AWC そばにいるだけで 60−2   寺嶋公香


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#89/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  02/06/29  23:15  (479)
そばにいるだけで 60−2   寺嶋公香
★内容                                         18/06/16 03:26 修正 第3版
 純子が唐突に呼び止められたのは、コンビニエンスストアの前を通りかかっ
たときだった。
「お? おう、涼原ー! 涼原じゃないか!」
 懐かしい顔との偶然の再会が続くのは、このところ、生活パターンにゆとり
が生まれたせいかもしれない。仕事で忙しくても、心に余裕があれば、ちょっ
ぴり嬉しい偶然を引き寄せる。
 ただし、純子にとって今度の再会は、厳密に言えば嬉しさ半分と言ったとこ
ろかもしれないが。
「清水?」
 久方ぶりに顔を合わせたかつてのいたずらっ子は、印象が少し変わった。一
年ほどで身長が伸びた他、顔の造作が細くなったように見える。髪の毛は坊主
ではないが、かなり短く刈り込んである。
「こっちの方だったっけ、清水の高校」
「ああ、そうだよ。すぐそこ。おまえこそどうしたんだ。こんなところに来る
なんて珍しいんじゃねえの? 全然違う方角だろ、学校」
 自転車から離れ、純子の方に歩み寄ってくる清水。その格好からすると、学
校帰りらしい。
「今年に入ってから、割と頻繁に通ってたわよ」
「そうなのか。で、何で?」
「仕事の関係で」
「なんだ、まだやってるのか」
 清水はにやっと笑って、憎まれ口を叩く。胸の内では喜んでいるような雰囲
気がいっぱいだ。
(久住としての仕事だけどね。あのアニメを見たら、清水も気付くかしら)
 純子は心中で舌先を覗かせて弁解しつつ、軽くうなずいた。
 駐車場の隅っこに場所を移し、立ち話は続く。
「マネージャーとか付き人とか、送迎の車とかはないのか」
「マネージャーさんはいるけれど、車はいつもというわけじゃないわ。付き人
なんて以ての外。私自身、まだまだ新人なんだから」
 今日はこのあと、相羽の母と合流して、ファッションショーの打ち合せに行
く予定になっている。清水がそれを見たとしら、どういう風に解釈するだろう。
「ふうん。あんだけがんばってるのにな」
「あんだけって?」
「いや、なに。ポスターとか広告なんかを、たまに見掛けるからな」
「気にしてくれてたの?」
「ば、ばか言うな。偶然だ、偶然。知ってるだろ。俺の家、美容院だから、女
性雑誌がたくさんあるんだよ」
「中身に目を通さなければ、分からないのに。おかしいわ」
 純子がわざと不思議がってつぶやくと、清水は何かに耐え切れなくなったみ
たいに頭をかきむしった。
「あー、認めるよっ。気にしてたよっ。あったり前だろ、古くからの友達が、
活躍してるんだ。気にせずにいられるかってんだ!」
「そんな興奮しなくても。でも、ありがと。応援してね」
「俺なんかが応援しなくても、充分、やれてるじゃねえか」
 形ばかりの悪態を吐くと、清水は目線を逸らし、話題を切り換えてきた。
「ちょうどいい。こりゃ、偶然の巡り合わせってやつだな。次の試合、見に来
てくれよ」
「試合? あんたが言うからには、野球の?」
「当たりきよ! まだレギュラー確保できる腕前じゃないが、多分、出られる」
「ちょ、ちょっと。あんたのとこと、どことの試合よ」
 説明不足のまま、先へ先へと飛ばす清水に、純子はブレーキを掛けた。する
と当の清水は、分かってなかったのかと言わんばかりに、唇を歪める。
「さっき、偶然の巡り合わせって言ったろ。涼原の学校だよ。緑星」
「え。そ、そうなの。へえー」
 確かに、大した偶然、大した巡り合わせである。両校の試合が決まったあと、
こうして清水とばったり会うなんて。
「えっと、練習試合?」
 念のために尋ねておく。よく知らないが、ひょっとして全国大会につながる
地方予選か何かでは……という思いがよぎったのだ。もしそうなら、やはり清
水達(多分、大谷も一緒だろう)を応援すべきかもしれない。
「練習試合と言うか、対抗戦だな。公式の試合なんだから、こう呼ばないと気
合いが抜けちまう」
「そうなの。そうなると、遠慮なく、自分の学校を応援するわよ」
「かまわねえよ。勝つからな」
「大した自信ね。まあ、緑星の野球部って、あんまり強くないみたいだけれど」
 関心が薄いので、しかとは記憶していないが、地方大会でも三回戦まで進め
ば御の字、ここ数年は緒戦敗退が続いていたようなことを、入学前にもらった
学校案内のパンフレットで読んだ覚えがある。
「あ、でも、去年の夏は二試合勝ち抜いて、結構話題になってたわよ」
「そうだったな。要するに、二回勝って騒ぐ程度だ。悪いが、実力差はある。
いや、あった」
「うん? 何故、過去形なの?」
「今は分からないんだよ。強くなったっていう噂を聞いたんだ。だからこそ、
うちの監督や先輩達も、緑星との試合をやる気になったんだが」
「……強くなったなんて噂、私、全然知らない」
「何でだよ」
 あからさまに呆れる清水。腰に手を当て、説いて聞かせる風に続けた。
「ピッチャーで凄い奴が転校してきたはずだ。一年生に。規約で、転校してす
ぐには試合に出られないから、ずっと待ってたんだぞ。それでやっと機会を」
「あ、待って。思い出した」
 ぽん、と音を立てる感じで、純子の脳裏に佐野倉の顔が浮かんだ。
(佐野倉君て、そんなに凄い選手だったの? こんなことなら、清水に教えて
あげられるように、もっと詳しく聞いておけばよかった。……それって、スパ
イになるのかしら?)
 変なところに気を回す。
 その間にも、清水は「何を思い出したって?」と苛立たしげに、片足で貧乏
揺すりを見せた。
「佐野倉って人でしょ? うん。知ってる。話もちょっぴりだけどしたわ」
「佐野倉と話をした? な、何でだ、知り合いか?」
「うーん、話したのは一度だけでも、知り合いって言っていいのかしら」
「一度だけってことは、たまたまなのか」
「そうよ。クラスも別だし」
 純子の返事に、深い吐息で応じた清水。
「つまり……投げてるとこは、全然見てないんだな」
「ええ。見ていたとしても、教えられるような説明はできないけどね」
「ばっ……教えてもらおうなんて、期待してねえってば。必要な情報収集は、
自分とこでちゃんとやってら。常識だぞ……なんてことを、女のおまえに言っ
ても仕方ないな」
 憤慨の後に呆れ、最後に納得する清水。
「野球に興味ないわけじゃないのよ」
「無理すんなって。八方美人なこと言うのはよくないぜ。だから俺も、あんと
き、最後の望みをかけて告白ってやつをしたんだな」
「……」
 昔を思い出し、純子が下を向く。全然、自分は変われていない、と思い知ら
された気分だ。
 と、清水が慌てた口調と態度で、蹴躓きかけながらも近寄ってきた。
「お、おい、涼原。急にそんな落ち込んだ顔すんなよ。洒落、洒落。ジョーク
だよ。つまんなかったか」
「――ジョークとしてはつまんない。でも、あのときは本当に、ご――」
「謝りの言葉ならいらねえ。俺は、おまえがこうしてちゃんと話をしてくれる
だけで充分だ。何よりさ、友達だってことを確認できてすっごく嬉しいぜ。か
ーっ、なにこっ恥ずかしい台詞吐いてんだ、俺は!」
 両手を使って、自らの顔や肩や腕やらをしきりにさする清水。純子はその様
を目の当たりにし、最初は唖然としたものの、やがて微笑を浮かべた。
 その次の瞬間、男のいがらっぽい声が、清水を呼んだ。
「清水ーっ! どこだよー?」
「あ、いけね」
 清水は弾かれたように歩き出した。コンビニエンスストアの前へと引き返し
ながら、純子に説明する。
「大谷と来てたんだ。あいつが喉飴とか何かを買うって言うから、外で待って
たら、ちょうど涼原が」
「何だぁ、それを早く言ってよ。折角だから」
 純子も着いていく。清水の背中越しに、大谷の姿を認めた。こちらの方は、
清水以上に外見が変化している。背が伸びて、全体的に細身になった感じだ。
髪型が清水と同じところを見ると、やはり野球部なのだろう。
 確実に言えるのは、二人とも中学のときよりさらに肌の色が濃くなったこと。
冬でも取れないとは、よほど練習を重ねているに違いない。
「わりぃ、大谷。こっちこっち」
「何だよ、もう、どこにいるのかと探したぞ。置いてけぼりかと……」
 言いたいことを言い切らないうちに、大谷は声を小さくしていき、やがて何
も言わなくなった。それでも口はぱくぱくと機械的に動く。
「驚いたろ」
 清水が得意げに胸を張る。純子は前に進み出て、大谷に軽く頭を下げた。
「久しぶりだね」
「う……わー。びっくりした」
 いかに反応すればいいのか迷って、挙げ句、言葉で気持ちを表現することを
選んだ。そんな感じの大谷。突っ立ったまま、買い物袋を肩の高さまで持ち上
げ、口を開けっ放しにする。
「涼原……さんだよね」
 大谷から「さん」付けで呼ばれるなんて、小中学校を通じて滅多になかった
だけに、どこかくすぐったい。大谷自身も、板に付いていないのが自覚できる
らしく、居心地悪そうだ。
「一目見て俺だと分かった?」
「え。先に清水に教えてもらってたから。そうじゃなかったら、どうかな」
 大谷は素早い動作で清水の方を向き、「何で教えるんだよ」と非難する。清
水の返事は「知るか!」のみ。
「じゃあ、野球の試合――そっちと試合するってのも、聞いた?」
「ええ。場所と日をまだ聞いてないけど、都合がよければ観に行こうかなって
思ってる」
「ああ、それなら。場所は緑星のグラウンド。こっちから試合を申し入れたん
だから」
 続けて大谷は早口で日と時間も答える。清水に負けまいとしてやったことか
もしれないが、おかげで純子は聞き返さなければいけなかった。
 手帳を取り出し、教えられた日時を書き留める。およそ二週間後だ。スケジ
ュールがどうなっていたかは、調べなければ分からないため、即答はできない。
「来るなら、敵だな」
 清水が口を挟む。残念がっているような、面白がっているような、両方の感
情が渾然とした結果、彼の顔に皮肉っぽい笑みを作らせた。
「そんなこと言うなよ」
 一方、大谷は清水の言を否定すると、呑気な調子で純子に頼む。
「もちろん敵だけど、俺が打席に立ったときくらい、応援してくれないかなあ」
 清水が「そんな中途半端な真似」と、再び口を挟んだ。が、そこへさらに逆
接による付け足しが。
「だけど、それ、いいな。俺も応援してくれ」
「清水、どっちなんだよ」
「その方が力を出せそうな気がするじゃねえか。おまえだってそのつもりで言
ってるんだろ?」
「ふん、俺は普段の力で充分だよ。おまえの方こそ、自信がないんだな」
「ばか言うな。潜在能力を百パーセント発揮してやりたいだけだぜ」
 くだらない口論を始めた二人を前に、純子は嘆息して、「あんた達、一体何
なのよー、もう」とつぶやいた。

 二月十四日全日ではないけれど、相羽に直接会って渡せそう。よしとしなく
ちゃいけない、と思う。何しろ、最初はあきらめて明日十一日のミュージカル
のついでに、早めのバレンタインとしなければならない雲行きだったのだ。
(会える目処はついた、と)
 だが、バレンタインデー問題は、依然として手つかずでいた。
(でも、何を渡すかが肝心よね、やっぱり。相羽君が思っている以上の物をあ
げて、喜んでほしい)
 ここ数日、暇を見つけては、相羽へのバレンタインプレゼントについて考え
ている。学校、家、仕事先やレッスン場への移動の車中……まさしく場所を選
ばない。
 今は、湯船に浸かりながら思いを巡らせていた。
(相羽君が驚くような、びっくりするような物が一番いいと思うんだけど……
あの相羽君が、そう簡単に驚いてくれるとも思えないし)
 思考がぐるぐると回り始める。実を言うと、このことを考えると、最終的に
は同じ地点に行き着くのだ。
(……私をあげる、って言えば、絶対に驚いてくれるはず)
 そして、常に否定される。純子の小さな悲鳴とともに。
「きゃー」
 赤くなった顔を、両手で覆い、そのまま顎先が浸かるまで腰の位置をずらし
て、身体を沈める。
(ま、また。私ったら、何考えてるのっ。驚かせることを最優先にするから、
こうなっちゃうのかな)
 笑み混じりにため息をつく。すると、案外大きなあぶくができた。湯の中で
あるのを忘れていたわけではないが、急いで浮上。改めて大きく吐息。
「はあー。ほんと、どうしよう」
 バレンタインデー当日までの日数を、指折り数えてみる。今日を含めても四
日しかない。
 しかも明日はプラネットシアターミュージカル、前日の土曜は仕事が入って
いるから、プレゼントに何を買うのか決めたとしても店に行く時間を取れるか
どうか、少々怪しい。十二日までに全てを終え、準備万端にしておきたいとこ
ろ。
(うーーーん……)
 これ以上長風呂はできないと言えるほど、ずっと考え続けた純子だったが、
くらくらする頭を振りながら上がる結果に終わった。
 だが、ここで妥協してチョコレートだけですませたくない。パジャマ姿にな
っても、考えるのをやめなかった。お風呂上がりにはたいてい飲んでいる冷た
い牛乳をコップ一杯干すと、のぼせかけていた身体もクールダウン。気分がよ
くなり、いいアイディアが浮かんできそうな予感がする。
「純子。この間言っていたスキーの話なんだが」
 ソファに収まり、音楽番組を見ながらぼんやり考えていると、父が話し掛け
てきた。スキー旅行の件は、何年か前からずっとリクエストし続けているが、
なかなか実現しない。
「父さんが行けそうな日は、こことここくらいで」
 カレンダーを指差したらしいが、今の純子には、それを認識する余裕がなか
った。つい、生返事をしてしまう。
「おまえのモデル仕事の暇なときと、重なっていればいいんだが、どうかな」
 テーブルを挟んで反対側のソファに座り、返事を待つ父。
 ところが、当然、純子の方からは答がない。
「おおい、純子?」
「え? はい?」
 すぐ隣に誰か立つ気配を感じ、純子は振り向いた。
「お父さん」
「その様子だと、耳に入っていなかったようだな」
 ややうなだれ、嘆息する父の横顔が、随分と寂しそうに見える。純子は慌て
て立ち上がった。
「ごめんなさい、お父さん。考えごとをしてて」
「仕事のことかい?」
「えっ、ううん、違うわ」
 過剰なほど、首を横に振る。父は安心したようにうなずいた。
「仕事で悩んでいるんじゃないなら、まあいいとするか」
「お父さん。話があったんじゃあ……」
「ああ、そうだったな。だけど、先に、純子の考えごとが何なのか、聞いてみ
たい気もするな」
「そ、それは、ちょっと」
 焦る。バレンタインデーのプレゼントを何にしようか悩んでいるなんて打ち
明けたら、一体どんな顔をされることやら。
 父はソファに座り直すと、台所に立つ母にコーヒーを頼んだ。

 折角の祭日に合わせてくれたかのように、二月にしては暖かな日だった。
 相羽と純子はプラネットシアターミュージカルを観るために、待ち合わせを
して、会場へ向かう。
「間に合ってよかった」
 相羽が待ち合わせ場所に、時間ちょうどに現れたのはいつも通りだが、その
際に息を切らせていたのは初めてだ。わけを尋ねると、宿題をすませるために
夜更かしをしたせいで、寝過ごしたという。
(宿題かぁ。ちゃんとすませて、約束にも間に合うなんて、偉いなあ。私、ま
だなんだよね。昨日は疲れて寝入っちゃったから)
 今日、観劇のあとは早めに帰宅して取り掛からなくちゃと、頭の片隅にきつ
くメモをする純子だった。
「みんな、ミュージカル目当てに見える」
 最寄り駅に着き、人混みを前に、相羽がつぶやく。そしてその流れに二人も
紛れ込んだ。
 前評判の高いイベントだから、相当な人出を覚悟していたが、実際には、会
場に向かう人の流れは、駅前よりは密度が薄まった。周辺まで来たときには、
楽に歩けるようになった。
 会場であるプラネタリウム施設そのものの収容人員がさほどではないためか、
入場もスムーズで、長時間並ぶ必要はなさそうだ。
 ただ、テレビカメラが二つ三つ並び、人だかりしている一角があった。有名
人を芸能レポーターらが取り囲んでいるらしく、そこだけみんな避けるように
して通っていく。
 一般客達の会話に耳を傾けるが、「誰? 誰?」「見えなーい」というばか
りでさっぱり掴めない。
「今日が初演なのかな? 初演に有名人がやって来ることが多いから」
 誘われた立場の相羽が、チケットを取り出し、確かめようとするが、今日の
日付があるだけで、公演日程までは記されていない。
「そうじゃなかったはずだけど……あ、あそこにポスターがあるわ。えっと」
 手を額にかざし、会場の柱に貼られたポスターに目を凝らす。その前を人が
いききするので、なかなか読み取れない。
「ここでの初演は一月三十日みたい」
「じゃあ、違うなあ」
「ちょっと行って、覗いてこようかしら」
「やめた方がいいよ。君がつかまっちゃうかもしれない」
「そんなことないって」
 笑って片付け、列を離れようとした純子。相羽はその腕を掴み、真顔で止め
た。
「それなら僕が行く」
 言うが早いか、サッカーのドリブル突破よろしく、人の流れの隙間を縫って
人垣に接近。さすがにその輪に入ることはできず、背伸びをして中を覗くと、
足早に引き返してきた。
「誰だった?」
 尋ねる純子に、相羽はちょっと奇妙な視線を返す。
「……君が行かなくてよかった。加倉井舞美さんがカップルで来ていた」
「加倉井さんが! うわー、凄い偶然」
 と驚いてみたものの、落ち着いて考えると、同じルートでチケットを入手し
た可能性があると思い当たった。チケットをくれた市川のニュアンスから、芸
能界ルートがあっても何ら不思議ではない。
「それで、カップルって?」
「男の方は確か、タレントの鰐渕かな」
「あっ、今度始まるドラマで共演するのよ、加倉井さん達。その関係で、ちょ
っと噂になってるみたい。恋人だって」
「さすが、詳しいね」
 からかい半分らしい相羽の口ぶりに、純子は肩をすくめる。
「詳しくなんかないって。テレビでやってるわ。多分、ドラマを煽るための芝
居じゃないかなって言われてる」
「なるほどね。それを確かめるために、あれだけ集まっているのか。レポータ
ーも仕事とはいえ、暇だなぁ」
 相羽が芸能レポーターに批判的なのは、もしかすると、あり得るべき将来を
見越してのことかもしれない。純子にまとわりつかれては、苛立ちが生じると
いうもの。
「挨拶しておきたいところなんだけれど……」
 純子は人だかりの方角を見つめながら、ぽつりとこぼす。
「今は無理だよ。中に入ってから顔を合わせるようだったら、そのときすれば
充分でしょ」
「うん……」
(万が一、加倉井さんと鰐渕さんが本当に恋人同士なら、声を掛けにくいんだ
けれどな。向こうに気付いてもらうまで待ってるっていうのも失礼な話よね)
 という思いは残ったものの、現時点では相羽の意見に従い、素知らぬふりを
して、入場した。
 防音のしっかりしていそうな扉を押してホールに入ると、まだそこは明るか
った。只今、開演二十分前といった頃合だから、当然だろう。客席の大部分は
すでに埋まっている。
「――よかった。若い人も大勢いるわ」
 指定された番号の座席に向かう途中、純子はそんな感想を漏らした。自分の
お父さんお母さんぐらいの年齢の人ばかりだったらどうしようかと、少々不安
だったのだ。
 前を行く相羽は別のことで訝しがっていた。
「プラネタリウムが見当たらない」
 プラネタリウムの設備を活かしたミュージカルだというのに、ホール内のど
こにもそれらしい機械はない。
「あ、それはね」
 席が見つかった。座ってから説明する純子。まずは舞台の方を指差した。観
客席からは斜め下に位置する。
「舞台奥にスクリーンがあるの、見えるよね?」
「うん」
 舞台の後方、背景に当たる箇所がスクリーンになっていた。それも、半円形
に近いカーブを描いたスクリーンだ。
「あそこに、特殊なプロジェクターを使って投影するそうよ。簡単に言えば、
基本的に映画と同じ」
「ふうん。でも、手前の舞台で俳優が演じるんだから、その人達に投影が重な
ってしまわないのかな」
 さすがに、そこまでは知らない。「それはうまく処理してあるんじゃない?」
と答えておく。
 着席してお待ちくださいとのアナウンスが開演十分前から流れ始め、五分前
になると明かりが一段階落とされた。
 これから開演ですという放送のあと、文字通りすぐに始まった。スクリーン
は夕方から夜に掛けての空。あの微妙な色の移り変わりを見事に表現すると同
時に、観客の目を慣れさせていく。
 舞台の一部が仄かに明るくなる。役者の顔や姿形が分かる程度の光だ。三人
の男女が立っている。
“子供の頃、宇宙は無限だと教わった。信じていた”
 静かだが、張りのある声。この舞台はイタリア発で、演じるのも現地の人達
だから、日本公演でも当然、イタリア語が用いられる。台詞が分からなくても
楽しめる作りになっているそうだが、念のため、スクリーンの端に字幕スーパ
ーの投影が行われる。
“だが、それは間違い。僕らの持つ可能性と同様、無限ではないと分かった”
 皮肉な調子で別の声が言う。さらに女性の声が続いた。皆、若い。
“恐らく、真実ね。でも”
 間を取る。背景は夜になっていた。星のきらめく明るい夜に。
“ひっくり返してみたくない?”
 言い切ると同時に、音楽が入った。

 * * *

 幕が下りたあとも、まだ続いているような気がしばらくした。
 浮揚感が残っている。視界全部から足下から、星空で埋め尽くされて、空間
を漂うような不思議な感覚を身体全体で楽しんだ。
 隣の相羽がこちらを向いたのが分かった。何も言わないでいる。
 純子も顔を向けた。二人して、ほとんど同じタイミングでため息をつき、声
を揃えて「凄かった」「凄かったね」と言った。
「……わ。手が震えてる。ほら」
 左手を手すりから起こすと、わずかだが震えているのが分かった。段階式に
音量がアップしていく目覚まし時計みたいに、およそ三秒おきに振動する。
 純子は右手で左手を押さえた。止まった。
 改めて客席を見渡せば、すぐには立たずに、座ったままの人がたくさんいる。
きっと同じ感動を味わっているに違いない。
「実際に宇宙遊泳したら、あんな感じなのかな」
「分からないけど、ふわふわして心地よかった」
「うんうん。それと、あのダンス!」
「あれもぞくっとしたね。二、三十人の人が、全く同じタップを刻んで」
 “一糸乱れぬ”を体現したかのようなタップダンスだった。会場全体に響く
音と、足下にどこまでも広がる宇宙空間の深さが奇妙なほどマッチして、一体
感を持つことができた。
「ミュージカルと聞いて、唄うだけという先入観があったから、なおさら驚い
たなあ。純子ちゃんは知ってたの?」
「知ってても驚いたわ。こんなに凄いとは予想できなかったもん」
 捲し立てる風に感想を述べ合い、たった今もらったばかりの感激を新たに共
有していると、横手から声を掛けられた。
「どこかで見た顔だと思ったら、涼原、いえ、風谷さんじゃないの」
「あっ、加倉井さん」
 振り向くと、加倉井と鰐渕が並んで通路に立っていた。
 加倉井は野暮ったい雰囲気の眼鏡を掛けて、髪を三つ編みにし、育ちのいい
お嬢様風を装っている。そのせいか、少し年上のように見えた。
 鰐渕は革のブルゾン、ジーンズという出で立ちに、紺のチューリップハット
をうまく被り、芸能人のいわゆるオーラを消しつつも、格好よく決めていた。
 純子は立ち上がると、お辞儀をした。
「おはようございます」
「仕事場じゃないんだから、『こんにちは』とか『やあ』とか、『元気?』な
んかでいいのよ。それに大げさに頭を下げられたら、目立っちゃう」
「すみません。その、挨拶が遅れてしまって、申し訳なくて」
「遅れて? ああ、入るとき、見てたのね。私達が囲まれてたの」
 察しよく合点すると、加倉井は鰐渕を見た。
「彼女とは初めてだったかしら?」
「確か。雑誌やコマーシャルで見掛けているから、初めてという気がしないが」
 若干枯れ気味の声で応じる鰐渕。シャツの胸ポケットに差してあるサングラ
スらしきフレームをいじると、帽子を取った。
 純子は急いで鰐渕にも挨拶をした。
「初めまして。風谷美羽です。どうかよろしくお願いします」
「こちらこそ」
 ぶっきらぼうに言って、自分は名乗らず、片手を軽く上げる鰐渕。俺を知ら
ない人はいるまいとばかりの、自信満々の体だ。
「そっちの彼は?」
 親指で差し示す鰐渕。
 “そっち”扱いされた相羽だったが、ここは如才なく自然な笑みを浮かべる。
「彼は、と、友達の相羽信一君です。彼のお母さんに、仕事でお世話になって
いて」
 純子が紹介をしたあと、「相羽です」と答えた。
(“友達”でよかったのかな? 恋人って言いたいけれど、言えないし)
 鰐渕の反応よりも、相羽がどう感じたかが気になる純子。
(分かってくれてると思うけど……)
「今日はデートね?」
 気を取られていたところへ、加倉井から直球の問い掛けをされた。不意をつ
かれたせいもあって、「え、ええ」とすぐさま肯定してしまった。デートイコ
ール恋人関係という等式が必ずしも成り立つわけではないけれども、免疫があ
まりないだけに、答えた直後にかーっと顔が赤くなる。
「加倉井さん達もデートですか」
 相羽がすかさず尋ね返す。加倉井はこなれたもので、「ドラマのためよ」と
平然と答えた。
「バレンタインに主役二人がデートすれば、話題になるものね。思惑通り、マ
スコミのミナサマも集まってくれたわけ」
 にこりともせず、皮肉な調子で続けた加倉井。恐らく、二人でこのミュージ
カルを観に行くという情報も、事務所サイド自ら流したものなのかもしれない。
「あなたもインタビューを受けてきたらどう? 顔と名前が売れる上に、恋人
発覚のおまけ付き」
 加倉井が純子に向けて言った。真顔だが、本気なのか冗談なのか分かりにく
い。純子は念のため、「とんでもない」と顔の前で手を振っておいた。
「あらら。恋人じゃないの? 本当にお友達?」
 加倉井の表情が、初めてはっきり変化する。獲物を見つけた猛獣みたいに、
笑みを覗かせた。
「そ、そういうわけじゃ」
 もごもごと口の中で答える純子。相羽があとを継ぐような形で応じる。
「僕らのことがマスコミの人に知られると、加倉井さん達に悪いですから、遠
慮しておきます。目玉のニュースが二つ並ぶと、インパクトが弱くなるでしょ」
 加倉井や鰐渕と純子との人気や知名度を比較するかのような相羽の言い種に、
純子は内心、ひやりとしたものを感じる。若干上目遣いになって、相手二人の
様子を見やる。
 対して、虚を突かれたかのように口をつぐんだ加倉井は、やがて笑い声を漏
らした。
「――ふふふ。頭いいわね」
 気を悪くした様子もなく、逆に上機嫌になった風だ。純子はほっとして見つ
めていた。
「さあ、もう行かないとね、鰐渕クン。私達も忙しい身なんだから」
「そうだな。マネージャー達も来る頃だ」
 さっさと歩き始めた加倉井。腕時計を見、きびすを返した鰐渕。
 別れの挨拶はなしかと、肩の荷を下ろしかけたところへ、鰐渕が首だけ振り
返った。
「噂通り、確かに面白い子だな、君は」
 一方的に言うのへ純子が何か返事する間もなく、相手は加倉井の後を追って
出入口の方へ姿を消した。
「……何だったんだろ?」
 純子が向き直ると、相羽は髪をかき上げた。そして辟易した風に、嘆息混じ
りにつぶやいた。
「まさか、第二のカムリンじゃないだろうな」
「ま、まさか。そんなことあるはずないわ」
 将来共演するかもしれない相手から好感を抱かれるのは結構なことだけれど
も、個人的好意を持たれるのは困る。特に今は。
「冗談だよ」
 相羽は微笑しながら言うと、懐中時計を取り出し、時刻を確かめた。音を立
てて蓋を閉じ、また仕舞う。
「今日は、仕事入ってないって言ってたよね?」
「え、ええ。でも……宿題がまだ」
 俯き、答えた純子。相羽がこれからどこかに誘ってくれそうな雰囲気はもち
ろん感じ取ったが、ここはきっぱり言っておかなければならない。だって、宿
題を今日の内に片付けておかないと、三日後のバレンタインデートにしわ寄せ
の行く危険性がある。
「それじゃあ急いで帰らないと。――僕も寄っていいかい?」
「え。かまわないけど、何? 用事があった?」
「用事なら今できた。一緒に宿題やろう」
 言うが早いか、純子の手を取り、椅子の列を抜けて、通路に出る相羽。
「あ、ありがと」
「一緒にやると言っただけで、教えるとは言ってないよ」
「いいのっ。ありがとう」
 今日ばかりは、相羽に頼るとしよう。それが、自分達のためになるのだから。

           *           *


――つづく





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