#245/598 ●長編
★タイトル (lig ) 04/10/11 15:51 (483)
この優しくも残酷な世界 [1/3] らいと・ひる
★内容
──少女よ、私はあなたに言う。起きなさい。
新約聖書「マルコ伝」5章41節。
■Everyday magic #1
そう、それはこんな一言から始まった。
「魔法を使いたいと思わないかい?」
逢う魔が刻と呼ぶにはまだ早い時間。学校帰りに寄り道をして古本屋に立ち
寄った時、彼女はふいに声をかけられた。
セーラー服に身を包む瀬ノ内有里守(せのうちありす)は、肩にかかった二
本の三つ編みのお下げ髪を揺らしながら辺りを見回す。
それほど広いとは思えない店内には、彼女以外の姿は見えない。店員ならば、
入口に近い場所にあるレジに一人いただけだったはずだ。そこからの声にして
は近すぎる。
声はもっと彼女に近い場所から発せられたような気がした。
「汝(なれ)には魔法使いの素質があるぞ」
もう一度声がする。それはやや甲高く、中性的で男とも女とも確定できない。
なんだかかわいい声だと彼女は思った。
有里守は再び辺りを見回し、やはり人影を確認できず、不思議そうに首を捻
る。
「汝の目は節穴か!?」
怒号が聞こえる。だが、声質に威厳を感じないのでそれほど怖くもなかった。
「……」
幻聴でも聞いてしまったのだろう。有里守はそう思い込んで、その場を立ち
去ろうとする。
「ちょっと待て!」
それは頭上に近い位置から聞こえてきたような気がした。有里守は幻聴であ
ることを認めながらも、もしかしたらと思いそちらの方を見上げる。
黄色。
最上段の本棚に腰掛けるように、全身黄一色のぬいぐるみが置いてある。黄
色と言っても店内が薄暗いのと、少し汚れていることもあって見窄らしい姿だ。
間違っても黄金色に輝いてなどいない。口調とは裏腹に哀れでもある。全長は
20センチくらいだろうか。
彼女は、店内の隅に置かれてあった踏み台を持ってきて、それに上がり、黄
色いぬいぐるみと対面する。
「あたしに声をかけたのはあなたなの?」
目の前のぬいぐるみは近づくとその形がはっきりと確認できる。水兵帽にセ
ーラー服を着たアヒルだった。黄一色なので、まるで着色を忘れられた欠陥品
のようだ。
「無論、我に決まっておるだろう」
ぬいぐるみからは確かに声が発せられていた。だが、有里守は別の事を思う。
彼女はそのキャラクターには見覚えがあった。どこかのテーマパークで見た
はずだ。
「ドナルドダ……」
「違う! 我が輩の名は@☆※£@である」
名前の部分以外は、はっきりとした聞き取りやすい日本語だった。だが、肝
心な箇所が難しい発音のようで、何と言っているのかわからない。
「ごめん、聞き取れなかった。もう一回言ってくれる」
「我が輩の名は@☆※£@だ」
名前の部分は、風が吹き抜けるような板ガラスを爪で引っ掻くような、とて
も人間に発音のできるような音ではなかった。
「ええーん。そんな人外魔境な言葉で発音されてもわかんないよぉ」
「そうか、ならば人間の言葉に変換する」
「わかってるなら最初っからそうしてよ」
「我が輩の名前はルキフ・ゼリキボセウイだ」
舌を噛みそうな名前だった。
「あのー、めちゃくちゃ言いづらそうな名前なんですけど」
「そんな事は知るか。きちんとこの世界にある汝の国の言語に変換したのだぞ。
我が侭は言うでない」
そんなぬいぐるみの言葉は無視して、彼女はこう告げる。
「よし、君の名前はドナルド、愛称はドナちゃん。その方が自然だよ」
有里守は目の前にあるぬいぐるみの胴体を両手で掴み、斜め上に持ち上げた。
「……」
ぬいぐるみは不満そうに、声にならない音で呻っているようだ。
「きみは動けないんだね。それとも動けないぬいぐるみに取り憑いちゃった間
抜けな悪霊さん?」
「さっきから聞いていれば好き勝手云いよって。我はそんな下劣な存在ではな
い」
「じゃあエネルギーの切れちゃったぬいぐるみ型のロボットで、中にいるちっ
こいパイロットがきみなのかな?」
有里守の想像力がぬいぐるみの状況を勝手に創造する。だが、陳腐な設定は
どれもしっくりとこない。
「違う。我はもっと高貴な存在だ。悠久なる魔法を伝える者。グランドマスタ
ーである」
「ぐらんどばざーる?」
「……云っておくが、ノリツッコミはせえへんぞ」
ノリツッコミという言葉を知っている俗っぽさにこそ、有里守は突っ込みを
入れたかった。
「それで、そのグランドなんとかさんがあたしに何かご用?」
「それについては話が長くなりそうじゃ。ここから我を密かに連れ出し、汝の
住み処へと案内せよ。そこで重要な使命を汝に託そう」
「ええーん、それって万引きじゃん」
有里守は涙目で恨めしげにドナルドを見つめる。
家に帰ると、有里守はまっすぐに自分の部屋に向かう。両親は共働きで帰り
も遅いので、部屋の中で多少大声で会話をしても不審がられることはない。
国語辞典やら漢和辞典やらの数冊の辞典とノートが散らばった机の上を片付
けると、彼女は古本屋から連れ出したあのぬいぐるみ=ドナルドをそこに置く。
有里守は椅子に座って両肘を机に突いて、頬を両手で支えながらドナルドと
向き合う。
「さて、説明してもらいましょうか?」
「うむ、よろしい。では説明しよう」
「でも、どうしてあたしに声をかけたの?」
ふとした疑問を訊かずにはいられないのは有里守の性質だった。
「待て! まだ何も話してなかろう。質問はそれからじゃ」
「えー、なんかそれが一番気になるんだよぉ」
不貞腐れそうになる彼女を見て、ドナルドは考えを改めたようだ。
「わかった。それを先に話しても差し支えはなかろう。そうじゃな、汝には素
質がある。汝は普通の人間には見えない我の姿を見ることができる。我の声を
聞くことができる。そして、汝は我を恐れない。そう、大抵の者は我の声を聞
くことができても恐れおののいて逃げ出してしまう」
「そうかなぁ、こんなかわいい声なのに」
どちらかというとコメディタッチのアニメに出てきそうな声質なのだった。
「かわいいと云うな。我はグランドマスター。かわいいとは悪口雑言にも等し
い」
「かわいいって言われるのが嫌なら、もう言わないけどさ。でもね、あたしが
あなたの声を聞いて怖がらなかったのはそれだけが理由じゃないかもね」
視線を逸らして有里守はそう呟く。その表情には少し陰りが見えていた。
「どういうことだ」
「あたしね、わりとその手の声とか日常的に聞こえちゃう人なんだよ。だから、
慣れなのかな」
そう言って彼女は溜息をつく。
「そうか。だが、それは素質なのだ。選ばれた人間の悩みでもあるな。案ずる
でない。それこそが我の求めていた者だ。我の力を託せるのは汝しかおらぬ」
「あたしが選ばれた人間?」
目をまんまるくした有里守は、驚いたようにドナルドを見つめる。
「そうだ。それを誇りに思え、己の素質を疎んじるな」
「ははは、なんか喜んでいいのかよくわからないな。そうか、考えてみたらま
だ説明聞いてなかったもんね」
彼女は思わず苦笑する。
「そうじゃな、まず基本的な事から始めよう。そもそも魔法とは……」
ドナルドが説明を始めてから数分後、有里守は寝息を立てて船を漕いでいた。
「有里守!」
「ひゃ!」
有里守は心地良い眠りの底から引き摺りだされる。びくりと痙攣した身体は、
不快な目覚めを余儀なくされた。
「……話聞けよ」
■Every day #1
後ろから脇腹をぷすりと指で突かれる。
「うひゃ!」
思わず声が出てしまった。被害者である滝川恭子(たきがわきょうこ)は加
害者が存在するであろう後ろを振り向く。
「うにゅ」
今度は頬を指で突かれた。
「夢中になるのはいいんだけどね。もう図書室閉める時間だって」
頬に食い込んだ指を引っ込めながら、鈴木美沙(すずきみさ)はそう告げる。
シャープな顔立ちでショートカットの似合う彼女は、美少年的な微笑みで恭子
を見つめる。
「え? もうそんな時間?」
恭子は壁に掛けられたアナログ時計の時刻を確認する。短針は5の位置、長
針は1の位置に近づいていた。
「もう5時過ぎなんだ」
「その分だと途中で成美が帰ったのも気付かなかったみたいだね」
「うん。あ、悪いことしちゃったかな。あたしからここに誘っておいて」
「試験勉強しようって言いながら、途中で気分転換に小説を書き出す時点で、
もう悪いと思うけど」
「ごめん」
試験勉強に使用した数学のノートの上に重ねて置かれていた創作用のノート。
恭子はそれをあわてて閉じて胸に抱きしめる。
「いいって、こっちはかえって捗ったから」
気にしないという表情の美沙。1年の時からの付き合いなだけに、彼女の扱
いは慣れたものだった。
「うん、ほんとにごめん」
恭子は立ち上がると上目遣いに美沙を窺う。
「そんな謝ることないよ。成美も怒って帰ったわけじゃないし。ほら、今日ピ
アノのレッスンがあるって言ってたでしょ」
不安になりかけた恭子の心を、人懐っこい美沙の声がふわりと包むようだっ
た。
「うん」
ようやく恭子の表情にも笑みが戻る。
「帰ろっか」
「そうだね」
昇降口から外に出ると、そこは夕暮れの一刻前の色だった。空は水色を残し
たまま微かな闇を引き摺り、その反対側を茜に染めつつある。
「そういえばさ、恭子っていつから小説を書き始めたの?」
恭子より頭一つ高い美沙がそんな言葉を投げかける。
「え?」
思わず横に居る彼女を見上げ、三つ編みにしたお下げの二本の髪が揺れる。
「素朴な疑問だよ。恭子ってさ、それがさも当たり前かのように自然と書き始
めるんだもん」
「うーん、それは難しい質問だね。あたしさ、昔っから妄想癖っていうか、物
語を創るのが大好きだったんだよ。だから、それを文章にしようとしたのがい
つだったかまでは、ちょっと覚えてないんだよね。ほら、絵が大好きな人がい
つから絵を描き始めたかなんて覚えてないのと同じだよ。無意識に書いてるん
だよ、あたしたちは」
真上の水色の空を見上げながら恭子は静かに語る。
「たしかに絵は物心がつかないうちでも描けるけどさ、小説は少なくとも文字
を習わないと無理だろ」
「うーん、だからね。『小説』って形式に倣おうと思ったのは最近だよ。でも
ね、イコールそれは小説を書き始めたことにはならないんだ。少なくともあた
しの中ではね」
「いまいち理解できないな」
「あたしはね、小さい頃から両親に本とか読んでもらってたし、物語に人一倍
興味を持っていた。だからそれを自分の物にしようって無意識に創作を始めた
の。たぶん小さい頃って誰でもそんなもんじゃない?
あたしの場合はさ、それが絵から始まって、周りから言葉を吸収しながら学
校で文字を習って、本を読みながらいろんな文章に触れて、その過程でいろい
ろな創作物を吐き出してきたと思うよ。
初めは意味不明な文字の羅列だったかもしれないし、それがポエムっぽいも
のだったり、台詞だけの短いセンテンスだったり、小説とは言えないような物
語の文章だったり……そりゃ最近なって、ルールとか分かってきてそういうも
のに縛られて小説らしきものを書き始めたけど、でもあたしの中の線引きとし
ては「この日から小説を書き始めました」みたいなものはないわけ。それでも
厳密な答えを求めるのなら、あたしの創作物を過去から順に全部検証して、小
説になっているものを探しだして、そこで線引きすればいいのよ。でもね、そ
の方式でいくと、現在ですら小説を書いているかどうかはわからないんだよ」
恭子は自分の中で曖昧だった気持ちを順序立てて説明する。それは、彼女の
中に凝縮された創作に対する想いだった。
「……なんとなくだけど言いたいことはわかるような気がするよ」
「一つだけわかっているのは、あたしは小説というものに挑戦している最中っ
てこと」
「現在進行形ってことですか」
「そう、レッツ、アイエヌジーなのですよ」
その会話はとても中学生らしいものであった。たぶん端から見れば微笑まし
い光景なのであろう。
静かな夕暮れの空に少女たちの笑い声が響き渡った。
■Everyday magic #2
「えー? なんでよりによってコレなのよ」
「しょうがないじゃろ。それが一番魔力を込めやすいのだから」
有里守は鏡を見ながら頬を赤くしていた。頭の上にはネコのような耳が生え
ている。
「これって絶対装着しなくちゃいけないの?」
「魔力が安定するまでじゃ。汝の魔法が暴走したらとんでもないことになるぞ」
「だって、これで街を歩いたら頭のおかしい人だよ。とってもマニアックな人
だよ。その手の店にスカウトされちゃうよ。その手のお兄さんにストーカーさ
れちゃうよ」
彼女は少し涙目になっていた。
鏡を見ていて空しくなってきた有里守は、目を閉じて元凶であるカチューシ
ャをとる。
このカチューシャは大昔、テーマパークへ遊びに行った時に買ってもらった
ものだった。園内にいる時ならまだしも、日常でこれをつける勇気は彼女には
ない。
それをドナルドが「これは魔力の制御にちょうど良い」とマジックアイテム
と変えてしまったのだ。さらに「魔法を使いたいのならこれを付けるべし」と
鬼畜なことを言い放つ。
「ごめんなさい、あたしやっぱり魔法使いになれなくていいです」
まるで告白してきた男の子を振るように、有里守はドナルドに対して深々と
頭を下げる。
「今更何を言う。汝に選択肢などないのだ。事態は緊急を要するのだから」
「ええーん。動けないぬいぐるみの癖に、言うことだけは偉そうだ」
その時、有里守の頭の上を風が通り過ぎる。それはとても奇妙な事であった。
部屋の窓は閉め切ってある。扇風機もエアコンも稼働してはいない。
「いかん。我の居場所を気付かれたか」
「え? 何?」
「邪(よこしま)なるモノだ」
部屋を見回すと、形ははっきりしないが半透明の物体が飛び回っているのが
確認できた。
「もう一度、制御装置を装着しろ。魔法で撃退しなければ」
部屋の中ということもあって、有里守は躊躇することなくカチューシャをつ
ける。
すると半透明だった物体が、はっきりと形をなして見えてきた。
それは空を飛ぶ蛸のようなものだった。八本(?)ある触手にやや楕円形の
頭。目はぎょろりとこちらを睨んでいる。
「装着したよ。どうすればいいの」
空飛ぶ蛸を目で追いながら、彼女はドナルドに指示を求める。
「今から我の呟く呪文を復唱せよ」
「わかった」
「ABRAHADABRA」
それはどこかで聞いたことがあるような呪文だった。
「え? あぶだかたぶら?」
「違う。ABRAHADABRAだ」
ドナルドは間違えないようにとはっきりと発音をしてくれる。
「あぶらはだぶら」
「目標物を指して魔力を込めろ」
有里守は飛び回る蛸の化け物を指で追いながら呪文を唱えた。
「あぶらはだぶら!」
彼女の身になんら変化はない。魔法など発動する気配すらなかった。
ドナルドは叫ぶ。
A B R A H A D A B R A
「違う。もっと魔法を込めろ。こうだ<雷石を投じ死に至らしめよ>」
呪文の瞬間、有里守の頭の中に別の言葉が浮かび上がっていた。
瞬刻。
ドナルドから出た光の矢が化け物を貫き、そして、その動きが止まる。
「すごい!」
有里守は目の前で起きたとても幻想的な状況に心を囚われていた。
「惚けている場合ではない。我の魔力では、邪なるモノを消し去ることはでき
ない」
だからこそ有里守が選ばれたのだ。
「え? あたしが」
「汝にしかできぬ。それが汝の使命」
「使命?」
今の有里守には考えられなかった。それがどれだけ重要な意味を持つかを。
「考えるな。目の前の邪悪を消し去れ」
有里守はドナルドに対して頷くと、もう一度指先で蛸のいる方角を捉える。
ドナルドが詠唱した時に心の中に浮かび上がってきたあの言葉。その意味を込
めながら、先ほどの呪文をもう一度唱える。
A B R A H A D A B R A
「<雷石を投じ死に至らしめよ>」
有里守の身体から光の矢が飛び出てきた。その大きさ太さは、矢ではなく槍
に近い。
化け物に突き刺さった光の槍が炸裂して、爆発したかのように部屋全体が閃
光に包まれる。
静寂。
日常が再び動き出す。
「よくやった有里守」
ドナルドから賞賛の言葉が彼女に向け発せられる。
「え? できたの? やっつけたの?」
有里守には実感が湧かなかった。もしかしたら、今の出来事は夢ではないか
と考えてしまう。
「そうだ。初めてにしては上出来だ」
でも、それは有里守一人の夢ではない。ドナルドと一緒に戦ったのだ。二人
で成し遂げたのだ。幻であるはずがない。
「すごい。すごいすごい!」
彼女はその場でぴょんぴょんと飛び跳ねながら、喜びを身体全体で示す。
「うむ。だが、これは始まりに過ぎぬ。抜かるなよ」
ドナルドははしゃぐ彼女に調子に乗らないようにと釘を刺す。
「うん。そうだ。ねぇ他の魔法も教えてよ。変身するやつとか、空飛んだりす
るのとか、雨を降らせたり、お菓子を作っちゃうものとか」
有里守は目を輝かせながら、両手を胸の前で組んでドナルドに向き直る。
「おいおい。誰がそんな魔法が使えると言った」
「だって、あたしは正義の魔法少女なんでしょ。魔女っ子と言ったら、変身で
きるのがデフォじゃないかなぁ」
「その頭の上の耳」
ドナルドはただそれだけを言い切る。
「えー? まさか、これだけ?」
頭の上のネコ耳を右手で触れながら、有里守は不満そうに頬を膨らます。
「贅沢を言うな。魔法とは本来、敵を攻撃するために編み出されたものだ。さ
あ、レベルを上げて魔法力を高めるぞ」
「RPGかよ」
■Every day #2
「例えばさ、成美ちゃんがピアノを弾くことができなくなっちゃったらどうす
る?」
昼休みの中庭のベンチで菓子パンを頬張りながら、恭子は祁納成美(けのう
なるみ)にそう問いかける。今日は土曜日なので、中庭にはほとんど人気はな
い。委員会で遅くなりそうな美沙を待つのに、小腹が減った恭子たちはコンビ
ニで軽めの昼食を調達してきたのだ。
「それは創作に関連したことですの?」
隣に座る成美は肩口まであるセミロングのストレートで、前髪はカチューシ
ャで上げて額を出している。
「うん、そうだよ。なんでわかったの?」
「長くて濃ゆいお付き合いですから、それくらいわかりますわ」
成美はとても優雅な口調で語った。資産家の父を持つ彼女は根っからのお嬢
様なのである。だが、大らかな両親の元に育てられたせいか、基本的な礼節は
弁えながら、庶民的な部分を併せ持つという特質があった。そのせいで、普通
なら私立のお嬢様学校に通うはずが、本人の希望で公立の平凡な中学校に入学
することとなったのだ。
「実はね。今構想中のお話に出てくる登場人物の一人なの。主人公じゃないけ
どね、成美ちゃんみたいに綺麗で純粋だから、ちょっとご意見を窺おうかなっ
て」
成美は美沙と共に恭子の大親友なのだ。どんな些細な悩み事も隠さずに話す
間柄であり、同時に二人は恭子の作品の読者でもあった。
「そうですね。それは、身体的なものでしょうか? それとも心理的なもので
しょうか?」
成美に意見を求めることは何度かあった。その度に彼女は真剣に考え、そし
て適切な言葉を恭子に伝えるのだ。
「うーん、どっちかって言うと心理的かな。腕に怪我をして一時期ピアノが弾
けなくなっちゃったんだけど、それはもう完治してるみたい。でも、もの凄い
ライバルが出てきて、その人の実力を思い知ってしまったの。自分にはそれだ
けの才能がない。どうやってもその人に追いつくことすらできないって。それ
がもとでその人はピアノを弾くことができなくなっちゃったの」
「うふふ。そうですね。それはとても単純な事だとわたくしは考えております
わ」
「というと?」
「たぶん、恭子さんと同じだと思います」
「え?」
自分の名前が出てきたものだから彼女は驚く。
「あなたは物語が大好きで、それを創ることが大好き。でも、恭子さんが創る
より優れた物語なんていくらでもあるでしょう?」
さすがに付き合いが長いだけあって、その言葉は的確であり容赦ない。
「うん、あたりまえだよ」
彼女は物語が大好きなのであって、自分自身が大好きなわけではない。
「でも、恭子さんは物語が大好き。だったら、追いつく必要はあるのかしら?」
「へ?」
またもや驚かされる。彼女が最初に考えていた事とはベクトルがまるで逆だ
った。
「わたくしはピアノが大好きで、音楽が大好き。奏でることも触れることも、
そうすることに意味がありますの。自分自身の矮小なプライドに振り回されて
本質を失うことの方が悲劇ではないかしら? もし、わたくしが心の傷に囚わ
れたのなら、好きでいることを否定するのは止めますわ。指が一切動かなくて
もピアノの前から逃げるようなことはしませんわ」
緩やかな口調。迷いのない意志。それは成美自身の強さを示しているのだろ
うか。
「うん、そうだね。それは成美ちゃんらしいかも」
「でも、これはわたくしの場合に限らせていただきますわ。通常プロになられ
ている方々は、より高みを目指さねばなりません。だから、それは試練と思う
でしょうね。その場合、解決法は人それぞれでしょう。だからこれは、わたく
し祁納成美に関してのみの解答ということになりますわね」
成美は最後に、それが絶対的な答えでないことを付け加える。人間は一人一
人違うのだから、と。
「ありがと、参考になったよ。でも、成美ちゃんってなんかテツガクシャみた
いだね」
恭子自身、素人とはいえ創作者の立場でもあるので多少理屈っぽくなる場合
もある。が、成美もそれに負けず理屈っぽさを際だたせる場合があるのだ。
「わたくしの愛読書はサルトルでもハイデガーでもありませんわ。わたくしが
こよなく愛するのはショパンの楽譜ですもの」
ただし、彼女は根っからのピアニストであった。
隣駅に新しいショッピングモールが完成し、本日グランドオープンとなった。
成美と美沙が行ってみたいと言いだし、恭子はそれに付き合うことにしたのだ。
「でっかーい!」
現地に到着して恭子の第一声はそんな単純な言葉だった。
「東京ドームより一回り大きいみたいだぞ」
「参入店舗は1000を超えるそうですわ」
さすがにここに来ようと言い出した二人は、事前に情報を仕入れてきている
らしい。
「あ、甘い物」
出入り口の所に屋台のクレープ屋が見えた。思わずふらふらとそちらへ歩き
出す恭子を、成美と美沙がその両腕をがっちりとそれぞれ抱えて止める。
「中にもっとおいしい甘味処がありますのよ」
「そうそう、そんなお手軽なデザートはこんなトコでなくても食べられるだろ
うが」
犯罪者のように両脇を抱えられて、恭子はショッピングモール内に連れ去ら
れていく。
まずは恭子の腹を満たそうと洒落た感じのカフェで軽い昼食をとった。エネ
ルギー補充ののち、ウィンドーショッピングの任務の為に出撃する。
成美と美沙の付き添いで来たものの、一番はしゃいでいたのは恭子だったの
かもしれない。
彼女の好奇心を満たす物が至る所に存在する。
建物の造りに、通路のオブジェクトに、デザートの甘さに、店内にある商品
のディスプレイ、そしてその衣服の煌びやかさに。
ついには子供のようにくるくると回りながら踊り出す有り様。
「ほら、そこ! 通行人の迷惑!」
美沙がぴしゃりと怒声を発する。
「まあまあ、美沙さん。あれだけ喜ばれると連れてきた甲斐があるというもの
ですわ」
「そりゃそうだけど……アレの仲間と思われるのはちょっと恥ずかしいぞ」
成美の意見に不満のある美沙が、まるで他人であるかのように恭子の事を指
さす。
「こら、美沙。むやみに人を指ささない」
逆ギレする恭子であった。
「ちょっとだけいいかしら」
ショッピングモール内を 1/3ほど見歩いた頃、成美が右手にある店を指し
「寄っていきたいのだけど」と控えめに呟いた。
そこは、【Victorian maiden】と掲げられたブランドショップだ。飾られて
いるのはエレガントでコケティッシュなアイテム。
中世のヨーロッパを思わせる、まさにヴィクトリアンスタイルの世界がそこ
にあった。
一般的なロリータファッションとはひと味違い、フリルも少なくシックな味
わい。
恭子の好奇心が再び動き出す。うっとりと眺めながら夢心地で呟く。
「お姫様みたいだよね」
「そういえば成美ってこの手の服持ってたもんな。ゴスロリっていうんだっけ?」
その手のファッションには興味のなさげな美沙が成美に問いかける。
「美沙ちゃん!」
成美ではなく恭子の口が開く。その口調は少し厳しくもあった。
「え?」
「ゴスロリってのは、もともとゴシック&ロリータファッションの略称なのよ。
純然たる姫ロリを退廃的で悪魔的なゴスロリと一緒くたにするのは……」
「まあまあ、このお店では確かにゴスロリ的なものも扱っておりますから」
恭子を宥めるように成美の緩やかな口調がそれを包み込む。
「でも、成美ちゃんの持ってるのは、白を基調としたエレガントなものがほと
んどでしょ」
成美は右手の人差し指を口にあてて少し考え込むと、何か閃いたかのように
美沙の方に向き直る。
「そうですね。あまり自分のスタイルを押しつけるのは好みではありませんが、
いい機会です。美沙さんにも、この世界の素晴らしさを味わってもらいましょ
うか」
「え?」
顔色を変えて美沙は一歩後退をする。
「うん、確か試着とかできるよね。うんうん。中性的なイメージを一新するの
にいい機会かもしれないね」
恭子にも成美の考えが伝わったようだ。
「え?」
今日の美沙のファッションは、ブルージーンズにTシャツ、紺色のフライト
ジャケット。
ボーイッシュな顔立ちは同性には人気がある。女の子じみたものをあまり身
につけないこともあって、中性的な外見はさらにベクトルをかわいらしさから
遠ざけていた。
だが、根本的には整った顔立ちなのだから、女の子らしい服が似合わないは
ずはない。
「楽しみですわ」
「楽しみだね」