#243/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 04/09/01 00:00 (481)
十三海断 2 永山
★内容 07/09/09 23:14 修正 第2版
大男がいた。泥の汚れか、色の判然としないつなぎのような服装に、二メー
トルクラスの巨体を包んでいた。顔にはシルバーメタリックのサングラスが掛
かり、表情は読み取れなかった。口は真一文字に結ばれていたと思う。そして
手には左右それぞれ、何かを持っていたようだ。
(左手には長細い棒みたいな物。右手には……あの形は、斧?)
脳内のスクリーンに、そこまで記憶を投影できた。そして、斧イコール凶器
という連想から、ふと閃いた。
(まさか、あれこそが殺し屋?)
軽く笑いそうになった。
契約を取り交わしたあの男よりも、更に大男が現れたのだから、笑いそうに
なるのも仕方がないだろう。ふさわしい人選? 目立ちすぎるんじゃないか?
早すぎる登場じゃないか?と疑問はいくつか浮かんだが、頼もしく映るのは紛
れもない事実。
(ならば、私は知らんぷりをしないといけないな。こうして鉢合わせしたのは、
偶然だから仕方がない)
早くなっていた鼓動を落ち着け、足を前に踏み出そうとする。が、まだ引っ
かかるものがあった。その正体はすぐに判明する。
(事故死に見せかけるのに、斧が必要か?)
はっとする。もう一度、今度は反射的に振り返った。
瞬間、口に痛撃を受ける。金属製の棒が突き出されていた。北は、予想だに
しない痛みに半ば気を失いかけ、仰向けに倒れた。事態を把握する冷静さも吹
き飛ぶ。上半身だけ起こし、舌で歯の状態を調べるが、これはほぼ無意識の行
動。口元に右手をやり、夥しい出血を目で知る。大男に襲われたのだとようや
く理解できた。
痛みは口や歯茎に留まらず、喉にまで達していた。助けを呼ぼうにも、声を
出せない。
その間にも大男は北との距離をなくし、再び金属製の棒を振るう。棒は、最
前と全く同様に、口を捉えた。棒先から伝わる凄まじい圧力に、横たわってい
た北は、廊下に釘付けにされた。しかし大男は、“獲物”が動けなくなっただ
けでは満足せず、一層力を入れた。
(や、やめろ。やめてくれ。そんなに力を入れたら)
棒がうなじを突き抜けて、廊下に刺さる。
北のその想像は、約十秒後に現実となった。
金属物が木の板にめり込んでいく音を後頭部で聞きながら、北は完全に意識
をなくした。
夜の乱入者たる大男は、もうおしまいか、つまらぬという風に首を傾げた。
そのあと、軽く右手を振り上げると、斧を駆使して北の頭部を上手に跳ねた。
大部屋は突然、闇に包まれた。自習に勤しんでいた子ら六名の内、女子の誰
かが悲鳴を短く上げる。続くは、どうした、停電か?といった具合のざわつき。
冷静な「消灯時間、まだよね」との声も聞かれた。
「見て。廊下も消えてる」
八神の声が云った。
「じゃ、停電か」
隣の猪木が呼応する。二人とも落ち着いたもの。
対照的に、若干震え気味に云ったのは星。「俺、暗いの苦手なんだよな」
「あら。それなら、夜寝るとき、予備灯がないと眠れないタイプ?」
辻の声は、どことなく興奮した口ぶり。このちょっとしたハプニングを面白
がっているのかもしれない。
「そういうことはない。いつ明るくなるか分からないのが嫌なだけさ」
「それよりも、ずっとこのままだと困る。本も読めない」
岡田は、自分以外を非難するかのような口吻で云った。誰かが大人に知らせ
に行けと云いたいのだろう。薄闇で、眼鏡を押し上げたらしい仕種がぼんやり
と見て取れた。
「別荘全体が停電してるんなら、向こうから来るさ。今、懐中電灯を探してる
とこじゃねえの」
星の声は、覚悟を決めたか、先ほどよりも落ち着きを取り戻している。岡田
は舌打ちをした。思う通りにならない状況に苛立った様子で、「携帯電話があ
れば、明かりになるのに」とぼやく。
「あんな明かりで参考書読んだら、受験の頃には視力が落ちて、健康診断で落
とされるかもね」
茶化したのは小村。辻と二人して、くすくす笑う。岡田は小さな声で「五月
蝿い」と呟いた。勉強を進められないことに、いらいらしている。が、元々前
へ前へと出る質でないのか、不満を口ではっきり表すまでには至らない感じだ。
「あーあ。先生達の手で、停電がすぐに直るとも思えないし、今夜はさっさと
寝た方が賢そう」
八神が大きく伸びをした。自分の部屋に向かうのかと思いきや、椅子が床を
擦る音は続かない。猪木が怪訝そうに尋ねると、八神は「もう少し目が慣れて
からじゃないと、危ないから」と返事し、腕枕に頭を埋める動作をした。
「待ってられない」
相変わらず小さな音量で吐き捨てると、岡田が席を立った。机や椅子に足を
ぶつけるような音が何度かあって、やがてドアに辿り着いたようだ。気ぜわし
く部屋を出て、廊下を、壁に張り付くようにして進む様が想像できた。
「待ってりゃいいのに」
星の独語は、部屋にいた者の大部分が感じたことかもしれない。
岡田は溜め込んだ不満を爆発寸前にしていた。それを抑制できているのは、
彼の性格故だろう。
自信家と引っ込み思案の両面を持つ彼は、中学校では大人しく振る舞いつつ、
ほとんどのクラスメートに対して見下すような気持ちで接してきた。自分はレ
ベルが違うと思っていたし、事実、学業の面で彼はずば抜けていた。
NS塾に通い出してからも、その意識に大きな変化は生じなかった。彼と同
じ実力を持つ者もいるにはいたが、大半は“ちょっとできる程度”にしか見え
なかった。この夏合宿にしても、親が勧めるのに応えただけ。勉強する環境な
ら、自宅で自分一人で没頭した方が、よほど効率がいいと信じていた。
ところが初日、外部からの受講者の中に、一人、気になる存在を見つけた。
リーダー肌の女子なら多くいるが、それだけでない。適切な云い表し方が分か
らないが、答え方や質問の仕方に冴え、切れを感じさせる。勉強だけに限らず、
普段の喋り方も理知的で、他の女子と違う気がする。初日だけ気合いが入って
いたのさ、と思おうとしたが、二日目もその女子の様子は変わらなかった。鋭
さを増したようですらある。
ああいうのがいるのなら、のんびりしていられない。本腰を入れて勉強に取
り組まねば。岡田は気を引き締め直した。が、その矢先の停電だ。苛立ちを募
らせても仕方がない。
(八神蘭……名前は覚えた)
暗がりを手探りで進みつつ、岡田は奥歯を噛みしめた。歯の擦れ合う音が響
く。物事を記憶領域に刻みつけるときの彼の癖、儀式のようなものだ。
直後、彼は廊下がT字に交差する地点に出た。右の区画に、講師陣の部屋が
点在する。ここで声を上げてもいいのだが、慌てふためいているようでみっと
もない。静かに進むことにする。窓があるが、曇り空のため、外は真っ暗だ。
当然、差し込んでくる月光や星明かりは皆無。
「ん?」
足先が何かを蹴った。重く、弾力性があるため、跳ね返された。下を向いて
目を懲らすが、はっきりしない。
しばらくそうしていると、段々と暗さに慣れてきた。ぼんやりと輪郭が浮か
んでくる。
同時に疑問が湧いた。
(どうして北先生達は騒いでないんだ? 停電なんだから、もっとざわついて
ていいんじゃないか?)
面を起こし、左右を見渡す。耳を澄ます。人影は見当たらず、鼓膜を振るわ
せたのは、不意に降り出した雨が窓ガラスを叩く音だった。あっという間に騒
騒しくなる。
一つずつ片付けよう。岡田は心に決め、まず、足下の物体の正体を探った。
さっきよりも顔を寄せ、目を再度凝らす。
ある臭いが鼻を衝いた。熱も感じる。
「……」
膝を折ったまま、後ずさり。自らの描いた想像図に、気持ち悪くなった。
(何かの生肉か?)
廊下に生肉が置かれている理由が分からない。しかも、そのサイズと来たら、
業務用の大きなブロックになってしまう。
次の瞬間、夜空に稲妻が走った。短い間、光が廊下を照らす。
「!」
岡田は正体を見た。叫び声一つ上げられなかった。信じたくなかったせいか
もしれない。一瞬だったので見間違えたんだ、と思いたかったのかもしれない。
だが……雷鳴が轟き、やがて二回目の稲光が。
彼の前に転がる物体は、間違いなく、村山志貴子の上半身だった。
岡田は歯を食いしばった。そうしないと、無様な声を上げ、落ち着きをなく
しそう。普段、大人しく振る舞っても、プライドは高い。なるたけ遺体を見な
いようにしながら立ち上がり、他の講師がいるはずの方角へ向かう。
このとき、彼が同学年の子らに助けを求めるか、あるいは一人で逃げ出して
いれば、結果は違った可能性がある。そうしなかったのは、彼の性格故……。
雷のおかげで、見通しはいくらかよくなった。廊下の片隅に足らしき物があ
るのが知れたが、急いで顔を逸らし、見ないようにする。
やっとドアの前に着いたときには、ゆっくり歩いたにも拘わらず、呼吸が荒
く乱れていた。加えて、誰の部屋だったか、咄嗟に思い出せない。ノックのポ
ーズで岡田は動きを止めた。
だが、すぐさま、名前なんてどうでもよいと考え直す。現状は明らかに異常
なのだ。誰でもかまわないから、助けを求めればいい。
飛び付くようにノブを握り、勢いよく開ける。声も出ていたつもりだが、実
際は違った。喘息患者めいた息がこぼれるだけで、少なくとも言葉にはなって
いない。
室内は矢張り暗い。それに、主は不在のようだ。反応が全くない。
(ひょっとして、講師全員で集まって、対策を練っている? し、しかし、一
人が死んでるのはどういう……。大体、僕らに何も知らせないなんてことが、
あっていいものか!)
心の中で叫んだ刹那、背中に激しい痛みと重さを感じた。
「!?」
振り返った岡田の顔に、大きな海星が急接近し、覆う。巨大な手だった。
抵抗する間もなく、力を込められ、眼鏡のフレームが歪む。と思うや否や、
レンズが割れ飛び、跡形もなくなった。
眼球を護るため、目を瞑る。だが、襲撃者の手が、指が下がってきて、瞼を
こじ開けんばかりに押してくる。
岡田はプライドを捨て、叫ぼうとした。その口が開くのを待っていたかのよ
うに、相手の大きな拳――顔を覆っていたのとは別の手の――が勢いを付けて
突っ込んできた。
口腔がぐちゃぐちゃに破壊される。口の中が瞬く間に血でいっぱいになると
ころだが、そうはならない。何故なら、口元から頬の辺りまでが、左右とも裂
けていたから。隙間より、岡田の血がぼたぼたぼたと溢れ、床に不揃いの円を
次々とスタンプする。
襲撃者はその体勢のまま走った。岡田の身体は、部屋の壁際まで押し付けら
れた。これまでの横暴ぶりに比べれば、ソフトランディングだったが、それで
も背骨を激痛が駆け抜ける。
痛がる暇はない。今度こそ、相手の指が岡田の両眼をこじ開け、眼球に触れ
た。声を出せない岡田は、血の混じった鼻水や唾を出し、涙をとめどなくこぼ
して、やめてくれ!のサインを出すが、相手には皆目通じない。仮に通じてい
たにしても、聞く気がないに違いないが。
程なくして、音がした。同じ音が二度、続けざまに。舌先でイクラの粒を潰
すのに、ひょっとしたら似ているところがあるかもしれない。
岡田は、かつて目のあったところに左右の手を持っていった。が、相手の手
の甲に触れ、びくりとして引っ込める。最早、抵抗する気力はゼロになった。
漸く、眼窩から指が引き抜かれた。
脱力した岡田の身体を、襲撃者は右拳だけでいとも簡単に支えていた。そう
して、両眼を奪った左手を今度は岡田の喉に宛い、じわりと力を入れた。
途端に、岡田の顔色が赤くなる。いや、既に血塗れなのだが、それとは違う
赤だ。それは程なくして白、次いで土気色に変化し、最後は紫色を帯びた。
襲撃者は獲物の絶命を確かめると、改めて左腕で死体を掴まえ、右拳を抜い
た。死体を掴んだまま、右手を何度か開け閉めしつつ、部屋を横切る。ドア枠
の脇に立て掛けておいた真っ直ぐな鉄筋を取り、死体の開けっ放しの口を、上
から覗き込む。狙いを定める風な仕種をしてから、その細長い棒を一気に刺し
込んだ。
標本箱の昆虫を連想させる姿だった。
雨が降り始めたのを機に、いよいよ大部屋を出て自室に引き上げようという
子が、一人、二人と出た。辻と小村だ。が、その直後に雷が鳴って、彼女らの
足を止める。
「急に天気が悪くなったなあ」
瞬間的にでも光を得て元気になったのか、星が呟く。問題集を開くが、「蛍
の光ならぬ雷の光としゃれ込みたかったが、だいぶ無理があるな」とため息混
じりに続けた。
まだ残っていた八神は、目をしょぼしょぼさせながら窓の外を向いている。
どうしようか考えている様子だ。
「結局部屋に戻らないでいるけど、八神さんは雷、苦手?」
猪木が尋ねるのへ、八神は首を左右に振った。
「落雷直撃さえなければ、嫌いじゃないわ」
冗談なのか、少し変わった返答だ。猪木は形だけ笑った。
「先生達、遅すぎる」
小村が叫ぶように云った。続けて同調を求めるかのごとく、「こんなになっ
てるのに、説明が何もないなんて、酷くない?」と辺りを見回す。
一番近くにいた辻が、うんうんと頷いた。肩を竦め、更に言葉を重ねる。
「さっき出て行った岡田って子も、戻ってくる気配ないし、どうなってるんだ
か。いつまでもこんなことしてられないわ」
「だったら、部屋に戻って眠れば? 雷が恐けりゃ、ここでしばらく待ってり
ゃいいさ」
星がリラックスした口ぶりで告げる。が、辻は癇癪を起こしたみたいに、激
しく頭を振った。
「そうじゃなくって! 先生のところに全員で行くのよ! 文句を云ったって
停電なんだから始まらないでしょうけど、説明が何にもないっていうのを反省
して貰うためにね」
「十一時が近いってのに、ごたごたを起こすのは疲れる。抗議するくらいなら、
さっさと寝た方が得策じゃないか。明日は数少ない遊べる時間があるし、美容
にもいいぜ」
「つまんないこと云ってないで、みんなで行こっ。こういうのは、大勢でやる
方が効果的だわ」
「そうそう。実際、岡田君は帰って来ないし。丸め込まれてるとこじゃないか
しら」
と、小村が同意を示す。八神がリーダーシップを発揮しないことと関係ある
のかどうか、辻と小村は早く行動を起こしたがっていた。
「行きたい奴だけで行ってくれよ。俺、部屋に帰る」
星が立ち上がりかけたとき、庭に面した窓ガラスが鳴った。雨粒とは明らか
に異なる調子に、皆、ぎくりとした顔でその窓を見る。
人の手があった。それと、顔の上半分が、ずぶぬれの状態で中を覗いている。
目には警戒の色が濃い。
髪が額に張り付いたせいで、すぐには分からなかったが、その人物は合歓だ
った。身振りで、窓を開けてくれとやっている。子供達は暫時、互いに顔を見
合わせた。結局、一番窓に近かった八神が合歓の求めに応じた。
「大丈夫ですか。何が起きたんです?」
異変を感じ取ったのだろう、八神は警戒を露にしつつも聞いた。雨風にも紛
れない、しっかりした声で。
「無事か、君らは?」
滴る水を拭おうともせず、掠れ声で応じる合歓。彼もまた警戒心が明瞭に出
ていた。目が忙しなく動いている。
「停電ごときで、大げさな。外にあるんですか、えーと、配電盤?」
斜め後ろから近付いた星が、呑気に云った。それを打ち消す強い語気で、合
歓が命じる。
「逃げるんだ。窓から出て、車まで走れ」
「な、何で」
理由を質す星。それとは対照的に、八神は「運転手が合歓先生一人なら、全
員乗れません」と意見した。合歓は虚を突かれたように息を飲んだが、弱く首
を振ると、「何とかする」と答えた。
「さっぱり分からない。何が起きてるのか、教えてください」
猪木が求めたが、合歓は「あとだ」と繰り返すだけで、とにかく別荘を出る
ように呼び掛ける。
八神が窓を全開にし、枠に片足を掛けた。
「従う前に、一つだけ。先生、ここにいない塾生はどうするんです?」
「……分からん。いそ――」
台詞が切れた。合歓の視線が八神と星の間を突き抜ける。表情は、見る間に
驚愕と恐怖に染まった。
「逃げろー!」
絶叫するのと、八神、星、そして猪木が振り向くのとが同時だった。戸口の
すぐ前に立っていた辻と小村も振り返ったが、彼女らこそ合歓が注意を喚起し
た対象だった。
磨りガラスに映った巨大なシルエット。それが腕を振り被り、猛スピードで
振り下ろす。途端に大音響を伴って、扉が割れ、斧の刃が覗く。
否、そいつは止まることなく、小村の額を直撃した。隣の辻は腰が抜けたか、
その場に尻餅をついて震えたまま、動けない。そこへ血のシャワーが降り注い
だ。影が斧を引き抜いたのだ。その拍子に、部屋の扉が外れ、廊下側に派手な
音を立てて倒れる。
頭を半分にした小村は、一本の棒切れのように倒れた。
「辻! こっち!」
友人の方へ手を伸ばそうとした辻に、合歓が叫ぶ。顔を上げた辻の表情が、
雷光のおかげで、何秒かおきに見えた。逃げようという意識はあるが、身体が
云うことを聞かない風だ。
そんな四つん這い状態の少女の上から、巨漢の影は覆い被さった。逞しい腕
を辻の細い首に巻き付ける。
裸締めの形に捕らわれた辻の表情が歪む。まだ力は入れられていないようだ
が、泣き出しそうにひきつる。最後の望みを託すかのごとく、助けを求めて右
腕を前に伸ばした。
次の瞬間、鈍い音とともに、彼女の首はあり得ない方向へ曲げられた。ほぼ
上下逆様になったその顔から、生気が抜ける。光が失われた目は、程なくして
白目を剥いた。
「こいつ!」
星が手近の椅子を掴み、放り投げようとする。それを合歓の声が制する。
「やめろっ。逃げるんだ。かなう相手じゃない!」
「だけど」
「他の先生も、料理のおばさんもみんなやられた。電話は通じなくなっている。
明かりが消えたのも恐らくあいつの仕業だ」
舌打ちを混じえ、早口で云った合歓。
「行くわよ」
八神が星と猪木の腕を引っ張り、自らは窓の外へ飛び降りた。
壁に身体をぶつけた二人は漸く事態を把握したか、スイッチが入った。慌て
気味に窓のレールを乗り越え、外へ転がり出る。
合歓と子供三人は身を屈め、駐車場へ急いだ。地面は酷くぬかるんでおり、
気を抜くと足を取られそうになる。と云って、襲撃者が一人とは限らず、警戒
を怠る訳に行かない。自然と足は遅くなる。
「合歓先生、携帯電話は?」
八神が尋ねた。先頭を行く合歓は首を振ってから、「持っていたんだが、逃
げるときにどこかへ落としたらしい。面目ない」と済まなげに説明した。
「あ」
合歓が別荘の角を折れてすぐ、声を上げた。すぐ後ろにいた三人の内、八神
と星が覗き込むようにして様子を探る。
子供の遺体があった。仰向けに転がり、雨に打たれるそれは、顔がなかった。
顔面をスライスされたような具合である。
それでも服装や髪形から判断すると、筑紫理沙子と思われた。別荘の方を見
るとちょうどトイレの窓が、壁に開いている。そこを足から出ようとしたが間
に合わず、殺されたらしい……。
「この様子だと、山谷さん、それに、男子達三人も」
「考えるな」
八神が呟くのへ、合歓が云った。皆がいることを確かめ、先を急げと促す。
「何者だよ、あいつは」
全速力で駆けたみたいに息を切らした星が、合歓の背中に疑問をぶつける。
でも、勉強と違って、正確な返答を期待してはいなかったかもしれない。その
証拠に、合歓が沈黙を長く続けても、星は不満を表さない。
「……あっという間だった」
泥を踏み締め、やがて合歓は口を開いた。
「部屋から廊下に出て、ほんの数歩進んだところで、いきなり出くわした。ど
こかのドアか窓が開いていたのだろう。全然気付かなかった。そいつは誰かを
――恐らくはルードさんを襲っていた。一目で、やばい奴と分かった。僕は叫
びそうになるのを、口を押さえて堪えて、逃げた。大声を上げて君達に知らせ
るべきだったが……できなかった。あのとき、そんな真似をしていたら、僕は
気付かれて殺されていた」
「……」
しばらく雨音と足音だけがしていた。それを崩したのは八神だった。
「別に責めやしないわ」
車のある場所まで、あと少し。
「だまくらかして出て来たはいいけど」
濡れた髪を手櫛で梳きながら、設楽が苦笑混じりにこぼした。
「すげえ雨になったな。運が悪い」
「そうでもないだろ。こうして、雨宿りできてるんだから」
蜂矢は車内を見渡す動作をし、呼吸を整えた。
彼らは夕食時、北に聞こえるよう、抜け出す時刻をわざと会話に出した。無
論、それはでたらめで、実際には十時を前にして別荘から脱出していた。
親からくすねて持って来た煙草を吹かし、夜の湖周辺を探険しようとした矢
先、突然の豪雨があり、その上に雷まで始まってしまった。急いで引き返すに
しても、別荘に戻ると濡れ鼠の姿を怪しまれる(というよりも、エスケープが
ばれる)ため、幸運を期待して駐車場の方へと走った。誰の物か忘れたが、鍵
の掛かっていない車を運良く見つけ、今、中でだらだらと過ごしている。
「それはそうだが。雨が止んだとしても、髪や服が乾いたら戻った方がいいな」
設楽が云った。
蜂矢は適当に「ああ」と応じ、頷いた。頭の中は、計画の実行でいっぱいだ
ったのだ。
(雨は予定外だが、かえってスムーズに車に誘い込めたぜ)
元々、蜂矢は設楽を講師の車中で殺害する気でいた。そうすれば自分だけが
疑われることがないばかりか、講師の一人に濡れ衣を着せられるかもしれない。
「さすがに冷たいな。今すぐ風呂に入ったら、気持ちいいのにな」
「ああ」
「そういや、酒飲んだことある? ビールとか」
「さあ」
「何だよ、その返事。俺が答えてないから、警戒してるのか? 俺だって、あ
るさ。親父がいい加減だからな」
「ああ」
蜂矢がいい加減な応対を繰り返す内に、設楽は呆れたのか、横を向いた。視
線は窓外の雨を追っているようだ。
蜂矢はこれを待っていた。ポケットに忍ばせていた細紐を取り出すと、両手
で持ち換え、静かに、しかしスピーディに設楽の首に回した。更に素早く、相
手のうなじの辺りで交差させる。
背後から襲われた設楽は当然、反応が遅れた。最初の一、二秒は、紐を目に
していながら、何だよこれ?という風に笑みを浮かべたほど。
蜂矢は無言で、力一杯、紐を左右に引っ張った。
く、く、く……という呼吸のような、呻き声のような、小さな音が断続的に
起きた。蜂矢がどれくらい締め続けたかは分からない。手のひらが痛くなった
のと、設楽の声が消え、腕がだらんと下がったのを機に、恐る恐る、慎重に紐
を緩めた。
顔を覗き込むと、目玉が飛び出しそうになっており、思わず身を引く。死に
顔に恐怖よりも吐き気を催したが我慢し、紐を丸めて元通り、ポケットに入れ
る。このあとすぐ、湖へ投げ捨てるつもりだ。
吐き気が去ると、笑いがこみ上げてきた。これもまた我慢しなければならな
い。下手に騒いで、第三者に気付かれては、元も子もないからだ。
(喜ぶのは、部屋に帰ってからでいい。今は一刻も早くここを立ち去るのが大
事だ、が……)
車中から空模様を眺める。雨は止みそうにない。むしろ、激しさを増したよ
うに感じられる。
(雨が最後には足を引っ張るか。ぐずぐずしてられねえ。万が一にも目撃され
た場合を考慮し、遠回りして行く。別荘に着いたら、風呂場に直行してごまか
せばいい。よし、これだ)
蜂矢は目の高さを戻し、人の気配がないことをさっと確かめると、ドアを開
け、一気に駆け出した。
駐車場に辿り着いた合歓と三人の子供達は、誰もが心身ともに疲れ切った状
態のはず。そこへ新たな他殺体を見せつけられようとは。
「何故、こんなことに」
助手席に座る設楽の絞殺体を前に、合歓はそう云ったきり、絶句していた。
車のドアに、鍵が掛かっていないのは、合歓のいつもの癖らしい。街の中な
らともかく、地方ではロックしないのが常だという。
「一体どうなってるんですかぁ?」
悲鳴のような詰問調は猪木。しばらくの間、黙っていたのが原因か、嗄れ声
である。
「ここまで来たら安全と思って、必死に逃げたのに。また死んでるじゃありま
せんか!」
猪木が、溜め込んでいたものを破裂させた。髪から水滴を振り飛ばし、合歓
に近付いた。が、その足がぴたりと止まる。
「まさか、先生はあの殺人鬼の仲間じゃないでしょうね?」
「莫迦なことを云ってないで、早く乗りなさい」
宥め、抑える手つきをしながら合歓。だが、猪木は激しく首を振った。
「信じられない! 証明してみせてよ、数学の先生なんだから!」
「大声を上げるな。そんなことしてる間に、あいつに追い付かれるぞ」
困り果てた体で首を捻る合歓。
そこへ、成り行きを無視するかのように、八神が口を挟む。
「この人数なら、遺体を下ろさなくても、全員乗れますね。どうします?」
「え? そ、そうだな……。可哀想だが、置いて行こう。まだ生死の確認がで
きてない人もいる。途中で拾うかもしれないからな」
「それじゃあ、早く下ろさないと。先生と星君でやれる?」
合歓と星が戸惑い気味に目を合わせる。彼らが行動に移るのを迷う隙に、徐
徐に車から(合歓から?)離れていた猪木が、いきなり走り出した。
「明日菜さん!?」
八神が一声叫んだが、猪木から反応は返らず、その後ろ姿はどんどん小さく
なり、雨のカーテンに煙る。八神も追い掛けようとはしない。
「放っておくしかないだろ」
星が嘆息する。八神は、それを当然のごとく受け止めていた。
「ええ。車道の方角に走って行ったから、判断能力は残していると思う。距離
はあるけれど、道に出さえすれば、車を見つけられるかもね。時間帯の遅さだ
けが難点。ま、車は無理でも、公衆電話があったはず」
「……冷静だな」
「昔、外国の紛争地域にいたことあるから」
「冗談だろ?」
星が片眉を吊り上げるのに対し、八神はおかしそうに微笑むのみ。
「シートがあったから被せておこう」
青いビニールシートを後部トランクから取り出し、示す合歓。今度は八神が
手伝う。両端を持って一旦広げてから、地面に横たえられた遺体にふわりと掛
ける。雨に叩かれ、ばちばちと騒々しい音が連続する。
「あら。設楽君は紐で絞め殺されたみたいですね」
シートが完全に掛かる前に、八神が唐突に発言した。なるほど、設楽の首周
りには、細い編み目模様がくっきりと残っている。
「それがどうかしたか」
「さっきの傍若無人な暴れっぷりを見せた殺人鬼が、こんな細々とした手を取
るなんて、おかしくありません?」
「どうこう云ったってしょうがないだろ。殺すのは同じなんだから」
星が後部ドアに手を掛けたまま、話を切り上げようとする。
「でも、頭を叩き割ったり、首を折ったり、あるいは顔を切り取ったりして殺
しているのに。合歓先生、他の先生達はどんな風に?」
「しかと見ていないし、全員のことは知らん。ただ……滅茶苦茶に切り刻まれ
ていたり、金属の細い棒で突き刺されたりしていたのを見た」
「やっぱりね。残虐なやり方を好んでいる。設楽君だけ、こんなに大人しいや
り方を取るなんて、辻褄が合わないわ」
「なあ、どうでもいいが、車に入ってからにしてくれよ」
両腕で自らを抱きしめ、寒そうにしてみせる星。
「だめよ。殺人鬼の他にもう一人、殺人犯がいるとしたら、私も安心して同乗
してられない」
「仮に、もう一人犯人がいるとして、それが僕や星君かもしれないと疑ってい
るのか?」
合歓が前髪をかき上げ、云った。八神は即座に首を横に振る。
「星君と私は、ずっと大部屋にいたから、いわゆるアリバイがあります。どこ
かへ行っちゃった猪木明日菜さん、殺された辻さんと小村さんにも。行方不明
の岡田君は微妙だけれど、タイミングを考慮すると可能性は薄い。自由に動き
回れたのは、各部屋にいた先生達と筑紫さん、山谷さん、蜂矢君。設楽君との
つながりだけをクローズアップすると、蜂矢君が第一容疑者。けれども、これ
以上は決め手がない」
「僕は部屋に閉じこもっていた訳じゃない。時折、他の先生を訪ねたり、逆に
訪ねられたりした。それに、君達の何人かが質問に来たじゃないか。イレギュ
ラーに来る君達の目をごまかして、こっそり外に出ることはできまい? 第一、
自分の車に遺体を放置するなんて莫迦はしないよ」
「なるほど。遺体の置場所はともかく、質問受付のくだりは、論理的ですね」
「納得したなら、早く車に」
星がほっとしたような口ぶりで云い、ドアを全開にしたそのとき。
雨音を切り裂いて、悲鳴が聞こえた。判然としないが、声質は多分、女では
なく、男のもの。それが途切れることなく、夜の空間を飛んでくる。
「蜂矢君だわ」
八神が断定した。
「もしかしたら、別荘の状態を“たった今”見て、肝を潰して飛び出してきた
ってとこかしら」
「見捨てる訳に行かないな」
合歓は唾を吐き捨て、蜂矢の姿が現れるのを待つ姿勢。
「あの一人大騒ぎ状態の彼が、殺人鬼をこちらへ呼び寄せるかもしれませんよ」
「そ、そうか。俺達はなるべく静かに逃げ出したけど、あいつ!」
八神の意見に、星が焦りの色が露になった。合歓を見やる。講師は無言だっ
た。
「それに蜂矢君は、設楽君を殺した犯人の第一候補だし」
八神のだめ押しがあった。しかしそれでも合歓は顎に手を当て、悩み、考え
ている様子。三秒と経たない内に、合歓は云った。
「とにかく車に乗りなさい。すぐに出発できるようにするんだ」
「まさか先生、あの殺人鬼を車で跳ね飛ばそうと思ってる? 斧や金属の棒を
投げつけられるかも」
「ケースバイケースだ。下手な考え、逃げるに如かず」
数学の講師だけあって、国語は弱いのかもしれない。
ともかく、星と八神は後部座席に収まった。シートの布地が見る間に水を吸
い込み、染みを作っていく。
「念のために聞いておく。君らは当然、車の運転できないよな?」
まだ車外に立つ合歓からの切迫した質問に、二人ともできないと答えた。
「そうか。僕が万一やられたら、走って逃げるしかないか……」
再び、考え込む仕種を見せた合歓は、突然、運転席に乗り込んだ。
「先生?」
「君らを車道まで送る」
発進させる合歓。荒っぽいハンドルさばきなのは、現状では仕方あるまい。
「そのあと僕は引き返して、蜂矢君や他に生き残りがいたら、拾ってくる。そ
の間、君達は車道を、別荘とは反対方向、つまり来たときとは逆へ進むんだ」
合歓の計画に、星が何も答えない内から、八神は即答した。
「分かりました。その方が効率的ですね」
そして今初めて気付いたみたいに、髪その他の身だしなみを整え始めた。
――続く