AWC 十月の事件 1   永山


        
#175/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  03/10/29  21:30  (273)
十月の事件 1   永山
★内容
 右足に続いて左足を鼻緒に通し、竹の表面を踏み締めた途端、天馬美月は鋭
い痛みを感じた。言葉にならない短い叫び声を上げる。左足を反射的に引っ込
めた。
「どうしたの」
 クラス委員の神無月武子が駆け寄ってきて、訝しさと緊張とを織りまぜたよ
うな面持ちを向ける。美月の前後に位置するクラスメートも、何事かと振り返
ったり、身を乗り出したりしていた。
「足に何か刺さった……」
 答えながら、左側の竹に目を凝らす美月。運動会でお馴染みであろう種目、
百足競走のための道具だ。
 葛谷高校の第十八回体育祭は、十月にしてはきつい陽光の下、着々と進んで
いた。一年生女子による百足競走は、午前の部の最後に配され、美月達はその
準備に取り掛かったばかりだった。今、運動場では、教師参加の借り物競走が
行われている。百足競走はこの次の次だ。
 二本並んだ竹は、元々は一本だった物を縦に割り、なだらかな曲面を上にし
て置かれている。その曲面にはそれぞれ八つずつ、縄でできた鼻緒を付してあ
る。
 美月は顔を地面に近付け、痛みの原因をやっと発見した。
「……画鋲?」
 ちょうど鼻緒に隠れる位置に、画鋲がセロハンテープで留めてあった。首を
捻り、膝を曲げて足の裏を見ると、白いハイソックスに赤い丸がぽつんと滲ん
でいる。
 周りの者が、「えー、何それーっ」「やだ、もしかして私も?」等と騒ぎ出
す中、美月は手を伸ばし、突起の先端に触れようとする。それを武子がとどめ
た。
「待ちなさい。不用意に触らない方がいいわ。一週間前のこと、忘れたの?」
 はっとした。ちょうど一週間前の予行演習の折にも、事件が起きた。武子の
水筒に大量の塩が投じられ、麦茶が飲める代物ではなくなっていた。そして、
「次は毒」と印刷された紙片が、武子の机の中に押し込んであったのが、あと
から見つかった……。
「ももしかして、が画鋲にど毒?」
 勝手に震える声に、美月自身驚く。途端に気分が悪くなった。無論、毒が効
いてきたと決め付けるのは早計で、毒が身体に入ったかもしれないと考えるだ
けでも、心理に悪影響を及ぼそう。いずれにせよ、保健室に駆け込み、早急に
診てもらうべき事態には違いない。
 武子は問題の画鋲をテープごと、慎重な手つきで外し、ズボンのポケットか
ら取り出したハンカチでくるんだ。それをまた大事そうに、ゆっくりとポケッ
トに押し込む。
「保健の先生、中だっけ。一人で行ける? 私が付いて行く」
 美月が返事をしない内に、彼女はそう決め、肩を貸してくれた。左足を浮か
せる格好で、歩き出す。
「百足競走の方はどうなるのー? 二人足りなくなる」
 背後から、幾分呑気な声が上がった。武子が舌打ちをして、頭だけ振り返る。
「美月は無理ね。私はすぐ戻るつもりだけど、もし時間までに戻らなかったら、
誰でもいいから手の空いてる子を入れといて!」
 鋭い口調で言い置くと、武子の腕に力がこもる。半ば美月を引きずるように
して、校舎に急いだ。普段なら当然土足厳禁だが、体育祭の今日は特別にシー
トを敷いて、外靴のままでも校舎に入れるようになっている。
「武子。いいの? 一人で行けると思うけれど……」
 廊下を何度か折れつつ、目的地を目指す。美月は顔を横に向けた。
「何言ってるの。いいのよ。こういうときじゃないと、委員長っぽい仕事もで
きないしね」
「百足競走に間に合わなくなるよ」
「本音言えば、百足競走はあんまり出たくない。格好よくない」
 本当に本音なのかどうか、唇の端でにっと笑う武子。保健室に辿り着いた。
 ドアを開けるのに苦戦していると、中にいる保健の先生、飯塚紅葉が気付い
た。「運動会やってる癖に怪我人が来なくて退屈していたところだ」と軽口を
叩き、迎え入れてくれる。男のような喋り方にも、気楽さが漂っていた。
 だが、怪我をした状況を美月と武子が伝えると、途端に険しい顔つきになる。
「まずは消毒だな」
 飯塚は「真実、毒なら厄介だ」「できることは限られているが」云々と、口
を休ませない。それでも迅速に手当を進める。
「一部のクラスで何だかおかしなことが起きてるって噂、耳にしてたけれども、
あれはあなた達のとこ?」
「そのようですね」
 ベッドに寝かされた美月に代わり、武子が応じる。それから思い出した風に
ポケットから丸まったハンカチを取り出すと、机の端に置いた。
「これが、その画鋲です」
「私が見ても仕方ないが……。担任に言ったのかい? 何組?」
「一年一組ですけど、まだ先生には伝えていません。これまでに起きたことも、
正式には」
 首を横に振った武子。飯塚は美月に気分はどうか、息苦しくはないかと尋ね
た。
「苦しくはないです。気分の方も、ちょっと落ち着いてきた感じ……」
 胸元に手を置いた美月は、鼓動を打つスピードが速いと知って、少なからず
びっくりした。
「あ、やっぱり、まだ、だめみたいです。凄くどきどきしてる」
「ふむ。もうしばらく様子見な」
 美月の左手を軽く持ち上げ、脈を取りつつ、改めて武子に聞く。
「今までどうして先生に言わなかった? 色々あったんだろう?」
「騒ぎが大きくなって、体育祭が中止になったらたまらないから」
「運動会ごときで」
 肩をすくめ、腕時計に視線を落とす。「確かにどっきどっきものだな」とつ
ぶやいた。
「しかし……発汗も呼吸も異状ないようだから、毒の可能性は低そうだよ。安
心するのは早いにしても」
 脅かされた美月は結局、昼過ぎまでベッドの上の人になるように告げられた。
「それじゃ、私は戻らないと。この分なら百足競走に間に合う」
 壁の時計に視線をやってから、爪先立ちをして、今度は窓の外を見やる武子。
元々背は高い方だから、そんなポーズをしなくても見えるはずだが、一種の癖
なのだろう。グラウンドでは相変わらず、借り物競走が続いているようだ。
 そんな彼女に、美月は話し掛けた。
「お願いがあるんだけど」
「今さら改まらなくたって、聞いてあげるわよ」
 踵を戻し、武子は目で振り返った。横たわったままの美月は、顎を引いてな
るべく顔を起こし、片手で拝む仕種をした。
「兄貴にこのこと、念のため伝えておいてほしいんだけど。もちろん、百足競
走のあとでいいから」
「なるほどね。分かったわ」
 微かに笑う。
「仲のよい兄妹だこと」
「仲よくないっ。こういうこと、早く伝えておかなかったら、あとで烈火のご
とく怒るんだ、兄貴のやつ」
「そういうことにしておきましょ。じゃ」
 勢いよくきびすを返し、武子は駆け足で部屋を出て行く。美月は、そういう
ことってどういうこと?と抗議の声を上げようかと思ったものの、学校医のい
る手前、怪我人らしく静かにせざるを得なかった。
「暇潰しに、どんなことが起きてるのか、教えてちょうだい。あなたのやられ
たのが単なる画鋲とすれば、質の悪いいたずら程度みたいだが」
「実際、その通りですよー。だからこそ、学校には言わなかったんだし」
 美月は深呼吸を一つしたあと、武子の水筒への塩混入を始めとする、ここひ
と月ほどの間に起きた出来事を語った。
 たとえば、同級生の一人(体格は大柄)が下校しようと自転車に乗りかけた
途端、ペダルが折れたことがあった。単なる事故かと思われたが、その翌朝、
教室の黒板に「折れたのは運動不足のせいにあらず」と殴り書きされていたた
め、事件とされた。ペダルに予め、傷が入れてあったらしい。
 またあるときは、クラスの有志が生けた花が花瓶から抜き取られ、教室の南
側に無造作に放置されていた。残暑の陽光を浴びて萎れた花の傍らには一枚の
便箋が落ちており、そこには新聞や雑誌から切り抜いたらしい文字で、「脱水
症状にご注意」と記してあった。
 他にも、各組に二つある備品のボールに、それぞれクレヨンで「芸術の秋!」
「食欲の秋!」と大書きされたり、体育祭のためにクラスで作った橙色の鉢巻
の一部が校内のトイレに捨てられたりと、他愛のない事件があった。
「運動嫌いの子がやったんじゃないのか」
 聞き終わった飯塚が、真っ当な意見を述べた。美月達の間でも、同様の見方
をする者がいた。
「動機、いや目的は、運動会の中止だな」
「でも、先生。この程度の小さないたずらを重ねたって、体育祭が中止になる
訳ないでしょう? 学校を相手に爆弾予告とかをしない限り」
「物騒なことを言うねえ。やれやれ、最近の娘は」
 嘆かわしいとばかりに頭を振る飯塚。だが、すぐに真顔に戻って、再び口を
開いた。
「まあ、確かに、一年一組の中だけで騒ぎを起こしても、運動会はなくなりそ
うにないね。全校規模で無差別にやらなくちゃな」
「ですよね? だからみんな、犯人探しみたいな真似はやめて、体育祭に集中
しようって。さっきの武子が、音頭を取って」
「かえって結束力は強まったと。青春だね。しかし……」
 冷やかす口ぶりではあるが、真顔は崩さない。飯塚は顎に片手をやり、難し
げに唸った。
「あくまで表面的な団結。やはりクラスの誰かが犯人で、本心を隠しているの
かもしれない」
「先生がそんな身も蓋もないこと言っていいんですかー? 保健の先生はカウ
ンセラーでもあるんじゃあ?」
「そういう“高尚”な役目を負った覚えはないな。が、周りが望むのなら、上
っ面の慰め、励ましの言葉をかけてやってもよい」
「『身も蓋も』の自乗って感じ」
「初の肉体的犠牲者が、そんな悠長な態度でいいのかい。一連の事件で、具体
的に怪我をしたのは天馬美月、あなたが初めてだろう」
「言われてみれば……」
 リラックスしつつあった美月だが、顔つきに真剣さ、深刻さが再び宿る。パ
ニック状態になりかけたのも、つまらないいたずらばかりと高を括っていたと
ころへ、画鋲とは言え本当に身体を傷つける凶器が使われた現実に対する恐怖
があった。
「本気になって犯人探ししないといけないと思うよ、私は。笑って済ませられ
るレベルじゃなくなってきてる」
「うん……でも、このあと、体育祭が無事に終わったら、また静かになるかも」
「無事に終わるかどうか分からないし、終わったとしても、別のことにかこつ
けて騒ぎを起こし続けるかもね」
 飯塚にその気はなかっただろうが、美月の心臓はまたもどきどきと落ち着か
なくなった。
「しばらく寝ていいですか。眠れるかどうか分からないけれども、精神的に疲
れたって感じ……」
「そりゃいいことだ。おやすみ」
「先生、一人にしないでくださいよ」
 飯塚が請け負うのを聞いて、美月は目を閉じた。

 本気で眠るつもりはあまりなかったのに、いつの間にか寝ていた。
 そんな気分で目覚めた美月は、左の方に目をやった。そこにある事務机に、
飯塚紅葉の姿はなかった。上半身を起こし、見回すが、保健室の中は自分一人
だけと知ったのみ。
「嘘つきー」
 時間を知ろうと、いつもの癖で左手首を見たが、腕時計はなし。体育祭が始
まる前に、教室で外したのだった。視線を上げ、壁時計を探す。十二時……十
八分ぐらい。
 それから美月はベッドの上に座り込むと、自らの左足裏を見た。特段の異変
は起きていない。傷口も塞がっている。かなり思い切りよく踏んだので、痛み
は残っているものの、腫れも変色もしていない。それ以外の自覚症状もなかっ
た。
「毒入りじゃなくてよかった」
 独り言とともに安堵の息を漏らす。
 みんなのところへ戻って、一緒に昼御飯を食べたい。が、その前に、飯塚先
生にお礼と文句を言ってやろうと考えた。美月は靴下を手に取ると、血の染み
が気になったが、ともかく穿き、続いて運動靴に足を通した。そしてベッドか
ら立った矢先、保健室の扉が大きな音を立てて開く。
 びくりとして振り向くと、飯塚先生がいた。血相を変え、肩が上下するほど
に荒い息をしている。
「――無事だったか」
「えっ?」
 一瞬の安心を覗かせただけで、飯塚は足音も慌ただしく、風を起こしてつか
つかと入って来た。一時間弱で少し老けたように見える疲れた横顔。
「何か……あったんですね」
 深刻さを嗅ぎ取った美月は、低い声で尋ねた。返事はすぐにはなかった。
 飯塚は室内をうろうろしたあと、流し台の前に、張り付くようにして立った。
そしてコップ一杯の水を喉に流し込み、大きな息を吐く。
「天馬さん。体調はどう? もう平気?」
 常識人のような呼び方が最前までの飯塚のイメージに重ならなくて、美月は
困惑したが、黙って頷き返すことは辛うじてできた。
「それなら、注意喚起の意味でも、言っとくか。あなた達のクラスの件と関係
あるかどうか分からないが、死人が出た」
「し……?」
 聞き間違えたのかと一瞬思う。そうでないと気付くのも、また一瞬。
「だ誰か死んだんですか」
「うん。体育の戸津欽也先生だ」
 挙がった名前に美月の目が見開かれる。体育教師らしく体格がよくて腕力が
あり、足も速い。厳つい面相(よく言えば男っぽい容姿)とがさつな性格(よ
く言えば小さなことに拘らない)のせいで、好き嫌いのはっきり別れるタイプ。
美月自身は、好印象の方に若干傾いていた。
「受け持ってもらったことあるのか?」
 そんな変化を読み取ったか、飯塚が聞いた。水城はしばし迷ってから、渋々
頷いた。
「ええ、はい。今学期になってからもずっと」
「ふむ」
「でも戸津先生がどうして……。死んだって、殺されたんですか」
「まだ不明。死因すらね。借り物競走の最中だったから、大騒ぎになってる」
 美月は軽く首を傾げた。飯塚が言うほど、騒々しい空気は感じられない。彼
女のそんな疑念を見て取ったか、飯塚は「可能な限り伏せてるんだ」と付け加
えた。
「運動会ってことで、たくさんお客さんが来てる。殺人事件かどうかはっきり
しない内から下手に騒ぎ立て、不安を煽ったら、かえって悪い影響が出かねな
い」
「あれ? 戸津先生は運動場で倒れたんじゃないんですか? 当然、大勢が目
撃したんじゃあ……」
「違う違う。校舎の中だ。借り物競走の最中、校舎に入って行くのを、多くの
者が見ている。当然、借り物を探しにな。手にしていた封筒に、傘と書かれた
紙片が入っていた」
「傘?」
「多分、校舎内の傘立てにある傘を持って来ようと考えたんだろう。今日はこ
んな日本晴れだから、置き傘だか忘れ物だかに頼るしかないが。伝聞と想像が
混じるが……戸津先生はまず、玄関から入ったがそこの傘立てにはなくて、職
員室前を通るがそこにもなし。一階廊下を全力疾走中に倒れ、絶命した感じだ
った。一年生の教室の傘立てを当てにしたんだろう」
「それじゃあ、戸津先生が戻らないのを不審に思った人が、校舎に様子を見に
来て、見つけたんですか?」
「その辺の事情はまだ詳しく聞いてないんだが、借り物競走で最後の組がゴー
ルしても戸津先生が戻らないのを機に、運動会、じゃなかった、体育祭実行委
員会の生徒二人が、校舎に走ったみたいだ。その内の一人が、保健室に私を呼
びに来た。十一時四十分頃だったと思う」
「……そういえば、体育祭は中止?」
 外の物音に耳を傾けても、今は昼休みなので判断しづらい。
「事件性の有無がまだ判断できないし、お客さんも大勢来ているから、学校側
は今のところ続行したい意向。プログラムを変更して、早めに切り上げる可能
性はあるね。その証拠に、実行委員会のテントはてんてこまいだよ」
 美月の脳裏に、ふと兄のことが浮かぶ。兄の天馬一勢は二年生で、生徒会役
員を務める。その関係から、体育祭実行委員の一人でもあるのだ。
(こんなハプニングがあったんじゃあ、武子、兄貴に言えてないかな? まあ、
しょうがないんだけれど)
 兄の心配顔と、そのあとに続くであろう小言を想像して、美月は密かに嘆息
した。それを見とがめた飯塚が、「どうかした?」と尋ねる目を向けた。
「……あの戸津先生が、走ったぐらいで死ぬなんて、信じられない感じがして」
 咄嗟に口を衝いて出た答は、満更嘘でもない。疑問に感じているのは紛れも
ない事実だ。
 飯塚は大げさに首肯し、答える。
「だからこそ、救急と警察に任せることになった。で、諸々が済んでやっと一
段落ってときに、あなたのことをはっと思い出した訳」
「……私、ずっとここにいたのに、足音は聞こえなかった」
「え?」
「戸津先生が一階を走り回ったのなら、ここにも足音が聞こえますよね?」
「ああ……そうだね。うーん、どうだろうねえ。玄関から職員室、そして教室
の方に行くには、この部屋の前を通る必要はない」
「でも、よく響くわ」
「目が覚めていれば、間違いなく聞こえるだろうけれど、寝ていたんなら聞こ
えないこともあるんじゃないかな。なんだ、天馬さん? 私の想像した戸津先
生の行動に、文句でもあるみたい」
「文句じゃありません」
 慌て手首を横に振る美月。
「少し変だなと思っただけで。そんなに熟睡してたかなあ、私」
「よろしい。記憶が薄れない内に、徹底的に議論しようじゃない。が、その前
に……お腹、空かないのかい?」
 問われて初めて、空腹を実感した。美月と飯塚は昼食を摂りながら、話を続
けることに決めた。


――続く





前のメッセージ 次のメッセージ 
「●長編」一覧 永山の作品
修正・削除する コメントを書く 


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE