AWC 口語訳_四国連遍霊場記5 伊井暇幻/久作


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口語訳_四国連遍霊場記5 伊井暇幻/久作
★内容                                         03/11/08 04:20 修正 第2版
四国遍礼霊場記巻五

土州
室戸山、津寺、西寺、神峯寺、大日寺、国分寺、一宮、五台山付吸江寺、禅師峯寺、高
福寺、種間寺、清瀧寺、青龍寺、五社、蹉■【足に陀のツクリ】山  寺山

▼室戸山明星院最御崎寺(二十四番)
 俗に東寺という。安喜郡にある。空海が求聞持を修めた場所だ。空海自ら書いている
所に拠れば、土佐室門の崎で寂然と心に浮かんだとき、明星が口に入り虚空蔵菩薩の光
が照らして菩薩の威光を表し、仏法が唯一無二であることを示した。空海が感応した霊
地である。空海は弘仁年中に伽藍を整備し、能満虚空蔵の像を彫って安置した。空海が
滞在したときの歌「法性の室戸といえど我住めば有為の波風立たぬ日ぞなき」。この和
歌は「新勅撰集」に収められている【釈教十・冒頭】。「続後撰」「続古今」和歌集の
選者である藤原為家卿自筆の色紙が、寺に残っているらしい。
 空海が修行していたとき、姿を見せた明星を吐き出すと五色の石となった。今も残っ
ている。明星石と呼ばれているものが、そうであるらしい。
 山の麓に光明石というものがある。空海が勤行しているとき、龍鬼が邪魔をした。呪
伏して唾を吐くと石に付いて光明を放ちだしたという。
 山の麓に、入口の広さ六七尺の岩窟がある。六七間奥にはいると、高さ二尺ばかりの
如意輪観音石像がある。龍宮から上がったものだともいう。巨石で作った厨子がある。
中には二金剛を置き、両方の戸には天人をあしらっている。みな浮き彫りだ。実際に見
た者にしか、想像も付かないほど玄妙な造化だ。
 東の大きな窟に十七八間入ると、高さは一丈あるいは二三丈ある。広さは二、三間か
ら五、十間。太守が巨石で五社権現祠を建立した。愛満権現と呼ぶ。これは昔、窟の中
にいた民を苦しめる毒蛇を、空海が対退治し、跡に祀ったものだ。そのまた東にも窟が
ある。天照太神の社である。坂の半ばに聞持堂がある。坂より上は女人禁制となってい
る。
 足摺山とこの嶽を、土佐の二つの岬とする。遙か沖まで突き出ている。特に、この寺
は三方を海に囲まれ、山は一方にしかない。座ると波の音が耳に入り続け、空海は、あ
らゆる現象は因縁の積み重なりによって存在しているとの法理を感じた。今の参詣人
も、人を感じ世を感じて、思いに耽る。
 この寺は昔、堂宇は大きく白壁に覆われていた。朱塗りの柱が霞のように駁に見えて
いた。建仁二年、火災に遭って崩れた石段が土埃に覆われ、人々は心を痛めた。このと
き本尊は、大勢の中から飛び出し、林の中に隠れたという。
 俗に食わず芋と呼ばれるものが、この辺にある。奇怪なことがあれば空海に結びつけ
ようとするものが多いが、これも、化物の一つであろう。

▼宝珠山真言院津照寺(二十五番)
 東寺と西寺の間、室津浦にあるため、俗に津寺と呼ぶ。本尊は秘仏で、空海作の地蔵
菩薩像。開帳することはない。半町ばかりも石段を登って本堂に向かう。太平洋が一望
に見渡せる。波が空と溶け合い、爽やかな風が四方からそよぐ。この辺は、唐の津・室
津はもとより、船の停泊地となっている。この浦は波が荒く船が揺れるため、岩を切り
石を畳み海水を入れて湊にしている。見る人が皆驚くほど、大掛かりな普請だ。

▼龍頭山光明院金剛頂寺(二十六番)
 俗に西寺と呼ぶ。安喜郡にある。景色が見事であるため空海が建立した。嵯峨・淳和
両天皇の勅願寺で、奥深い密教の教えを称揚した道場であった。その後も権威は受け継
がれ、崇敬を受けた。綸旨・院宣・御教書を受けた。そのうち数件は、永く将来まで守
るべき命令書とされている。
 本尊は薬師如来像。空海が作ったとき、像によって肉体を与え堂も出来たので早く行
って席に着け、と言った。薬師如来像は立ち上がって厨子に入り、自ら戸を閉めた。以
後、戸が開くことはない。
 空海が始めてこの地を訪れたとき、大きな楠があった。木の虚の中に多くの天狗が集
まっていた。空海を見て、羽を叩き嘴を鳴らし咎め罵った。空海は暫く呪文を唱えて佇
んでいた。不動明王の大呪/火界呪【曩莫薩■【クチヘンに縛】怛他檗帝毘薬、薩■【
クチヘンに縛】目契毘薬、薩■【クチヘンに縛】他怛■【クチヘンに羅】■【クチヘン
に宅のツクリ】、贊拏摩賀路灑拏、缺、■【ニンベンに去】■【クチヘンに目】、■【
ニンベンに去】■【クチヘンに目】、■【クチヘンに縛】尾勤南、吽、怛■【クチヘン
に羅】■【クチヘンに宅のツクリ】、憾、■【牟に含】/なうまくさらばたたーぎゃて
いびやく、さらばぼつけいびやく、さらばたたらた、せんだまかろしやだ、けん、ぎや
き、ぎやき、さらばだぎなん、うん、たらた、かん、まん】であった。忽ち火焔が放出
された。神通力も及ばず天狗たちは退散した。固く結界して寺を建て、自分の像を彫っ
て楠の虚に置いた。
 空海の弟子に智弘という人がいた。徳の高い僧だったが、賑やかさを嫌い閑談を愛し
ていた。空海に、この寺を任され、隠者のように暮らし一生を終えた。廟がある。
 本堂右の社は地主神・若一王子。左は十八所宮、空海が京から勧請した。山の上には
清い泉があり、傍に弁財天の祠が建っている。空海が加持した阿伽井がある。堂を建て
て覆っている。二王門には空海直筆の額。御影堂には空海が登ってきたときに使った杖
がある。
 空海所持の仏具がある。このほか霊宝は多い。空海が書いたという当山の秘記がある
らしい。存在を疑問視する人は多い。だいたいが文字に写せないこともあるだろう。
 文明年中に火災に遭い、堂宇は灰燼に帰した。焼け跡に本尊は瑠璃光を放って立って
いたという。堂の再建供養の導師は根来の道瑜だったろうか。そのときの願文に書いて
ある。
 釜堂の釜は、空海が唐から持ち帰ったものだというが、記録には残っていない。空海
時代のもので、通常とは異なる物だと言われている。容量は三石六斗。
 この寺は昔から女人禁制だ。女性の参詣人は、麓にある行道所の窟で拝む。楠の木に
空海が彫りつけた霊験あらたかな不動明王像が本尊。
 この山には昔、多くの寺が厳かに放映を行っていたが、今では五寺しか残っていな
い。

▼竹林山神峯寺(二十七番)
 山が高く、一里も登らなければならない。頂上に登ると視界に入る限り、山々はみな
下方に連なっており、まるでこの山の子や孫たちのようだ。頼りない細道が曲がりくね
り、歩く人の黒髪も黄色くなるほど土埃が舞う。魔境であるため、午後五時以降は通れ
ない。昔は多くの堂宇を擁していたというが、あるとき火災に遭い、本堂・大師堂・鎮
守社が残るのみだ。
 麓の養心庵で、参詣人は憩う。この辺に、食わず貝というものがある。

▼法界山高照院大日寺(二十八番)
 香我美郡大谷村にある。欽明天皇時代の創建ともいう。本尊が大日如来なので、大日
経塔がある。また、敏達天皇に関係があるともいい、あるいは真言八祖の始祖・龍猛、
第四祖・不空の説話も伝えるという。時間や場所に混乱がみられ、聞く人はみな疑う。
 思うに大日経は、理念型として純化された法身の仏陀は普遍であると説く。大日如来
は自性法界宮、宇宙全体を住居とし森羅万象を制御する存在なのだから、天竺も日本も
大日如来の影響下にある。そういった意味を込めて、法界を山号と称している。ただ
し、行基菩薩が中興し、本尊も行基の作である。龍猛・不空とくれば眉唾かもしれない
が、行基レベルにまで戻るとよく聞く話であり、信ずるに足るよう思う。行基の後、空
海が復興し密教道場となった。
 本堂から三十余歩ほど離れて、大きさは七八囲いもある楠の老木が立っている。空海
が薬師如来を彫りつけた。霊験あらたかである。脇から霊水が湧き出ており、清らかで
凛としている。昔は二十五寺を従え、寺領も七八百石あったという。

▼摩尼山国分寺宝蔵院(二十九番)
 長岡郡にある。聖武天皇が詔勅を発して建てた、土佐の国分寺だ。古い言葉に、根の
深いものは抜けにくいという。この寺は昔の繁栄から比べると廃れてはいるが、千年も
の間存続しているのであるから、当初の企図が偉大であったのだろう。今の本尊は千手
菩薩で、不動明王・毘沙門天を脇士としている。行基菩薩が作った。
 本堂の西に空海の御影堂、北西に崇道天王、南西には楠山王神を祀っている。左には
十王堂があり、本坊を東に構えている。脇坊には四宇があり、垣の西に門がある。本堂
の正面南には二王門。仁王像は五尺五寸で、楼上には鐘が架かっている。朝夕に突く音
は神明に通じ、人々を安心させ仏教が根付く一助となっている。
 国分寺の成り立ちについて讃岐・阿波の巻に書いた。ここでは詳しく書かない。

▼一ノ宮百々山神宮寺(三十番)
 高鴨大明神らしい。続日本紀に、従五位下賀茂朝臣田守らが奏上したこととして、次
のような話が載っている。昔、大泊瀬の天皇が葛城山で狩りをしたとき、一人の老人が
天皇と競い合って獲物を追った。
 天皇は怒って、老人を土佐に流した。神が老夫と化して放逐された社が、これであろ
う。大泊瀬は雄略天皇である。日本紀には天皇が神に遭って名を問えば、一事主だと答
えた。二人は轡を並べ歓談したとある。葛城の神は大己貴命の子で八重事代主命だ。高
鴨神である。また、味耜高彦命を高鴨神とする場合もある。この神も大己貴の子で、事
代主と兄弟だ。
 神宮寺の本尊は阿弥陀・観音・勢至の三尊像で金銅製だ。天竺から伝わったと言われ
ている。

▼五台山金色院竹林寺(三十一番)
 長岡郡にある。聖武天皇に夢のお告げがあり、行基菩薩に勅命し山を検察させ、神亀
元年に堂舎を建立した。行基が七日間霊瑞が現れるよう祈ったところ、夜明けに一つの
星が机の上へ落ちてきた。行基は赤栴檀で五髻文殊像を作り、星を眼精とした。
 五台山とは辰旦の清涼山を指す。文殊がいまし、霊験著しい。山には五峰が聳え、菩
薩の頭の五髻を象っているという。この山も五色の峯が峙ち、清涼山と同様だ。このた
め、五台山と号する。
 行基菩薩は、五台山に棲む文殊の化身だという。南天竺の菩提、婆羅門僧正と呼ばれ
ている人物は、中国・五台山の文殊が霊験あらたかだと聞いて、故郷を出て小舟で唐に
赴いた。五台山に登って、一人の老翁に会った。老翁は、文殊が日本に生まれ衆生を救
済している、と教えて消えた。菩提は日本に向かった。天平八年七月、聖僧の来朝を行
基が奏上した。聖武天皇は礼部・鴻廬・雅楽の三官人に命じて難波津に向かわせた。行
基は百人の僧侶を率いて待った。官人は楽を奏し、行基らは宗教詩を歌った。すぐさま
海に小舟が現れた。菩提は舟から下り、行基と対面した。行基は微笑み、菩提は旧知の
ように行基の手を取った。梵語で会話したため、理解できる者はいなかった。「霊山の
釈迦の御前に契りてし真如朽ちせず相満つるかな」と日本語で歌った。菩提は「伽毘羅
衛に共に契りし甲斐ありて文殊の御顔相見つるかな」と返した。この話は色々な本に載
せられており、異説を挟む人はない。この寺が霊境であると信ずるに足る伝承だ。【こ
の部分の描写は今昔物語巻十一「婆羅門僧正為値行基従天竺来朝語第七」と同様。ま
た、謡曲の「巻絹」の題材ともなっている。性空の「南天竺婆羅門僧正碑註」では、婆
羅門僧正は中国に来ていたところ、日本からの留学僧に乞われて来朝したとある。六世
紀に伝来し紆余曲折を経た日本仏教が立場を確立する始点は、恐らく東大寺建立であつ
た。この東大寺大仏開眼供養の導師を、婆羅門僧正は務めている。また、伊勢神宮と並
んで高い格式を誇った八幡神は、東大寺の守護を申し出た仏教守護の神でもある。この
ため、「大菩薩」の称号を得て、僧形の像が作られている。一般に本地仏は阿弥陀如来
とされている。空海との縁も深い】。
 五峰を、東岱・南衡・西華・北恒・中嵩と称する。辰旦五嶽からとったものだ。尚書
大伝に載っており、白虎通・風俗通などに詳しく記されている。今の名は知らない。
 北西に池が三つある。感覚や知覚は対象としたそのものが自分の裡に展開しているの
ではなくあくまで投影されたものだから空であり形もないと悟り心に作為を用いない三
解脱門の境地、宇宙法則を理念型として表す法身・個別事象を体系的に分析する法則で
ある報身・実際に個々の人間を救済しようとする行為である応身の三身、仏・法・僧と
いう仏教の三構成要素、これらの「三」を象徴しているという。寺はそれぞれ、このよ
うな数合わせをするものだ。真言宗の常套である。
 延暦末年、戦争によって掠奪を受け、長い間荒廃した。弘仁年中に空海が嘆いて中興
した。境内に水が乏しかったので、独鈷杵で加持すると清水が迸り出た。独鈷水と呼
ぶ。
 興廃が何度か繰り返され、定まった堂宇はなかった。現在残っているものは、本堂左
の開山堂。ここには行基の像を置く。池の中にある弁財天祠。続いて鎮守の山王権現に
は拝殿もある。右には大師堂、前には拝所。続いて三重塔、ここの本尊は大日如来像。
鐘楼。入った所に二王門を設けている。門外には牛王堂、行基の作った大威徳明王像を
安置している。本坊の持仏堂には、南無阿弥作の阿弥陀如来、恵心【天台僧だが念仏に
よる極楽浄土への往生を提唱した浄土教系の遠祖・源信】作の千手観音、春日【春日神
社と関係のある仏師一派。作品は春日明神が作ったものと見なされるともいう】作の勢
至菩薩を併せ祀っていたと思う。
 このような由緒正しい寺も、昔数回壊され、近世でも寛永二十年元旦の夜に天火が飛
来して堂宇が燃え、どうにか本尊は持ち出したが、ほかは法具も書物も、すべて焼けて
しまった。国の太守が嘆いて堂舎の多くを新築した。
 山の麓に吸江寺という禅寺がある。夢想国師が開いた。自筆の肖像画もある。この禅
師は泉石を賞翫する癖があり他にも幾つか名園を残しているが、吸江寺は一際見事で十
景の名がある。どうせ美景を謳った詩もあるだろう。

▼八兼山求聞持院禅師峯寺(三十二番)
 清く幽玄の素晴らしい景色を愛でて、空海が寺を建てた。本尊を作ろうとしたとき、
天から梵字のキャが降ってきたため、これを本尊とした。キャは十一面観音を象徴する
文字である。
 中世には火災に遭ったが、火焔の中でもキャ字は損なうことなく残った。以後、秘蔵
している。
 奥の院と称する所に、二つの龍穴がある。岩屋に毒蛇がいたので、空海が赴き座禅を
組んで仏を思い浮かべると、毒蛇は逃げていった。空海は代わりに、持っていた数珠を
置いた。今でも霊宝として残っている。
 山院寺号には訳があると聞く。由来を書いた紙の最後に、そこらの者が伝える歌も記
されていたが、色々考えてみたが意味が解らなかった。だいたいにおいて、寺の唱歌は
拙い言葉なので、拙い人が更に作り替えて様々に伝わるものだ。上手な人の口に載るも
のではないので、ますます採るに足らぬものになっていく。
 寺の前に御手洗と呼ばれる大きな池があるらしい。真念が調べ洩らしたので、どのよ
うな場所か分からない。

▼保寿山高福寺(三十三番)
 長岡郡長浜村にある。本尊の薬師如来像と両脇士は空海の作。近世、長曽我部元親が
菩提所としたため、禅宗になったようだ。開山派の僧が住み、雪渓寺と改めた。

▼本尾山朱雀院種間寺(三十四番)
 吾川郡秋山村にある。聖徳太子が天王寺を建立しようと、百済から宮大工や仏師を招
いた。寺が完成し、工匠らが百済に帰る途中、舟が外洋に差し掛かったとき、逆風が荒
れ狂い、舵が折れた。波は高く海水が空に降り注ぐほどだった。南へ北へと波に翻弄さ
れた。たまたま土佐国吾川郡に辿り着いた。水棲動物の餌にならずに済んだ。工匠らは
滞在するうち、現在の本尊・薬師如来像を作り、故郷に帰ることを願った。すると二羽
の鶴が飛来した。両翼を伸ばし、船のように工匠らを載せて、西の空へと飛び去った。
人々は、薬師如来の霊異だと感じた。本尾の山頂に堂を建て、本尊を安置して、国家鎮
護の押さえとした。
 その後、清和天皇の時代、粟田の関白・藤原道兼の息子・信衡が土佐に流された。そ
の子供の信定が山の麓に堂を建て、本尊を移して安置した。参詣の人が苦労しないよう
にとの配慮だった。
 本尊の霊異を聞いた村上天皇が、藤原信家を勅使として派遣、種間寺に勅額を贈っ
た。信家は大般若経一部を写して本尊に捧げようと考えた。一人の異様な雰囲気の僧侶
が現れて、自分がやろうと三年間堂に籠もって六百巻を書写した。供養の場となって、
僧侶は、何事があったのだろうか、姿を消した。経は六百巻とも空中に舞い上がり、暫
くして落ちてきた。ことごとく白紙に戻っていた。これを白紙の般若と呼び、今も残っ
ている。冷泉院の時代に、この白紙を送らせ代わりに大般若経一部と十六善神の絵一幅
を寄越した。現在にも残り、毎年多くの僧を招いて転読し、国家の安全を願う儀式を行
っている。
 寺の数百年にわたる数度の興廃は記録に残っている。現在の堂は正保三年秋、前の国
主・従四位侍従兼土佐守藤原朝臣忠義が、昔と同じように本尾山の頂に堂を建て、荘厳
を尽くした。本尊を安置した。霊像と霊境は互いに呼応して、改めて霊験あらたかとな
った。忠義の息子・忠豊は父の遺志を継ぎ、堂を補修し鎮守社を再建した。

▼医王山清瀧寺鏡智院(三十五番)
 高岡にある。本尊の薬師如来像、日光・月光菩薩・十二神は、行基菩薩の作。秘仏と
なっている。本堂の左に鎮守社、右に空海の御影堂、傍らに真如親王の墓だと伝えられ
るものがある。
 高さ五尺ほどの五輪塔が建っている。親王が塔に赴くとき、風の具合が悪く、暫く土
佐に滞在した。民家を整えて休んだ。このため、所の土地を、御所の内と呼ぶ。寺に入
って親王は、唐から天竺へ遙々向かう心細さを思ったのだろうか、自分の墓を建てたと
いう。羅越国で亡くなった。
 親王は平城天皇の第三子で、高岳親王と称する。嵯峨天皇が皇太子としたが藤原薬子
の乱で廃されて出家、東大寺で三論宗を学んだ。生まれつき賢く高邁で、仏教だけでな
く儒教も学んだ。真言宗の教えを空海に受けた。朝廷に願って唐に赴き西域にまで行こ
うと志を立てたが、流沙で客死した。日本から唐へ留学した者は数多いが、天竺を目指
した者は、親王一人である。この勇気に昔の人は驚いた。今、ここで親王の墓があると
聞くさえ、哀れを催すことだ。

・・・・・・・・真如関連資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 澁澤龍彦「高丘親王航海記」にも取り上げられた高僧。戦時中は南方進出の政策と相
俟って教科書にも取り上げられた。当時は日本人の起源として南方系民族が注目された
が、事情は同じである。ただし、精確な史料が残っておらず、人口に膾炙しているごと
く虎に喰われたのか否かも、分からない。以下、管見に触れたものを以下に掲げる。

【先帝御不和云々。仍先帝兵ヲオコシテ東國ヘ御下向云々。ヨリテ大納言田村麻呂。参
議綿丸等ヲツカハシテトドメマイラスル間ニ。太上天皇ノ御方ノ大将軍仲成打取畢。又
内侍〔薬子〕ノカミ同死畢。ススメニテ此事アリト云々。上皇御出家ヲハヌ。東宮高丘
親王ヲトドメテ大伴皇子ヲ東宮トス。高丘親王出家得度。弘法大師ノ御弟子ニナリタマ
ウ。入唐シテカシコニテ遷化シタマウ。真如親王ト申ハコレナリ。或ハ唐ヨリナヲ天竺
ヘワタリタマウ。流沙ニテウセ給トイヘリ。/愚管抄巻一嵯峨天皇十四年】

【真如親王天竺にわたり給ふ事 昔真如親王といふ人いまそかりけり。ならの御門の第
三のおん子なり。いまだかしらおろしたまはぬさきには。たかをかの親王とぞ申ける。
かざりをおとしたまひてのちは。道詮律師にあひて。三論宗をきはめ。弘法大師にした
がひて真言をならひ給けり。法門ともにおぼつかなきことおほしとて。ついにもろこし
にぞわたり給ける。宗叡僧正とともなひ給けるが。宗叡は文殊のすみ給五台山おがまん
とてゆき給ふ。親王はものならふべき師をたづね給けるほどに。むかしこのやまとの国
の人にて。円載和尚といひし人の唐にとどまりたりけるが。親王のわたり給よしをきヽ
て。御門に奏したりければ。御門あはれみて。法味和尚といふ人におほせつけられて。
学問ありけれど。心にもかなはざりければ。つゐに天竺にぞわたりたまひける。錫杖を
つきてあしにまかせてひとりゆく。ことはりにもすぎてわづらひおほし。さてやうやう
すヽみゆくほどに。つゐに虎にゆきあひて。むなしくいのちおはりぬとなん。このこと
は親王の伝にも見へ侍らねば。しるしいれぬるなるべし。昔のかしこき人々の。天竺に
わたり給へる事をしるせるふみにも。大唐新羅の人々はかずあまたみへ侍れど。この国
の人はひとりもみえざんめるに。この親王のおもひたち給けん心のほど。いといとあは
れにかしこく侍り。昔はやすみしるまうけのすべらぎにて。もヽのつかさにあふがれき
といへども。いまは道のほとりのたびのたましゐとして。ひとりいづくにおもむきたま
ひけんと。返々もあはれに侍り。……中略……わたりたまひけるみちのよういに大かん
し三もちたまひけるを。つかれたるすがたしたる人いできてこひければ。とりいでて中
にもちいさきをあたへ給けり。この人おなじくはおほきなるをあづからはやといひけれ
ば。我はこれにてすゑもかぎらぬみちをゆくべし。汝はこヽのもと人也。さしあたりた
るうへをふせぎてはたりぬべしとありければ。この人菩薩の給はざる事なし。汝心ちい
さからん人のほどこすものをばうくべからずとて。かきけちうせにけり。親王あやしく
て。化人の出来てわがこヽろをはからひけるにぞと。くやしくあぢきなしと侍る事思い
でられて。とにかくにこヽろすずろに侍り。……後略/閑居友巻上第一話】

【前略……去れは此大和の国。奈良の御門の太子。長岡の親王とてゐませしは。すへら
きの儲の君にてをはせいか。浮事にあはせ給て後。御かさりをろさせ給て。道詮律師の
室に入て。真如親王となん申けれは。智恵徳行ならひなくて。三論宗をもてあそひ給ふ
のみならす。宗叡僧都の禅林寺閑庵に閉篭ては。鹿薗の谷の水に。見思の垢をすヽき。
修円大徳の伝法院にやすみしては。覚知一心の悟を開き。弘法大師に随ては。真言宗を
きはめ給へり。かヽる有智高僧の人々も。猶あきたらすやをほしけん。唐に渡り給へり
けるか。是には明師もなしとて。天竺に渡り給へり。唐の御門。渡天之心さしを哀み
て。さまざま宝をあたへ給へりけるに。それよしなしとて皆々返し参せて。道の用意と
て。大柑子を三留給へりけるそ。聞もかなしく侍るめる。さても宗叡帰朝すれとも友な
ひ給へる親王は見え給はなえは。唐へ生死を。尋給へりけり。返事に渡天すとて師子州
にて。村かれる虎の合て。くゐ奉らんとしけるに。我身を惜には非す。我は是仏法のう
つは物なり。あやまつ事なかれとて。錫杖にてあはへりけれと。つゐに情なくくゐ奉る
と。側になん聞ゆと侍けるに。御門を初まゐらせて。百のつかさ皆袂をしほりにけり。
/撰集抄第のうち玄奘三蔵并真如親王渡天事から】

【(元慶五年十月十三日条)无品高丘親王。志深真諦。早出塵区。求法之情。不遠異
境。去貞観四年自辞当邦。問道西唐。乗査一去。飛錫无帰。今得在唐僧中■【王に灌の
ツクリ】申状称。親王先過震旦。欲度流沙。風聞到羅越国。逆旅遷化者。雖薨背之日不
記。而審問之来可知焉。親王者平城太上天皇之第三子也。母贈従三位伊勢朝臣継子。正
四位下勲四等老人之女也云々。去大同五年廃皇太子。親王帰命覚路。混形沙門。名曰真
如。住東大寺。親王機識明敏。学渉内外。聴受領悟。罕見其人。稟受三論宗義於律師道
詮。稍通大義。又真言密教究竟秘奥。門弟子之成熟者衆。小乗壹演為上首。詔授伝燈修
行賢大法師位。親王心自為。真言宗義。師資相伝。猶有不通。凡在此間。難可質疑況復
観電露之遂空。顧形骸之早弃。苦求入唐了悟幽旨。乃至庶幾尋訪天竺。貞観三年上表
曰。真如出家以降四十余年。企三菩提。在一道場。竊以。菩薩之道。不必一致。或住戒
行。乃禅乃学。而一事未遂。余算稍頽。所願跋渉諸国之山林。渇仰斗藪之勝跡。勅依
請。即便下知山陰山陽南海等諸道。所到安置供養。四年奏請。擬入西唐。適可許。乃乗
一舶。渡海投唐。彼之道俗。甚見珍敬。親王遍詢衆徳。疑■【得のツクリ】難決。送書
律師道詮曰。漢家諸徳多乏論学。歴問有意。无及吾師。至于真言。有足共言焉。親王遂
杖錫就路■【一字欠】脚孤行。十五年親王男大和守従四位上在原朝臣善淵。前肥後守従
五位上同安貞等上表請。親王入唐後。多歴年序。帰朝之期已過。存亡之分難決。而偏准
平常。猶受封邑。静而思之。悚兢難耐。伏望早被返収。将免謗議。■【來に力】。存亡
難卜。何許来請焉。親王身殞中途。神馳半月。昔為千乗之皇儲。今作単子之旅魄。彼菩
提之求。何必出戸。然厭世心深。甚哉苦行。親王始登震坊。世人号曰蹲居太子。雖見廃
非其罪。而理有必至。靡可預防。豈天意乎。豈人事乎。何婬嬖之傷化。而俗諺之如期。
書曰。牝鶏之晨。惟家之索。信而有徴歟。/三代実録巻四十陽成天皇】

【真如親王入唐略記(入唐五家伝)伝云。親王帰命覚路。混形沙門。住東大寺。機明敏
楽。渉内外真言教。究竟幽玄。貞観四年奏請。擬入西唐。適蒙勅許。乃乗一舶渡唐。高
丘親王(平城天皇皇太子。母贈従三位伊勢継子。従四位下勲四等老人母女也)大同四年
四月十三日立為太子。弘仁元年九月十三日廃皇太子。出家。貞観三年入唐。法名真如。
元慶五年十月。三日自唐申遷化由。到流沙。於羅越国亡云々】
 なお、これに続く「頭陀親王入唐略記」に、貞観三年七月十三日に難波津で乗船、八
月九日に太宰府に到着したとある。その間、四週間足らず。遣唐使の標準的な行程をと
った場合の日数といえる。なお、遣唐使は難波津を出て、中国地方の瀬戸内海沿岸を航
行した。則ち真如には、土佐の横浪付近まで迂回する時間的な余裕はなかったことにな
る。
 とはいえ、清瀧寺にある真如の墓/塔が無意味に存在しているとは思わない。三十六
番・青龍寺の項で道指南は、花山天皇が土佐に流され客死した、と伝える。花山天皇は
十七歳で即位、十九歳で妃を亡くし絶望、藤原道長の兄に当たる道兼に唆されて出家す
る。共に出家すると誓った道兼は姿を眩ました。その間に七歳の一条天皇が即位し、外
戚・藤原家の専断体制が成立した。年若い花山天皇の純情に付け込んだ政治劇は、あま
りに愚かしい。そして、花山天皇が土佐に流されたことなど、史実にはない。
 例えば日本武尊と弟橘姫、例えば静御前、本当に其の地に来たかあやしいけれども、
全国各地に伝承が残っている。悲劇の英雄もしくはヒロインに同情し、慰めようとする
人々の優しさが、事実を捏造していったのだろう。事実として認めることは出来ない
が、責める気にはなれない。昔の優しき人々の存在をこそ、事実として信じたい。
 結局する所、真如の墓は、真如が清瀧寺へ実際に来たことの証ではなく、真如の悲壮
な企てに対する深い同情の証ではないか。両者は厳然と峻別せねばならないが、必ずし
も後者の価値を貶めるものではない。却って、価値は高いかもしれない。人間というも
のの優しさ、権力から排除された者を抱き取ろうとする強さが、昔の人々にはあったこ
とを証明しているように思えるから。

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▼独股山青龍寺伊舎那院(三十六番)
 高岡郡竜村にある。山は高く、前面は開け背後へと聳えている。左は青海原、右には
峰が重なり合っている。空海が唐で投げた独鈷杵が、この山に落ちていたため、独鈷山
と呼ぶらしい。地形が唐の青龍寺に似ているため、寺を建立し青龍寺と称するという。
本尊の不動明王像は、空海の作。鎮守は白山権現。境内には泉があり、空海が建てた龍
王の宮がある。日照りのとき、この泉に鐘を浸すと、たちまち雨が降るという。
 堂から四町ばかり西に、奥の院がある。石を九尺四方刳り抜いて、空海が作った高さ
六尺の不動明王石像を安置する。

▼仁井田五社(三十七番)
 高岡郡仁井田宮之内村にある。土佐の太守が建てた。広々と開けた土地で、神社の前
は、尋常ではない雰囲気が漂う。前に仁井田川という大河が流れている。仁井田は、所
の地名だ。別当の岩本寺は、十余り町を隔てた窪川の町にある【現在の立て札では「
二・九キロ」】。

▼蹉■【アシヘンに陀のツクリ】山補陀洛院金剛福寺(三十八番)
 幡多郡にある。空海が訪れる以前から建っていたという。もとの堂は山頂にあった
が、空海が勅命を受けて現在地に移した。勅願所となった。本尊は高さ六尺の千眼観音
像で、二十八部衆が周囲を囲んでいる。
 金峯上人が住んでいたとき、絶えず魔魅が修行の邪魔をした。上人が呪伏すると魔魅
は悲しんで足摺りした。山号は、これにちなむという。空海が唐で投げた五鈷金剛杵が
落ちた場所なので、金剛福寺と呼ぶ。観音の霊場であるので、観音が主宰する補陀洛世
界から採り、補陀洛院と号す。
 本堂の左に塔がある。本尊の大日如来像は、清和天皇の追善供養として、清和源氏の
祖・多田満仲が作らせたものだと、伝えられている。
 堂の右にある十三重の石塔は、前国主・山内忠義が建てた。愛染堂・薬師堂・役行
者・大師堂が軒を接している。鎮守の熊野権現・天神社がある。前には二王門、鐘楼。
門の前には除石と呼ばれるものがある。このほか、有名な神社が多く、ここに載せるこ
とは困難だ。堂の右に並んでいる。境内は昔、三里四方あったという。
 霊宝が多く残っている。嵯峨天皇・宇多天皇・醍醐天皇・円融院・冷泉院など代々の
勅書や高貴な家からの寄進状なども多い。

▼月山(番外)
 昔は媛の井という場所にあったが、怪人が現れ現在地に移した。次第に大きくなっ
て、様々な霊瑞が起こった。人が願えば、応じないこということがない。媛の井に住む
人は精進しなくても参詣できるが、そのほかの人は厳格に精進して参詣しなければ必ず
悪いことが起こるという。

▼赤木山寺山院延光寺(三十九番)
 本尊は空海作の薬師如来像。空海の御影堂、五社神社と拝殿がある。十町ばかり行く
と奥の院がある。瀧が流れ、俗塵を忘れさせる幽玄の境地だ。霊地だが、昔のことは分
からない。悲しむべきことだ。土佐の霊場は、すべて国主が補修したということだ。





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