#156/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 03/06/29 22:15 (499)
六月の事件 2 永山
★内容 04/01/19 03:32 修正 第3版
「苦労を掛けた分、これからはたっぷり甘えてもらおうと思うんだが、どうか
な。周太郎、寿音?」
父の提案はいきなりだった。僕と寿音がその言葉の意味を飲み込めずにいる
と、父は次に信夫さんに顔を向けた。
「何と呼べばいいのか迷うが……」
「信夫で」
信夫さんはすかさず応じた。父は顎を二度振って、「では、信夫君」と改め
て話し始めた。
「純奈が亡くなったあとも、子供達の面倒を見てくれて、君には本当に感謝し
ている。言葉では表せないが、とりあえず、云わせてもらいたい。ありがとう」
「礼を云われるようなことではないです」
信夫さんも父との対面に、多少の緊張が現れていた。左手人差し指が、畳を
忙しなく撫でている。
「義務感からやったと云うのだね? それでもありがたいよ。こうしてすくす
くと育った我が子を目の当たりにすると。だが、君の労苦もこれまでだよ」
「持って回らず、二人に分かるように、はっきり云った方がいいと思いますが」
信夫さんが僕達を振り返った。
僕は意味が分かって、目を見開いていた。口もぽかんと開けていたかもしれ
ない。寿音の方は、まだのようだった。
「なるほど。そうすべきようだ」
父はまた一つ軽く頷くと、僕と寿音に膝を向けた。
「周太郎、寿音。これからはお父さんと暮らそう。お父さんの家で昔みたいに」
このとき、ほんの少しだけ、心に引っかかった。“昔みたいに”って、何だ
ろう……?
「お父さんの家で? 一緒に?」
寿音にも理解できたらしい。不安と期待が入り交じっているのだろう、両手
を握りしめ、膝立ちをしている。
「ああ、そうだ。私と周太郎と寿音、そして新しいお母さんとの四人暮らしだ」
「新しい、お母さんて?」
寿音の顔つきが、若干険しくなる。
僕も恐らく、暗い表情に変化していただろう。ある程度の予感はあったもの
の、父の再婚には少しばかりショックを受けた。お母さんも再婚していたけれ
ど。でも、状況が違う気がしないでもない。
父は寿音の問い掛けに、オブラートで包んだような返答をよこしたが、さす
がに寿音もごまかされない。小学四年生なんだから。
結局、父はありのままを話すことになった。
「実を云うと、今の妻は体調の問題があって、子供を産めない。だが、根っか
らの子供好きなものでね。周太郎や寿音のことを話したら、ぜひ会いたいと。
会って、一緒に暮らしたいと云っていたよ」
「ふーん……」
何て応じたらいいのか、困惑した風の寿音。父は僕を見たが、僕だってどう
答えようか、決めかねている。父と一緒に暮らしたい気持ちはある。環境の変
化、特に新しいお母さんとうまくやっていけるのかという不安。お母さんとは
また別の人をお母さんと呼ぶことの違和感。
そして、お母さんの気持ちはどうなんだろう、って。信夫さんにはまた莫迦
と云われるかもしれないけれど、一番に考えずにはいられない。
「この場で決断してくれというのも、無理があるだろうな」
物わかりがよい風に、父は笑みを浮かべた。
「どうだろう。次の休みの日にでも、私の家に来てみないか? 新しいお母さ
んとも、そのとき実際に会って、どんな感じか試してみるといい」
「……うん、そうだね」
僕はそう云ってから、信夫さんの方を振り返った。こちらが何も声にしない
内から、信夫さんは云った。
「自分達が決めることだ。決めなければいけない」
父の家は漠然と思い描いていたよりも大きく、邸宅という表現がぴたりと当
てはまった。総体に洋館の造りだが、庭に面した部屋の一部は、純和風の空間
になっていた。これらをほとんど違和感なく一つにまとめる辺り、建築家だな
あと思わされる。
「いらっしゃい。よく来てくれたわ。会えるのをとても楽しみにしていたのよ」
父の奥さんには、絵に描いた貴婦人のような第一印象を持った。背が高くて
すらっとしていて、整った顔立ちをしている。温かさはまだ会ったばかりで感
じ取れないけれども、優しい微笑みを絶やさない。
「これはお近づきの印に、私から周太郎君と寿音ちゃんへのプレゼントよ」
玄関から居間に通された直後、いきなりの贈り物だ。僕は全く予測していな
かったせいもあって、断ろうとした。が、隣では寿音が「ありがとうございま
す! わあ、何だろう」なんて歓声を上げて、早々と包み紙を剥がしに掛かっ
ている。
それを見て、一瞬、顔が熱くなった僕だが、父の「遠慮しなくていいんだよ」
という台詞を耳にして、肝が据わった。お礼を述べて、受け取った。
「気に入ってもらえると嬉しいのだけれど、どうかしら」
これは、「すぐにここで開けて感想を聞かせて」と同義語だと解釈できた。
僕も妹に倣って、包みを開けた。
出て来たのは模型機関車。サイズは普通だが、高価そうな精密さを誇ってい
るようだ。
「これ……」
僕は父と奥さんに公平に目線を配った。口を開いたのは父。ソファに深く腰
掛け、片手で空のパイプを弄びながら云う。
「私から云っておいたんだよ。周太郎は小さい頃、機関車が好きだったんだと」
「道理で」
僕は少しだけ笑っていた。確かに、小学生くらいまでは機関車が好きで、買
ってもらう玩具もその手の物が多かった。ただ、現在の興味はさほどでもない。
当然だけれども、父の思い出は、僕が小学四年生の辺りで止まっている。
「素敵、かわいい!」
不意に上がった歓声は、勿論寿音のもの。妹は凝った刺繍が胸元にある、ブ
ルーのドレスを手にしていた。なるほど、まだ小さかった寿音の好きな物は分
からないから、当たり障りのない服でお茶を濁した……なんて捉え方はひねく
れているか。
「サイズが合えばいいのだけれど。寿音ちゃん、着てみる?」
はしゃぎ気味にお礼を云う寿音を促し、別の部屋に連れて行く奥さん。父は
立ち上がって、「それじゃお茶を入れるのは私の役目だな」と苦笑混じりにつ
ぶやくと、キッチンがあるらしい方向に歩を進める。
「厨房に入るようになったの?」
脳裏に浮かんだことが、ほとんど無意識で口を衝いて出た。あの父が台所に
立つなんて、意外中の意外だからだ。
「うむ、まあな。お茶ぐらいは」
父の手際は決してよくなかったが、出て来た紅茶はちゃんとそれらしい色を
していたし、それらしい香りも漂ってきた。
いい服に着替えてご機嫌だが少し落ち着かない雰囲気の寿音と一緒に、おや
つをもらった。ケーキやシュークリーム、エクレア、ドーナツにクッキーと盛
り沢山だったので驚いたが、全部奥さんの手作りだと聞いてもう一度驚いた。
お母さんも作ってくれたことはあったけれど、たまにだったし、これほどバラ
エティに富んではいなかった。味は、お母さんの作った方が上の気がするけれ
ども、記憶にある味と比べるのは不公平かもしれない。
「今度、運動会があるんだって、寿音? ぜひ応援に行きたいな」
「嬉しいけど、お父さん、忙しい人だって聞いたわ」
僕に比べると父との思い出が少ない寿音は、伝聞形で疑問を呈した。
「おまえ達のためなら、何とかするさ」
昔よく耳にしたフレーズ。半分以上は裏切られてきたけれど、埋め合わせも
してくれた。今、寿音は無邪気に万歳している。この笑顔を当日になって曇ら
せないよう、父は約束を違えないでほしい。
「私も行くわ。お弁当をいっぱい作ってね。寿音ちゃん、それに周太郎君、好
きなおかずって何?」
奥さんの言葉で、僕は不意に思い出した。
「あの、運動会の弁当は、信夫さんが作るって云ってたんですが」
「信夫さんて? ああ、あなた達の面倒を今見ている方ね」
奥さんは父に振り返った。父が話を受け継ぐ形になる。
「信夫君と相談はしたかい?」
「相談はしたけれども……自分達で考えて判断しろって云うだけで」
「なるほどね。そんな感じじゃないかと想像していたよ」
笑みを浮かべ、顎を何度かさする父。分かったような口ぶりだった。
「彼はよくやってくれたと思うが、そろそろ限界が来てるんじゃないだろうか」
「限界?」
寿音が不可解を態度で表したみたいに、首を傾げた。
「あの若さで定職も持たず、子供二人を養うのは、たとえ数ヶ月でも大変だ。
元来、研究者を目指して大学院で勉強をしているところだった、つまり目標の
途中で立ち止まっている。一刻も早く、再スタートを切りたいに違いない」
「最初は私もお兄ちゃんもそう思っていたけれど、信夫さんは全然気にしてな
いみたいだったよ」
寿音が真っ向から反論したのには、少なからず驚いた。僕よりは寿音の方が、
父との暮らしをより強く願っていると思っていたのだが。
対する父は、別段、慌てた様子もなく、悠然と応える。
「寿音には分かりにくいかもしれないが、普通の人間なら、子供に心配かけま
いとして、口ではそう云うものさ。それにやはり、純奈に対する義理立ての気
持ちが強いんだろう。そういう感情は徐々に薄れてきて、疲れてきて、恐らく
現在は投げ出そうかどうしようか、葛藤してるんじゃないかと思う」
「お父さん、もう少し分かり易く云ってやってよ。寿音は小学生なんだから」
「そうだったな。つい」
父が云い直し、寿音も理解できたようだ。
「信夫さん、疲れてるのかなあ」
「うん。これは寿音達が聞いても、彼は本心を云わないだろうがね。たとえ、
信夫君がまだおまえ達を養うことにやる気満々でも、子供は本当の親と一緒に
暮らすのが普通だと、私は思う。寿音や周太郎はそう思わないかい?」
僕も寿音も、即座には返事できなかった。お母さんが死んだ直後に、父が現
れてこう云ってきたら、一も二もなく父のところに行っただろう。でも、この
二ヶ月ほどの間、信夫さんの本気を見てきたから。
「私も同じ考えよ。そう願っているからだけじゃなく、世の中の常識に照らし
合わせて、私達とあなた達が一緒に暮らすのが一番いいと思うの」
奥さんは相変わらずにこにこしている。怒ったところを想像できない。同じ
屋根の下で生活を始めれば、否応なしに目にすることになるだろうけど……一
緒に暮らすかどうかとは別に、人の怒った顔なんて見たくはない。
「今すぐに結論を出してくれとは云わないよ、勿論」
父がソファに座り直した。
「家の雰囲気を知ってもらうために、今日、おまえ達を招いたんだしね」
「それじゃあ……」
僕は寿音と顔を見合わせ、互いに頷いた。そして再度、父達に向き直った。
「暫く考えさせてください」
小説書きに続いて、これも先延ばし。こういうことじゃいけないよなと思う
ものの、どうしようもない。
「いいとも。――おまえも待てるだろ?」
「勿論よ。よい返事が聞けることを信じてる」
父と父の奥さんは、にこやかに、心の余裕を示した。
プレゼントの他、食べきれなかった分のお菓子をお土産に持って、マンショ
ンに帰ると、信夫さんはいなかった。カレンダーを見て、アルバイトに出掛け
たのだと分かり、何故かほっとする。信夫さんの持ち物がちゃんとあるのだか
ら、信夫さんが出て行ったのではないことくらい、分かっていたのに。
「今日は遅くなるみたいだ。夕飯、待たなくていいとメモしてある」
食事を作るのは、常に信夫さんという訳ではない。今日は僕らの当番だ。ま
だ早いが、そわそわして落ち着かないので、二人で食事の準備に取り掛かった。
「お兄ちゃん。どうしよう?」
とうに着替えた寿音は、腕捲くりをして米を洗い始めた。ドレスは部屋の小
さな箪笥に仕舞い込んでいた。大事にしたい気持ちの表れなのか、信夫さんの
目に着かないようにしたいのか、どっちなんだろう。
「どうしようか……」
僕は下ごしらえに野菜を切りながら答えた。
「とりあえず、今の気持ちでは、寿音はどうしたい?」
「……先にお兄ちゃんが答えて」
「ずるくないか、それ?」
「だって、決められないんだもん」
米を研ぐ音が激しくなる。次いで、水を流す勢いもいつもより激しいようだ。
「僕も同じだ。決めかねている。ただ、あの奥さん……睦美さんは悪い人じゃ
ないみたいだったな」
「うん。優しいね。プレゼントくれたし、お菓子いっぱい作るし」
この辺りは寿音もまだ歳相応だなと、僕は苦笑した。今日の奥さんの態度を
そのまま受け取るのはどうかと思わないでもない。でも、疑い出したらきりが
ないから、やめておく。
「あの人がお母さんになって、いいか?」
「……お母さんと呼べるようになるのは、だいぶ先になると思うけど。ただ、
お父さんとあの人となら……何て云うんだろー……」
米を研ぐ途中なのに、寿音は上目遣いになって、人差し指を顎の縁に当てて
思案する。
「うーん、ドラマで見るような家族になれると思う」
「絵に描いたような、ってことか。なるほど」
妹の見方に賛成できた。いかにも幸せそうな家族、家庭を築けそう。
けれど、今が幸せじゃないということでもない。確かに辛い思い出が頭上に
立ちこめる雰囲気があるが、それは向こうの家に行っても付いてくる。お母さ
んを忘れられるはずない。
「じゃあ、信夫さんをどう思ってる?」
「今度こそ、お兄ちゃんから答えてよ」
米を洗い終わって、電気釜にセットする。僕は鍋に刻んだ大根と椎茸を入れ、
水で満たした。コンロに載せるが、火はまだ点けない。
「……お母さんのこと、本当に好きだったんだなあって思うよ」
「それはそうだけど、今考えてることとずれてない? 親として信夫さんをど
う思うか、でしょっ?」
「うん。普通の親じゃないけど、普通でなくていいんだって、本人が云ったん
だよなあ」
「最初は私も、信夫さんのこと嫌いだったよ。よその家と比べて、違ってたか
ら。若すぎるし、髪の色しょっちゅう変えるし、まともに働いてなかったし。
普通じゃないと思ってた」
過去形で語るからには、寿音も分かっている。
普通である必要はない。普通の父親とか普通の家庭、家族とかは、あんまり
意味がない。家族として暮らしていくことに支障がなければ、いやたとえあっ
たとしても、当人達がお互いを家族と認めていれば、多分、それでいいんじゃ
ないだろうか。
「両方を行き来できたらいいのにね」
寿音の希望ももっともだ。それができれば気が楽だな。だめで元々、父や信
夫さんそれぞれに尋ねてみようかなと思う。
夜、信夫さんが帰って来たのは、僕らが夕飯の後片付けを終えた直後だった。
「相変わらず、煮付けはうまいな」
疲労を隠し、世辞を交えながら舌鼓を打つ信夫さんに、僕はまず今日あった
ことを伝えた。
「ふうん。よかったみたいじゃないか」
最初にそれだけ云って、珍しくアルコール飲料を所望した。僕は席を立って、
冷蔵庫から三五〇ミリリットル缶の発砲酒を取り出し、グラスとともにテーブ
ルに置いた。信夫さんは恐らく五割ぐらいを一気に飲んだ。
「それで、結論は」
「まだだよ」
「うん、まだ」
僕、寿音の順で答える。すると信夫さんは一瞬、鼻息を荒くした。おかずを
肴代わりに、発砲酒をまた一口。
「会って、感じがよかったのに決めかねているのは何でだ?」
「それは……」
改めて問われると、理由は漠然としており、答えにくい。
「もしや、俺に気を遣ってるんじゃあるまいな」
「……それに近いかも」
兄妹で揃って頷くと、信夫さんは眉間に皺を作った。深いのが二本、くっき
りと刻まれる。
「何を莫迦な。俺なんかに気を遣っても、全然いいことないぞ」
「気を遣ってるというのとはちょっと違って、僕らは信夫さんも好きなんだ」
いいタイミングだと思ったので、僕は一気に喋ることにした。
「できれば、僕も寿音も、ここと向こうの家とを行き来したい。だめかな?」
「だめも何も……」
戸惑いを露にした信夫さんは、空のコップを所在なげに宙で揺らしながら、
答を探す風に瞬きを繰り返した。
「向こうは? 親父さんは何と云ってるんだい?」
「まだ話していない。今日会ったばかりで、いきなりそんな話はできないよ」
「何だ、そうなのか。そりゃそうだよな」
信夫さんはお酒を片付け、再び御飯に取り掛かった。
「おまえ達の願いも分かるけど、きっとお父さんは嫌がるんじゃないか。差詰
め俺なんか、純奈さんとつながりがあるだけの馬の骨に映ってるさ」
「お父さんは信夫さんのこと、感謝していたよ」
寿音が不満げに口を挟むが、相手にされない。
「俺の歳で教訓めいたこと吐くのはつまんないが、敢えて云う。二者択一を迫
られたとき、両方を満たそうと努力することは必要だが、どうしても選ばなけ
ればならない場面だってあるんだ。今が周太郎達にとってその場面」
信夫さんは僕らを指差した。顔は赤みを帯びているのに、酔いは大したこと
ないらしい。
「特に周太郎。小説書きもそうだけど、こういうことは自分の損得や好き嫌い
を一番に考えていいんだよ。無論、周りのことも考えなければならないけどさ。
後悔のないようにしなきゃな」
「……」
「まあ、しばらく考える時間があるんなら、じっくり考えればいい。二人でよ
く相談してな。あ、こんなことはないと思うが、もしも兄妹で意見がどうして
も合わないなら、俺なり、親父さんなりにきちんと話すんだ」
「……分かった」
僕は、もう一本飲む?と聞いた。返事は否だった。
寿音の運動会の前々日、僕は下校の途中で小学校に寄り、練習で帰りの遅い
妹を伴って、そのまま父の家にやって来た。父の家で夕食を御馳走になる約束
があったのだ。一旦マンションに戻るよりも、この方が時間を節約できる。
ただし、食事の席は父抜きだった。
「おいしい?」
「はい、とてもおいしいです」
奥さんの話に、僕らは硬い返事をすることが多かった。硬い口調に硬い表情。
意識して猫を被ってしまう。
「いよいよ明後日ね、運動会」
「はい」
「お父さんもちゃんと休みが取れたから、楽しみにしてて」
今夜帰りが遅いのは、明後日を休みにするため、ではないそうだ。いつもこ
んな感じらしい。
「あの」
僕は気詰まりを感じながらも、聞いてみることにした。寂しくないですか?
「今はあなた達がいてくれて、とても賑やかよ」
「普段はどうなんでしょう?」
「それは勿論、少しは寂しい思いをすることもあるわ。だけれど、あの人――
お父さんは、家庭のことを思って一生懸命働いてくれてると分かってるから。
私も一生懸命、家庭を守らないとね。これからは二人じゃなくて、四人になる
でしょうから、今以上に頑張らないといけない」
微笑む奥さん。どことなく押し付けがましい感じはあるけれど、悪い人じゃ
ない。慣れればきっとぎこちなさはなくなる。
玄関でチャイムの音がした。
「あら、噂をすればだわ、きっと」
父が帰って来た。奥さんが出迎える。父は奥さんにスーツの上を預け、どこ
かで着替えてまた出て来た。テーブルには、父の分の食事、いやお酒と肴が並
べられる。昔何度か見た光景。
ただ、奥さんがいて、お母さんがいない。それだけの違い。
「どうだろう。少しは打ち解けられたか?」
父は僕らを見て、元気よく云った。奥さんが「私の方は、全然問題なくて、
かえって馴れ馴れしくしすぎちゃったみたい」なんて答える。馴れ馴れしいの
は別にいいんだけれど、同時にお客様扱いもされているのが、僕らはむず痒か
った。今も僕らは食器の片付けを手伝おうとしたのだけれど、いいのよと座ら
された。好意的に解釈すれば、父親との会話の機会を設けてくれたとも取れる。
「ねえ、お父さん」
椅子の上で足をぶらぶらさせていた寿音が、不意に口を開いた。
「もし、お父さんと睦美さんの間に赤ちゃんがいたら、私達と一緒に暮らそう
って思った?」
僕は隣でひやりとした。こんな際どい質問を寿音がするなんて思いも寄らな
かったのもあるし、僕自身、このことを無意識の内に避けていた気がするから。
父も奥さんも、虚を突かれたみたいにしばし無言だった。空気が凍ったみた
いな緊張感。寿音は感じ取っているのかどうか……。
だが、張り詰めた空気はじきに解けた。父が無理矢理に解いた。
「莫迦だなあ。決まってるじゃないか。寿音も、周太郎も、私の子なんだ。純
奈が亡くなった今、私が引き取って育てるのは当然じゃないか」
「……」
寿音は、不思議そうな目で、父を見た。それから視線を奥さんに移す。
「睦美さんも?」
「え、ええ。俊英さんの子供は、私の子供も同然よ」
父に比べると、表情はまだ硬い。子供のこととなると、男性よりも女性の方
が、感情を揺さぶられるものなのかもしれない。
父がまとめるみたいに云った。
「四人で暮らすようになれば、新しい家族になる。これまでよりもっと幸せに
なれるさ」
父や奥さんにとっての幸せは、僕らにとっても幸せなんだろうか。
――帰りは奥さんの運転で、送ってもらった。運動会の日のことを約束して、
マンションの下で別れた。車が見えなくなるまでいて、きびすを返して建物に
入る。妹の背にはランドセル、僕の片手には学生鞄。宿題を片付けねば。
会話もなく、無言で部屋の前までたどり着いた。明かりがこぼれているのを
見て、何だかほっとする。兄妹で顔を見合わせ、少し笑った。
と、そのとき、玄関のドアが薄く開いているのに気付いた。話し声がする。
信夫さんともう一人、若い女性の声だった。
「とにかく、帰ってくれ。子供達が戻ってくる」
「連れない云い方をしないで。住所を教えてくれたのは、来いという意味ね?」
「違う。聞いてなかったのか? 研究室に俺宛の郵便物が来ると聞いて、こっ
ちに回してもらおうと思った。それだけだ」
「よりを戻してくれと云いにくいからって、ごまかさなくてもいいのよ」
「ごまかす必要なんてあるか」
「照れ隠ししちゃって。どうせ戻って来るんでしょう?」
「戻る気は確かにあるが、今は――」
会話はそれ以上聞こえなくなった。というのも、呆然として聞いていた僕の
横で、寿音が突然声を上げて泣いたから。僕が止める間もなく、寿音は駆け出
し、今来た道を引き返していく。ランドセルの中で、筆箱か何かがかちゃかち
ゃと音を立てている。
出遅れた僕は、後ろでドアの開く気配を感じたが、急いで追い掛ける。学生
鞄が邪魔だったが、放り出す訳にも行かない。
「周太郎っ?」
信夫さんのものらしき声に呼ばれたが、足は止まらなかった。
寿音にエレベーターを使われ、僕は階段を駆け下りる羽目になったが、高校
生男子と小学生女子の差か、出遅れはどうにか取り戻せた。マンションを出て、
少し行った歩道で掴まえることができた。
でも、掴まえることと連れて帰ることは、全くの別物。腕を引いても、その
場で足を突っ張って動こうとしない。引きずるなり、抱えるなりすれば容易に
運べるけど、それはしたくない。
「寿音。急に飛び出すからびっくりした。こっちは全力疾走して、疲れたよ。
ま、リレーをやったばかりだから大丈夫だけどさ。一体全体、どうしたんだ?」
僕は腕を放し、まだ「えぐ、えぐ」と泣き止まない妹に聞いた。
「だって、だって……」
まともに喋れるようになるまで、暫く待たねばならなかった。
「女の人、来てて、変な話して。私達が帰って来るから、急いで追い出そうと」
「そう聞こえたけど」
「それに、戻る気、あるって、云ってた」
「……」
「私、マンションに帰りたくない」
「え?」
「今夜はお父さんのとこに泊まる。電話すれば、きっとオーケーしてくれるわ」
「明日の学校は……」
疑問を口にした僕の目に、赤いランドセルが映る。いや、しかし、今日と明
日では授業が違うはずだ。
「運動会の準備で、授業ないの!」
「あ、そうか。でも、僕は帰らないと行けない。教科書とかノートとか」
「取って来ればいいよ。さっと行って、さっと戻って。私一人より、二人で泊
まる方が、お父さん達も喜ぶ」
明らかに寿音のわがままだが、無碍に却下するのも気が引ける。現時点の精
神状態を考えると、ここはなるべく希望をかなえてやるべきだろう。
「それじゃ、電話するよ」
携帯電話を持っていない僕は、公衆電話を見つけた。三十秒ほど沈思黙考し、
先に父の家にかける。“寿音が信夫さんと気まずくなって、戻りたくないって。
お父さんのところに泊めてもらえない?”という風に事情を簡単に伝えると、
父は二つ返事で承知してくれた。再び奥さんが迎えに来てくれると云う。
僕は礼を述べて、一旦電話を切った。次に信夫さんだが……教科書等を取り
に戻ることを思うと、直接行かざるを得ない。電話はやめた。
僕はマンション下まで戻ると、寿音をロビーで待たせて、部屋に急いだ。あ
の女の人がいると話が長引く予感があったが、幸い、もう帰ったようだった。
が、信夫さんの姿もない。電気が点けっ放しなので、女の人を送ったのではな
く、寿音や僕を捜しに降りたのだろうか。ロビーにはいなかったから、すでに
外に出た可能性が高い。
信夫さんは携帯電話を持っているはず。結局、家の電話でかけることになっ
てしまった。
「もしもし。信夫さんですね? はい、家に戻りました。はい。ショックを受
けたみたいで。説明ですか? いや、今は寿音のやつ、興奮しててだめだと思
います。それで、父の家に泊まりたいと云い出して」
現状を詳しく説明し、僕は信夫さんから外泊の許しを得た。着替えを持って
いくかとまで云われた。
父と奥さんの用意してくれた部屋は広すぎて、落ち着けなかった。まだ家に
慣れていないのと、これまで二人相部屋だったのが個室になったこと、それに
今日の信夫さんのことが頭にあったせいだろう。
十一時過ぎ。宿題を終えた僕は、心配になって寿音の部屋を訪れた。
「寿音、起きているか?」
「お兄ちゃん? いいよー、入って来て」
多少かすれた声で応答があって、ドアが開く。いかにも女の子らしい、華や
かに飾られた部屋の有様が目に飛び込んできた。奥さんの考えでしたのか、基
本的に赤とピンク色が多く使われており、勉強机やベッドの枕元、箪笥、本棚
の上といったところにぬいぐるみがやたらと置いてあった。
「すっかり、出迎え準備できましたって感じの部屋だなあ」
「う、うん。むずむずするけどね」
「気分の方は、落ち着いた?」
「まあ、何とか」
ベッドの縁に腰掛け、はあ、と大きなため息をつく寿音。
「信夫さん、怒ってた?」
「いいや。心配してたよ、寿音を不安にさせてしまって、すまないとも」
「そうじゃなくて。私がこっちの家に泊まりたいって云ったことだよ」
「怒ってない。そちらの方が安心できるのなら、それでいいって」
「……厄介払いできた、とか思ってるのかな」
黒い熊のぬいぐるみを抱き寄せ、胸元で抱える寿音。僕はいくらか逡巡した
後、「さっきの女の人のことだけど」と話し始めた。
「もしかすると、勘違いしたかもしれないよ」
「勘違い? そうかなあ」
「研究室と云っていたから、あの女性は大学で信夫さんの同僚だった人だと思
うんだ。昔、付き合いがあったのかどうかは分からないけれど、少なくともお
母さんと信夫さんが付き合い始めた頃には、とっくに別れてたんじゃないかな。
お母さんが死んで、一人になった信夫さんが戻ってくることを期待していた女
の人だけど、信夫さんの休学で当てが外れた。でも住所が分かったので、押し
掛けた。それだけなのかもしれないよ。信夫さんは明らかに迷惑がっていた」
「け、けど。それは私達が戻ってくるとまずいと考えて、早く女の人を追い返
したかっただけという風にも……」
「うん。信夫さんに聞いてないから、何とも云えない。ただ、あの会話の最後
の方で、戻る気があると云ってただろ?」
僕の問い掛けに、寿音は抱いた熊と一緒になって頷く。黙っていられないら
しく、「あれこそ、女の人と復縁しようとしてる証拠っ」と高い声で云った。
「そうじゃなくてさ。あれは、大学に戻る気がある、だと思う」
「あ……そうか」
あっさり合点した様子で、口をぽかんと開ける寿音。僕も妹を笑えない。ひ
とときではあるが、僕も同じように思い込んでいたのだから。
「早とちりだったのかなあ……。悪いことしちゃった」
肩を落とす寿音に、僕は「電話しようと思う」と告げた。
「今さら、やっぱり帰りますとも云えないし、せめて電話で信夫さんと話して
おくのがいいんじゃないかってね。寿音はどうする?」
「……私も」
ベッドのスプリング以上の勢いで、寿音は立ち上がった。二人で部屋を出る。
まだ他人の家という感覚が抜けないので、静かにドアを開け、足音もなるべ
く立てないように階段を降りた。電話は一階だけでなく、二階にもあるかもし
れないけれど、勝手に使う訳にもいくまい。階下にいる父か奥さんから許可を
もらわなくては。
リビング横の廊下をそろそろと歩いていると、父達の話し声が仄かに聞こえ
てきた。僕らが来たことを知らせるべく、物音を立てようかと思ったが、会話
の調子がどことなく秘密めいていたので、つい聞き耳を立ててしまった。
「念を入れて、調べておいた方が君も安心だろ」
「ええ。やはりあなたの血が流れているかいないかで、気持ちも変わってくる
わ。それで、どんな風にして確かめるの?」
「病院で検査したいが、周太郎は勘が鋭いし、知識もあるようだからな。探偵
に、当時の純奈の男関係を調べさせる。そうすれば大凡の見当はつくさ」
「本当にその頃、前の奥さんと交渉なかったのなら、調べるまでもないのに」
「いや、それが一回だけな……。仲は冷えててもね、男女のあれは一筋縄では」
「まったく」
僕には確かに知識がある。だから、分かってしまった。見下ろすと、寿音は
まだ半分も理解できていないようだ。ただ、自分達にとってよくない話をして
いることは気配で感じたのか、唇を噛んで黙り込んでいる。僕らはアイコンタ
クトをして、来たときと同じく、静かに立ち去り、部屋に戻った。
翌朝。僕らは六時半に父の家を出た。こんなに早く出なければいけないのか
と訝る父達には、家に忘れ物があると言い訳した。ならば送ろうと云うのを頑
固に断って、僕らはマンションまで急いだ。自分の足だけでは大変なので、途
中でタクシーを利用したけれど、この料金を使うだけの価値は間違いなくある。
「信夫さん!」
呼び鈴の反応を待つのももどかしく、マンションの部屋のドアを叩く。やが
て寝ぼけ眼で髪の跳ね上がった僕らのお父さんが姿を見せた。
「ただいま」
意外そうな顔は一瞬だけで、僕らを迎えてくれた。
「おや。お帰り。早いな。朝飯の準備はまだだぞ」
「ごめん。朝御飯だけは断れなかったんだ」
「……そうか。まあ、靴を脱げって」
促した信夫さんの腰の辺りに、寿音が飛び付いた。「ごめんね!」と何度も
繰り返す。信夫さんの困惑した顔が、僕にはおかしかった。
それから、信夫さんの朝食に付き合いながら、昨夜からの出来事を話した。
「親父さんの気持ちも分からなくはないが、こそこそ調べるのはちょっとな」
感想は不愉快そうな口調でこれだけ。充分だ。
「それより、信夫さん。以前、こういうことなら自分の損得とか好き嫌いを優
先していいと云ったでしょう?」
「ああ。云ったな」
「だったら、信夫さんはどうして、僕らの面倒を見てるの?」
信夫さんの食事の手が止まる。僕らはじっと見つめた。
「それは、だな。俺がおまえ達を好きだからだ」
……五秒ほどが経つ間に、僕らは全員、赤面した。
「それに、純奈さんが最期に云ったんだ。二人のことをお願いって。愛した人
の最後のお願い、必ずかなえたいもんだろ」
「本当にお母さん、云ったの……?」
病院に担ぎ込まれたところへ、僕らが駆け付け、逝ってしまうまでの間、お
母さんは意識を回復しなかったはず。
しかし、信夫さんは力強く云い切った。
「云った。純奈さんを見ていたら、聞こえてきたのさ。絶対に間違いない」
それなら……僕らも聞こえたかもしれない。
後日談になるけれども、小説書きがどうなったかについて。
僕は書かせてもらうことにした。ただし、ファンタジーではなく、家族の物
語を書きたいと主張したので、少なからず揉めている。頑張ろう。
――終