AWC お題>神がいる世界>水底の天使(下)    泰彦


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#170/598 ●長編
★タイトル (BWM     )  03/08/14  22:46  (208)
お題>神がいる世界>水底の天使(下)    泰彦 
★内容                                         03/08/15 23:06 修正 第2版
〜 五: 桐島和音 〜

 和音と会ったのは、二人の家の近くにある公園だった。公園と言っても、すべり台と
小さな砂場とベンチが二つあるだけの、小さな場所。夜更かしする若者が集うには交番
が近すぎるので、僕が通りかかった日付も変わろうとする時間に人影があるのは珍しい
ことだ。
 その日は久しぶりに町中へ出て若者らしい遊びを満喫した。僕はボーリングで生まれ
て初めて二百台のスコアをたたき出し、次に行ったカラオケボックスではくじ引きで見
事半額サービスを引き当てて友人たちから称賛を浴びた。小さな町では高校生が居酒屋
になど入れるはずもないので、乾杯はファミリーレストランのジュースだったのだが。
 日付が変わる前には帰ってこいという親の言いつけを守るべく自転車を走らせていた
僕は、その公園の前でふと足を止めた。ベンチに小さな人影。顔は影になってよく見え
ないが、見覚えのある髪型をしていた。その人影は膝の上に小さな箱を抱えて、こちら
に気づく様子もなく一心に何かを口に運んでいる。
 「和音?」
 何気なく声をかけた瞬間、その人影−和音−は気の毒なほどの狼狽を見せ、取り落と
した箱が悲鳴のように音を立てた。
 「お、お、驚かさないでよ」
 そう言う彼女の口の周りにはクリームが付いていて、僕は彼女がこの夏バイトをして
いるのが洋菓子屋だということを思い出した。
 「驚いたからって、何も箱を取り落とすほど動揺しなくてもいいだろう」
 そう言いながら箱を拾い上げる。箱は横向きに落ちたので、幸いなことに中に残った
三個のシュークリームは被害を免れていた。もし全滅していたら、和音は一週間は口を
きいてくれなかったに違いない。
 箱を受け取って中身を確認すると、彼女は見るからに幸せそうな顔を見せた。僕の方
へ箱を突き出して「一つあげる」と言うと、その後に「感謝してね」と付け加えるのも
忘れない。
 「売れ残りをただでもらってきただけだろ」
 「あ、そう言うことを言う人にはあげないよ」
 ふくれてみせる彼女だが、箱は引っ込めない。僕はありがたく頂戴すると、二口でそ
れを胃袋に収めた。
 「うまいな」
 「一つ二百円もするんだから」
 シュークリームの相場は良く分からないが、うれしそうに話す彼女の様子からすると
そこそこの値段らしい。
 「家に持って帰るとお姉ちゃんかお母さんに取られちゃうの。だからいつもここで食
べてるんだよ」
 「道理で太ったと思った」
 「嘘、そんなことないもん」
 そう言いながらお腹の辺りを気にするのは女の子の性なのか。どうして女の子は男か
ら見て病的なまでに痩せたがるのだろう。
 「昨日な」
 僕は自分でもそれと意識せずに切り出した。
 「鶴舞に会った」
 和音はふーんと相づちを打ったが、それ以上は何も言わない。
 「あいつ、気づいてるよ。包帯の下を見られたことに」
 彼女は少し不安そうに僕の方を見た。
 「私、口封じとかされるのかな」
 高校生が同級生相手に口封じ。小さな町を揺るがす大事件になるだろう。それこそ多
数の口があることないこと言い出して、封じない方が良かったと後悔するに違いない。
 「大丈夫だろ。見たのは和音一人じゃないみたいだし」
 「そう」
 ほっとしたように息を吐く。しばらく沈黙が流れたが、口を開いたのは彼女の方だっ
た。
 「あれから夢に見ちゃって大変なの。夢の中で自分の腕がウロコに覆われて、友だち
が私に向かって化け物って。私がいくら違うって言っても相手にされなくて、昨日まで
友だちだったじゃないって叫んだら今日からは違うもんって言い返されちゃうんだ。友
だちってそんなものなのかな」
 それでも普通にバイトに行く彼女。昔はそういう時にすぐ熱を出していたのだから、
彼女も成長したのだろうか。死体や大金とは違うあり得ざるものを見てしまえば、僕だ
ってきっと毎日夢に見るに違いない。
 「大丈夫か?」
 大丈夫じゃないと言われても困るよなと思いつつ、何とかしてやりたくて僕はそう声
をかけた。しかし彼女は意外なほどはっきりとうなずいた。
 「嫌じゃないんだ。友だちがいなくなっちゃうのはもちろん嫌なんだけど、ウロコは
嫌じゃないの。見れば見るほどきれいだし。ほら、私ってこんなだから、人と違う部分
を持てるのがうれしいのかも」
 そんなものだろうか。僕はそう思いながら彼女の頭をなでてやった。
 「何かあったら言えよ」
 「うん」
 頭をなでられながら照れたように笑う彼女は、昔と少しも変わらない。もちろん背は
伸びているけれど。
 「ところで」
 不意に彼女が表情を曇らせた。
 「やっぱり太ったように見える?」

 和音との話で時間を忘れた僕は、日付を跨いで帰宅して親からきついおしかりを受け
た。

〜 六: 事件 〜

 その日はひどく暑かった。昼にうちに遊びに来た親戚のおばさんはアイスクリームを
おみやげに持ってきてくれたが、玄関先で受け取った時にはすでに溶けかかっていた。
僕は大人の話に耐えかねて部屋へ逃げ帰ってはみたが、クーラーのない四畳半の部屋は
陽炎の中に揺らめいて見える。それでもしばらくはうちわを片手に音楽を聞いていたの
だが、流れ落ちる汗でTシャツはじっとりと湿り、うちわで扇ぐことすら億劫になってき
た。
 僕は重くなったTシャツを着替えると、客間に顔を出して海に行って来ると言い残して
外へ出る。響ちゃんは元気でいいわね、というおばさんの声は熱気の中に溶けて消え
た。
 外は風もなく、靴を履いてすら道路の熱は足の裏を焦がしそうだ。それでも空が大き
く開けているだけ室内よりはましなのだろう。その代わり直射日光というおまけが肌を
差すけれど。
 意外なことに海にはほとんど人がいなかった。元々地元の人しか来ないような小さな
浜であることに加えて、この一帯はお盆になると人口が若干減るからだろう。
 適当な場所にリュックを置いて手早く水着に着替えると、僕は海に入った。一人で海
に来るのは久しぶりだ。一人で来ると、それだけで海は違って見える。自分一人の存在
など簡単に飲み込んで痕跡も残さないであろう海の大きさ。様々な音に満ちているはず
の空の下で、ほとんど音を立てない海の静かさ。空を映して輝く海の明るさと、そして
暗さ。ぼんやりと背泳ぎをしながら、僕は太陽のまぶしさに目を細めた。背中と手足に
水の冷たさが心地よい。
 遠くに入道雲がそびえ立つのが見えた。

 夏の空はあっという間に黒くなる。その日もそろそろ降るかなと思う間もなく雨がや
ってきた。僕はというとどうせ濡れているのだし、日射しがなくなってこれ幸いとばか
りにバタフライに取り組んでいた。他にも同様の猛者たちが数人、水と戯れているのが
見える。
 ふと浜に目をやると、見覚えのある黄色い傘が揺れていた。
 「雨の中で泳いで楽しいの?」
 和音が小さな体を震わせて叫んでいる。彼女は普段の声からは想像できないほど大き
な声で叫ぶ。それは大きい声というよりは良く通る声と言った方がいいだろう。高校で
合唱部に入ってからというもの、彼女の声はそれ以前に比べてずいぶん聞き取りやすく
なった。
 僕は軽く手を振ると、クロールで浜に向かった。彼女の手にもう一本の傘を見つけた
からだ。うちの母親に持たされたに違いない。母親にかかれば、家の前を通りかかった
幼なじみを捕まえて傘を持たせ、息子を呼びに行かせることくらいお手のものだ。
 浜に頭からつっこむ趣味はないので、僕はクロールをやめて平泳ぎに切り替えた。顔
を上げると、浜はさっきと同じ大きさで眼前にあった。たたずんでいる傘の大きさもそ
のままだ。違和感を感じながら僕は平泳ぎを続ける。浜は相変わらずの大きさでそこに
ある。いや、むしろ小さくなり始めていた。
 流されている。そう気づくのには少しの時間が必要だった。浜からそんなに離れてい
なかったのに。僕は今度は本気でバタフライを始めたが、水をかき、水を蹴っても、進
んでいる手応えがない。再び顔を上げた時、黄色い傘は気が遠くなるほど小さかった。
 「この辺には神様が住んでいないんじゃ」
 不意に亡くなった祖父の言葉が頭に浮かんだ。あれはまだ僕が小学校に入る前で、和
音と出会った頃のこと。祖父と海に来た僕は、海に入る前にそう言われたのだ。あの時
祖父は続けてこう言った。
 「だから気をつけるんじゃよ。神様は助けてくれないからな」
 神様の気まぐれがないことはいいんだけどな、という祖父の言葉に「うん」と元気良
く答えて海に走っていった僕。そして今、流されている僕。
 浜の黄色い傘はもうほとんど見えなかった。きっと和音はあたふたしているに違いな
い。警察なり消防なりに通報すればいいのに、彼女は自分で何とかしないといけないと
思ってしまうのだ。もっともさっき同様に流されている人が視界の隅に映ったので、別
な人が通報しているだろうが。
 雨は土砂降りになっていた。浜はおろか波以外の何も見えない。それどころか、自分
がどちらを向いているかさえ、今となっては分からなくなっていた。浮力を維持するの
が辛く、時に頭から海につっこみながら、僕の頭はぼんやりとしびれていった。
 だからその時何が起こったのかはほとんど覚えていない。
 光る雷、逆巻く風、荒れ狂う海、急上昇、波の牙、落下、潰される痛み、浮遊感。
 和音が心配そうにこちらを見ている。僕は急速に彼女から遠ざかっていく。僕に手を
伸ばす和音。僕も必死に手を伸ばす。けれどその手は空を切り、彼女は寂しそうな、そ
れでいてうれしそうな目で僕を見る。和音が見えなくなる。
 そして闇。

 太陽が世の中の水という水を全て蒸発させようとしているかのように、強い日射しが
照りつけている。そのあまりの熱さとまぶしさに僕は思わずうめいた。すると急に影が
辺りを覆い、気がついた? という聞き覚えのある声。ゆっくりと開けた目に映ったの
は、黄色い傘を僕の方に差し掛けている鶴舞の姿だった。
 「和音は?」
 僕の口から漏れた言葉に彼女は目を伏せる。
 体を起こす。まるで全身に鉄の鎧をまとっているような重さ。
 鶴舞と同じ目線になって、僕は彼女の腕がしわだらけであることに気づいた。水にふ
やけてしわしわになったのではない、お年寄りのようなしわ。それはちょうど包帯を巻
いているかのように左腕全体を覆っていた。
 「私はたまたま通りかかったの。桐島さんが泣いていたわ。あなたの名前を叫んでい
た」
 鶴舞は僕にというより海に向かって語りかける。その視線の先にあるのは、いつもの
静かな海。
 「私は警察に連絡するように言ったわ。でも彼女は、間に合わない、響一が死んじゃ
うって」
 泣き虫の和音。泣いた彼女の顔が見たくて、何度も泣かせては母親に怒られた幼年時
代。
 「でも警察に頼るしかないでしょう、それともあなたに彼が助けられるの? 私はそ
う言った。その時の彼女の目は、一生忘れられない。目を見開いて、私の向こうに何か
があるかのようにじっと私を見ていた」
 その時の和音の視線を避けるかのように、鶴舞は目を閉じる。
 「あるわ」
 それは地獄のそこから響いてくるかのような低い声。波打ち際で言葉を交わしている
消防隊員へ目を向けながら、彼女は続けた。
 「聞いたこともない声だった。私なんかじゃ真似できないような声。彼女がしゃべっ
たのだとは信じられなかったわ。次の瞬間には彼女の姿は消えていて、信じてくれるか
しら、私が見たのは沖へ向かって飛ぶ竜の姿だった」
 彼女は自分の左手を顔の前にかざすと、しげしげと眺めた。
 「私はそれを見て頭がおかしくなったのかと思った。でも砂の上にこの黄色い傘が転
がっているし、彼女の姿が見えないからあの竜が彼女、桐島和音なんだって分かった。
その時の私の気持ちを一言で表すなら、羨望。そして懐かしさ。気づいたら「私も」っ
てつぶやいて左手を海へ伸ばしてた」
 こんな風に、と言いたげに彼女は腕を伸ばした。
 「そうしたら私の中を風が吹き抜けて、さっきより一回り大きな竜が沖に飛んでいく
のが見えた。手はしわだらけになっていた。気づいたら流された人たちがどんどん浜に
打ち上げられていて、私の目の前にはあなたがいたわ」
 そのまま介抱してくれていたのだろう。僕がありがとうと言うと、彼女は答えるでも
なくうなずくでもなく、海を見ながら「自分がこんなにロマンチストだとは思わなかっ
た」とつぶやいた。
 彼女はそれ以上何も言わず、僕も語る言葉を持っていない。

 僕らは日が沈むまで、無言で海を眺めていた。

〜 七: 神あるいは天使 〜

 和音のお葬式のことを僕は忘れないだろう。結局和音の遺体は見つからず、波にさら
われたのだろうということになった。水死体は見られたものではないというからかえっ
て良かったのよと言う和音のお母さんは、僕が知っている姿より二回り以上細く見え、
痛々しい。
 鶴舞は竜の話を誰にもしなかったらしく、あるいは話していたとしても信じてくれる
人がいたとも思えないが、和音の死は海難事故として処理された。

 海が変わったと言う人が増えたのはそれからしばらくしてからのことだ。以前より魚
が捕れるようになったらしい。そして気まぐれのように波が立つようになったという。
異常気象の影響だというごく一般的な意見を、しかし僕は信じなかった。いや、信じる
信じないではなく、僕は事実を知っていた。
 長く神様のいなかったこの土地に、神様がやってきたのだ。その神様は和音という殻
を破り、そして鶴舞という殻は残して、海に住まいを定めたのだ。海の底のそのまた奥
を覗くことが出来たら、二人の竜神が仲良く暮らしている姿が見えるに違いない。
 そう思いながら僕は、竜神というよりは天使なんだけどな、とつぶやく。

 夏の名残のような夕立が降り始めた。にわかに暗くなった空に轟く雷は、和音の葬式
の時に形見としてもらった、あの傘の色に似ていた。 





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