AWC そばにいるだけで 60−3   寺嶋公香


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#90/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  02/06/29  23:15  (388)
そばにいるだけで 60−3   寺嶋公香
★内容                                         16/06/15 01:46 修正 第2版
 バレンタインデーまであと二日と迫った金曜日に、一足早く行動を起こした
者がいた。
「はい、これ」
 放課後、仕事があるという純子を先に見送って一人になった相羽の前に、思
い切り豪華な装飾の箱が差し出された。平べったく、楕円形をしたその箱は、
まず間違いなく中にチョコレートを抱えている。
「相羽君、プレゼントよ。受け取って」
 駅までの道すがら、相羽の横に並んでゆっくり歩く白沼。相羽のいる側から
見ると、ちょうど逆光になって、彼女の表情は判然としない。
「あの。白沼さん」
 相羽は努めて冷静な口ぶりで応じる。だが、彼が台詞を次ぐ前に、白沼は予
定通りとでも言いたげに、先手を打った。
「受け取れない?」
 首肯する相羽。
「だいぶ前から、そういう主義だったものね。それに、今年は去年までとは事
情が違う、ていうところかしら」
 自分と純子とが付き合うようになったことは言い触らしてはいないが、確か
白沼には伝わっていたはず。どうやら勘違いではなかったらしい。
「知っているんだったら、僕から言うことは特にないよ。白沼さん自身が考え
てくれたらいいことだから」
「考えて出した結論が、これなのよ」
 箱をかすかに振る白沼。往来を進みながらこんなことをされては、見る人に
よっては誤解するかもしれない。バレンタインデーのプレゼントをあげている
のだと。土曜日曜と休みなだけに、学校でも今日の内に渡す者が大勢いた。
「どうしてそうなるのかな」
「バレンタインに受け取ることは無理だとしても、今日ならいいはずよ。今日
なら、プレゼントに特別な意味はないんだからね」
「……それを口にしたら、意味があるってことになってしまう」
「固いこと言わずに、もらってよ。折角用意したんだし、恥をかかせないでほ
しいわ」
 他人の目があるところでこんなやり取りをするだけで、充分恥ずかしいと思
わないでもない。
「白沼さん。何と言われても、受け取れないよ」
「義理チョコ、って言っても?」
 相羽は再びうなずいた。よほど、「好きな相手を不安にさせたくないから」
と付け加えようかと考えたが、やはり口にしづらい。
 ところが。
 当の白沼がしばらくの沈黙の後、相羽の気持ちを察するかのように言い出し
たのだ。
「これを受け取ったことを涼原さんが知ったら、悲しむからね?」
「……そうだね。涼原さんは僕を信じてくれている。でも、とてもやきもち焼
きみたいなんだ」
「なあに、それ。食い違ってるんじゃないの? 相羽君らしくないわね。恋は
盲目ってやつかしら」
「うん、矛盾してるけど。僕の気持ちも同じなんだ。人を好きになるっていう
のは、理屈で割り切れるような感情じゃないと思う」
「――」
 白沼は手提げ袋の中に、箱を仕舞った。
 辛口批評めいた言葉を吐かれるかなと覚悟していた相羽は、幾分拍子抜けし
たが、反面、安堵もする。
 歩みを速めた白沼は、横顔を見せた。やけにさっぱりしている風なのは、気
のせいか。
「ゆるがせにしないでね」
「え?」
「今の気持ち、ゆるがせにしないでよ。あとになって、あなたと涼原さんが別
れた、なーんてことになったら、私、悔やんでも悔やみきれない」
「それって――」
「完全にあきらめるわけじゃないですからね」
 突然立ち止まった白沼は意地悪げな微笑を満面に広げると、ウィンクをした。
相羽も思わず、足を止める。
「万が一、あなた達の間に隙間ができたら、いつでも割り込むつもりでいるか
ら、せいぜい、仲のいいところを私に見せつけてよ」
 これには応えようがなかった。相羽が黙り込み、所在なく片手で前髪をかき
上げると、白沼は背を向け、話を続けた。
「本当言うと、もしも相羽君がこれを受け取ったら」
 袋を肘の高さで掲げる白沼。
「つけ込もうと考えていたわ。相羽君て、誰にでも優しいでしょ。相手の気持
ちを考えて、受け取ってしまうようなところがあった。ちゃんと彼女を作った
ことで安心して、以前のように誰のプレゼントでも受け取るようになったとし
たら、まだ望みが残っているかなってね。ごめんなさいね、試すような真似を
して」
 そこまで話した白沼の手が、顔の上半分辺りに行く。ものの三秒程度で、ま
た下ろされた。改めて振り返る彼女は、さっきと変わらない笑みを浮かべてい
た。
 やっと歩行をリスタートさせ、二人は駅に向かい始めた。
「ああ、このチョコレート、どうしようかしら。自分で片付けるとしたら、こ
れだけの量だもの、太っちゃうかもしれない。もし太ったら、相羽君の責任よ」
「好きな相手に食べさせるつもりだったんでしょ? 相手は太ってしまっても
よかったのかな」
「ふふ、なるほどね。そう来ましたか」
 さばさばした口調の白沼。最前まで表情に硬さがあったが、今は目を細め、
どことなく嬉しそうになっていた。

           *           *

 二月十三日。
 相羽の母に連れられ、本日の仕事場であるスタジオにやって来た純子は、朝
からチョコに悩まされることになった。
「ねえ、義理チョコすらないのかなー?」
「あれ? 純子ちゃんはチョコ、くれないの?」
 出会う男性スタッフの七割が、挨拶代わりのごとくチョコを求めてくる。純
子が内心しまったと後悔しつつ、「すみません。用意してないんです」と生真
面目に答えると、上記のような反応があるのだ。ほとんどが若い、独身男性だ
から、その気持ちも分からないでもない。ただ、中には奥さんも子供もいる中
年に差し掛かった人からまで、「風谷美羽のチョコがもらえたら、家宝にして
飾っとくんだが」と、冗談とも本気ともつかない調子で言う始末。
 おかげでみんなと会話するきっかけができて、募金をお願いする機会を持て
田のはよかったけれども……仕事に取り掛かるまでに、相当疲れてしまった。
「円滑に進めようと思ったら、義理チョコを用意しておくことね」
 ヘアメイクをしてもらっているとき、メイクさん――女性である――が言い
出した。当然、いい年をした大人の男達が、純子にチョコを求める様を目撃し
ていたに違いない。
「一個十円か二十円の安い、ちっちゃなチョコでいいのよ。袋に入ったキャン
ディーでも間に合うわね」
「皆さん、そうするものなんですか」
「そういう訳じゃないけれど。まあ、あなたが男達に配ってくれたら、私達が
やる必要なくなるからね。あはは」
「……来年からそうします」
「それはあなたの自由だからいいけれど、問題は、芸能関係でしょうね」
「と言いますと」
 鏡を通じて、メイクさんに目を向ける純子。相手もまた、鏡を介して微笑ん
できた。「他に人はいないわね」と周囲を見渡し、それでもなお秘密めかした
小声で続けた。
「久住淳なら、さぞかしもてるだろうからねえ。今までだって、山ほどチョコ
が集まったでしょう?」
「え。ええ、まあ」
 人気があるのは嬉しいし、心強くもある(ルークを支えるという意味で)。
だけど、ファンの人達をだましている気がして、喜んでばかりもいられない。
実際、去年贈られたチョコレートを見て、忸怩たる思いがしたものだ。
 今年もすでにいくつか事務所に届いているそうだ。同じ気分を味わわねばな
らない。
 以前なら、早く本当のことを公表したい気持ちでいっぱいだったが、今は多
少変化した。
 早く久住淳を引退させられないかな、と。
「ついでにもう一つ、興味があるんだけど、いいかしら?」
 仕事のスケジュールに余裕があると分かっているからか、メイクさんが珍し
くミーハーぶりを発揮し、目を輝かせている。純子は、はあ、とうなずいた。
「女の子のあなたは、誰にチョコをあげるの? 相手、いる?」
「――」
 虚を突かれた心持ちだったが、即座に立て直す。純子は鏡を通して、相手に
答えた。
「いますよ、もちろん」
「へえ? もしかしたら大スクープが聞けるのかしら。わくわく」
 冗談ぽく、言葉で感情を表現するメイクさん。純子は笑みを絶やさず、続け
た。
「好きな人にあげるんです」

 メイクさんの攻勢はかわしたものの、おかげで頭の中はバレンタインデーの
ことでいっぱいになってしまった。折角、頭を仕事モードに切り換えて現場入
りしたというのに、無駄になった。
「左手を上げて、髪を梳く感じで」
 それだけですめばまだよかったのだが、影響が仕事そのものに及んだのには、
参った。
「違う違う。それ、右だよ」
 相羽に何をあげようかに思考が走り、仕事への集中力を欠く。
「今度は仰向けになって、足を組む。目線はこっち」
 集中力を欠くと、いい表情が作れず、求められたポーズにも応えられない。
「おーい、俯せになってどうするの」
 結果、なかなかOKをもらえない。
「だめだめ。なーんか、考え込んでる顔だよ、それじゃあ」
 そして最悪の断が下された。
「よし、今日はここまでで切り上げて。残りは明日にしよう」
 えっ。
 ようやく没頭できて、表情を作っていた純子の目の色が変わる。胸の前で重
ね合わせていた腕を解くのも忘れ、顔だけをチーフスタッフに向ける。
「あの、明日は」
「日曜だから、休みだろう? 元々、契約ではこの二日間はうちが押さえてい
たはずだし。別の仕事、急に入ったの?」
「え、いえ、そういうわけじゃあ、ありませんが……」
 カウンターの質問返しに、思わず、正直に答えてしまった。そのあとすぐに、
失敗だったと気付き、落ち込む。
「それじゃあ、決まりだ」
 ぱん!と手を打つ乾いた音を聞きながら、純子はどうしよう、どうしようと
脳細胞を懸命に回転させた。
「どうかした?」
 とぼとぼと歩いて控えの間に戻ろうとする純子を、相羽の母が呼び止めた。
向き直ると、“心配”とタイトルに付けたくなるような立ち姿の相羽の母がい
た。
「途中、ちょっと上の空だったようだけれど、体調が悪いの? もしそうなら、
隠さずに言って」
「い、いえ。すみません、ご迷惑をお掛けして……その、考え事をしてしまっ
て」
「悩み事?」
 眉間にしわを作った相羽の母。その手が、純子の二の腕辺りに触れる。
「う、ううん。違います。まあ、悩みには違いないんですけど、悩みと言って
も、そんな深刻なものじゃなくて」
 変に雄弁になったことを自覚しつつ、純子は慌てて両手を振り、明るく振る
舞う。
「本当に?」
「はい」
「明日に延びてしまったけれども、平気?」
「もちろんです。私の責任だし」
「頼もしい返事だけれど、それだけじゃなくて……」
 と、ここで、辺りをはばかる風に目線を走らせた相羽の母。
「信一と会う約束をしていたんじゃない?」
「え……」
 絶句しそうになったが、笑顔を作って間をつなぐ。
「……っと、ご存知だったんですか。や、やだなあ、信一君て、案外お喋りな
んですね、あは、はは」
「私も詳しくは聞いてないけれど、大切なことなら、早く信一と連絡を取った
方がいいんじゃないかしら」
「あ、そうですね。そうします」
 とにかく、相羽に知らせなくては。その思いが一気に強まった。
 メイクを落とし、ヘアスタイルを戻し、普段着に着替えて、スタジオを出る
なり、携帯電話を取り出した。家に帰り着くまでの時間さえ惜しい。
 つながる気配を感じるや、間を置くことなく喋り始める。
「あ、相羽君? ごめんなさいっ、急な話なんだけど、明日の」
 デート、と続けようとして、声が小さくなる。相羽の母からはだいぶ離れて
いるのだが、もしかしたら聞こえるのではないかと不安が脳裏をかすめたのだ。
「明日の約束、ちょっと遅れそうなの。仕事、今日で片付くはずが、明日にな
ってしまって。なるべく早く終わらせるから」
「お疲れ様、純子ちゃん」
 相羽の優しげな調子の声が、耳から入ってきた。そして純子を内側から包み
込む。予想外の呼び掛けに、純子の返事が堅苦しくなった。
「ど、どういたしまして」
「がんばりすぎないでほしいんだ。明日の仕事も、無理をして早く終わらせな
くていいよ。そんな気持ちでいたら、満足の行く仕事ができないかもしれない
しね」
「うん……でも……会いたい。明日、会いたい」
(相羽君はそうでもないの?)
 極小さな不安がよぎる。しかし、そんなものは瞬く間に消し去られた。
「僕も会いたい。だから、撮影現場に行くよ」
「え?」
「いいかい?」
「も、もちろん! 私、待ってる」
 通話を終え、電話を胸元に抱いて、ぽーっとすることしばし。相羽の母から
声を掛けられ、我に返った。
「話はいい方向にまとまったようね」

 前日とは打って変わって、バレンタインデー当日の撮影は快調に進んだ。ず
っと純子を悩ませていた問題が解決したあとというのが、やはり大きい。やる
べき仕事に集中できた。
「はい、オッケー! これで終わりとしよう。昨日が嘘みたいだ」
 少々皮肉の混じった絶賛を浴びて、白いドレスに身を包んだ純子はスポット
ライトから外れた。お疲れ様の挨拶もそこそこに、早く支度に取り掛かろうと、
控室に足が向く。
 と、ドアを開けようと取手に指が触れた刹那、スタジオ片隅の壁際に立つ彼
の姿に気が付いた。
「相羽君、もう来てたの!」
 思わず、大きな声を出してしまう。仕事に集中するあまり、周囲の様子がほ
とんど目に入らなかったようだ。
 そして、彼のいる方角へ、自然と一歩が出た。長いスカートをちょっと摘み、
慎重な足取りで。
 相羽も動く。駆け寄り、彼の方から一気に距離を縮めた。
「やあ」
「やあ、じゃなくて、いつからいたのよ?」
 不満から、相羽を軽く押す。白いレースの手袋をした手のひらが、彼の腕に
触れた。
「いつと言われても困る。ピアノのレッスンが終わって飛んで来た。時計を見
ていなかったから……。あ、入ってきたとき、純子ちゃん、濃いオレンジ色の
スーツみたいな服を着てたな」
 そのときの衣装を言われて、おおよその見当はついた。
「声を掛けてくれればよかったのに」
「声を掛けたくても、撮影中は気が引けるよ。緊張感が漂っていた」
「そう?」
「うん。それに、黙って君を見ていたかった。凄く、きれいだった」
 さらりと言ってのけるのは、相羽らしさの表れかもしれない。
 純子は一瞬たじろぎ、会話を途切れさせた。赤らんだであろう頬の辺りを撫
でる風にこすって、微笑を浮かべる。
「ありがとう。き、着替えてくるね。それまで待ってて」
 急いできびすを返し、ドアを目指す。手と足の運びがおかしくなった気がす
るが、それを確かめる余裕すらない。
 スタジオの外に出て、誰もいない廊下に独りになったとき、改めて両手で頬
を覆った。
(面と向かって言われると、嬉しいけど、恥ずかしいよー)
 叫び出しそうなところをこらえ、感情が落ち着くのを待ってから、控えの間
に走る。ドレス姿だから走りにくかったけれども、可能な限り急いだ。
 メイクさんやスタイリストから、逃げ出してきた花嫁さんみたいねなどとか
らかわれつつ、化粧を落とし、衣装に手袋、靴を脱ぐ。髪はそのままでも大丈
夫。
 やがて普段の自分に戻った純子は、スポーツバッグの中から、昨日の夜、コ
ンビニエンスストアで買い込んだたくさんのチョコレートを取り出し、テーブ
ルの上に置いた。
「あの、これ、男性スタッフの皆さんへの義理チョコです。時間が厳しいので、
よろしく言っておいてください。お願いします」
 頭を下げる。「あら。律儀なことで」「私ももらっていい?」というような
反応があった。
「どうぞ、皆さんで食べてください。本当は、今日来たときに出せばよかった
んですけど、昨日の出来がよくなかったから、言い出しにくくて」
「なるほどね」
 純子はもう一度お辞儀して、部屋を出た。

 これからバレンタインデートだという直前、その片方の親がカップルを駅ま
で送るというのは、かなり変わっていると言えるかもしれない。
「二人とも、ちょっと待って。市川さんからくれぐれも注意するように言って
くれと頼まれたことがあるの。私は別に気にしなくていいと思うんだけれど」
 車を降りた純子達に、相羽の母は窓を下げて声を掛けてきた。
「何でしょう?」
 市川からの伝言ならと、純子が受け答えする。
「それなりに顔を知られて、人気もあるんだから、目立つ振る舞いは避けるよ
うに。スキャンダルは御免よ、ですって」
「はあ……」
 実感がないのは本人ばかり。かつてあった香村との一件は相手が人気者だか
らこその騒動であり、今の自分には無縁の話だと思う。
 それでも一応、サングラスは持ち歩くようにしているが、掛けたくない気分
だ。特に今日は、相羽の姿を、何の遮蔽物もなしに見たい。
「純子ちゃんには直接伝わってないと思うけれど、市川さん、この間、テレビ
であなたが映っていたのを見掛けて、失神しそうなほど慌てたんですって」
「し、失神?」
 純子がこの単語に注目したのとは対照的に、相羽が横手から察しよく言った。
「テレビって、もしかすると、この前、ミュージカルを観に行ったとき?」
「そうよ、信一。画面の隅っこにちらっとだけど、純子ちゃんの姿が映ってい
たらしいの」
「僕は?」
「一緒に映っていたら、大騒ぎになっていたかもしれないわね」
 たまたま純子一人がフレームの片隅に撮られられただけ、ということのよう
だ。
(それだけのことで失神しそうだなんて、市川さんも心配性が過ぎる感じ)
 純子がため息をしつつ、考えていると、相羽の母が微笑み掛けた。
「無粋な話をして、ごめんなさいね。堂々としていれば、案外誰も気付かない
ものよ。気付いても気遣ってくれるだろうし。さ、行ってらっしゃい。荷物は、
責任を持って届けておくから。それと、帰るときには電話をちょうだい。迎え
に来てあげるわ」
 相羽の母の声に送り出され、純子達二人は駅ビルに向かう。三歩進んだとこ
ろで振り返り、車がロータリーを出て行くのを見送った。
 車の影が小さな点になるまでそうしていた二人は、次の瞬間、どちらからと
もなくお互い向き合った。手が触れ、見つめ合うこと数秒間。じきに純子はう
つむき、相羽は空を見上げた。
 平静に戻るのが早かったのは相羽。
「行こう」
 彼の手が純子の手を取る。
「うん」
 まだうつむきがちながら、純子は相羽について行った。
 日曜日、正午を回ったばかりの駅に、人出は多く、それがかえって好都合と
なりそうだ。この人混みの中に、仮に風谷美羽の熱烈なファンがいたとしても、
まずは気付くまい。
 寄り添う風にして階段を下り、地下の食堂街へ。いきなり腹ごしらえをしな
くちゃいけないのは、いささかムードに欠けるかもしれないが、仕方がない。
何たって、こうして並んで歩いているだけで、笑みがこぼれてくる。充分だ。
 最近オープンしたばかりの和風ファーストフードチェーン、ライスボールラ
ウンジに入る。評判がよく、テレビなどで結構話題になっているだけに、利用
客も多い。少し待たされたあと、カウンターで注文をし、料理を受け取ると奥
の二人掛けの席にありつけた。
 スポーツバッグからいる物だけ別にしたポシェットの置き場所がない……と
思ったら、テーブルの横に、学校の机よろしく、フックが付いていた。
「当たり前だけど、テレビで見たままだ」
「ほんと。メニューも遊びがあって、いいな」
 “海老手裏剣”は天むすの三角おにぎり版なのだが、はみ出た海老の尻尾三
本を手裏剣の刃に見立てている。“モー結”は御飯と海苔とで牛の顔を作り、
口から牛たんハムがはみ出ているというユーモラスさ。
「朝から撮影で、お腹空いちゃった。早く食べようっと」
 ラップを取り、サラダ巻き風のおにぎりの角をぱくつく。
 本心を言えば、空腹だから早く食べるのではなく、少しでも早く食事をすま
せて、相羽と一緒に今日という日を楽しみたい。もちろん食事も楽しいには違
いないが、いかんせん、この店内は騒がしすぎだ。
「いくら昼時とは言え、凄く混んでるね。テラ=スクエアが近くにあるのも原
因かな」
「えっ? テラ=スクエアって、この近くだった?」
 純子は食べ物を口から遠ざけ、空いている手を喉元にやった。せき込みそう
になったのだが、それはテラ=スクエアと聞いて、白沼の顔をぽんと思い浮か
べたため。
「そうだよ。地下に降りたから、方角が分かりにくくなってる?」
「う、うん、そうかも……」
「行ってみる?」
 相羽が誘ってきた。今日は予定をぴっちり決めてのデートではない。近くに
遊園地があるのなら行ってみようという気になるのは、充分うなずける話であ
る。けれども、一旦白沼のことを思い浮かべた純子にしてみれば、二の足を踏
まざるを得ない心持ちだった。
「ま、また今度ね。だってほら、きっとここ以上に混んでいるわよ」
「そりゃそうだろうね」
「だったら私、もう少し落ち着いた場所がいいな。博物館やプラネタリウムと
は言わないけれど、映画館辺り」
 博物館やプラネタリウムを避けるような発言をしたのは、これまで何度とな
く行っているため。と言って、回数を比べるなら、映画館も相当な数に昇る。
が、二人きりで映画館に入ったことはまだない故、行ってみたい。
「観たい映画が今やってるの?」
「え、ええ。相羽君の好みとは違うだろうけど……『素懐』っていうアメリカ
の映画」
 二人で映画を観るなら、最初は恋愛物がいい。前々から思っていた。その場
面を想像しては、にやけてしまうこともあった。
「コマーシャルで見かけた覚えがある。天才科学者の恋、とか」
「うん。格好いいのに、学問一筋で恋愛には全然疎い人。少しコメディが入っ
てるみたいだけど、とってもよさそう。気の利いた台詞があって」
 純子の話を聞いて、相羽は口元に拳を当てると、暫時、考える様子を見せた。
「コマーシャルで流れていたのは、確か……『この難問はとても理解できそう
にない』『私が答を見せてあげる』だったかな」
「そうそう。よく覚えてるじゃない」
(ひょっとして、相羽君も多少は興味あるのかな)
 期待が膨らむ。だから、相羽の次の言葉には、ちょっとがっかり。
「実は、僕も観たいのがあるんだけど」
「え、な、何ていう映画?」
「いや。観たいのがあるんだけど、純子ちゃんは百パーセント嫌がるだろうか
ら、『素懐』にしよう」
「そういう風に言われちゃうと」
 素直に楽しめない。
 そんな純子の心中を察したのか、相羽は軽く笑い声を立てながら呼応した。
「元々、一人で観るつもりだったのさ。だってね。雷のシーンが多いんだ、そ
の映画」
「雷」
 おにぎりを持つ手に若干、力が入る。だいぶましになったものの、雷嫌いの
克服には至っていない純子であった。
「本物の雷じゃなければ、大丈夫かい?」
「う……ううん。遠慮しておくのが正解」
 答えてから、苦笑気味に顔をほころばせた純子。相羽の思いやりを感じる。
おかげで、おにぎりの味がよく分からなくなってしまった。


――つづく





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