#203/598 ●長編
★タイトル (pot ) 03/12/11 10:50 (500)
アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(6) 佐藤水美
★内容
第七章 符合
カスケイド城の客間には険悪な空気が満ちていた。
ステファンは窓際に寄りかかると、腕組みをしてアランを睨んだ。美貌の青年は
表情を固くして、主人の視線を投げ返してくる。普段なら女たちを魅了してやまな
い青い目は、一歩も譲らないという強い決意を見せつけて鋭く光っている。
反発は予想していた。石板の話もミレシアとのことも、ステファンひとりの問題で
は済まされない。良くも悪くも、アストールの将来に影響をもたらす可能性がある
からだ。アランが危惧するのも当然だし、彼の心情も理解できる。だからといって
全てを白紙撤回すべきという提案は、到底受け入れられるものではなかった。
「ご理解していただけないでしょうか」
アランが冷ややかに言った。他国の城で不毛な言い争いなどしたくない。ステフ
ァンは奥歯を食いしばって、こみ上げてくる怒りを抑えた。
「何度も申し上げておりますように、石板の件はギルト公国の問題であって、我が
国が干渉することではございません」
「干渉するつもりはない」
そんなことはわかっていると続けたかったが、ステファンは己の言葉をあえて飲
み込んだ。とげとげしい雰囲気から逃れるように、窓の外へ目を向ける。春のうら
らかな日差しが眩しかった。
「お言葉ではございますが、ステファン様にそのおつもりがなくとも、殿下や周囲
の者は干渉されたと思うかもしれません」
「この国の主はフィリスだ、彼なら話せばわかる。他の者は関係ない」
ステファンは目を細め、できるだけ静かな口調で答えた。
「恐れながら、私にはとてもそうは思えません」
「何故だ?」
ふいに虚を衝かれたような感じがした。部屋の中に再び顔を向けると、視界が一
瞬暗くなった。
「理由を言え」
目が部屋の明るさに慣れるに従い、視界がはっきりとしてくる。アランが思いつ
めた顔をしてこちらを見ていた。
「今の殿下はアカデミアの学生だった頃とは違います。大公の座に着かれてから一
年あまり、殿下はお変わりになられました」
「確かに変わった部分はあるのは、私も認める。だが根本のところは同じはずだ。
人間はそう簡単に変われるものではない」
「お考えはごもっともですが、殿下にもお立場というものがございます。上に立つ
者が一度決めたことを簡単に翻すようであれば、権威が傷つくだけでなく、下々は
混乱してしまうでしょう。それを考えれば、たとえステファン様からの忠告であっ
ても、そう易々とお聞き入れ下さるとは思えません」
「間違いは勇気をもって正すべきだと、私は言いたいだけだ。真実が苦いものであ
っても受け入れなければ、そのつけはいずれ己に回ってくる。つけを払うかどうか
は、フィリス自身が決めることだ」
「では……」
アランは一度言葉を切り、主人の目を探るように見た。
「ステファン様のおっしゃる間違いとは、いったい何なのですか?」
「石板のせいで死者が出ているにもかかわらず、フィリスは封印の護符を貼るだけ
という姑息な対策しか取っていない。碑文を解読したいなら、現在ある拓本で十分
なはず。何故石板にこだわるのかはわからないが、再び死者が出てから慌てるよう
では遅すぎる。今ならまだ間に合うのだ」
ステファンは窓際を離れて肘掛け椅子に腰を下ろした。アランはまだ納得してい
ないらしく、固い表情を崩さない。
「しかし殿下は、間違いだとは少しも思っておられません」
「ああ、そうだ。だから困っているんじゃないか」
ついつい投げやりな物言いをしてしまう。こんなやりとりがいつまで続くのか。
ステファンはうんざりした顔で、壁に掛けられた大きなタペストリーに目をやった。
「ステファン様の主張が正しいことを、殿下にどうやって納得していただくおつも
りなのですか? こちらの言い分を無理に押しつければ、理解していただくどころ
か、かえって反発を招くでしょう」
「方法ならある」
ステファンは低く呟いてアランに目を向けた。彼は最初、怪訝そうな表情を浮か
べていたが、主人の意図を察すると顔色を変えた。
「いけません、絶対に!」
そう叫ぶが早いか、アランはステファンの目の前にひざまずき、何度も首を横に
振った。
「あれは極秘のはず、お忘れになったのですか!?」急に声をひそめて言う。
「忘れてはいない。しかしフィリスを説得するには、あのときの話をするのが最も
有効なのだ。生き証人がふたりもいるのだからな」
ステファンは身を前に乗り出し、同じように声をひそめて答えた。だがアランは
眉間にしわを寄せて、再び首を左右に振る。
「そのようなことをなされば、ステファン様ご自身のお立場が危うくなります。エ
ルベクス伯や彼の仲間たちを喜ばせるようなものではありませんか。どうして国王
様のご命令に背いてまで、他国を救おうとなさるのです? それとも……ミレシア
とかいう少女のためなのですか?」
ミレシアの名を口にしたとき、アランの声が微かに震えた。
ここで短気を起こしてはいけない。ステファンはひと呼吸おくと、腕を伸ばして
アランの肩に手を掛けた。
「よく聞いてくれ、アラン。あの石板は呪われた遺物だ。ギルト一国だけではなく
大陸全土の安全を守るために、どうあっても葬らねばならない。シド博士が翻訳し
た部分を読めば、お前だって私と同じ結論に達するだろう。しかしフィリスは死者
が出ているにもかかわらず、目先の発見に心を奪われて真実を見ようとしない」
「ステファン様のお考えは確かに拝聴致しました。ですが、何故例の怪物が石板と
繋がるのですか? 黒い霧が家の中に入っていくのを見たという者の話だけで、一
連の事件に怪物が関わっていると断言するのは危険です。私にはこじつけとしか思
えません」
ステファンはアランの肩から手を離し、上半身を背もたれに預けた。目を閉じて
ため息を吐く。
確かに今は推測の域を出ていないが、奴の存在を完全には否定できない。黒い霧
というのが、やけに引っかかるのだ。
「お願いですから、殿下の御前では昨夜のお話は一切なさらないで下さい」
ステファンはゆっくりと目を開けた。いつになく険しい表情をしたアランの顔を
見ても、決心を変えようとは思わなかった。
「何故いけない?」
鋭く光る青い目を見据えながら、静かな声で問う。互いの意見が全く噛み合わず、
妥協できる部分さえ見つからない経験は初めてだった。おそらくアランも同じこと
を感じているだろう。
「仕方がありませんね」
アランもまた主人を見つめ返し、暗い声で言った。
「このようなことはしたくなかったのですが、やむを得ません。ステファン様はア
ストールに出立する時刻が来るまで、ここから一歩もお出にならない下さい」
「何だって!? 私をこの部屋に閉じ込める気か!」
ステファンとアランは睨み合ったまま、ほぼ同時に立ち上がった。
「どうしてわかって下さらないのですか!? 何の考えもなく殿下にありのままを
申し上げれば、必ず災難を招きます!」
アランが声を荒げる。色白の顔は紅潮し、目つきが変わった。本気で客間に閉じ
込めるつもりらしい。
「それは違うぞ、アラン。熟慮した上で決めたことだ」
ステファンは首を横に振り、努めて穏やかな物言いをした。カッとして怒鳴り返
せば、ここから本当に出られなくなってしまうだろう。つまらない口喧嘩で時間を
浪費している余裕があったら、早くフィリスに会って話をしたい。石板の件だけで
はなく、どうしても彼に頼みたいことがあるのだ。
「熟慮とは、ある物事について様々な可能性を検討しながら、時間をかけて深く考
えることです。しかしステファン様は城にお戻りになってから、まだ半日も経って
おられません。このような状態で熟慮したと言えるでしょうか?」
アランは冷淡に言い放つと、皮肉な笑みを口許に浮かべた。その顔を見た途端、
ステファンは我慢を忘れた。
「いい加減にしろ! 私がそんなに信用できないのか!?」
「そういう問題ではありません! 今回のことが原因でギルトとの間に亀裂が生じ
れば、断罪されるのはステファン様ご自身なのですよ!」
「フィリスにはうまく話す、お前は黙って見ていればいい!」
「いやです!」
アランは噛みつくように叫んだかと思うと、ふいに唇を震わせた。こちらを見つ
める青い目がたちまち潤んでくる。
「私だってこんなことは申し上げたくないのです」
弱々しい声で言う。ステファンは嘆息してアランから目を背けた。どんなに時間を
かけて話し合っても、この件についてはわかり合えそうにない。
「博士と……何か取引をなさったのですか?」
一瞬の沈黙の後、アランの口から出たのは耳を疑うような言葉だった。
「アラン、それはいったいどういう意味だ?」
ステファンは顔をしかめ、聞き捨てならない台詞を吐いた青年を睨んだ。
「理由によっては、お前といえどもただでは済まさないぞ」
「覚悟はできております」
アランは抑揚に乏しい声でそう答えた。頬の赤みがいつの間にか消え、病人のよ
うに青白くなった顔を主人に向ける。
「私には、ステファン様が怪物の存在を打ち明けてまで、石板の一件に介入しよう
となさる理由がわからないのです。この秘密が他国に漏れれば、アストールの根幹
を揺るがす結果を招くことぐらいご承知のはず。にもかかわらず、あえてそのよう
な危険を冒そうとなさる。何か理由があると考えるのは当然でしょう。博士は孫娘
を差し出すのと引き替えに、殿下の説得を懇願したのではありませんか?」
「そんな取引などしていない!」
ステファンはきっぱりと否定し、首を左右に振った。
「お前は命の恩人を貶めるようなことを言っているんだぞ、恥ずかしくないのか?」
「貶めているのではありません。私は真実を知りたいだけです」
「何度も説明したではないか! これ以上お前と話しても無駄だ、私はフィリスに
会いに行く」
「お待ち下さい!」
アランはステファンの進路を阻むように立ちふさがった。
「ギルトに着いてからというもの、ステファン様は何かを隠しておられます」
「またその話を蒸し返すのか! 全くお前という奴は……」
「博士の孫娘をアストールに連れて行って、どうなさるおつもりなのですか?」
アランの目が、ぎらりと光る。最も痛い部分を不意打ちされて、ステファンは返答
に窮した。
役目に忠実なこの青年は、どこまで看破しているのだろうか。実はまだ、ミレシア
がオリガの血を引く少女だとは打ち明けていない。まして、その彼女を自分の正妃
として迎えたいと思っていることなど、今ここで話せるはずがなかった。
父王から結婚の許可を取りつけるには、それなりの準備をして臨む必要がある。だ
からこそ、何としてもフィリスと会見したいのだ。
「正直に申し上げて、私は賛同いたしかねます」
「何だと?」
「王室規範をお忘れになっていらっしゃるようですね。外国人女性と、みだりに情
を通ずるような行為は禁じられています」
「忘れてなどいない、つまらぬ想像をするな!」
「では博士がご帰宅なさるまでの間、ステファン様はあの家で何をしていらしたの
ですか?」
「休んでいただけだ。ベルノブラウの酒毒が回ってひどい目にあった」
接吻と抱擁を交わしたことは、いくら詰問されても白状するつもりはなかった。
アランが知れば、激昂を通り越して発狂しかねない。
「ベルノブラウの酒毒は、そう簡単に消せるものではありません」
「信じられないだろうが、消えたんだ!」
あの白い光、精霊の化身。いったいどう説明すればいいのか。たとえうまく表現
できたとしても、アランはそれを決して受け入れはしないだろう。彼はフィリスに
似て、実証主義的な物の見方をする傾向がある。だが例の怪物の存在だけは、襲撃
され傷を負った経験があるから疑わないのだ。
「ミレシアが、いや博士の孫娘が適切な手当てをしてくれたから、私はヘクター殿
下のようにはならなかった。彼女の薬学知識は必ずアストールの役に立つはず。だ
から連れて行くんだ」
我ながら、うまい言いわけだと思った。筋もいちおう通っている。しかしアラン
は首を横に振るばかりだった。
「博士の家にいらっしゃったのは、酒毒の治療をするためではありますまい。石板
の件も理由にはなりません。私にはわかっているのです」
「回りくどい言い方はやめろ。男らしくはっきり言ったらどうだ」
ステファンは腕組みをし、片足で苛立たしく床を踏みならした。失われた時間は
取り戻せない。あくまでも食い下がるアランが憎らしかった。
「ギルトに到着した夜、この部屋から女性の話し声が聞こえました。いったいどこ
のどなたとお会いになっていたのですか?」
「それは……お前の聞き違いだ。確か、あのときもそう言ったと思うが」
少々口ごもりながらも、ステファンは否定した。おそらくアランは、ミレシアが
客間に入ったと思っているのだろう。そしてなお悪いことに、この青年は己の推測
こそ真実だと確信している。
「聞き違いではございません。貴人の、しかも男性の部屋に平気で忍び込むような
女をお連れになるのは反対です」
「お前はとんでもない勘違いをしているぞ」
マリオンの名誉を守るには、客間には自分の他に誰もいなかったと主張し続ける
しかなかった。ここはギルトの本城、あの夜の出来事がフィリスの耳に入れば大変
なことになる。だがミレシアへの疑いは、ステファン自身が責任をもって晴らして
おかねばならない。
「私がミレシアに初めて出会ったのは、この城の屋上だ。断じて客間ではない。話
はこれで終わりだ。お前に何と言われようと、私はフィリスに会う」
「まだ終わっておりません、お待ち下さい!」
そう叫ぶと同時に、アランは両手を横に広げ、扉に向かおうとする主人の前に立
ちはだかった。互いの意地と意地がぶつかり合った瞬間、ステファンは己の血が、
一瞬のうちに沸騰するのを感じた。もし剣を身につけていたなら、間違いなく抜い
ただろう。
「そこをどけ!」
「絶対にお通しできません!」
「私に逆らう気か!?」
「どうか今一度お考え直しを!」
「くどい!」
ステファンは平手でアランの胸を力まかせに突いた。彼はのけぞったものの、すぐ
に体勢を立て直した。ひるむどころか、こちらの身体に組みついて反撃してくる。
「何をするっ、離せ!」
「離しません!」
足許がぐらりと揺れたとき、騒々しい足音と共に扉が大きく開いた。
「ステファン様! あっ……」
ジュダが驚きの表情を露わにして一瞬立ち止まる。組み合ったままの主従の姿は、
誰が見ても異常だろう。
「アラン、やめろ!」
大男は急いで駆け寄り、ステファンにしがみついているアランを引き離した。
「離せ、余計なことをするなっ!」
両腕を押さえられたアランは、罠から逃れようとする獣さながらに身体をよじり、
髪を振り乱して激しく暴れた。椅子を蹴り倒して床に転がし、絨毯までめくり上げ
てしまう。
十五年もの長きにわたり、アランとは双子の兄弟のように過ごしてきた。その間、
ちょっとした口論なら何度かあったが、互いに妥協をせず、真っ向から身体でぶつ
かり合った覚えはない。美貌の内に秘めた激しい気性を目の当たりにして、しばし
言葉を失った。
「うるせえ、それ以上騒ぐと腕をへし折るぞ!」
ジュダは部屋の外まで響き渡りそうな怒声で一喝した刹那、アランの右手首をつ
かんで腕を強くひねった。たちまち悲鳴が上がる。
「離してやれ、腕が本当に折れてしまう」
ステファンが慌てて命じると、ジュダはすぐに手を離した。アランは右腕を抱え
てしゃがみ込み、苦痛に顔を歪めて呻いている。
「大丈夫か?」
ステファンはアランに近づいて声を掛けた。最初に手を出したのは自分のほうだ
という罪悪感で、胸の中がいっぱいになる。
「いったい何があったんです? こいつと取っ組み合いだなんて、ステファン様ら
しくもない」
「意見が合わなかっただけだ」
ステファンはジュダを一瞥し、襟元を整えながら簡潔すぎる返事をした。いずれ
話すつもりではいるが、今は議論の顛末を、しかもアランのいるところで説明する
気にはなれない。
「はあ、意見がねえ……」
「それはそうと、私に何か用があるのか?」
「いけねえ、忘れてた! 実はエーギルのことなんです」
「どうかしたのか?」
年若い見習い騎士のことは、心の片隅にずっと引っかかっていた。ジュダがわざわ
ざ報告しにくるのだから、いい話ではあるまい。
エーギルの名が出て、アランも腕をさすりながら立ち上がった。やはり気になるの
だろう。
「こっちに着いてから高熱とひどい咳が続くんで、施療院に連れて行ったら……そ
の、ちょいと言いにくいんですが……」珍しく言葉を濁す。
「かなり悪いのか?」
ステファンの言葉に、ジュダは沈痛な面持ちでうなずいた。
「医者の見立てでは、肺病の疑いがあると……」
「何だって!? それで、今の容態はどうなんだ?」
「熱は少し下がったんですが、起き上がれない状態なんですよ。医者の野郎、しば
らくは安静にしておかないと、死んじまうかもしれないって脅かしやがるし……」
医師の言葉は脅かしでも誇張でもないだろう。ステファンは押し黙って唇を噛ん
だ。疲れ切った少年の顔が脳裏に浮かぶ。あのときガレー城に残して養生させてい
れば、発病を防げたのではないかと思うと、いたたまれない気持ちになった。
「エーギルの他に病人は出ているのか?」
「いや、あいつ以外は皆元気です。特にアランは力が有り余ってるみたいで」
ジュダがにやにや笑いながら言った途端、アランは怒りのこもった目で大男を睨
みつけた。
「おっかねえ」
大きな肩をすくめてみせたものの、口許には笑いが残っている。
「よせ、ジュダ。ところでリーデン城からの報告は来たか?」
「はい、でも変わったことは何も。城はもちろん、城下のシスレーも平穏そのもの
だとか」
「そうか、よかった……」
肩に入っていた力が少し抜けるのを感じた。しかしアストールは平和でも、ここ
には問題が山積しているのだ。ぼんやりしてはいられない。
「エーギルは施療院で治療に専念させよう。置いていくわけにもいかないし、出立
は数日延期だ。いいな?」
言葉に力を込めて命令を下し、アランとジュダを交互に見る。だがアランは憮然
とした表情を隠そうともしなかった。
「私の決定に不服でも?」
「いえ……別にございません」
アランは主人の視線を避けるように目を伏せ、沈んだ声で答えた。腕がまだ痛む
らしく、しきりとさすっている。
「よろしい。エーギルにはゆっくり休めと伝えておいてくれ。お前も施療院で腕を
診てもらうといい」
「あのう、ステファン様」
「ジュダ、まだ何かあるのか?」
「大公殿下が、居室でステファン様にお会いしたいと仰せです。ええと……昨日の
話を聞きたいとか何とか」
「馬鹿者っ、それを早く言え!」
ステファンはジュダを叱りとばし、引き放たれた矢のように客間を飛び出した。
フィリスの居室は城の最上階にある。階段を一気に駆け上がると、さすがのステ
ファンも息が切れた。いったん立ち止まって乱れた呼吸を整えつつ、何からどう話
していこうかと考えたが、いい案は浮かばない。自分のやろうとしていることが、
いかに難しく微妙な問題をはらんだものなのか、今さらのように身に染みた。
それにしても、フィリスのほうから昨日の話を聞きたいと言ってくれたのは幸運
だった。アランには悪いが、この機会を逃すわけにはいかないのだ。
まずは、供の中に思いがけず急病人が出たので、滞在を延長したいと申し出ると
ころから始めるのが無難だろう。
顎に手を当てて、いろいろと思案しながら廊下を歩いていくと、正面に居室の扉
が見えた。書庫の前で会ったのと同じ兵士が護衛に立っている。彼はステファンに
気づくや、すぐに扉を開けてくれた。
春の日差しが大きな窓から降り注いで、室内は意外に明るかった。いろいろな書
物が積んである机、年季の入った椅子、暖炉際に置かれたソファーにお決まりの本
棚がいくつか。質素で飾り気がないこの部屋にいると、アカデミアの学生時代に戻
ったような気がする。
ステファンは周囲を見回してフィリスの姿を探した。だがどこにも見当たらない。
「フィリス、いるのか?」
「ちゃんといるよ、ステファン」
奥のほうにある本棚の後ろからフィリスの声がした。書物の整理でもしているのか、
ゴトゴトという音がする。
「手伝おうか?」
「ありがとう、でもあと少しで終わるから大丈夫。すまないが、適当なところに座
って待っててくれないか」
そう言われて、ステファンはソファーに腰を下ろした。火の入っていない暖炉が
寒々しく見える。どのくらい待たされるのだろうか。急いで駆け上がってきて損を
したような気分になった。
背もたれに寄りかかり、天井に目をやる。頭の中で話の内容を考え始めた途端、
落ち着かなくなって脚を何度も組み替えた。
本棚からは相変わらず音がする。ステファンは立ち上がって机に歩み寄った。時
間を潰すには読書しかなさそうだ。
机の上の書物はどれも新しいものだった。『司法と王権』『新しい国家統治・裁
判と財務』『経済学大全』など、政治経済や法学に関する本がほとんどだが、それ
らの中にステファンの目を引いた一冊があった。
『世俗化闘争』――穏やかならぬ表題だと思う。見るからに粗悪な紙で作られてい
る上に、著者の名前すら記載されていない。こういう類の書物があるのは知ってい
たが、手にするのは初めてだった。
体制への批判や過激な思想。表紙をめくって中を読まなくても、内容はだいたい想
像できる。権力者ならば即刻焚書にしたくなるような書物を、何故フィリスは持っ
ているのか。
「ふう、やっと終わった。待たせて悪かったね」
友の声に、ステファンは振り返った。そこには、簡素なローブを着た修道士のよ
うな青年がいるはずなのだが……。
「いや……そうでもないよ」半ば上の空で答えて目を見張る。
フィリスは首に薄絹のスカーフを巻き、総レースのベストと、大振りのカフスや
ポケットに豪華な刺繍が施された、膝丈の上着を身にまとっていた。下半身にはぴ
ったりとした脚衣と、止め金具まで宝石で飾られた靴を履いている。
「やっぱり似合わないと思うか?」
若き大公は己の胸に手を当て、不安そうな声で訊いた。
「よく似合ってるよ。ただ、いつもと全然違うから、ちょっと驚いただけさ」
ステファンが優しく答えると、フィリスは安堵したような笑みを見せた。挙式し
て二日あまり、いったいどんな心境の変化があったのだろう。
「だけど、この服は実務には向かないね。音楽を聴いたり書類に目を通したりする
ときはいいが、机に向かって仕事をしようとすると、まずこいつが邪魔になるんだ。
今日は本の入れ替えで終わってしまったよ」
フィリスは肩をすくめて袖のカフスを指差した。
「私のカフスより一回り、いや二回りぐらい大きいんじゃないか?」
ステファンは自分の袖口とフィリスのそれとを見比べた。目測でも相手のほうが
明らかに大きくて厚みがあり、しかも重そうだ。
「うん、確かに。流行を追うのも楽じゃないよ」
フィリスは嘆息して言うと、ステファンの隣に歩み寄ってふいに手許を覗き込ん
だ。例の本を隠す暇もなかった。
「見つけたな」
「勝手に触ってすまなかった。悪気があったわけじゃなくて……」
「いいんだよ、君にも読んで欲しいと思ってたんだから」
「本気で言ってるのか?」
「そうだよ」事もなげに言う。
ステファンは再び表題に目を落とした。『世俗化闘争』とは何を意味しているの
か。
表紙をめくり目次を読む。
第一章 大教会の真実とその本質
第二章 大教会の歴史的変遷
第三章 真の改革とは何か
「フィリス、これはまずいぞ。どこで手に入れた?」
ステファンは眉をひそめ、声を小さくして尋ねた。よりによって大教会の批判本
とは。だが当のフィリスは涼しい顔をして、口許には薄ら笑いさえ浮かべている。
「神の御使いがくれたのさ」
「変な冗談を言うな。大教会に知れたら破門になってしまう」
破門された者の末路は悲惨だった。全財産を教会に取り上げられ、職を失うのと
同時に町や村を追い出されてしまう。額には入れ墨をされるため、他の土地で人生
をやり直すこともできない。たとえ死んでも葬式は出せず、共同墓地にさえ入れて
もらえないのだ。
「君は破門が怖いのか?」
「怖いとか怖くないとかの問題じゃない。誰が書いたのかもわからない書物のため
に、自分の人生を無駄にする気か?」
「無駄にするなんてとんでもない。著者は変わり者で有名だけど、私より君のほう
が彼の人となりを知ってると思うな。でも私の口から名前を言うわけにはいかない
けどね」
「大教会の内情に詳しい変人で、私も知っている……?」
ステファンは首を傾げ、古い記憶をまさぐった。ふいにアカデミア時代のことを
思い出す。
毎年一回行われるセンテウム・オルラル(聖なる祈り)。この日は学生たちも大
教会のテンペルムス(聖域)に入り、教王を始めとする聖職者や守護騎士団の団長
らと共に、夜明けから夜半まで一切の食を断って祈り続けるのだ。
あれは儀式に初参加した日の出来事だった。正午の聖水を飲んでまもなく、アラ
ンが突然激しい腹痛を起こして倒れたのだ。うろたえるばかりのステファンに声を
掛けたのは、粗末なローブを着た白髪交じりの修道士……。
彼のことは私に任せて、君は祈りを続けなさい。
穏やかで深みのある声が耳許で蘇る。
アランを救ってくれた男が修道士ではなく、枢機卿の地位にあることを知ったの
は、儀式を終えた翌日だった。他の上級聖職者たちとは違って、自ら清貧を貫く変
わり者だという評判を聞いたのも同じ日だと思う。
礼を言いに訪れたステファンに向かって、その枢機卿はこんな話をした。
コルベット君は身体があまり丈夫ではないね。彼にはセンテウム・オルラルに参加
できなくても、決して自分を恥じることなく、ゆっくり養生するようにと伝えてお
きなさい。天のお父様はどんなに弱い者でも愛して下さるのだから。
「わかったみたいだな」
フィリスの声がステファンを現実の世界に引き戻した。
「まだ信じられないよ。あの方が政治的な本を書くなんて……」
「大教会の腐敗と堕落は年々ひどくなってるからね。いても立ってもいられないお
気持ちで、筆を執られたんだと思う」
「しかしこんな本を出した以上、大教会も黙ってはいないだろう」
「ああ、だからこそ我がギルトにお迎えしたんだ。破門裁判が開かれる前にね」
「本当か!?」
まず破門要求が出されると、それが正当な主張であるかどうか、各地方の国教会
で協議会が開かれ、厳密な調査が行われる。被告人が司祭以下の聖職者、王侯貴族
や平民などの場合、ここで有罪と判定されたら即時に破門された。大司教以上の上
級聖職者に限り、協議会後にアカデミアで破門裁判が開かれ、被告人は初めて弁明
を許されるのだ。ただし原告人と被告人の双方が出席しなければ、裁判そのものが
無効となり、教王といえども勝手に審判を下すことは禁じられていた。
フィリスは教会法の盲点を衝いて、枢機卿を救出したといってもいい。
「当初はアカデミアに留まって闘うとおっしゃってね。裁判の日時は迫ってくるし、
説得には苦労したよ」
「今は公国内のどこに?」
「悪いけど、居場所は君にも教えられないんだ。警護の問題もあるから」
フィリスは首を振ってそう答えると、ソファーに悠々と腰掛けた。
「さて、そろそろ昨日の話を聞かせてもらおうかな」
「あ、ああ……」
ステファンは例の本を他の書籍と書籍との間に挟み、机の上に戻した。いよいよ
これからが本番なのだと意識すると、緊張を覚えずにはいられない。
「昨日は城内を騒がせてすまなかった。君やマリオンにも、ずいぶん迷惑を掛けた
んだろうね」
「過ぎたことさ、とにかく無事でよかった。ベルノブラウの酒毒も君には通用しな
かったらしいな」
「あの酒の話はやめてくれ。思い出したくないんだ」
「ヘクターはまだ施療院で呻ってるよ。彼の場合は自業自得だから同情の余地はな
いね。いつまでも立っていないで、こっちに来て座れよ」
ステファンは言われるがまま、フィリスの隣に腰を下ろした。
「ジュダの話だと、シド博士の家に行っていたそうじゃないか」
「そんなことをしゃべったのか? なんて奴だ」
「怒るなよ、私が白状させたんだから。話の続きも聞かせて欲しいな」
「話の続きって何のことだ?」
「おいおい、自分で言ったくせにもう忘れてしまったのか? 君が子供の頃、シド
博士に怪我の治療をしてもらったことだよ」
心臓が跳ね上がった。祝宴の夜、苦しまぎれに吐いた台詞をフィリスは覚えてい
たのだ。酔っていたから覚えていない、という言いわけは通用しないだろう。
「ああ、あれか。十年ぐらい前だったかな。暴走中の馬からマリオンを助け出した
とき、背中と腰に大怪我をしてね。ちょうどその頃、父上が私の勉学のために博士
を招いていたんだ。彼に治療してもらえて幸運だったよ。でなければ今頃、私は杖
をついていたかもしれないんだから」
「そんなことがあったなんて、ちっとも知らなかった。でも、どうして馬が暴走し
たんだろう」
フィリスが直ちに疑問を口に出す。
「原因はわからなかったらしいよ」
ステファンはあまり表情を変えず、他人事のように答えた。暴走の理由は知って
いる。何者かが、マリオンの馬に神経を異常に興奮させる毒草を食べさせたからだ。
当時、マリオンの馬はステファンのそれと同一厩舎で飼育されていた。しかも毒
草が交じっていた飼い葉桶は、普段ステファンの馬に与えられていたものである。
その日は偶然にも、新人の馬丁が桶を取り違えていたのだ。
誰かに狙われている。得体の知れない恐怖は怪物の出現で頂点に達した。しかし
ダリル公爵夫妻の殺害後は、こういう異変が起こっていないのも事実だった。エル
ベクス伯を始めとする上級貴族たちの陰口や意地悪、大教会の陰険な仕打ちも、命
を失うことを考えれば遙かにましなのだが……。
「ステファン、聞いてるのか!?」
フィリスに肩を揺さぶられて、ステファンは我に返った。
「えっ、何……?」
「聞いてなかったなら、もういいよ」
「すまん、まだ酔いが残ってるのかな」
こめかみに手を当てて苦笑してみせる。だがフィリスは真剣な顔をしていた。
「いつもの君らしくもない。ちょっと変だぞ」
「それより今の話、マリオンには言わないでくれ。妹にとっては永遠に忘れたい記
憶だろうから」
「わかってるよ。絶対にしゃべらないから」
フィリスは少し笑ったが、すぐに口許を引き締めた。言葉にこそ出さないが、博
士の家で何を話したのか早く知りたいに違いない。
「博士の家を訪ねたのには、理由がもうひとつあってね」
相手を焦らすように、ステファンはいったん口を閉じて暗い暖炉に目を移した。
フィリスの視線を横顔に感じる。
「彼の孫娘に会うためさ」
「孫娘だって?」
「そうさ。君は前に会ってるだろう?」
視線を友の顔に向ける。フィリスは目を大きく見開いたまま、驚きと当惑が入り
交じった表情を浮かべていた。
「結婚式の前日、会ったんじゃないのか?」
「ああ、まあ確かに……。どうやって知り合った?」
ステファンが城の屋上でミレシアに出会ったことを話すと、フィリスの表情は苦
笑に変わった。
「人との出会いは、どこに転がっているかわからないというけれど……。あの屋上
を君たちに見られてしまうとは、まいったなあ」
「秘密だったのか」
「そうじゃないが……あれは思い出したくもない失敗作でね。元の状態に戻すには、
作ったとき以上の金が掛かるんだ。とんだ無駄づかいだったよ」
フィリスは嘆息すると、あからさまに不機嫌な顔をしてみせた。謙遜ではなく、
本当に失敗したと思っているようだ。
「潰すなんてもったいない。あんなに素晴らしい庭のどこが気に入らないのか、私
には理解できないな」
安っぽい慰めではなく本気で言ったのだが、フィリスには通じなかった。
「素晴らしいだって!? 嫌味な奴だな」
「嫌味なんかじゃない。庭に花が咲いたらいけないのか?」
「花!? 本当に咲いていたのか?」
「もちろん。花畑みたいだった」
「それで木は? 木はどうだった?」
上目づかいでこちらを見る。まだ疑っているらしい。自分で屋上に行ってみれば
間違いなくわかることなのに。
「どの木も若葉が茂っていたけれど」
「枯れてはいなかったんだな?」
ステファンは友の目を見つめ、黙ってうなずいた。
「まさか……信じられない」
フィリスは声をうわずらせて言い、立ち上がった。両腕を胸の前で組み、考え込
むような難しい顔つきをして、部屋の中を何度も往復する。
「ちゃんと説明してくれ。意味がさっぱりわからないよ」
「根づかなかったんだ、花や木どころか芝草さえも」
(7)へ続く