#176/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 03/10/29 21:30 (410)
十月の事件 2 永山
★内容
戸津欽也の死は、一度は心不全で片を付けられそうになった。だが、年齢や
病歴から生じる疑問に加え、被害者の右手中指に、かぶれたような痕が見つか
った。そこを更に仔細に調べた結果、針状の物で刺されていると判明。解剖の
ため、搬送されることになった。同時に、殺人の可能性が俄然高まり、体育祭
は早めに切り上げられた。
これらの判断は正しかったと言える。戸津欽也は毒殺されていた。
毒の名はクラーレ。ある種の蔓植物から抽出され、南米の原住民族の一部が
矢毒に用いることで知られる。少量なら痙攣を抑える薬として効果を発揮する
が、一定量を超えると、生物の筋肉は弛緩し、呼吸麻痺から死に至る。矢毒に
使われることからも分かるように、血中に入ってこそ威力を表し、対照的に消
化管からはほとんど吸収されない。戸津の場合、右手中指の傷から毒が入った
のは間違いない。
「戸津先生の指がかぶれたのは、全くの偶然なんだ」
体育祭から――換言すれば事件発生から――六日後、昼休みを利して保健室
を訪れた美月に、飯塚が情報を色々ともたらした。被害者に最初に接した“医
者”として、警察から根掘り葉掘り聞かれたらしい。薬が身近にある医者とい
う意味で疑いの目を向けられると同時に、遺体を早い段階で診た医者の見解を
期待される、複雑な立場と言えよう。尤も、飯塚もしたたかで、ただでは転ば
ない。警察側の手札をある程度開かせることに成功していた。
美月は美月で、犯行推定時刻に校舎内にいた数少ない生徒であり、体育の受
け持ちが戸津だとの理由もあってか、警察から注目されている節があった。そ
の不安を払拭したくて、似た立場の飯塚を訪ねたのである。体育祭当日の昼休
みの時点では、議論し尽くすには時間も材料も足りなかったせいもある。
「クラーレを注入されたって、普通はかぶれない。漆でも混ぜれば別だが、そ
んなことする意味がない。原因は、戸津先生の体質にあった」
「体質、ですか」
「昔、一度だけ、相談に来られたことがあってな。先生は、ある種の金属に対
してアレルギーを持っているようだった。犯人の用いた針が、たまたまアレル
ギーを引き起こす材質でできていたんだろう。もしそうでなかったら、殺人と
認識されず、突然死で片付いていたかもしれない」
ぞっとしないねと、両腕をさすった飯塚。
「ま、犯人には運がなかったってことかな」
「あの、先生。クラーレってどういう物なんですか。もっと詳しく知りたいん
ですけど」
美月の求めに、飯塚は唇の両端を上に向けた。何度か首肯し、得意そうに話
を始める
「クラーレに関して、一番の問題は入手経路なんだな。さっきも言ったように、
クラーレは医薬品としても使われるから、まあ、医者が入手しやすいと言えな
くはない。でも、校医には縁が薄いね。第一、クラーレってのは高価で、代替
品の安価な薬が合成されてる。いわゆる筋弛緩剤ってやつだけど」
「ということは、筋弛緩剤もクラーレと同じように、人の呼吸を麻痺させられ
るんですね」
美月は尋ねながら、無意識の内に左の足裏を右爪先で擦っていた。もしあの
画鋲に毒が塗布してあったら……。毒殺犯罪が表面化して以来、学校の者は皆、
画鋲のような小さな突起物あるいは飲食物に注意をするようになった。
「その通り。過去、筋弛緩剤を使った殺人事件も起きてる」
「戸津先生に使われたのは、筋弛緩剤じゃなく、クラーレで間違いないって決
まったんでしょうか」
「体内から含有物というか夾雑物……要するに余計な混じり物が検出されたそ
うだからね。既製品なら純粋だから、余計な物は入ってない」
「分かりました。とにかく、すぐに犯人、捕まりますよね? 先生の話だと、
クラーレって手に入れるだけでも難しいんだから……」
「多分ね。入手できる立場の人が複数名いても、クラーレそのものが残ってい
れば、夾雑物を調べることで同定できる。言い逃れできない」
美月は飯塚の口ぶりに意を留めた。仮定ではなく、事実のように聞こえたの
だ。
「……何人もいたんですか、クラーレを入手できた人が?」
「うん。入手できたかもしれないっていう意味だけどね。要するに、学校関係
者の内、南米に関わりのある人はみんなさ。学校中が知ってるだろうから言っ
てしまうが、こないだの夏休みに南米旅行してきた曽川先生だろ。数学教師の
くせして、趣味でアステカ文明か何かを研究してる奥鳥羽さんだろ。それと中
学時代、親の都合でブラジルにいた時雨沢。この三人だな」
「……三人とも、イメージにないなぁ。戸津先生を殺すなんて。そりゃあ、先
生同士の仲は分かんないけど。時雨沢って人は確か、二年生ですよね。兄貴と
同じ生徒会役員だから、聞いたことあります。戸津先生と何かあったんでしょ
うか?」
「あなたの言う通り、動機に関する決め手はないよ」
力を抜いたような物言いになった飯塚。コーヒーを入れてあげようと言い、
椅子から離れると、電気ポットのある流し台の前に立った。
「管理は厳重にしてるから、安心していい。ああ、コーヒーが嫌いなら、紅茶
もある」
「コーヒー、飲みます。それより、動機の決め手がないんじゃあ……毒を見つ
けて、そっちから絞っていく?」
「見つかる見つからない以前の話だな。南米に関係あるという以外に特別な理
由もないのに、今言った三人の身体検査をしたり、部屋を調べたりはできない。
第一、犯行時刻にこの三人はいずれも運動場のどこかにいて、校舎にはいなか
ったらしいんだ」
白いカップ二つを持って、引き返してくる飯塚。対面できるようなテーブル
なんてないので、デスクの角っこに、美月の分が置かれる。
「私が聞き出せたのは、ここまで。さあ、私が今喋った以外で、天馬さん、あ
なたが知っているという話があれば、教えてくれるかな」
「あの、借り物競走の封筒や便箋には、毒針の類は付いてなかったって、刑事
さんが言ってましたが」
「それも、あった。私も、聞いたが、言い忘れてた」
コーヒーをすすってから答える飯塚だが、口調がおかしい。存外、熱かった
ようで、顰めっ面になった。二口目からは、頬を膨らませてふうふうと吹いた。
美月はカップを両手で包み込んで持ち、斜め上を見つめた。
「他には……画鋲、私が踏んだ画鋲を調べるって言ってましたけど、結果はま
だ聞いてない……」
「てことは、一年一組を襲った一連の事件と、同一人物の犯行である可能性も
考慮してるのか。だけど、戸津先生ってあなた達の担任て訳でもないのに、何
でまた殺されなきゃ……いや、逆だね。戸津先生を亡き者とすることが目的だ
ったなら、犯人は何故、一年一組を舞台にくだらない悪さを色々としでかした
のか」
「言われてみれば」
言葉を途切れさせ、考え込む。関連があるのかないのかも重要だし、関連が
あるのなら、一年一組を選んだ理由が問題になる。
「常識で考えると、無関係ってことはない」
飯塚が断定的な物言いをした。
「別々に犯人がいるよりも、同一人物の犯行と考える方が、自然てもの。だっ
たら、数々のいたずらと殺人の重さを比べるまでもなく、一年一組をターゲッ
トにしたのは見せかけ。カムフラージュか。しかし、たとえば三年三組とか二
年六組とかじゃなく、敢えて一年一組を選んだのには、犯人にとって好都合な
点が何かあるはず。それは――」
飯塚の話し声をかき消すかのように、保健室のドアが前触れもなく、大きな
音を立てて開いた。反射的に振り返る美月。飯塚もお喋りを中断して、目線を
戸口へ向けた。
「あ、兄貴」
美月が唖然とした声を上げる。立っていたのは、天馬一勢。美月の兄だった。
「ここにいたのか。まったく、尋ねて行ったら教室にいないから、焦ったぞ。
少しだけな」
一気にまくし立て、一勢はつかつかと妹の目の前まで進んだ。
「居場所をはっきりさせとけと、あれほど言ったろう。心配させるな」
「私は事件のことが気掛かりで、先生と相談してただけ。犯人が分からないの
って、恐いし……」
言い訳で応じながら、飯塚の方を見やる美月。一勢は、初めて飯塚の存在に
気が付いたという風に、芝居がかった態度で目を見開いた。
「飯塚先生。相手してくれるのはありがたいですが、あんまり美月を焚付けな
いでくれませんか」
「焚付けるつもりはない。安心させようと思ってだな。すると成り行き上、犯
人探しになってしまうんだ」
「俺も気になります。戸津先生をやったのが誰かじゃなく、妹に画鋲を踏ませ
たのが誰かってことですがね」
「恐らく、同一人物だよ。想像するに、犯人が一年一組を舞台にしたのは、い
たずらを仕掛けやすかったからじゃないかな」
「何です、そりゃ」
一勢の声が大きくなる。調子も、小馬鹿にしたような、呆れたような響きを
含んでいる。
「聞きようによっては、問題発言ですよ、飯塚先生。まるで――」
「おっと。ストップストップ。皆まで言うな。学校で口にすべき話じゃないの
は、よく分かってるよ。そこでだ。昼休みも残りわずかであることだし、場を
移そうと思う」
「は?」
一勢だけでなく、美月も頓狂な応対をしてしまった。返事が揃ったことに気
付いて、兄妹は顔を見合わせた。
「二人とも、今日の放課後の予定は? つーか、食事は家で?」
「……」
椅子に座ったままの美月は、兄を見上げた。再び顔を見合わせた格好だ。目
で合図をいくらか交換し、やがて元のように向き直ると、一勢が口を開く。
「何で食事のことを聞くか知りませんが、飯塚先生はご存知ないっすか。俺達、
今は保護者なしも同然だってことを」
若干、刺を含んだ物言いだった。だが、飯塚は鼻歌でもやるかのように気楽
に受けた。
「知ってる。その上で聞いたの。兄妹二人きりの暮らしったって、晩飯をどこ
で食べるかは決まってないんじゃないか? 家に帰って作るときもあるだろう」
「そりゃ……そうだけど。今日は違います」
あっという間に刺を引っ込めざるを得なくなった。ばつが悪げに、一勢はす
くめがちにした首を振る。
「なら、ファミリーレストランかどこかで、一緒に夕飯、どう? もちろん私
のおごり。ま、あなた達の自宅の冷蔵庫に、賞味期限ぎりぎりの食材があると
かの問題があるんだったら、あきらめるが」
「そんなことありませんけど、いいんですか」
美月が遠慮がちに聞くと、飯塚は「いいのいいの」と早口で応じた。
「何か目的でもあるんすか。気味悪いな」
再び一勢。警戒心は残しているものの、先ほどの勇み足が薬となったか、幾
分穏やかでおどけた口調だ。
「単純明快、事件の話の続きをやりたいだけ。嫌な気分かもしれないけど、不
安はさっさと取り除くのがよかろう。おお、そうだ。買い物をしたいのなら、
行き着けのスーパーでもどこでも寄って行くよ」
飯塚が言い切って三秒後。天馬兄妹が返答をする前に、予鈴が鳴った。午後
からの授業開始まであと五分。
「何だかなし崩しだけど、分かりました」
急かされた心持ちながら、承諾することにためらいはなかった。
ファミリーレストラン内は、その呼び名の通り、家族連れらしき三、四人連
れの客が多かった。まだ六時を回った頃合なのに、それらのテーブルに父親の
姿はきちんとある。不景気だからかもしれない。
「葛谷高校の職員という立場を離れて、率直に言う」
注文した皿が全部揃うのを待たず、飯塚は口火を切った。店全体がざわざわ
とした雰囲気に包まれており、声量を気にする必要はなさそうだ。
先に料理が届いた美月と一勢は、遠慮しつつも食べ始める。意識は飯塚の話
に向いているのは、言うまでもない。
「一年一組の生徒もしくは担任が犯人だと考えているよ、私は」
「やっぱり、ですか」
グラタンのマカロニを一つだけ、フォークで器用に取り上げ、口に運んでい
た一勢が、ため息混じりに反応した。
美月の方は、ご飯、いやライスを飲み込もうとして、多少せき込んでしまっ
た。飯塚の説に驚かされたから。兄が予想できていたのと違い、美月は、保健
室での飯塚の思わせぶりな言い回しが気になってはいたが、その結論にまでは
思い至っていなかったのだ。
「クラスの中に犯人……? 嘘」
「何でもかんでも嘘嘘と反応するのは格好よくないが、今このタイミングで言
うのは可。仕方あるまいね」
飯塚がはぐらかすような切り返しをしたのは、ちょうど彼女の分の料理が届
けられたためだ。かりっと揚がったヒレカツを前に、飯塚はナイフとフォーク
を擦り合わせた。
「割箸でもないのに、無意味なことと分かっていても、しちゃうんだよね」
「世代間ギャップってやつでしょう。あるいは歳を取ったせい」
一勢が冷静に指摘する。最初のやり取りが嘘のように、息の合った会話……
と言えなくもない。
飯塚は気にした様子もなく、肉にぱくつきながらまともな見解を述べた。
「一年一組の誰かが犯人と考えれば、理屈が通る。犯人はいたずらを仕掛けや
すいから、自分のクラスを舞台に選んだ。それだけのこと。いたずらするため
に、よそのクラスにいちいち出向いていたら、目立ってしょうがない。いずれ
疑われるに決まってる」
「分からなくはありませんけど、クラスの中に殺人犯なんて――」
「美月は余計なこと考えるな。真実がどうだろうと、一度でもクラスの誰かに
疑いを向けたら、自分自身が嫌になって、後悔する」
経験者めいた兄の忠告に、美月は首をすくめた。尤もだと思う反面、言われ
っ放しも癪なので、反論すべき点はしておく。
「私は誰も犯人だなんて思ってない。クラスにはいない。だって、ほら。先生
が言ってたもの。クラスに、クラーレを入手できる人はいない」
飯塚が掴んだ手がかりについて、一勢も美月から聞かされて頭に入っている。
「じゃあ、曽川先生、奥鳥羽先生、時雨沢の中に犯人がいると思ってる訳か。
それ自体、よくねえよ」
「事件に関わりたくないなら、付いてこなければよかったのに」
「だから、おまえが犯人探しすることに反対してるの、俺は。そういう役目は、
俺が代わってやる。実際な、俺自身が画鋲犯人を見つけ出して、ぶちのめした
いんだよ」
「……」
言い切った一勢を、ちょっと、いや、改めて見直した美月。だが、一方で首
を傾げてしまう。
「兄貴は当事者じゃないんだから、私が口出ししなきゃ、限界あるでしょ?
いくら妹だからって、あんまり子供扱いされても、嫌になるわ」
「話は聞いたから、おまえの手は借りなくていい」
「まあまあ、仲のいい兄妹喧嘩はその辺にして」
タイミングを計っていたのか、飯塚が割って入った。彼女の皿の料理は、い
つの間にやら半分ほどに減っていた。
「議論もしたいし、料理も食べたいし。両方とも熱い内にね」
のんびりした言い様に、美月と一勢の口論は見事にクールダウン。しばらく
無言で、料理をつついた。その内、飯塚が次の提案をしてきた。
「こうしようか。さっきも言ったけど、私は部外者のつもりで、真相を推理す
る。あなた達二人は、それを否定する立場に立つ。一年一組内部犯説を覆すよ
うに、反論してきてちょうだい」
美月は兄の様子を窺った。唇を突き出し、難しい横顔をして考えている。
「……それならいいですよ」
「よし。じゃ、これまでのところは……私が一年一組内部犯説を理由付で述べ、
それに対して、毒の入手ができないという反論が出た。てことは、今度は私が
論破しなければいけない番だね」
「言っておきますが、時雨沢から俺、俺から美月へなんていう馬鹿げた展開は
御免蒙りますからね」
「もちろん。そんなことを言い出したら、曽川先生と親しい一年一組の子、奥
鳥羽さんと親しい子、なんて組み合わせも考えられて、際限がない。毒を譲り
譲られする仲って、相当に親しくないとあり得ないだろうし。ん? 待てよ。
毒を所有する人のところから、こっそり持ち出す線もあるか」
「それこそ家に上がり込む訳だから、相当に親しくないといけない。それとも
名前の挙がった先生二人は、学校のどこかに毒を隠しているとでも?」
「おお、なかなかやるねえ。まあ、警察が介入して、毒の実物が出て来ないん
だから、少なくとも学校にはないんだろうね。ま、人間関係は、警察が分かっ
ていながら隠しているのか知らないけど、私らには突き止めようがないな。あ
なた達、何か知らないかい?」
「知ってても言えないな。根拠なしに、知り合いの名前を出すとかする?」
食事の手を止め、やり取りに集中する二人。美月もその内容が気になって、
食事は大して進んでいない。
「なら、知っていた場合も追及しないと約束するから、知っているか知ってい
ないかだけ、教えて。あ、美月さんもね」
「私は何も」
「死んだ戸津先生を、クラスメート達がどんな風に思っていたかっていうので
もいいんだけれど」
「おっと、先生、そいつは却下。美月に動機を考えさせるような真似は」
一勢は神経質になっているようだった。妹に関わることとなると、やたらと
過敏な反応を示す。
「一勢君。あなたなら何か知ってるわよね。こうして一年一組に妹さんがいて、
毒を入手し得る一人、時雨沢君と友達で、先生達ともまあ顔見知りな訳だ。う
わさ話の一つや二つ、耳にしてると睨んでるだけどな」
「俺は正直者を自負してるから、知ってる、とだけ答えますよ」
美月の口の形が、え?となる。何を知っていると兄は言うのだろうか。皆目
見当が付かなかった。
「ふむ。約束通り、追及はしないが、自発的に言ってもらうよう、仕向けるの
はOKだね」
飯塚は意地悪く笑って、残りのおかずを片付け始める。
「何、その言い方は。気に入らないな」
「君が憎くてしょうがない画鋲犯人を捕まえるには、口を割った方が吉だよっ
てこと。まさか、一人で見つけて、リンチする訳にも行かないでしょう?」
「……」
「ところで美月さん」
「はいっ?」
急に話を振られて、美月はフォークを皿の上に取り落とした。派手な音がし
たが、床に落ちることはなかった。
「百足競走だけど、順番は決まっていたのかな」
「え? あ、順番て、列ぶ順番ですか。はい。背の高い人を前にして、引っ張
っていくのがいいって作戦を立てましたから」
「なるほど。じゃ、あなたが何番目の鼻緒に足を通すか、決まっていたと」
「当然ですよ」
「結構。思った通りでよかった。多分ね、犯人は美月さんを狙ったのよ。誰で
もいいんじゃなく、扱いやすい、暗示に掛かりやすい子を選んだ」
悪く言われたような気がしないでもないが、判断が付かなかった。だから、
美月は黙っていた。その代わりという訳でなく、兄が口を開く。
「美月に素直すぎる面があるのは、よく承知してる。ずっと見てきたからな。
だが、それと事件とが関係ある? 信じられない」
「犯人は、校舎に入る必要があった。その目的で、美月さんに画鋲で怪我を負
わせた。さらに元を辿るなら、画鋲程度でも保健室に行こうという状況を作る
ために、数々のいたずらを仕掛けた」
「まさか」
「美月さんは画鋲を踏んだだけで保健室に行ったり、絆創膏を貼ったりする?」
「いえ。よっぽど血が出たら絆創膏を貼るぐらいしますけど」
「そうだね。画鋲って、その程度のもんだ。で、運動会の日、画鋲程度で保健
室に行ったのは何故か」
「……毒かもしれないと思ったです。『次は毒』ってメモがあったから」
「そうそう、そのメモが登場するのは、水筒に塩がぶち込まれていた件だった
よね。そのときの被害者は誰?」
知っていることを、敢えて尋ねてくる飯塚。どうやら佳境に入りつつあると、
美月は感じ取った。
「武子です」
「画鋲を踏んだあなたを、毒が塗ってあったかもしれないと脅かし、保健室ま
で付き添って来たのは?」
「……武子です。でも、委員長だから」
「首尾よく校舎に入った犯人は、タイミングを計っていた」
美月の答を無視するかのように、飯塚は続けた。最早、一勢も黙って聞くし
かない状況だ。
「何のタイミングか。戸津先生が、校舎に駆け込んでくるタイミングだ。窓の
外をちらちらと見ていれば、簡単に把握できる」
美月は、武子があの日、保健室にいるとき、たまに窓の外を見通していたこ
とを思い起こした。
と、ここで一勢が「異議あり」と口を挟んだ。
「校舎に駆け込んで来るってこと、どうして犯人に予測できる? 借り物の内
容が何なのか、事前に分かるのは実行委員ぐらいだ。いや、戸津先生がどの封
筒を取るか、決まってないんだから、実行委員にだって分かりゃしない。もし
も借り物がバトンとかだったら、運動場で調達できていた」
「体育祭実行委員会の中に、共犯者がいたとすれば?」
一勢は虚を突かれたように言葉に窮した。共犯という考えは頭になかったら
しい。あるいは、“体育祭実行委員会の中に”の箇所か。
「し、しかし。共犯が委員会にいても、思い通りの封筒を取らせるなんて、で
きっこない。ひとレースの封筒の中身を全部同じにすればできるが、それでは
レース自体が成り立たないし、あとでばれる」
辛うじて反論する一勢。だが、委員会の中の共犯という考えと、クラーレを
入手し得る立場というに要素を結び付けることで、自ずと浮かび上がる容疑者
の名に、動揺しているのは隠しきれない。
飯塚は余裕たっぷりに論を展開する。
「借り物のネタってのは、委員が適当に決めるんだろ? 多分、誰が何を書い
たかなんて、記録しちゃいない。だから、あとで新たな一枚が紛れ込んだとし
ても、分からない――という事実を利して、犯人は戸津先生を誘導したんじゃ
ないかな。レース前か、運動会前日か知らないが、『借り物を書いた便箋を先
に渡しておきます。封筒を取ったら、この便箋をいかにも中から取り出したふ
りをしてください。元々の便箋と封筒は、校舎に入ったとき、ごみ箱に捨てれ
ばいい』と吹き込んだ。あ、ただし、戸津先生の出る組の借り物には、どれも
校舎に行く必要のない物を用意しなければならないだろうね。他の人が校舎に
入ってきては、犯人の計画がぶち壊しになるから」
「便箋をあらかじめ用意しといて、何の得がある? 犯人じゃなく、戸津先生
にとっての損得だ」
「うーん、戸津先生が欲しくてたまらない何か、としか言い様がないな。そう
いう想像ができるってこと。ただね、その何かがどこにあったのかは、かなり
自信を持って言える。一年一組の教室だ」
「どうしてです?」
今度は美月が口を挟んだ。自分のクラスにそんな秘密の物があったかしらと、
疑問に思う。
「戸津先生が死んだのが、一年生の教室の前を通る廊下だったから。それに、
犯人は一年一組の誰かだと思ってるしね。犯人が自分の目の届くところに、そ
の何かを置くとしたら、教室が一番だろ」
「……犯人は、一年一組に戸津先生を来させたかったみたいに聞こえますが」
「そうだと思うよ。毒を縫った針か何かを、ぎゅっと掴ませるためにね」
「毒の針を掴ませる?」
「教室のドアの取手のとこ、あそこに毒針を仕掛ければ、開けようとした者は
一発でやられる」
「それはないんじゃないですか」
一勢が反撃の糸口を見つけたとばかり、気負い込んで割って入る。彼の顎の
下で、グラタンはすっかり冷えていた。
「そんなところに毒針をセットしたら、他にも大勢、触りますよ。犠牲者が物
凄い数にのぼるか、すぐに気付かれるかするはずだ」
「あのね、二人とも。私が誰を犯人と仮定しているか、分かってるでしょう?」
「それは……」
美月は言葉にこそしなかったが、頷いた。兄も同様にした。
そして彼ら二人は同時に声を上げる。
「あ!」
「気付いたようね? クラス委員長は、教室の鍵を管理する立場にあるのよ。
当然、教室を出るのも最後。扉に鍵を掛けるとき、毒針も設置すればいい」
「だ、だけど」
美月が言った。が、あとが続かない。一勢に至っては、完全に黙してしまっ
ている。
「鍵を管理しているのだから、戸津先生のために、扉の鍵をそっと開けておく
こともできる。で、犯人の思惑通り、戸津先生は校舎に駆け込んできて、一年
一組まで辿り着くと、ドアを開けようとした。ちくっとした痛みを感じたかも
しれないけれど、今はそれよりも、欲しくてたまらない何かを目前にし、必死
になってるから気にならない。そして教室を出て、また走り出した頃、クラー
レが効いてきて、倒れる。じきに呼吸できなくなって死んでしまった」
「その想像だと、毒針がドアに残る。戸津先生が欲しがってた物も」
「それらを回収するために、校舎に入らなきゃならなかった。ただ殺すだけな
ら、毒針と借り物の仕掛けで充分だろ」
戸津先生に対する餌と凶器を回収するだけなら、保健室からの帰りにちょっ
と寄ればいい。一分もあれば事足りよう。これくらいは、美月でも簡単に想像
できた。
「犯人は抜かりないな。前もって渡しておいた便箋も回収して、別の便箋、こ
の場合、傘と書かれた物を残すの忘れていない。だが、私が変だなと思ったの
は、この小細工のおかげなんだから、皮肉と言えるかもしれない」
「傘っていう借り物がおかしいんですか?」
美月が発した質問は、別に答を知りたいからではなかったかもしれない。飯
塚の唱えた説をどう受け止めていいのか、困惑して、その穴埋めのような意味
合いが強い。
「傘は多分、運動場にもあったに違いないからね」
「え、でも、あの日は快晴でした……」
「暑いくらいのな。来客の半分ぐらいは女だろ。女ってのは、私もまあそうな
んだが、肌が焼けるのを極端に厭う」
「あ。日傘?」
「ご名答だよ。日傘を持って来た人が皆無だったとは、とても思えない。だか
ら、戸津先生の掴んだ便箋に、本当に傘と書いてあったなら、校舎に駆け込む
必要はないんだ」
そこで言葉を区切ると、飯塚はお冷やの残りを一気に干し、さて、とつぶや
くように言った。
「私があなた達二人から聞きたかったのは、“彼”と“彼女”の共犯があり得
るか、その判断材料になる証言なんだけど……無理かな?」
飯塚の視線は、美月ではなく、一勢ただ一人に向けられていた。
「夕飯一回のおごりで、そんな大事な話を聞きだそうだなんて」
一勢は言った。思い出したかのごとく、食べ物を口に運ぶ。飲み込むのには、
水の助けを借りた。
「虫がよすぎる、か?」
飯塚の声は、あきらめ口調。
だが、一勢の返事は。
「自分はまだ、全然納得しちゃいない。あいつが犯罪者とは思ってない。殺す
理由は? だから、正々堂々と調べてもらう。――時雨沢は神無月武子と付き
合っている。他の連中には隠してるが、俺には打ち明けてくれたんだ……」
「兄貴。それ、本当?」
美月はかすれ気味の声で、精一杯、聞いた。
どこか遠くのテーブルで、子供が「ごちそう、さまっ!」と嬉しそうに叫ん
でいた。
――終
※参考文献
『毒物雑学事典』(大木幸介 講談社ブルーバックス)
『殺人博士からの挑戦状』(金子登 KKベストセラーズワニ文庫)