#329/566 ●短編
★タイトル (AZA ) 07/11/29 23:46 (395)
お題もどき>大病院>なおりさえすれば 永山
★内容 07/12/20 19:50 修正 第3版
週末を控えた木曜の昼過ぎ、気温は上がり、空は晴れ渡っていた。
難問を抱えたセオドア・スペンサーは、最後の手段として、ウィングル魔法
医院を訪れた。
「ウィングル先生。今、お暇ですかな」
「ご覧の通り、幸いにも暇ですよ、スペンサー刑事」
診察室にスペンサーを迎えたウォーレン・ウィングルは、相手に丸椅子を勧
めた。
「さてさて、どこの具合を悪くされたかな」
「いえいえ。分かっているだろうに、人が悪い」
苦笑いを浮かべるスペンサーを、ウィングルは頭のてっぺんから爪先までじ
ろじろと見回した。
「うん、少なくとも見た目は健康そのものだ」
「まったく……。そういえば、フェイド君の姿が見えないが、どうしました」
「ちょっとした買い物があると言うので、送り出したところです。なので、只
今、お茶が出せません」
「一人しかいない看護婦を外にやるとは、本当にお暇なようですな」
「利用者が少ないほどいいのは、警察と病院の共通点。ただ、困ったことに、
警察はそれでも給料をもらえるが、私のような医者は干上がってしまう」
「ちょうどいい。先刻ご承知と思うが、知恵を貸していただきに来た。捜査が
難航しておりましてな」
「最近は遠慮がなくなってきましたね、スペンサー刑事」
「概要を聞けば、先生も興味を惹かれることを請け合いますぞ」
「一日で片付くような話でないと、困るんですがね。明日の午後は、往診に出
掛けなければいけない」
「それまでに解決できなかったときは、往診の合間に考えてもらえれば」
「調子のいいことを」
覚悟を決めたウィングルは、帳面を取り出し、机の上で広げた。自分の職業
とはまるで無関係の雑記帳である。
「話してみてください。予めお断りしておきますが、手に負えないと思ったと
きは、早々に引き下がらせてもらいます」
鉛筆を構えたウィングルを前に、スペンサー刑事は一瞬、にやりと嬉しそう
に表情を崩した。「ありがとう」と短く言い、捜査中の事件に関して話し始め
る。
「事件は週末に起こった。いつものように、殺しです。被害者はビンス・マク
ローナルなる男性。自宅に一人、部屋で新聞を読んでいるところを刺し殺され
た。死ぬ二週間前に五十になったばかり。主に小麦を作っている。この辺じゃ
ありふれた農家の主ですな」
「待ってください。どうも聞き覚えのある名だ……ああ、その人物の息子がこ
の春から街のサンクレア病院勤務になったはず。ビンス・マクローナル・ジュ
ニア、腕の立つ外科医だと聞いています。サンクレア病院そのものは、治しさ
えすればいいだろう的な感じがして、いい印象を受けなかったが」
「ほう。会ったことは?」
「父親とは面識がないが、ジュニアとは一度だけあります。夏に交流名目で、
サンクレア病院を訪れた際にね」
「なら、少しだけ話が早くなる。会ったのなら、ジュニアが先生と同じように、
魔法医であることも分かったでしょうな?」
「ええ。尤も、私の術と彼のそれとでは、だいぶ違いがあります。私は魔法そ
のもので治し、彼は魔法を用いて手術を行う。私は彼のようなやり方はできな
いし、逆に彼も私のやり方はできません」
「そのことは当人も認めてましてね。端的に言えば、メス等を遠隔操作で精密
に動かせるんだそうで。で、ここからが肝。ビンス・マクローナルの死に様が、
凶器の遠隔操作によるものとしか思えない」
「衆人環視の状況で、空飛ぶナイフに切り裂かれたとでも?」
「いえ。内側から閂の掛かった部屋の中で、腹を刺されて死んでいた。内臓に
まで達する傷だと報告を受けています」
「……被害者宅の鍵は全て、魔法錠なんでしょうね」
通常の鍵では、魔法を使われると、外からでも簡単に開けられてしまう。そ
れを防ぐために、魔法錠が普及している。
「無論です。いくらこんな田舎でも、魔法錠は常識だ」
「魔法に頼らない手段、たとえば糸を隙間から通して、扉の外から閂を掛けら
れるなんてこともない?」
「そうです。馬鹿々々しいですが、試しましたから間違いない」
「試したというのは、密室殺人だと認識しているんですね」
「ああ。そういう言い方もありましたっけ」
スペンサー刑事は、嫌いな表現を使いたがらない質だ。しかし、この場合は
やむを得ない。
「ただし、実際に密室状態だったのは、遺体のあった部屋だけですよ。家全体
で捉えるなら、玄関が開いていた」
ウィングルはメモを取る手を止めた。
「それにしてもおかしいな。さっき言われたような状況になるのは、何も凶器
の遠隔操作ばかりじゃないでしょう。普通に刺し殺したあと、鍵を掛けたまま、
脱出できたとすれば、同じことになります。たとえばガラスを破って外に出た
あと、ガラスを修復魔法で元通りにするとか」
「説明は全部済んでませんよ、先生」
にやりと、今度はたっぷり笑う刑事。ウィングルは再び鉛筆を構えた。
「現場を綿密に調査したところ、魔法痕が残っていました。修復魔法なんかじ
ゃありませんよ。遠隔操作の魔法を使った痕跡が、波紋として感知できたんで
す」
魔法を行使すれば、現場一帯に痕跡が残る。と言っても、それは目に見える
形ある物ではなく、また、他の感覚でもとらえられない。警察が導入した特殊
な装置によってのみ、波紋として感知可能なのである。
通常、魔法が使われてから向こう三ヶ月程度なら、どんな魔法が使われたか
まで特定できる。調査が早ければ、魔法痕から個体識別すら容易で、それが犯
人逮捕の決め手となる。
「捜査に着手できたのが、犯行から推定三時間ほどしか経過していなかったお
かげで、魔法を使ったのはジュニアであると分かりました」
「スペンサー刑事。私に相談しに来た理由が、さっぱり見えてこない」
「色々とあるんですよ。まず、ジュニアが認めんのだ、これが」
困ったもんだという風に嘆息するスペンサー刑事。
「遠隔操作魔法の痕跡があったのは、庭に回って父ビンスの部屋を覗くと、床
に倒れている姿が見えた。傍らに愛飲するブランデー瓶が立ててあったが、酔
っただけで身体が血まみれになりはしまい。ただごとではないと感じ、助けよ
うとしたが鍵が掛かっている。遠隔操作で開けようと試みたが――魔法錠だか
ら当然だが――うまく行かなかった。と、こんな言い訳をしている」
「なるほど。確かに、裁判になってからそんな抗弁をされると、ちょっと厄介
ですね」
「二つ目に、ジュニアにはアリバイがある」
刑事は今度は腕を組み、首を傾げてから続けた。
「死亡時刻は、夜の七時前後と推定されてるんですが、ジュニアは同時刻、同
僚達と店で食事をしていた。店員の証言もあるので、認めざるを得ない。だが、
遠隔操作魔法を使ったのだとしたら、あまり意味がない」
「歯切れが悪いですね。アリバイが問題になるとは、つまり、遠隔操作だけで
は解決できない点があるんでしょう?」
「相変わらず察しがいい。ジュニアは物体を遠隔操作できても、遠隔操作を行
うその空間を見ている訳じゃない。でたらめに凶器を振るうしかない。だが、
実際は違う。ビンス・マクローナルの遺体の刺し傷は、腹を真っ直ぐ、一回で
深く切り裂いていた。よほど素早くやられたみたいで、被害者の手や腕に防御
創が一切なかった」
防御創とは、襲われた人が抵抗することで付く傷跡のことである。
「ただ、不可解なことに、マクローナルの指先――右手の親指と人差し指の腹
に、小さな傷ができてましてね。古傷ではなく、新しいものが。新札の縁で切
ったような傷ですが、新聞紙ではああはならない」
「指先の傷に関しては、見てみないと意見を述べづらいですが、防御創がなか
った件は、説明が付くのではありませんか。寝入ったところを襲われたとか」
「それはないでしょうな。マクローナルは床に倒れていた。仮に椅子から転げ
落ちたのだとして、座った姿勢のまま眠っている人を刺すには、机が邪魔にな
る。被害者は、新聞を机に広げていましたんでね」
「ふむ。即死だったんですか?」
「即死でないにしても、襲われてからさして間を置かずに息絶えただろう、と
いう見解ですな」
「そういえば、凶器の話が出て来ませんね」
「それそれ。三つ目にして最大の疑問」
手を一つ叩き、ウィングルを指差すスペンサー刑事。
「凶器は未発見なんです。室内どころか家中探しても見付からず、現在、捜索
範囲をどんどん広げている段階です」
「傷口から、ある程度の想像は付いているんでしょう?」
「鋭利な刃物としか。刃渡りすら、判然としない有様です。まあ、相当に長い
得物だってことですな」
「……状況に分からない点がいくつかあるので、教えてください。事件当夜、
被害者は自宅に一人だったのですか」
「その通り。夫婦二人暮らしだが、妻のシリルは婦人会主催の日帰り旅行に参
加しており、不在だった。ビンスがいつも通りに行動したと仮定したなら、妻
の用意してくれた夕食を、午後六時二十分には食べ終えたと思われる。この時
季、日の入りが早いですからね。さっきも触れましたが、食後は自室に籠もり、
酒を飲みながら新聞を丹念に読むのが常だったそうです」
「話を聞く限り、ジュニアが第一発見者のようですが、彼が遺体を発見し、通
報するまでの経緯は分かっているのですか」
「大まかなところは。尤も、ジュニア犯人説を採る立場からすれば、どこまで
真実なのやら……」
肩をすくめるスペンサー刑事に、ウィングルは早く話すようにと催促した。
「同僚との食事を終えたのが八時四十分頃。普段は病院近くの寮に戻るんだが、
週末は両親の家に行って泊まるのが習慣になっていた。大病院の医者はやはり
儲かるんですな、若いくせに自分の車を持っていましたよ。それも新車だ」
「私が持っているのは中古車ですよ」
唇を尖らせるウィングルであったが、スペンサー刑事は軽く受け流す。
「ウィングル先生は個人店主で、しかも経営があんまりお上手でない。それは
ともかく――車を飛ばすこと一時間、九時四十分頃に到着し、先程述べたよう
な次第だと証言していますな」
「両親宅の鍵を、ジュニアは持っていなかったんですか」
「ええ。たいてい在宅しているし、家にいなければ周囲の畑を探せば見付かる。
留守なら留守で、無理に上がり込む必要もないとなると、鍵はいらんのでしょ
うな」
「動機の見当は付いているのでしょうか」
「いや。それも難問の一つでして。誰に聞いても、親子関係は良好だとしか出
て来ない。ジュニアがまだ小さかった頃、農業を継ぐのは嫌だ、医者になりた
いと言い出して一悶着あったようですが、ジュニアが優秀さを示すことで決着
したとか。医者になって、近くの街の大病院勤務が決まったときなんざ、両親
とも鼻高々だったらしい」
「ふむ……現場の状況や魔法痕はジュニアの犯行を示唆するも、他の様々な点
でしっくり来ない、といった感じですね」
「まさしく。あんな殺し方、他にやりようがないんだから、息子が犯人でまず
間違いないとは思うのだが、どうもいけない」
「他に魔法痕は見付かっていない?」
「皆目ありゃしません。何千年も前ならいざ知らず、数時間前に使われた魔法
が、痕跡を一切残していないなんて、あり得ない」
痕跡を消す魔法は存在するが、そうすると今度は、“痕跡を消すために使っ
た魔法”の痕跡が残る。堂々巡りである。
「念のために聞きますが、現場となった部屋の魔法錠、その鍵はいくつ存在し、
どこで発見されたんでしょう」
「作られたのは一本のみ。被害者が肌身離さず身に着けていたそうで」
「被害者を殺す動機がありそうな人物は、見付かっていないんでしょうか。夫
婦仲に亀裂が入っていたとか」
「夫婦仲は円満。共に健康で、どちらかがどちらかに負担を掛けるようなこと
もない。だが、外には敵が二人ほどいましてね」
「それを早く言ってくださいよ」
「一人目は、トマス・レングストン。被害者のお隣さんで、やはり農業を営む。
マクローナルとは、かつて土地を巡って揉めた。裁判所の判断で、金で決着す
るも、レングストンは不満を持っていたようだ」
「レングストンなら知っています。骨折やら打ち身やらで、何度か来たっけ。
気むずかしいところはあるが、金離れがいい。割とお金持ちみたいで、魔法病
院を気軽に利用してくれるお得意さんですよ」
「酒癖は悪かったみたいですな。事件当夜はずっと家に一人でいたが、酒を飲
んでいたので、怪しい物音一つ聞いた覚えがないと言っている。
もう一人は、カルソール・ネブリという男で、元配達員。マクローナル家へ
の荷物を乱暴に扱い、三度、店に苦情を入れられた末にやめさせられている。
えっと、事件の約四ヶ月前のことになりますな」
手帳を見ながら計算をしたらしいスペンサー刑事。
「レングストンにしろネブリにしろ、今度の事件が起きるまでに、マクローナ
ル家へ何らかの行動を起こしていませんか」
「レングストンは隣人だけあって、時折顔を合わせるから、たまに嫌味の一つ
でも言っていたようですが、レングストン本人に言わせるとお互い様だった、
と」
「彼の骨折や打ち身は、ビンス・マクローナルとの喧嘩で負ったものじゃない
ようですね」
「ネブリの方は、仕事を失った直後と、それから少し経ってもう一度、文句を
言いにマクローナル家を訪れています。逆恨みからの行動ですが、二度とも、
大きな騒ぎにはなってない」
「ネブリの今の仕事は?」
「定職はなし。短期の仕事で凌いでいると言っている。狭い村だから、不真面
目な仕事ぶりなんて噂が広まると、次に定職を見付けるのは難しい」
「この二人、何か魔法は使えますか? ああ、あとビンスの奥さんについても」
「おいおい、先生!」
スペンサー刑事は座ったまま、両腕を大きく広げた。椅子が軋む。
「魔法痕は、ジュニアの遠隔操作のやつ以外、見付かっていないんですぜ?
しっかりしてくれないと困るな」
「念のためですよ。当然、調べているんでしょう、優秀な刑事さんは」
「レングストンは水脈を見付ける魔法が使えるそうだが、極弱い。仮に見付け
たとしても、穴を掘る労力やら何やらが必要だから、大規模な干ばつでも来な
い限り、有り難みは薄いな。
ネブリは何もない。魔法の一つもできれば、職にありつける可能性も高まろ
うってもんだが。
奥さんのシリルは、主婦業向きの魔法が使える。料理を作ったあと、思い通
りの時刻に、食べ頃に温めることができるんだと。御札に書く必要があるらし
いが」
「それはいいですね。ジュニアの魔法医としての素質は、母親譲りなのかな。
亡くなったマクローナルさんは、魔法は?」
「さすがに事件とは無関係だと思うが……。魔法一家ですよ。ビンス・マクロ
ーナルは、壊れた物を元通りにできたと聞いています。修復魔法ですな」
「おお、それは素晴らしい。農家にしておくのは勿体ないぐらいだ」
「ただし、一年に一度しか発動しなかったそうです。他にも色々と制約があっ
て、破損した部分が焼失や溶解などしてしまうと、直せない可能性が高くなる
とか、対象とする物体の大きさはせいぜい両腕で抱えられる程度までとか」
「ははあ。じゃあ、商売にはなりそうもない」
「確かに。――ああ、これを言っておかないと、先生に叱られるかもしれませ
んな。念のため、一応ってやつになりますが」
「何です? 気を持たせますね」
「現場から反応があった魔法痕は、ジュニアの遠隔操作だけだと言いましたが、
厳密には違いまして。被害者が修復魔法を行使した痕跡がありました。死の三
十分ほど前から死ぬ直前までに使ったらしいと」
「ほほう。興味深いな」
話を書きとめ、今の箇所を鉛筆の尻でとんとんと叩くウィングル。
「まあ、関係ないでしょう。被害者が使ったんだから、犯行には関係あるはず
がない」
「でも、何を修復したのか、気になりますね」
「ひょっとしたら、自分自身を治そうとしたんでは? 切り裂かれた腹を元に
戻そうとして、虫の息で魔法を掛けた」
「それは私の使える治癒魔法の領分ですよ。修復魔法は、無生物にのみ効果が
ある」
「だめで元々、せめて止血になればとやったのかもしれませんぜ。何せ、瀕死
の状態なんだ。どんなことでも試すでしょう」
「人の心理として、ありそうですが……。他に修復を施したらしき物体は、見
付かってないんですか」
「先生、自分で言った窓ガラスを直して作る密室に拘っていやしません? 生
憎、修復魔法が使われたのは、窓辺ではなく、被害者の遺体周辺に限定されて
いるんで、先生の推測は外れ」
「ううん、だめか。被害者自身が犯人を庇うために、現場を密室にした可能性
を考えてみたのですが」
「庇うってことは、奥さんが犯人だと想定してる?」
「決め付けちゃいませんよ。犯人を先に仮定するのは難しそうなので、密室を
作る方法を解き明かすことで、犯人像に迫ろうとはしていますが」
「率直に伺いますが、ジュニアが犯人である目は、いかほどとお考えですかな」
「さあて? 確率のように数字で表せるものじゃないからなあ」
鉛筆を置き、左右の五指を組み合わせて考えるウィングル。スペンサー刑事
は唇を湿らせながら言った。
「ウィングル先生。喉、乾きませんか? 喋りすぎたようで」
「フェイド君の帰りを待てない? 不味くてよければ、ティーバックの紅茶が
ありますが」
答えてから時計を見たウィングル。看護婦のフェイドが外出してから、まだ
四十分と経っていない。いつものペースから推して、この倍は要するだろう。
「かまいやしません。ああ、自分でやります」
腰を上げかけたウィングルを制し、刑事は勝手知ったる診療所内を移動する。
さして広くないため、会話は続けられる。
「勤務中でなければ、ブランデーを垂らすことをお勧めするのですがね」
「言わんでください。誘惑に負けそうになる。――大事に飲んでおられますな」
ブランデーの瓶に視線をやったのか、スペンサー刑事が聞いてきた。
「以前見たときと、量がほとんど変わっていない」
「新しいのを開けたとは考えないんですね、スペンサー刑事」
「おや。そうでしたか」
「いえ。ここしばらく、飲んでいません」
「瓶で思い出しましたが」
カップの中でティーバックをちゃぷちゃぷさせながら、刑事が戻ってきた。
こぼれそうなところを、口を持って行き、息で冷ましつつ飲む。
「現場にあったブランデー瓶を見て、シリルが首を傾げたんですよ。『あまり
飲まなかったのかしら』と」
「……つまり、いつもに比べると、飲んだ量が少ないように思えたんですね、
奥さんは」
「ええ。旦那の健康を当人以上に気遣っていて、酒の量をチェックしていたと
か。目分量だから、当てにはなりませんがね。そもそも、ビンス・マクローナ
ルは飲む前か、飲んでいる途中に殺されたのかもしれない」
「グラスはどうでした」
「え?」
手にしたカップを見つめる刑事。ウィングルは微苦笑を浮かべた。
「マクローナルが使っていたグラスのことですよ。現場にあったんでは?」
「ああ、ありましたよ、机の上に。飲み干してから時間が経過したせいか、乾
いてましたね。酒で濡れた感じがなかった」
「……飲んでいない可能性は?」
「マクローナルの遺体からは、アルコールが検出されとります。少量ですがね」
「ずっと引っ掛かっているんですが、瓶は床に立ててあったんでしたっけ。聞
き間違いですかね?」
「いいえ、先生の耳は正常ですよ。床に立てて置いてありました。何か疑問で
も?」
「よほど大きなサイズでない限り、瓶も机の上に置くんじゃないかと思いまし
て。新聞を読むのに邪魔なのかな」
「いや……あれは大きな机だったから、邪魔にはならない」
カップを持ったまま、上目遣いになり、しばらく考え込む様子の刑事。
「長年の習慣でできたのでしょう、机の角に、薄くですが、円形にすり減った
跡がありました。そこに瓶を置いていたのだと思います」
ウィングルは帳面に目を走らせた。一つの想像が浮かび、新たな気懸かりが
出て来る。
「瓶の栓は、金属製キャップですか」
「ええ」
「見付けたとき、キャップは開いていましたか、閉まっていましたか」
「閉まってました」
「留め金というんですかね、新品の物を開けたときに出る、細い部分はなかっ
たですか」
「無論ですよ」
さすがに呆れたのか、この質問には苦笑いで返したスペンサー刑事。
「とうの昔に捨てたでしょうよ。溶かされて、今頃、別の商品の一部になって
るんじゃないですかな」
「それもそうか……。魔法痕の検査には、結構な費用が掛かるんでしょうね」
「気になる物言いですな。事件解決につながるのなら、大丈夫ですよ」
「いや、一つでも根拠があればと思い、キャップについて尋ねたんですが、な
いんじゃあ困った」
「あのですね、先生。分かるように仰ってください」
「この事件、実際は事故だと思えてきました」
「じ?」
口に運びかけていたカップを停め、刑事は絶句した。ウィングルは真顔で続
けた。
「そのための傍証を得るには、ブランデー瓶の魔法痕を再検査してみなくちゃ
いけない。修復魔法の痕跡は、遺体周辺で使われたとしか分かっていないです
よね?」
「まあ、そうですが。瓶の魔法痕を調べると事故かどうか分かるとは、信じら
れませんな。第一、どんな事故が起きたら、あんな死に様になるのやら。しか
も、現場は密室状態で、凶器は残されていないと来た」
「私が事故だと考えるに至った過程を、順を追って話します」
鉛筆を置き、再度、帳面の内容を確認してから、ウィングルは話を始めた。
「きっかけは、マクローナルの指先に残っていたという小さな傷です。まず、
その傷は、ガラスの破片で切ったものではないか、と考えました。現場の部屋
にあったガラス製の物となると、真っ先に酒瓶とグラスが思い浮かぶ。一方、
スペンサー刑事の話に、ガラスが割れたようなくだりは出て来なかった。これ
を矛盾なく結び付けるのは、マクローナル自身の魔法です」
「修復魔法? ガラスが割れ、それをマクローナルは直したと?」
「ご名答。酒瓶かグラス、あるいは窓ガラスの線もあり得ますが、グラスに酒
で湿った感じがなかったことから、瓶だと結論づけました」
「グラスが乾いていたら、何で割れたのが酒瓶てことになるんです?」
「説明しにくいので、少し後回しにさせてください。ともかくマクローナルは、
何かの拍子に酒瓶を割ってしまった。最初、それを片付けようと手を伸ばした
が、破片で指先を切ってしまった。面倒臭さ、酔いもあったのでしょう。酒を
ぶちまけ、だめにしたいらいらもあったかもしれない。そこで修復魔法の使用
を思い付く。『そうだ、修復魔法を使えば、瓶だけでなく、こぼれた酒も元通
りになるはずだ』と」
「ああ、酒が元通りになると言うことは、グラスの内面に付着した分も、元通
りになるってことですか」
「はい。冴えていますね、スペンサー刑事。私も喋りやすくて助かります」
ウィングルに誉められ、刑事はむずがゆそうに唇を曲げた。冷め始めた紅茶
を煽り、座り直すと、「早く全部説明してくれませんかな」と催促した。
「マクローナルは机を離れ、床に跪いたと思います。そして割れた瓶を見据え
て、魔法をかける。ですが、彼は肝心なことを失念していた。酔っ払っていた
せいでしょうか、それとも端から思いも寄らなかったのか。――自分が飲んだ
ばかりの酒もまた、瓶の中に戻ろうとすることを」
「え?」
「吸収・分解される前なら、飲んだブランデーも元通りになる。それが修復魔
法というものです。もしもマクローナルが、瓶だけの修復を明瞭に意識してい
たなら、酒はそのままでしょうけどね。こぼれた酒を惜しいと思ったのなら、
新品のブランデーを思い描いたに違いありません。結果的に、その小さな欲が
命取りになった。胃袋に収まったばかりのブランデーは、修復魔法の影響を受
け、恐らく矢のような形になって胃を破り、さらにはマクローナルの腹を突き
破って、瓶の中に収まったのです」
「……何という……」
「身体の外から刺されたのではなく、内側から刺されたことになります。そん
な例はこれまでになく、また常識外れであるため見落とされたようですが、遺
体の傷口を子細に調べることで、内から外に向かって刺されたのだと判定でき
るかもしれません」
「分かりました。ほかならぬウィングル先生の意見だ。早速、手配しますよ。
遺体と瓶、それぞれの再検査を」
決断した刑事は口元を手の甲で拭うと、カップの底を見せるようにして、残
りの紅茶を飲み干した。多分、数滴しか残っていなかったのであろう。スペン
サー刑事は唇を嘗めてから、ウィングル魔法医院の電話を借りた。
「まあ、そんなことがありましたの」
帰って来たニッキー・フェイドは、ウィングルから留守中の話を聞いて、少
少残念そうに言った。彼女は推理小説を愛読するだけあって、実際の事件にも
興味惹かれるものがあるようだ。
「それで、すぐさま電話があって、ブランデー瓶には、確かに修復魔法が施さ
れた痕跡があったそうだよ。誰がいつやったか等の詳細は、もう少し先になら
ないと分からないが」
「先生の推理通りで、きっと正解ですわ」
「遺体の再検査の方は、手続きを踏む必要があるので、最終的な結論が分かる
のはまだ先になりそうだが、無理矢理にマクローナル・ジュニアを犯人に仕立
てようとするよりは、私の解釈の方が理にかなっている気はする」
「――ねえ、先生」
買ってきた物の内、食料品を片付けていたフェイドが、ひょこっと顔を覗か
せた。手には飲みさしのブランデー瓶が。
「何だい?」
「もしも私がこの瓶を割ってしまったら、先生はどうします?」
「私は修復魔法が使えないし、大人しくあきらめて、新しいのを買うとするよ」
「修復魔法が使えたとしたら?」
「うーん」
予想外の問い掛けに、ウィングルは思わず唸った。だが、答を得るまでに、
たいした時間は要さなかった。
「やっぱり、新しいのを買うよ。一度こぼれたお酒を飲むのは、気分的にね。
直せばいいってものじゃない。気持ちが重要だ」
――終