#206/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 04/01/27 23:59 (500)
からくり魔神 1 平野年男
★内容
しんと静まり返る空気の中、その仮面は銀色に光っていた。
不器用な美しさを持つ、奇妙な金属製の人形。立方体の頭には、これもまた
金属製の薄い仮面。細い目をして、唇の両端を吊り上げて笑っている。
にやりとした笑みを浮かべた顔に、直方体の胴や手足をつないだ、冷たいそ
いつ。無論、動くはずもない。
生命を持たぬその人形以外、誰もいなかった部屋の扉が開かれた。瞬間、盛
大な光が中に入り混み、輝きを増す仮面。
だが、現れた人間――青年がドアを再び閉めたことで、元の落ち着いた空間
を取り戻す。
青年は自分の背ほどもある人形へ真っ直ぐ近付くと、恋しい人を抱くがごと
く、体温のない身体を手にし、愛おしいまでにゆっくりと撫で始めた。
全身を触っていた手先が右膝の関節に来ると、青年は自分の手に力を入れた。
しぼるように握る。
するとどうだろう、人形の膝関節は外れ、右足は床にぽとりと落ちたのだ。
青年は次に左膝に手をやり、同じことを繰り返した。さらに両肩の関節や首、
腰のつなぎ目も外していく。人形は七つの部分――首・右腕・左腕・胴・腰・
右足・左足という各々の箱に分解されてしまった。鈍く光るねじ込みの穴が、
深く空いているのが見える。
青年は机に置いてあった紙片に視線をやると、満足そうに目を細めた。
人形の表情に似て。
現時点から冷静に振り返ると、あの当時、FUJIXは、レジャー産業の中
堅から大手に脱皮しつつあるところと言えた。元々は単なるスポーツ用品を販
売する会社だったが、業績好調につき自社製品開発や施設建築等の事業拡大を
行い、それがまた当たった。
FUJIXがそのように成長できたのは、社の中枢を占める藤川家の当主・
藤川真美が、木村晋太郎を夫として迎えたのをきっかけとしていた。比較的小
さな商社に勤めていた晋太郎を、FUJIXが引き抜く形であった。以来二十
年近くをかけて発展したのである。急成長ではなく、基盤のしっかりした歩み
だった。
その間、真美と晋太郎の間には子供が二人でき、大学二年と中学二年になる
今――事件の起きた年――まで、順調に育ってきた。
しかし、いいことばかりが続いた訳ではない。結婚して七年目、藤川家の屋
敷が火事となり、晋太郎は火傷を負った。その後遺症として、目の自由を失っ
た。
さらに、その日たまたま車で外出しており、屋敷の火事の報を聞いて急いで
帰宅しようとした藤川真美は、ハンドルさばきを誤り、交通事故を起こしてし
まった。これも後遺症が出て、彼女の足は動かなくなり、今は車椅子の身だ。
こうなると、経営を藤川家の人間だけで行う訳にいかない。忠実な代役を務
められる人間を立て、指示を出すようになる。自然と、会社に出る回数も少な
くなり、その内、北の地にある別荘にこもりがちとなった。火事の記憶がある
ために本邸を敬遠したくなり、また二人の心情が北の土地柄を選んだという背
景があったらしい。
別荘には藤川真美と晋太郎以外に、付き添いの医者として加藤和夫、その他
の身の回りの世話役として加藤久仁香という夫婦がいるだけであった。もう一
人、招かれざる人物が離れで暮らすのだが、これについては後ほど触れよう。
かような状態であったが、暮れも押し迫ると家族が別荘に集まるのを変わら
ぬ習慣としていた。クリスマスイブを迎える頃合に、全員が揃う。
事件の起きた年の十二月二十四日も、同じようにして始まった……。
「ただいまって言っていいのかな。こんな暮らししてると、どこが自分の家だ
か、分かんなくなっちゃうわ」
中学の寮とこの別荘とを春・夏・冬休み毎に行き来する藤川良子は、帰って
来るなり、両親にそんな挨拶をした。親元を離れての生活も、さほど寂しいと
は意識していないと見える。
娘を迎えた晋太郎は、色の濃いサングラスの向こう、見えない目の奥で娘の
成長した姿を思い描いたのか、嬉しそうに微笑んだ。
「お帰りなさい」
と優しく言ったのは真美の方。彼女は電動車椅子を操って娘のそばまで行く
と、手を取って引き寄せ、相手の身体を抱きしめた。
「あんまり力を入れると、バランス崩しちゃうよ。ところでさ、あいつ、また
来てるの?」
顔をしかめる良子。晋太郎も弱った表情をした。少しだけずれたサングラス
を直しながら、
「ああ、来ているんだ……。すまない、お父さんがちゃんとさせておかなかっ
たからだ」
と、おずおずと言った。
夫が懺悔の言葉を吐く間、妻の真美は、疎ましそうに前庭の離れに一蔑をく
れた。南から北へ、門、前庭、本館、裏庭と、この順に並ぶ格好だ。そして前
庭の少し東側にずれて離れが建っている。本館と離れの間は、約十メートルの
距離があった。
離れにいる者の名は、木村賢治。晋太郎が先妻との間にもうけた子供だ。そ
の別れた母親が死んで一人になり、困っているとかで、五年前から小遣い銭を
せびりに現れるようになったのだ。晋太郎にすれば一度慰謝料を払えば充分と
考えてもいいはずなのだが、彼には何らかの負い目があるらしく、ずるずると
二年ほどが経過した。
そして図々しくも木村賢治は冬の間、別荘の離れに泊り込むようになった。
しかも離れの中をアトリエと称する場に改造し、自分一人の世界にこもるのだ。
それは今年も変わりない。
「あの男、気味が悪いわ。青白い顔しちゃってさ。芸術家か何だか知らないけ
ど、自分で稼いだらどうなのよ」
良子が言った通り、木村は薄気味悪い風体をしていた。血色の悪さは顔だけ
でなく、全身に見られた。手足の血管が青く浮き上がり、いかにも不健康そう。
肌の色が白いので一層目立つ。奥まった両目はどこを見ているのか判然とせず、
口はいつも半開き。喋ると金か女か食事の話しかしない。現れた当初は怪しげ
な芸術論を繰り出していたが、凡人に説いても仕方がないとばかりに、今はぷ
つりとしなくなった。
服装にはたいてい無頓着で、また全体に薄汚れているが、髪と髭はいつもき
ちっと手入れしている。痩せの癖によく食べるから、イメージの悪さに拍車が
かかる。
精神構造を敢えて言い表すなら芸術家肌としてよいものやら、正直なところ
まるで掴めない。創作に必要だという主張の下、針金や木炭辺りならばまだ理
解できるとしても、荒縄や蝋燭まで離れに持ち込むとあっては、気味悪くて遠
ざけたくなるのも無理なかろう。
「それで、今度は何を要求してきたの? どうせあいつのことだから、また何
か突拍子もない話をしてきたんでしょ」
またと表現したのは、去年、木村が別荘の二階の外壁に角を着けると言い出
したことを指す。奇怪な要求だったが、負い目のある晋太郎は、妻に頼み込ん
でそれをやらせた。
そのようないきさつで現在、藤川の別荘には巨大な角が一本、付き出ている。
真っ直ぐ横に延びたあと、徐々にカーブして上を向くそれは、サイを思わせな
いでもない。建物のちょうど中央、二階の高さにある角のおかげで、別荘は顔
を持ったような外観になった。角を鼻とすれば、屋根が髪の毛、二階の窓が左
右の目、一階の窓ないしは玄関が口に見立てられる。しかもその角の表面はシ
ルバーメタリックで、朝夕の太陽光を受けるときなぞ、眩しいことこの上ない。
良子の兄の貴之は角を初めて見たとき、ブランコでもぶら下げるしか役に立
ちそうにないなと吐き捨てた。良子も同感だった。
「あんな派手で変な装飾されちゃ、たまんない。友達一人呼べやしないわよ。
その上、今の時季、朝の太陽が変な風に反射して、窓から射し込むようになっ
たのも、あれのせい。眩しいったらないわ。その前の、等身大の人形を作る費
用を出してくれっていうのもふざけてると思ったけどさ。家をこれ以上いじら
れるのだけは、絶対に嫌だからね」
それは藤川の誰もが持つ感情でもあったが、曲がりなりにも晋太郎が当主と
あって、どうにもならなかった。
「今度はそこまで大げさじゃなかった。絵を描きたいから額縁を買ってくれっ
て言ってきた」
「額縁? それだけ? また随分スケールダウンね。結構なことではあるけど」
「ところがそうじゃないのよ」
もはや喋る気が失せた模様の晋太郎に代わり、真美が答えた。
「巨大な絵を描きたいから、縦一メートル、横二メートルの額縁がいるって。
それも二つ」
「何それ! あの離れに持ち込めるのかしら? まさか、こっちの方へ来るな
んて言い出したら、私、寮に帰るからね!」
「いや、それはないの。その大きさでも、離れに入るようよ。今日ぐらいに届
くみたいだから、一騒ぎにならなければいいんだけどね」
そう言った藤川真美は、先ほどと同じように離れを見やった。そして、聞こ
えよがしにため息をついたのは、夫への小さな当てつけだったかもしれない。
「あれっ。兄さん、その人誰よ?」
両親に代わって兄を迎えた藤川良子は、そんな声を上げた。
藤川貴之の後ろには、二人の男女がいた。女性の方はもう何年来の顔なじみ
で、貴之の大学での友達である牧夏美。良子の家庭教師役を兼ねて、長期休暇
には藤川の別荘で世話になる、言ってみれば親しい仲。
問題は男の方で、別荘に初めて来る顔だ。
「流次郎。友人だ。目付きは悪いが、気はいい奴さ。安心しろ」
貴之が説明する通り、流と紹介された男の目は鋭かった。長い髪に長い指。
流行遅れの二枚目タレントといった風情だ。
「流です。お世話になります」
「おいおい、こいつは俺の妹だぜ。そんな丁寧に挨拶するなよ。するんなら、
親に頼むわ」
深々と頭を下げた流に対し、貴之は苦笑を浮かべる。牧までくすくすと笑っ
たものだからか、良子もつられたように声を立てて笑ってしまった。
「そいつはどうも、失敗したなあ。あんまり大人びているので、間違えてしま
ったか」
見え透いた言い訳をする流。良子はトランジスタグラマとでも言うべき身体
付きだが、小柄故、少なくとも子持ちの母に見られることはあり得ない。
「雪が強くなってきた。ホワイトクリスマスになりそうだ」
唐突に流が言った。実際、窓から外を見通すと、雪は激しくなっており、土
はその色を見る間に変えている。
牧と流の案内を加藤夫妻に任せた貴之は、部屋に戻りかけた妹をつかまえ、
声を潜めて尋ねた。
「木村のこと、聞いてるか?」
「ええ、巨大額縁でしょ。あれ? 兄さんこそ、何で知ってるの」
「月に何度も電話入れてるからな。情報は入って来る。あらかじめ聞いとかな
いと、おちおち友達も呼べやしない」
「そりゃそうだよね。それで額縁だけど、兄さん達が来る直前くらいに、運び
込まれてったわ。大げさなトラックでさ。かわいそうに、江田さん、手伝わさ
れちゃって」
「やっぱりそうか。来るとき、すれ違ったんだ。天気予報では大雪とか言って
たから、トラックが来れなくなることを期待してたのに。あーあ。全く何を考
えてんだか、あいつは」
「あいつのこと、流さんには話してあるの?」
「一応な。顔を合わせたときにショックのないようにさ」
自分の台詞に苦笑いを浮かべた貴之。
「私、思うんだけどさ、あいつ、お父さんのこと、脅迫してんのよ」
「ま、脅迫紛いのせびり方だよな」
「そうじゃなくて。本当に脅迫なんじゃない? あいつとお父さん、全然顔が
似てないじゃん。まあ、私だってお父さん似じゃなくて、お母さん似だけど。
本当は前の奥さんの子供だなんて嘘でさ、何か別のことで……」
「親父は、その脅迫の中味を俺達に知られるよりも、前の子供だと通す方がま
だましって訳か? 考え過ぎだぜ」
「そうかなぁ」
目を寄せ、口を尖らせて不満を露にする良子。貴之は肩をすくめた。
「どうだっていいじゃないか。今は微々たる要求さ、親父達の会社にしたら。
屋台骨が揺らぐような要求ならともかく、今は」
「でもさ、でも。これは将来の話になるんだけど、お父さんお母さんが亡くな
ったときにね、財産の一部があいつに渡っちゃうのよ。はっきりさせとくべき
じゃないの」
「そうだなあ。無論、考えとくが……現時点ではな。折角の休みなんだから、
気にしてたってつまらないぜ。あいつはほっといて、せいぜい楽しくやればい
いさ」
「そうしたいわ。けれどいつかはっきりさせたいのよね」
まだぶつぶつ言っている妹をなだめ、貴之は自分の部屋に向かった。
「……以上のようなところでございますが」
藤川晋太郎は、江田一馬からの十二月の企業報告を聞き終わった。
晋太郎の秘書役・江田は、別荘にこもりがちの藤川と会社とをつなぐ連絡係
を務めている。切れ者と呼ぶには程遠い容貌で、小柄で胴長の上、野暮ったい
眼鏡を掛け、前髪がその目元を隠しているせいかもっちゃりとしたイメージの
ある彼だが、それがかえって秘密保守の義務を遂行するのにプラスに作用して
いる節があった。だからこそ、晋太郎の方も安心して指図・命令を出せるのだ。
「うむ。新製品開発の遅れが気になるが、とりあえず、今年もことなきまま乗
り越えたようだな。ま、本当の年末は三月だが」
「これまで順調に発展してきたのは、社長の適切な指示があったからこそです。
それが全社の一致した意見」
「おまえに持ち上げられてもしょうがない。当面、頭が痛いのは会社よりも賢
治の存在だ」
「木村賢治さんのことですか?」
「ああ。元は私が悪いんだから、しょうがないんだが、ここまで家族に迷惑が
かかると、どうもうまくない」
落ち込んだ声になる晋太郎。わずかな沈黙の後、江田が口を開いた。
「かりそめにも社長のご子息である方に対して、申し上げにくいんですが……」
「かまわん」
「あの人には何と言いますか、人生の目標のような物がないようですから、こ
のままの状態がずっと続くことは、充分に考えられます。今の内に、何か手を
打ち、はっきりさせておかないと……」
「そうだろうな。おまえに言われるまでもない。分かっているつもりなんだが」
とは言え、晋太郎に妙案がある訳でもなし。結局、言葉を濁すだけであった。
予定にない訪問者があったのは、降雪の勢いがいよいよ強まった午後五時半
の薄闇の中。
「すみません。助けてくださいっ」
家人が応対に出るのを待ちきれないのか、声の主――女は、玄関の扉をがん
がん叩き続ける。
「どちらさんですか」
この時間帯比較的暇な加藤和夫がのそのそと慣れない応対に出る。加えて、
先日の雪かきで痛めた腰がようやく治りかけているのだ。動作が緩慢なのはや
むを得ないところだ。
背を丸めた和夫は羽織った綿入れの両ポケットに手を突っ込み、まだ鍵を開
けようとしない。
「さ、坂上と言います! 雪で車が動かなくなって、困ってるんです。助けて
ください、お願いします!」
先ほどから救援を頼んでいるにも関わらず、のんびりと名前を尋ねてきた和
夫に腹を立てたか、女は金切り声になっている。
「分かりました。ただ今開けます」
靴を突っかけ、よたよたと歩み出ると、右手でドアを開けた。用の済んだ右
手は、すぐにまたポケットへ引っ込む。
坂上と名乗った女性は、転がり込むように中に入ってきた。
「すみません、ありがとうっ。はあ、生き返る!」
頭を振ると、髪に張り付いていた雪が肩に落ちた。すると今度は肩に載って
いた雪と一緒になり、より大きな雪の塊と化して落下していく。
えんじ色のブルゾンにジーパンという出で立ち。顔の化粧は、この寒さと雪
のおかげでほぼ壊されていた。
「ひどい雪のようですな」
医者のくせしてこういうときの対処法に疎い和夫は、相変わらず悠然と言っ
た。見知らぬ訪問者を警戒しているのでは決してなく、彼の地である。
「はい。ですが、車を押してくださる方がいれば、何とか」
「先ほどテレビでやっていたのだが、ここら一帯は大雪警報が出とります。動
き出してもまたストップするのが落ちでしょうな。私がここの主人に頼んでき
てあげます」
「え? あの、あなたがご主人ではないのですか。それに、何を頼んで……」
突っ立ったまま、どうしていいのか戸惑う様子の坂上に、和夫は背を向け、
奥に歩き出した。
「お泊まりになっていきませんか。なに、晋太郎さんは優しい人だから大丈夫。
おーい、久仁香!」
不意に大きく叫んだかと思うと、ちょうど手が空いたのか、ほとんど間をお
かずに白エプロン姿の加藤久仁香が現れる。
「何ですか。ま、この方は?」
坂上を見やりながら、どちらともなく尋ねる久仁香。
「車が立ち往生して困っているそうだ。何か温かい物を差し上げるといいかと
思い付いてね。僕は晋太郎さんに伝えてくるよ」
「分かりました。さあ、お上がんなさいな」
久仁香はスリッパを用意し、坂上が履きやすいように置いた。そして満面の
笑みで迎える。
「どうも。お邪魔します……」
困惑をさらに深めたように目をぱちぱちさせながらも、坂上は靴を脱いだ。
雪の日、暖房の誘惑は何ものにも勝る。
豪雪により、貴之達の予定は大幅に狂っていた。
「こんなことなら、来るのを遅らせればよかったわ」
良子に至っては不機嫌そのもの。シャープペンシルを鼻の下に挟み、両肘を
突いている。
「向こうに彼氏でもいるの?」
宿題を見てやっている牧が頬を緩ませた。
良子はペンを取り落とすと、首を強く左右に振る。
「面倒臭いのはいませんよ。せいぜい、お友達ってやつ」
「誰だ、そいつ? 会わせろよ」
貴之がからかい気味の笑みを見せると、妹の良子だけでなく牧まで怒り出す。
「そっちはレポート、ちゃんとやってよね」
「へいへい。分かっております。クリスマスイブに、こんな熱心に勉強する羽
目に陥るたあ思わなかったぜ、なあ」
隣の友人と顔を見合わせた貴之。
流の方はさして表情に変化なく、ワープロで文字を打ち込んでいく。
ある必須科目の単位取得の合否を決める重要なレポート課題が出されていた。
三人のグループで行う課題だ。それを片付けるのも、今回の宿泊の目的の一つ
である。
「お食事の支度ができましたが、どちらで召し上がります?」
静かなノック音のあと、加藤久仁香が姿を現した。
「親父達は?」
貴之は目元を揉みながら聞く。
「お部屋で召し上がられるそうです。実は最初は、皆さんとご一緒する形を望
んでおられたんですけれどね、お客様がいらして」
「お客様って、この雪の中を?」
とっくにノートを閉じた良子が、素っ頓狂な声を上げた。
久仁香は、坂上伊予という若い女性が雪のせいで足止めを食らい、今夜中の
天候回復の見込みが薄いため、泊まっていくことになった旨を告げた。
「皆さんがご一緒する席に、その方に加わわってもらうのも気を遣わせるだろ
うというご判断で……」
「なるほどね。まあ、私は気にしないんだけど」
良子は自分でも言う通り、人見知りしない質だ。今日初めて顔を合わせた流
とも早くも打ち解けて、普通に、いや、むしろ馴れ馴れしいほどに親しく話せ
るようになっている。
「で、どっちにするんだ? 俺は食堂でわいわいやりながら食うのが好きだ」
「兄貴を一人、食堂に送り込むのは忍びないから、私もそれでいいよ」
結局、貴之達四人は食堂に向かった。
食事が終わり、男性陣がコーヒーを飲み、女性陣がケーキを食べているとき、
坂上が茶碗の載った盆を手に姿を見せた。食べ終えて、食器を返しに来たとこ
ろだった。
早速挨拶を交わし、人懐っこい良子がさらに深く突っ込む。
「坂上さんはお仕事、何をなさってるんですか?」
「記者です。週刊誌の記者。今日は久しぶりの休暇をもらえて……」
途中で台詞を止める坂上。
藤川家の人間二人の顔に、緊張感が生まれていた。
「あの、私、何か気に障るようなことでも……」
坂上が消え入りそうな声になるところへ、フォローするように貴之が応じる。
その表情はまだ硬いが、口元には笑みが浮かんでいた。
「失礼しました。ちょっと……週刊誌とかの記者には昔、よくない思いをさせ
られたことがあるので……。坂上さんの責任ではありませんよ」
「そうでしたの。何も知らずにすみません」
頭を下げると、坂上は恐る恐る探るような目つきになった。
「名字を伺って気になってはいたんですが……ひょっとしてこちらの藤川さん
とは、FUJIXの……」
再び顔の筋肉を強張らせる二人。貴之は短く答えた。
「ええ」
坂上もそれ以上は尋ねず、少しばかり白けた空気が流れる。取りなす役割を
担う者もいない。
「今日のことは本当に感謝しています。明日になって吹雪がやめば、早々に立
ち去りますので」
固い調子で告げると、坂上は現れたとき以上に肩身の狭そうな態度で引き返
していった。
「お父さん、よく泊めたなあ。マスコミだってこと、泊める前に聞き出さなか
った訳じゃないでしょうに」
ぽつりぽつりとつぶやく良子。貴之が反応する。
「それだけ立ち直ったってことじゃないか。俺達も気にする必要なんてない」
彼はそう言うと、今になってやっと場の空気をやわらげようとしてか、こと
さら明るくした声に転じ、皆に向き直った。
「さあてと! 度の過ぎたホワイトクリスマスだが、めでたいイブには違いな
いんだ。せいぜい楽しまないとな!」
果たして、若い者同士で小規模なプレゼントの交換会をやったり、ゲームに
興じたりと、表面上は楽しいひとときが訪れた。
九時を過ぎるか否かの時分になると、貴之と夏美がそわそわし始める。しき
りに時計を気にするわ、ゲームは上の空だわ……。察したのは良子だった。
「宿題やろうかな」
「あらっ、良子ちゃん。今夜ぐらいはいいじゃない」
「お構いなく。一人でやりますから、夏美さんは兄貴とごゆっくり」
そこまで言ってにやにやすると、良子は流の方を向いた。貴之と良子が何や
らうろたえた口調で言っているが、良子の背中が無視を決め込む態度を雄弁に
語っていた。
「流さんも退屈でしょう? 気分転換に中学生の宿題を解いてみませんか?」
「やってみよう」
長めの髪をなでつけ、立ち上がる流。
いつもなら冗談の一つも言って当然の貴之が、実に大人しい。赤ワインに浸
けた白いティッシュみたいに、耳が瞬く間に朱に染まっていった。
廊下に出て、良子が自室のある左手に向かおうとしたのに対し、流はあてが
われた部屋のある方へ足を向けた。
「流さん、どこへ行くんですか」
「自分の部屋だけど、いけないかい?」
立ち止まらずに首だけ振り返って答える流。
良子はきびすを返して駆け寄ると、流の手を取った。
「さっき言いましたよ。宿題、見てくれるんじゃないんですか」
良子が引っ張ると、流は立ち止まった。
「あれは本気だったの? てっきり、貴之達を二人っきりにするための口実だ
と思ったよ」
「もちろん、それです。だけど、宿題を見てもらうのも本当」
「僕は牧さんの代役かい。女性じゃなきゃまずいだろう」
「流さんでもいいですよ。何にもしないでしょう?」
「当たり前だ。だが、僕にそのつもりがなくても、親御さんが許すはずない。
だからこそ女性を家庭教師としているんじゃないのかな?」
「だったら……ドア、開けておきます。いつでも誰でも見えるようにしておけ
ば問題なし」
藤川家はそれなりに裕福とあって、屋敷中に暖房が行き届いている。扉を閉
じておく必要はない。
「弱ったな。あとで貴之や君のお父さんお母さんに変に思われる」
「考えすぎですってば」
良子が流の左腕を強く引いたとき、廊下の突き当たりに人影が現れた。木村
だった。
彼は良子達に間違いなく気が付いているはずなのに、特に言葉を発すること
もなくゆらりゆらりと歩いてくる。離れからこちらにやって来たばかりなのだ
ろう、その頭には雪がうっすら載っており、白みがかっていた。両手は古びた
ジャンパーのポケットに突っ込んだままで、払う仕種一つない。
彼は良子達とすれ違う寸前になって、初めて声を発した。
「メリークリスマス、お嬢さん」
そのまま行ってしまうのかと思いきや、足を止める。
「何も言ってくれないの?」
「口を利いてほしけりゃ、言ってやるわ。こんな時間に何しに来たのよ」
良子は嫌悪感を隠さない。目を合わせるのさえ、本当は嫌だ。
木村はにやりと唇を歪め、片手で髪を梳いた。溶けかかった雪がぽろぽろと
廊下の床板に落下する。
「あちらは一人にいるのは寒すぎるからね。いくらストーブがあると言っても、
一人じゃ心が寒い。それに今日はクリスマスイブ。芸術家と言えども、人恋し
くなるさ」
「この家の誰も、あんたなんか歓迎しないわ。どっかの飲み屋にでも行ったら
いいのよ」
「吹雪じゃなかったら出かけるとも。またぞろ女を抱きたくなったことだしね
え。忌々しい雪だ」
恥じるどころかへりくだる気配もなく放言すると、木村は良子にウィンクを
してきた。
「何なら良子お嬢さんでもいい。年齢が下過ぎて趣味じゃないが、間に合わせ
には手頃」
「それぐらいにしておけ」
二人の間に割って入った流。肩をそびやかし、今にも木村の胸を突き飛ばし
そうな風情だ。
「何だよ、おまえは。見かけない顔だな」
木村の声は、しかし震えがちだった。普段から鋭い流の目つきが、今や冷た
い光を帯びたかのような凄みを伴っている。
「それは名前を知りたいってことか? 教えてやってもいいが、その前に確認
しておこう。君は木村賢治だな」
「そ、そうだ。何で知っている?」
「聞いたんだよ。そっちもよく聞け。僕の名は流次郎。さあ、他にご注文はあ
るかな?」
「ふ、ふざけてんのか、おまえ」
「それも質問かい? ならば答はノーだ。ちゃんとした目的があって君と会話
しているのだ、木村君」
「目的だぁ?」
しかめっ面になった木村の鼻先へ、流は素早い動作で右拳を持って行った。
良子はびくりとして手で顔を覆ったが、指の隙間から見えた光景は予想と違
った。流の手は木村の顔面に当たる寸前で止まっている。
「う……わ」
驚く暇がなかった様子の木村は、一拍遅れてその場から飛び退いた。現れた
ときの斜に構えた態度は、どこかに雲隠れしている。
「これからの成り行きによっては、君の鼻を殴るという目的だ。クリスマスイ
ブにふさわしく、トナカイの鼻のように赤くしてあげよう」
「……ふん。冗談じゃないね」
再び両手をポケットに入れると、肩をすくめた木村。そのまま猫背気味にな
り、歩き始める。
「芸術家は暴力なぞ必要としないんだ」
「それもそうだな」
流は視線で木村の背を追いながら、つぶやくように言う。
「暴力を振るう詐欺師なんて、聞いたことがない」
木村は肩越しにちらりと振り返ってきたが、押し黙ったまま元のように歩き
出すと、やがて良子達の視界から消えた。
流は視線を良子に向け、穏やかな口調になる。
「悪かったね。荒っぽいところを見せてしまって」
「いいんです、いい気味だわ」
「僕も喧嘩は嫌いだが、木村君はどうやらのらりくらりと弁が立ちそうだった
ので、手っ取り早く片付けるにはあれが最善の方法かな」
「あの……流さんはおいくつですか?」
「二十歳だけど、どうしたの、いきなり?」
面白そうに尋ね返す流に、良子もまた愉快になって応じる。
「じゃあ、あの男の方が年上なんだ。それを木村君だなんて傑作!」
「ああ、そんなことか。年齢が全てじゃないだろう。事実、君だって木村君を
あんた呼ばわりしていた」
「まあね。――いっけない、くだらないことやってたら時間が! 早く部屋に
行こうよぉ、流さん。宿題、宿題」
急に甘える良子に対し、流はため息をついた。
結局、部屋には行ったものの、ドアは当然開け放したままである。
良子は机とセットの回転椅子に、流は良子の用意したクッションに腰を下ろ
した。
「宿題する気分じゃなくなったから、お話をしませんか」
「いいよ。その前に、あんまり丁寧な喋り方はやめよう。さっきみたいに、ざ
っくばらんな方がやり易いね」
「オッケー」
「その調子」
微笑した相手に、良子は早速質問する。
「流さんに恋人はいるんですか。兄貴にいるぐらいだから、いてもおかしくな
いよね」
「やれやれ、そういうお話か。うん、親しくしている女性ならいるよ」
「今日はイブなのに、放ったらかし?」
「恋人だとは言ってない」
「そんなあ。それじゃあ話が面白くも何ともないじゃないですか。プレゼント
ぐらい渡したんでしょ、流さん?」
「そうだなあ」
上目遣いの流には、どう話そうか考えあぐねる態度が見え隠れする。
「プレゼントはしたけれどね。彼女は旅行で、イブやクリスマスの都合が着か
なかったんだ。だからふられたのは僕の方かもしれないな。まあ、おかげで、
レポートを早く片付けられる訳だ」
「冷たいのね、その人。流さんを置いて行っちゃうなんて」
「それは違うよ」
大真面目に否定し、そのあとも事情を細かに話す流に、良子は感心すると同
時に笑いそうになってしまう。
「分かりました。じゃ、そこまで想ってる相手に流さんは何をプレゼントした
のか、興味ある」
「僕だけ話すのは不公平だと思わないかな?」
流は人差し指を立てた右手を、自らの唇の前にかざした。
「君の方はどうなんだろうね」
「なるほどー、そう来ましたか。これは大きな声じゃ言いにくいわ」
照れつつも、話したくない訳ではなく、良子は声を小さくした。
小一時間もした頃、二人の取り留めのないお喋りがストップしたのは、突然
の悲鳴による。男とも女ともつかぬ、断末魔のような叫び……。
最初、外で吹雪く音を聞き違えたのだと思った良子だったが、流が腰を浮か
したのを見て、考えを改める。確かめると、窓の向こうで雪はやんでいた。
「流さんも聞きましたよね? さっきの……」
「あれは間違いなく人の叫び声だった」
良子を置いて部屋を出る流。良子も椅子を蹴って立ち上がり、急いで追う。
「方向がまるで見当付けられない」
廊下を出て数歩行ったところで立ち尽くす流に、良子はついさっきの悲鳴が
どちらから聞こえたか突き止めようと、必死に考える。当たり前だが、この家
の間取りなら流より自分の方が詳しいという自負もあった。
「とりあえず右だと思います」
他に人の姿を目にしないのが不思議であったが、かまわず流に伝えた良子。
「右。何があるのかな? えっと」
進行方向を右に取りながら、流が聞いてくる。
「さっきまでいた応接間というか大部屋があるでしょ。それからお風呂場、階
段があって、二階には兄貴の部屋とお客様用の部屋が固まってるわ。流さんの
部屋もね」
「そうか。それに、木村君が向かったのもこっちだった……」
流の言葉に、はっとする良子。叫び声の元に向かう歩みが鈍り、次の瞬間に
は一段と早くなっていた。
大部屋を覗くと貴之も牧もいなかった。あれからどちらかの部屋に引き上げ
たとみえる。続いて浴室に顔を突っ込んだが、やはり誰もいない。
「二階からか」
流と良子は階段を駆け登った。足音が響く他は静まり返っている。
二階に着いてからは、さっきまでと逆方向に歩いていく。物置のスペースを
通り過ぎ、最初の部屋。
「ここは?」
「空き部屋のはずだったけど、あの女の人が来たから、使うとしたらここだわ」
「よし。――坂上さん、おられますか?」
閉ざされたままの扉を流がノックしたが、反応なし。
――続く