#204/598 ●長編 *** コメント #203 ***
★タイトル (pot ) 03/12/11 11:04 (499)
アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(7) 佐藤水美
★内容
フィリスは足を止め、腕組みをしたまま天井に視線を向けた。
「つまり枯れてしまったと?」
「ギルト中から腕のいい庭師を集めて、何とか再生させようとしたんだが……。ど
んなに手を入れても荒れる一方だった」
「不思議なことがあるものだね」
ビューロを奏でるミレシアの後ろ姿を思い出す。庭園に入ったときは、すでに花が
咲き乱れていた。ということは、やはり……。
「あまり驚かないんだな」
フィリスはそう呟いて、訝しげな眼差しを向けた。
「荒れていたっていうのが、ちょっと信じられなくてね。でも理由はともかく庭は
復活したんだから、よかったじゃないか」
ステファンは内心ぎくりとしたが、表情には出さず軽い口調で言った。
ベルノブラウの酒毒を消し、枯れた植物を蘇らせる。ミレシアが何者であるのか、
もう疑う余地はないように思えた。しかし彼女と暮らしていたシド博士は、何故そ
の不思議な力に気づかなかったのだろうか。
「甘いな、ステファン。結果には必ず原因が存在するものだ。庭の調査は明日にも
始めようと思う。植物の生育に関して、新しい発見があるかもしれないからね」
「発見か。調べる前に、マリオンにも見せてやってくれ。もう知ってると思うけれ
ど、花が大好きだから」
「ああ……そうするよ」
フィリスは急に顔を真っ赤にして、恥ずかしそうにうつむいた。首のスカーフを
やたらといじる。
初夜はうまくいったらしい。マリオンも時間が経てばフィリスの良さがわかり、
ギルト王家にも自然になじんでいくだろう。挙式前夜の憂鬱は、取り越し苦労にす
ぎなかったと思える日々が早く来ますように。ステファンが妹にしてやれるのは、
心の中でそう祈ることだけだった。
「話題がすっかり逸れてしまったな」
フィリスは襟元を引っ張りながら言い、再びソファーに腰を下ろした。頬にはま
だ赤みが残っている。
「君の話の続きを聞かなくちゃ」
聞いてもらわねば困る。肝心なことは、まだ何ひとつ語っていないのだから。ス
テファンは軽く咳払いをしてから口を開いた。
「実を言うと、博士の家でベルノブラウの酒毒が回ってしまってね。情けないこと
だが、孫娘に介抱してもらったんだ」
「何だって!?」
「回復できたのは彼女のおかげさ。だから……」
「おいおい、ちょっと待ってくれよ」
フィリスは苦笑しながら、ステファンの言葉を遮った。
「あの執念深い酒毒が体内から完全になくなるには、どのくらいの時間がかかると
思う?」
「二日か三日ぐらいか?」
「飲んだ人間の体質や酒量にもよるが、平均したところでは五日から六日だ。一晩
で毒素が排出されるなんてことは絶対にありえない。ただしこれは、酒毒による症
状が現れなかった場合に限る」
「でもフィリス……」
「最後まで聞けよ、ステファン。問題なのは、ヘクターのように身体が酒毒に犯さ
れてしまった場合だ。こうなると回復までには少なくとも一ヶ月はかかる。古い文
献には失明したという記述さえ残っているくらいだ。むろん稀な事例として、だけ
どね」
急速にかすんだ視界を思い出す。ステファンは背筋が冷たくなるのを感じた。も
しミレシアが側にいなかったら、永久に光を失っていたかもしれない。
「うまい酒は他にいくらでもあるのに、どうしてあんな下手物を愛好する連中がい
るのか理解に苦しむよ」
「全くだな」
「今は元気でも無理は禁物だ。一度症状が出た後なら、特に静養する必要がある。
せめて四、五日はゆっくり休んで、身体から酒毒が排出されたかどうか医師に調べ
させたほうがいい。毒素が残った状態でアストールへ旅立つのは、あまりにも危険
すぎる」
「そこまで言われると、不安になってしまうな」
「用心するに越したことはないよ。それにしても君は幸運だったな。ヘクターと同
じ量のベルノブラウを飲んだのに」
「日頃の行いがいいからさ」
ステファンが肩をすくめて軽口をたたくと、フィリスは笑いを堪えかねたように
吹き出した。
「アランが今の台詞を聞いたら怒るぞ。君はたぶん特異体質の持ち主なんだよ」
「私が特異体質だって? そんなことはない、回復したのは」
「博士の孫娘のおかげ」
フィリスはすかさず続け、にやりと笑った。
「さては惚れたな」
ステファンは自分の顔が紅潮してくるのを感じ、何も言わず急いで立ち上がった。
窓辺に歩み寄り、外を覗くようなふりをして友に背を向ける。
「私より先に会ったんだろう?」
ミレシアの姿を見ても平静でいられる男が存在すること自体、信じられなかった。
但し、シド博士は別として。
「うん。確かにミレシアとかいう孫娘には会ったけど、顔はよく見えなかったな。
彼女はベールを頭からすっぽり被っていた上に、最初から最後までうつむいたまま
だったからね。自分の足許がよほど心配だったらしい」
「言葉も交わさなかったのか?」
「声をかけてもしゃべらないんだよ。かえって博士のほうが慌てていたな」
「そうか……」
フィリスはミレシアの美しい素顔も魅惑的な声も知らなかった。この事実は、ス
テファンだけでなくマリオンにとっても幸運だったと言えよう。
「だが、君とは話をしたわけだ」
「初めて出会ったとき、私がアストールの王子だとは知らなかったからね」
ステファンはそう言うと、窓を背にして友のほうに向き直った。
「フィリス、頼みたいことがあるんだ」
アランは愛馬の手綱を城の馬丁にゆだねると、右腕を吊った三角巾を素早く外し
た。敗北の印のような布を丸め、上着のポケットに押し込む。独特の臭いがする湿
布も一緒に引き剥がしてしまいたかったが、ここで片肌を脱ぐわけにはいかない。
今日は人生で最低の一日だ!
不機嫌な表情を露わにして中庭を突っ切る。頭の中では、主人との口論に始まる
一連の出来事が駆けめぐっていた。特にジュダに受けた屈辱を思い返した途端、体
内の血が煮えくりかえるような怒りを覚えた。
城の中に入り、荒々しい足音を立てて騎士詰所に向かう。嵐の吹き荒れる胸の内
とは裏腹に、廊下は不気味なほど静かだった。
話し合いは今頃どうなっているのだろうか。結果によっては、自分ひとりの首を
差し出すだけでは済まなくなる可能性もある。
十年前に一度死んだような身なのだから、命など惜しくはない。だが主人だけは、
どうしても守りたいのだ。
「くそっ、あの小娘め……」
眉間に深いしわを寄せ、憎悪を込めて呟く。恩人の孫娘という事実を差し引いて
も、憎しみが薄れることはなかった。
彼女にさえ出会わなければ、主人は博士の家に行く必要もなく、大公殿下を説得
するという役目を負うはめにもならなかっただろう。
城に到着した最初の夜、主人の怒りを買っても部屋の中に踏み込んでいたら。あ
のとき聞こえた女の声は空耳ではない。ジュダの嘘をもっと早く見抜いていたら。
様子を探るまでもなく、すぐに家の扉を叩くべきだった。自分が選択した行動の結
果が今日に繋がっていると思うと、悔やんでも悔やみきれない。
詰所の扉が見えた。普通なら騎士たちの話し声が微かに聞こえてくるのだが、己
の足音しか耳に入らない。嫌な予感を覚えつつ、扉を開け放つと――。
「何だ、これは!」
詰所には誰も残っていなかった。床には空の酒びんが数本、ひっくり返ったボー
ドゲーム盤とその駒、脱ぎ捨てられた下穿きやシャツが散乱していた。騎士たちの
ベッドはどれも寝乱れたままで、部屋の片隅にあるテーブルの上には、食べかすの
こびりついた器やフォークが、めちゃくちゃに積み重なった状態で置きっぱなしに
なっている。体臭と残飯、そして酒の入り交じった悪臭が鼻孔を突く。
アランは慌てて鼻と口を手で覆って廊下に出ると、内部の空気を漏らさないよう
に扉をきっちり閉めた。連中とは部屋が別で本当によかったと思う。
それにしても、誰もいないとはどういうことか。滞在が延びたとはいえ、主人を
守護するという役目が終わったわけではない。
またジュダの仕業に決まっている。おそらく、皆をティファのいかがわしい店に
でも案内しているのだろう。己の主人と仲間のひとりが存亡の危機に立っていると
いうのに、呆れかえった奴だ。やはり昨日のうちに絞め殺しておくべきだった。
アランは大きなため息を吐くと、踵を返した。腕をさすりながら、来た道を戻る。
剣闘士あがりのジュダが加わってからというもの、メンテル騎士団は規律だけで
なく品位まで失ってしまった。国王直属で、しかも貴族の子弟ばかりで構成されて
いるアストール騎士団とは違い、メンテルの団員たちは出自や財力において著しく
劣っている。だからこそ、剣の腕だけではなく、教養を身につけ礼節を重んじるよ
うにと厳しく教え続けてきた。それがやっと実を結ぼうとしていたところに、あの
男がやってきて何もかもぶちこわしたのだ。
「あの、コルベット様……」
ふいに若い女の声がした。足を止めて肩越しに振り向くと、顔を妙に赤らめた侍
女が気取った会釈をするのが目に入った。
「私に何か?」
アランは冷ややかな声で訊いた。愛想笑いをする気にもなれない。
「お妃様が謁見の間でお待ちです。昨夜の件で尋ねたいことがあるから、すぐに来
るようにとの仰せでございます」
「わかりました。必ず伺うとお伝え下さい」
アランは逡巡せずに返答を告げ、侍女に背を向けて再び歩き出した。マリオン王
女、いや妃殿下が何を知りたがっているのか、およその見当はついている。
まずは話してもかまわない事柄と、秘密にしておくべき事柄とを注意深く分けて
おく必要があるだろう。それでいて話の流れは、妃殿下を納得させる程度に自然で
なければならない。彼女は意外に鋭いのだ。
難しくても、やり遂げなければ。
アランは足を速めた。
「どうだろうか?」
そう訊いて、ステファンはフィリスの顔を探るように見た。友は口をつぐんで視
線を落とし、腕組みをして考え込んでいる。
ヴェーネ・ルード―平民女性に贈られる最高の称号―をミレシアに与えて欲しい。
彼女は酒毒に犯された王子を救ってくれたのだから、褒美を得る権利がある。
こちらの言い分には、さほどの無理はないはずだと思う。ステファンはソファー
に腰を下ろし、相手に決断を迫るように、無言でにじり寄った。
「君の気持ちはわかるが……」
フィリスは半ば呻くように口を開いた。
「褒美をやりたいなら、別に称号じゃなくてもいいだろう? 金貨や絹織物のほう
が、審査のあるヴェーネ・ルードより手っ取り早いし役に立つぞ」
「いや、駄目だ。どうしてもあれが欲しい」
「やけにこだわるじゃないか。理由を知りたいな」
「ミレシアをアストールに連れて行って、父上に会わせたい」
「ふむ。それで?」
「いずれは彼女を……妃に迎えたいと思っている」
ステファンが声を少し落として告白した途端、フィリスは目を剥いた。
「本気なのか!?」
「ああ。だからどうしても称号が必要なんだ」
「やれやれ……変わってないなあ」
フィリスは嘆息し、呆れたように首を振った。
「かつて君が闘技場で腕試しをした日のこと、思い出すよ」
「どうして? 今回の件とは関係ない」
「困難に挑戦したがるからさ。その善し悪しはさておき、未来の王妃を君の独断で
決めてもいいのか?」
「自分の妻は自分で決める。父上から受け継いだようなものだ」
「というと?」
「父上も独断で、私の実母を娶った。フレス卿の話では、出会ったその日に結婚を
申し込み、リーデン城に連れてきてしまったそうだ」
「あの国王殿下が? 情熱的だな」
「私も初めて聞いたときは、正直言って驚いたよ。でも父上のことより……」
「わかってるよ、ステファン。公国教会での審査には、大いに口出しすることにし
よう」
フィリスは笑ってステファンの肩を軽く叩いた。
「ありがとう、恩に着る」
この件に関して残された問題といえば、ミレシアが公国教会で洗礼を受けている
かどうかだった。博士のところへ早急に使いをやって、確認しておかなければなら
ない。たとえオリガの教えを棄てていなくとも、フィリスの口添えがあれば大きな
障害にはなるまいが、やはり改宗していたほうが有利なのだ。
「それにしても、シド博士がよく承知したな。確か、あの娘は彼にとって唯一の肉
親のはず。もし私が同じ立場だったら、手放す気にはなれないね」
フィリスがそう感じたのも、もっともな話だった。どうかお許し下さいと断られ
ても、おかしくはなかっただろう。
石板の件を持ち出せるのは、この瞬間をおいて他にはない。ステファンは表情を
引き締めて友の目を見た。
「博士が私にミレシアを託したのは、理由があってのことだと思っている」
「理由?」
「例の石板だよ。博士はあれに刻まれた文言をかなり気にしていた。事実、アラン
とジュダが家の外で悶着を起こして騒いだときは、ひどくおびえて私の足にしがみ
ついたくらいだ。推測だが、ミレシアを災いに巻き込みたくなかったんだと思う」
フィリスの表情がたちまち険しくなる。石板の処分をめぐる彼らふたりの溝は、
予想以上に深いようだ。しかし自分から俎上に載せた手前、後戻りはできない。
「よほど悩んでいたんだろうな。私がミレシアのことを切り出す前に、博士自ら石
板の話を始めてね。君の身をとても心配していたよ」
「……なるほど」
フィリスは低く呟いて、背もたれに上半身を預けた。腕組みをし、視線を壁の上
方に向ける。何気ない仕種にもかかわらず、ステファンは友の頑なさを感じずには
いられなかった。
「それで、どう思った?」
フィリスが視線を動かさずに問う。こちらの意見を聞く気はあるようだが、楽観
はできない。
「驚いた。まずは、このひと言に尽きるね。私はてっきり、あの石板は聖戦士の行
状記を刻みつけた物だと思っていたから」
「行状記か。そっちのほうが面白いかもしれん」
フィリスの口許が一瞬、わずかに緩んだ。
「この半年の間、石板がらみでいろいろあったそうじゃないか。何も打ち明けてく
れないなんて水臭いぞ。私はそんなに頼りないか?」
「別に隠していたわけじゃないさ」
フィリスは即座に答えると、顔をこちらに向けた。心なしか、暗い目をしている。
「久しぶりに会う君に、不愉快な話を聞かせるのは嫌だったから」
その言葉に偽りはないと信じたい。だがステファンには、フィリスの本音が友情
とは別の次元にあるように思えてならなかった。
「私にそんな気づかいは無用だよ。これから先、あの石板をどうするつもりなんだ?
いつまでも礼拝堂の祭壇に入れっぱなし、というわけにはいかないだろう」
「一応、考えてはいる」
「もし差し支えなかったら、聞かせてくれないか? アストールで同じような遺物
が出たとき、参考にしたいんだ」
「期待されるほどのことじゃないよ」
フィリスはそっけなく言って、ふいに立ち上がった。己の机に歩み寄り、腰を少々
屈めて真ん中の引き出しを開ける。そして中から筒状に丸められた紙を取り出すと、
ステファンを手招きした。
「まだ構想の段階だけどね。見てもいいよ」
事も無げに言う。ステファンは引き寄せられるようにソファーを立ち、フィリス
に近づいた。
「では、ちょっと拝見」
ステファンは差し出された紙筒を受け取ると、すぐに縛り紐をほどいた。紙を上
下に広げ、内側の面に視線を落とす。
目に入ったのは、派手な装飾を施された礼拝堂の絵だった。誰の手によるものか
は知らないが、筆を上手に使いこなしており、なかなかよく描けている。
「この絵と同じものを、公国教会の敷地内に建てたいと思っている」
フィリスの声がして、ステファンは顔を上げた。
「石板はどうするつもりだ? 例えば地下にテンペルムス(聖域)みたいな場所を
作って、そこに安置するとか?」
「君の案も悪くないな。でも、私の考えは違う」
いったい何をするつもりなのか。物事を否定的に考えてはならないと思いつつも、
悪い予感が胸の中で雨雲のごとく広がるのを抑えられない。今の自分の表情は、か
なり強張って見えることだろう。
「例の石板は、聖職者や貴族だけでなく我が臣民にも公開するつもりだ。むろん、
外国人が見学したってかまわない。礼拝堂は遺物を入れておく器みたいなものだよ」
「何だって!?」
絵を持つ手が震えた。血の気が引いていくのが自分でもわかる。
「フィリス、どうして……」
「いい機会じゃないか。聖戦士にまつわる遺物なんて、皆無に等しいんだぞ。これ
に匹敵するものは大教会さえ持っていないんだ」
「だが公開するなんて……危険すぎる」
ステファンは苦しげな声で呟き、首を力なく横に振った。
「危険だって? 私の計画のどこが危険なんだ? 昨日、博士に何を吹き込まれた
のか知らないが、石板ごときに怯えるなんて君らしくもない」
「私は怯えてなんかいない。フィリス、石板を見せ物にする必要が本当にあるのか、
よく考えてみてくれ。発見から今日までの経緯を思えば、もっと慎重な取り扱いが
必要なはずだ」
「君は完全に誤解している」
フィリスは表情を固くして言い放つと、ステファンの手から絵と縛り紐を取り上
げた。
「私も当初は、石板を公国教会の宝物庫に納めるつもりだった」
「ならば、どうして方針を変えた?」
呪われた遺物を元の場所に埋め戻さない限り、怪異は終わらない。アカデミアで
秀才と呼ばれたフィリスが、何故こんな自明の理を理解できないのか不思議だった。
「先月、大教会から使者が来た」
友の言葉を聞いた瞬間、ステファンは眉をひそめた。批判本を書いた枢機卿が、
公国内に潜伏していることを知られたのではあるまいか。
「まさか、あの方のことが……」
「大切な方の居場所を、簡単に突き止められてしまうようなヘマはしない。連中は
金を無心してきたんだよ」
「つまり、献金の増額を要求してきたと?」
「上品な言い方をすれば、そういうことになる」
フィリスは口許を歪めて認めると、絵をくるくると筒状に丸めた。紐をかけて縛
り、引き出しの中に戻す。
「大教会はどのくらいの額を?」
「昨年の十倍だ。それだけの金があったら、ここと同じ規模の城がもうひとつ建て
られるだろうな」
口には出さなかったが、今のところアストールにそのような要請は来ていない。
献金の法外な増額が、大教会からの圧力であるのは明白だった。やはり枢機卿の
逃亡には、ギルトが関わっていると看破されているのだ。もしフィリスが要求をは
ねつけたら……。
「あまりにもひどすぎる。減額の交渉はできなかったのか?」
ステファンがそう言った途端、フィリスは顔を引きつらせ、ぞっとするような甲
高い声を上げて笑い出した。
「笑いごとじゃない、ギルトの将来がかかっているんだぞ!」
「では尋ねるが、連中相手に交渉が成立したことがあったか? 君自身の胸に訊い
てみるがいい!」
フィリスは左の人差し指をステファンの鼻先に突きつけ、感情を剥き出しにして
言い放った。驚きのあまり、声も出ない。
大教会相手の交渉は成立しないという言葉は、残念ながら事実だった。過去の経
験を改めて振り返るまでもない。愛人のまま死んだ生母、立太子式が許されない自
分。それを思うと、胸が張り裂けそうになる。
「我がギルトも見くびられたものだ!」
フィリスが声を震わせた。いつもは穏やかな紫色の目が、今日は吊り上がって怒
りに燃えている。使者とのやりとりの中で、大公としての矜持を傷つけられる何か
があったに違いない。
「しかし、私が羊みたいに大人しく言いなりになると思ったら大間違いだ」
「フィリス、君は何を……」
「大教会から公国教会を独立させる。聖職者の皮を被った金の亡者には、我が臣民
の血税を一クルオーネたりとも与えない」
すでに覚悟を決めているらしく、断固たる口調だった。アストールのためを思う
なら、ステファンは今すぐ、独立を撤回するよう言葉を尽くして説得しなければな
らないのだが……。
私には、言えない。
ステファンは心の底で呻いた。理性では説き伏せるのが自分の役目だと自覚して
いても、感情がそれを拒絶してしまう。
フィリスの気持ちは痛いほどわかる。罵倒するのも当然だ。大教会に対する不満、
いや怨念は自分のほうが遙かに強いとさえ思う。
もしアストール王国教会が大教会から独立できたら、すぐにも立太子式が挙げら
れるだろう。正式な皇太子となれば、上級貴族たちが何と言おうと、国政への発言
力は国王に次ぐ強さになる。それに多額の献金を確保するため、国中を走り回る必
要もない。
息をするのさえ苦しいほど、心が揺れ動いていた。こういうときこそ、発言は慎
重にしなければならない。ステファンは、自分にそう言い聞かせて押し黙った。
「だからこそ、石板が必要なんだ」
友の台詞が胸に響く。悪魔の誘惑とは、このような感じなのだろうか。
「いいか、よく聞いてくれ」
フィリスは少し声を低くして言い、ステファンの肩に腕を回した。
「聖戦士に関する遺物がギルトから出土したのは、偶然ではなく必然、つまり神の
ご意志だ。私は忠実な信徒として、大教会という名の悪徳を滅ぼし、真の信仰と自
由を、ギルトはもとより大陸全土にもたらさねばならない。礼拝堂を建設して石板
を公開するのは、闘いの第一歩なんだ」
自国の教会を独立させ、大教会の支配から脱しようとした君主は、これまでにも
複数存在した。その中で最も有名なのは、約四百年前のグランベル帝国皇帝ヴィク
タナスだろう。彼は領土と皇帝権力のさらなる拡大を図ろうとして、当時の教王ラ
トニア四世と厳しく対立した。生臭い権力争いは十五年も続いたとされているが、
勝者となったのは教王だった。敗れたヴィクタナスは強制的に退位させられ、屈辱
あまり憤死したのである。
だが勝ったとはいえ、大教会の威信は著しく失墜した。ラトニア四世は、損なわ
れた権威を回復させるために、俗世への干渉を深めていく道を選んだ。このときの
教会法の改革が、厳格な破門制度や高額献金の義務などを生み出す元となった。
皇帝ヴィクタナスはむろんのこと、過去に大教会と闘った君主の中で生き残った
者はひとりもいない。全員が完膚無きまでに叩き潰されている。この歴史的事実は、
今に至るまで各国の王家を呪縛するものだった。
「無謀だと思っているようだな。だが、私は絶対に成功させてみせる。天と地が逆
さまになるように、大陸の何もかもが変わるぞ」
フィリスはそう言って、ステファンの肩を軽く叩いた。過剰なまでの自信は明ら
かに石板の存在から来ている。世界にふたつとない遺物を利用して大教会を痛打し、
最初の勝利者になるつもりらしい。
「どうしても、石板を使うというのか?」
「当然だ。新しい公国教会には、それにふさわしい象徴が必要だからね」
「シド博士はこのことを……」
「まだ知らない。話したらどうなるか、君だってわかるだろう?」
フィリスは急に苦々しい顔つきになると、ステファンの側を離れてソファーに腰
を下ろした。両腕を広げて背もたれに回し、足を組む。
この先、話をどう持っていけばいいのか。フィリスが政争の道具として石板を使
おうとしている以上、強硬に反対すればギルトへの内政干渉と受け取られかねない。
アストールとの同盟関係を損なわずに、友を説得するには……。
「独立には反対しない。大いにやってほしいね」
ステファンは笑みを浮かべて、あっさりと言ってのけた。石板を手放すと決意さ
せるためなら、どんな協力でもしよう。公国教会の独立も大事だが、それよりも遙
かに重要なのは大陸の安全保障なのだ。
「本気でそう思っているのか?」
フィリスが怪訝な目つきでこちらを見る。発言の真意をつかみかねているらしい。
「もちろん本気さ。君ならきっとやり遂げられるはずだ」
ステファンは語気を強めて答え、友の隣に腰掛けた。互いの目と目が合った瞬間、
唇が最初の一撃を放った。
「たとえ石板がなくてもね」
「な……何っ!?」
「あんな物の力を借りなくとも、独立は達成できる」
「馬鹿を言うな!」
フィリスは大声で怒鳴り、弾かれたように立ち上がった。色白の顔がたちまち紅
潮してくる。予想どおりの反応だ。
「切り札はもう一枚ある」
ステファンは落ち着き払った態度を崩さなかった。そして友の目を瞬きもせずに
見つめたまま、身体を起こして立ち、さらに言葉を続けた。
「口にこそ出さないが、大教会のやり方に不満を持っている者は多い。正直に言え
ば、この私だってそうだ。例の批判本を出版すると同時に、あの方を公国教会の長
として担ぎ出せ。地位といい高潔な人柄といい、全く申し分のない人物だ。そうす
れば、公国教会の正統性が保たれるだけではなく、彼を慕ってたくさんの人々が国
の内外から集まってくるだろう。ひとりひとりは無力でも、数が多くなれば力に変
わる。石板も多くの見物客を呼び寄せるだろうが、人と人とを結びつけることはで
きない」
「私だって、最初は同じように考えた」
フィリスは顔を背け、低く小さな声で呟いた。
「ならばどうして石板を……」
「断られたんだよ! 他に方法があると思うか!? あの恩知らずめ、野に在って
貧しい人々に福音を授けたいとか何とか、綺麗事ばかり吐(ぬ)かして! 私が助
けてやらなかったら、今頃破門されて野垂れ死にしていたくせに!」
幼子さながらに地団駄を踏み、耳を塞ぎたくなるような台詞をわめき散らす。
殿下はお変わりになられました。
アランの言葉が、ふいに脳裏を過ぎる。読みが甘かったか。
「落ち着け、フィリス」
「そうだろうとも、君にとっては他人事だから落ち着いていられるんだ! 一度ぐ
らい私の立場になって考えてみろ!」
「考えてるよ! だから簡単に諦めてほしくない!」
ステファンはフィリスの両肩をしっかりとつかんだ。
「説得の余地はまだ残っている」
「他に手立てがあるっていうのか?」
「あの方は地位や金には興味がないから、それ以外のもので誘うしかない。まず最
初に、大教会から法外な額の献金を迫られて、非常に苦慮していると伝えるんだ」
「君は私に恥をかけというのか? 同情してもらえというのか? 冗談じゃない、
そんなこと言えるか! 手を離せ!」
フィリスは身をよじってステファンの手を振り放そうとした。
「黙って最後まで聞けよ! 次に、献金を満額納めるには、全ての公国臣民に対す
る大幅な増税が必要だと言うんだ。そこまで聞けば、あの方だって馬鹿じゃない。
君の要請を真剣に考え直すはずだ」
「でも、また駄目だったら?」
針のように鋭い視線をステファンに向ける。初めての挫折は、フィリスの心に浅
からぬ傷を残したらしい。
もし自分が大公の立場だったら、献金の減額交渉をして時間を稼ぎつつ、あの方
と密かに連絡を取り合って独立の準備を進めていたと思う。有力貴族や公国教会内
部への根回し、周辺国への働きかけなど、やっておくべきことも多い。
だが、フィリスは問題をひとりで抱え込むだけでなく、その全てを一気に解決し
ようとしていた。いったい何に駆り立てられているのか……。
「失敗はしない」
ステファンは言葉に力を込めた。
「何故そうだと言い切れる? 君は無責任だ!」
フィリスは吐き捨てるように言うと、ステファンの手を振り解き、足早に窓辺へ
歩み寄った。陽はすっかり傾いている。
「少し冷静になれ、フィリス」
友の背中に向かって話しかける。
「君の相手はあの方でも私でもない、大教会なんだぞ。わかっていると思うが、彼
らに対して事を構える以上、何が何でも勝たなくてはならない。そのためには詳細
な行動計画と、周到な準備が必要だ。何度も言うようだが、石板だけで人を動かす
ことはできない」
「そんなに、あの石板が欲しいのか?」
フィリスは肩を微かに震わせて、振り向きもせずに訊いた。
「公国教会の独立と石板の処分は、全く別の問題だよ。一緒にするから、ややこし
くなるんだ。石板を元の場所に埋め戻しても、拓本があるじゃないか。どうしても
公開したければ、そっちを出せばいい」
「駄目だ。本物でなければ意味がない」
「石板はただの物体じゃない、危険きわまりない遺物だ。あれをそのまま放ってお
いたら、大変なことになる。今すぐにでも埋め戻すべきだ」
「絶対に渡さない、石板は私のものだ」
「フィリス!」
どう説明したら理解してくれるのだろう。やはり、アランと自分を襲った妖魔の
話を打ち明けるしかないのか。
「人は……必ず裏切る。でも石板なら、私を裏切らない……」
頭を垂れ、聞き捨てならない台詞を吐く。即位してから今日までの間に、人への
信頼を失うような出来事があったに違いない。
「大丈夫か?」
ステファンはフィリスに近づき、震える肩にそっと手を置いた。
「いったい何があった? よかったら話してほしい」
「別に何も……」
「私は君の力になりたい。友だちじゃないか」
「……ほっといてくれ」
鼻にかかったような感じの弱々しい声だった。ステファンは嘆息し、フィリスの
肩から手を離した。
「君がこんなに苦しんでいたなんて、全く知らなかった。私にできることなら、何
でも協力させてもらうよ」
「無理するな……ステファン」
低く呟き、手の甲で目元を拭う。フィリスは何故、派手な服で我が身を飾らねば
ならなかったのか。今ならその理由がわかる。
「仲間は多いほうがいい。共に大教会の支配を打ち破ろうではないか」
「いや、君は関わるな。独立の話も聞かなかったことにしてくれ」
フィリスは意外にも首を横に振り、きっぱりとした口調で言った。
「どうして?」
「君の気持ちはありがたいと思う、でも……」
ステファンは腕組みをして窓の外に目を向けた。中庭は半分以上建物の影に入っ
てしまっている。
「現実はそう簡単じゃない。アカデミアの頃とは、わけが違うんだ」
「言われなくてもわかってるよ」
「君は本当に昔のままなんだな」
「悪いか?」
「いや、ちょっとうらやましいだけだ」
フィリスはそう答えると、小さな笑い声を上げた。
「ステファン、これからは自分のことを第一に考えるんだ。君の場合、王国内での
立場を揺るぎないものにするのが先決だよ」
正論だった。まず皇太子にならなければ、国政への本格的な介入はできない。だ
が、いったいどうやったら今の膠着状態から抜け出せるのだろう。
「それができればね……大教会のくそったれ!」
「実に素晴らしい表現だが、少々下品だな。ジュダの影響か?」
「奴ならもっと胸のすくような罵詈雑言を知ってるはずさ。今度訊いてみよう」
ステファンは肩をすくめて言い、隣を見た。呼応するように、フィリスもこちら
に顔を向ける。友の表情には普段の穏やかさが戻っていた。
「石板の件は、もう少し時間をくれないか? いろいろ考えたいこともあるし、こ
こですぐ結論を出すのは難しい」
「わかった。必ず考え直してくれよ」
ステファンは薄く笑ったが、胸の中では深いため息を吐いていた。今日の話し合
いは誤算に始まって徒労に終わり、後に残ったのは無力感だった。
大陸の安全と同盟関係、どちらが欠けてもアストールは立ち行かない。説得の難
しさを噛みしめながら、シド博士のことを思う。あの老人は、ひたすらフィリスの
身を案じていた。
「でも、これだけは忘れないでほしい。立場がどうであれ、私はいつでも君の味方
だよ。何の力もないが、愚痴の聞き役ぐらいにはなれる」
「……ありがとう」
フィリスは寂しげな笑みを浮かべて礼を言い、窓の外に顔を向けた。
本当に大丈夫だろうか?
ステファンが不安を口にしようとしたとき、扉の開く音が聞こえた。はっとして
振り返ると――。
「まあ、おふたりともこちらにいらしたのね」
ひとりの貴婦人が艶やかに微笑みながら、部屋の中に入ってきた。豪華な刺繍と
たくさんのフリルが入ったドレスに身を包み、薄絹で覆った頭部には、宝石で飾ら
れたクラウンが輝いている。彼女がこちらに近づいてくるほど、香水の甘い匂いが
強くなった。
「マリ……いえ、妃殿下。おい、フィリス」
思わず肘で友をつつく。気持ちの切り替えは難しいだろうが、新妻の前で萎れた
ような姿をさらしてほしくなかった。
「城中をお探しいたしましたのよ」
マリオンは小首を傾げて言い、ステファンに左手を差し出した。
「申しわけございません。少々長話をしてしまいまして」
片膝をついて身を屈め、出された手を取って軽く接吻する。昔のような兄と妹の
関係ではなかった。
「もう終わったのでしょう? ステファン王子、殿下を私に返していただきたいわ」
「はい、仰せのままに」
(8)へ続く