#80/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 03/04/03 00:08 (500)
四月の事件 永山
★内容 04/09/25 23:49 修正 第3版
松坂良一郎は大学へと続くなだらかな丘を、遊歩道に沿って下っていた。第
二キャンパスがよく見通せ、春先の晴天の下、各運動部が練習に励んでいる。
脇に抱えた大型封筒を持ち直し、汗ばんだ手を空気にさらす。
諸手続のために大学に足を運んだというのに、適当な鞄を持ってくるのを忘
れた己を今一度呪ってから、とにかく用事は済んだのだからと気を取り直す。
今日は暇だから、このあとは学内見物に費やすつもりだ。三つあるキャンパス
の内、まだ第一にしか入ったことがなかった。
「あのぉ」
後方から、風の音に紛れて、声が聞こえた。いや、そんな気がしただけだっ
たが、松坂は一応、振り向いた。すると小柄な女性の姿があった。
つい、耳の穴を小指でまさぐった。そうしながら相手の顔をよく見ると、不
意に思い出した。
「あ、君は、合格発表のときの」
「覚えててくれてたんですね。感激です」
女性は不安の色を消し、表情をほころばせた。化粧気の乏しい上に、幼い顔
立ちをしているが、この春、大学に現役合格したのだから、松坂と同い年だ。
「眼鏡をしてきたんだ? 一瞬、分からなかった」
「はい。コンタクトレンズは、発表のときで懲りました」
合格発表の日。寒さがぶり返した朝、首をすくめて松坂は大学に向かった。
合格者の受験番号が張り出される掲示板の前で、松坂はその野暮ったく厚着
した女性が少し気に掛かった。目を細め、じっと立ち尽くして動かないのだ。
(変だな、不合格で落胆しているにしては妙だし……いやいや、それよりも今
は我が身だ)
一旦吹っ切り、掲示板の前に立つ。受験票を手に視線を上下左右に走らせた。
(――あった。やった)
自らの合格を確かめて喜びを噛みしめた松坂は、依然として同じ格好でいる
彼女の後ろをすり抜け、立ち去ろうとした。なのに、足を止めたのは、「見え
ない……」というつぶやきが耳に届いたからだった。
「あのときは、本当に困ってたから、本当に助かりました」
松坂の回想を破る形で、女性が言った。深々とこうべを垂れている。
「元々は眼鏡だったなら、あの日は何でコンタクトレンズにしたんです?」
「それは、新しい出発の日だから気分も改めようって」
「そういうのは普通、合格を確認したあとでは。入学式の日とか」
丘を下りながら会話を続ける。「実はですね」と秘密を打ち明けるかのよう
な口ぶりで、女性は受けた。
「あの日のラッキーアイテムが、コンタクトレンズだって。ちょうど前日にコ
ンタクトレンズを買ってたんです。ああ、これしかない!って思って」
「……もしかして、占い?」
「はい、決まってます。合格発表の日の朝、テレビを観ていたら、今日のラッ
キーアイテム、蟹座生まれの人はコンタクトレンズです、って」
「コンタクトレンズなんか、いきなり身に着けようとしてもできない人が、た
くさんいそうだけど」
「はい。だからこそ、これだって思ったんですよ。文字通りじゃないですか、
昨日の今日ってやつ」
「まあ、事実、合格してたんだから、信じるのも分からなくはないけどねえ」
松坂が苦笑に顔を歪めたところで、二人は丘を降りきった。アスファルト道
を一本、横断すれば、キャンパスへ通じる門に出る。
「危うく、買ったばかりのコンタクトをなくし掛けたんじゃないか。合格は決
まっていた物だと考えれば、アンラッキーになるとこだった」
「でも、見つかりましたから、いいんですよ」
「偶然だよ。よく踏まれて割れなかったもんだ」
松坂は再び記憶を呼び起こした。
見えないというつぶやきに、思わず声を掛けた。
「どうかしたんですか」
相手の女性――というよりも少女ないしは女の子と表現した方がぴたりと来
る彼女は、見知らぬ男から突然話し掛けられ、マフラーに顔を埋めるようにし
て、距離を取る様子を見せたが、松坂が「もしかして、番号が見えないとか?」
等と助け船(?)を出すことで、ようやく口を開いたのだった。
「コンタクトレンズを両方とも落っことしちゃって……」
「はあ。どこで?」
左右同時に落とすなんてどじな子だなと感じつつ、関わり合いになったつい
でに、聞いてみた。
「ここ……」
この返事には他人事ながら慌てた。掲示板の前は、急速に人が増えつつあっ
た。さして時間が経たない内に、黒山の人だかりとなるのは確実。
「早く探さないと。いや、それより、何でみんなに言わない?」
「だって、皆さん、発表を見に来てるんですから、その邪魔をしちゃあ……」
気持ちは分からないでもない。不合格で落ち込んでいる奴を掴まえて探すの
を手伝ってくれとは頼みづらい。いやそれよりも、結果を見る直前の連中に、
「コンタクトを“落とした”」なんて言おうものなら、袋叩きに遭うかもしれ
ない。
「あのう、それよりもお願いがあるのですが」
「何? それよりもって、コンタクトより大事なのかい?」
「はい。あ、先にお伺いしなくちゃ。合格されたんですよね? 他人に声を掛
ける余裕があるくらいですから」
「え、うん、まあ」
「おめでとうございます。それで、私の番号があるか、見てくださいませんか」
「え……君がそれでかまわないのなら、いいけど」
落ちていたらどうするんだという疑問は、飲み込んだ。
「もし、番号がなかったら、何も言わずに立ち去ってください。その方がショ
ックが小さいし、そちらも気まずくなくて済みます」
そんなことはない、充分に気まずいぞと思った松坂だったが、その手には既
に受験票を渡されてしまっていた。
「どうぞ。お願いします」
「あ、あのね、君。これでもし僕が、物凄く意地の悪い奴で、番号があるのに
立ち去ったり、逆にないのに合格だよと言ったりしたら、どうするのさ?」
「そんなこと、考えもしません。だって、親切な人に違いないんですもの」
おいおい、それは見た目での判断か? コンタクトレンズなしの目で、そん
な判断されても嬉しくないし、そもそも外見で人を決め付けるのは間違ってる
ぞ。
「こうして声を掛けてくれる人なんて、滅多にいません」
「ああ、なるほどね」
合点が行った。だからという訳でもないが、松坂は受験票の番号を覚えると、
視線を掲示板に移した。この子の番号があるかないか、我がことのように緊張
する。むしろ、最前の自分のとき以上に緊張したかもしれない。
だから、番号を見つけたとき、松坂は自然と笑顔になっていた。
「……おめでとう。あったよ」
「ほ、本当ですか?」
見上げてくる彼女に、松坂はへし口を作って応じた。
「信用してくれてるんじゃないのかい?」
「あっ、ごめんなさい!」
ぺこぺこと頭を下げられ、うっかりジョークも言えないなと苦笑を禁じ得な
い松坂だった。彼は受験票を返しながら、気の利いた言葉を探した。
「とにかく、これで僕らは晴れて大学一年生になれる訳だ。えっと、ここに入
るつもりなの?」
「はい、私はここ、本命でしたから」
「よかった。僕もなんだ」
「じゃ、同級生ですね。ええっとぉ……握手でもしましょうか」
予想外の申し出に、松坂は目を丸くしていた。引っ込み思案と見なしていた
のが裏切られて、驚いた。
それとも、この子もどうしたらいいのか分からず、思わず、握手云々という
台詞が出たのかもしれない……。
「あの握手のあと」
第二キャンパスの案内板を前に、松坂は、今度は自ら現実に戻って来た。
「コンタクトレンズを探したら、運よく見つかったね」
「それをラッキーって言うんです」
「うーん、元々コンタクトをしてこなければよかったと思うが、まあいいや。
問題はそのあとだ。急ぎの用事があるとか言って、さっさと行ってしまった」
「合格したことを知らせなくちゃいけないし、そのあとも色々予定があって」
「うん、それは分かる。僕が問題にしたいのは、君の名前を知らないまま、別
れてしまったことさ」
「……え?」
「名乗ったつもりだったとは言わせないぞ。君が名乗ったなら、僕も名乗って
いたはずだ」
強気に出た松坂だったが、彼女からの次の返事は、彼の虚を突くものだった。
「そうじゃなくて……受験票、見なかったんですか」
「あ?」
「名前、受験票に書いてました」
「ああ……そうか」
見ていなかった。番号だけを見、記憶したのだ。それ以上のことは、プライ
バシーの侵害になると思ったから。
「私、てっきり、名前を覚えてくださったんだと思ってました」
「すまん。うん、じゃあ、改めまして、自己紹介」
照れ隠しに上目遣いになった松坂は咳払いをして、目線を元の高さに戻すと、
早口で名乗る。相手は栗原尚美と言った。
「松と栗で松ぼっくりみたいですね」
「意味不明なことを。松ぼっくりの『くり』は、多分、栗じゃないと思うけど」
「いいじゃないですか。入学して、最初の友達なんですから」
「あ、そう思っていいんだ」
あの日とは打って変わって積極的だなあと感心しつつ、松坂も満更でない気
分だった。合格発表のときは垢抜けない制服にコートを羽織った姿だったが、
好みの範疇の顔立ちには違いなかった(それ故に声を掛けたのかもしれない)。
そして今日は、大学生活に備えたのか、服装は明るい色のワンピース、少し化
粧もして、前回とは違うよさが出ていた。眼鏡も似合っている。
「握手したんだから、そうですよ」
「握手しただけで友達かあ。一緒に食事したら恋人で、キスをしたら夫婦とで
も言いそうだ」
松坂が笑いながら茶化すと、栗原の顔は一瞬の内に真っ赤になった。
「ところで栗原さん。第二キャンパスに何か用があるのかい?」
「い、いえ。別に」
栗原はうつむいたまま、頭を左右に振った。初めて会った日に、あっという
間に戻ったようだ。案内図を見ながら、松坂は呆れ気味に応じた。
「何だ。それじゃ、僕を見掛けたってだけで、わざわざ着いて来たのか。栗原
さんも暇だね」
「……」
「え?」
また空耳かと思い、耳をいじりつつ、それでも栗原に向き直った松坂。
「違います」
面を上げ、彼女は明瞭に言い切った。
背後で騒ぎ声がした。在校生だろう、数名のグループが通り過ぎていく。
間をおいて、松坂は聞いた。
「暇じゃないってこと? それとも、用事は第二キャンパスじゃなく、僕にあ
るとか……?」
「松坂さんに用があって、着いて来ました。あの、よろしかったら、私と付き
合ってください!」
ところてんの突き出しみたいに、一気呵成に喋った栗原。息を弾ませ、再び
下を向いてしまった。
「えーっと……」
松坂の腕から、大型封筒がするりと滑り落ちた。
「社会学、出席さえしていれば楽勝らしい」「おまえ、第二外語、ドイツか。
苦しむぞ〜」「心理学は今年から人が変わって、正体不明だってさ」「文学は、
試験が教科書通りの出題だから、直前に頑張ればいい」
履修科目を決めて学生課に提出する期限まで、一回生の間ではそんな会話が
飛び交う。松坂もご多分に漏れず、情報収集をした上で、決めつつあった。
「それなのに」
松坂は休み時間、大教室の中程の席で、前に座る彼女に話し掛けた。
「全部、占いで決めたって?」
「全部じゃないですよ。必修科目は仕方ないから」
栗原は当然のような顔をして答える。今日の彼女は、髪をゴムでくくって来
た。ゴムにはさくらんぼの飾り物が付いていて、幼さを強調する。
「何でそうも、占いに執着するかねえ」
「この子ったら、一歩間違えたら、宗教だよ」
栗原の左隣に座る津谷菊音が、指差しながら言った。つり上がった目の持ち
主で、細面だから、まるで狐だ。それでいて体格は大きい。ソフトボール部に
入ったと聞いて、そりゃ適切な選択だと松坂は感じた。
「私も占い、好きだけどさ。科目選びにまで持ち込もうとは思わないな。下手
すると、人生誤るよ。松坂君の方から、説得してやってくんない?」
「せ、説得されても、聞かないよ」
頬を膨らませた抗議口調になる栗原。だが、怒ったようにはあまり見えない。
「蝦名大聖先生お占いのおかげで、松坂君と知り合えたんだから」
「はいはい。何度も聞いた」
津谷は手のひらを上向きにし、やれやれのポーズ。「お邪魔だったら、どっ
かに退散するけど」とまで言い足した。
「そんなこと言わないで、ここにいてよー」
津谷が何も行動に移さない内から、彼女の腕を引っ張って栗原は引き止めた。
「蝦名先生の占い、ほんっとうによく当たるんだから。入学式の日だって、折
り畳み傘を持って行ったら、ちゃんと役に立ったし」
「うん、あれは確かに」
うなずかざるを得ない松坂。天気予報では晴れ後曇りで、降雨はまずなさそ
うだったにも関わらず、昼過ぎから土砂降りになったのだ。松坂も当然、傘を
持って来なかったが、栗原のおかげで濡れずに済んだ。代わりに、いきなり相
合い傘をする羽目になったが。
「それ、テレビの占いでしょうが。全国で何万もの人が見てる。蟹座がどのく
らいの割合でいるか知らないけど、その全員が傘を持っていったとしたら、ご
く一部に恩恵があっても不思議じゃないってば」
津谷がくさす。占い好きだと宣言した割には、やけにドライで分析的な考え
方だ。多分、その場その場で切り換えの早いタイプなのだろう。
「他にもあるよ。占い通りに青のスーツを着ていったら、松坂君も似た色の服
着てきた」
「そんなことまで言い出すか、この口は。もう、どうでもいいって感じ」
津谷がまたまた呆れた仕種を見せたところで、始業を告げるチャイムが鳴り、
ほとんど同時に教授が入室した。
何かにつけて占いを持ち出されるのには、多少閉口気味の松坂だったが、実
害がある訳でもなし、気にしないでいた。故に、栗原との付き合いは順調に進
んでいた。
尤も、それは亀の歩みで、まるで高校一年生の初々しいカップル。栗原は大
学に入るまで異性との個人的付き合いは一切なかったし、松坂は中学卒業時に
理不尽な失恋を経験して以来、一対一の付き合いを避けてきた。加えて、二人
とも自宅通学の身。そんな二人だから、互いに暇なときにデートをするも、夕
食前には帰るというパターンばかりだった。
六月半ば、梅雨入り前の最後の快晴かと思える好天の日曜。この日のデート
でも、新しいことは特になかった。
映画を観たあと、ファミリーレストランで昼食を摂った。デザートに取り掛
かる頃になると、映画の感想も出尽くし、話題が移る。
「大事なことを聞くのを忘れてたのに気付いたんです。誕生日はいつですか」
女性が使うにしては大ぶりな手帳を開き、ペンを構える栗原。松坂はスプー
ンを口から離すと、笑うなよと前置きした。
「三月十四日なんだ」
「ホワイトデーですね」
「そう。誕生日プレゼントをもらっても、バレンタインのお返しを同時にしな
くちゃならない」
そう答えてから、これでは笑ってくれと言っているのと同じだと気付き、松
坂は自ら苦笑を浮かべた。
しかし、栗原はそんなことにはかまわず、「星座は魚座ですね」と、メモを
取っていく。
「また占いか」
「よかった。蟹座と魚座の相性、最高なんです。私達、最高の組み合わせ!」
嬉しそうに言った栗原に、松坂は意地悪を思い付き、実行した。
「蝦名大聖の占いによると、だろ。他の占い師に聞けば、また別の結果が出る
かもしれないよな」
「何でそんなこと言うんですかあ」
本気で怒ったように見えたので、松坂はすぐに謝った。
「ごめんごめん。冗談だよ。最高の相性で、僕も嬉しい」
「本気でそう思ってる? 嘘なら、誕生日プレゼント、あげないよ」
「思ってる思ってる」
「なら、いいけど」
「ああ、よかった。助かった。でも、惜しいことしたな。発表の日から付き合
っていれば、すぐさまプレゼントをもらえたのに」
「そういえばそうですね。あと……九ヶ月もある」
贈る側なのに、眉を下げて残念がる栗原。松坂はすかさず、「君の誕生日は
いつ?」と尋ねた。
「いつだと思います? 蟹座ですよ」
「何月何日から何日までなのか、全然知らないんだけど。蟹座に限らず」
「六月二十二日から七月二十二日です。覚えやすいでしょう?」
「うん、確かに。で、君の誕生日……六月だったら、困るな。もうすぐじゃな
いか。プレゼントを選ぶ余裕がない」
「安心してください。七月です。七月十五日」
栗原が首を傾げ、答える。対する松坂は、大げさに胸をなで下ろして見せた。
「一ヶ月あれば、何とかなるな」
何がいいか考慮するだけでなく、資金を溜めるにも、時間が必要である。
「でも、試験ですね」
「あ? ああ、そうか。夏期休暇明けじゃなく、休暇前に試験なんだよなあ。
まあ、その分、夏は思い切り遊べるとは言え」
「誕生日当日に会えればよかったんですけど、無理ですね。ずらします?」
「……栗原さんがそれでよければ」
「じゃあ、八月に入ってからに」
「了解。日はどうせまた占いで決めるのかな?」
「さあ、どうしようかなと。こればっかりは、私と松坂さん、それぞれの都合
がありますもんね」
「君の誕生日なんだから、君に合わせるよ」
「ほんとですか? 嬉しい」
無邪気に喜ぶ彼女を前に、松坂も笑った。この程度で喜んでくれるとなると、
プレゼントを渡した日にはどうなることやら。
それにしても……と、松坂は一つの気掛かりを思い起こした。お互い、未だ
に名字に「さん」付けで呼んでいるが、これはおかしくないのだろうかと不安
になる。それに、栗原の言葉遣いは丁寧すぎると思う。
この際だから、聞いてみることにした。
「ねえ、栗原さん。付き合い始めてからだいぶ経つけど、名字に『さん』付け
って、堅苦しくないかな」
「おかしい。松坂さんも、私を『栗原さん』と呼んでるのに」
「それは、君に合わせたからで……」
「私は、蝦名先生の占い理論に基づいて、名字で呼ぶことにしてるんですよ」
「占い理論……」
「正しくは開運理論です。カップルの場合は、二人の姓名の字画や音読したと
きの音や、その音の数などから出すもので、私が松坂さんを呼ぶ場合は、『ま
つさか』が一番幸運を招くんですよ」
「はあ」
「松坂さんがもし、『まつざか』と濁るんだったら、話が少し違ってきてです
ね。詳しく説明しましょうか。ちょっとややこしいから、紙とペンがいります
けど。それに時間も……」
手帳を押し広げて、説明を始めそうな栗原を、松坂は慌てて止めた。
「いいよ、いいよ。それなら、僕は君を何と呼ぶのが一番?」
「それは」
口を開けたまま、言い淀む栗原。アイスクリームが溶け、スプーンがガラス
の容器に当たって小さな音を立てた。
松坂が「ん?」と促すことで、ようやく続きを言った。
「尚美って呼び捨てにしてくれるのが一番いい……」
「それじゃ、尚美と呼ぶことにするよ」
「う、うん……そ、それよりも、まだ聞きたいことがあって」
「何でも答えるよ、尚美」
にやにや笑いながら、相手の名を強調する松坂。栗原が手帳を立てて、顔を
隠すような格好になった。
「松坂さんの好きな色は?」
「今は特にないけど、小学生の頃は青だったな、やっぱり。何なに、色まで関
係あるの、占いに?」
「相性診断ですね。うん、青はベストスリーに入ってますよ」
期待していた答に満足したのか、栗原は再びにこにこし始める。笑みがこぼ
れてしょうがないといった風情だ。
「好きな数は何ですか」
「数ならいっぱいある」
「0から10までで、一つだけにしてください」
「当然、整数? だったら……5だな」
「5ですか。まあまあですね」
表情が少しだけ曇る。悪くはないが、満足していない。そんな雰囲気である。
「それじゃあ、一週間の内で、一番好きな曜日と嫌いな曜日を」
「今度は嫌いな曜日も?」
「はい。循環するものは、基本的に好きと嫌いの両方が必要って書いてました」
「よく分からないなあ。好きなのは土曜で、嫌いなのは……月曜かな。休みが
終わった次の日っていうのは、しんどいから」
「好きなのが土で、嫌いなのが月ですか……」
「土とか月になるんだ?」
「ええ、変換するんです」
彼女の返事に、分からないなりに首肯した松坂。突っ込んで聞いても仕方が
あるまい。
栗原は何かの計算をしているのか、手帳に書き込みながら難しい顔をしばら
くしたあと、最後に、と切り出した。
「松坂さんは自分の血液型、分かります?」
「もちろん。生まれたときに調べた。A型」
「Aですか」
「考えてみると、占い好きの君にしては、血液型を聞いてくるのが遅かったね。
それで、蝦名大先生は、A型の男と相性ぴったりなのは、何型の女性だって言
ってる?」
「Bです」
「ふうん。で、尚美の血液型は当然?」
敢えて名前で呼んでみた松坂だったが、最早、栗原は気にしなくなったらし
い。黙って強くうなずくと、
「はい。Bですよ」
と作ったような笑顔付きで答えた。
「総合的に判断して、私達は最高のカップルなんですよ」
大学での初めての大きな試験を乗り切り――結果が判明するのは、八月末か
ら九月半ばにかけてだが――、松坂はとにかく一安心して休みに突入した。
男友達からの誘いを断って、予定を空けた八月十二日。前もってもらった栗
原からの電話によると、これは占いで決めた日付ではなかった。彼女が言うに
は、両親がお盆の里帰りをする。当然、一緒に行こうと言われたが、大学の用
事があるからと、一日遅れで一人で行く約束を取り付けた、とのことだった。
つまり。
(家で夕飯を作ってくれるって言ってたが……もしかすると、もしかするかも
な。スローペースだったのが、一気に進展かな。ま、多くは期待しないでおく。
でも、準備だけは)
松坂は浮つき気味だった。当日は朝からそわそわして、待ち合わせの時刻ま
でがやけに長く感じられた。
松坂の両親は今夜在宅だが、大学生にもなった一人息子が外泊しても、特に
気に留めることもない。この点は楽だが、念のため、松坂は友人にアリバイ証
言を頼んでおいた。彼女の存在を両親にまだ伝えていないのだ。
(ああ、馬鹿らしい。男の自分がすることじゃないよな。かといって、彼女の
家に泊まるかもしれないなんて、いきなり言える訳ねえし。彼女ができたと早
い内に言っておきゃあよかった)
などと、心中でぶつくさやっていると、時間も経つ。
いよいよ家を出る段になって、不思議と気分も落ち着いてきた。
(考えてみれば、あの尚美だぞ。突然、積極的になって進展するはずがない。
家で夕飯を食わせてもらって、それで終わりってことも充分にある。うん、そ
うに違いない)
彼女への誕生日プレゼントをバッグに入れ、平然とした足取りで玄関を出た。
運転免許は持っているが、自由に使える車もバイクもないし、何よりも栗原
が危ないから運転しないでくれ、迎えに来なくていいと言うから、今日も松坂
は徒歩でバス停に向かう。そこから駅に行き、さらに電車に揺られること約十
分で、待ち合わせ場所の最寄り駅に着く。
改札を出、そのまま進むと歩道橋が左右に見える。左の方を渡って、大通り
を越えて、下る。度々待ち合わせ場所に使った大きな外灯の下に、栗原の姿は
まだなかった。時計を見ると、一時三分前。
いつも約束の時刻より早くに来る栗原だが、今日は違うようだ。両親の見送
りに時間を要しているのかもなと、松坂は想像した。
バッグを持つ肩を右から左にし、木陰に入る。一時十分になっても来ないよ
うなら電話しようと心に決め、腕組みをして視線を斜め上に向ける。
ところが、待ちの姿勢を長く続ける必要はなかった。一時を少し過ぎた頃、
道路の反対側から、栗原の声がしたのだ。
振り返ると、タクシーから降りた彼女が、ぺこぺこ頭を下げながら、お金の
やり取りをしている。
タクシーで来るとは予想外だったが、両親を送った帰りだなと見当を付け、
松坂は微笑ましく見守った。こちらから向こうに行こうかとも考えたが、相手
が気付いていないようだから、そのまま待つことにする。
と、栗原の目が、松坂に向いた。眼鏡のおかげか、すぐに分かったらしい。
遅くなってごめんなさいとか何とか叫びながら、手を振る。
恥ずかしいから早くこっちに来てくれないかなと念じつつも、松坂も軽く手
を振り返した――そのときだった。
「……え、おい」
思わず口走り、目を見開く。止める間もなく、栗原は走って道路を直接横断
し始めたのだ。
四車線の内、真ん中までは無事に着いたが、そこで再度、松坂の位置を確認
したのがいけなかったのか。次の刹那。
急ブレーキの音に続き、どす、という鈍い音。
注意力の分散した栗原を、ライトバンが跳ねた。
横向きに倒れた栗原を目と鼻の先にして、松坂はガードレールを飛び越え、
今にも駆け寄ろうとしたが、車の通過に遮られる。いらいらしながら、栗原の
いる方向と車とを交互に睨みつけ、右手を挙げた。何台目かがやっと停まって
くれて、頭を下げるのもそこそこに、道路を渡った。
いつの間に?とショックを受けるのに充分なほど、血溜まりがアスファルト
に大きく広がっていた。
それから――どのくらい時間が経過したのか、感覚がない。
誰が呼んでくれたのか、救急車がやって来て、応急処置のあと、栗原尚美を
中に運び込む。
「あなた知り合い?」「そうです」「乗って。家族の人?」「いえ、友達とい
うか」「家族の人に連絡は?」「ちょうど今日里帰りしたらしくて、まだ」
気が動転している割には、まともな応対ができたと言えよう。いや、動転し
ているからこそ、恐さを感じる暇がなかったのかもしれない。
栗原と自分自身、それぞれの名前や連絡先などを答え、さらに事故の状況を
説明した。
「それでですね、松坂さん。手術になるかもしれません」
「はい」
「輸血が必要になったときに備えて、栗原さんの血液型を聞いておきたいので
す。ご存知でしたら、教えてください」
「え、あ、B型です。彼女自身が言ってましたから」
こんなときに占いのお喋りをしたことが役立つとは……。
松坂は顔も知らない蝦名大聖先生に、心中で感謝した。
あとは彼女の命を助けてくれ。そのためのラッキーアイテムがあるのなら、
今からでも揃えるから。
「松坂さん、あなたどういうつもり? あの子の血液型、Bじゃないじゃない
ですか!」
「ええっ? まさか」
「いいえ、Bじゃなく、A型よ。輸血に入る前に、クロステストっていう検査
をするのっ。それでB型の血と混ぜたら、凝血を起こした。きちんと調べて、
A型と分かったのよ」
「そんな馬鹿な。彼女自身が、B型だと言ったんですよ」
「本当にぃ?」
「嘘を言うはずないでしょうが!」
「ごめんなさい。まあ、本人が勘違いして覚えてることもあるからね」
「……」
「あ、松坂さんだ」
ノックして、来意を告げただけ。ドアを開ける前に、中から声がした。
栗原尚美を見舞うため、病室を一人で訪れた松坂は、付き添いの母親が今日
はいないことに、安堵した。多分、母親の方が意識して席を外したのだろう。
事故後、駆け付けた尚美の両親に、松坂は自分の立場を説明した。その結果、
(松坂にとっては意外なことに)父親は理解を示してくれたのだが、母親が怒
りを露にして、散々なじられた。親に内緒で付き合うからこういうことになる
のよとか、車で迎えに来られないなんて甲斐性なしがとか、それそれはひどい
内容だった。もちろん、松坂は自身の両親からも叱られたのだが、きつさで言
えば尚美の母親が断トツであった。
その後、意識不明の状態が続く中、足繁く通うことで、どうにか認めてもら
えたのか、顔を合わせる度に嫌味を一言だけ言われる程度で済むようになった
が、松坂の方に苦手意識が残った。
そして今日。尚美が意識を回復して、初めて面会を許された次第である。
「えっと。よお。調子はどう?」
まだ包帯を頭部に巻いたまま、ベッドに横たわる尚美を前に、目をそらし気
味になる松坂。買ってきた花束をサイドボードに置いた。花瓶があったが、う
まく生ける自信がないので、そのままにしておく。
「きれいな花だねえ。来てくれてありがとう」
問い掛けを無視して礼を言う尚美は、次いで身体を起こそうとした。
「いいよ。横になっててくれ。死にかけたんだぞ」
「でも……寝てるところを見られるのって、ちょっと恥ずかしいし……」
「早く元気になってくれる方が、僕には大事なんでね」
「分かった。本当に、来てくれてありがとうね」
「彼女が入院してんだ。来て当然だろ」
「今でも彼女と思ってくれてる?」
「当たり前だよ」
「あんなお馬鹿なことをして、交通事故に遭うような子でもいい?」
「関係ない」
これが普段の会話なら、いい加減にしろと、ほっぺたを引っ張ってやるとこ
ろだが、さすがに入院患者にはできない。
「お母さんが凄く怒ってた。それに、松坂さんのこと、凄く悪く言ってた。ご
めんなさい」
「いいよ、それはもう。僕も悪かったんだし。いや、僕もじゃなくて、僕達も、
だよな。あ、尚美は安心していい。うちの両親はすんなり認めてくれたから」
「よかった……」
毛布を鼻先まで被る。そのまま寝かせてやってもいいのだけれど、一つだけ
聞きたいことが、松坂にはあった。
「尚美。おまえさあ、前に血液型はB型と言ったよな」
「あ、ああ、それ。うん」
尚美の両眼が松坂をちらと一瞥して、すぐに逃げた。
「お父さんが、尚美はA型で、あの子自身も知っているとはっきり言ってたぞ」
「……」
「おかげで僕は嘘吐き扱い。病院の看護婦なんか、完全に疑ってたな。彼女を
始末するために嘘の血液型を言ったひどい男だ、って感じで」
「……ごめんなさい」
「しばらくは混乱してたけど、冷静になって考えて、一つ、思い付いたよ。で、
蝦名大聖の占いの本を読んだ。前に聞いた通り、A型の男に相性ぴったりの女
性はB型と書いてあったよ。だから、君もBと嘘を言ったんだな。Aなのに」
「……」
「占いに頼るのもいいけど、程度問題だよ。ほんっと、今度なんか、一歩間違
えたら死ぬんだぞ。嘘を言ってまで、相性をよく見せ掛けるのはやめよう」
「……」
いつしか沈黙を続けるようになった彼女を見下ろし、松坂は急にしゃがんだ。
目を合わせ、なるたけ穏やかな口調に努める。
「占いで判断しなければならないほど、君と僕の仲は曖昧か?」
「……ううん。違います」
蚊の鳴くような声だが、確かに返事があった。松坂の頬もようやく緩む。
「だったら、決まり。これからは、ありのままにして行こう。そうして、お互
いのことをよく知っていけばいいじゃないか」
「そ、そうですね」
「占いのことを吹っ切る手始めに、僕を下の名前で呼ぶように」
「え」
毛布越しにどぎまぎしているのが、よく感じ取れた。松坂は自らを指差しな
がら言った。
「ほら、呼んでみてよ」
――終