#169/598 ●長編
★タイトル (BWM ) 03/08/14 22:45 (271)
お題>神がいる世界>水底の天使(上) 泰彦
★内容 03/08/15 23:05 修正 第2版
神のいない町。
僕の住む町はそう呼ばれていた。海にも、山にも、そして町中にも神様はいないのだ
という。それに不自由を感じることなく、僕は高校生になった。
〜 一: 包帯 〜
この高校で鶴舞真琴のことを知らない生徒はいないだろう。頭脳明晰で線の細い美少
女と来ればそれだけで話題になるのは当然だが、彼女が有名なのはそれだけではない。
彼女は「見える」人なのである。
雑談の最中に突然顔をしかめたかと思うと、相手の背中に若い女性が負ぶさっている
だの、小さい男の子がうろうろしているだの言い出すのだ。初めのうちはそれは格好の
話題となり、自分の守護霊を知りたい、恋愛について相談したいといった占い好きの女
の子が彼女の周囲に群れをなしていた。彼女自身はそういった相談を面倒に思うでもな
く、かといって特別な意識を持つでもなく、あたかも雑談をするかのように受け答えし
ているようだった。彼女の評判を聞きつけて、昼休みには他クラスからも相談者がやっ
てくる有様。
けれどその風景は二ヶ月も経つ頃にはすっかり見られなくなっていた。
発端は入学から一ヶ月が経ち、黄金週間を満喫した満足感が教室にまだ残っている頃
だった。いつもと変わらず予鈴ギリギリに、焦るでもなくゆったりと彼女が教室に入っ
て来る。この一ヶ月の間に結成された押し掛け親衛隊たちが、これまたいつも通りの挨
拶を交わす。いつもならそのまま予鈴が鳴り、本鈴が鳴って一時限目の授業が始まった
ことだろう。けれどその日、友だちと昨晩見たバラエティー番組の話をしていた僕は、
異様な雰囲気を感じ取って顔を上げた。それは僕だけでなく、教室にいた誰もがそうだ
ったに違いない。いや、教室に入るまでの間に彼女を目撃した人すべてがそうだっただ
ろう。その証拠に、廊下にはうろうろしながらこちらをうかがう人影が少なからず見受
けられる。
彼女はそんな周囲の様子を気にすることなく、いつも通り席につこうとしていた。左
腕全体を真っ白な包帯で包んで。
しばらく呆然と眺めていた親衛隊が真っ先に動いた。ねえどうしたのその手、大丈
夫? ノート取れる? 代わりに取ってあげようか? 彼女は右利きだったからノート
を取るのに支障はないだろうにと思っていると、包帯をした左手をひらひらさせながら
笑顔で大丈夫よ、と告げた。良かった、心配したよ、と親衛隊。左手を不自由なく動か
してみせる彼女に親衛隊は安堵していたようだが、にこやかに微笑みながら小さくつぶ
やいた彼女の言葉を、僕は耳に捉えていた。
「今のところはね」
その声はあまりに小さくて、どうして僕が聞き取れたのかが不思議なほどだった。周
囲は既に彼女から注意を逸らしていたし、親衛隊は彼女の「大丈夫」という言葉に浮か
れて聞こえなかったようだ。そんな中で彼女の前の席に座っている桐島和音だけは、小
さく小首を傾げていた。
包帯はその仰々しさとは裏腹に、二日後には影も形もなくなっていた。
それからも彼女はたびたび包帯をしてきた。それは腕だったり足だったり、あるいは
頭だったりしたが、常に周囲を驚かせるほど広範囲を覆っており、そのたびに親衛隊の
質問攻めにあっていた。もちろん先生が心配するのも当然で、原因についてはかなり追
及されていたようである。だが彼女は、転んだ、階段から落ちた、と言うばかりで、生
活に支障を来すようなこともないため、先生としては不審に思いながらも気を付けるよ
うに言うことしかできなかったようである。
生徒の一部からは、心配されたいから怪我もしていないのに包帯を巻いているのだと
いう心ない声も揚がったが、かといってそれが大勢を占めることはなかった。その頃に
は誰もが彼女の常人とは少し違う様子に気づいていたし、得体の知れない人物だという
強烈な印象に半ばおびえていたからである。そういうわけで以前のように占いを頼もう
とする人はほとんどいなくなり、親衛隊もほんの数人までその数を減らしていた。
〜 二: 確率零% 〜
桐島和音が複雑な表情で話しかけてきたのは、緑がまぶしい6月中旬のことだった。
梅雨の足音がすぐそこまで近づいているが、新緑の美しさがまだその輝きを完全には失
っていない、そんな時期。その頃には鶴舞の包帯には誰もが慣れており、たまに見かけ
ても騒ぐのは数人単位の親衛隊だけになっていた。他の生徒は必要以上に彼女と口を利
くのを避けているような節があり、かく言う僕も席が近い割にはほとんど話をしたこと
はない。
「あの」
幼稚園の頃から変わらない、おどおどとした呼びかけ。知らない人が聞いたらよほど
深刻な相談か、あるいは愛の告白と勘違いするに違いないその呼びかけは、けれど彼女
にとって「ねえねえ」と同じごく普通の言葉であることを僕は十年強のつきあいの中で
知っていた。
「私ね、自分の見たものが信じられないから響一に判断して欲しいんだけど」
「何でも人に判断を任せないで、自分でも考えろっていつも言ってるだろ」
これまで何度となく口にしてきた言葉。彼女は昔からなかなか自分を信じようとしな
い。一度など「逆上がりが出来ないから」と鉄棒を嫌がっていたのに、先生がしかりつ
けて無理矢理逆上がりに挑戦させたらあっけなく成功した、ということもあったほど
だ。
「うん、今から言うからそれでいいかどうかだけ言ってくれればいいよ」
私もいつまでも子どもじゃないもん、と言いたげに彼女は話し始めた。
「彼女、舞鶴さんって包帯をしていても体育の授業は普通に受けるの。先生に病院に
行かなくていいなら体育の授業も受けられるのかって言われて、「はい」って答えたか
ららしいんだけど、そうすると着替えの時はやっぱり気になるの、包帯の下が。クラス
のみんながそうなんだけど、包帯は腕の時には肩の方まで、足の時には腰の方までしっ
かり巻いてあって、その下がどうなっているかなんて全然分からないの。でも今日、教
室に忘れ物をして取りに行った時、鶴舞さんが包帯を巻き直してて」
和音は何かに耐えるかのように胸の辺りに手をやった。これは相当衝撃的な話になる
な、と僕は直感した。決心したように話しかけてきたのとは一転して、今は話すことを
ためらっている。こういう時は無理にでも話させないと一人で抱え込んだあげくに他の
ことに気が回らなくなって授業はうわのそら、体育でもあろうものならきっと怪我をす
るであろう事を、僕は長いつきあいの中で学んでいた。
「言えよ」
わざとぶっきらぼうに、でもしっかりと目を見て言った。そうした方が彼女が決心し
やすいから。頼っていいの? 頼ったら迷惑をかけるよ? 相反する二つの色が瞳に浮
かぶ。彼女の瞳に映る僕の姿はいびつにゆがみ、まるで自信のなさを見透かされている
ようだった。
彼女が小さく首を傾げた。僕は小さくうなずく。それが一種の儀式だった。彼女はほ
っとしたような表情を見せると、「私、見たの」と口を開いた。
それからの彼女の話は、およそ信じられないようなことだった。何故か事件に巻き込
まれやすい彼女が裏山で死体を見つけたり、みかん畑で大金の入った木箱を見つけた時
も信じられなかったが、今回はその比ではない。死体や大金が万に一つ、億に一つを引
き当てた驚きだとしたら、今回は当たりくじのないくじ引きで当たりを引き当てた驚き
だ。
あり得ない。聞いた瞬間僕は思った。
和音は見たという。鶴舞の腕、その包帯の下がウロコで覆われているのを。
そのウロコは見るからになめらかだったらしい。大きな魚のそれではなく、どちらか
というと小さな魚のようなウロコ。見たこともない碧色がきれいだった、と彼女はため
息混じりに口にした。
「多分誰も信じてくれないし、騒ぎになるのも嫌だから、だから響一に相談しようと
思ったの。迷惑だったらごめんね」
「別に迷惑じゃないけど、和音はどう思ってるんだ? 自分で考えたんだろう?」
「うん」
小さく、それでもはっきりとうなずく彼女。一語一語言葉を選びながらの話し方から
は必死さが伝わってきて、それが何故か微笑ましい。
「私って昔からいろいろなものを見てきたよね。でも死体を見た時も、お金を見た時
も、最初は誰も信じてくれなかった。響一だけだよね、信じてくれたのは。ううん、響
一も信じてくれなかった。でも響一は他の人と違って、確かめようって言ってくれて、
それが私にはうれしかった。分からないなら確かめないと、って教えてくれたよね」
『判断するのは確かめてからでも遅くない』
二人の言葉が重なる。にっと笑う僕と、誇らしげに微笑む彼女。
「だから私は確かめてみる。こっそり見るかもしれないし、直接聞くかもしれないけ
れど、判断するのはそれからでも遅くないと思う」
うんうん、とうなずく彼女。今の言葉は僕に、というよりは自分に向けられた言葉な
のだろう。彼女は続けてこう言った。
「でも、私は自分の見たものを信じたいの。他に信じてくれる人がいなくても、自分
くらいは自分を信じてあげたい。それに事実は事実なんだから。今までだってずっとそ
うだったもの」
僕は不意に目の前の少女が誰なのか良く分からなくなった。桐島和音だということは
分かっている。けれどそこにいるのは僕の知っている桐島和音であって、そうではな
い。ついさっきまで妹のように思っていた彼女に、一足飛びに置いて行かれた事を僕は
悟った。
「かずねー、司書の水谷先生が探してたよー」
彼女と仲の良い隣のクラスの図書委員が、教室の入り口の所から叫んでいる。
「あ、昼休みに行くって約束していたんだった。予約した本が返ってきたの」
そう言った彼女は僕が知っている和音で、それがなんだか少し悔しかった。
「間違ってない。思うとおりにやってみな」
教室を出ようとした背中に声をかける。振り返った彼女は小さくうなずいて見せた。
僕に話してほっとしたのか、午後の彼女はごく普通に授業を受けていた。平常心でい
られなかったのは不覚にも僕の方で、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水に
はあらず」で始まる古典を「徒然草」と答えたかと思えば、足利義満と義政を取り違え
てクラスのみんなから失笑を買った。
それからしばらくは、少なくとも表面上は平穏な日々が続いた。僕は鶴舞と和音の動
向を気にせずにはいられなかったが、相変わらず鶴舞はたまに包帯を巻いて登校し、そ
の度に和音がそわそわするのが繰り返されるだけだった。
鶴舞はすでに親衛隊以外から話しかけられなくなっていたが、それは包帯のせいだけ
ではなく、突然「水に気をつけた方がいいわよ」とか「あなたはもっと頭上に注意すべ
きね」と口にするからだった。そして口にされた方はその日のうちに水たまりで転んだ
り棚からの落下物に直撃されたりといった被害に遭う。不吉な女と思われても仕方のな
いことだった。
僕はと言うと、ウロコのある伝説の生き物について調べていた。頭ではばかばかしい
と思いつつ、和音の言葉に何故か説得力を感じていたからだ。
確かに昔から彼女は嘘をつかない。もちろん他愛もない嘘をつくことはあるが、他人
が信じないような嘘ほど真実なのである。そして見たという鶴舞のウロコの話。驚きの
あまりウロコ以外のことを覚えていなくても不思議ではないのに、ウロコのなめらかさ
や色について事細かに説明してくれた。
そう言えば小学校の卒業遠足で遊園地へ行った時のことだ。数人の男子がけしかけ
て、和音とその他数人の女の子がお化け屋敷に入ったことがある。後ろからこっそりつ
いて行った男子が気の毒がるほど怖がった和音は、出てきたお化けのどこがどのように
恐かったかを事細かに僕に説明し、ただ「恐かった」という感想しか持ち得なかった他
の女の子を驚かせたのだった。
普段はお世辞にも注意力が働くとは言い難い彼女があそこまで細かく話したというこ
とは、気のせいでは済ませられない何かがあるような気がする。
そしてあの時、彼女は図書室へ行く前にこう言ったのだ。
「私ね、鶴舞さんが見ているものを多分見られるよ。なるべく見ないようにしている
けれど」
だとしたら、いつか和音にもウロコが出てきたりするのだろうか。
その可能性は、夏休み直前の太陽の光を浴びながらでさえ僕を身震いさせた。
〜 三: 夏の始まり 〜
夏が来た。学生にとって夏と言えば夏休みである。夏休みが来てこそ夏が来たと感じ
るものだ。
テレビをつければ日本中どこも暑そうで、合間に海やプールの映像が涼しさを演出
し、そして週に何回かは水の事故が世間を騒がせていた。それを見た人の多くが事故に
は遭いたくないものだと思い、さらにその大部分がそれでもいつも通りに海やプールに
出かけて行くのである。
そして夏と言えばお祭り。全国各地でここぞとばかりにお祭りが行われる。花火や盆
踊りの映像も飽きるほど目にした。それでいてついつい見てしまうのは、僕の住んでい
る地域に祭りと呼ばれるものがないからだろう。何故ないのかは良く分からない。かつ
て祭りを行った場所は何カ所かあるらしいが、どこも不思議と長続きしなかったらし
い。事故があったという理由ならともかく、どこも特に理由もなく、それでいて必ず立
ち消えてしまうのだという。
お年寄りはそんな時、決まってこう言う。
「この辺には神様がおらんからじゃよ」
神様がいないから、神様にお願いをしたり感謝したりするお祭りが長く続かないのだ
そうだ。
そんな訳で、僕らの夏と言えば精一杯遊ぶことにつきる。本当は少しくらい勉強した
方が良いのだろうけれど、それを思い出すのは早くても夏の終わりである。
休みに入ってからの僕は、鶴舞のことも和音のことも忘れかけていた。鶴舞の家は海
に突き出た山の上にあるので町中で偶然会うことはほとんどなく、和音はアルバイトに
余念がなかったからだ。
それでも全く会わないかというとそうでもなく、夏休みに入ってからの二週間強の間
に、二人にはそれぞれ一回ずつ出会っていた。
〜 四: 鶴舞真琴 〜
鶴舞と会ったのは消波ブロックがあるせいであまり人の来ない、山すその堤防だっ
た。僕がそこを通ったのは海岸沿いをサイクリングしていたからで、そうでもなければ
クラスの誰も来ないであろう町の外れ。そこで彼女は堤防の上に立ち、黄色いワンピー
スを風になびかせていた。包帯のない腕は驚くほど白く、炎天下の堤防にたたずんでい
るにしては日に焼けていない。いつもの威圧感を感じさせる雰囲気はなく、服装のせい
か普通の女の子に見えた。
「そんなところに立っているとスカートの中が見えるよ」
我ながら気の利かない第一声。スカートと白い麦わら帽を手で押さえながら、彼女は
ゆっくりと振り向いた。僕の方を見て一瞬「誰?」という表情を見せ、次に「何で?」
というように小首を傾げ、そして驚くべき事に僕に向かって微笑んだ。
「あなたが私のスカートの中を気にしてくれるなんて思わなかったわ」
「別に鶴舞だからという訳ではないよ。女の子なら気をつけた方がいいんじゃないか
な、と思っただけ」
彼女に微笑まれた驚きのせいか、口調が言い訳がましくなってしまう。
「向こうからこっちに来るのは見えていたけれど、そのまま素通りするかと思った」
そう、いつもの僕ならきっと声をかけずに通り過ぎたことだろう。きっと彼女は僕
が、いやクラスのみんながそう思っていることなどとうにお見通しに違いない。自分で
も良く分からないのにこのまま立ち止まった理由についての話を続けたくなかった僕
は、逆に質問することにした。
「そこで何をしているの?」
「海を見てるの」
「それだけ?」
「それだけ」
いったいどれくらいの間ここに立っているのだろうか。いくら帽子をかぶっていると
言っても、僕なら一時間と耐えられないだろう。そう思いながらも、僕が口にしたのは
別のことだった。
「鶴舞は山の上に住んでいるから、山の方が好きかと思ってた」
「あら、山に住んだ方が海の良さが分かると思わない? あまり近くにありすぎたら
好きなものも飽きてしまうわ」
そう言うと、彼女は同意を求める視線をこちらに向けた。僕は生まれてこの方海のそ
ば以外に住んだことがなかったので、口を突いて出たのはそうかもね、という消極的な
同意だけ。そんな僕を、どういうつもりか彼女はしげしげと眺めていた。
僕は彼女を見上げ、彼女は僕を見下ろす。この様子を絵にしたら、題は「神と人間の
対話」だろうか。いや、「天使と人間の邂逅」かもしれない。
どれくらいそうしていただろう。おそらく二分かそこらだと思う。彼女は今度は堤防
に腰掛けて、こちらに向かって足をぶらぶらさせた。ワンピースのすそからちらちら見
える足の白さが日に輝いてまぶしい。
「服、汚れない?」
僕はどうでもいいことを聞いてさりげなく無視された。
「私と話すなんて珍しい人ね」
心の底からそう思うわ、本当に。とでも言いたげな口調。そこには自嘲の響きはな
く、純粋に思っているようだった。
「クラスメイトだし」
「私には四十一人のクラスメイトがいるはずなんだけどな」
独白を装いながら、僕の答えは否定された。確かに二、三人の親衛隊以外が彼女に話
しかけているのを、ここ何ヶ月か見ていない気がする。ちょっとした事は親衛隊が彼女
に代わって済ませてしまうのだ。あるいは通訳よろしく取り次ぐのである。
「私の正体、知ってる?」
次の登校日はいつだっけ、とほぼ同じ口調。つられて思わず「知ってるよ」と言いそ
うになるのをぐっとこらえた。案外カマをかけられているのかもしれない。
「魔女なの」
僕は思わず黒服で黒猫を連れて箒にまたがる彼女の姿を想像した。きっと手際よく
様々なことをこなすに違いない。そして逆らったら蛙にされてしまうのだろう。
あまりに納得してしまった僕を見て、彼女は「驚かないのね」とつまらなそうにつぶ
やいた。
「そして竜神の娘で、天使で、神様で、ミュータントで、エイリアンで、そうそう、
堕天使というのもあったわね」
つまりはそれだけ彼女のことが噂になっているのだろう。案外包帯の下を目撃したの
は和音だけではないのかもしれない。そうでなければ竜神の娘という他に比べて具体性
の高い噂は出てこないのではないだろうか。
「この辺りに神様はいないらしいよ」
「そうね。だから他から流れてきたらしいわよ」
おかしそうに笑う彼女は、どこにでもいる可愛い女の子だった。あるいはこれはこの
夏の暑さが見せる幻なのかもしれないが。そう思うほど今日は日射しが強かった。それ
でも彼女は汗一つかかずに、神様がいるから人が頼るのか、人が頼りたがるから神様が
いてくれるのか、等とつぶやいていた。
「それじゃ、そろそろ行くね。立ち止まってると風がなくて暑い」
この瞬間はかなり貴重だと思いつつ、僕は話を切り上げることにした。暑いのも事実
だったが、彼女と話しているとこちらの心の中を見られているようでなんだか気恥ずか
しかったのだ。
彼女は「あらそう、気をつけてね」と言うと、再び堤防の上に立って海の方を向い
た。山に住むとそんなに海が珍しくなるのかな、と考えながら、僕は自転車をけり出
す。
振り返ると、彼女は身動きひとつせずに海を見ていた。少し傾きかけた太陽の光の中
で、それはまるで母親が子どもを見守っているかのようだ。あるいは神が人間を見てい
る姿だろうか。
僕は彼女と会話をしながら、得体の知れない畏怖を覚えていたことに気づいた。その
理由までは分からなかったけれど。