#244/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 04/09/01 00:01 (408)
十三海断 3 永山
★内容 04/10/19 04:08 修正 第2版
一度駐車場を発ってから十分足らず。飛ばしに飛ばし、合歓の車は別荘近く
まで戻って来た。
それをちょうど目撃した蜂矢は、歓喜の声を上げた。万歳までしてしまった
が、その直後、静かにせねばと思い出した。パントマイムのように、激しい身
振り手振りで、自分の存在を車に向かってアピールした。
車は思惑通り、停まってくれた。リアウィンドウが開ききるのを待つのもも
どかしく、叫ぶ。
「助けて!」
「別荘を見たんだな? 他に誰か生きてなかったか?」
リアウィンドウにできた細い隙間から、問い掛けてくる合歓。
「知らねえよ、そんなこと。誰とも会わなかった。あの怪物みたいな大男以外、
動いてる奴はいなかったぜ」
「大男は今、どこだ?」
「分かんねえって! 必死で逃げてきたんだからよ! それより早く乗せて!」
手を合わせて懇願するが、ドアが開けられることはなかった。強引に開けよ
うにも、内側からロックが掛かっている。信じられないという目つきで合歓を
見る。「何でだ?」
「さっき、ここに設楽君が座ってたんだよ」
合歓は助手席を指差しながら云った。その台詞に背筋がひやりとする蜂矢。
そうか、あれは合歓の車だったのか。
蜂矢は顔の水滴を拭う動作に、焦りを紛らわせた。
「へえ。じゃあ、あいつはもう助かったんだ?」
「死んでたよ。首を絞められてな」
「な――何で? 駐車場にまで、あの大男が現れてたの?」
「恐らく、違う。大男の仕業でないとしたら、別荘に来た我々の中の誰かが設
楽君を殺害したと考えるのが妥当だ。動機が一番強いのは、元からの知り合い
である君じゃないか?」
射抜くような視線に、びくりとして首を竦める蜂矢。動揺を悟られぬよう、
雨の冷たさに震える動作をした。
「確かに、設楽とはずっと友達だけどさ。だからって殺したんじゃないかって
のは、横暴だよ、先生。数学みたいに順序立てて証明してくれなきゃ」
饒舌になって反駁する内に、調子を取り戻せてきた。蜂矢は言葉を、理屈を
重ねた。大丈夫、証拠はないんだ。
「だいたいさ、大男の仕業じゃないって、どうして断定できるの? その理由
から説明して欲しいな」
「殺し方が違いすぎると感じたんだ。大男が殺したのなら、もっと残酷にやっ
ているように思う」
「そんなこと、決め付けられる訳がないっ」
笑い声を交えて云った。この程度の理由なら、容易にひっくり返せる。
「大男が細い紐を使ったら、アンバランスだって云うの? そんなのナンセン
スですよ。論理的でないなあ」
「おまえがやったんだな」
「は?」
一段、低い調子で指摘されたが、蜂矢にはまだ余裕があった。
「何云ってんですか。証明終了も何もあったもんじゃないな。俺、帰ったら、
数学は他の先生に教えてもらおうっと」
「引っかかるかどうかを試していたんだ。設楽君が絞め殺されたとは云ったが、
その凶器が細い紐状の物だとは、一言も話していない」
「え……と」
今度の動揺は隠し切れなかった。雨に打たれながら、歯ぎしりするのみ。
「乗るかどうか、君が選べ。乗るのなら、すぐに警察に届けてやる」
選択を迫られ、血の気が引く。警察が嫌なら、独力で逃げる? あの化け物
から? 今の蜂矢にとって、究極の選択だった。
「あと一分で決めろ。僕だって、大男に殺されたくないからな」
俺だって殺されたくねえよ!と爆発したいところだが、辛くも堪えた。
車に乗せて貰い、別荘からある程度離れたところで、合歓も殺そうか。そん
なことを考えたものの、合歓が助けたであろう他の合宿参加者がどこに何人い
るのか、皆目分からない状態では、下手に動くと罪を重ねただけで終わりかね
ない。
「くそっ。逃げ切ってやる!」
意を決し、蜂矢はきびすを返した。泥を蹴って車を離れ、別荘とも車道とも
異なる方向へ走り出す。
「おいっ。待てよ!」
車のドアが開き、乱暴に閉められる音が背後でした。
「真夜中のデートで相合い傘なら、素晴らしいシチュエーションだがねえ」
ぼやき加減に云った星は、漸く小降りになってきた雨を、小さな傘の端から
夜空を見上げて確かめた。彼の右手には、合歓から渡された折り畳み傘が握ら
れていた。車の中に偶々あった物だそうだ。だが、数は一本だけ。
「相手が私でもいいのかと、聞き返して欲しいのかな、それは?」
八神が真顔で云った。肩を縮こまらせている星とは対照的に、彼女は堂々と
している。二人は車道の左側を、合歓の車の帰還を待ちつつ歩いていた。道の
右側には山を削って固めた斜面があり、この大雨で水流が幾筋もできていた。
万が一の土砂崩れの危険を避ける意味もあって、左を歩いている。
「殺人事件に巻き込まれた直後でなければ、こういう会話も楽しいんだろうな」
星はまともに答えず、ため息を大げさについた。
「違う、星君」
「はいな?」
「巻き込まれた直後じゃない。まだ巻き込まれているのよ、私達」
「そうだったな。終わってはない、か」
気を引き締め直し、後ろを何となく振り返った。合歓の車は来ない。他に通
りかかるものもない。
「蜂矢君て、危ない奴なのかな? 星君は何か聞いてない?」
八神が話題を転じた。
「同じ塾に通ってはいても、同じ教室に通ってる訳じゃないもんで。ただ、一
斉模試なんかで、顔を合わせたことが前にあったっけ。そんときに、あいつと
同じ教室の奴から、面白い噂を聞いたんだ。いや、面白くはないか」
「勿体ぶらず、早く教えて」
「先生の弱みを握っているらしいんだと。それも、経営者の北先生の」
「……何だ、そんなこと」
がっかりした口ぶりで云い、俯く八神。星は意外感にとらわれた。
「事実としたら、大変なことじゃないかねえ?」
「私には判断できない。価値のないことだから」
「でも、そういう脅迫をするぐらいだから、殺しも厭わないとは云えないか?」
「一理あるわ。でも」
言葉が止まり、次に、「あ」と聞こえた。八神がしゃがみ込む。星が覗き込
むと、右足を押さえる様が見て取れた。
「ど、どうした?」
「挫いた」
当事者は冷静な声。星の方が上擦っていた。
「足下がお留守になっていたわ。どじった」
「歩けるか?」
傘を彼女だけにさしてやりながら、星は心配を面に出した。しゃがんで下を
向いたまま、八神が答える。
「無理そう……」
「……そりゃ困った。一人で逃げる訳にも行かないから、ここはおんぶか?」
苦笑めいたものを表情に浮かべながら、星は冗談を口にした。立ち止まった
ついでに、靴底に溜まった水を出しておく。
「一人で逃げなさい。ここまであの大男が追って来ない保証は、全然ないから」
「だったら、なおさら置いて行けなくなるじゃん」
「気持ちだけで充分よ。共倒れは避けないといけない。私を背負って進むにし
ても、ここに二人で残るにしても、大男に追い付かれたら私がお荷物になる」
「しかし、なあ」
「先生だって無事に戻ってくるとは限らない。逃げる場合は、ばらけた方が生
き残る可能性が高まる」
星の方は元々、感情から出た発言だ。理詰めで来られては、反論できない。
「じゃあ、俺が一刻も早く、電話のあるところまで行って、助けを呼べばいい
んだな」
「それが現時点でのベスト。お願いしたわよ」
笑顔と強い調子の声で送られ、星の内に気力が湧いた。八神に傘をさしかけ、
握らせてから、彼は一歩を踏み出した。
「蜂矢……どこ行ったんだ」
巻き舌で呟く合歓。車にはライトを積んでいるが、使用は躊躇せざるを得な
い。あの化け物に自ら居場所を知らせる愚行は慎むのが、ものの道理であろう。
小降りになったが、止む気配はない。相変わらず暗く、ようようのことで目
が慣れてきたとは云え、遠くは見通せない。殺人鬼と出くわしたとき、逃げ切
るにはどのくらいの距離が必要だろうか。安全を計算しつつ、蜂矢を探す。
まさか蜂矢が車に乗らない方を選ぶとは、考えていなかった。後日、こんな
ことが公になったら、蜂矢の生死に関わらず、合歓は世間から叩かれるだろう。
一方で、蜂矢を許す気持ちは、合歓の頭にこれっぽっちもない。まさか殺人
をしでかすとは、全く思い及ばなかったが、北から頼まれ、仕事を引き受けた
からには、務めを果たさねばならない。
どんなことが起きようとも。北が殺されたとしても。
(あの化け物に蜂矢を殺させてたまるか)
合歓の手には、サバイバルナイフが握られていた。
逃走を選んだ蜂矢だが、具体的な算段があっての行動ではなかった。あの直
後、とりあえずは林の中に身を潜めたものの、二十分としない内に自分の意志
で出た。林にいては見通しが悪く、発見されにくい代わりに、危機が迫っても
察知できないかもしれない。その恐怖に負けたのだ。
「せめて、武器がありゃあな」
疲れた身体を引きずり、泥濘を踏み締めながら、思わずこぼす。
車を転がせるとしたら、駐車場に引き返し、残る車の一つを奪うという策も
考えられるのだが、幸か不幸か、蜂矢はそこまで“不良”ではない。自らの足
で脱出となると、武器頼みにならざるを得まい。
(理想は飛び道具だけどな)
そこいらに落ちているような代物ではない。却下し、現実的な線を模索する。
(刃物なら別荘にあるだろうな。だが、合歓相手ならまだしも、あの化け物に
は通用しそうにない。やっぱり火器……火だ。ガソリンをぶっ掛けて、火を着
けたらいいんじゃないか? ライターなら持っている。ガソリンは車からいた
だく。いや、ポンプがいるな。携帯できる容器も)
妙案と思えたが、小さな障害があった。周りに注意を払いつつ、考える。
(容器はともかく、ポンプか。別荘にあるかもしれないけど、どこにある?)
依然として化け物じみた大男が徘徊するかもしれない別荘に引き返し、ポン
プを取って来るなぞ、正気の沙汰でない。ポンプの在処が分かっているならま
だ賭けてみる価値もあろうが、あるかどうか不明ならなおさら。
これも却下しようとした。だが、ふと思い出す。
(湖の近くに小屋があった。あれ、ボート小屋じゃないか? すぐ横には小さ
な桟橋があったし、布か何かで覆われていたのは多分、ボートだ。エンジンボ
ートなら、燃料を置いている。ポンプも、容器の缶もあるはず!)
手を叩きたくなった。早速、足先を湖へ向ける。勇躍、歩を進め始める。程
なくして湖の見える位置に来ると、さらにスピードを上げた。泥跳ねの音をさ
せて急ぐ内に、一層よい考えが浮かぶ。
(手漕ぎのボートがあるんなら、そのまま湖に出ちゃえはいいんじゃねえ?
いざとなりゃ、反対の岸まで行ってもいい。そこから道路に出るには、急な斜
面があるから一苦労だろうけど、必死になったら何とかなるさ)
楽観的に判断すると、足取りも軽くなった。小屋を目の当たりにする頃には、
武器の調達はどこかへ行ってしまい、蜂矢の頭を占めたのはボートによる逃亡
のみになっていた。
急く気持ちを抑え切れず、小屋横の桟橋を掛ける。一番近くのシートに手を
掛けた。が、重くてすぐには持ち上げられない。雨水が溜まっているせいだ。
右に左にシートを傾け、水を落とすと、やっと取り除けることができた。
現れたのはエンジンボートだった。正常に作動するのかどうか分からないが、
何にせよ、蜂矢に扱える物ではない。焦り気味に、隣のシートをめくろうとす
る。これも重く、懸命になって水を追い出した。
「やりぃ!」
木のボードが現れた。オールも揃っている。かなり古びているが、贅沢を云
える状況にない。このままぐずぐずしていると、ボート内に水が溜まって、掻
い出すのに余計な時間を取られる。蜂矢は急いだ。シートを完全に退けると、
ボートをもやっているロープを解きに掛かった。
だが、解けない。特殊な結び方をしている様子はないのに、手間取る。雨を
吸って、ロープそのものが堅くなっているのだ。
「くそっ! この莫迦ロープが! ナイフでもあればな! 焼き切るには太す
ぎるしよぉ!」
荒い息で毒づきながらも、取り組む。周囲への意識が散漫になっていた。
だから後方で、がさりと物音がしたとき、蜂矢は全身の動きを止めた。身じ
ろぎしないでいると、その物音は連続した。己の存在を隠さず、むしろ主張す
るかのごとく、無遠慮に。
蜂矢は肩越しに、恐る恐る覗き見た。勝手に震えてくる。
あの化け物が立っていた。暗さに慣れたのと、雨の勢いが弱まったのとで、
嫌でも見える。仁王立ちのシルエット。右手に斧、左手に長細い棒をしっかり
と持っている。
「げ」
しゃっくりめいた呻きを漏らし、蜂矢は跪いた姿勢から立とうとしたが、膝
がうまく伸びず、尻餅をついた。
大男まで、目測で二十メートルあるかないか。陸へ逃げるには、ぎりぎりか、
既に手遅れかもしれない。身一つで逃げるとなると、湖に飛び込むほかない。
だが、それで本当に助かるのか? あの化け物じみた大男が泳げないなんて
ことが、あるだろうか? あっさり追い付かれるのがおちではないか……。
絶望が蜂矢の頭上を覆う。諦めるという選択肢が、ふっと浮かんだ。湖に逃
げたはいいが、捕まってたらふく水を飲んで苦しんだ挙げ句、切り刻まれるよ
りは、いっそこの場で……。
暫時の迷いの間にも、距離は狭まる。完全に手遅れになった。全身ずぶ濡れ
で、失禁しても分からないだろう。それほど蜂矢は恐怖していた。ボートで逃
げる案に夢中になって、足音や声、水の音などを撒き散らしたことを、今更な
がら後悔する。
やがて巨大な足が、桟橋に一歩を記す。振動が蜂矢の肉体にも伝わった。そ
れとほぼ同時に、かこんという乾いた音が、大男の後頭部辺りでした。
「こっちだぞ!」
胴間声が轟く。若干震え気味だが、合歓の声に違いなかった。彼が大男に対
し、石か何かを投げつけたようだ。
大男は歩みを止めて、その場で振り返った。
隙ができたと思ったが、奇襲をかける度胸は、今の蜂矢にはこれっぽっちも
なかった。一方で、彼は奇妙に冷静だった。
(やった! 助かるかも! このまま、合歓と化け物が相打ちになってくれり
ゃ、大ラッキーだぜ)
諦めの選択肢は霧散し、生き残るための計算を働かせる。千載一遇のチャン
ス、逃してなるものか。
蜂矢は姿勢を立て直し、逃げるタイミングを計った。
念じた通り、大男は合歓を追って、来たばかりの経路をゆっくりとではある
が戻り始めている。それを見て、少しでも陸地への距離を短くしておこうと、
蜂矢はにじり寄るようにして前進した。
それを三度ばかり繰り返した次の瞬間、突然、大男が向き直った。かと思う
と、左手を高く振り被り、右足を大きく踏み出した。あっという間に、蜂矢と
の距離が詰まる。
「ひっ!」
叫んだ直後、痛みを感じた。
蜂矢は、自分の右太股に金属の棒が突き刺さったのを見て、気分が悪くなっ
た。信じられない。
棒は肉を貫通し、桟橋をも貫いていた。文字通りの“足止め”だ。動けなく
なった蜂矢に、今度は斧が振り下ろされ――。
「こっちだと云ってるだろうがっ!」
再度の胴間声にどんな影響を受けたのか、大男の動きに狂いが生じた。確実
に命を奪うはずだった斧は、軌道が変わり、蜂矢の右肩から胸元へと、斜めの
傷を刻むに留まる。それでも大変な出血を見た。
歯の根が合わず、がちがちと音を鳴らす蜂矢の前で、化け物はまたもや身体
の向きを転じた。
蜂矢は大男の肩口に、突起物があるのに気付いた。よく見るとそれは、刃物
の柄らしい。合歓が投げつけ、見事に命中したというのか。
(何でそんなにしてくれるんだか、訳分かんねえ。先生だからか? 理由なん
てどうでもいいや、もう。即死じゃなかったってだけで、このままじゃ結局く
たばりそうだけどよ)
溢れる血に温かさを感じる反面、身体は寒くなってきたような気がする。意
識が朦朧とする。
掠れる視界で、巨漢の化け物が合歓を追うのにスピードを上げたのを確認し
たあと、がくりとうなだれた。そして瞼を閉じる間際……蜂矢は見つけた。
(ロープ、切れてる!)
最前、大男の振るった斧が、ボートを結わえていたロープを偶然にも切断し
ていた。
ありがたいと呻きながら、蜂矢はボートの中に転がった。力を振り絞り、片
足で桟橋を蹴る。すると緩やかな動きではあったが、手漕ぎボートは岸を離れ、
湖面に進み出た。雨の中、波立つ湖面へと。
唯一の武器を投げたのは、失敗だったと、合歓は後悔していた。
投げるのなら、一発で仕留めねばならなかったのだ。
(だが、車に乗り込めたら、失地回復はなる)
自身にそう言い聞かせ、懸命に走る合歓だったが、サングラスの大男の足は、
予想以上に速い。足が長いこともあるのだろうが、確実に差を縮められている。
「あっ!」
後方から不意に、何かをぶつけられた。バランスを崩し、前のめりになる。
転び掛けたが、それはどうにか耐えた。しかし、足下に転がった物を見て、不
覚にも悲鳴を上げ、足を止めてしまう。
それは人間の頭部だった。猪木明日菜と思しき、細面の顔をしている。
(あのあと、殺されて、首を切られて……。あの化け物め、生首を持ち歩いて
いたのか? まさか!)
薄気味悪い想像を打ち捨て、改めて走ろうとしたが、背中にこの頭部による
血痕がべったりと付着した構図を考えただけで、気分が優れなくなる。
(やはり化け物だ。並の神経じゃない)
追い付かれるのを覚悟し、合歓は新しい武器を探した。だが、地面に転がる
石か棒切れぐらいしかない。
(畜生……柄にもなく、教え子を助けようなんて、考えなければよかった。し
かも、蜂矢はまず間違いなく殺人犯なんだぞ。自分は莫迦か?)
泥の塊を両手に持ち、待ちかまえる。自信のある近さになったところで、大
男の顔めがけて、その泥を投げつけた。
二発ともヒット!
(よしっ。目くらましで時間稼ぎをして、何としてでも車に――)
そうして合歓がきびすを返し掛けたところへ、斧が飛んできた。
お返しにしては威力が違いすぎた。そして狙いも正確だった。顔の右半分を
持って行かれたような衝撃を覚えた合歓。実際、彼の顔面の右側は、深々と抉
られていた。
致命傷ではない。そう信じて、己を奮い立たせると、合歓は飛んできた斧を
捜した。あれを手にして抵抗すれば、逆転もあり得る。
一メートルほど先に、まだ横向きに回転する斧を見つけた。飛び付こうと、
足で地面を蹴る。指に怪我を負ってでも、斧を掴む気でいた。
が、そこへ第二の攻撃を食らってしまう。着実に追い付いた殺人鬼は、スラ
イディングの格好の合歓に、馬乗りになると、手の中のもう一つの凶器で、獲
物を襲った。
頚動脈をやられた。だめだ。悟った合歓は、一挙に力を失った。
それから、二つのことを考えた。
一つは、このあとどんな風に自分の肉体は変形させられるのだろうかという
こと。もう一つは、自分の息の根を止めた第二の凶器のこと。
後者の答は、死の寸前に知らされた。
(……僕のサバイバルナイフじゃねえか)
蜂矢は自分でも突然だなと感じるくらい、急に意識を取り戻した。
目を開けると、その先には八神の姿があった。こちらをひどく冷静な視線で
見下ろしている。
(見下ろしている? ああ、俺、横になってんのか。さっきやられた傷)
思い出した途端、痛みが襲ってきた。慌てて上半身を起こそうとするも、ま
ともに動けない。身体のほとんどが云うことを聞かない。
仕方なく、顎を引いて頭を少しだけ持ち上げ、胸を見た。痛みはあるが、出
血は止まっているらしかった。
「気付いた?」
八神が喋った。目は相変わらず冷ややかだが、声の方は優しい。
「あ、ああ……。俺、化け物に襲われて……それから、そう、ボートに乗り込
んで……」
云いながら、周りを見渡す。まだボートの中だった。溜まった血が、乾きつ
つあった。湖に浮いているらしく、揺れている。雨は上がり、空は遥か彼方が
微かに明るんでいるような。
「おまえ、何でここに?」
当然の疑問。痛みはまるで身体の中をマラソンしているみたいに走りっ放し
だが、意外と楽に話せる。
「道路から見ていたら、湖に浮いているこれを見つけて、その中に怪我人がい
ると分かったから」
「そうじゃなくって……どうやってボートに乗り込んだのかって」
「ボートはまだあったので。私、ボートの操縦ならできる」
彼女が顎を振ったその方向には、エンジンボートが停泊していた。さすがに
横付けは難しかったのか、四、五メートルほど離れている。目を凝らすと、二
つのボートは、ロープでつながれていた。
「手当してくれたのも、おまえか」
右肩に白い布がしっかりと巻かれていることに、やっと気が付いた。胸に比
べると、痛みが大人しい。
「そう。応急手当だから完璧じゃないわ。でも、あのままでは確実に死んでた
からね」
「あ、ありがとうな」
意識が戻るまでの地獄とは大違いだ。半ば夢見心地で、彼は礼を述べた。
「道具も薬もないのに、よくやってくれたなぁ」
「あなたには云ってなかったっけ。小さい頃、外国の紛争地域にいて、両親の
手伝いをしていたの。簡単な手術ぐらいまでならできる」
「両親て、医者か?」
「そうよ。物がない国だから、何もかも足りなくてね。今、あなたにしたみた
いに、ホッチキスで縫合することもしょっちゅう」
「何、ホッチキス?」
頓狂な声を上げた蜂矢の目の前で、八神は緑色をしたホッチキスを取り出し、
かちかちと上下を合わせた。
「たまたま、ポケットに入っていたの。胸の傷口は、これで」
「ひでえ。それしかなかったのかよ」
「なかった」
「しょうがねえか……。それなら早く、病院でまともな治療を受けたいぜ。岸
に着けてくれよ」
調子に乗りすぎたか、呼吸が荒くなったのを自覚しつつ、エンジンボートの
方を見る。
「まだ駄目と思う」
「何でだよ?」
「サングラスを掛けた巨体の殺人鬼が、まだいるかもしれないわ。夜が完全に
明けてからの方がいいでしょう」
正しい理屈を答えると、八神は蜂矢に背を向け、膝元で何やらごそごそする。
道具がないとは云ったが、女子だけに、簡単な救急セットを持っていたのか
もしれない。ホッチキスをポケットに入れているぐらいだから、あり得ないこ
とじゃない。
蜂矢はそんな風に考え、それから夜明けを願った。
「他に助かった奴、いるのか?」
彼女の背に問い掛ける。そのままの姿勢で反応が返ってきた。
「喋らない方がいいわよ。傷が大きくなるかも」
「少しなら、平気さ。なあ、生き残ったのは?」
「二人、かな」
「てことは、俺とおまえだけ?」
だとしたらまじでラッキーだったぜ!と内心で叫ぶ蜂矢。二人の内、一人が
自分で、もう一人がこんな手当のできる八神だったのは、幸運としか云いよう
がない。
「勘違いしないでよ」
振り返った八神は、さっきまでと違って、にこにこしていた。
「自分がした質問、忘れた?」
「ああん? いや、だから、他に助かった奴……ああ、そうか。俺達の他に二
人って意味か」
納得して頷いた蜂矢に、八神は説明を始める。
「一人は、星君。私より先に歩いて行ったから、多分、生き残ったはず」
「あいつか。おじん臭い外見だけに、世渡り上手なのかね」
悪態をつき、笑ってみたが、さすがに身体に堪えた。痛みで静かになる蜂矢。
「ただ、警察なり救急なりを呼んでくれるはずなんだけど、まだ来ないところ
を見ると、途中でへばっちゃってるのかもしれないわね。もしくは、電話のあ
る場所がよほど遠いか」
「だとしたら、星にも頑張ってもらわねえと。早く救急車に乗りたいぜ。で、
もう一人は?」
空がますます明るみを帯びてきた。こうして見ると、八神って子、かなり行
けてるじゃないか、と蜂矢は感じた。
「もう一人はね」
八神は言葉を区切り、微笑した。可愛らしくもあり、恐くもある。そんな微
笑みだ。
そして八神は、左手の人差し指を立て、ゆっくりとした動作で――彼女自身
を指差した。
「私よ」
「……ん? 意味、分かんねえんですけど」
さっき云ったじゃん、俺達の他にって。
そう続けて聞こうとした蜂矢に、八神がすっと近寄った。ボートが僅かに揺
れて、どこかが軋む。
「蜂矢君。今の蜂矢君は、もう危機を脱したわ。死ぬことはない」
「手当のおかげなんだから、もう一回感謝しろってか?」
戸惑いも露に、それでも軽口を叩いてみせる蜂矢。
そんな彼に、彼女は告げた。
「そうでないと、私のプライドが我慢ならなかったの」
八神の台詞を理解する前に、蜂矢は意識を失った。
八神は、正体をなくした蜂矢を湖水に浸けて溺死させると、彼の胸からホッ
チキスの芯全てを手早く回収した。皮膚に小さな穴が数多く残る訳だが、どう
せ湖に放り込むのだ。魚がつついて半日と経たない内に識別不能になる。肩の
方はこのままでもよかったのだが、念のため、治療に使った一切合切を回収し
ておく。
遺漏がないことを確かめ、八神は遺体を軽く持ち上げ、湖に放った。沈んで
行くのを見届けつつ、彼女も水に入り、エンジンボートにたどり着くと、猫の
ような身のこなしで乗り込む。手早くロープを外し、スタートを切る。
「任務完了」
中学生の女の子の呟きは、激しい振動音に紛れて消えた。
「遅れた分は、残りの半金を貰えなくなったことで、プラマイゼロにしてくれ
るかしら」
―十三シリーズ番外編.終