AWC アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(6) 佐藤水美



#203/598 ●長編
★タイトル (pot     )  03/12/11  10:50  (500)
アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(6) 佐藤水美
★内容
第七章 符合

 カスケイド城の客間には険悪な空気が満ちていた。
 ステファンは窓際に寄りかかると、腕組みをしてアランを睨んだ。美貌の青年は
表情を固くして、主人の視線を投げ返してくる。普段なら女たちを魅了してやまな
い青い目は、一歩も譲らないという強い決意を見せつけて鋭く光っている。
反発は予想していた。石板の話もミレシアとのことも、ステファンひとりの問題で
は済まされない。良くも悪くも、アストールの将来に影響をもたらす可能性がある
からだ。アランが危惧するのも当然だし、彼の心情も理解できる。だからといって
全てを白紙撤回すべきという提案は、到底受け入れられるものではなかった。
「ご理解していただけないでしょうか」
 アランが冷ややかに言った。他国の城で不毛な言い争いなどしたくない。ステフ
ァンは奥歯を食いしばって、こみ上げてくる怒りを抑えた。
「何度も申し上げておりますように、石板の件はギルト公国の問題であって、我が
国が干渉することではございません」
「干渉するつもりはない」
 そんなことはわかっていると続けたかったが、ステファンは己の言葉をあえて飲
み込んだ。とげとげしい雰囲気から逃れるように、窓の外へ目を向ける。春のうら
らかな日差しが眩しかった。
「お言葉ではございますが、ステファン様にそのおつもりがなくとも、殿下や周囲
の者は干渉されたと思うかもしれません」
「この国の主はフィリスだ、彼なら話せばわかる。他の者は関係ない」
 ステファンは目を細め、できるだけ静かな口調で答えた。
「恐れながら、私にはとてもそうは思えません」
「何故だ?」
 ふいに虚を衝かれたような感じがした。部屋の中に再び顔を向けると、視界が一
瞬暗くなった。
「理由を言え」
 目が部屋の明るさに慣れるに従い、視界がはっきりとしてくる。アランが思いつ
めた顔をしてこちらを見ていた。
「今の殿下はアカデミアの学生だった頃とは違います。大公の座に着かれてから一
年あまり、殿下はお変わりになられました」
「確かに変わった部分はあるのは、私も認める。だが根本のところは同じはずだ。
人間はそう簡単に変われるものではない」
「お考えはごもっともですが、殿下にもお立場というものがございます。上に立つ
者が一度決めたことを簡単に翻すようであれば、権威が傷つくだけでなく、下々は
混乱してしまうでしょう。それを考えれば、たとえステファン様からの忠告であっ
ても、そう易々とお聞き入れ下さるとは思えません」
「間違いは勇気をもって正すべきだと、私は言いたいだけだ。真実が苦いものであ
っても受け入れなければ、そのつけはいずれ己に回ってくる。つけを払うかどうか
は、フィリス自身が決めることだ」
「では……」
 アランは一度言葉を切り、主人の目を探るように見た。
「ステファン様のおっしゃる間違いとは、いったい何なのですか?」
「石板のせいで死者が出ているにもかかわらず、フィリスは封印の護符を貼るだけ
という姑息な対策しか取っていない。碑文を解読したいなら、現在ある拓本で十分
なはず。何故石板にこだわるのかはわからないが、再び死者が出てから慌てるよう
では遅すぎる。今ならまだ間に合うのだ」
 ステファンは窓際を離れて肘掛け椅子に腰を下ろした。アランはまだ納得してい
ないらしく、固い表情を崩さない。
「しかし殿下は、間違いだとは少しも思っておられません」
「ああ、そうだ。だから困っているんじゃないか」
 ついつい投げやりな物言いをしてしまう。こんなやりとりがいつまで続くのか。
ステファンはうんざりした顔で、壁に掛けられた大きなタペストリーに目をやった。
「ステファン様の主張が正しいことを、殿下にどうやって納得していただくおつも
りなのですか? こちらの言い分を無理に押しつければ、理解していただくどころ
か、かえって反発を招くでしょう」
「方法ならある」
 ステファンは低く呟いてアランに目を向けた。彼は最初、怪訝そうな表情を浮か
べていたが、主人の意図を察すると顔色を変えた。
「いけません、絶対に!」
 そう叫ぶが早いか、アランはステファンの目の前にひざまずき、何度も首を横に
振った。
「あれは極秘のはず、お忘れになったのですか!?」急に声をひそめて言う。
「忘れてはいない。しかしフィリスを説得するには、あのときの話をするのが最も
有効なのだ。生き証人がふたりもいるのだからな」
 ステファンは身を前に乗り出し、同じように声をひそめて答えた。だがアランは
眉間にしわを寄せて、再び首を左右に振る。
「そのようなことをなされば、ステファン様ご自身のお立場が危うくなります。エ
ルベクス伯や彼の仲間たちを喜ばせるようなものではありませんか。どうして国王
様のご命令に背いてまで、他国を救おうとなさるのです? それとも……ミレシア
とかいう少女のためなのですか?」
 ミレシアの名を口にしたとき、アランの声が微かに震えた。
 ここで短気を起こしてはいけない。ステファンはひと呼吸おくと、腕を伸ばして
アランの肩に手を掛けた。
「よく聞いてくれ、アラン。あの石板は呪われた遺物だ。ギルト一国だけではなく
大陸全土の安全を守るために、どうあっても葬らねばならない。シド博士が翻訳し
た部分を読めば、お前だって私と同じ結論に達するだろう。しかしフィリスは死者
が出ているにもかかわらず、目先の発見に心を奪われて真実を見ようとしない」
「ステファン様のお考えは確かに拝聴致しました。ですが、何故例の怪物が石板と
繋がるのですか? 黒い霧が家の中に入っていくのを見たという者の話だけで、一
連の事件に怪物が関わっていると断言するのは危険です。私にはこじつけとしか思
えません」  
 ステファンはアランの肩から手を離し、上半身を背もたれに預けた。目を閉じて
ため息を吐く。
 確かに今は推測の域を出ていないが、奴の存在を完全には否定できない。黒い霧
というのが、やけに引っかかるのだ。
「お願いですから、殿下の御前では昨夜のお話は一切なさらないで下さい」
 ステファンはゆっくりと目を開けた。いつになく険しい表情をしたアランの顔を
見ても、決心を変えようとは思わなかった。
「何故いけない?」
鋭く光る青い目を見据えながら、静かな声で問う。互いの意見が全く噛み合わず、
妥協できる部分さえ見つからない経験は初めてだった。おそらくアランも同じこと
を感じているだろう。
「仕方がありませんね」
アランもまた主人を見つめ返し、暗い声で言った。
「このようなことはしたくなかったのですが、やむを得ません。ステファン様はア
ストールに出立する時刻が来るまで、ここから一歩もお出にならない下さい」
「何だって!? 私をこの部屋に閉じ込める気か!」
 ステファンとアランは睨み合ったまま、ほぼ同時に立ち上がった。
「どうしてわかって下さらないのですか!? 何の考えもなく殿下にありのままを
申し上げれば、必ず災難を招きます!」
 アランが声を荒げる。色白の顔は紅潮し、目つきが変わった。本気で客間に閉じ
込めるつもりらしい。
「それは違うぞ、アラン。熟慮した上で決めたことだ」
 ステファンは首を横に振り、努めて穏やかな物言いをした。カッとして怒鳴り返
せば、ここから本当に出られなくなってしまうだろう。つまらない口喧嘩で時間を
浪費している余裕があったら、早くフィリスに会って話をしたい。石板の件だけで
はなく、どうしても彼に頼みたいことがあるのだ。
「熟慮とは、ある物事について様々な可能性を検討しながら、時間をかけて深く考
えることです。しかしステファン様は城にお戻りになってから、まだ半日も経って
おられません。このような状態で熟慮したと言えるでしょうか?」
 アランは冷淡に言い放つと、皮肉な笑みを口許に浮かべた。その顔を見た途端、
ステファンは我慢を忘れた。
「いい加減にしろ! 私がそんなに信用できないのか!?」
「そういう問題ではありません! 今回のことが原因でギルトとの間に亀裂が生じ
れば、断罪されるのはステファン様ご自身なのですよ!」
「フィリスにはうまく話す、お前は黙って見ていればいい!」
「いやです!」
 アランは噛みつくように叫んだかと思うと、ふいに唇を震わせた。こちらを見つ
める青い目がたちまち潤んでくる。
「私だってこんなことは申し上げたくないのです」
弱々しい声で言う。ステファンは嘆息してアランから目を背けた。どんなに時間を
かけて話し合っても、この件についてはわかり合えそうにない。
「博士と……何か取引をなさったのですか?」
 一瞬の沈黙の後、アランの口から出たのは耳を疑うような言葉だった。
「アラン、それはいったいどういう意味だ?」
 ステファンは顔をしかめ、聞き捨てならない台詞を吐いた青年を睨んだ。
「理由によっては、お前といえどもただでは済まさないぞ」
「覚悟はできております」
 アランは抑揚に乏しい声でそう答えた。頬の赤みがいつの間にか消え、病人のよ
うに青白くなった顔を主人に向ける。
「私には、ステファン様が怪物の存在を打ち明けてまで、石板の一件に介入しよう
となさる理由がわからないのです。この秘密が他国に漏れれば、アストールの根幹
を揺るがす結果を招くことぐらいご承知のはず。にもかかわらず、あえてそのよう
な危険を冒そうとなさる。何か理由があると考えるのは当然でしょう。博士は孫娘
を差し出すのと引き替えに、殿下の説得を懇願したのではありませんか?」
「そんな取引などしていない!」
ステファンはきっぱりと否定し、首を左右に振った。
「お前は命の恩人を貶めるようなことを言っているんだぞ、恥ずかしくないのか?」
「貶めているのではありません。私は真実を知りたいだけです」
「何度も説明したではないか! これ以上お前と話しても無駄だ、私はフィリスに
会いに行く」
「お待ち下さい!」
 アランはステファンの進路を阻むように立ちふさがった。
「ギルトに着いてからというもの、ステファン様は何かを隠しておられます」
「またその話を蒸し返すのか! 全くお前という奴は……」
「博士の孫娘をアストールに連れて行って、どうなさるおつもりなのですか?」
アランの目が、ぎらりと光る。最も痛い部分を不意打ちされて、ステファンは返答
に窮した。 
役目に忠実なこの青年は、どこまで看破しているのだろうか。実はまだ、ミレシア
がオリガの血を引く少女だとは打ち明けていない。まして、その彼女を自分の正妃
として迎えたいと思っていることなど、今ここで話せるはずがなかった。
父王から結婚の許可を取りつけるには、それなりの準備をして臨む必要がある。だ
からこそ、何としてもフィリスと会見したいのだ。
「正直に申し上げて、私は賛同いたしかねます」
「何だと?」
「王室規範をお忘れになっていらっしゃるようですね。外国人女性と、みだりに情
を通ずるような行為は禁じられています」
「忘れてなどいない、つまらぬ想像をするな!」
「では博士がご帰宅なさるまでの間、ステファン様はあの家で何をしていらしたの
ですか?」
「休んでいただけだ。ベルノブラウの酒毒が回ってひどい目にあった」
 接吻と抱擁を交わしたことは、いくら詰問されても白状するつもりはなかった。
アランが知れば、激昂を通り越して発狂しかねない。
「ベルノブラウの酒毒は、そう簡単に消せるものではありません」
「信じられないだろうが、消えたんだ!」
 あの白い光、精霊の化身。いったいどう説明すればいいのか。たとえうまく表現
できたとしても、アランはそれを決して受け入れはしないだろう。彼はフィリスに
似て、実証主義的な物の見方をする傾向がある。だが例の怪物の存在だけは、襲撃
され傷を負った経験があるから疑わないのだ。
「ミレシアが、いや博士の孫娘が適切な手当てをしてくれたから、私はヘクター殿
下のようにはならなかった。彼女の薬学知識は必ずアストールの役に立つはず。だ
から連れて行くんだ」
 我ながら、うまい言いわけだと思った。筋もいちおう通っている。しかしアラン
は首を横に振るばかりだった。
「博士の家にいらっしゃったのは、酒毒の治療をするためではありますまい。石板
の件も理由にはなりません。私にはわかっているのです」
「回りくどい言い方はやめろ。男らしくはっきり言ったらどうだ」
 ステファンは腕組みをし、片足で苛立たしく床を踏みならした。失われた時間は
取り戻せない。あくまでも食い下がるアランが憎らしかった。
「ギルトに到着した夜、この部屋から女性の話し声が聞こえました。いったいどこ
のどなたとお会いになっていたのですか?」
「それは……お前の聞き違いだ。確か、あのときもそう言ったと思うが」
 少々口ごもりながらも、ステファンは否定した。おそらくアランは、ミレシアが
客間に入ったと思っているのだろう。そしてなお悪いことに、この青年は己の推測
こそ真実だと確信している。
「聞き違いではございません。貴人の、しかも男性の部屋に平気で忍び込むような
女をお連れになるのは反対です」
「お前はとんでもない勘違いをしているぞ」 
 マリオンの名誉を守るには、客間には自分の他に誰もいなかったと主張し続ける
しかなかった。ここはギルトの本城、あの夜の出来事がフィリスの耳に入れば大変
なことになる。だがミレシアへの疑いは、ステファン自身が責任をもって晴らして
おかねばならない。
「私がミレシアに初めて出会ったのは、この城の屋上だ。断じて客間ではない。話
はこれで終わりだ。お前に何と言われようと、私はフィリスに会う」
「まだ終わっておりません、お待ち下さい!」
 そう叫ぶと同時に、アランは両手を横に広げ、扉に向かおうとする主人の前に立
ちはだかった。互いの意地と意地がぶつかり合った瞬間、ステファンは己の血が、
一瞬のうちに沸騰するのを感じた。もし剣を身につけていたなら、間違いなく抜い
ただろう。
「そこをどけ!」
「絶対にお通しできません!」
「私に逆らう気か!?」
「どうか今一度お考え直しを!」
「くどい!」
ステファンは平手でアランの胸を力まかせに突いた。彼はのけぞったものの、すぐ
に体勢を立て直した。ひるむどころか、こちらの身体に組みついて反撃してくる。
「何をするっ、離せ!」
「離しません!」
 足許がぐらりと揺れたとき、騒々しい足音と共に扉が大きく開いた。
「ステファン様! あっ……」
ジュダが驚きの表情を露わにして一瞬立ち止まる。組み合ったままの主従の姿は、
誰が見ても異常だろう。
「アラン、やめろ!」
 大男は急いで駆け寄り、ステファンにしがみついているアランを引き離した。
「離せ、余計なことをするなっ!」
両腕を押さえられたアランは、罠から逃れようとする獣さながらに身体をよじり、
髪を振り乱して激しく暴れた。椅子を蹴り倒して床に転がし、絨毯までめくり上げ
てしまう。
十五年もの長きにわたり、アランとは双子の兄弟のように過ごしてきた。その間、
ちょっとした口論なら何度かあったが、互いに妥協をせず、真っ向から身体でぶつ
かり合った覚えはない。美貌の内に秘めた激しい気性を目の当たりにして、しばし
言葉を失った。
「うるせえ、それ以上騒ぐと腕をへし折るぞ!」
 ジュダは部屋の外まで響き渡りそうな怒声で一喝した刹那、アランの右手首をつ
かんで腕を強くひねった。たちまち悲鳴が上がる。
「離してやれ、腕が本当に折れてしまう」
 ステファンが慌てて命じると、ジュダはすぐに手を離した。アランは右腕を抱え
てしゃがみ込み、苦痛に顔を歪めて呻いている。
「大丈夫か?」
 ステファンはアランに近づいて声を掛けた。最初に手を出したのは自分のほうだ
という罪悪感で、胸の中がいっぱいになる。
「いったい何があったんです? こいつと取っ組み合いだなんて、ステファン様ら
しくもない」
「意見が合わなかっただけだ」
 ステファンはジュダを一瞥し、襟元を整えながら簡潔すぎる返事をした。いずれ
話すつもりではいるが、今は議論の顛末を、しかもアランのいるところで説明する
気にはなれない。
「はあ、意見がねえ……」
「それはそうと、私に何か用があるのか?」
「いけねえ、忘れてた! 実はエーギルのことなんです」
「どうかしたのか?」
年若い見習い騎士のことは、心の片隅にずっと引っかかっていた。ジュダがわざわ
ざ報告しにくるのだから、いい話ではあるまい。
エーギルの名が出て、アランも腕をさすりながら立ち上がった。やはり気になるの
だろう。
「こっちに着いてから高熱とひどい咳が続くんで、施療院に連れて行ったら……そ
の、ちょいと言いにくいんですが……」珍しく言葉を濁す。
「かなり悪いのか?」
 ステファンの言葉に、ジュダは沈痛な面持ちでうなずいた。
「医者の見立てでは、肺病の疑いがあると……」
「何だって!? それで、今の容態はどうなんだ?」
「熱は少し下がったんですが、起き上がれない状態なんですよ。医者の野郎、しば
らくは安静にしておかないと、死んじまうかもしれないって脅かしやがるし……」
 医師の言葉は脅かしでも誇張でもないだろう。ステファンは押し黙って唇を噛ん
だ。疲れ切った少年の顔が脳裏に浮かぶ。あのときガレー城に残して養生させてい
れば、発病を防げたのではないかと思うと、いたたまれない気持ちになった。
「エーギルの他に病人は出ているのか?」
「いや、あいつ以外は皆元気です。特にアランは力が有り余ってるみたいで」
 ジュダがにやにや笑いながら言った途端、アランは怒りのこもった目で大男を睨
みつけた。
「おっかねえ」
大きな肩をすくめてみせたものの、口許には笑いが残っている。
「よせ、ジュダ。ところでリーデン城からの報告は来たか?」
「はい、でも変わったことは何も。城はもちろん、城下のシスレーも平穏そのもの
だとか」
「そうか、よかった……」
 肩に入っていた力が少し抜けるのを感じた。しかしアストールは平和でも、ここ
には問題が山積しているのだ。ぼんやりしてはいられない。
「エーギルは施療院で治療に専念させよう。置いていくわけにもいかないし、出立
は数日延期だ。いいな?」
 言葉に力を込めて命令を下し、アランとジュダを交互に見る。だがアランは憮然
とした表情を隠そうともしなかった。
「私の決定に不服でも?」
「いえ……別にございません」
 アランは主人の視線を避けるように目を伏せ、沈んだ声で答えた。腕がまだ痛む
らしく、しきりとさすっている。
「よろしい。エーギルにはゆっくり休めと伝えておいてくれ。お前も施療院で腕を
診てもらうといい」
「あのう、ステファン様」
「ジュダ、まだ何かあるのか?」
「大公殿下が、居室でステファン様にお会いしたいと仰せです。ええと……昨日の
話を聞きたいとか何とか」
「馬鹿者っ、それを早く言え!」
 ステファンはジュダを叱りとばし、引き放たれた矢のように客間を飛び出した。
 
 フィリスの居室は城の最上階にある。階段を一気に駆け上がると、さすがのステ
ファンも息が切れた。いったん立ち止まって乱れた呼吸を整えつつ、何からどう話
していこうかと考えたが、いい案は浮かばない。自分のやろうとしていることが、
いかに難しく微妙な問題をはらんだものなのか、今さらのように身に染みた。
 それにしても、フィリスのほうから昨日の話を聞きたいと言ってくれたのは幸運
だった。アランには悪いが、この機会を逃すわけにはいかないのだ。
 まずは、供の中に思いがけず急病人が出たので、滞在を延長したいと申し出ると
ころから始めるのが無難だろう。
 顎に手を当てて、いろいろと思案しながら廊下を歩いていくと、正面に居室の扉
が見えた。書庫の前で会ったのと同じ兵士が護衛に立っている。彼はステファンに
気づくや、すぐに扉を開けてくれた。
 春の日差しが大きな窓から降り注いで、室内は意外に明るかった。いろいろな書
物が積んである机、年季の入った椅子、暖炉際に置かれたソファーにお決まりの本
棚がいくつか。質素で飾り気がないこの部屋にいると、アカデミアの学生時代に戻
ったような気がする。
ステファンは周囲を見回してフィリスの姿を探した。だがどこにも見当たらない。
「フィリス、いるのか?」
「ちゃんといるよ、ステファン」
奥のほうにある本棚の後ろからフィリスの声がした。書物の整理でもしているのか、
ゴトゴトという音がする。
「手伝おうか?」
「ありがとう、でもあと少しで終わるから大丈夫。すまないが、適当なところに座
って待っててくれないか」
 そう言われて、ステファンはソファーに腰を下ろした。火の入っていない暖炉が
寒々しく見える。どのくらい待たされるのだろうか。急いで駆け上がってきて損を
したような気分になった。
 背もたれに寄りかかり、天井に目をやる。頭の中で話の内容を考え始めた途端、
落ち着かなくなって脚を何度も組み替えた。
 本棚からは相変わらず音がする。ステファンは立ち上がって机に歩み寄った。時
間を潰すには読書しかなさそうだ。
 机の上の書物はどれも新しいものだった。『司法と王権』『新しい国家統治・裁
判と財務』『経済学大全』など、政治経済や法学に関する本がほとんどだが、それ
らの中にステファンの目を引いた一冊があった。
『世俗化闘争』――穏やかならぬ表題だと思う。見るからに粗悪な紙で作られてい
る上に、著者の名前すら記載されていない。こういう類の書物があるのは知ってい
たが、手にするのは初めてだった。
体制への批判や過激な思想。表紙をめくって中を読まなくても、内容はだいたい想
像できる。権力者ならば即刻焚書にしたくなるような書物を、何故フィリスは持っ
ているのか。
「ふう、やっと終わった。待たせて悪かったね」
 友の声に、ステファンは振り返った。そこには、簡素なローブを着た修道士のよ
うな青年がいるはずなのだが……。
「いや……そうでもないよ」半ば上の空で答えて目を見張る。
 フィリスは首に薄絹のスカーフを巻き、総レースのベストと、大振りのカフスや
ポケットに豪華な刺繍が施された、膝丈の上着を身にまとっていた。下半身にはぴ
ったりとした脚衣と、止め金具まで宝石で飾られた靴を履いている。
「やっぱり似合わないと思うか?」
 若き大公は己の胸に手を当て、不安そうな声で訊いた。
「よく似合ってるよ。ただ、いつもと全然違うから、ちょっと驚いただけさ」
 ステファンが優しく答えると、フィリスは安堵したような笑みを見せた。挙式し
て二日あまり、いったいどんな心境の変化があったのだろう。
「だけど、この服は実務には向かないね。音楽を聴いたり書類に目を通したりする
ときはいいが、机に向かって仕事をしようとすると、まずこいつが邪魔になるんだ。
今日は本の入れ替えで終わってしまったよ」
 フィリスは肩をすくめて袖のカフスを指差した。
「私のカフスより一回り、いや二回りぐらい大きいんじゃないか?」
 ステファンは自分の袖口とフィリスのそれとを見比べた。目測でも相手のほうが
明らかに大きくて厚みがあり、しかも重そうだ。
「うん、確かに。流行を追うのも楽じゃないよ」
 フィリスは嘆息して言うと、ステファンの隣に歩み寄ってふいに手許を覗き込ん
だ。例の本を隠す暇もなかった。
「見つけたな」
「勝手に触ってすまなかった。悪気があったわけじゃなくて……」
「いいんだよ、君にも読んで欲しいと思ってたんだから」
「本気で言ってるのか?」
「そうだよ」事もなげに言う。
 ステファンは再び表題に目を落とした。『世俗化闘争』とは何を意味しているの
か。
 表紙をめくり目次を読む。
第一章	 大教会の真実とその本質
第二章	 大教会の歴史的変遷
第三章	 真の改革とは何か
「フィリス、これはまずいぞ。どこで手に入れた?」
 ステファンは眉をひそめ、声を小さくして尋ねた。よりによって大教会の批判本
とは。だが当のフィリスは涼しい顔をして、口許には薄ら笑いさえ浮かべている。
「神の御使いがくれたのさ」
「変な冗談を言うな。大教会に知れたら破門になってしまう」
 破門された者の末路は悲惨だった。全財産を教会に取り上げられ、職を失うのと
同時に町や村を追い出されてしまう。額には入れ墨をされるため、他の土地で人生
をやり直すこともできない。たとえ死んでも葬式は出せず、共同墓地にさえ入れて
もらえないのだ。
「君は破門が怖いのか?」
「怖いとか怖くないとかの問題じゃない。誰が書いたのかもわからない書物のため
に、自分の人生を無駄にする気か?」
「無駄にするなんてとんでもない。著者は変わり者で有名だけど、私より君のほう
が彼の人となりを知ってると思うな。でも私の口から名前を言うわけにはいかない
けどね」
「大教会の内情に詳しい変人で、私も知っている……?」
 ステファンは首を傾げ、古い記憶をまさぐった。ふいにアカデミア時代のことを
思い出す。
 毎年一回行われるセンテウム・オルラル(聖なる祈り)。この日は学生たちも大
教会のテンペルムス(聖域)に入り、教王を始めとする聖職者や守護騎士団の団長
らと共に、夜明けから夜半まで一切の食を断って祈り続けるのだ。
 あれは儀式に初参加した日の出来事だった。正午の聖水を飲んでまもなく、アラ
ンが突然激しい腹痛を起こして倒れたのだ。うろたえるばかりのステファンに声を
掛けたのは、粗末なローブを着た白髪交じりの修道士……。
 彼のことは私に任せて、君は祈りを続けなさい。
 穏やかで深みのある声が耳許で蘇る。
 アランを救ってくれた男が修道士ではなく、枢機卿の地位にあることを知ったの
は、儀式を終えた翌日だった。他の上級聖職者たちとは違って、自ら清貧を貫く変
わり者だという評判を聞いたのも同じ日だと思う。
礼を言いに訪れたステファンに向かって、その枢機卿はこんな話をした。
コルベット君は身体があまり丈夫ではないね。彼にはセンテウム・オルラルに参加
できなくても、決して自分を恥じることなく、ゆっくり養生するようにと伝えてお
きなさい。天のお父様はどんなに弱い者でも愛して下さるのだから。
「わかったみたいだな」
 フィリスの声がステファンを現実の世界に引き戻した。
「まだ信じられないよ。あの方が政治的な本を書くなんて……」
「大教会の腐敗と堕落は年々ひどくなってるからね。いても立ってもいられないお
気持ちで、筆を執られたんだと思う」
「しかしこんな本を出した以上、大教会も黙ってはいないだろう」
「ああ、だからこそ我がギルトにお迎えしたんだ。破門裁判が開かれる前にね」
「本当か!?」
 まず破門要求が出されると、それが正当な主張であるかどうか、各地方の国教会
で協議会が開かれ、厳密な調査が行われる。被告人が司祭以下の聖職者、王侯貴族
や平民などの場合、ここで有罪と判定されたら即時に破門された。大司教以上の上
級聖職者に限り、協議会後にアカデミアで破門裁判が開かれ、被告人は初めて弁明
を許されるのだ。ただし原告人と被告人の双方が出席しなければ、裁判そのものが
無効となり、教王といえども勝手に審判を下すことは禁じられていた。
フィリスは教会法の盲点を衝いて、枢機卿を救出したといってもいい。
「当初はアカデミアに留まって闘うとおっしゃってね。裁判の日時は迫ってくるし、
説得には苦労したよ」
「今は公国内のどこに?」
「悪いけど、居場所は君にも教えられないんだ。警護の問題もあるから」
 フィリスは首を振ってそう答えると、ソファーに悠々と腰掛けた。
「さて、そろそろ昨日の話を聞かせてもらおうかな」
「あ、ああ……」
 ステファンは例の本を他の書籍と書籍との間に挟み、机の上に戻した。いよいよ
これからが本番なのだと意識すると、緊張を覚えずにはいられない。
「昨日は城内を騒がせてすまなかった。君やマリオンにも、ずいぶん迷惑を掛けた
んだろうね」
「過ぎたことさ、とにかく無事でよかった。ベルノブラウの酒毒も君には通用しな
かったらしいな」
「あの酒の話はやめてくれ。思い出したくないんだ」
「ヘクターはまだ施療院で呻ってるよ。彼の場合は自業自得だから同情の余地はな
いね。いつまでも立っていないで、こっちに来て座れよ」
 ステファンは言われるがまま、フィリスの隣に腰を下ろした。
「ジュダの話だと、シド博士の家に行っていたそうじゃないか」
「そんなことをしゃべったのか? なんて奴だ」
「怒るなよ、私が白状させたんだから。話の続きも聞かせて欲しいな」
「話の続きって何のことだ?」
「おいおい、自分で言ったくせにもう忘れてしまったのか? 君が子供の頃、シド
博士に怪我の治療をしてもらったことだよ」
 心臓が跳ね上がった。祝宴の夜、苦しまぎれに吐いた台詞をフィリスは覚えてい
たのだ。酔っていたから覚えていない、という言いわけは通用しないだろう。
「ああ、あれか。十年ぐらい前だったかな。暴走中の馬からマリオンを助け出した
とき、背中と腰に大怪我をしてね。ちょうどその頃、父上が私の勉学のために博士
を招いていたんだ。彼に治療してもらえて幸運だったよ。でなければ今頃、私は杖
をついていたかもしれないんだから」
「そんなことがあったなんて、ちっとも知らなかった。でも、どうして馬が暴走し
たんだろう」
 フィリスが直ちに疑問を口に出す。
「原因はわからなかったらしいよ」
 ステファンはあまり表情を変えず、他人事のように答えた。暴走の理由は知って
いる。何者かが、マリオンの馬に神経を異常に興奮させる毒草を食べさせたからだ。
 当時、マリオンの馬はステファンのそれと同一厩舎で飼育されていた。しかも毒
草が交じっていた飼い葉桶は、普段ステファンの馬に与えられていたものである。
その日は偶然にも、新人の馬丁が桶を取り違えていたのだ。
 誰かに狙われている。得体の知れない恐怖は怪物の出現で頂点に達した。しかし
ダリル公爵夫妻の殺害後は、こういう異変が起こっていないのも事実だった。エル
ベクス伯を始めとする上級貴族たちの陰口や意地悪、大教会の陰険な仕打ちも、命
を失うことを考えれば遙かにましなのだが……。
「ステファン、聞いてるのか!?」
 フィリスに肩を揺さぶられて、ステファンは我に返った。
「えっ、何……?」
「聞いてなかったなら、もういいよ」
「すまん、まだ酔いが残ってるのかな」
 こめかみに手を当てて苦笑してみせる。だがフィリスは真剣な顔をしていた。
「いつもの君らしくもない。ちょっと変だぞ」
「それより今の話、マリオンには言わないでくれ。妹にとっては永遠に忘れたい記
憶だろうから」
「わかってるよ。絶対にしゃべらないから」
 フィリスは少し笑ったが、すぐに口許を引き締めた。言葉にこそ出さないが、博
士の家で何を話したのか早く知りたいに違いない。
「博士の家を訪ねたのには、理由がもうひとつあってね」
 相手を焦らすように、ステファンはいったん口を閉じて暗い暖炉に目を移した。
フィリスの視線を横顔に感じる。
「彼の孫娘に会うためさ」
「孫娘だって?」
「そうさ。君は前に会ってるだろう?」
 視線を友の顔に向ける。フィリスは目を大きく見開いたまま、驚きと当惑が入り
交じった表情を浮かべていた。
「結婚式の前日、会ったんじゃないのか?」
「ああ、まあ確かに……。どうやって知り合った?」
 ステファンが城の屋上でミレシアに出会ったことを話すと、フィリスの表情は苦
笑に変わった。
「人との出会いは、どこに転がっているかわからないというけれど……。あの屋上
を君たちに見られてしまうとは、まいったなあ」
「秘密だったのか」
「そうじゃないが……あれは思い出したくもない失敗作でね。元の状態に戻すには、
作ったとき以上の金が掛かるんだ。とんだ無駄づかいだったよ」
 フィリスは嘆息すると、あからさまに不機嫌な顔をしてみせた。謙遜ではなく、
本当に失敗したと思っているようだ。
「潰すなんてもったいない。あんなに素晴らしい庭のどこが気に入らないのか、私
には理解できないな」
 安っぽい慰めではなく本気で言ったのだが、フィリスには通じなかった。
「素晴らしいだって!? 嫌味な奴だな」
「嫌味なんかじゃない。庭に花が咲いたらいけないのか?」
「花!? 本当に咲いていたのか?」
「もちろん。花畑みたいだった」
「それで木は? 木はどうだった?」
 上目づかいでこちらを見る。まだ疑っているらしい。自分で屋上に行ってみれば
間違いなくわかることなのに。
「どの木も若葉が茂っていたけれど」
「枯れてはいなかったんだな?」
 ステファンは友の目を見つめ、黙ってうなずいた。
「まさか……信じられない」
 フィリスは声をうわずらせて言い、立ち上がった。両腕を胸の前で組み、考え込
むような難しい顔つきをして、部屋の中を何度も往復する。
「ちゃんと説明してくれ。意味がさっぱりわからないよ」
「根づかなかったんだ、花や木どころか芝草さえも」
 
                               (7)へ続く




#204/598 ●長編    *** コメント #203 ***
★タイトル (pot     )  03/12/11  11:04  (499)
アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(7) 佐藤水美
★内容
 フィリスは足を止め、腕組みをしたまま天井に視線を向けた。
「つまり枯れてしまったと?」
「ギルト中から腕のいい庭師を集めて、何とか再生させようとしたんだが……。ど
んなに手を入れても荒れる一方だった」
「不思議なことがあるものだね」
ビューロを奏でるミレシアの後ろ姿を思い出す。庭園に入ったときは、すでに花が
咲き乱れていた。ということは、やはり……。
「あまり驚かないんだな」
 フィリスはそう呟いて、訝しげな眼差しを向けた。
「荒れていたっていうのが、ちょっと信じられなくてね。でも理由はともかく庭は
復活したんだから、よかったじゃないか」
ステファンは内心ぎくりとしたが、表情には出さず軽い口調で言った。
ベルノブラウの酒毒を消し、枯れた植物を蘇らせる。ミレシアが何者であるのか、
もう疑う余地はないように思えた。しかし彼女と暮らしていたシド博士は、何故そ
の不思議な力に気づかなかったのだろうか。
「甘いな、ステファン。結果には必ず原因が存在するものだ。庭の調査は明日にも
始めようと思う。植物の生育に関して、新しい発見があるかもしれないからね」
「発見か。調べる前に、マリオンにも見せてやってくれ。もう知ってると思うけれ
ど、花が大好きだから」
「ああ……そうするよ」
 フィリスは急に顔を真っ赤にして、恥ずかしそうにうつむいた。首のスカーフを
やたらといじる。
初夜はうまくいったらしい。マリオンも時間が経てばフィリスの良さがわかり、
ギルト王家にも自然になじんでいくだろう。挙式前夜の憂鬱は、取り越し苦労にす
ぎなかったと思える日々が早く来ますように。ステファンが妹にしてやれるのは、
心の中でそう祈ることだけだった。
「話題がすっかり逸れてしまったな」
 フィリスは襟元を引っ張りながら言い、再びソファーに腰を下ろした。頬にはま
だ赤みが残っている。
「君の話の続きを聞かなくちゃ」
 聞いてもらわねば困る。肝心なことは、まだ何ひとつ語っていないのだから。ス
テファンは軽く咳払いをしてから口を開いた。
「実を言うと、博士の家でベルノブラウの酒毒が回ってしまってね。情けないこと
だが、孫娘に介抱してもらったんだ」
「何だって!?」
「回復できたのは彼女のおかげさ。だから……」
「おいおい、ちょっと待ってくれよ」
フィリスは苦笑しながら、ステファンの言葉を遮った。
「あの執念深い酒毒が体内から完全になくなるには、どのくらいの時間がかかると
思う?」
「二日か三日ぐらいか?」
「飲んだ人間の体質や酒量にもよるが、平均したところでは五日から六日だ。一晩
で毒素が排出されるなんてことは絶対にありえない。ただしこれは、酒毒による症
状が現れなかった場合に限る」
「でもフィリス……」
「最後まで聞けよ、ステファン。問題なのは、ヘクターのように身体が酒毒に犯さ
れてしまった場合だ。こうなると回復までには少なくとも一ヶ月はかかる。古い文
献には失明したという記述さえ残っているくらいだ。むろん稀な事例として、だけ
どね」
 急速にかすんだ視界を思い出す。ステファンは背筋が冷たくなるのを感じた。も
しミレシアが側にいなかったら、永久に光を失っていたかもしれない。
「うまい酒は他にいくらでもあるのに、どうしてあんな下手物を愛好する連中がい
るのか理解に苦しむよ」
「全くだな」
「今は元気でも無理は禁物だ。一度症状が出た後なら、特に静養する必要がある。
せめて四、五日はゆっくり休んで、身体から酒毒が排出されたかどうか医師に調べ
させたほうがいい。毒素が残った状態でアストールへ旅立つのは、あまりにも危険
すぎる」
「そこまで言われると、不安になってしまうな」
「用心するに越したことはないよ。それにしても君は幸運だったな。ヘクターと同
じ量のベルノブラウを飲んだのに」
「日頃の行いがいいからさ」
 ステファンが肩をすくめて軽口をたたくと、フィリスは笑いを堪えかねたように
吹き出した。
「アランが今の台詞を聞いたら怒るぞ。君はたぶん特異体質の持ち主なんだよ」
「私が特異体質だって? そんなことはない、回復したのは」
「博士の孫娘のおかげ」
 フィリスはすかさず続け、にやりと笑った。
「さては惚れたな」
 ステファンは自分の顔が紅潮してくるのを感じ、何も言わず急いで立ち上がった。
窓辺に歩み寄り、外を覗くようなふりをして友に背を向ける。
「私より先に会ったんだろう?」
 ミレシアの姿を見ても平静でいられる男が存在すること自体、信じられなかった。
但し、シド博士は別として。
「うん。確かにミレシアとかいう孫娘には会ったけど、顔はよく見えなかったな。
彼女はベールを頭からすっぽり被っていた上に、最初から最後までうつむいたまま
だったからね。自分の足許がよほど心配だったらしい」
「言葉も交わさなかったのか?」
「声をかけてもしゃべらないんだよ。かえって博士のほうが慌てていたな」
「そうか……」
 フィリスはミレシアの美しい素顔も魅惑的な声も知らなかった。この事実は、ス
テファンだけでなくマリオンにとっても幸運だったと言えよう。
「だが、君とは話をしたわけだ」
「初めて出会ったとき、私がアストールの王子だとは知らなかったからね」
ステファンはそう言うと、窓を背にして友のほうに向き直った。
「フィリス、頼みたいことがあるんだ」

 アランは愛馬の手綱を城の馬丁にゆだねると、右腕を吊った三角巾を素早く外し
た。敗北の印のような布を丸め、上着のポケットに押し込む。独特の臭いがする湿
布も一緒に引き剥がしてしまいたかったが、ここで片肌を脱ぐわけにはいかない。
今日は人生で最低の一日だ!
 不機嫌な表情を露わにして中庭を突っ切る。頭の中では、主人との口論に始まる
一連の出来事が駆けめぐっていた。特にジュダに受けた屈辱を思い返した途端、体
内の血が煮えくりかえるような怒りを覚えた。
 城の中に入り、荒々しい足音を立てて騎士詰所に向かう。嵐の吹き荒れる胸の内
とは裏腹に、廊下は不気味なほど静かだった。
 話し合いは今頃どうなっているのだろうか。結果によっては、自分ひとりの首を
差し出すだけでは済まなくなる可能性もある。
 十年前に一度死んだような身なのだから、命など惜しくはない。だが主人だけは、
どうしても守りたいのだ。
「くそっ、あの小娘め……」
 眉間に深いしわを寄せ、憎悪を込めて呟く。恩人の孫娘という事実を差し引いて
も、憎しみが薄れることはなかった。
 彼女にさえ出会わなければ、主人は博士の家に行く必要もなく、大公殿下を説得
するという役目を負うはめにもならなかっただろう。
城に到着した最初の夜、主人の怒りを買っても部屋の中に踏み込んでいたら。あ
のとき聞こえた女の声は空耳ではない。ジュダの嘘をもっと早く見抜いていたら。
様子を探るまでもなく、すぐに家の扉を叩くべきだった。自分が選択した行動の結
果が今日に繋がっていると思うと、悔やんでも悔やみきれない。
詰所の扉が見えた。普通なら騎士たちの話し声が微かに聞こえてくるのだが、己
の足音しか耳に入らない。嫌な予感を覚えつつ、扉を開け放つと――。
「何だ、これは!」
 詰所には誰も残っていなかった。床には空の酒びんが数本、ひっくり返ったボー
ドゲーム盤とその駒、脱ぎ捨てられた下穿きやシャツが散乱していた。騎士たちの
ベッドはどれも寝乱れたままで、部屋の片隅にあるテーブルの上には、食べかすの
こびりついた器やフォークが、めちゃくちゃに積み重なった状態で置きっぱなしに
なっている。体臭と残飯、そして酒の入り交じった悪臭が鼻孔を突く。
 アランは慌てて鼻と口を手で覆って廊下に出ると、内部の空気を漏らさないよう
に扉をきっちり閉めた。連中とは部屋が別で本当によかったと思う。
 それにしても、誰もいないとはどういうことか。滞在が延びたとはいえ、主人を
守護するという役目が終わったわけではない。
 またジュダの仕業に決まっている。おそらく、皆をティファのいかがわしい店に
でも案内しているのだろう。己の主人と仲間のひとりが存亡の危機に立っていると
いうのに、呆れかえった奴だ。やはり昨日のうちに絞め殺しておくべきだった。
 アランは大きなため息を吐くと、踵を返した。腕をさすりながら、来た道を戻る。
剣闘士あがりのジュダが加わってからというもの、メンテル騎士団は規律だけで
なく品位まで失ってしまった。国王直属で、しかも貴族の子弟ばかりで構成されて
いるアストール騎士団とは違い、メンテルの団員たちは出自や財力において著しく
劣っている。だからこそ、剣の腕だけではなく、教養を身につけ礼節を重んじるよ
うにと厳しく教え続けてきた。それがやっと実を結ぼうとしていたところに、あの
男がやってきて何もかもぶちこわしたのだ。
「あの、コルベット様……」
 ふいに若い女の声がした。足を止めて肩越しに振り向くと、顔を妙に赤らめた侍
女が気取った会釈をするのが目に入った。
「私に何か?」
 アランは冷ややかな声で訊いた。愛想笑いをする気にもなれない。
「お妃様が謁見の間でお待ちです。昨夜の件で尋ねたいことがあるから、すぐに来
るようにとの仰せでございます」
「わかりました。必ず伺うとお伝え下さい」
 アランは逡巡せずに返答を告げ、侍女に背を向けて再び歩き出した。マリオン王
女、いや妃殿下が何を知りたがっているのか、およその見当はついている。
まずは話してもかまわない事柄と、秘密にしておくべき事柄とを注意深く分けて
おく必要があるだろう。それでいて話の流れは、妃殿下を納得させる程度に自然で
なければならない。彼女は意外に鋭いのだ。
 難しくても、やり遂げなければ。
 アランは足を速めた。

「どうだろうか?」
 そう訊いて、ステファンはフィリスの顔を探るように見た。友は口をつぐんで視
線を落とし、腕組みをして考え込んでいる。
ヴェーネ・ルード―平民女性に贈られる最高の称号―をミレシアに与えて欲しい。
彼女は酒毒に犯された王子を救ってくれたのだから、褒美を得る権利がある。
こちらの言い分には、さほどの無理はないはずだと思う。ステファンはソファー
に腰を下ろし、相手に決断を迫るように、無言でにじり寄った。
「君の気持ちはわかるが……」
 フィリスは半ば呻くように口を開いた。
「褒美をやりたいなら、別に称号じゃなくてもいいだろう? 金貨や絹織物のほう
が、審査のあるヴェーネ・ルードより手っ取り早いし役に立つぞ」
「いや、駄目だ。どうしてもあれが欲しい」
「やけにこだわるじゃないか。理由を知りたいな」
「ミレシアをアストールに連れて行って、父上に会わせたい」
「ふむ。それで?」
「いずれは彼女を……妃に迎えたいと思っている」
 ステファンが声を少し落として告白した途端、フィリスは目を剥いた。
「本気なのか!?」
「ああ。だからどうしても称号が必要なんだ」
「やれやれ……変わってないなあ」
 フィリスは嘆息し、呆れたように首を振った。
「かつて君が闘技場で腕試しをした日のこと、思い出すよ」
「どうして? 今回の件とは関係ない」
「困難に挑戦したがるからさ。その善し悪しはさておき、未来の王妃を君の独断で
決めてもいいのか?」
「自分の妻は自分で決める。父上から受け継いだようなものだ」
「というと?」
「父上も独断で、私の実母を娶った。フレス卿の話では、出会ったその日に結婚を
申し込み、リーデン城に連れてきてしまったそうだ」
「あの国王殿下が? 情熱的だな」
「私も初めて聞いたときは、正直言って驚いたよ。でも父上のことより……」
「わかってるよ、ステファン。公国教会での審査には、大いに口出しすることにし
よう」
 フィリスは笑ってステファンの肩を軽く叩いた。
「ありがとう、恩に着る」
 この件に関して残された問題といえば、ミレシアが公国教会で洗礼を受けている
かどうかだった。博士のところへ早急に使いをやって、確認しておかなければなら
ない。たとえオリガの教えを棄てていなくとも、フィリスの口添えがあれば大きな
障害にはなるまいが、やはり改宗していたほうが有利なのだ。
「それにしても、シド博士がよく承知したな。確か、あの娘は彼にとって唯一の肉
親のはず。もし私が同じ立場だったら、手放す気にはなれないね」
 フィリスがそう感じたのも、もっともな話だった。どうかお許し下さいと断られ
ても、おかしくはなかっただろう。
 石板の件を持ち出せるのは、この瞬間をおいて他にはない。ステファンは表情を
引き締めて友の目を見た。
「博士が私にミレシアを託したのは、理由があってのことだと思っている」
「理由?」
「例の石板だよ。博士はあれに刻まれた文言をかなり気にしていた。事実、アラン
とジュダが家の外で悶着を起こして騒いだときは、ひどくおびえて私の足にしがみ
ついたくらいだ。推測だが、ミレシアを災いに巻き込みたくなかったんだと思う」
 フィリスの表情がたちまち険しくなる。石板の処分をめぐる彼らふたりの溝は、
予想以上に深いようだ。しかし自分から俎上に載せた手前、後戻りはできない。
「よほど悩んでいたんだろうな。私がミレシアのことを切り出す前に、博士自ら石
板の話を始めてね。君の身をとても心配していたよ」
「……なるほど」
 フィリスは低く呟いて、背もたれに上半身を預けた。腕組みをし、視線を壁の上
方に向ける。何気ない仕種にもかかわらず、ステファンは友の頑なさを感じずには
いられなかった。
「それで、どう思った?」
 フィリスが視線を動かさずに問う。こちらの意見を聞く気はあるようだが、楽観
はできない。
「驚いた。まずは、このひと言に尽きるね。私はてっきり、あの石板は聖戦士の行
状記を刻みつけた物だと思っていたから」
「行状記か。そっちのほうが面白いかもしれん」
 フィリスの口許が一瞬、わずかに緩んだ。
「この半年の間、石板がらみでいろいろあったそうじゃないか。何も打ち明けてく
れないなんて水臭いぞ。私はそんなに頼りないか?」
「別に隠していたわけじゃないさ」
 フィリスは即座に答えると、顔をこちらに向けた。心なしか、暗い目をしている。
「久しぶりに会う君に、不愉快な話を聞かせるのは嫌だったから」
 その言葉に偽りはないと信じたい。だがステファンには、フィリスの本音が友情
とは別の次元にあるように思えてならなかった。
「私にそんな気づかいは無用だよ。これから先、あの石板をどうするつもりなんだ?
いつまでも礼拝堂の祭壇に入れっぱなし、というわけにはいかないだろう」
「一応、考えてはいる」
「もし差し支えなかったら、聞かせてくれないか? アストールで同じような遺物
が出たとき、参考にしたいんだ」
「期待されるほどのことじゃないよ」
 フィリスはそっけなく言って、ふいに立ち上がった。己の机に歩み寄り、腰を少々
屈めて真ん中の引き出しを開ける。そして中から筒状に丸められた紙を取り出すと、
ステファンを手招きした。
「まだ構想の段階だけどね。見てもいいよ」
事も無げに言う。ステファンは引き寄せられるようにソファーを立ち、フィリス
に近づいた。
「では、ちょっと拝見」
ステファンは差し出された紙筒を受け取ると、すぐに縛り紐をほどいた。紙を上
下に広げ、内側の面に視線を落とす。
 目に入ったのは、派手な装飾を施された礼拝堂の絵だった。誰の手によるものか
は知らないが、筆を上手に使いこなしており、なかなかよく描けている。
「この絵と同じものを、公国教会の敷地内に建てたいと思っている」
 フィリスの声がして、ステファンは顔を上げた。
「石板はどうするつもりだ? 例えば地下にテンペルムス(聖域)みたいな場所を
作って、そこに安置するとか?」
「君の案も悪くないな。でも、私の考えは違う」
いったい何をするつもりなのか。物事を否定的に考えてはならないと思いつつも、
悪い予感が胸の中で雨雲のごとく広がるのを抑えられない。今の自分の表情は、か
なり強張って見えることだろう。
「例の石板は、聖職者や貴族だけでなく我が臣民にも公開するつもりだ。むろん、
外国人が見学したってかまわない。礼拝堂は遺物を入れておく器みたいなものだよ」
「何だって!?」
 絵を持つ手が震えた。血の気が引いていくのが自分でもわかる。
「フィリス、どうして……」
「いい機会じゃないか。聖戦士にまつわる遺物なんて、皆無に等しいんだぞ。これ
に匹敵するものは大教会さえ持っていないんだ」
「だが公開するなんて……危険すぎる」
 ステファンは苦しげな声で呟き、首を力なく横に振った。
「危険だって? 私の計画のどこが危険なんだ? 昨日、博士に何を吹き込まれた
のか知らないが、石板ごときに怯えるなんて君らしくもない」
「私は怯えてなんかいない。フィリス、石板を見せ物にする必要が本当にあるのか、
よく考えてみてくれ。発見から今日までの経緯を思えば、もっと慎重な取り扱いが
必要なはずだ」
「君は完全に誤解している」
 フィリスは表情を固くして言い放つと、ステファンの手から絵と縛り紐を取り上
げた。
「私も当初は、石板を公国教会の宝物庫に納めるつもりだった」
「ならば、どうして方針を変えた?」
呪われた遺物を元の場所に埋め戻さない限り、怪異は終わらない。アカデミアで
秀才と呼ばれたフィリスが、何故こんな自明の理を理解できないのか不思議だった。
「先月、大教会から使者が来た」
 友の言葉を聞いた瞬間、ステファンは眉をひそめた。批判本を書いた枢機卿が、
公国内に潜伏していることを知られたのではあるまいか。
「まさか、あの方のことが……」
「大切な方の居場所を、簡単に突き止められてしまうようなヘマはしない。連中は
金を無心してきたんだよ」
「つまり、献金の増額を要求してきたと?」
「上品な言い方をすれば、そういうことになる」
 フィリスは口許を歪めて認めると、絵をくるくると筒状に丸めた。紐をかけて縛
り、引き出しの中に戻す。
「大教会はどのくらいの額を?」
「昨年の十倍だ。それだけの金があったら、ここと同じ規模の城がもうひとつ建て
られるだろうな」
口には出さなかったが、今のところアストールにそのような要請は来ていない。
献金の法外な増額が、大教会からの圧力であるのは明白だった。やはり枢機卿の
逃亡には、ギルトが関わっていると看破されているのだ。もしフィリスが要求をは
ねつけたら……。
「あまりにもひどすぎる。減額の交渉はできなかったのか?」 
 ステファンがそう言った途端、フィリスは顔を引きつらせ、ぞっとするような甲
高い声を上げて笑い出した。
「笑いごとじゃない、ギルトの将来がかかっているんだぞ!」
「では尋ねるが、連中相手に交渉が成立したことがあったか? 君自身の胸に訊い
てみるがいい!」
 フィリスは左の人差し指をステファンの鼻先に突きつけ、感情を剥き出しにして
言い放った。驚きのあまり、声も出ない。
 大教会相手の交渉は成立しないという言葉は、残念ながら事実だった。過去の経
験を改めて振り返るまでもない。愛人のまま死んだ生母、立太子式が許されない自
分。それを思うと、胸が張り裂けそうになる。
「我がギルトも見くびられたものだ!」
 フィリスが声を震わせた。いつもは穏やかな紫色の目が、今日は吊り上がって怒
りに燃えている。使者とのやりとりの中で、大公としての矜持を傷つけられる何か
があったに違いない。
「しかし、私が羊みたいに大人しく言いなりになると思ったら大間違いだ」
「フィリス、君は何を……」
「大教会から公国教会を独立させる。聖職者の皮を被った金の亡者には、我が臣民
の血税を一クルオーネたりとも与えない」
 すでに覚悟を決めているらしく、断固たる口調だった。アストールのためを思う
なら、ステファンは今すぐ、独立を撤回するよう言葉を尽くして説得しなければな
らないのだが……。
 私には、言えない。
 ステファンは心の底で呻いた。理性では説き伏せるのが自分の役目だと自覚して
いても、感情がそれを拒絶してしまう。
フィリスの気持ちは痛いほどわかる。罵倒するのも当然だ。大教会に対する不満、
いや怨念は自分のほうが遙かに強いとさえ思う。
もしアストール王国教会が大教会から独立できたら、すぐにも立太子式が挙げら
れるだろう。正式な皇太子となれば、上級貴族たちが何と言おうと、国政への発言
力は国王に次ぐ強さになる。それに多額の献金を確保するため、国中を走り回る必
要もない。
息をするのさえ苦しいほど、心が揺れ動いていた。こういうときこそ、発言は慎
重にしなければならない。ステファンは、自分にそう言い聞かせて押し黙った。
「だからこそ、石板が必要なんだ」
 友の台詞が胸に響く。悪魔の誘惑とは、このような感じなのだろうか。
「いいか、よく聞いてくれ」
 フィリスは少し声を低くして言い、ステファンの肩に腕を回した。
「聖戦士に関する遺物がギルトから出土したのは、偶然ではなく必然、つまり神の
ご意志だ。私は忠実な信徒として、大教会という名の悪徳を滅ぼし、真の信仰と自
由を、ギルトはもとより大陸全土にもたらさねばならない。礼拝堂を建設して石板
を公開するのは、闘いの第一歩なんだ」
自国の教会を独立させ、大教会の支配から脱しようとした君主は、これまでにも
複数存在した。その中で最も有名なのは、約四百年前のグランベル帝国皇帝ヴィク
タナスだろう。彼は領土と皇帝権力のさらなる拡大を図ろうとして、当時の教王ラ
トニア四世と厳しく対立した。生臭い権力争いは十五年も続いたとされているが、
勝者となったのは教王だった。敗れたヴィクタナスは強制的に退位させられ、屈辱
あまり憤死したのである。
だが勝ったとはいえ、大教会の威信は著しく失墜した。ラトニア四世は、損なわ
れた権威を回復させるために、俗世への干渉を深めていく道を選んだ。このときの
教会法の改革が、厳格な破門制度や高額献金の義務などを生み出す元となった。
皇帝ヴィクタナスはむろんのこと、過去に大教会と闘った君主の中で生き残った
者はひとりもいない。全員が完膚無きまでに叩き潰されている。この歴史的事実は、
今に至るまで各国の王家を呪縛するものだった。
「無謀だと思っているようだな。だが、私は絶対に成功させてみせる。天と地が逆
さまになるように、大陸の何もかもが変わるぞ」
フィリスはそう言って、ステファンの肩を軽く叩いた。過剰なまでの自信は明ら
かに石板の存在から来ている。世界にふたつとない遺物を利用して大教会を痛打し、
最初の勝利者になるつもりらしい。
「どうしても、石板を使うというのか?」
「当然だ。新しい公国教会には、それにふさわしい象徴が必要だからね」
「シド博士はこのことを……」
「まだ知らない。話したらどうなるか、君だってわかるだろう?」
 フィリスは急に苦々しい顔つきになると、ステファンの側を離れてソファーに腰
を下ろした。両腕を広げて背もたれに回し、足を組む。
 この先、話をどう持っていけばいいのか。フィリスが政争の道具として石板を使
おうとしている以上、強硬に反対すればギルトへの内政干渉と受け取られかねない。
アストールとの同盟関係を損なわずに、友を説得するには……。
「独立には反対しない。大いにやってほしいね」
 ステファンは笑みを浮かべて、あっさりと言ってのけた。石板を手放すと決意さ
せるためなら、どんな協力でもしよう。公国教会の独立も大事だが、それよりも遙
かに重要なのは大陸の安全保障なのだ。
「本気でそう思っているのか?」
 フィリスが怪訝な目つきでこちらを見る。発言の真意をつかみかねているらしい。
「もちろん本気さ。君ならきっとやり遂げられるはずだ」
ステファンは語気を強めて答え、友の隣に腰掛けた。互いの目と目が合った瞬間、
唇が最初の一撃を放った。
「たとえ石板がなくてもね」
「な……何っ!?」
「あんな物の力を借りなくとも、独立は達成できる」
「馬鹿を言うな!」
 フィリスは大声で怒鳴り、弾かれたように立ち上がった。色白の顔がたちまち紅
潮してくる。予想どおりの反応だ。
「切り札はもう一枚ある」
 ステファンは落ち着き払った態度を崩さなかった。そして友の目を瞬きもせずに
見つめたまま、身体を起こして立ち、さらに言葉を続けた。
「口にこそ出さないが、大教会のやり方に不満を持っている者は多い。正直に言え
ば、この私だってそうだ。例の批判本を出版すると同時に、あの方を公国教会の長
として担ぎ出せ。地位といい高潔な人柄といい、全く申し分のない人物だ。そうす
れば、公国教会の正統性が保たれるだけではなく、彼を慕ってたくさんの人々が国
の内外から集まってくるだろう。ひとりひとりは無力でも、数が多くなれば力に変
わる。石板も多くの見物客を呼び寄せるだろうが、人と人とを結びつけることはで
きない」
「私だって、最初は同じように考えた」
 フィリスは顔を背け、低く小さな声で呟いた。
「ならばどうして石板を……」
「断られたんだよ! 他に方法があると思うか!? あの恩知らずめ、野に在って
貧しい人々に福音を授けたいとか何とか、綺麗事ばかり吐(ぬ)かして! 私が助
けてやらなかったら、今頃破門されて野垂れ死にしていたくせに!」
幼子さながらに地団駄を踏み、耳を塞ぎたくなるような台詞をわめき散らす。
殿下はお変わりになられました。
アランの言葉が、ふいに脳裏を過ぎる。読みが甘かったか。
「落ち着け、フィリス」
「そうだろうとも、君にとっては他人事だから落ち着いていられるんだ! 一度ぐ
らい私の立場になって考えてみろ!」 
「考えてるよ! だから簡単に諦めてほしくない!」 
 ステファンはフィリスの両肩をしっかりとつかんだ。
「説得の余地はまだ残っている」
「他に手立てがあるっていうのか?」
「あの方は地位や金には興味がないから、それ以外のもので誘うしかない。まず最
初に、大教会から法外な額の献金を迫られて、非常に苦慮していると伝えるんだ」
「君は私に恥をかけというのか? 同情してもらえというのか? 冗談じゃない、
そんなこと言えるか! 手を離せ!」  
 フィリスは身をよじってステファンの手を振り放そうとした。
「黙って最後まで聞けよ! 次に、献金を満額納めるには、全ての公国臣民に対す
る大幅な増税が必要だと言うんだ。そこまで聞けば、あの方だって馬鹿じゃない。
君の要請を真剣に考え直すはずだ」
「でも、また駄目だったら?」
 針のように鋭い視線をステファンに向ける。初めての挫折は、フィリスの心に浅
からぬ傷を残したらしい。
 もし自分が大公の立場だったら、献金の減額交渉をして時間を稼ぎつつ、あの方
と密かに連絡を取り合って独立の準備を進めていたと思う。有力貴族や公国教会内
部への根回し、周辺国への働きかけなど、やっておくべきことも多い。
 だが、フィリスは問題をひとりで抱え込むだけでなく、その全てを一気に解決し
ようとしていた。いったい何に駆り立てられているのか……。
「失敗はしない」
 ステファンは言葉に力を込めた。
「何故そうだと言い切れる? 君は無責任だ!」
 フィリスは吐き捨てるように言うと、ステファンの手を振り解き、足早に窓辺へ
歩み寄った。陽はすっかり傾いている。
「少し冷静になれ、フィリス」
 友の背中に向かって話しかける。
「君の相手はあの方でも私でもない、大教会なんだぞ。わかっていると思うが、彼
らに対して事を構える以上、何が何でも勝たなくてはならない。そのためには詳細
な行動計画と、周到な準備が必要だ。何度も言うようだが、石板だけで人を動かす
ことはできない」
「そんなに、あの石板が欲しいのか?」
 フィリスは肩を微かに震わせて、振り向きもせずに訊いた。
「公国教会の独立と石板の処分は、全く別の問題だよ。一緒にするから、ややこし
くなるんだ。石板を元の場所に埋め戻しても、拓本があるじゃないか。どうしても
公開したければ、そっちを出せばいい」
「駄目だ。本物でなければ意味がない」
「石板はただの物体じゃない、危険きわまりない遺物だ。あれをそのまま放ってお
いたら、大変なことになる。今すぐにでも埋め戻すべきだ」
「絶対に渡さない、石板は私のものだ」
「フィリス!」
 どう説明したら理解してくれるのだろう。やはり、アランと自分を襲った妖魔の
話を打ち明けるしかないのか。
「人は……必ず裏切る。でも石板なら、私を裏切らない……」
 頭を垂れ、聞き捨てならない台詞を吐く。即位してから今日までの間に、人への
信頼を失うような出来事があったに違いない。
「大丈夫か?」
 ステファンはフィリスに近づき、震える肩にそっと手を置いた。
「いったい何があった? よかったら話してほしい」
「別に何も……」
「私は君の力になりたい。友だちじゃないか」
「……ほっといてくれ」
 鼻にかかったような感じの弱々しい声だった。ステファンは嘆息し、フィリスの
肩から手を離した。
「君がこんなに苦しんでいたなんて、全く知らなかった。私にできることなら、何
でも協力させてもらうよ」
「無理するな……ステファン」
 低く呟き、手の甲で目元を拭う。フィリスは何故、派手な服で我が身を飾らねば
ならなかったのか。今ならその理由がわかる。
「仲間は多いほうがいい。共に大教会の支配を打ち破ろうではないか」
「いや、君は関わるな。独立の話も聞かなかったことにしてくれ」
 フィリスは意外にも首を横に振り、きっぱりとした口調で言った。
「どうして?」
「君の気持ちはありがたいと思う、でも……」
 ステファンは腕組みをして窓の外に目を向けた。中庭は半分以上建物の影に入っ
てしまっている。
「現実はそう簡単じゃない。アカデミアの頃とは、わけが違うんだ」
「言われなくてもわかってるよ」
「君は本当に昔のままなんだな」
「悪いか?」
「いや、ちょっとうらやましいだけだ」
 フィリスはそう答えると、小さな笑い声を上げた。
「ステファン、これからは自分のことを第一に考えるんだ。君の場合、王国内での
立場を揺るぎないものにするのが先決だよ」
 正論だった。まず皇太子にならなければ、国政への本格的な介入はできない。だ
が、いったいどうやったら今の膠着状態から抜け出せるのだろう。
「それができればね……大教会のくそったれ!」
「実に素晴らしい表現だが、少々下品だな。ジュダの影響か?」
「奴ならもっと胸のすくような罵詈雑言を知ってるはずさ。今度訊いてみよう」
 ステファンは肩をすくめて言い、隣を見た。呼応するように、フィリスもこちら
に顔を向ける。友の表情には普段の穏やかさが戻っていた。
「石板の件は、もう少し時間をくれないか? いろいろ考えたいこともあるし、こ
こですぐ結論を出すのは難しい」
「わかった。必ず考え直してくれよ」
 ステファンは薄く笑ったが、胸の中では深いため息を吐いていた。今日の話し合
いは誤算に始まって徒労に終わり、後に残ったのは無力感だった。
大陸の安全と同盟関係、どちらが欠けてもアストールは立ち行かない。説得の難
しさを噛みしめながら、シド博士のことを思う。あの老人は、ひたすらフィリスの
身を案じていた。
「でも、これだけは忘れないでほしい。立場がどうであれ、私はいつでも君の味方
だよ。何の力もないが、愚痴の聞き役ぐらいにはなれる」
「……ありがとう」
 フィリスは寂しげな笑みを浮かべて礼を言い、窓の外に顔を向けた。
本当に大丈夫だろうか?
ステファンが不安を口にしようとしたとき、扉の開く音が聞こえた。はっとして
振り返ると――。
「まあ、おふたりともこちらにいらしたのね」
 ひとりの貴婦人が艶やかに微笑みながら、部屋の中に入ってきた。豪華な刺繍と
たくさんのフリルが入ったドレスに身を包み、薄絹で覆った頭部には、宝石で飾ら
れたクラウンが輝いている。彼女がこちらに近づいてくるほど、香水の甘い匂いが
強くなった。
「マリ……いえ、妃殿下。おい、フィリス」
 思わず肘で友をつつく。気持ちの切り替えは難しいだろうが、新妻の前で萎れた
ような姿をさらしてほしくなかった。
「城中をお探しいたしましたのよ」
 マリオンは小首を傾げて言い、ステファンに左手を差し出した。
「申しわけございません。少々長話をしてしまいまして」
 片膝をついて身を屈め、出された手を取って軽く接吻する。昔のような兄と妹の
関係ではなかった。
「もう終わったのでしょう? ステファン王子、殿下を私に返していただきたいわ」
「はい、仰せのままに」

                               (8)へ続く




#205/598 ●長編    *** コメント #204 ***
★タイトル (pot     )  03/12/11  11:14  (499)
アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(8) 佐藤水美
★内容
 ステファンはかしこまって答えると、立ち上がって夫妻から数歩離れた。
「あの……私に何か用でも?」
 ようやく振り向いたフィリスが、おずおずとした口調で訊く。
「殿下、私との約束をお忘れになってしまったの?」
「約束?」
「私と一緒に、午後のお茶をいただいて下さるはずでしたわ。もう夕方になってし
まいましたけれど」
 マリオンはいかにも残念そうに言い、フィリスの襟元に手を伸ばした。スカーフ
の結び目をていねいに直している。
「……そうだったっけ? すまない、よく覚えていないんだ」
「では明日こそ、ご一緒して下さいますわね?」
「ああ、もちろん」
「うれしい! きっとですわよ」
 満面に笑みを浮かべて、夫の胸に寄り添う。フィリスの顔は、たちまち真っ赤に
なった。
 見せつけてくれるじゃないか、ふたりとも。
 ステファンは心密かに苦笑した。特にマリオンは挙式前夜、アストールに帰りた
いと言って泣いたというのに、何という変わり様だろう。しかし理由はどうであれ、
夫と妻が仲むつまじいに越したことはない。
「ところで殿下、この城には屋上にもお庭があると聞いたのですけれど、本当です
の? 私、信じられませんわ」
「えっ、いったい誰からそんなことを……?」
 フィリスが疑いの眼差しをこちらに向ける。
マリオンは庭の存在を誰に聞いたのだろう。いや、それを詮索するよりも、ここ
はまず友の顔を立ててやらなくては。
「妃殿下、その件については私からご説明申し上げましょう」 
 ステファンは微笑んで言い、夫妻の前に進み出た。
「空中庭園という言葉を、お聞きになられたことはございますか?」
「ええ。おとぎ話の中でなら」
「最近の研究で明らかになったのですが、古代には空中庭園が実在しておりました。
といっても、土の塊が宙に浮いていたわけではありません。それは宮殿の屋上に造
られた庭だったのでございます。しかし残念ながら、当時の造園技術は失われてし
まいました」
「ちょっと待て、ステファン」
 フィリスが慌てた様子で口を挟む。
「殿下のお気持ちはよく存じております。ここは私にお任せ下さい」
「いや、でも……」
「ステファン王子、先を続けなさい」
「はい、かしこまりました。妃殿下もご存じのように、殿下は秀才の誉れ高きお方。
あらゆる学問の研鑽を積まれた結果、ついに造園技術の復元に成功なされたのでご
ざいます。長い時間と多額の金をかけて研究に情熱を注がれたのは、ひとえに妃殿
下の御為。ギルトはアストールの隣国とはいえ、妃殿下にとっては見知らぬ土地な
れば、何かと不安なこともおありになるでしょう。庭園の美しい花々で、少しでも
お心を慰めていただきたい。殿下は、そのようにお考えになっておられたのでござ
います」
「まあ、私のためにお庭を? それならそうと、早くおっしゃって下さればよかっ
たのに」
 マリオンは目を大きく見開いて、夫の顔を見た。
「はは、まいったな……」
 フィリスは微苦笑を浮かべ、あいまいな返事をした。口裏を上手く合わせられな
いところが、いかにも友らしい。
「お言葉ではございますが、殿下はご自身で打ち明けるおつもりだったのですよ。
城の者たちは皆、そのために口止めされていたのです。つい先ほど、この私にも他
言してはならないとのご命令があったばかり。殿下のお心づかいを無にした粗忽者
は、いったい誰なのですか? 私がきつく叱っておきましょう」
「ここはアストールではありませんよ、ステファン王子。命に背いた者への処罰は、
殿下がお考えになることです。口を慎みなさい」
 マリオンはつんとすました顔をして、ぴしゃりと言い放った。言っていること自
体は間違っていないのだが、態度や口調が少々癇に障る。ステファンは、喉元まで
出かかった小言を慌てて飲み込んだ。
「出過ぎた物言いを致しました。どうかお許し下さい」
「本当にそう思っているのなら、証拠を見せていただきたいわね」
 しっかりと化粧を施した顔に、意地悪な笑みが浮かぶ。妹に恨まれるような真似
は、ひとつもしていないはずなのに。
「マリオン、何もそこまで言わなくてもいいじゃないか。王子に悪気がなかったこ
とぐらい、君もわかっているよね?」
 フィリスがマリオンの腰に手を回して、優しい声を出した。
「それに私は、犯人捜しをするつもりはないよ。庭の件は、いずれきちんと説明す
るつもりだった。話すきっかけが早くできて、かえって良かったと思っているんだ」
「なんて寛大なお言葉なのでしょう! さすが殿下でいらっしゃいますわ」
 マリオンは感激した様子で言うと、少し背伸びをし、フィリスの唇に長い接吻を
した。友の顔がさらに赤みを増す。
いかにも新婚夫妻らしい行為だった。挙式前夜の出来事は、これで帳消しになる
だろう。ステファンは、心の底に残っていた罪悪感が薄れていくのを感じた。
「恐れ入りますが、屋上の庭を一度ご覧になってみてはいかがでしょうか。中庭と
違って、まだ明るいかもしれませんよ」
「ぜひ拝見させていただきたいですわ、殿下。よろしいでしょう?」
 マリオンは甘い声で言いながら、両手でフィリスの顔を慈しむように包んだ。友
は目を潤ませ、ぼんやりとしている。再び接吻されたら、失神するのは確実だろう。
「やっぱり駄目ですの?」
「いや……、見てもいいけど……」
「よかった! さあ、まいりましょう」
 マリオンはフィリスの手を取り、ステファンに背を向けた。こちらの存在など、
忘れてしまったかのようだ。
 妻の尻に敷かれるなよ、フィリス。居室を出て行くふたりの後ろ姿を眺めながら、
心の中でそう話しかけた。

 大公夫妻が屋上庭園の美しさに見とれている頃、ステファンは暗澹たる思いを抱
いて階段を下りていた。
 客間に戻り次第、シド博士に手紙を書かねばならない。フィリスの決意を知った
ら、あの老人はどんなに嘆き悲しむだろうか。
 しかしステファンの心を滅入らせたのは、これだけではなかった。帰国後には、
ギルトでの出来事を父王の面前で報告する義務があるのだ。同盟を結んだ国が大教
会から独立しようとしていることを明かせば、父王は激怒するに違いない。マリオ
ンを強制的に離婚させて同盟を解消し、国交断絶を通告するだろう。大教会をめぐ
る政争からアストールを守るには、こういう方法しかないのもまた事実なのだが。
 ステファンは立ち止まり、振り返って階段の上方に目を向けた。居室でのフィリ
スとマリオンを思い出す。ふたりの幸せを壊したくない。
 今は何も聞かなかったことにしよう。フィリスが一日も早く、石板を元の場所に
埋め戻してくれれば、それでいい。独立の件は後回しだ。
「ステファン様!」
 突然アランの声がした。手すりから身を乗り出して下を覗き込むと、急いで駆け
上がってくる青年の姿が目に入った。
「お帰りが遅いので、つい……」
 アランは主人の顔を仰ぎ見るなり、息を弾ませて言った。青い目が濡れたように
潤んでいる。
「疲れた」
 思わず本音を吐いた瞬間、ステファンは客間での喧嘩を思い出して、急に決まり
が悪くなった。
「例の話はしていない」
 視線を逸らし低い声で呟くと、再び階段を下り始めた。子供じみていると思いな
がらも、逃げるように足を速めてアランの脇をすり抜ける。
 フィリスの変化を的確に見抜けず、アカデミア時代の思い出を引きずったまま話
をしたのは、他ならぬ自分自身だった。
 せめて皇太子の地位にあったなら、状況を変えられただろうか。
そう思った途端、胸の奥が締めつけられた。大教会と闘いたくても、同じ舞台に
さえ上がれないのが、今の現実なのだ。
階段が終わって客間に通じる廊下に出ると、ステファンは突然足を止めて振り返
った。後からついてきたアランが、慌てて立ち止まる。
「……アラン」
「はい?」
「客間では、その……悪かった」
 アランは一瞬ぽかんとした表情を見せたが、すぐに意味がわかったらしく、片膝
を床について身を屈め、右手を胸に当てて頭を垂れた。
「いいえ、私こそ己の身分もわきまえず、数々の無礼を働いてしまいました。どう
かお許し下さい」
「お前は謝らなくていい」
 アランが驚いたように顔を上げる。
「今日は、自分の未熟さを嫌というほど思い知らされた。お前の言葉が、つくづく
身に染みたよ」
「すると殿下は……」
 ステファンは小さなため息を吐いて、首を横に振った。アランの表情がたちまち
厳しくなる。
「詳細は客間に戻ってから話そう。とにかく、やっかいなことになってるんだ」
「承知致しました」
 居室での話の内容を知ったら、アランはどんな反応を示すだろうか。
 長い夜になりそうな予感がした。

 フィリスとの会談から十日後、ステファンら一行はアストールに向けてカスケイ
ド城を出発した。
この日は朝からよく晴れて気温が上がり、昼頃には初夏を思わせるような陽気と
なった。マントを身につけていなくても、汗ばむくらいだ。街道には光が溢れ、木々
の新緑が目に眩しい。
だが、馬上で手綱を握るステファンの心は、暗く沈んだままだった。あの日以来、
フィリスが明らかにこちらを避けるようになったからだ。
ミレシアがヴェーネ・ルードの審査に合格したことを知らせに来たのは、宰相の
ランバートだったし、口添えの礼を言うために会いたいと申し出ても、多忙を理由
に断られた。出発前夜の晩餐はおろか、見送りにさえ現れず、マリオンには新婚早々、
夫と兄の板挟みになるという辛い経験をさせてしまった。
 友情とは、こんなに脆いものだったのか。
「ステファン様、いかがなされました?」
 いつの間にか、アランが真横に並んでいる。
「いや、別に……」
「今の速さで進むと、ガレー城に着くのは夜になってしまいます。日が落ちてから
の街道は物騒ですから、もう少し急がれたほうがよろしいかと」
「ああ、そうだな」
 愛馬に鞭を入れる前に、肩越しに後ろを振り返る。二頭立ての馬車が視界の片隅
に入った。
 あそこにはミレシアが乗っている。狭い空間の中で、心優しい少女は病気の見習
い騎士を看病してくれているのだ。
 お役に立ちたいのです。
 そう言ったときの、彼女の眼差しは真剣そのものだった。
「ステファン様」
「何だ?」
 視線を逸らさずに訊く。
「前をご覧にならないと、危のうございますよ」
「わかってる!」
 ステファンは声を荒げて言い、馬の尻にぴしりと鞭を入れた。

 ガレー城に到着したのは日没直前だった。
旅装を解き食事を済ませる頃には、夜もすっかり更けていたが、ステファンはミ
レシアを己の寝室に招き入れた。男としての下心が全くないと言えば嘘になるが、
まずは彼女とゆっくり話をしたかった。その目的に合わせれば居室を使うべきであ
ろうが、自分のわがままで城の太守を追い出すわけにはいかない。
入ってきたミレシアは少し緊張している様子だったが、ソファーに座るよう促す
と、素直に従った。ふたりきりになるのは、シド博士の家で別れて以来だ。
「今日は疲れたでしょう?」
 ステファンはミレシアの隣に腰を下ろし、優しい口調で話しかけた。
「ううん、そんなことない……あっ!」
 しまったというような顔をして、慌てて口許に手を当てる。その仕種が可愛らし
くて、ステファンは思わず微笑んだ。
「……いえ、大丈夫です」
「普通にしゃべっていいよ、ここには君と私しかいないんだから」
「ありがとうございます。でも、言葉づかいには気をつけないと……」
 おそらく博士に言い含められたのだろう。リーデン城に出入りするうるさい連中
のことを考えると、話し方には、普段から気を使っていたほうがいいのかもしれな
い。だが、ふたりでいるときだけは、そういう余計な気苦労をさせたくなかった。
「ミレシア」
 愛しい少女の手の上に、己の手を重ね合わせる。
「礼を言うのは私のほうだよ。君は自ら進んで病人の世話をしてくれた。本当に感
謝している」
「私はただ、ステファン様が困っていらしたから……。あの人、少しでも良くなっ
てくれるといいのだけれど」
「君が看病してくれたんだ、きっと治るよ。明日にはベッドから起き上がっている
はずさ」
「まさか……。ステファン様は、私を買い被っておられます」
「気づいていないかもしれないけれど、君には何か特別な力がある。私の身体から
酒毒を消してくれたのが、その証拠だ。あのとき君が側にいてくれなかったら、私
は今頃どうなっていたか」
 決して誇張ではなかった。フィリスとの会談の翌日、ステファンは施療院の医師
の診察を受け、酒毒が体内に残っていないことを確認している。むろん、新たな不
調も感じていない。
「私に力なんて……」
 ミレシアの顔に困惑の表情が浮ぶ。
「こういうことは、今までに一度もなかった?」
「……ないわ」
 ミレシアは小さな声で悲しげに呟き、幼女のような仕種で首を左右に振った。
「でも、これは事実なんだ。私たちが初めて出会った、カスケイド城の屋上庭園を
思い出してくれ。最初から、あんなに美しかったのかどうか」
「私が行ったときは、まだ薄暗くて……」
「あの庭は荒れ果てていたそうだ。庭師たちが手を尽くしても、木や草花は根づか
なかったという話も聞いたよ」
「本当なの?」
 ミレシアが不信そうな目でこちらを見る。ステファンは重ねた手に力を込め、黙
ってうなずいた。
「私、何もしていないのよ……」
 ミレシアがそう言うのも無理はなかった。彼女は自分の出生にまつわる秘話を全
く知らないのである。だが、祖父のシド博士でさえ本人に明かさなかったことを、
赤の他人がこの場で軽々しく口にするのはためらわれた。
「おそらく君には、人や生き物を癒す力があるんだ」
「癒す……力?」
 どうしたわけか、ミレシアの声は震えていた。大きな目がたちまち潤んでくる。
「だけど……、母さまは死んでしまったわ」
ミレシアは沈痛な面持ちで呟き、目を伏せた。ひと粒の涙が、ステファンの手の
甲にこぼれ落ちる。
「私にそんな力が……あったら……、母さまはきっと……」
 悲しさの滲む台詞を耳にした瞬間、ステファンは返す言葉を失った。ミレシアが
初めから癒しの力を発揮できたのであれば、母親は今も生きていただろう。何故こ
んな自明の理に気づかなかったのか。
「すまない、ミレシア。つまらぬことを言った」
ステファンは泣いている少女の肩に腕を回し、滑らかで白い額に接吻した。
「悪気はなかったんだ、許してくれ」
 ミレシアの身体を優しく抱き寄せて言う。花を思わせる甘い匂いが、誘うように
鼻孔をくすぐる。
「私、母さまのことになると……どうしても……」
 ミレシアはステファンの胸に顔を埋め、熱い息を吐いた。
「泣いてもいいんだよ。親を亡くすのは、誰にとっても悲しいことだから」
 ステファンは穏やかな声で話しかけると、ミレシアの頭に接吻した。腕の中の少
女は、幼児に戻ってしまったかのように、何度も顔を擦りつけてくる。
 すぐにも抱き上げてベッドに運び、何もかも自分のものにしてしまいたい。だが
ステファンは、荒々しい欲望を堪えた。ミレシアはヴェーネ・ルードとして、ギル
ト公国を代表する外交官のような立場にある。彼女を未来の正妃として迎え入れる
ためにも、軽はずみな行動は慎まねばならなかった。
「大丈夫?」
 背中を撫でながら訊いてみる。ミレシアはうなずいたものの、まだしゃくり上げ
ていた。落ち着くまで、もう少し時間がかかりそうだと思ったとき――。
「ステファン様!」
 くぐもった声と同時に、扉を強く叩く音がした。ミレシアは突然のことに驚いた
らしく、身体をびくりと震わせてステファンにしがみついた。
「そこで待ってろ、アラン。私がいいと言うまで開けるなよ!」
 扉のほうに向いて声を張り上げる。いくら気心の知れた仲とはいえ、今のふたり
の姿を見られるのは少々まずい。
「あの……私……」
ミレシアが顔を上げ、不安げな眼差しでステファンを見る。
「気にしなくていいよ。どうせ、大した用じゃないさ」
 ステファンは微笑んで言い、上着のポケットから手巾を取り出した。可愛い少女
の目許や頬をそっと拭いてやる。だが部屋の外で待つアランは、甘い余韻に浸る時
間を与えてはくれなかった。
「メンテルから至急の書類が届いております、早くここをお開け下さい!」
 語気鋭く叫び、割れんばかりに扉を叩く。この迷惑な騒音は、城内に響き渡って
いるに違いない。
「しょうがないな。うるさくてかなわん」
 ステファンは不承不承立ち上がり、手巾をポケットに戻しながら扉に歩み寄った。
ふいに視線を感じて肩越しに振り返ると、ミレシアが心配そうな顔でこちらを見つ
めている。
「すぐ終わるから」
 ステファンの言葉に安心したのか、ミレシアの表情がいくらか緩んだ。この様子
なら、おそらく大丈夫だろう。あとはアランから書類を受け取って、さっさと扉を
閉めるだけだ。
「騒ぎすぎだぞ。もう少し穏やかにできないのか?」
 非難めいた口調で言い、扉を細めに開ける。そこにはアランが立っているはずな
のに、誰もいない。
「アラン? 変だな……」
 つい首を出そうとした瞬間、扉が突然大きく開かれて、アランが素早く部屋の中
に滑り込んだ。
「失礼します!」
「な、なんだ、いきなり! 無礼ではないか!」
 わずかな隙を衝かれ、慌てたのはステファンのほうだった。
「無礼は承知しております。私への処分は、煮るなり焼くなりお好きなようになさ
って下さい。ですが、その前にこちらの書類に決裁をお願い致します。明日にもメ
ンテルへ送り返さねばなりませんから」
 アランは涼しい顔をして一方的にまくし立てたかと思うと、綴じ紐で括られた分
厚い書類をステファンに差し出した。
「ちょっと待て。これはメンテルに戻ってから、決裁を下すことになっていたはず
だ。あのとき、お前も確かに賛同したではないか」
 ステファンは苦しい言い訳をしながらも、さりげなく立ち位置を変えた。アラン
の視界から、ソファー周辺を完全に遮っておく必要がある。
「状況が変わったのですから、仕方がありません。お帰りがあまりにも遅いので、
留守を預かる官吏たちも困り果てたのでしょう。ご滞在が延びなければ、何の問題
もなかったのですから」
 それを言われると、ステファンも抗弁できなくなってしまう。むっとして押し黙
り、胸の前で両腕を組んだ。
「私とて、心苦しく思っております。かような夜更けに、しかもお疲れのところへ
仕事の話などしたくはありません。しかし、行政の停滞は許されないのです」
「わかったわかった、やっておくよ。だから早く出て行ってくれ」
 吐き捨てるように答える。ミレシアの存在に気づかれないうちに、何としてでも
この生真面目な青年を追い出さなければならない。
「まだ用は済んでおりません」
 アランはこちらの目を探るように見据た。
「何だって?」
「動かないで下さい」
 そう言うと、アランはふいにステファンの胸許へと顔を近づけた。やっぱり、と
いう小さな呟きが彼の口から漏れる。
「おかしな奴だな、いったい……」
「隠しても無駄ですよ」
「何も隠しておらん」
ステファンが即座に否定したにもかかわらず、アランは深々とため息をついて首
を大きく横に振ってみせた。
「私にはわかっているのです!」
 美貌の青年は声を一段低くして言い放った途端、ステファンの身体を押しのけ、
今度は部屋の外まで聞こえるような大声で叫んだ。
「ヴェーネ・ルード・ミレシア! 出てきなさい!」
「おい、待てっ!」
 止めようとしたが、アランの動きのほうが早かった。ソファーに駆け寄って、そ
の背もたれを軽々と飛び越える。
「このような場所で、何をしているのですか?」
 冷ややかな声が誰に向けられているのか、考えてみるまでもない。ソファーの向
こう側を覗き込むと、ミレシアが小柄な身体をさらに小さくして、床にしゃがんで
いるのが目に入った。両手で顔を覆い、肩を微かに震わせている。アランが突然現
れたため、ソファーの影に身を隠していたのだろう。
「あなたには、ヴェーネ・ルードとしての自覚が全くないらしい。こんなはしたな
い真似をするくらいなら、直ちに称号を返上すべきです」
「やめろ、アラン! ミレシアは悪くない、私が連れてきたんだ!」
「ステファン様が?」
 アランは形の良い眉をひそめ、疑いの眼差しをこちらに向けた。
「ああ、そうだ! お前は引っ込んでいろ!」
 感情にまかせて怒鳴りつけ、急いでミレシアの側に行く。少女の隣にしゃがんで、
震える肩をそっと抱いた。
「びっくりさせてすまなかった。この埋め合わせは必ずするよ」
 耳許で優しくささやき、金褐色の髪に唇を寄せる。アランの視線を強く感じたが、
ステファンは完全に無視した。反応すれば、口論になるのは目に見えている。これ
以上、ミレシアに不愉快な思いはさせたくなかった。
「事情はどうあれ、年若い女性が夫でもない男性の寝室にいるのは由々しきこと。
私がお送りしますから、ヴェーネ・ルード・ミレシアにはご自分の部屋へ戻ってい
ただきましょう。よろしいですね? ステファン様」
「ミレシアを誘ったのは私だ。私が部屋まで連れていく」
 ステファンは自らの責任を感じていた。居室を使えないという理由があったにせ
よ、寝室に招き入れたのは少々軽率だったかもしれない。
「あの……私……、ごめんなさい……」
 ミレシアの声は震えていて、今にも消え入りそうだった。恐る恐る顔を上げ、潤
んだ目でステファンを見つめる。
胸に強く抱きしめて、花びらのような唇に何度でも接吻したい。だが、湧き上が
る欲望を堪えて平静を装い、ミレシアに立ち上がるよう促さなければならなかった。
「君はちっとも悪くないのだから、気にしないで。今夜はゆっくり休むといい。さ
あ、部屋まで送っていこう」
「お待ち下さい」
 アランはそう言うが早いか、ふたりの間に無理やり割って入った。壁のように立
ちふさがって、ミレシアの姿を視界から遮ってしまう。
「いい加減にしろ! 今度は何だ!?」
「ヴェーネ・ルード・ミレシアは、私がお送りすると申し上げました」
「いや、彼女は私が連れていく」
「駄目です。同じことの繰り返しになります」
 アランはきっぱりと拒否して首を横に振った。ミレシアを引き離し、何としても
今夜中に決裁をもらおうという魂胆に違いない。子供の頃からの仲とはいえ、己の
分を越えたような彼の強引さに、改めて腹立たしさを覚えた。
「私に指図する気か!」
「指図ではありません、お願いしているだけです。ステファン様には大切なお仕事
があるのを、思い出していただきたいのです。この決裁が遅れることで、迷惑をこ
うむる者が大勢出るでしょう。中には追いつめられて、首をくくる者さえ現れるか
もしれません。そのような結果は望んでおられないはずです」
「お願い、だと? よくもまあぬけぬけと……勝手に押し入ったくせに呆れたもの
だ。もう一度言っておくが、一両日中には必ず決裁を下してメンテルへ送り返す。
誰にも迷惑はかけない。だから早くそこをどけ!」
「どきません!」
 アランは美貌を紅潮させ、一歩も引かない。ステファンはカスケイド城の客間で
の醜態を思い出して、嫌な気分になった。ただでさえ口論になっている上に、あん
な姿をミレシアの目の前で見せたくはない。
「ヴェーネ・ルード・ミレシアを部屋まで送り届けるのは、臣下である私の役目で
す。ステファン様がなさることではありません」
「……わかった」
 ステファンはため息を吐いて答え、アランに向かって右手を差し出した。
「えっ?」
 アランは拍子抜けしたらしく、目をしばたたいて主人の顔を見ている。
「書類だよ。あれがなかったら決裁できない」
「あ、はい……」
 出された書類を受け取った途端、ステファンは立ちはだかる痩躯を乱暴に押しの
けた。不意を衝かれたアランが、身体をぐらりとよろめかせる。
「ミレシア」
 名前を呼ぶと、愛しい少女は恥ずかしそうな笑みを浮かべた。思わず、その華奢
な身体を抱き寄せてしまう。欲望を堪えようとした努力を、自ら放棄するに等しい
行為だった。
 一晩中でもこうしていたい。
 甘い幻想を打ち砕くように、アランがやけに大きな咳払いをした。

ミレシアのために用意した部屋は、ひとつ下の階にあった。小さなバルコニーが
ついていて、ガレー城では最も日当たりがいい。
主人の命とはいえ、十五歳の小娘に与えるには過ぎた部屋だとアランは思った。
むろん口には出さないが。
「こちらへどうぞ」
 扉を開け、燭台の灯りで内部を照らし出すと、振り返ってミレシアに声をかけた。
少女は無言でうなずき、促されるまま部屋の中に入った。
「少々お話ししておきたいことがあります」
 低い声で告げ、扉を静かに閉める。ミレシアの怯えたような視線を感じたが、心
は全く動じなかった。テーブルの上に燭台を置き、椅子を引く。
「ここにおかけ下さい。私が何を言いたいのか、もうおわかりですね?」
 アランはミレシアを冷たい目で一瞥した後、顔を背けて深く息を吐いた。ギルト
滞在中から溜まり続けていた怒りが、はけ口を求めて胸の中で渦を巻いている。憤
懣をぶつける前に、この少女に対して、彼女自身がしたことの意味をきちんと理解
させなければならない。
「……申しわけありません」
 か細い声だった。これがもし騎士団の団員だったら、本当に謝罪する気持ちがあ
るのかと一喝していただろう。
「本当に……ごめんなさい……」
「あなたは大きな勘違いをしている」
 アランはミレシアに険しい目を向けると、断固とした口調で告げた。少女は表情
をこわばらせ、その場で立ちつくしている。
「もう一度言います。ここに座りなさい」
「……はい」
 ミレシアは諦めたように、勧められた椅子に腰を下ろした。両手を重ね合わせて
膝の上に置く。
「ひとつ質問します。あなたは夫でも父親でもない男性の寝室に、女性が入っても
いいと思っていますか?」
「……いいえ」
「男性の寝室に平気で入り込むような女性を、あなたはどう思われますか?」
「い……いけないと……思います」
「そうですね。あなたが言うとおり、いけないことだ。ふしだらな女と呼ばれても
仕方がない」
 アランは冷笑を浮かべ、ミレシアの顔を覗き込んだ。少女は目を伏せて、下唇を
噛みしめている。おそらく涙を堪えているのだろう。女の武器を使って、追及から
早々に逃れようとしているに違いない。
「では質問を少し変えましょう。あなたにとってヴェーネ・ルードとは何ですか?」
「……ギルト公国の……代表、です」
 ミレシアの声は震えていた。泣きたければ、勝手に泣くがいい。
「ほう、ずいぶん尻軽な代表だな。いいですか、そもそもヴェーネ・ルードという
称号は、教養や品格が抜群であると認められた平民女性に送られるものです。それ
を受けたからには、他の女性の手本となるよう自らの行動を律していかねばなりま
せん。言っていることの意味がわかりますか?」
「……はい」
「わかっているなら何故、あなたはステファン様の寝室に居たのですか!? それ
も二度、隠れるような真似までして!」
 燭台が一瞬飛び上がるほど、強くテーブルを叩く。ミレシアは肩をびくりと震わ
せて、小さな悲鳴を上げた。
「軽率……でした。申しわけありません……でも、ステファン様の寝室に入ったの
は、今夜が初めてで……」
「何という恥知らずだ! そんな嘘でごまかせると思っているのか!?」
「嘘じゃありません、本当です!」 
 ミレシアは顔を上げ、声を高くして言った。大きな緑の目が涙で潤んでいる。
「お願いです、信じて……信じて下さい」
「ステファン様と最初に出会った場所は?」
 アランは胸の前で両腕を組み、テーブルに寄りかかった。信じる信じないの前に、
事実を検証しておく必要がある。
「カスケイド城の……屋上です」
「それで? 誘ったのはあなたですか?」
「ち、違います。私が屋上でビューロを弾いていたら……、ステファン様が……い
らして……」
 要するに、偶然の出会いだったと言いたいらしい。アランは眉をひそめて押し黙
った。己の記憶を整理してみると、確かに主人も、出会った場所はカスケイド城の
屋上だと話していた。
 口裏を合わせているのだろうか? 疑い始めたらきりがないと、頭では理解して
いるつもりなのだが。
「私のつたない演奏を、とてもほめて下さった……」
 ミレシアは頬をうっすらと赤く染め、何かを恥じらうように下を向いた。
「わかりました、もういいです」
 これ以上聞きたくなかった。ミレシアにさえ出会わなければ、ギルトへの旅は平
穏無事に終わっていたのに。恩人の孫娘とはいえ、アランは激しい嫌悪感を覚えた。
今すぐにでもティファへ送り返してやりたい。
 だが、それは不可能だった。ヴェーネ・ルードを粗略に扱えば、ギルトとの外交
問題に発展してしまう。
 だからこそ、主人は称号の請願をしたのだ。そうまでするからには、何か特別な
意志が働いているとして思えなかった。ミレシアの身を守るためだけでなく、例え
ば国王殿下に会わせたいとか。
 会わせたい……? まさか、この少女を本当に……! 
その可能性を全く考えなかったわけではない。しかし実現性の最も薄い選択肢で
あるため、すぐに除外してしまったのだ。主人の本心を見抜いていたら、この命を
捨ててでも阻止したものを!
つい最近まで、手に取るようにわかった主人の心が読めなくなっている。突然突
きつけられた事実に、アランはひどく狼狽した。
「あの……コルベット様?」
 ミレシアの声に、はっと我に返る。
「どうかなさいました?」
 アランは何も答えず、テーブルを離れて壁際にある書棚に歩み寄った。本を二冊
取り出して再び引き返す。
「リーデン城に到着するまでに、この本の内容を全部暗記しなさい」
 厳格な教師のような口調で命ずると、呆然としているミレシアに本を突き出した。
「これを……全部?」
 ミレシアはとまどいながら本を受け取った。
「一冊は作法書、王宮内でのふるまい方や細かい決まり事が載っています。もう一
冊はアストール王国の歴史書です。ステファン様に恥をかかせないよう、頭の中に
叩き込んでいただきたい」
「わかりました。私、頑張ります」
 頑張る、か。いい気なものだ。
「ああ、言い忘れてましたが、歴史書のほうは旧字体になって……」
「読めます、旧字体でも。おじいさまが……シド博士が教えて下さいました」
「そうですか、よかったですね。では、しっかりと勉学に励んで下さい。もし内容
でわからないことがあれば、私に訊くように。ステファン様はお忙しい方ですから、
つまらぬ雑事でお手を煩わせてはいけません。いいですね?」
「はい、仰せに従います」
「よろしい。それと……」
 アランは急に腰を屈め、ミレシアの耳許に唇を寄せた。
「ステファン様が、あなたにどのようなことをおっしゃったのか、不幸にして私は
知りません。旅は人に解放感を与えます。気持ちも普段と違って、高揚したものに
なりがちです。あなたが心がけなければならないのは、過ぎた期待をしないことで
すよ。ヴェーネ・ルードとしての役目を全うするだけでいい。約束してくれますね?」
 ミレシアの顔色がみるみるうちに青ざめていく。哀れとも思わなかった。
「今すぐ、返答をいただきたい」
「……お約束は、できません」
 思わぬ反撃に、アランは目を剥いた。

                               (9)へ続く




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