#155/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 03/06/29 22:15 (500)
六月の事件 1 永山
★内容 04/01/19 03:34 修正 第2版
神様なんていない。
僕達兄妹が皮膚に爪を食い込ませて祈っても、父と母が別れてしまったあの
頃から、分かっていたことだ。
けれども、縁起担ぎぐらい、信じさせてくれてもいいじゃないか。
「六月の花嫁とかジューンブライドとかって、幸せになれると云うけれど、ど
うしてなのかしら?」
「知らないのか?」
「何よー、莫迦にしたみたいに」
「そんなことないない。だって、誰でも知ってる常識だと思ってたから。六月
を英語で何て云う?」
「やっぱり莫迦にしている。さっきもジューンブライドって云った」
「あ、そうだっけ。で、だな。一月から十二月まで各月には、ローマ神話にな
ぞらえた守護神が定めてあって、六月の神様はジュノーっていうんだ。ギリシ
ャ神話ではヘラに相当するんだが、今はどうでもよろしい。肝心なのは、この
ジュノーが結婚の女神であることさ」
「あ、それで」
「というのが一説としてある」
「謂れがたくさんあるの?」
「ああ。他には……五月は英語で何?」
「今度は五月? メイでしょ」
「五月をメイ――MAYと呼ぶのは、この時期、繁殖や成長を司るギリシャ神
話のMAIA、女神マイアに豊穣祈願の生け贄を捧げる習慣があったためとさ
れる。生け贄ということから分かるように、五月は死者を悼む月であり、縁起
が悪く、結婚を六月に先延ばしする者が多かったんだそうだ。そこでジューン
ブライドの風習が生まれた」
「無理に六月に延ばすんじゃなくて、六月に結婚するのは幸せになれるからっ
ていう理由付けね」
「その通り。だけどな、もう一つあるんだよ。梅雨のある日本では、この三番
目の説が最有力っぽい。いかにも経済国らしいんだな、これがまた」
「……何だか、あまり聞きたくない感じ」
「聞きたくなくても、聞かせてやるぞ。云うまでもなく、六月は梅雨の季節だ。
雨降りに結婚式をしたいか?」
「まさか。はれの日なんだから、天気も晴れててほしい。第一、雨降りだと見
送ってもらうとき、みんなに悪いわ」
「そうだろう。世の女性、いやカップルも同じことを考える。六月の挙式数は
少なかったんだ。それを解消しようと、結婚業界の考え出した策が、ジューン
ブライド。六月に結婚すればしあわせになれるという伝説だったのさ」
「じゃあ、最初に云った二つは根拠のない嘘なの?」
「いやいや、そんなことはない。元からあったのを、日本の結婚業界が利用し
たんだと思うね」
「ふうん、そうなんだ……。いずれにしたって、三つ目は知らなきゃよかった。
ロマンティックじゃないわ」
「じゃ、結婚するときが来たら、やっぱりジューンブライドか?」
「そうね。幸せになれるんだったら、梅雨ぐらいへっちゃら」
うるさい。
手にしているハードカバー本を、斜め後ろのテーブルにいるカップルに投げ
つけたい。今なら暴力沙汰を起こしても名前は伏せられる。
沸き起こった莫迦な衝動を抑えるために、僕は本を閉じ、ショルダーバッグ
に仕舞い込み、そして水を飲んだ。
安くてうまいと評判の定食屋は正午からの一時間、近所の大学の学生達でに
ぎわうのが常であった。だが、昼一番の講義が始まって二十分が経とうかとい
うのに、店内は依然として混雑の名残が色濃い。恐らく、大教室での授業が休
講になったのだろう。僕はタイミングの悪さを呪うことで、苛立ちを別のもの
に転換させようとした。
幸いにも、ちょうど待ち人が来た。ようやく場所を移動できる。
ドアを開けたまま視線をさまよわせる雨地さん。こちらを向いたのを見て取
った僕は、席から立ち上がった。相手は即座に気付き、小走り気味にやって来
た。どうせ店を出るのだから、来なくてもかまわないのに。
「こんにちは」
軽く頭を下げる僕とは対照的に、遥かに年上の雨地さんはぺこぺこした。左
手には持ち手付きの紙袋が揺れている。
「待たせちゃって、悪いね」
「いえ。高々二十分です」
時計を見た。それからショルダーバッグを肩から提げ、伝票を拾い上げる。
「それに、わざわざ足を運んでもらって、こちらこそ恐縮です」
「いやいや、高校生なのに人間できてるねえ。そう云ってもらえると気が楽だ。
それで早速だけど」
真向かいの席に座りかける雨地さんを、手で制して素早く止めた。
「ここは環境がよくないですから、どこか別の場所に移りましょう。僕が指定
しておいて悪いんですけど」
「うむ。確かに、この混雑は凄い」
店の中をまた見渡した雨地さんは、右の掌を上にし、僕に差し出してきた。
「何か」
「レシート。支払いはこちらで持つよ」
「伝票ですか」
「そうそう、伝票」
ありがたくごちそうになる。安いといっても、少しでも節約したい年頃だし、
家庭の事情ってやつもある。
定食屋を出た僕らは、十月に入ったというのにまだきつい陽射しの下、大通
りから離れる方角に足を向けた。そこで壁の塗装が所々剥がれ、全体に埃を被
ったような喫茶店を見付け、入ることに決めた。外観からの期待に違わず、店
内は明るくなく、客も四人テーブル二つに一人ずつ、ぽつんぽつんといるのみ。
ここなら話し易い。
注文を取りに来た店長らしき中年女性に、飲み物を適当に頼んで、僕らは雑
談から入った。いや、僕にとっては雑談ではないのだが。
「家の方は、落ち着いたかい」
「ええ。表面上は」
そう、表面上。きっとこれからも元のように落ち着くことはない。母を喪っ
たのだから。僕と妹を独りで育ててくれた母を。
六月に再婚した母は、ふた月程度の新婚生活を過ごして、世界から突然いな
くなった。幸せを感じるいとまはあっただろうか。
「葬儀の折は、ありがとうございました」
「あれくらいは当然だよ。それで、そろそろ受賞第一作の執筆を……」
本題に入った。雨地さんにとっては本題だが、僕にとっては雑談に近い。
この春、高校に合格した僕は、入学式までの日々を利してファンタジー小説
を書き、ライトノベルの賞に投稿した。高校に入ったあとは母の負担を多少な
りとも減らそうとアルバイトに精を出すつもりでいたから、最初で最後の、思
い出作りのような投稿で終わるはずだった。
それが、思い掛けず佳作入選の知らせを夏休みに受け取った。雑誌に載り、
賞金も出る。更に、何作か書かせてもらえるという。このときばかりは、神様
を信じたかもしれない。
しかし……結果的に、この一件が母の命を奪った。
当日の夕方、勤め先から母は電話を掛けてきた。雨が降り出したので洗濯物
を取り込んでおいてほしい、ただそれだけの電話。そんなこと、云われなくて
も気付いていたのに。
僕はでも、ちょうどいいと思って、佳作入選の知らせが昼間あったことを、
母に伝えた。自分のことみたいに喜んだ母は、「お祝いしなきゃね。スーパー
に寄るから少しだけ遅くなるけど、御馳走に期待してて。あ、寿音やお父さん
にも伝えておいて」と弾んだ声で云い、電話を切った。
少しどころか随分遅いなと、僕と妹と新しく父になった人との三人で待って
いたとき、あの電話が掛かってきた。出なければよかったと今でも思う。
帰り道。母は雨がそぼ降る中、バイクごと跳ね飛ばされ、斃れた。小型トラ
ックの方に非がある事故と後に認められたが、普段は慎重な母もこのときだけ
は気が急いていたのかもしれない。
僕のせいだ。
受賞第一作を書く話は、延期させてもらっていた。それどころじゃなかった。
受賞作自体は雑誌に載ったが、未だに開かず、部屋の本棚に押し込んである。
「色々と考えました」
僕は俯きがちになりそうなのを我慢して、雨地さんを見た。
まだ一言しか発していないのに、雨地さんは声のトーンから察したらしい。
僕に次の言葉を吐かせず、身を乗り出してきた。
「まさか、書けないとでも?」
「……書こうという気になれないんです」
「気持ちは分かるよ。受賞の知らせを聞いたのがきっかけで、お母さんは事故
に遭われたようなものだからね」
剥き出しの言葉が無造作に飛んでくる。悪意はないが、配慮もない。
だから、といって雨地さんを責めることもできない。黙って聞くしかない。
「出版社だって、ボランティアじゃない。即戦力でなくとも、将来、うちの雑
誌を支える作家を育てるために、賞を設けているんだから。少額とは云え、賞
金だけ持って行かれて、はいさよならじゃあ、商売上がったりだ」
じゃあ、賞金を返せばいいのか。もう書きません、他社に応募することもし
ませんと誓約書を出せばいいのか。
「嘘偽りのない本心を云うと、君には期待してるんだよ。佳作ということから
分かるだろうけれど、まだ荒削りだが、修練を積めば伸びる」
飴と鞭というやつ……違うな。脅し、宥め、賺す、か。
「それに、中学生で受賞というのも、大きな売りになるしね。そのためには、
早ければ早いほどいい」
雨地さんは基本的にいい人だけれど、時折、矛盾することを平気で云う。修
練を積む必要があるのに、早ければ早いほどいい、なんて。
「とにかく、短いのでかまわないんだ。短いのをとりあえず一本だけ。忘れ去
られない内に、第二、第三の弾を発射していかなくちゃ。分かるだろう?」
出版社の理屈、プロ作家の理屈としてなら、よく分かる。問題はそんなとこ
ろにない。「気持ちは分かる」の一言で片付けられた部分にこそ、僕は……。
「今のチャンスを逃すと、将来、また書きたいと思っても無理なんだよ、絶対
に。第一、少しでも収入があった方がいいでしょうが、君の家庭も」
お金の話は痛いところ。母が亡くなって、現在の経済状態はとても苦しい。
賞金を返すなんていう潔い真似も、実際は無理だ。
「ファンレターだって、少しだけど来てるんだよ。一部、持って来たから、目
を通すといい。期待に応えなければという気になるはずだ」
云いながら、雨地さんは紙袋をテーブルに置いた。光沢のある薄青色の表面
が、店の照明を反射する。中身は封筒や葉書。二、三十通ありそう。封筒は変
形版が目立つ辺り、雑誌の読者層を如実に表している。
手を突っ込み、葉書の一枚を取り出そうとしたが、雨地さんは「家に持って
帰って、ゆっくり読んでみなさい」と小学校の先生めいた口調で告げた。
「今ちらちら見たって、簡単に心変わりするとも思えないしね。それを全部読
んで、同時期に受賞した人達の活躍ぶりも見て、じっくり考えて。返事は、そ
うだな、三週間待とう。年内に出す分に間に合わせるには、これでぎりぎりだ。
返事が早ければ早いほど、執筆時間に余裕ができるのは断るまでもないよね」
譲歩してくれたものの、結論を都合よく決め付けたような物言いは、好きに
なれない。
母の命を間接的に奪った小説でお金を稼ぐ……。蟠りは拭えなかった。冬場
に洗い物をしたあと、手全体に油のまとわりついた感覚に似ている気がした。
息苦しい雰囲気から解放されたい僕と、考え直させたい雨地さんとの思惑は
皮肉にも合致して、この日の話は予想外に早く終わった。寂れた喫茶店を場所
としたのも原因かもしれない。
賃貸マンションの一室に帰宅するまでの間、色好い返事を期待しているよと
いう雨地さんの台詞を、ずっと重荷に感じていた。外でファンレターなる物を
読むのは気恥ずかしく、まだ一つも目を通していないが、雨地さんの頼みをど
うするかは真剣に考えていた。元々、今日会って、正式に断る気だったのに、
うまく丸め込まれてしまった。
「よお。遅かったな」
僕を出迎えたのは、若い男の乱暴な口ぶり。姿は見えないが、声は台所の方
からしたようだ。鞄と紙袋を置いて、そちらに向かうと、二人目の父――旧名・
露木信夫がまな板を包丁で叩いていた。何を切っているのかは見えない。
「体育祭の準備とかで、今日は午前中だけとか云ってなかったっけ?」
振り向かずに聞いてくる。玄関ドアを開けて入ってきたのが、もしも僕じゃ
なかったらどうするのだろう。
「ただいま、信夫さん」
「おう」
やっとこちらを向いた。見えたのはじゃがいもと人参と玉葱。今夜はカレー
だろうか、肉じゃがだろうか。
「出版社の人に会ってきた」
「そうだったな。で?」
昔のロック歌手程度に長い髪の信夫さんは、三角巾を被っている。その下の
髪は茶色っぽかった。また染め直したようだ。
「断りきれなかった」
「そうか。何か菓子食うか?」
「……食べる。寿音は?」
食卓に着いた僕の前に、赤いぷるぷるした半透明の固体、いや固体と液体の
中間のような物が置かれた。ゼリーなのは分かる。赤いのは苺かりんごか。い
や、さくらんぼが載っているから、これかもしれない。
「寿音は宿題を済ませて、遊びに行ったぞ。下の公園にいるはずだが、見掛け
なかったか?」
「そういえば、小学生の女の子が大勢いたような気がする」
「声掛けなかったのかよ」
何故か熱いお茶を並べて置くと、信夫さんは再びまな板に向かった。
「声を掛けるどころじゃなくて。考え事で」
「相談に乗るぞ」
「あの、だから、小説書くのを断りきれなくて……三週間以内に結論を出して
くれと云われたんだ。海の物とも山の物ともつかない僕に、書かせたがってる」
「まず、云っておくとだな」
肩口の辺りで包丁を振る信夫さん。
「金のことなら心配いらん。おまえ達を育てる分ぐらい、俺一人で稼ぐ。大学
以降は、純奈さん――お母さんの遺した貯金や保険金を使わせてもらうけど」
信夫さんは若い。確かまだ二十三歳だ。こういう人が母さんの再婚相手に何
でなったのか。公立図書館に勤務していた母が、卒業論文の資料を集めるため
に頻繁に来館する信夫さんの相談に乗ったのがきっかけらしい。親身になって
調べてくれる母さんにすっかり好感を持った信夫さん。母さんは母さんで、見
かけに寄らず真面目で勉強熱心な信夫さんを気に入って、将来の希望なんかを
聞く内に惚れてしまったようだ。
再婚話を聞かされた僕が真っ先に疑ったのは、大学図書館を利用しない訳だ
った。真面目な学生が大学の図書館を使わず、専門性では恐らく劣るであろう
町の図書館に来るとは、少なからず奇妙である。
そこのところを突っ込んで聞くと、足を骨折していたからという返答があっ
た。大学まで二時間近く掛けて通うのは無理だが、近所の図書館なら何とか行
けるという理屈。
次に疑問だったのは、ぶっちゃけた話、年増でバツイチでこぶ二つ付きの母
さんと結婚する気になった理由だ。信夫さんの両親はどう思ってるんだ、とい
うのもある。
結婚する気になった理由は云うまでもないとあっさり片付けられ、家庭の事
情を聞かされた。信夫さんには義夫さんという“優秀な”兄がおり、露木家を
立派に継いでいるらしい。小さい頃より、兄への対抗心から両親の云うことに
いちいち反発していた信夫さんは、高校卒業を区切りに半ば勘当される形で、
家を飛び出した。成人して以降は、完全に縁の切れた状態になり、以来、自由
気ままにやっていると語った。
それならと、三つ目の疑問、これが最も切実だった。信夫さんの収入は?
「研究者を目指して院に入ったので、せいぜいアルバイトぐらいしか」
この答を聞いたとき、母さん騙されたな、と思った。しかも信夫さんの専攻
が民俗学と知って、ますます頭が痛くなった。子供が一人増えただけじゃない
のか。本当に暮らしていけるのか。小学生の寿音でさえ不安を感じ取っていた。
僕や寿音と対面してからささやかな挙式まで、信夫さんのことをつぶさに観
察していたけれども、決して悪い人ではなかった。忙しい中、アルバイトに時
間を割いて、お金を家に入れたし、母さんの家事を手伝ってもいた。車を借り
てきて、僕らをドライブに連れていってくれたこともあった。なかなか「お父
さん」とは呼べなかったが、暮らしは以前と比べて楽しくなっていた。これな
ら結婚を心から祝福できると思った。
それなのに。楽しい生活は約二ヶ月でピリオドを打たれた。
信夫さんも当然去っていくものと、僕や寿音は思っていた。
でも、いる。今も、お父さんとして、家にいる。僕らの知らない内に休学手
続きを済ませて、アルバイトに精を出している。
お母さんは死んだとき天涯孤独の身で、僕と寿音は施設に出されるところを、
信夫さんが引き続きお父さんとして育ててくれることになった。僕らにとって
ありがたかったけれど、信夫さんは多分、感傷的になっているだけだと思う。
気持ちの整理が着けば、出て行くに違いない。
「だから、お金のために書こう、なんて思うなよ」
信夫さんの言葉に、僕は回想から引き戻された。ゼリーをスプーンで口に運
び、飲み込んでから応じる。
「平日の午後、家にいる人に云われても、説得力ないんですけど」
「飯の当番の日は、なるべく空けるようにしてるんだよ。まだ慣れないからな。
あ、夜いなくてもいいのなら、これから一仕事見つけてくるぞ」
「僕はかまいませんが、寿音は大人がいないと不安がりますから」
「だよな。……どうでもいいが、周太郎。言葉遣いがやけに丁寧じゃないか」
「そうかな?」
僕は口を覆っていた。信夫さんと会ったばかりの頃を思い出していたせいか
もしれない。あの当時は本当に他人行儀だった。まだ一年と経っていないにも
関わらず、懐かしさを覚えるのは何故。
――きっと、暮らしががらりと変わってしまったから。
「おまえ自身のことだから、好きにしたらいい。ただ、拙いアドバイスを送る
とすれば、小説家になりたい気持ちが少しでもあるならチャレンジすべきだ」
大学院生に見えない大学院生は、まともな意見を吐いた。
「……お母さんが、怒らないかな」
「何を云ってるんだ?」
「受賞したせいで、事故に遭ったから。僕が小説書くのを続けたら、お母さん、
怒るか悲しむんじゃないかなって」
「莫迦なこと考えるんだな、中高生の頃って」
「莫迦かな」
「莫迦だよ」
信夫さんは振り返った。包丁を手放し、左右の手首を腰の両サイドに当てて
いる。エプロン姿が板に付いていないけれども、違和感はなくなっていた。
「周太郎」
「ん? 何、信夫さん?」
「おまえ、肉じゃがとカレー、どっちが好きだっけか」
「信夫さんの味付けならカレーだよ」
「よし。では、今夜はカレーパーティだ」
何でパーティ? ま、いいか。
僕と寿音と信夫さんの三人で囲む食卓には、まだまだぽっかりとした穴が空
いていた。決して慣れることはない、と現時点では思う。
寿音が毎週楽しみにしているアニメ番組が終わったのを頃合に、僕は昼間聞
きそびれたことを、信夫さんに尋ねた。
「信夫さんは、いつ勉強を再開するつもりなの?」
「何だ何だ、いきなり」
寿音にお代わりをよそっていた信夫さんは、お玉を鍋に激しくぶつけた。
「僕の中ではつながってるんだ。いいから、答えてよ」
「そうだなあ。おまえが高校を出るまでは、今のままで行く。寿音一人なら、
勉強しながらでも何とかなると思ってるから」
「女は男よりもお金が掛かるのよ」
皿を受け取ったついでのように、寿音がこましゃくれた調子で云った。小学
四年生にしては小柄な方だが、耳年増である。環境のせいかもしれない。
「特に私みたいなゴージャスが似合う女はね」
「意味分かって使えよ」
信夫さんは二杯目のカレーに生卵を落とした。この食べ方、寿音もするけれ
ど、僕は好きじゃない。だから僕の分は自分で卵焼きにした。
「それまで休学するの? できるの?」
「そこなんだが、特別な理由がない限り、三年近くも休学することはできない」
「え? じゃあ」
「そういう顔をするな。俺達の現状はその特別な理由に該当するはずだぜ」
ほっとした。表情に出さないように、残りのカレーをかき込む。
と、そこへ寿音が不思議そうな顔を向けてきた。何?と目で尋ねると、「ど
うしてそんなこと聞いたの?」と云う。
黙っていると、寿音は続けざまに云った。
「お兄ちゃん、小説書かないの? 少しは自分で稼げるって張り切ってたのに。
そういえば、今日、編集の人と会う日だったよね」
直感の鋭い妹を持つと、こういうときは弱ってしまう。見抜かれた僕は、カ
レー皿を空っぽにするまで、間を取った。
「お金を稼ぐのは、他のことでもできるし」
「好きなことで稼げたら、楽しいよ。私も将来、お花屋か洋菓子屋じゃなきゃ
嫌だなって思ってる」
「信夫さんは、収入は心配するなって云ってくれてるよ」
「確かに云ってる」
信夫さんはぼちぼち片付けに取り掛かろうとしている。僕も席を立った。空
いた食器から流し台に運んでいく。
「だけど、好きなことをやめろとかあきらめろとかは云ってない」
「好きだけど……嫌なんだ」
どうにもならない。理屈では割り切れても、人は複雑な感情を持つ生き物。
「あのさ」
洗い物を順にリレーしつつ、信夫さんが穏やかに口を開く。煙草を吸わない
歯は白くてきれいだ。
「俺がおまえに小説書けと云ってるように聞こえるんなら、それは違うからな。
アドバイスはできる限りする。最後は自分で判断して決めてくれってことだ」
「うん……」
俯いた僕の腰に、後ろから何かが当たった。
「ごちそうさまー。まあまあおいしかったよ、信夫サン」
寿音が重ねた食器を運んできていた。
学校にいるときも、脳裏をよぎるのはこれからの生活のことだった。
信夫さんは大丈夫だと云うけれど、暮らしが不安定なのは紛れもない事実だ。
収入面だけでなく、家族としても。
たとえば、寿音が大きくなるに従って、僕や信夫さんには分からないことが
きっとたくさん出て来る。女と男の違い。解決できるのだろうか。
それにやはり、信夫さんがいつまでも家にいて僕ら二人を世話するものだろ
うかという不安がある。二ヶ月間も保っている方が、異常というか奇跡である。
信夫さんが母さんを好きで、愛していたのは確かで、朝夕の合掌を欠かさない
し、花や水の取り替えもこまめだし、仏壇の掃除も定期的にやっている。母さ
んの写真はいつもぴかぴかなのは、多分、信夫さんが毎日磨いているから。
でも。
僕が云うのも滑稽だけれど、信夫さんは若い。将来性はよく分からないが、
外見は悪くない。むしろ、ちょっと危険な香り漂う二枚目に分類できる。口調
はぶっきらぼうだけれど、面白い話をよくする。同じ年頃のきれいな女性と親
しくなる機会はこの先、いくらでもあると思う。
そんなときが来れば、僕らは信夫さんにとって邪魔な存在になる。あの人が
家を出て行っても、僕らは文句を云えない。
……待てよ。マンションの借り主は信夫さんに書き換えたはずだから、出て
行くとしたら僕らの方かも。
とにかく、あの人が僕らの世話を放棄しても、文句云えない。籍を抜けば、
いつでも自由になれる。
そうなった場合を考えて、僕らも自立できる準備を……と考え出すと、小説
を書くという選択肢が否応なしにクローズアップされてくる訳で。
「どうしたの? 聞こえてる?」
そんな問い掛ける声がしたかと思うと、視界がぐらぐら揺れた。肩を掴まれ、
揺さぶられたからだ。
「あ。何?」
僕は座ったまま、斜め横に立つクラスメートを見上げた。今、休み時間なの
は認識していたが、この子がいつ来たのかは全然気付かなかった。
「元気ないなあ。声に張りがない」
女子だけど、同じ中学から進学したから、比較的馴れ馴れしい口を利く。
「心配してる人間が結構いるんだからさ、上っ面だけでも元気を見せてよ」
珍しい励まし方をしてくれる。「お母さんを亡くしてショックなのは分かる
けど」などと云われるよりはずっといい。
「元気は元気なんだけどね。考え事をしていたから。それで? 用事は?」
彼女は思い出した!とばかりに、大きな動作で手を一回、叩いた。
「そうそう、体育祭のこと。リレーのメンバー、熊沢君が怪我をしたから、皆
月君を出そうという話になってるの。思い切って、そのまま入れ換えて、皆月
君をアンカーに」
彼女は副委員長で、我がクラスの体育祭関係一切をとりまとめる立場にある。
「へえ、熊沢が怪我っていつ? そういえば休んでるんだっけ」
「知らない? 何で?」
「何でと云われても困る」
「……まあ、いいわ。足首捻挫。本番までに治りそうにないから、代えてくれ
って熊沢君が云ってるのよ」
「いいよ。そのための補欠メンバーなんだから」
気軽に請け負って、再び思索に入ろうとすると、「引き受けるんなら、もっ
と覇気を見せてちょうだいよ」と発破をかけられてしまった。
「はあ。できる範囲で頑張ります」
「頼りない」
どう云えばよかったのだろう。
「勝ちたいんだから、本気で、それこそ普段の一二〇パーセントの力を出すく
らいじゃないと。いい? 体育祭はクラス別対抗戦の形式で行われるのよ。一
年生で総合優勝は難しいかもしれないけれど、学年内の一位なら充分に射程範
囲内だわ。賞品は、学食のクーポン券七枚綴りを人数分。魅力的でしょうが」
ふむ。弁当持参組じゃない身故、学食クーポン券は当然欲しい。
「だったら力の限り、ううん、一五〇パーセントの力で頑張ること。いいわね」
三〇パーセント増やして、彼女はそそくさと立ち去った。
僕もあれくらい押しの強さがあれば、昨日の時点で作家生命を自ら絶ててい
たに違いない。
それはさておき、小説書きを続けるかどうかの結論は、この休み時間にも出
せなかった。恐らく、授業中にも考えてしまうだろう。
あるいは、一時でも忘れて、走る練習に打ち込んでみるのも、気分転換にな
っていいのかもしれない。
体育祭は晴天に恵まれた。雲が適度に浮かび、気温も涼しい方で、風に緑が
そよぐ。絶好の日和だった。
「高校にもなって、観に来る親は少ないんだけどな」
「いいじゃないか。気にしなさんなって」
誰から借りてきた物か、デジタルビデオカメラをこちらに向けたまま、信夫
さんは笑った。
「俺はこういうの、初めてなんだぞ。つまり、小学一年生の授業参観に臨むの
と全く同じ気分だよ。いやあ、緊張する」
「変なたとえ……」
僕は信夫さんの頭のてっぺんから足先までを眺めた。髪は、染めるのは今時
だからいいとして、全体に長い。ラフなファッションで、アメリカのカントリ
ー歌手のごとく、ブルージーンズを着こなしている。父親じゃなく、兄ならこ
れでも一向にかまわないんだけれど。
僕がそれとなく、来るのなら、せめて父親らしい格好をしてもらえないかと
いう意味の言葉を吐くと、
「昔はピアスしていたんだぜ。飛行機に乗るとき、いちいち外すのが面倒にな
ってやめた」
こんな答が返ってきたので、がっくり疲れた。
「普通の父親と違う、とか思ってるだろ」
「まあ、そんなところかな」
「云っておくと、そいつは勘違いさ。“普通の父親”なんてない。標準規格の
父親なんて物があれば、笑うだけだ。ぜーんぶ、特別。間違い探しみたいにち
ょっとずつ異なる。その一人が俺だよ。血のつながりがなくたって、父親だろ」
「……」
口をつぐんだのは、別に感動したからではなく。
僕らの前の父のことを、信夫さんは全く知らない。なのに、こんな台詞を堂
堂と云える信夫さんは、結構凄いと思う。
実際、父――六田俊英は、僕や寿音には厳しくも優しい、それこそ極当たり
前の“普通の”父親だったけれども、少なくともお母さんにとってはよい夫で
はなかったみたいだ。
当人は建築家として多忙で、夜遅い帰宅どころか帰らないことすらしばしば
あった癖に、女は家で子守をすべしという考え方の持ち主だった。働きに出る
お母さんとしょっちゅう口喧嘩していた印象が、僕の記憶に強く残っている。
父の言い分では、結婚の約束をするとき、お母さんは勤めを辞めると誓った
そうだ。それを反故にしたお母さんが悪い、という単純明快な理屈。お母さん
の主張は、きちんと家事をこなし、僕達二人の子供ちゃんと育てた上で仕事を
する分には口出ししないで、となる。
根っこの部分で意識のずれがあるから、噛み合わない。掛け違えたボタンだ。
最終的には、腕力の強い方が勝ってしまった。黙らせる、というだけの勝利。
他にも何だかんだとあったのかもしれないが、とにかく両親は別れた。僕ら
はお母さんに着いた。寿音はまだ物心着いていない頃だった。
「格好いいところが撮りたい」
信夫さんがカメラを下ろして、云った。
「その方が、大いばりでカメラを構えられる」
「分かったよ。リレー、一八〇パーセントの力で走るから」
三〇パーセント更に上乗せして大見得を切ったのが奏功したのか、リレーは
僕らのクラスが一着になった。できすぎている。
神様はいないはずだから、実力なのだろう。
ちなみに総合得点では、僕らのクラスは一年生全体の中で二位だった。クー
ポン七日分は逃したが、三日分を獲得した。これでも充分、ありがたい。
予想外の出来事は、体育祭からの帰途で起きた。
「あの女の子は、周太郎の恋人か?」
「ふあ?」
僕は嫌だと云ったのにどうしても一緒に帰ろうと拝んでくるから、渋々並ん
で歩いていると、いきなりこんなことを聞いてくる。心当たりのない僕は、素
っ頓狂な返事をしてしまった。
「誰のことを云ってるのか、分からないよ」
「リレーが終わって、退場門を出てすぐ、駆け寄ってきた子がいたろ。おとー
さんは目撃したぞ。割とボリュームある髪を括って、ボーイッシュな感じのあ
る。首から下はよく見えなかったから、分からんが」
「それ、副委員長」
「恋人は副委員長か」
「違うよ。僕がリレーに出るのって、急遽決まったのは知ってるでしょう?
勝ちたい気持ちが強い副委員長は、僕に繰り返し頑張れー、頑張れーと云って
きててさ。今日、結果を出したから、誉めてくれた訳」
「それは向こうの好意があってのことじゃないのかい?」
「違うと思うけど。こんな話、やめようよ。それより……寿音の運動会のとき
も観に行くつもり?」
僕は話題を無理矢理換えた。車道に沿った通りなら騒がしい分まだましだけ
れど、住宅街に入ってからもこの手の話題をされるのは、さすがに避けたい。
万が一、知り合いに聞かれたらと思うと、気が気でないよ。
幸いにも、信夫さんは過去に固執せず、すぐさま答えてくれた。
「勿論。おまえも行くんだろ」
「まあね」
「うまい弁当を作ってやりたいな」
体育祭のような特別な行事がある日の昼食は、高校生ぐらいになれば何とで
もなるが、小学生ではそうは行かない。学校側が求めるのは、原則的に弁当だ。
「純奈さんの、お母さんの味を出せればいいんだが……レシピか何か、ない?」
「多分ないよ。初めての料理にチャレンジするとき以外、何にも見ずに作って
いたからね。信夫さんだって、知ってるでしょ?」
「そうなんだよな。はあ、やはりオリジナルで行くしかないか」
信夫さんが両腕を大きく空に突き上げた次の瞬間、背後で車のクラクション
が穏やかになった。
はっとして振り返ると、クラクションの調子と同様、車がゆっくりと近付い
てくる。シルバーの高級車で、この辺の広くない路地には不似合いな代物だ。
じきに車は停止し、助手席側の窓が下がった。
「周太郎?」
顔を出したのは六田俊英、僕の父だった。
「やっぱり、周太郎だね?」
父は、歳を取ったことを感じさせる顔で、にこやかに笑っていた。
その目に、僕と信夫さんはどういう風に映っただろう。
日を改めて、父がマンションの部屋にやって来た。
「知らなかったとは云え、大変なときに何もしてやれず、済まなかった」
仏壇の前に正座し、目を閉じ、手を合わせたあと、父は僕と寿音に謝った。
およそ七年ぶりに会った父は、優しさが増したように見えた。
「だが、ひとときも忘れたことはなかったよ。学校でおまえを見掛けて、すぐ
に分かった。立派になったなと、涙が出そうになったよ」
僕の通う高校の建物の内、新館と体育館をデザインしたのは、父だった。全
然知らなかった。
あの日は体育祭で天気もよかったため、校舎も体育館も生徒の出入りが皆無
に近い。それを利して、メンテナンスにやって来たのだ。そして偶然にも、僕
を目に留めたというのが七年ぶりの再会を果たすきっかけ。
「寿音も随分と大きくなったな。かわいらしく育っている」
「そ、そんなこと云われると、猫を被んなきゃいけないから、やだ」
大いに照れているのが丸分かりの、真っ赤な顔で寿音はそっぽを向いた。照
れ隠しの強がりは十秒と保たずに、また父に目を向ける。
――続く