもった声と同時に、扉を強く叩く音がした。ミレシアは突然のことに驚いた
らしく、身体をびくりと震わせてステファンにしがみついた。
「そこで待ってろ、アラン。私がいいと言うまで開けるなよ!」
 扉のほうに向いて声を張り上げる。いくら気心の知れた仲とはいえ、今のふたり
の姿を見られるのは少々まずい。
「あの……私……」
ミレシアが顔を上げ、不安げな眼差しでステファンを見る。
「気にしなくていいよ。どうせ、大した用じゃないさ」
 ステファンは微笑んで言い、上着のポケットから手巾を取り出した。可愛い少女
の目許や頬をそっと拭いてやる。だが部屋の外で待つアランは、甘い余韻に浸る時
間を与えてはくれなかった。
「メンテルから至急の書類が届いております、早くここをお開け下さい!」
 語気鋭く叫び、割れんばかりに扉を叩く。この迷惑な騒音は、城内に響き渡って
いるに違いない。
「しょうがないな。うるさくてかなわん」
 ステファンは不承不承立ち上がり、手巾をポケットに戻しながら扉に歩み寄った。
ふいに視線を感じて肩越しに振り返ると、ミレシアが心配そうな顔でこちらを見つ
めている。
「すぐ終わるから」
 ステファンの言葉に安心したのか、ミレシアの表情がいくらか緩んだ。この様子
なら、おそらく大丈夫だろう。あとはアランから書類を受け取って、さっさと扉を
閉めるだけだ。
「騒ぎすぎだぞ。もう少し穏やかにできないのか?」
 非難めいた口調で言い、扉を細めに開ける。そこにはアランが立っているはずな
のに、誰もいない。
「アラン? 変だな……」
 つい首を出そうとした瞬間、扉が突然大きく開かれて、アランが素早く部屋の中
に滑り込んだ。
「失礼します!」
「な、なんだ、いきなり! 無礼ではないか!」
 わずかな隙を衝かれ、慌てたのはステファンのほうだった。
「無礼は承知しております。私への処分は、煮るなり焼くなりお好きなようになさ
って下さい。ですが、その前にこちらの書類に決裁をお願い致します。明日にもメ
ンテルへ送り返さねばなりませんから」
 アランは涼しい顔をして一方的にまくし立てたかと思うと、綴じ紐で括られた分
厚い書類をステファンに差し出した。
「ちょっと待て。これはメンテルに戻ってから、決裁を下すことになっていたはず
だ。あのとき、お前も確かに賛同したではないか」
 ステファンは苦しい言い訳をしながらも、さりげなく立ち位置を変えた。アラン
の視界から、ソファー周辺を完全に遮っておく必要がある。
「状況が変わったのですから、仕方がありません。お帰りがあまりにも遅いので、
留守を預かる官吏たちも困り果てたのでしょう。ご滞在が延びなければ、何の問題
もなかったのですから」
 それを言われると、ステファンも抗弁できなくなってしまう。むっとして押し黙
り、胸の前で両腕を組んだ。
「私とて、心苦しく思っております。かような夜更けに、しかもお疲れのところへ
仕事の話などしたくはありません。しかし、行政の停滞は許されないのです」
「わかったわかった、やっておくよ。だから早く出て行ってくれ」
 吐き捨てるように答える。ミレシアの存在に気づかれないうちに、何としてでも
この生真面目な青年を追い出さなければならない。
「まだ用は済んでおりません」
 アランはこちらの目を探るように見据た。
「何だって?」
「動かないで下さい」
 そう言うと、アランはふいにステファンの胸許へと顔を近づけた。やっぱり、と
いう小さな呟きが彼の口から漏れる。
「おかしな奴だな、いったい……」
「隠しても無駄ですよ」
「何も隠しておらん」
ステファンが即座に否定したにもかかわらず、アランは深々とため息をついて首
を大きく横に振ってみせた。
「私にはわかっているのです!」
 美貌の青年は声を一段低くして言い放った途端、ステファンの身体を押しのけ、
今度は部屋の外まで聞こえるような大声で叫んだ。
「ヴェーネ・ルード・ミレシア! 出てきなさい!」
「おい、待てっ!」
 止めようとしたが、アランの動きのほうが早かった。ソファーに駆け寄って、そ
の背もたれを軽々と飛び越える。
「このような場所で、何をしているのですか?」
 冷ややかな声が誰に向けられているのか、考えてみるまでもない。ソファーの向
こう側を覗き込むと、ミレシアが小柄な身体をさらに小さくして、床にしゃがんで
いるのが目に入った。両手で顔を覆い、肩を微かに震わせている。アランが突然現
れたため、ソファーの影に身を隠していたのだろう。
「あなたには、ヴェーネ・ルードとしての自覚が全くないらしい。こんなはしたな
い真似をするくらいなら、直ちに称号を返上すべきです」
「やめろ、アラン! ミレシアは悪くない、私が連れてきたんだ!」
「ステファン様が?」
 アランは形の良い眉をひそめ、疑いの眼差しをこちらに向けた。
「ああ、そうだ! お前は引っ込んでいろ!」
 感情にまかせて怒鳴りつけ、急いでミレシアの側に行く。少女の隣にしゃがんで、
震える肩をそっと抱いた。
「びっくりさせてすまなかった。この埋め合わせは必ずするよ」
 耳許で優しくささやき、金褐色の髪に唇を寄せる。アランの視線を強く感じたが、
ステファンは完全に無視した。反応すれば、口論になるのは目に見えている。これ
以上、ミレシアに不愉快な思いはさせたくなかった。
「事情はどうあれ、年若い女性が夫でもない男性の寝室にいるのは由々しきこと。
私がお送りしますから、ヴェーネ・ルード・ミレシアにはご自分の部屋へ戻ってい
ただきましょう。よろしいですね? ステファン様」
「ミレシアを誘ったのは私だ。私が部屋まで連れていく」
 ステファンは自らの責任を感じていた。居室を使えないという理由があったにせ
よ、寝室に招き入れたのは少々軽率だったかもしれない。
「あの……私……、ごめんなさい……」
 ミレシアの声は震えていて、今にも消え入りそうだった。恐る恐る顔を上げ、潤
んだ目でステファンを見つめる。
胸に強く抱きしめて、花びらのような唇に何度でも接吻したい。だが、湧き上が
る欲望を堪えて平静を装い、ミレシアに立ち上がるよう促さなければならなかった。
「君はちっとも悪くないのだから、気にしないで。今夜はゆっくり休むといい。さ
あ、部屋まで送っていこう」
「お待ち下さい」
 アランはそう言うが早いか、ふたりの間に無理やり割って入った。壁のように立
ちふさがって、ミレシアの姿を視界から遮ってしまう。
「いい加減にしろ! 今度は何だ!?」
「ヴェーネ・ルード・ミレシアは、私がお送りすると申し上げました」
「いや、彼女は私が連れていく」
「駄目です。同じことの繰り返しになります」
 アランはきっぱりと拒否して首を横に振った。ミレシアを引き離し、何としても
今夜中に決裁をもらおうという魂胆に違いない。子供の頃からの仲とはいえ、己の
分を越えたような彼の強引さに、改めて腹立たしさを覚えた。
「私に指図する気か!」
「指図ではありません、お願いしているだけです。ステファン様には大切なお仕事
があるのを、思い出していただきたいのです。この決裁が遅れることで、迷惑をこ
うむる者が大勢出るでしょう。中には追いつめられて、首をくくる者さえ現れるか
もしれません。そのような結果は望んでおられないはずです」
「お願い、だと? よくもまあぬけぬけと……勝手に押し入ったくせに呆れたもの
だ。もう一度言っておくが、一両日中には必ず決裁を下してメンテルへ送り返す。
誰にも迷惑はかけない。だから早くそこをどけ!」
「どきません!」
 アランは美貌を紅潮させ、一歩も引かない。ステファンはカスケイド城の客間で
の醜態を思い出して、嫌な気分になった。ただでさえ口論になっている上に、あん
な姿をミレシアの目の前で見せたくはない。
「ヴェーネ・ルード・ミレシアを部屋まで送り届けるのは、臣下である私の役目で
す。ステファン様がなさることではありません」
「……わかった」
 ステファンはため息を吐いて答え、アランに向かって右手を差し出した。
「えっ?」
 アランは拍子抜けしたらしく、目をしばたたいて主人の顔を見ている。
「書類だよ。あれがなかったら決裁できない」
「あ、はい……」
 出された書類を受け取った途端、ステファンは立ちはだかる痩躯を乱暴に押しの
けた。不意を衝かれたアランが、身体をぐらりとよろめかせる。
「ミレシア」
 名前を呼ぶと、愛しい少女は恥ずかしそうな笑みを浮かべた。思わず、その華奢
な身体を抱き寄せてしまう。欲望を堪えようとした努力を、自ら放棄するに等しい
行為だった。
 一晩中でもこうしていたい。
 甘い幻想を打ち砕くように、アランがやけに大きな咳払いをした。

ミレシアのために用意した部屋は、ひとつ下の階にあった。小さなバルコニーが
ついていて、ガレー城では最も日当たりがいい。
主人の命とはいえ、十五歳の小娘に与えるには過ぎた部屋だとアランは思った。
むろん口には出さないが。
「こちらへどうぞ」
 扉を開け、燭台の灯りで内部を照らし出すと、振り返ってミレシアに声をかけた。
少女は無言でうなずき、促されるまま部屋の中に入った。
「少々お話ししておきたいことがあります」
 低い声で告げ、扉を静かに閉める。ミレシアの怯えたような視線を感じたが、心
は全く動じなかった。テーブルの上に燭台を置き、椅子を引く。
「ここにおかけ下さい。私が何を言いたいのか、もうおわかりですね?」
 アランはミレシアを冷たい目で一瞥した後、顔を背けて深く息を吐いた。ギルト
滞在中から溜まり続けていた怒りが、はけ口を求めて胸の中で渦を巻いている。憤
懣をぶつける前に、この少女に対して、彼女自身がしたことの意味をきちんと理解
させなければならない。
「……申しわけありません」
 か細い声だった。これがもし騎士団の団員だったら、本当に謝罪する気持ちがあ
るのかと一喝していただろう。
「本当に……ごめんなさい……」
「あなたは大きな勘違いをしている」
 アランはミレシアに険しい目を向けると、断固とした口調で告げた。少女は表情
をこわばらせ、その場で立ちつくしている。
「もう一度言います。ここに座りなさい」
「……はい」
 ミレシアは諦めたように、勧められた椅子に腰を下ろした。両手を重ね合わせて
膝の上に置く。
「ひとつ質問します。あなたは夫でも父親でもない男性の寝室に、女性が入っても
いいと思っていますか?」
「……いいえ」
「男性の寝室に平気で入り込むような女性を、あなたはどう思われますか?」
「い……いけないと……思います」
「そうですね。あなたが言うとおり、いけないことだ。ふしだらな女と呼ばれても
仕方がない」
 アランは冷笑を浮かべ、ミレシアの顔を覗き込んだ。少女は目を伏せて、下唇を
噛みしめている。おそらく涙を堪えているのだろう。女の武器を使って、追及から
早々に逃れようとしているに違いない。
「では質問を少し変えましょう。あなたにとってヴェーネ・ルードとは何ですか?」
「……ギルト公国の……代表、です」
 ミレシアの声は震えていた。泣きたければ、勝手に泣くがいい。
「ほう、ずいぶん尻軽な代表だな。いいですか、そもそもヴェーネ・ルードという
称号は、教養や品格が抜群であると認められた平民女性に送られるものです。それ
を受けたからには、他の女性の手本となるよう自らの行動を律していかねばなりま
せん。言っていることの意味がわかりますか?」
「……はい」
「わかっているなら何故、あなたはステファン様の寝室に居たのですか!? それ
も二度、隠れるような真似までして!」
 燭台が一瞬飛び上がるほど、強くテーブルを叩く。ミレシアは肩をびくりと震わ
せて、小さな悲鳴を上げた。
「軽率……でした。申しわけありません……でも、ステファン様の寝室に入ったの
は、今夜が初めてで……」
「何という恥知らずだ! そんな嘘でごまかせると思っているのか!?」
「嘘じゃありません、本当です!」 
 ミレシアは顔を上げ、声を高くして言った。大きな緑の目が涙で潤んでいる。
「お願いです、信じて……信じて下さい」
「ステファン様と最初に出会った場所は?」
 アランは胸の前で両腕を組み、テーブルに寄りかかった。信じる信じないの前に、
事実を検証しておく必要がある。
「カスケイド城の……屋上です」
「それで? 誘ったのはあなたですか?」
「ち、違います。私が屋上でビューロを弾いていたら……、ステファン様が……い
らして……」
 要するに、偶然の出会いだったと言いたいらしい。アランは眉をひそめて押し黙
った。己の記憶を整理してみると、確かに主人も、出会った場所はカスケイド城の
屋上だと話していた。
 口裏を合わせているのだろうか? 疑い始めたらきりがないと、頭では理解して
いるつもりなのだが。
「私のつたない演奏を、とてもほめて下さった……」
 ミレシアは頬をうっすらと赤く染め、何かを恥じらうように下を向いた。
「わかりました、もういいです」
 これ以上聞きたくなかった。ミレシアにさえ出会わなければ、ギルトへの旅は平
穏無事に終わっていたのに。恩人の孫娘とはいえ、アランは激しい嫌悪感を覚えた。
今すぐにでもティファへ送り返してやりたい。
 だが、それは不可能だった。ヴェーネ・ルードを粗略に扱えば、ギルトとの外交
問題に発展してしまう。
 だからこそ、主人は称号の請願をしたのだ。そうまでするからには、何か特別な
意志が働いているとして思えなかった。ミレシアの身を守るためだけでなく、例え
ば国王殿下に会わせたいとか。
 会わせたい……? まさか、この少女を本当に……! 
その可能性を全く考えなかったわけではない。しかし実現性の最も薄い選択肢で
あるため、すぐに除外してしまったのだ。主人の本心を見抜いていたら、この命を
捨ててでも阻止したものを!
つい最近まで、手に取るようにわかった主人の心が読めなくなっている。突然突
きつけられた事実に、アランはひどく狼狽した。
「あの……コルベット様?」
 ミレシアの声に、はっと我に返る。
「どうかなさいました?」
 アランは何も答えず、テーブルを離れて壁際にある書棚に歩み寄った。本を二冊
取り出して再び引き返す。
「リーデン城に到着するまでに、この本の内容を全部暗記しなさい」
 厳格な教師のような口調で命ずると、呆然としているミレシアに本を突き出した。
「これを……全部?」
 ミレシアはとまどいながら本を受け取った。
「一冊は作法書、王宮内でのふるまい方や細かい決まり事が載っています。もう一
冊はアストール王国の歴史書です。ステファン様に恥をかかせないよう、頭の中に
叩き込んでいただきたい」
「わかりました。私、頑張ります」
 頑張る、か。いい気なものだ。
「ああ、言い忘れてましたが、歴史書のほうは旧字体になって……」
「読めます、旧字体でも。おじいさまが……シド博士が教えて下さいました」
「そうですか、よかったですね。では、しっかりと勉学に励んで下さい。もし内容
でわからないことがあれば、私に訊くように。ステファン様はお忙しい方ですから、
つまらぬ雑事でお手を煩わせてはいけません。いいですね?」
「はい、仰せに従います」
「よろしい。それと……」
 アランは急に腰を屈め、ミレシアの耳許に唇を寄せた。
「ステファン様が、あなたにどのようなことをおっしゃったのか、不幸にして私は
知りません。旅は人に解放感を与えます。気持ちも普段と違って、高揚したものに
なりがちです。あなたが心がけなければならないのは、過ぎた期待をしないことで
すよ。ヴェーネ・ルードとしての役目を全うするだけでいい。約束してくれますね?」
 ミレシアの顔色がみるみるうちに青ざめていく。哀れとも思わなかった。
「今すぐ、返答をいただきたい」
「……お約束は、できません」
 思わぬ反撃に、アランは目を剥いた。

                               (9)へ続く




元文書 #204 アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(7) 佐藤水美
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