#91/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 02/06/29 23:15 (455)
そばにいるだけで 60−4 寺嶋公香
★内容 16/06/15 02:00 修正 第2版
シネマコンプレックスの案内に電話で尋ねてみると、上映開始時刻まで一時
間半近くあると分かった。移動や購入のための時間を差し引いても、一時間ほ
ど暇ができる。
「最初から映画に行くと決めておけば、上映時間に合わせて動けたかもしれな
いね。指定席で観たりして」
「今日は、スケジュールを決めていたら、大変なことになってたと思うぞ」
「どうして?」
「朝から働いていた人がいますから」
相羽に言われ、純子は自分を指差した。
「あ、そっか。予定が大幅に変わっちゃう」
「指定席券なんか買ってたら、無駄になってたかもね」
他愛ない話も一段落し、一時間余りをどう過ごそうか、相談。
「先に移動しちゃった方が安心かな」
ということで、バスでシネマコンプレックスの最寄りまで行く。バスに揺ら
れている間は、もちろん相談に費やしたものの、なかなか決まらない。着いた
先に、映画館の他に何があるのか、よく知らないのだ。
結局、話がまとまるよりも、バス停に降り立つ方が早かった。
「折角の日なのに、会話が、どこへ行こうかを相談するだけなんて、もったい
ないな」
周囲を見渡しつつ、相羽が自嘲気味につぶやいた。純子も同感。二度ほど大
きくうなずく。
「冬じゃなかったら、公園でもどこでも、過ごせるのにね」
「僕は平気。試合に備えて走っていたせいで、寒さにも慣れた」
「うわー」
驚いたポーズをしてから、相羽の顔をしげしげと見つめる。
「何?」
そう聞き返してくる相羽が、実に楽しそうだ。
「寒さに強くなったのはいいけれど、面の皮まで厚くなったんじゃないかなあ
って。あははは」
「――かもしれない」
答えて、肩をすくめた相羽。
「それはともかく。純子ちゃんに風邪を引かせるわけにいかないから、ひとま
ずどこかに入ろう」
道路を一本隔てて映画館に隣接するデパートに入ってみた。他にめぼしい場
所(お金の掛からない、という条件も含む)がなかったせいもある。ただし、
混み具合から言えば、今日一番のよう。みんな映画の開始までの暇つぶしなの
かしらと、穿った見方をしてしまう。
「写真集はまだ?」
各フロアの内容を示した電光掲示の前で、相羽がいきなり聞いてきた。焦る
感情を隠し、小声で答える純子。
「まだ。三月」
「じゃあ、書店は行かなくてもいいか。あ、でも、ファッション誌に載ってる
かもしれないな」
「あのねえ」
「そうだ、歌の方は? アニメの主題歌を唄う話があったと聞いてる」
「それもまだ。第一、番組始まってない」
意地悪をされているような気がする。嫌じゃないけれど、恥ずかしい。
「そういえばこの間、ミュージックショップで募金箱を見かけたよ。君や鷲宇
さん達が始めた……」
「そうなの? 私、まだ見たことない」
「みんな結構、関心を持っていた。買い物のお釣りを入れていく人が、たくさ
んいてね」
「よかった、滑り出し好調。私も気合い入れて、シャツとかを買ってもらわな
くちゃ」
腕捲くりをする気分だ。鷲宇から募金キャンペーン用のグッズがじきに届く
手筈になっている。今月半ばというからもうすぐだろう。
続く相羽の話に、さらに元気づけられた。
「募金のこと、道場の方でしてみたんだ。そうしたら、みんな、力を貸すって
言ってくれてさ。街角に立つのも、グッズを売りさばくのも任せろっていう勢
い」
「ほんと? わあ、嬉しいな。一応、鷲宇さんの方に聞く必要があるけれど、
間違いなくOKよ。頭を下げてお願いしたいくらい、人手がほしいところなの。
皆さんにありがとうって、伝えて」
相羽の両手を取り、上下に振る。興奮していると、横合いからごほんごほん
と咳払いが届いた。振り向けば、髪の薄くなった中年の男性が、無言のまま唇
を尖らせている。どうやら純子達は、掲示板の前に長く居すぎたらしい。
「すみませーん」
笑顔で謝り、そそくさと退散。勢いに任せて、エスカレーターに乗ってしま
った。
「どうしよう? 結局、決まらなかったわ」
「そうだな。天体望遠鏡のセットを見に行くっていうのは?」
「賛成! まだ買ってないの」
七階で降りた。
デパートから映画館に移動し、観賞券を購入したのが上映開始のちょうど十
五分前。まずまず、よい頃合だろう。
「パンフレットは買うとして、食べ物や飲み物は?」
「うーん、飲み物だけ」
お腹が空いていないし、恋愛映画だとあまり食べる気になれない質だ。
パンフレットと飲み物を買ってから、『素懐』の上映される六番ブースに入
る。他に前評判の高いアクション映画や人気女優の出る日本映画があって、そ
のおかげか、『素懐』の客入りは多からず少なからず。観やすい席を確保でき
た。まだ仄かに明るい館内を見回すまでもなく、客席のほとんどをカップルが
占めている。あとはちらほら、女性だけのグループが認められる程度。年齢層
は大学生から三十代前半といった辺りが圧倒的多数。
(ちょ、ちょっと早かったかな)
自分達の歳を顧みて、顔を少し熱くする純子。
(で、でも、ベッドシーンとかはないはずだし、コメディも混じってるんだし、
問題ないわよね)
自らに言い聞かせるものの、不安は残る。自分の選んだ映画が、年齢的にも
しも“外れ”だったら、落ち込んでしまう。
「どうしたの?」
予告編の流れ始めたスクリーンから、相羽が目を離し、こちらを向いた。自
分が首を折る風にして下を向いていたと気付く。慌てて起こした。
「ううん、何でもない。ああー、暗くなったら、寝ちゃったりして。万が一そ
うなったら、起こしてね。朝早かったし、一仕事したあとだもん。ふふふ」
「それは困った。責任持てないなあ。僕も寝不足気味でして」
「わあ、夜遅くまで勉強とか?」
「いえいえ」
それだけ答えると、相羽はスクリーンに視線を戻した。ゴールデンウィーク
に封切られる作品の予告をやっている。
純子は相羽の寝不足の源が少し気になったが、そろそろ開始時刻が近いこと
もあって、前を向く。
「あ、これ、好き」
アニメ映画の予告に切り替わった。思わず指差す。相羽が反応した。
「僕も知ってる。原作は考証が正確で、ストーリーが緻密だよね」
「そうそう。テレビで毎週やっているのは、質が安定してなくてもう一つなん
だけれど、映画なら期待できそう。あ、そうだ。次はこれを一緒に観に行かな
い?」
「う――」
相羽の返事が意識的に途切れた。上映開始を告げる合図があったからだ。
二人は目配せしたあと、改めて腰掛け直し、スクリーンに集中した。
絵に描いたような自然の風景で始まり、一通り、雄大な景色を示すと、レン
ズは湖畔の建物に近付いていく。きれいな曲が静かに流れていた。
BGMのボリュームが下がり、逆に人の声が徐々に大きくなる。建物の中で
の会話のようだ。まだ字幕は出ていないから、ストーリーそのものには関係な
いらしい。
と、映像は建物の窓ガラスを透過したかのように、館内の様子になった。こ
こで初めて会話の内容が字幕に出る。ブロンドの女の人が電話口でわめいてい
る。明らかに口論の真っ最中だ。
“新学期の準備で忙しい? いいわけはよして”“いつもあなたはそうなのよ”
“お互いさまですって? よくもそんなことがいえるわ”云々と、その女性の
台詞だけが分かる。観客の立場としては、恋人との口喧嘩だろうと当たりを付
けるシーン。
憤然とした態度で電話を切ると、女性はしばらく立ちすくみ、かと思ったら、
やおら廊下を走って部屋を移る。リビングだろうか、ソファのはしに投げ出さ
れる格好で置いてあったハンドバッグを取り上げると、中をかき回すようにし
て携帯電話を取り出す。そのボタンを何やら操作しつつ、“消えなさいっ”と
吐き捨てる。やがてつぶやく女性。“すっきりしたわ”
携帯電話の番号一覧から、彼氏の項目を消去したのだと分かる。客席では軽
い笑い声が起きた。女優の、コミカルでありながら、いかにも現実にありそう
な演技に、早々と引き込まれる。
スクリーンでは、壁に掛かるカレンダーの大写し。ふた月分が一枚に収まっ
たタイプのそれには、九月十一日の欄に、ペンで印が入れてある。この女性の
誕生日のようだ。
(新学期の準備で忙しいということは、今、八月末と思っていいのよね)
純子は頭の中でそんな風に記憶にとどめ、再び意識を集中する。
“昔はこんなのじゃなかったのに”
スクリーンの中で女優は言うと、ソファに身を投げ出すようにして腰を下ろ
した。
続いて、彼女の心中の台詞。
“私って、こんなのじゃなかった”
映像がゆっくりとぼやけて薄くなり、入れ替わるかのようにタイトルが浮き
出る。『素懐』とある下に、英語の筆記体で、原題が記されていたが、その字
が流麗すぎて、純子には読み取れなかった。あとでパンフレットを見て確認し
よう。
タイトルのあと、場面が一転する。
緑の多いキャンパスのカットがいくつか短く入り、研究室のドアのアップで
落ち着いた。プレートが入っている。字幕は“ヒュー=ヨナサン”。部屋の主
の名だ。続いてドア越しに、若い男の声で台詞が聞こえる。
“凄いぞ、何てエレガントでファンタスティックな解答だ。こんな解き方もあ
るんだ”
いやに興奮している。ところが次には、ご機嫌な口調になった。
“やあ、そいつはグッドアイディアだ。妙案妙案。ん? それは知らなかった。
初耳だ。活かせるかどうか試してみなくちゃ”
ドアの前に女学生二人が立つ。互いに顔を見合わせ、ほんの少しの躊躇を覗
かせてから、一人がノックした。
呼び掛けても、すぐには返事がない。女学生が今度は二人揃って、先生、ヨ
ナサン先生と呼ぶと、間の抜けた調子で応答があった。
“どうぞ、開いてますよ”と口走ったにも関わらず、部屋の主は自らドアを開
けた。髪はやや乱れているが、整った顔立ちの男が現れた。本来なら理知的な
印象を醸し出すであろう眼鏡は、今は額にあって、どことなく滑稽だ。
女学生は再び顔を見合わせ、おもむろに用件を切り出した。講義内容に関す
る質問が三つ。淀みなく答え、また質問者自身に考えさせるような応対をする
男。その物腰には自信が溢れている。
“ところで先生”
勉強の話が一段落すると、女学生は突然、顔つきをやわらげた。二人の内の
片方は、この年齢にしては色っぽくて蠱惑的な笑みを表情に張り付ける。
そんな彼女らに対するヨナサン先生の反応が、またおかしい。切れ長の目を
何度も瞬かせ、どんな話題に切り替わるのか戸惑いが露、あるいはびくびくし
ている。
この辺りまでが、メインキャラクターである二人、ヨナサンとアリッサの紹
介といった趣で、なかなか快調かつ軽妙なテンポで描かれる。
その後、彼らがともに移民の子で、祖国は違うが幼なじみであることが観客
に明かされ、大学卒業後、離ればなれになっていたのが、思いがけず再会を果
たすまでが描かれた。
そして途中、ピクニックのシーンがあった。
ようようのことで、ヨナサンを外に連れ出せたアリッサだったが、ヨナサン
の話題と来たら、積乱雲のできる仕組みとか、ミミズの動くスピードとか、風
に乗って飛ぶ蜘蛛がいるとか、理科の授業の延長のようなものばかり。アリッ
サが、他の話もしてよと誘導すると、今度は数学のトピックスを語り出す始末。
“ほんの少し、専門的になるんだけれど”と前置きし、彼が現在取り組んでい
る研究について熱弁を振るうのだ。数学史上の最難問の一つに数えられる<パ
ルバーの素数に関する予想>、略して<パルバー素数予想>の話は、難解を極
めた。アリッサも優秀な方だが、首を傾げるばかり。ヨナサンはそんな彼女を
見て、地面に木の枝で式を書き始める。
呆れ果てたアリッサは立ち上がると、ヨナサンを置いてしばらく一人で歩き
回る。先ほどのヨナサンの講義がまだ頭に残っていて、木々のシルエットや空
に浮かぶ雲を数式と見間違えるくらい。そんな錯覚も払拭できると、自然を肌
で感じられるようになり、理科や数学の授業の延長も悪くないなと思う反面、
さっきのヨナサンみたいにお勉強一辺倒はやはりつまらない、等と感情のメー
ターが揺れる。
やがて小さな森を抜けると、いきなり切り立った崖になっていた。思考に走
っていて注意力の落ちていたアリッサは、足を滑らせてしまった。
急な展開とヒロインの悲鳴に、純子はびくりと身体を振るわせた。拍子に、
肘掛けに載せていた腕がずれて、隣の相羽の手に触れた。
慌て気味に引っ込めようとしたら、それよりも早く、相羽の手に引き留めら
れた。
スクリーンから目を離し、横をちらっと窺う。相羽と一瞬、目が合った。こ
のままでいいよねと言っているような気がする。
座席の間にある肘掛けの上で、手を重ね合わせた。
スクリーンでも、主人公二人が、手を取り合う場面が展開されていた。と言
っても、崖から滑り落ちそうになったアリッサを、ヨナサンが意外な力強さを
発揮して助け上げるという構図だったけれど。
それから映画の中の二人は、なかなかよい雰囲気になってきた。テレビコマ
ーシャルで散々流れていたやり取りはここで使われ、あとはヨナサンが数歩前
に踏み出すだけという段階になっていた。その矢先、アクシデントが発生する。
大雨になった夕方、ヨナサンは車中から電話をしてきた父親――同じく研究
者だ――に、遠回りして駅に寄ってくれませんかと頼む。アリッサが来ること
になっているのだが、この雨の中、歩かせるのは酷だから、迎えに行ってやっ
てほしいと。父は気安く請け負う。そして、おまえも免許を早く取れと言って
電話を切った。
父は移民である母と結婚し、ヨナサンをもうけた。だが、ヨナサンが高校生
のときに二人は離婚し、母は祖国に帰ってしまっていた。だから、ヨナサンに
とって身近にいる唯一の肉親が、父なのである。
ヨナサンはアリッサに電話を掛け、父が駅まで迎えに行くことを伝える。さ
すがに恐縮するアリッサを、もう頼んでしまったあとだから、どうしようもな
いよと言って電話を切る。その直後、電話が鳴った。思いも寄らぬ知らせ。父
親が交通事故を起こし、危ないという。
表面上、冷静さを保ち、対処するヨナサン。タクシーを自宅まで呼んだ後、
アリッサに再度の電話をし、事情を簡単に告げると、とるものもとりあえず、
雨の外へと飛び出す。タクシーに乗り込むところで、映像が薄らいでいく。
継がれた場面は、病院ではなく、葬儀だった。
これを見た瞬間、純子は思わず、「え」と声を漏らした。
(まさか、そんな、死ぬなんて。それも、交通事故だなんて)
予備知識をほとんど仕入れていなかったから、こんなエピソードがあるとは
思いもしなかった。純子が焦ったのは、しかし、ストーリー展開を意外に感じ
たからでは断じてない。
(相羽君……思い出させてしまった?)
知っていたら、違う映画にしていたのに。
純子は墓地のシーンが続くスクリーンそっちのけで、相羽を振り返った。声
を出して問いたい、詫びたいが、それはかなわない。それは上映終了後にする
として、せめて今、アイコンタクトを取っておきたいと考えて、相羽がこちら
を向くのを待った。
だが、彼は、純子の動作に気付いた素振りもなく、前を向いたまま。
代わりに、純子の手に重ねた相羽の手に、若干の力が加わった。それを感じ
取った純子が、仄かな光に浮かび上がる相羽の横顔を見つめる。と、相羽は口
元にかすかな笑みを宿し、空いている方の手で、スクリーンを指差した。
純子はスクリーンを観たが、葬儀の場面が淡々と続いているだけ。
(? 映画に集中しろってこと? 気にしてないのかしら……)
尋ねるのははばかられ、結局吹っ切り、元のように向き直る純子。いくらか
失った集中力を回復させ、映画に魅入る。やがて場面は、日常に忙殺される二
人の様子に換わった。
アリッサがそろそろほとぼりも冷めたんじゃないかと期待して、久しぶりに
ヨナサンを大学に訪ねると、予想外の知らせが待っていた。彼は職を辞し、母
親の暮らす祖国に帰ったという。
そういえば……と、アリッサは思い起こす。
ヨナサンの祖国では政変が起こり、世情が不安定になっていた。母の身を案
じたヨナサンは、自身が独りぼっちになった寂しさにも後押しされたのだろう。
意を決して帰国を決めたに違いない。
一瞬、追い掛けようと思うアリッサ。だが、それには多くの障害があった。
ヨナサンの家がどこにあるのか詳しい住所を知らないし、政情不安の国に出向
くのは多少の勇気を要する。それに何と言っても、彼女には日々の仕事があっ
た。ヨナサンを思う気持ちがどんなに強くても、とても放り出せない。
アリッサはやむを得ず断念し、むしろ彼のことを頭から追い出そうと、仕事
に打ち込んだ。この段階で、彼女はプラタ――冒頭で口喧嘩していた相手――
から、熱烈なラブコールを受ける。プラタは私学の経営者として成功を収め、
さらには塾にも手を出そうかという、ラテン系二枚目の役どころ。単純に稼ぎ
の面を比較すれば、ヨナサンがかなう相手でない。男女の会話となると、もっ
とかなわない。
アリッサは曖昧な返事を繰り返し、お茶を濁し続ける。
秋口を迎え、まとまった休暇を取れたアリッサが、ヨナサンの国に飛行機で
旅立つ。政情も緊迫感をはらみつつ、どうにか平静さを取り戻したようだった。
まずはインターネットでの検索をするつもりでいたが、出鼻を挫かれる。イ
ンターネットの類は、現政権が使用を著しく規制しており、外国からの旅行者
が容易く使える代物ではないようだ。出発前に調べておかなかったことを悔や
むが、あとの祭り。アメリカにいる知り合いに電話をして調べてくれるよう頼
むことも考えたが、それはアリッサ自身の個人的理由からできない。
そこで電話帳を当たるが、それらしき名は見つからない。じきに気付いた。
ヨナサンが独り暮らしをしているとは考えにくい。母親の家に身を寄せている
だろう。母方の名前を聞いていなかったため、探しようがない。
大学に手当たり次第に足を運び、ヒュー=ヨナサンなる人物が働いていない
か、ひょっとしたらヨナサンではなく別の名前になっているかもしれないが、
と聞いて回るアリッサ。だが、先々で回答はノーばかり。落胆するアリッサ。
帰国予定日も迫っている。
最後の日も芳しい成果はなく、とうとう冷たい雨にまで降られる。明朝早く
に発たねばならない……重苦しい気分故か、単なる疲労からか、足を引きずる
ようにしてホテルまで戻る。その道すがら、街角の何でも屋めいた店で、新聞
を見かける。その見出しに目を引かれた。
“パルバー素数予想 解くのは我が国の者だ!”
新政権にとって、国家の威信を示す意味合いがあるのだろう。トップに来る
ことは稀であろう学術ネタが、そこには大きく出ていた。アリッサはすぐさま
新聞を購入し、雨粒で濡れるのもかまわず、熟読した。
そして、研究者グループの一人にヨナサンの名を見つけたとき、アリッサの
目尻から涙が一筋になって、流れ落ちた。
上映時間を把握していなかったし、時間の感覚自体おぼろげになっていたが、
今、クライマックスに差し掛かりつつあるのは、疑いようがなかった。
どこで働いているのかは掴めた。しかし、会いに行く時間がない。せめて来
ていることを伝えようと、電話を掛けたのだが、国の研究機関であるためかガ
ードが堅く、つないでもらえない。再び途方に暮れるアリッサ。
次のチャンスを待つしかない……あきらめてホテルに引き返す。
――それは突然だった。
俯きがちなアリッサ。彼女の視線に重なる形で、フレームが動く。ホテルの
ロビーの絨毯が映り、そこへ履き古したスニーカーの足先が入り込む。
面を起こすアリッサ。目の前には、何故か。
“ヨナサン!”
つい、指差してしまう。どうしてここに?という台詞すら出て来ない、そん
な具合に口を片手で覆ったアリッサ。
驚きを露にするのは彼女だけでなく、ヨナサンも同じ。“アリッサ。本当に
来ていたんだ?”と整った顔立ちを幾分間抜けに見えるほど崩して、口をぽか
んと開けている。
やっとわけを尋ねるアリッサの台詞を遮って、ヨナサンは言った。
“聞いてほしいことがあるんだ”
長い間胸の内に仕舞って、鍵まで掛けていた気持ちを、ヨナサンが遂に言葉
にするときが来ていた。朴念仁として描かれてきた彼が、つたないが率直な表
現でアリッサに愛の告白をするというだけで、かなりこみ上げてくるものがあ
るかもしれない。
“どうして今頃になって云う気になった?”
告白が終わると、しばらく間を置いて、アリッサが素気なく聞き返す。視線
はヨナサンを向いていない。
“やっと解けたんだ”
“……パルバーの何とかが?”
“いや”
嬉しそうに答えるヨナサン。そして似合わない気取った口調で続ける。
“アリッサの恋愛定理が解けた……ような気がするんだけど”
顔を赤らめ、アリッサの様子を窺うヨナサン先生。アリッサは彼に背を向け
たまま、ガラス窓の外、雨雲で埋まる空の遠くを見やるかのように視線を上げ
た。
“どんな答が出た?”
“口に出して云わなければ、思いが伝わることはない”
カメラはアリッサの足、靴を映す。じきにきびすを返す。
フレームが上がり、アリッサの表情を捉えた。
“六十点といったところね。かろうじて可を出せる”
ハリウッドの影響を受けたようなやり取りのあと、父親の死について触れら
れる。この不幸な出来事がお互いにブレーキとなり、踏み出せないでいたと。
最後になって初めて明かされる事実が一つ。
アメリカ合衆国に戻って来たヨナサンとアリッサが、空港を出、バスに揺ら
れて都会の街中を行く。窓の外の風景が流れて行くが、やがてはっきりと確認
できる速度に。一転、ビルに掛かる巨大な看板にクローズアップ。何が描かれ
ているのかさっぱり分からない。段々とカメラが引いていくことで、それはア
リッサだと知れた。普段よりも化粧を入念にし、赤い印象的なドレスを身に着
けたアリッサ=モース。
アリッサは一線級の人気女優だった。
だからこそ、彼女はヨナサンを探していることをいかに友人と言えども打ち
明けたくなかったので、電話で情報収集を依頼できず、また、ゴシップ雑誌に
載ったアリッサ=モースにそっくりの外国人女性が目撃されたという記事を、
ヨナサンは奇特にも信じて、自ら探し当てたという顛末。
映画は当然の如く、ハッピーエンドで締めくくられた。
漠然と思い描いていたほど純愛路線のストーリーではなかったが、それでも
なお、純子は少なからず感情を揺さぶられた。自分とそして相羽とに重ね合わ
せて観てしまったというのが、大きな要因に違いない。
静かだがしっかりとした拍手の波のあと、明るさを取り戻した場内を他の客
達が三々五々席を立ち、出口に向かう。けれども、相羽と純子はしばらく座っ
たままでいた。
「ど……どうだった?」
気になっていた感想を尋ねる純子。こちらの好みに付き合わせたことのみな
らず、途中で交通事故死のエピソードが出て来たことを、相羽はどう感じたの
だろうか。
「意外と伏線を張ってあって、びっくりしたな。面白かった」
「そ、そう? よかった」
ひとまず安堵。でも、まだ百パーセントではない。
「あ、あのね。交通事故の話が出て来るなんて、知らなかった。ごめんなさい」
思い切って一気に喋る。相羽は肘掛けから離した手を、改めて純子の手の甲
に重ねた。
「気にしないで。あーっ、また。そんな顔するなよ」
「だって……思い出させちゃったんじゃあ……」
「もちろん、頭に浮かんだ。けれど、僕は元々、父さんを忘れたことはないか
ら、思い出すも何も関係ない」
自然体で言い切る相羽。無理をして言ってくれてるんじゃないと分かる。
(よかった……)
今度は本当に安堵できた。純子は何も言わず、相手の手を強く握った。
グッズの販売コーナーを覗いたあと、映画館を出ると、気温が上がってきた
ように感じられた。もっとも、館内より肌寒いのは言うまでもないけれど。
「身体、動かしたくない?」
「そう思っていたところ」
意見の一致をみて、即座に行動に移す。不案内なこの近辺を探して回るより
も、よく知っている運動公園まで移動した方が早いだろうと考え、再びバスに。
駅に着くと今度は電車。
車両に乗り込んでから、何のスポーツをしようか決めようとした矢先、友達
と出くわした。唐沢だった。当然のように複数名の女子を引き連れている。数
えてみたら六人。そのほぼ全員がテニスラケットを持っている。純子達の知っ
ている顔もちらほら。
思いがけない遭遇にお互い、「あ」と言って、まじまじと見つめ合ってしま
った。
「これはこれは、奇偶だな」
唐沢が言った。女の子達に気を遣ったのか、純子にではなく、相羽に向けて
話し掛ける。
「今日はバレンタインだし、僕も唐沢も運動公園をよく利用するんだから、奇
偶と言うほどでもないだろ」
「お、そっちも運動公園か」
「計画を立てて動いてるんじゃないから、気になるようなら、変更する」
「かまわんけど、さすがに一緒にテニスやろうぜとは誘えないな」
唐沢は純子の方を一瞥した。応援する感情と羨ましがる感情がない交ぜにな
ったような、ちょっと複雑な視線。純子もこれにどう応じればいいのか、困っ
てしまう。つい、顔を伏せた。
「どちらかというと、そっちの方こそ、俺がいると気になるんじゃないか?」
唐沢は相羽に向き直った。相羽は純子に視線をやる。
「……かもしれない」
「俺一人なら、行き先変更も簡単なんだが」
「あ、いいって。こっちの問題だから」
相羽がきびすを返し、純子の前に戻ろうとすると、唐沢に着いてきた女子の
何人かが、「相羽くーん」と手を振った。どんな意味を込めているのか、よく
分からない。
「……」
相羽は少し考える顔つきをしたかと思うと、純子の隣に立ち、いきなり肩に
左腕を回した。そして右手を敬礼のようにこめかみに軽く当てて、「お互い、
デートの邪魔はしないように」と女子達に伝えた。
純子はと言えば、驚く余裕すらない。相羽の大胆な行動に驚いたのは事実だ
けれども、それ以上に嬉しく思ってしまった。
「涼原さんと付き合ってるって、やっぱり、本当だったんだー」
「噂になってたもんね」
そんな声が耳に届く。
(噂になってたって、全然気付かなかった)
本人が噂を知らないのは、当たり前であろう。それでも、気を付けなくちゃ
と意を強くする辺り、芸能界慣れしてきた証拠かも。
「お幸せにー」
最後に届いた声に、思わず赤くなった顔を起こす純子。知り合いの女子達が、
手を振りながら、場所を移動していく。
「あ――ありがとう」
小さな声での返事になってしまったが、ちゃんと聞こえたようだ。
唐沢達が隣の車両に消えると、相羽は純子の肩から腕を離した。何事もなか
ったかのように、「行き先変更する?」と尋ねてくる。
しばらくぽーっと、熱を持った状態だった純子は、二度目の問い掛けにやっ
と反応できた。
「あ、うん。その方がいいよね、きっと」
「了解。ただ、身体を動かすとなると、あとは……道場くらいしかないぞ」
冗談を口にする相羽。純子も調子に乗って、「護身術を教えてもらおうかな。
何があるか分かんないもんね」と呼応する。実際、例のカメラマンの一件が起
きて以降、いざという場合を想定しておくのがいいに違いないと思う。
「今日は遠慮するけど、近い内に習ってみたい」
「本気で言ってる?」
「うん。何かあったとき、逃げられる程度でいいの。私には無理?」
「いや、無理ってことはないよ。体力とは関係なしに、誰にでもできるのが柔
斗だから。でも、賛成できないな」
「どうして?」
「――必要ないから」
「……どういう意味よー? 私が男勝りだって言いたいの?」
意地悪だなあと思いつつ、苦笑混じりで抗議する純子。対する相羽は大真面
目に首を横に振った。
「そうじゃなくて。僕が守る」
次の駅が近付いたらしく、速度を落とす列車。慣性の法則に従い、身体が傾
く。前傾姿勢になった純子を、相羽が支えた。
「守るっていうのは、もちろんこういう場合だけじゃなくてね」
「……ずっと着いててくれるってこと?」
「君さえよければ、四六時中そばにいたいな」
他人に聞こえてるんじゃないかと、恥ずかしくなるような台詞に、上半身が
熱くなる純子。ちょうど車内放送があって助かった。
停車し、乗降客の流れの中、純子は少し考えて、「……いいわよ」と答える。
相羽の最前の台詞が、気持ちの表れであることは充分承知している。それだけ
で嬉しい。ただ、さっきの(一見)意地悪な言い種に対抗して、困らせてあげ
ようと思い付いたのだ。
「ふむ」
相羽はさすがに困惑げに応じ、顎に片手を当てた。発車の反動でふらつく。
そんな彼の様子に、純子は満足の笑みを浮かべた。
「それなら」
が、相羽の方が一枚上手だったようだ。その口から次に出たフレーズは、純
子をますます赤面させた。
「ケッコンする?」
――つづく