#294/598 ●長編 *** コメント #293 ***
★タイトル (lig ) 06/09/01 20:36 (356)
箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[06/10] らいと・ひる
★内容 06/09/02 21:21 修正 第2版
■Everyday magic #5
夕闇に紛れて索敵するのが日課となっていた。ありすが周りに細心の注意を払っ
ていたのは、もちろん敵を探すことも目的だが、知り合いに出会わないようにする
為でもある。まったくの赤の他人ならまだしも、知り合い、特にクラスメイトに見
つかってしまったら何を言われるかわからない。
そんなありすが、駅前のロータリーで見慣れた人影を見つける。
彼女と同じくらいの背丈で、一回り、いや二回りくらい太めの女の子だった。そ
の子はありすと同じクラスの浮田珠子(うきたたまこ)という。見た目の通りずん
ぐりむっくりした体型の為に、呼ばれる蔑称は『タマゴちゃん』だ。
珠子は封筒のようなものを手にして挙動不審に辺りをきょろきょろと見渡してい
る。
挙動不審な行動といえば、ありす自身も人のことは言えない。一般の人間には見
えない敵を探しているのだから、彼女もまた目を惹きやすいのだ。だからありすは
それを自覚しつつ細心の注意を払っている。
知り合いを見つけたということで、ありすは急いでネコ耳の付いたカチューシャ
を外す。もちろん、いつでも装着できるように手に持ったままでいた。
珠子を見つけてから数分もしないうちにまたもや知り合いを見つけてしまう。こ
ちらもクラスメイトの氷月冬葉(ひょうづきとうは)だ。ありすは彼女が苦手だっ
た。
そんな彼女が珠子に近づいていく。そして、声をかけると珠子はペコペコと頭を
下げながら持っていた封筒を冬葉に渡す。それは奇妙な光景でもあった。
たしかに同じクラスの者が、学校外で待ち合わせをするというのは普通に考えれ
ば不自然ではないだろう。
だが、ありすには『有り得ない』と思えた。あの冬葉が一人で珠子と会おうとす
るなんて、そんな事は学校での彼女を知っている者としては考えられない行動だっ
たのだ。
それは単純に冬葉と珠子の間の力関係だけではない。珠子と一対一で会って何か
メリットが得られると冬葉が思うはずがなかったのだ。
とても嫌な感じがする。それは二人の性格を思い出せば思い出すほど、その感覚
はじわじわと広がっていく。
違和感と不快感を抱きながら、ありすはその場を後にした。
今日はもう敵を見つけられるような気分ではなかった。途中、何度もホワイトラ
ビットに声をかけられ心配されながらも、とぼとぼと家路を歩く。
自宅のあるマンションに辿り着くと、郵便受けを確認しエントランス前のオート
ロックを解除して中に入る。働いている母親は帰りが遅いので、鍵を常に持ってい
るありすが郵便受けの中身をいつも取り出しているのだ。
ダイレクトメールが何通か、それと母親宛の葉書が二枚、あとはありす宛の封書
が一枚届いていた。
彼女は差出人を確認するために裏返すと、そこにはアルファベットでこう書かれ
てあった。
『HARUMIZU UKITA(Tweedledum)』
ローマ字部分の名前に心当たりはなく、かといって括弧の中の外人名のような知
り合いはいない。もう一度表書きを確認する。宛名は『叉鏡ありす様』となってい
た。
ありすは不思議に思いながらエレベータに乗った。五階に到着してエレベータホ
ールから数メートル歩くと彼女の自宅だ。中に入るとダイニングキッチンのテーブ
ルの上にありす宛の封書以外を載せ、自分の部屋へと向かった。
「なんだと思う?」
ありすはホワイトラビットに聞いてみるが、彼の返事は素っ気ない。「興味はな
いな」の一言だった。
レターナイフをどこにしまったのか忘れてしまったので、ありすは仕方なく指で
封書の頭をびりびりと破く。そのまま逆さにして、机の上へと中身をぶちまけた。
どさりと写真の束が散らばる。
その瞬間、ありすの身体が固まったかのように停止した。ぞくりと背筋が凍える
のは、あの時と同じだ。
写真に写っているのはすべてありすだった。
後ろ姿、物憂げな横顔、アップで撮られた正面の顔。そして、ネコ耳のカチュー
シャを装着した姿。
あの時、公園でカメラを構えていた男はたしか『ダム』と名乗っていた。
どうしてありすの住所を知っているのだろう。
今の世の中、どこから情報が漏れてもおかしくはない。
だが、明らかにありすをターゲットに絞っている。情報が漏れてありすを狙った
のではない。彼女が目的でその情報を調べたのだ。
ホワイトラビットが言っていた『取り憑かれた人間は自覚のないまま他人を攻撃
する』という説明は、そのまま人間の悪意となんら変わらないような気がしてきた。
あの男は、邪なるモノに取り憑かれたからこのような行動を起こしたのだろうか。
それとも、もともとそのような性質だったのだろうか。
どちらにしても注意しなくてはいけないことは確かである。
ありすはストーカーという可能性も考えて、不審者がいないかどうか窓から表を
覗く。幸い外にはそれらしき人物は見あたらなかった。
「ありす! 右だ!」
ホワイトラビットが叫び、ありすがすぐさま反応する。裏路地の狭い空間ではあ
ったが、ありすの小柄な体型とホワイトラビットの的確な指示のおかげで確実に敵
を捕捉する事ができた。
「汝の雷を死に浴びせよ! 『Abracadabra』」
大気が弾け飛ぶように巨大な閃光が空中を走る。
それは敵を貫く魔法の槍。貫かれた者はこの世界から消えてゆく。
そして空間は沈黙した。
「よくやったぞありす。上手くコツを掴んできておるようだな」
あれから何度か戦闘を経験した彼女は、今日は一度に六体もの邪なるモノを相手
にすることになった。
的確に敵を捉え殲滅する姿は、少し前のありすからは想像もできないほどに成長
している。もうネコ耳ですら恥ずかしがることはなかった。
「なんかもう慣れたって感じ。ふふふ、今日は狩って狩って狩りまくりましょう」
「けけけっ」と、今にでも笑い出しそうなくらい気分が高揚したありすは、調子
に乗って駅前の商店街を疾走する。その姿はまるで薬物中毒の患者か。いや、この
場合はランナーズハイということにしておこう。
あれから三十分近くが経過する。さすがにそれだけの時間敵に出会わないとあり
すの頭も冷えてくる。おかげで誤魔化されていた身体の疲れもどっと出てきた。
喉が渇いたありすは自動販売機でジュースを買おうと小銭を財布から取り出す。
が、無意識に右手に持っていたホワイトラビットを落としてしまう。
「うぎゃぎゃぎゃ」
妙な悲鳴を上げながら転がってしまった。そんなホワイトラビットを追いかけよ
うとしたありすは、前を見ていなかったのが災いして歩行者の足に衝突してしまう。
「わわわわっ」
派手に転げ回らなかったものの、バランスを崩してそのまま額を地面にぶつけて
しまった。はずみでホワイトラビットを掴む事ができたのは怪我の功名ともいえる
だろうか。
「君、大丈夫?」
ありすが顔を上げると、そこにはどこかで見たような男が立っていた。小太りで、
そんなに気温も高くないのに額に汗が吹き出していて……。
「へ?」
「大丈夫?」
涙目になりながらありすは、この間公園で声をかけられた『ダム』という男の事
を思い出していた。なんでこんなに似ている人間がいるのだろうと、混乱した頭で
考えていて、ふと我に返る。
「……って、本人じゃん!」
ありすは起きあがると、そのまま駆け出した。ようは逃げ出したのである。
走り回ってさらに疲れたこともあり、小腹の減ったありすはバーガーショップへ
と入る。
手持ちのお金も少なかったので、「ご一緒にポテトはいかがですか」の攻撃を躱
して、シンプルなハンバーガーを一つだけ注文する。今どきバリューセットも利用
しない客など希少価値であろう。しかも、それをお持ち帰りではなく、店内で食べ
るという強行に出た。
トレイを持って席を探していたありすは、そこに知った顔を見つける。禁煙席で
ある三階の窓側の奥の角。そこだけが空間を切り取られたような、異質な空気を放
っていた。異質といっても悪い意味ではない。ファーストフードという庶民的な雰
囲気とは明らかに違ったエレガントさだ。
「羽瑠奈ちゃん」
「あら、ありすちゃん」
ありすの声に気付いた羽瑠奈が顔を上げる。
彼女は姫袖の黒いドレスを身に纏っている。今日はそれに加え、お洒落な黒いフ
ァーハットを被っていた。この前の典型的なゴシック・ロリータ・ファッションと
は違って、少し上品でおとなしめである。まるで中世ヨーロッパ貴族の娘がタイム
スリップでもしてきたかのようだった。
「羽瑠奈ちゃんっていつも綺麗だよね。服もすごく似合ってるし、それって特注の
洋服なの?」
あまりにも貴族然とした格好にありすは思わずたじろいでしまう。だが、それを
変だとは思わなかった。むしろ、彼女自身もそのような格好に憧れてしまうのだ。
「ううん。普通に売ってる服だよ」
「あたしもそういう服に憧れるんだけど、でも似合わないかな」
「そんなことないよ。でもどっちかというとありすちゃんに似合うのは甘ロリよね」
「うんうん。あたし白とか明るい色の服の方が好きだよ。フリルとかリボンとかも
大好きだし」
「そういえば、これでありすちゃんがエプロンドレスでも着ててくれれば雰囲気出
たのにね」
「なんでエプロンドレス?」
エプロンドレスとはメイドさんが着ているようなものだというのが一般的な認識
だ。飲食店によっては、制服として採用しているところもある。もともとヨーロッ
パ各地に伝わる民族衣装で、家事等の仕事をする時のオーバースカートとして、ヴ
ィクトリア朝の初期に普及したものだ。本来の名前は『ピナフォア』と言うらしい。
「ほら不思議の国のアリスであるでしょ。ティーパーティーって」
そういえばウサギを追いかけていたアリスはエプロンドレスを着ていて、穴に入
った先の不思議な世界で奇妙な人物達と出会うのだ。ティーパーティーは物語の中
の一つのエピソードだった。
「あ、うん。思い出したよ。でもさ、二人しかいないからティーパーティーには人
数が足らないんじゃない?」
物語の中のティーパーティーでは、アリスを含めて四人いたはずだ。
「そんなことないよ。まずありすちゃんはまんまアリスでしょ。私は『Hatter』キ
印の帽子屋でしょ。それからほら」
そう言って、携帯電話に付いたストラップのマスコットを見せる。そこにはネズ
ミを丸くしたような、かわいい小動物のフィギアが付いている。
「あ、ヤマネだ。かわいい」
ヤマネとは『Dormouse』のこと、時に眠りネズミとも訳される。そのモデルは袋
ネズミであったりオポッサムであったりヨーロッパヤマネであったりと様々な説が
ある。本来の山鼠(ヤマネ)は日本にしか生息していない。
「でもって、ありすちゃんが手に持っているのは『サンガツ』」
「へ?」
ありすは右手に掴んでいたホワイトラビットを見る。眠そうな声で「興味がない」
と呟いた。
「三月ウサギでしょ」
羽瑠奈にそう断定されて「ホワイトラビットだけどね」と言おうとしたが、たし
かにウサギには変わりはない。細かいことを言ったら、羽瑠奈だって帽子を被って
いるだけだし、ありす自身もローマ字にしてしまうと『ALICE』ではなく『ARISU』
なのである。なんだか格好悪い。『ティーパーティー』に見立てた『ごっこ遊び』
なのだ。重箱の隅は杓子で払えということだろう。彼女はパーティーを素直に楽し
むことにした。
「ほんとだ。ティーパーティーだね」
そう言ってありすはホワイトラビットをテーブルの上に座らせる。そして「とり
あえず三月ウサギの代役を務めてね」と笑いかけた。
「ティーパーティーといったら、不条理な謎かけよね。ありすちゃんはチェシャ猫
って覚えてる」
羽瑠奈は首を傾げながら謎めいた笑みを浮かべる。
「うん。ニヤニヤいつも笑っていて、消える時もしっぽから消えて最後にニヤニヤ
した笑いだけが残るってやつでしょ」
三日月を寝かしたような大きな口をありすは思い出す。彼女が持つイメージはア
ニメ版であろう。
「そう。じゃあ、シュレディンガーの猫は?」
「え? それもアリスに出てきたっけ?」
どこかで聞いた覚えがある。それがアリスの物語に出てきたかどうかはわからな
かった。
「ううん。シュレディンガーってのは物理学者なんだけどね」
「あ、思い出した。あれってたしか量子力学の思考実験だったよね」
「そう。よく知っているわね」
「で、そのシュレディンガーの猫がどうしたの?」
「今はティーパーティーだからね。不条理な謎かけをやろうと思って」
「不条理?」
「さっき言ってた。チェシャ猫、そしてシュレディンガーの猫。二つに共通するこ
とは何でしょう? 両方とも『猫』だっていう基本的なものは外してね」
「えー、そうだなぁ。どちらも『架空』の猫って事かな。チェシャ猫はアリスのお
話の中のもので、シュレディンガーの猫は思考実験で創り上げたもの。共通するの
は人間が想像の中で拵えたって事」
どちらも幻。それはわかりきったことだ。
「そう。その調子。あとは何かあるかしら?」
「うーん……シュレディンガーの方は、漠然と猫だから共通といっても『架空の猫』
という以外、これといって特長がないんだよね」
「じゃあ、チェシャ猫の方を考えてみては?」
「え? そうだなぁ、相手の質問に質問で答える……って、喋れるのはチェシャ猫
だけじゃん」
「ヒント、チェシャ猫の一番の特長は?」
「えと……えと、なんだっけ?」
ありすは焦ってくると思考が空回りする。簡単なものさえ思い出せなくなる。問
いかけにクイズ番組のような時間制限なんてないというのに、何か喋らなくてはと
いう思いが頭の中を真っ白にした。先ほど自分で口にした説明さえ忘れている。
「有名なシーンがあるでしょ。笑い顔を残して消えていくって」
「うん、そうだったね。でも、それが? ……あ、そうか存在の重ね合わせね」
「そう、シュレディンガーの猫はかわいそうにも箱の中で生死不明の状態。いつ放
射性物質が検出されて、装置に連動した毒瓶が割られるかも分からない。いえ、既
に割れていて猫はお亡くなりになっている可能性もある。だけど、箱の外側の人間
にそれを知るすべはない。だから科学者達は定義した。箱の中の猫は生と死が重な
り合っていると。コペンハーゲンの解釈ではね」
「チェシャ猫は消えているのに笑顔は残っている。でも、笑顔は存在していなけれ
ば成り立たないから矛盾している。シュレディンガーの猫だって常識で考えれば、
生きているのなら死は成り立たない。でも、二つは相反するものが重ね合わせの原
理で存在しているってことだね」
笑っているのに消えている。
消えているのに笑っている。
矛盾した二つの命題。
「そういうこと。納得した?」
「うん」
ありすが真面目にそう答えると、羽瑠奈が急にニヤリと笑い出す。
「え?」
「ごめんごめん。あまりにも簡単に引っかかったから……うん、まあ、ありすちゃ
んぐらいの人じゃないと引っかからないというのがそもそも問題なんだけどね」
「え? どういうこと?」
「チェシャ猫とシュレディンガーの猫との共通点ってのは、どちらも『架空』であ
ること。あとはどちらも『猫』というだけ。それ以外に共通点なんてないわ」
「だって、二重の存在が……」
「いい? チェシャ猫の消えても残るニヤニヤした笑いってのは、ある種の残像現
象とも考えられるのよ。強い光を受けた時、目を瞑ったり視線を移してもその光は
残るでしょ。それと同じ。一方、シュレディンガーの猫は、ボーア的にはまぎれも
なく二重の存在よ」
要するにありすは、もっともらしい話に惑わされて、理解してもいないのに納得
してしまったわけだ。
「……もう、いじわるだなぁ。だとしたら、夏目漱石の『我が輩は猫である』の猫
の方が、シュレディンガーの猫との共通点は多いよ。どちらも『架空』だし」
「名前はまだない」
「うにゅ」
羽瑠奈に落ちを言われてしまう。
「でも、シュレディンガーの猫の話って興味深いでしょ。不条理さにおいてはティ
ーパーティーに相応しい話題だと思うけどな」
「けどさ、羽瑠奈ちゃんの話だと二つの猫はさも関連が強いみたいな言い方だった
から」「私たちのしてるのはね。ただの言葉遊びなの。一見まったく関係の無いも
のでも、表面上は関連している部分はあるし、無くても無理矢理関連させることも
できるの。それを見つけて遊んでいるだけ」
羽瑠奈の口元が微妙に吊り上がる。ありすには『無理矢理関連させる』という言
葉が引っかかった。
「むう。なんか詐欺師みたい」
「言葉なんてそんなもんだよ。そうだ、これはシュレディンガーの猫の話の続きな
んだけどね。さっきは『二重の存在』って事を言ってたでしょ。でも、いくら科学
だって、そんなへんてこな事実を放置するわけがないの。あの話の続きは知ってる?」
「続き?」
「そう。猫の生死は蓋を開けることによって確定される。つまり、観測者が状態を
決定するの。この観測者って概念を覚えておくと、もう一つ面白いものとの共通点
が見つかるの」
「また謎かけ?」
「例えばある連載小説の主人公Aが物語の山場、この場合は最終回の一つ手前の話
で生死の危険に晒されるの。連載だから今回読めるのはそこまで。後の展開は作者
の頭の中にしかありません。さて、この状態は何かに似ていませんか?」
「もしかしてシュレディンガーの猫ってこと? たしかに、小説の世界は箱で主人
公は猫と置き換えて、その作者が最終回で主人公を殺す傾向が五割くらいだったら、
続きが書かれていない今の段階では、主人公Aは半分死んで半分生きている。つま
り二重の存在だよね」
「そうそう。では、この場合の観測者とは?」
「え? もしかして読者ってこと? 読者が主人公Aの状態を確定するの? でも
おかしいよ。読者がそれを読む前に、作者がそれを確定して書くんじゃないの?」
「発表される前の作品は蓋を閉じた箱の中の猫と同じだよ」
「じゃあさ、例えば素人の作家さんがいるとするじゃない。その人はプロじゃない
から、誰も読む人がいないの。この場合、観測者不在だけど、どうなるわけ?」
「その場合はずっと不確定なまま。主人公は二重の存在となる」
「でもさ、作者は機械じゃなくて人間だよ。観測者になり得ないのかな」
「日の目を見ない作品は、いくらでも改竄……いえ、書き直しできるからね。主人
公Aを殺さない作品に仕上げても、いつ作者の気が変わって殺してしまうかわから
ない。読者がいないということは箱の蓋を誰も開けていない事と同じなの」
「へぇー」
なるほどとありすは感心する。一見科学とは無関係のような文学の世界も、面白
い部分で繋がっているのだ。……無関係? 自分で出した結論に彼女は引っかかる。
「うふふふ。ありすちゃんて、ほんと素直に納得するんだよね」
羽瑠奈の片方だけ吊り上がった笑みを再び目にして、ようやくありすは気が付い
た。
「え? え? もしかして今のも言葉遊び?」
「うん、まあね。これだけ素直に納得してくれると語りがいが……いえ、騙りがい
があるわ」
「あうー、羽瑠奈ちゃんって結構いじわるなんだね」
「あら、いじわるだなんて、私は考えることが好きなだけ。家に帰ってもずっと部
屋で考え事をしているよ」
「え? テレビとか見ないの?」
「うちにはそういう俗なものは置いてないから。ビデオもDVDも見ないしね」
「なんか凄いね。あたしなんかそういう誘惑から逃れられなくて」
「ありすちゃんも量子力学をかじったことがあるのなら、入門書や専門書を読んで
みたり自分で考えてみたりすると面白いわよ。今までの常識を根底から覆すことに
なるから」
「そうなの?」
「真面目な話、シュレディンガーの思考実験にしてもさ。もともとパラドックスだ
からね。彼はこの実験を通して、量子力学の矛盾を説明したかっただけなんだよね。
ところが科学者達の反応からおかしな事になっていったの。生と死が二重に存在し
ているなんて普通に考えたらありえないでしょ。たとえそれが計算式の上だけでも
さ。でも、解釈としてはそれで正しいことになってしまう。だから、私たちみたい
に言葉の上でだけで共通点を探し出そうってのは愚かしい話。本来、学問と空想は
まったく別の物。だからね、そんな論理を日常の感覚に当て嵌めちゃいけないの」
「もし、当て嵌めてしまったら?」
「世界が崩壊するわ」
小一時間ほど店内で談笑した後、「暇だったら付き合って」という羽瑠奈の言葉
に従い彼女が通う教会へと行くこととなった。教会という神秘的な場所を見てみた
いというありすの好奇心もある。
彼女がよく行く都内最大規模の公園に隣接するような形で、小さな教会があった
事は前から知っていた。だが、眺めるのはいつも外からで中に入るのは今日が初め
てであった。
「へぇー、これが教会の中なんだ」
正面にはステンドガラスがあり、そこから光が差し込んで室内を明るくしている。
祭壇の奥には磔にされたキリストの像があり、左手にはマリア像、そして右手には
聖人であるヨハネの像、手前には礼拝の為の椅子が並んでいた。
「誰もいないの? 勝手に入って怒られない?」
がらんとした室内を見渡し、ありすは羽瑠奈に問いかける。
「左手前に懺悔室があるでしょ。いつもならあそこに神父さんがいるわ。それによ
っぽどの事がない限り白昼堂々と教会に盗みになんか入らないからね。神父さんの
計らいで誰もが気軽に入れるような造りになっているのよ」
「ふーん、そうなんだ」
「ちょっと待ってて、お祈りしてくるから。そこに座って待ってるといいわ」
羽瑠奈が祭壇の前まで進み、両手を胸の前で組んで祈りを捧げる。その姿はまる
で絵画のようでもあった。ステンドグラスやキリスト像や祭壇と一体化し、生ける
芸術品であるかの錯覚を感じる。ありすは魅入られるようにじっと息を呑んだ。
数分だったろうか、それとも数十分経ったのだろうか。時間の感覚を無くしかけ
たその空間は、羽瑠奈がこちらへ戻ってきた事でゆっくりと時を取り戻し始める。
「お待たせ。行こう」
外へ出ると、少し曇りがちな空模様だった。
隣を歩く羽瑠奈の横顔を見て、教会の中での神秘的な空間がありすの頭に蘇る。
「羽瑠奈ちゃんて、クリスチャンなの?」
それは聞くまでもないだろうと思っていた。会話の取っ掛かりを得る為にありす
はあえて質問をした。
だが、即座にそれは否定される。
「違うよ」
「え? だってお祈りして……」
予想外の答えにありすは戸惑う。だったら彼女は何をしていたのだろう。
「あそこに行くと、神様の声が聞こえるの。私は別にイエスキリストを崇拝してい
るわけではない。あの空間が神様の声を聞くのにちょうど良い条件を満たしている
のかもしれないだけ」
「神様の声?」
「そう。自分はどう生きるべきか、それを教えてくれる。私が黒い服を好んで着る
のも、その声に従ったから」
すごい。ありすは素直にそう思った。考えてみれば、ホワイトラビットの姿と声
が分かるのだから、彼女にも人を超えた能力を持っているのは当然だった。しかも、
神の声まで聞けるという。
特定の宗教に縛られることなく、彼女は神の声に従う。
果たして彼女の瞳にはこの世界はどのように映るのだろう。