#177/598 ●長編
★タイトル (gon ) 03/11/08 04:08 (437)
口語訳_四国遍礼霊場記1 伊井暇幻/久作
★内容
此処に謂う「現代語訳」とは、出来得るだけ表記者の意図を酌み取りつつも、現代の感
覚を基底に訳したものである。逐語訳ではない。
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凡例
▼ここに載せる札所はいずれも、弘法大師空海が杖を留め、その仏性をもって影響を与
えた霊場ではあるが、時が遠く隔たり当事者たちもいなくなって久しい。確かなことが
分からなくなっているものが多い。今も変わらぬ自然こそ、当時のことどもを知ってい
るではあろうが、自然は、言葉を以て人に教えてはくれない。幸いにして由来を記すも
のが残っている寺については、それに拠った。多くは口承であり、合理的に解釈し得な
いものもあるが、手を加えずに伝わるまま記す。
▼寺ごとの本尊について、一般的にどのような仏性であるかなど、よく知られているこ
とについては記さなかった。ただし、固有かつ特殊な伝承については、残らず記した。
▼寺の由来を記す縁起というものは、書いた人・伝えた人によって恣意が混入するもの
だ。聖人の言葉や正統の説からはずれた部分は、採用しなかった。
▼寺によっては、多少は立派な物であるかもしれないが宗教性のないものまで「霊宝」
として並べ立て、衆目を集めようとするものがある。よく・ある・話、だ。このような
ものに、人々の苦悩を解消する力はない。だいたい多く並べ立てられては、読む者・聞
く者も、鬱陶しいだけだろう。ゆえに、そのようなものは記さなかった。ただし、仏性
が具現した存在、または高い徳をもった宗教者の遺したものは、見栄えのしないもので
あっても、敬意をもって取り上げた。なんとなれば、序文にも「見仏供養が心を清らか
にする」と書いたが、それは素晴らしい生き様をした人々の”事実”や鍛え抜かれた救
済の理論を思い起こすよすがとしてであって、耳目を楽しませる調度を有り難がるため
では決してないからだ。苦しい現実の中で理想を掲げ、鍛錬・苦闘した人々の勇気ある
事跡や、そういった人々に勇気を与えた理念/理論を、理屈抜きで感得するためのもの
ならば、一本の錆びた錐(きり)ちびた箒であっても、人の心を惹き付けて止まない。
そういったものは、残さず記した。
▼仏像や法具に限らず、実は詰まらないものであっても有り難がっている例はある。と
はいえ、善良かつ愚かゆえに見分けのついていない場合は、排除すべきではない。一方
で、自分では価値のないことを知りつつ、人々を騙して価値があるように思わせている
ものもある。両者を一緒に扱うことこそ愚かではあるが、直ちに峻別することは出来な
いので、伝承する通りに記した。
▼奇談は、仏教に限らず神道でも常に行われている。それらが語られる社会的・心理的
な背景にまで思いを至らせず、「あり得ない」と小賢しく批判して悦に入る頭の悪い儒
者一派のために、この本は書かれているわけではない。
▼札所となっている寺は、必ずしも空海が創建したものではない。以前のものもあり、
以後のものもある。偉大な人物に自らの存在を関連づけようとすることは、よく・あ
る・話、だ。問題のレベルは、厳密な事実関係にのみあるのではなく、それより一回り
緩やかな、”信ずるに足る”範疇にこそ存在する場合もある。
▼八十八番の順は、いつの時代に誰が定めたか、はっきりしていない。本書では、その
順番には拠らなかった。七十五番になっている誕生院善通寺を、冒頭に載せた。結局の
所、空海あっての八十八カ所霊場なのだから、彼の生まれた場所を始点としたのだ。
▼八十八カ所のうちに数えられていないものであっても、顕著な霊跡は載せた。
▼文字に記すということは、現在までに伝えられているもののうち、妄想や虚偽を篩
(ふるい)に掛けて落とし、残すべきもののみを残そうとする行為だ。余りに信じがた
い妄説は、載せなかった。
四国遍礼霊場記巻一
讃州(香川県)上
善通寺、出釈迦寺、曼荼羅寺、甲山寺、本山寺、観音寺、琴弾八幡、小松尾寺、雲辺
寺、金毘羅
▼五岳山誕生院善通寺(七十五番)
多度郡屏風浦にある。空海の著した「三教指帰」に「玉藻所帰之嶋橡樟蔽日之浦【玉
藻なすところの島、橡樟、日を覆うの浦】」とある場所だ。空海の父まで代々伝わった
荘園だった。父は佐伯氏で、名を善通という。佐伯氏は、景行天皇の皇子・稲背入彦を
出自としているらしい。外敵に攻め勝った褒賞として与えられた土地だ。佐伯姓は、孝
謙天皇の時代に朝廷から与えられたという。母は、阿刀氏。
二人に託され空海は、この世に生まれ落ちた。空海が幼少の時分に遊んだ場所は、霊
場として幾つかが残っている。唐で仏教を学び帰って、両親・祖先の供養と人々の救済
のため、此処に寺を建てた。
山号の五岳は、近くに香色・筆・出釈迦・中山・火上の五峰が聳えるところから付け
た。寺号の善通は、父の名から直接に付けた。院号の誕生は、空海が生まれた場所だか
らだ。
昔の伽藍は、空海が学んだ唐の青龍寺を倣っていたという。道範阿闍梨の記す所に拠
れば、金堂は一辺七間の二層構造で、間にくびれた部分があるため、よく見ると四階建
てあった。高さ一丈六尺の薬師三尊・四天王像を、空海自ら作って安置した。これらは
埋仏で、納めた壁面に前仏として薬師三尊を浮き彫りにした。護摩堂は一辺七間で、空
海自作の釈迦如来像を安置した。二重の宝塔には、空海自筆の自画像を納めた。この自
画像は、空海が唐へ向かうとき、旅中の危険を思って哀しむ母を慰めるため、描き残し
たものだ。これは告面の孝を自画像で尽くそうとしたのだ【礼記の曲礼上第一。孝子の
為すべきこととして、「出必告反必面/出ずるに必ず告げ帰りて必ず顔を合わす」とあ
る】。西行の記す所に拠れば、善通寺の御影の傍に御師【釈迦如来カ】も一緒に描き込
まれていた。道範阿闍梨は空海の御影を見て、次の詩を詠んだ。「世に出でて自ら留め
る影よりぞ 入りにし月の形をも見る」
空海が生まれた場所は、山の根の部分であった。西行が此の地に来たとき、空海の生
まれた場所には囲いがしてあり、松を植えていた。「哀れなり 同じ野山に立てる木の
かかる印の契りありけり」「岩にせく閼伽井の水のわりなきは 心澄めども宿る月か
な」西行作。道範の記述に拠ると、空海の生まれた場所には、石畳を高く広く積んでい
た。今は七重の如法塔がある。道範の歌に「高野山 岩の室戸に澄む月の麓より出でけ
る暈は」とある。
また、道範の記述に拠ると、この寺は二町四方で、色々な堂舎があった。宝塔・灌頂
堂・護摩堂が多く並んでいた。事物の興廃は、世の常である。この寺も例外ではない。
西行や道範の時代までは創建当時の伽藍があったというが、今では跡が残っている程度
だ。現在の大師堂は、空海が生まれた場所に建っているという。
空海が幼少の頃に遊んだ場所が、みな遺っている。遊墳仙遊原、四王執蓋地、捨身誓
願岳などと呼ばれている所だ。
西行の歌集に、「大師の住んでいた場所の近くに庵を結んでいた頃、月が皎々と明る
く海の方が曇りなく見渡せたことがあった」と詠んでいる。「曇なき山にて海の月見れ
ば 島ぞ氷の絶え間なりける」である。また、侘びしい庵住まいのうちに、「今よりは
厭わしめ命あればこそ かかる住居の哀れをも知れ【今よりは厭わじ命あればこそ……
】」と詠んだ。更に、庵の前に立つ松を見て「久しに経て 我後の世を問へよ松 跡偲
ぶべき人も無き身ぞ」。写本の系統に依っては、下の句を「跡慕ふべき人も無き身に」
と伝えている。西行が歌った松は、今でも南大門の西脇に立っているという。西行松と
呼ばれている。道範は聞いて、「契り置く西へ行きける跡に来て 我も終わりを松/待
つの下露」と詠んだ。
空海が修行した御道行所は我拝師山といって、五岳の一つである。現在では善通寺と
は別に出釈迦寺としている。我拝師山については、出釈迦寺の項で触れるため、ここで
は詳しく書かない。
天皇家・将軍家の崇敬が代々篤い。天皇・上皇の公的文書が二十余通、将軍家からの
寄進状が多く遺っている。昔は荘園も多くあり、学問・修行に打ち込む僧侶たちが犇め
くほどだった。天皇の要請で行われる法事などもあったようだ。鎌倉幕府の公的記録
「吾妻鏡」には「貞安二年三月十三日に、讃岐国善光寺の荘園であった場所に鎌倉の御
家人が領主として入り込み収穫を取り上げてはならない、との命令が出されている。将
軍家が祈祷をしていた期間でもあるから、弘法大師が生まれた場所に立つ由緒正しい寺
の権利を侵してはならない、との理由だった。しかるに近年は、善通寺の私有地に鎌倉
幕府から任命された地頭が赴き収穫を取り上げている。寺の財政に事欠くようになった
ため、原状に戻してほしいとの嘆願書が届いた。特に許して、鎌倉幕府は地頭の任を解
いた」とある。
後嵯峨上皇の陵が、この寺にある。後宇多上皇と亀山上皇が陵の左右に石塔を奉納し
ている。亀山上皇は自ら筆を執り、紺色の紙に金泥で法華経と結経である観普賢経を写
し、後嵯峨上皇の陵に奉納した。現在も遺っているという。
寺宝には、以下のようなものがある。空海の袈裟二十五条。空海の鉢と錫杖。空海の
母が作った一字一仏の法華経序品仏像、字は空海が書いた。西行は当時、「空海直筆で
あろう四つの門の額は少し割れているものの無事といってよいが、後世にはどうなって
いることだろう」と心配している。道範の時代には、半分の二枚しか残っていなかっ
た。善通寺と書かれていたという。ある書に載っている話を紹介しよう。昔、陰陽博士
の安倍清明が、縁あって讃岐に下ったときのことだ。清明は、使鬼神/式神に火を灯さ
せて夜道を歩いていた。善通寺の前に差し掛かると、火が消え使鬼神の姿も見えなくな
った。通り過ぎると、再び使鬼神が現れ火を灯した。清明が尋ねると、使鬼神は寺の額
を四天王が守護していたため恐れて、違う道を通ったのだと答えた。
鎮守は、空海の氏神である八幡宮。ご神体は、空海の作。
真雅僧正は、空海の弟なので当然、此処に住んでいた。後に遍照院の寛朝僧正、延命
院元杲、小野の仁海、宥範、宥源、宥快らといった、徳の高い僧侶たちが、此処で過ご
した。道範阿闍梨は、仁治四年の春、無実であるのに罪に問われ讃岐に流罪となった。
空海の遺跡を慕敬して、寛元三年九月に善通寺へと移った。多くの書物を著した。浄土
宗の祖・法然上人も讃岐に流罪となったとき、空海の遺跡を拝むことができると喜ん
だ。
この寺の寺務は元々東寺長者が兼務していた。後宇多上皇の時代以後、後嵯峨の門主
が五六代続けて寺務を執った。その後、唐橋親厳僧正が寺務に就いたため随心院門跡の
管掌となった。
五岳の一つ筆山の名称に関わる西行の歌がある。「筆の山 掻き/書き登りてもみつ
るかな 苔の下なる岩の景色を」
・・・・・・・・「三教指帰」四国関連部分・・・・・・・
前略……余年志学、就外子阿二千石文学舅、伏膺鑽仰、二九遊聴槐市、拉雪蛍於猶怠、
怒縄錐之不動、爰有一沙門、呈余虚空蔵聞持法、其経説、若人依法、誦此真言一百万
遍、即得一切教法文義諳記、於焉、信大聖之誠言、望飛焔於鑽燧、躋攀阿国大龍嶽、勤
念土州室戸崎、谷不惜響、明星来影、遂乃朝市栄華、念念厭之、巌藪煙霞日久飢之……
後略【三教指帰序文】
前略……仮名大笑曰……中略……是汝与吾、従無始来、更生代死、転変無常、何有決定
縣親等、然頃日間刹那、幻住於南閻浮提谷、輪王所化之下、玉藻所帰之嶋橡樟蔽日之
浦、未就所思、忽経三八春秋也【三教指帰巻下仮名乞児論】
ちなみに今昔物語巻第十一の「弘法大師渡宋伝真言教帰来語第九」に「或ハ阿波ノ国
大龍ノ嶽ニ行テ虚空蔵ノ法ヲ行フニ大ナル剣空ヨリ飛ビ来ル。或ハ土佐ノ国ノ室生門崎
ニシテ求聞持ノ行ヲ観想スルニ明星口ニ入ル」とある。また、この段に「三鈷杵」の話
もあり、同巻の「弘法大師始建高野山語第二十五」に繋がっていく。
・・・・・・・・西行「山家集」四国関連部分・・・・・・
讃岐に詣でて、松山の津と申す所に、院おはしましけん御跡たづねけれど、かたも無
かりければ
「松山の 波に流れて 来し舟の やがて空しく なりにけるかな」
「松山の 波の景色は 変らじを かたなく君は なりましにけり」
白峯と申しける所に、御墓の侍りけるに、まゐりて
「よしや君 昔の玉の ゆかとても かからん後は 何にかはせん」
同じ国に、大師のおはしましける御辺りの山に、庵結びて住みけるに、月いと明かく
て、海の方曇りなく見えければ
「曇りなき 山にて海の 月見れば 島ぞこほりの 絶え間なりける」
住みけるままに、庵いとあはれにおぼえて
「今よりは いとはじ命 あればこそ かかるすまひの あはれをも知れ」
庵の前に、松の立てりけるを見て
「久に経て わが後の世を とへよ松 跡しのぶべき 人もなき身ぞ」
「ここをまた われ住み憂くて 浮かれなば 松はひとりに ならんとすらん」
雪の降りけるに
「松の下は 雪降る折の 色なれや みな白妙に 見ゆる山路に」
「雪積みて 木も分かず咲く 花なれや ときはの松も 見えぬなりけり」
「花と見る こずゑの雪に 月さえて たとへん方も なき心地する」
「まがふ色は 梅とのみ見て 過ぎゆくに 雪の花には 香ぞなかりける」
「折しもあれ うれしく雪の 埋むかな かき籠りなんと 思ふ山路を」
「なかなかに 谷の細道 埋め雪 ありとて人の 通ふべきかは」
「谷の庵に 玉の簾を かけましや すがる垂氷の 軒を閉ぢずば」
花まゐらせける折しも、折敷に霰の散りけるを
「樒おく 閼伽の折敷の ふち無くば 何にあられの 玉と散らまし」
「岩に堰く 閼伽井の水の わりなきに 心すめとも 宿る月かな」
大師の生まれさせ給ひたる所とて、廻りの仕廻して、そのしるしに、松の立てりける
を見て
「あはれなり 同じ野山に 立てる木の かかるしるしの 契りありける」
またある本に曼荼羅寺の行道所へ登るは、世の大事にて、手を立てたるやうなり。大
師の、御経書きて埋ませおはしましたる山の峯なり。坊の外は、一丈ばかりなる壇築き
て建てられたり。それへ日毎に登らせおはしまして、行道しおはしましけると、申し伝
へたり。巡り行道すべきやうに、壇も二重に築き廻されたり。登るほどの危ふさ、こと
に大事なり。構へて這ひまはり着きて
「めぐり逢はん ことの契りぞ ありがたき 厳しき山の 誓ひ見るにも」
やがてそれが上は、大師の御師に逢ひまゐらせさせおはしましたる峯なり。わがはい
しさ、と、その山をば申すなり。その辺の人は、わがはいし、とぞ申しならひたる。山
も字をば捨てて申さず。また筆の山とも名付けたり。遠くて見れば、筆に似て、まろま
ろと山の峯の先のとがりたるやうなるを、申し慣はしたるなめり。行道所より、構へて
かきつき登りて、峯にまゐりたれば、師にあはせおはしましたる所のしるしに、塔を建
ておはしましたりけり。塔の礎はかりなく大きなり。高野の大塔などばかりなりける塔
の跡と見ゆ。苔は深く埋みたれども、石大きにして、あらはに見ゆ。筆の山と申す名に
つきて
「筆の山に かき登りても 見つるかな 苔の下なる 岩の気色を」
善通寺の大師の御影には、そばにさしあげて、大師の御師書き具せられたりき。大師
の御手などもおはしましき。四の門の額少々われて、おほかたは違はずして侍りき。末
にこそいかがなりなんずらんと、おぼつかなくおぼえ侍りしか
・・・・・・「吾妻鏡」関連部分・・・・・・・・・・・・
(安貞二年三月)十三日△今日被停止讃岐国善通寺領之地頭職畢。是弘法大師御誕生之
地。長日不退御祈祷之砌也。本仏則大師御自作釈迦薬師像云々。而近年被補地頭於彼領
之間、寺用闕如之旨、依捧歎状、殊有其沙汰被止之云々。
ちなみに前月・二月七日条に、「将軍家御衣、鳶糞令懸給之間、有御占。御病殊之由申
之云々」とあるので、神仏を敵に回すことを恐れたか。
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▼我拝師山出釈迦寺(七十三番)
曼荼羅寺の奥の院という。西行は、この寺について次のように書いている。「曼荼羅
寺の行道所/奥の院に登る道は手を立てたように急で、まことに骨が折れる(この世の
大事)。空海が自筆の経を埋めた峰だ」。俗に、この坂を、世坂と呼んでいる。険しい
ため、参詣の人は杖を捨て岩に取り付いて登る。南も北も視界を遮るものがなく、一望
に見渡せる。空海が観想修行をしていると、白い雲の中に釈迦如来が現れた。空海は釈
迦を拝み、我拝師山と名付けた。山家集に拠ると、この辺りの人は「わかはし」と言い
習わしている。「わがはいし山」の「山」も捨てて読まない。昔は塔が建っており、西
行の時代までは礎石が残っていたという。
この山は、善通寺五岳の一つだ。西行の時代には既に堂もなかったらしいが、近世、
宗善という人が志を立て、麓に寺を建立した。また、この山の一際険しい場所を、捨身
の嶽と呼んでいる。幼い頃の空海が、己の修行が成って人々を救うことが出来るか否か
試すため、仏に祈って飛び降りた。天人が下ってきて、空海を受け止めた。西行の歌
に、「巡り会はん事の契りと頼もしき 厳しき山の誓いみるにも」。
西行の旧跡・水茎の岡は、曼荼羅寺の縁起に載せられているが、出釈迦寺にある。
▼我拝師山曼荼羅寺延命院(七十二番)
善通寺が落成した後、空海が建立し自作の七仏薬師を金堂に安置した。壮麗な建築が
目を奪い、仏教談義に明け暮れる僧侶たちが犇めいていた。元杲、仁海、成尊らの高僧
が住み、深遠な教理を称揚した名刹であった。戦国期まで度々兵火に曝され廃れ、妖し
い生き物の棲処となり果てた。豊臣時代から江戸初期に讃岐一国を治めた大名・生駒氏
の家臣・三野某が、寺の退廃を嘆いて三間の仏堂を建て若干の田を寄進した。寺が再建
され、どうにか今に続いている。北には険しい山が聳え、他方には豊かな平野が美しい
織物のように広がっている。南には五岳が剣のような峰を連ねている。現在の境内は二
町四方で緑深く、俗世間の雑事から切り離されている。大日如来を安置する本堂と護摩
堂が並び、前には鐘楼、後には鎮守の社がある。
西行法師が寓居したという水茎の岡は、この寺から三町ばかり西にある。「山里に憂
き世厭はむ友もがな」の歌は、ここで詠んだという。寺の庭には、西行笠懸の松があ
り、関連する歌もあったやに思うが、忘れてしまった。
この寺には、元杲・仁海・成尊、三人の高僧が住んでいたと伝えられている。【京都
山科】小野の寺も曼荼羅寺・延命院などと呼んでいるが、此処と同じである。小野の寺
は元々西行院と呼んでいたという。しかし霊場になっているこちらの曼荼羅寺は、空海
が建てて以来の号だから、小野の寺の方が号を真似たのだろうか。
▼医王山多宝院甲山寺(七十四番)
昔は大伽藍だったというが、今では荒涼としている。事物の盛衰流転というものを、
意識してしまう。
本堂の本尊は薬師如来で、空海の作。霊験あらたかである。
静まりかえった境内に薄く靄が立ちこめている。背後は緑深く、前面は広野で、美し
い布のような田畑が見渡せる。民家も密で、集落を成している。
▼本山寺宝持院(七十番)
本山の庄にあるため、本山寺と呼ばれている。長福寺ともいう。本尊は馬頭観音像
で、両脇士は阿弥陀と薬師である。いずれも空海の作だ。
堂の右に石塔がある。境内には大きな老松があり、古い昔からの歴史を聞きたい気持
ちにさせる。堂の後には古い五輪塔が五六基ある。垣で囲われた境内は一町半。周囲に
は松・桜・杉・椿が茂っている。二王門の右に、鎮守の社がある。門前には、長川が横
たわっている。
▼七宝山観音寺(六十九番)
唐への留学を終えた空海が、琴弾神社に参詣し無事に帰朝した喜びの儀式を行ったと
き、神の啓示によって、この地を開いて寺を建立した。僧侶を常駐させ、琴弾にいます
八幡神に仏の教えを及ぼし続けようと考えたのだ。
空海は高堂を建て自ら観音像を作って安置し、観音寺と名付けた。高さ一丈六尺の薬
師像を彫って、金堂に安置した。脇に四天王像を添えた。弥勒堂・宝塔・愛染明王堂が
所狭しと並んでいる。石塔四十九基が並んでいるが、恐らく弥勒菩薩が修行を続け、そ
こに往生すれば五十六億七千万年後の弥勒成仏の折に、現世に立ち帰り最初の説法を聞
くことができるという、都率天【兜率天】を巡る四十九重の摩尼光を表現しているのだ
ろう【ただし、当寺の本尊は、十二の本願と四十九の功徳をもつと語られる薬師如来で
ある】。
また、空海が国家鎮護のため七種の珍宝を山に納めた故に、七宝山と称するという。
山容は八葉を象り、九所の秘穴があって、全体として金剛・胎蔵両界が融合した象徴の
配置がなされていると、縁起には書いてある。現在、境内の建物は七つ。
▼琴弾八幡宮(六十八番)
文武天皇の時代、大宝三年に八幡神が宇佐神宮から移ってきたという。三日にわたっ
て西の空が鳴動し、黒雲に覆われ太陽も月も光を失った。住民たちは何事が起こったの
かと、怪しみ合った。そうこうするところ、西の空から白く藻が虹のように立ち上が
り、この山に架かった。山の麓、梅脇の浜に一艘の怪しい船が近付いてきた。中から琴
の音がした。妙なる調べが、山の松の間を擦り抜けた。当時、山には日証という上人が
住み着いていた。上人は船に近付き、どのような神人が乗っているのか、なぜにここに
来たのかを問うた。船に乗る人は、自分は八幡神であり、都の近くで国を守護しようと
考えて、宇佐から来たと答え、ここが霊地であるため留まると言った。上人は、凡夫は
言葉だけでは信じられないから奇蹟を起こすよう八幡神に願った。その夜のうちに、海
の十余町が竹林に、浜の十歩余が松林に変わった。驚かぬ人はいなかった。上人は呼び
かけて、まだ無垢な十二三歳の少年数百人を集め、元は海であった竹の谷から山上へ
と、船を引き上げた。祭りをして、琴弾別宮とした。琴と船は、現在でも社殿の中にあ
る。数回、霊異を起こした。この船は、神功皇后が朝鮮半島を攻めたときに用いたもの
だった。二所宗廟と呼ばれ、伊勢神宮と共に天皇家が篤い八幡は、神功皇后・応神天皇
の神話と関わるため特に外敵征伐の神とされている。そのため、この宮はユーラシア大
陸/朝鮮半島のある西に対している。北には神功皇后の腹心であった武内宿祢、南には
神功皇后朝鮮出兵時に出現した住吉明神を祀っている。下方には若宮、傍らには鐘楼が
ある。社殿へと登る石段の両脇に七十五神を祀る祠が並んでいる。このうち、青丹大明
神を最上位に置いている。
山は岩がちで三方を海に囲まれている。険しく人を寄せ付けないさまは、霊仙が岩屋
に住んでいたからだろう。中腹に山門を置き、麓に鳥居を建てている。近年、勅額を受
けた。縁起は中納言実秋の直筆。将軍直々の命令書もある。道範阿闍梨が参詣し次の歌
を詠んだ。「松風に昔の調べ通ひ来て 今に跡ある琴弾の山」。
▼小松尾山大興寺(六十七番)
空海が弘仁十三年に開いた。当初は七堂伽藍を備えた大寺であった。現在でも、礎石
は残っている。最盛期には、真言宗だけでなく天台宗の研究も盛んで、学僧が犇めいて
いた。豊田郡小松尾村にあるため、小松尾寺とも呼び、小松尾山と号している。
本尊は薬師如来で、脇士は不動明王と毘沙門天。立像で高さは四尺。いずれも空海
作。十二神は高さ三尺二寸で、堪慶の作だ。本堂の右には、鎮守である熊野権現の社が
ある。左にある大師堂の大師像は、堪慶の作。醍醐の勝覚が裏書きしている天台大師御
影がある。大興寺と書いている額は、従三位藤原朝臣経朝の手による。文永四丁卯七月
二十二日丁未と裏書きしている。経朝は世尊寺家。行成第八世の子孫のようだ。このよ
うな高位にある者の額が残っていることから、往年の興隆ぶりが偲ばれる。近世まで、
宝塔・鐘楼があった。
▼巨鼇【敖のしたに亀】山雲辺寺千手院(六十六番)
山は険しく、道が奥深く巡っている。五十町登って境内に出る。堂が雲に包まれてお
り、雲辺寺の名称が、もっともなものだと感じる。西は眼下に伊予が見え、北は中国地
方の諸国を一望に見渡せる。東と南には讃岐・阿波・土佐の三国が広がる。山の根は四
国に跨り、昔は四国坊と呼ばれる四つの寺があった。今では雲辺寺しか残っていない。
阿波の国主が造営したものだが、昔から讃岐霊場の一つに数えられている。
本尊は千手観音の座像で、高さは三尺三寸。脇士は不動と毘沙門天。いずれも空海の
作。御影堂、千体仏堂、鎮守社、伴社、鐘楼、二王門がある。境内は緑深く、俗世から
隔絶している。
自黙道人は縁起を見たと書き残しているが、私は見たことがない。いつのことかは分
からないが、閑成という丈夫がいた。鹿を射て、血の跡を辿ると堂の中へと続いてい
た。閑成が不審に思って本尊を見ると、像の胸に矢が当たっていた。閑成は殺生の罪を
悔い、菩提心を発して出家した。仏が、朝夕に罪を重ねる閑成を憐れんで、鹿に化けた
のだろう。中世、寺は火災に遭った。このとき本尊は姿を消したが、年を経て忽然と戻
ってきた。
巨鼇は、列子に「渤海の東に大壑あり。其中に蓬莱・方壺等の五山あり。居る所の人
は皆、仙聖の種なり。この五山の根連たるや、尽く所なし。当に潮波に従いて、上下往
来して、暫くも峙つ事を得ず。帝、西極に流れん事を恐れて、禺強に命じて、巨鰲十五
をして首を挙げて、これを戴かしめ、これよりその山動かず」と。今、この山も聳え
て、かの五山が浮かんでいるようだ。ゆえに巨鼇を山号としたのだろう。
鼇は海中の大鼈。伝に云う、神霊の鼇あり。列子に鰲となす。鰲は大魚、鼇はこれた
らん。
・・・・・・「列子」関連部分・・・・・・・
前略……湯又問、物有巨細乎、有脩短乎、有同異乎。革曰、渤海之東、不知幾億万里、
有大壑焉、実惟無底之谷、其下無底、名曰帰墟、八紘九野之水、天漢之流、莫不注之、
而無増無減焉、其中有五山焉、一曰岱輿、二曰員■【山に喬】、三曰方壺、四曰瀛州、
五曰蓬莱、其山高下周旋三万里、其頂平処九千里、山之中閨A相去七万里、以為隣居
焉、其上台観皆金玉、其上禽獣皆純縞、珠■【王に干】之樹皆叢生、華実皆有滋味、食
之皆不老不死、所居之人、皆仙聖之種、一日一夕、飛相往来者、不可数焉、而五山之
根、無所連著、常随潮波、上下往還、不得■【斬に足】峙焉、仙聖毒之、訴之於帝、帝
恐流於西極、失群聖之居、乃命禺彊使巨鼈十五挙首而戴之、送為三番、六万歳一交焉、
五山始峙而不動……後略【列子湯問第五第一章】
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▼金毘羅権現(番外)
山号は、象頭。遠くから眺めた山の形が、象の頭に似ているところから山号とした。
松尾山金光院とも呼ばれる。前方丈・仏塔は大きく美しい。讃岐で最も壮観な建物なの
で、遠くの者も近くの者も参詣したいと願っている。
金毘羅権現が鎮座した年代は、明かではない。ただ、三千年前だと言う人もある。金
毘羅という名前は仏典に出てくるので、この名前が付いた年代は、仏教伝来以後のこと
ではないだろうか。私が聞いているところでは、大物主命が天竺に行って、金毘羅と呼
ばれるようになったということだ。伝教大師は神についても詳しかったが、金毘羅と三
輪大神は同じだと考えた。仏典には、提婆達多が釈迦に大石を投げ付けたところ、金毘
羅が受け止め釈迦を救ったと書いている。金毘羅は、祇園精舎の鎮守とされている。金
毘羅権現では、今でも奇怪なことが起こるといわれている。本社の上方に、岩窟があ
る。ご神体が鎮座しており、漂う霊感は言葉で表現できない。
天皇家・将軍家の崇敬が昔から篤い。徳川将軍家から三百石の領地を与えられてお
り、奉納される物も多い。峰高く谷深く美しく、四季折々の風景は称賛に値する。近
頃、幕府のブレーンである儒者・林家の父子が金毘羅から十二の名勝を選んで詩を作っ
た。
十二境詩
左右桜陣
呉隊の二姫笑う ■【業にオオザト】の宮に千騎の粧 花顔、国色を誇る 列対し春王
を護る
【史記には兵法家・孫子が呉王に軍の要諦を尋ねられ、後宮の寵姫二人に隊伍の訓練を
させた。しかし余りの単純な命令に寵姫たちは失笑した。一度は司令官である自分の責
任だと孫子は言ったが、二度目の失笑で、隊長の責任だと呉王・最愛の二人を斬った。
呉王は助命を嘆願したが容れられなかった。中国の軍律には、皇帝さえ陣中にあっては
軍礼を優先しなければならなかった。そうでなくては戦に負ける。現今の、現場を無視
して我が儘放題の経営者は、長たる資格を有しない? 国色は、国で最高の美姫を謂う
】
後前竹囲
(美景で知られる)渭川の畝を移し得たか 湘【竹】孫貽厥の多し 百千竿の翠密なり
本末の葉は森羅
【湘竹は斑竹。貽厥は子孫】
前池躍魚
隊を同じうして泳ぐ、其れ楽し 自ら香餌投げる無く 繞岩、往所を縦【ほしいまま】
にす 活溌を囲う洋は悠たり
【活溌は魚が躍ることによる水の動き。バシャバシャと騒ぐ魚の動きを周囲の水は悠然
と抱きかかえている】
裏谷遊鹿
林に樵子【きこり】の唱うを継ぐ 山は玉川に対して静かに眠る 凹処の跫音少なく
殷々としてググと連なる
群嶺松雪
尋常の青蓋を傾く 項刻玉龍横たう 棲鶴は其の色を失い 満山白髪生える
【青蓋は枯れていない松の葉】
幽軒梅月 別野
起きて顔向ければ霽光開く 坐して看る疎影の巡るを 高低同一の色 知るや否や香あ
りて来るを
右六首春斎作
雲林洪鐘
近くには万車の轟きに似る 遠くには【仏具の】小磬鳴くが如し 風に伝う朝昼晩 雲
樹も亦、声を含む
石渕新浴 十月十日、祭神の事ありて、ここに禊ぎ事を修す
石淵の風俗新た 知るや詠帰人のあるを よく此の心をして清ましむ 流れに臨みて神
に賽せんとす
箸洗清漣 山中の岩上に一小池あり。十月十一日夜、以て神前に神事を修し箸
をこの池に洒し阿州箸蔵寺山に納む。故に箸洗池という也。今に霊異一度ならざるをみ
る也
一飽に余情あり 波漣の源口に亨る 流れに漱ぎて頻りに箸を下す 荊子の情を喚起す
【陶淵明の「詠荊軻」に「燕丹善養士 志在報強■(亡のしたに口そのしたに月女凡)
招集百夫良 歳暮得荊卿 君子死知己 提剣出燕京 素驥鳴廣陌 慷慨送我行 雄髮
指危冠 猛気衝長纓 飮餞易水上 四座列群英 漸離撃悲筑 宋意唱高聲 蕭蕭哀風逝
淡淡寒波生 商音更流涕 羽奏壯士驚 心知去不帰 且有後世名 登車何時顧 飛蓋入
秦庭 凌■(ガンダレに萬)越萬里 逶■(施のツクリにシンニョウ)過千城 図窮事
自至 豪主正■(リッシンベンに正)営 惜哉剣術疏 奇功遂不成 其人雖已没 千載
有余情」がある】
橋廊復道
人、西嶽に攀りて去る 北溟に向かうありて流る 風力は推して運ぶ無く 是に舟せざ
るを知るが如し
五百長市
半千長の市に坐す 高下よく隣を成す 烟景を弄ぶ意なく 諸を沽え価を待つ人
万農曲流 河の源たる大池は弘仁帝の代に築く所也
清波、喬岑に浮き 長流、早く霖に則す 弘仁の余りの帝沢 一畝、千金に当たる
右六首春常作
金毘羅は八十八カ所の内には入っていないが、景色が美しく霊験あらたかな場所であ
るため、遍路で寄らぬ人はない。ゆえに、紙幅を割く。また、道筋としては善通寺の近
くだが、出釈迦寺の記述とつながりが悪いため、巻一の最後に載せる。
跋題
我、雲石堂、少しく技術を挟み、学余に多く仏祖の像を尽くし、人の珍敬とす。これに
より今、霊場の図も画工の手を借りず、みな自ら画を労す。もとより公の草聖、世の称
嘆する所なり。この書よく聖迹を讃ずる者は、あに霊場の霊宝たらざらんや。思うに書
肆、梓を刻み以てこれを沽うをなすか。
貞享五年秋吉日【九月三十日に改元し元禄元年。旧暦では七八九月が秋なので、この三
カ月の間に書かれたらしい】
清浄観中宜拝書
印 印