AWC 口語訳_四国遍礼霊場記6 伊井暇幻/久作


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★タイトル (gon     )  03/11/08  04:12  (303)
口語訳_四国遍礼霊場記6 伊井暇幻/久作
★内容                                         03/11/08 04:21 修正 第2版
四国遍礼霊場記巻六

豫州上

観自在寺、篠山、稲荷、仏木寺、明石寺、菅生山、岩屋寺、浄瑠璃寺、八坂寺、西林
寺、浄土寺、繁多寺、石手寺

▼平城山薬師院観自在寺(四十番)
 上郡平城村にある。空海の開基。本尊は薬師如来像で、脇に観音菩薩像が安置されて
いる。観自在の寺号が思い合わされる。昔は別に堂があったようだ。御影堂・鎮守社・
鐘楼もあったらしい。数千本の竹林と隣り合っている。山の前腹にあって、あまり高い
場所ではない。右に入江がある。仁智の愛を豊かに感じさせる場所で、領主が国内監察
のとき休憩する屋敷が門前に建っている。茅葺きの侘びて美しい建物らしい。

▼篠山観世音寺(番外)
 南は青海原が満々として空と繋がっているように見える。東には高い山が連なり、い
つも雲が立っている。西にも多くの山々が巡り、九州が眼下に見える。一里の坂を上っ
て、寺に着く。
 空海の開基だという。観世音寺と名付けた。本尊は高さ五尺の十一面観音像。山の上
には三所権現社があるらしい。熊野の神だろうか。篠や竹が茂っている。霊異があると
いって、この篠を万病の治療に使う。効果があるという。特に、馬の病気に効くらし
い。八十八カ所の内ではないが、遍路が必ず立ち寄る霊地である。

▼稲荷(四十一番)
 宇和郡登賀利村にある。社が鎮座した年代は詳しく分からない。この神は、空海と筑
紫で出会い、後に紀州の田辺でも出会った。空海が名を問えば、京都八条の二階堂柴守
長者だと答えた。大師は、自分が与えられた東寺は近所なので、守護してほしいと頼ん
だ。後に神が東寺を訪れたとき、空海は饗応し法事など行った。稲荷山に小さな社を建
て、祀った。額を書いて懸けた。二階堂は、現在の御旅所となっている。この神は稲を
荷として担いでいるので、稲荷と呼ぶ。筑紫でも紀州でも巳の日に空海と稲荷が会った
ので、巳の日を縁日にすると伝えられている。
 一説には元明天皇の時代、和銅年中に神稲荷山に示現した。宇賀姫といって、五穀の
祖神であり豊饒を司る。また飯成とも書く。だいたい神道の説は、記紀の神代に載る神
に取り合わせようとするものだ。しかし、はっきりしたものは少ない。天照太神から神
武天皇まで二百三十四万余年間の事跡が何も伝わっていない。八幡神とされる十六代応
神天皇の時代に至って、百済から論語などが渡来した。初めて異国の教えに接し、仁義
という言葉を知った。人々の願いに応じて、聖徳太子が出現し、日本の言葉と漢字を繋
ぎ合わせ、儒教を人々に学ばせ、神道を称え仏教を興し、両者の裡は根本では一つだと
考えた。神聖な者でなければ、このようなことは出来ない。これ以前に日本で道義を語
る者はいなかった。唐の周公や孔子と並び称すべき人物だ。以後、神道を説く者で、仏
教に触れない者はなかった。ところが近世、神道でも宋朝派儒教の他者排除病に罹っ
て、神道に意見を刷り込ませ仏教を排撃するよう謀り、色々な嘘を言い募っている。あ
るいは儒教の鬼神論を緩用して、元々の日本の神を滅ぼそうとする腐った流儀もある。
自己の執着による妬みによって自分の最も大切な深部を忘れて、国の禁制を破り愚かな
者を惑わす族もいる。私の説によって虚説を引き、体系的に語ることはない。おおかた
は我流の、仏教をよこしまに排除し神社にあらぬ言い掛かりをつけているだけだ。現在
の稲荷社では、空海を嫌って新説を作っているが、典拠はない。
 社は久しく荒廃していた。図の通りである。道清という者が人々に声を掛け、社と二
寺を再興した。

▼一■【果に頁】山毘盧舎那院仏木寺(四十二番)
 宇和郡則村にある。空海が通りかかったとき、楠の老木の上に光り輝く物があった。
不審に思って見ると、一個の宝珠であった。楠を伐って大日如来像を彫刻し、玉を頭部
に納めた。寺を建て像を安置した。一■【果に頁】山仏木を号とした。または、空海が
唐で投げた一玉が、この木に引っ掛かっていたともいう。三鈷杵の説話にも触れられて
いるという。
 本尊は高さ四尺の座像。右に鎮守・熊野三所権現社、弁財天・地蔵堂がある。左には
仏木大師堂、鐘楼がある。背後の山には椎や松などの木が茂り、前には田園が広がって
いる。春には鋤を操るうちに川に降る雨を見る。秋は千もの畝が這う田が黄金色に輝き
岡の上に雲が立つところを見る。長閑で健全な風景が思い浮かぶ。

▼源光山明石寺円手院(四十三番)
 本尊は高さ三尺の千手観音像で、二十八部衆が並んでいる。これらは空海の作。右に
鎮守の熊野十二所権現、伴社もある。前には二王門の傍らに籠所を構えている。左の山
の上に薬師堂、南の山の麓には地蔵堂がある。門を入ると白王権現石と呼ばれるものが
ある。籬で囲っている。この神石によって、明石寺と呼ばれている。村の名前も、これ
から来ている。地元では、「あげいし」と読んでいる。現在住んでいる人は僧侶ではな
く、修験者だという。

▼菅生山大宝寺大覚院(四十四番)
 浮穴郡にある。文武天皇の時代、大宝元年四月十八日、一人の猟師が山に入ると、岩
や木々が激しく動き、紫雲が峯や谷に満ち、ある場所から閃光が放たれていた。光の本
には十一面観音像があった。生えている菅を敷いた上に観音像を置いた。その場所に堂
を建て菅で覆って安置した。猟師は白昼、天に昇った。高殿明神と呼んで祀った。菅を
敷いたために、菅生山と号し、大宝年中のことだったので大宝寺と称している。朝廷の
知るところとなり、天皇の帰依を受け、立派な堂舎が建てられ勅願所となった。本堂は
大きく美しく、縁から両方の社の拝殿へ廊下を渡した。左に赤山権現、続いて天神。右
は三島大明神、耳戸明神。阿弥陀堂・文殊堂・百々尾権現社が並ぶ。左右とも前に池が
あり、それぞれ弁財天祠が建っている。石段の下の門には二金剛像を安置している。そ
の下に十王堂がある。左右に寺を構えており、堂舎は十二宇。入ると橋になっている。
川を御手洗と呼んでいる。人里から離れてはいないし、牛の声が聞こえてくるわけでも
ないが、修行に適した閑静な美しい環境で、風が涼しくそよぐ。
 弘仁十三年、空海が訪れたとき、落ち着いて美しい場所であることを喜び、精神を集
中して心に仏を思い浮かべる修行を幾日も続けた。立ち去ることを忘れるほどだった。
また、山から霊気が立っていると感じ、岩を踏み進んで奥の院を開いた。岩屋寺であ
る。

▼海岸山岩屋寺(四十五番)
 浮穴郡にある。名の示すように巨大な岩山に建てられている。まるで龍が蟠り、虎が
蹲っているような岩の姿だ。奇怪と言うほかはない。切り立った断崖の、岩が軒のよう
に出ている場所に堂が建っている。堂というよりは室であり、いずれも張り出した岩を
屋根としている。竈を置く室は張り出した岩だけで十分なので、別に屋根を作ったりし
ていない。本堂の不動明王石像は空海の作。本堂から大師堂へは廊下を渡して通じてい
る。堂の三丈ばかり上、特に突き出た岩があり、堂の縁から十六段の梯子で登る。梯子
は空海が懸けたときとのままだという。岩の上には仙人堂が建っている。像は空海作。
法華経を信仰していたため法華仙人と呼ばれている。大師が訪れるまで、この山に住ん
でいた。更に上方、屏風のような形に岩が落ち込んだ場所に、卒塔婆が建てられてい
る。昔から二本あり、空海が両親のために建てたものだと言われていた。いつのころか
らか、一本が傾いてしまっていた。延宝三年四月十三日、真っ直ぐに直されており、紙
らしい札が付いていた。鳥でなければ行けない場所なので、見る人は驚き合った。同十
年、大風が吹いて、一基は見えなくなった。卒塔婆が一本ある。その下に塔が建ってい
る。仙人の舎利塔と呼ぶ。不動堂の上の岩窟は、自然と厨子のようになっており、中に
は高さ四尺余りの銅製仏像が置かれている。鉦鼓を持っている。阿弥陀如来だというこ
とだ。各仏格は峻別できるものではなく融通無碍ではあるが、如来・菩薩・明王・天と
いった四種の身相は経や儀規に定められており、形式を私にすることはできない。阿弥
陀如来であることを疑う者もいる。もっともなことだ。いつのころかに飛んで来た仏で
あるから、飛来の仏と呼ばれている。近くに仙人窟がある。法華仙人が人間としての肉
体を失い精霊となった場所だ。
 奥に進むと、せりわりと呼ばれる、道のようになった岩の割れ目がある。白山権現が
作ったという。高さは二十間ほどで、奇妙に突き出た険しい岩がある。高さは三十尺ぐ
らいだ。二十一段の梯子を懸けて登る。上には、鉄で作った白山権現社が鎮座してい
る。
 その右に屹立する岩の頂きに別山社、続く岩の頭に高祖権現社が並ぶ。ここを離れて
勝手・子守・金峯・大那智などの神社が、随所に建っている。
 だいたい、人の話は大袈裟なので、聞くより見るは劣るというが、岩屋寺に限れば、
聞きしに勝る奇観絶景である。険しく極まる岩山は、何かよいことが起こりそうな形
だ。聖人や神々が壮麗を尽くしたかのような美しさ。幽玄で微妙な地形であり、山の精
霊が通る道を経れば、自然の尽きせぬ偉大さを思い知らされる。俗世の雑事を忘れ、石
粒を払って霊柴の茎を食む仙人でもなければ、簡単に登ってくることはできないだろ
う。遠くのことを近くに感じ、遙かな哲理を探り出し、信仰心篤く神通力を持つ人でな
ければ、ここでの修行もうまくいかないだろう。空海の神懸かりな偉大さを推測するこ
とができよう。山号の海岸は、空海の歌による。「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を
浪に喩えん」。

▼医王山養珠院浄瑠璃寺(四十六番)
 浮穴郡にある。本尊は薬師如来。日光・月光菩薩と十二神将が周囲を囲む。鎮守は牛
頭天王社。左方に寺を構えている。山が遠くないため、松風が窓に通う。左右に竹林が
茂り、前の石段は二堂に向かっている。本堂の姿は通常とは異なっている。門を出た所
には川が横たわっている。水は昼も夜も変わらず流れ動いている。ゆく川の流れは絶え
ないが、もとの水ではない。世の中も絶えず動いており、人も変わっている。昔のこと
が遠く消え去り、伝わらないわけだ。寺の興廃については分からない。惜しむべきこと
だ。

▼熊谷山妙見院八坂寺(四十七番)
 浮穴郡八坂村にある。本堂にある阿弥陀如来像は恵心の作だという。これから考える
と、寺が荒廃した時代は、恵心以前に遡る。廃れて本尊が破損もしくは失われていなけ
れば、恵心が本尊を新調したりしないだろうから。空海の事跡は伝わっていない。恵心
僧都は空海の死後二百年ほど経った時代の人だ。昔の本尊は、失われてしまったのだろ
う。現在でも、行うべき催事を、復旧できていないようだ。古い堂に清らかな風が凄ま
じく吹き付け、石段は苔に覆われている。

▼清涼山安養院西林寺(四十八番)
 浮穴郡高井村にある。本尊は高さ三尺の十一面観音立像。鎮守は三所権現。寺の前に
池があり。杖の渕と呼ばれている。空海が杖で加持すると、水が迸った。湧く水は玉と
なって、ぶつかり合い砕け、白い泡が絶え間なく結び続けている。その源がどのような
ものであるか、知る人はいない。

▼西林山三蔵院浄土寺(四十九番)
 久米郡鷹子村にある。寺の伝承によれば、孝謙天皇の勅願所だ。四百年の星霜を経
て、源頼朝が堂宇の荒廃を聞いて再興した。以後、郡司・河野氏が荘厳を加え、現在に
至っている。境内は八町四方で、伽藍は軒を接し、仏教談義の絶える日はなかった。郡
司・河野氏の崇敬が篤く、重罪人でも寺領に入れば捕まえることができないとの証文が
あったそうだ。空也上人・聖光上人の肖像がある。聖光は浄土宗の名僧だ。浄土宗の人
が住んでいたことがあり、肖像を置いたのだろう。

▼東山瑠璃光院繁多寺(五十番)
 温泉郡畑寺村にある。孝謙天皇の御願所だという。昔は伽藍が甍を並べ、三十六宇の
坊舎があった。学問僧が犇めき、講義の席には絶えず人がいたという。中興の住持は聞
月といって、弘安の頃に死んだ。四百年を経て、時も人も代わり当時の面影は残ってい
ない。寛文の初めから、龍狐という名の僧が本願を立て、堂舎を多く修復した。規模は
大きくないが、綺麗に磨き上げている。本堂の本尊は行基が作った薬師如来像。護摩堂
の本尊・不動明王像は伝教大師の作。堂の左に鎮守の熊野権現社がある。後には求聞持
堂がある。二王門は国司が建てたという。二王は運慶作で高さ九尺五寸。門内に池があ
り、中には弁財天祠が建つ。
 境内は四町余りで前方に海を眺望する。左は沃野が広がり、背後には山林の緑が深
い。
 聞月の時代から二百年前に、源頼朝から寄進を受けたことがあるという。
 村の名前の畑寺は、繁多と本は同じだろう。

▼熊野山石手寺(五十一番)
 温泉郡にある。近郷最大の立派な伽藍で、壮麗な建物が所狭しと並んでいた。柱に施
した彫刻が流麗として連なり、珍しく美しい玉を垂れていたという。寺の草創として、
元明天皇の時代、郡の大領・玉奥が和銅五年壬子年二月申辰日に白山権現を勧請したこ
とが古い記録にあるいという。しかし白山権現は養老元年、越州の泰澄が登り思いを凝
らして初めて現れた神だ。泰澄に先だって勧請したとは、疑わしいことだ。
 聖武天皇の神亀五戊辰の年、勅命を発して伽藍を建て、郡大領・玉純が天平元己巳年
三月八日に薬師如来像を作って安置した。行基菩薩を招いて開眼供養した。孝謙天皇の
勝宝七乙未年、三解脱門や東西の総門・韋駄天宮を建立し、勅命によって大般若経を与
えられた。それまで法相宗であったが嵯峨天皇の時代、弘仁年間に真言宗の道場となっ
た。当時の住持は、良賢であった。
 寺が真言宗に属した時代、伊豫浮穴郡花原の村に、右衛門三郎なる者がいた。四国の
中でも屈指の長者であった。貪欲で倫理を解せず、神仏の教えに背いていた。男の子が
八人いたが、八日の間に八人ともが急死した。異説もある。このことによって人様のこ
とを思い遣る心が芽生え、神仏の存在を信じるようになった。出家して、霊場を巡礼し
た。阿波・焼山寺の麓で、鬱屈を抱きながら死の床に伏した。空海が通りかかり、右衛
門三郎が菩提心を起こしたことに感激して、死出の願いは何かと問うた。三郎は、伊豫
で河野家が最大の富を持っているから、河野家に生まれたいと願った。空海は、小石に
右衛門三郎と書き付けて握らせた。三郎は死に、葬られた。塚が残っている。時が経
ち、国司・河野家に男児が生まれた。左手に、件の石を握り締めていた。右衛門三郎の
後身であると人々は覚った。男児は息方と名付けられた。
 ところで、輪廻転生といえば、羊■【シメスヘンに古】と円沢の説話が有名だ。
 「■【シメスヘンに古】年五歳、時令乳母取所弄金環、乳母曰汝先無此物、■【シメ
スヘンに古】即詣鄰人李氏東垣桑樹中探得之、主人驚曰此吾亡兒所失物也、云何持去、
乳母具言之、李氏悲【■リッシンベンに宛】、時人異之、謂李氏子則■【シメスヘンに
古】之前身也、又有善相墓者、言■【シメスヘンに古】祖墓所有帝王氣、若鑿之則無
後、 ■【シメスヘンに古】遂鑿之、相者見曰猶出折臂三公、而■【シメスヘンに古】竟
墮馬折臂、位至公而無子」(晋書巻三十五列伝第四羊■【シメスヘンに古】伝)
 中国の晋代、偉大な政治家・軍人として知られた羊■【シメスヘンに古】は五歳のと
きに、不思議なことを起こした。ある日羊は、「いつも玩具にしていた金環を持ってき
て」と乳母に頼んだ。乳母は、「そんなもの持っていたの」と訝った。羊は、隣の李宅
の東垣に生えている桑の木まで行った。木の中を探って、金の指輪を取った。李氏が驚
いて言った。「私の死んだ子が持っていた金環だ。失くしたものだと思っていたが、ど
うしたのだ。どうして持っていく」。乳母は「だって、これ、ウチの坊っちゃんが、い
つも遊んでいる金環でしょ。そう言ってたわ」。羊を見詰めていた李は、何故だか悲し
みと愛おしさが込み上げてきた。羊を抱き締め、声を上げて泣いた。当時の人々は、話
を聞いて不思議がった。前世で李の子供であった羊が、自分で隠していた金環の在処を
覚えていたのだ。また、墓占いに巧みな者が、羊の家の墓を見て言った。「この子に
は、帝王の気が見られる。しかし、墓を傷つけたりしたら、跡継ぎが生まれなくなる
ぞ」。羊は墓を傷つけた。卜者は傷ついた墓を見て言った。「おやおや、坊やは外出し
て骨折しちゃうぞ」。羊は落馬し骨を折った。後に王に次ぐ官位・公まで昇進するが、
跡継ぎは生まれなかった【以上、意訳】。

 また、「南嶽總勝集」【大正新脩大蔵経所収】などにも載せる、「三生石」の説話
は、色々に伝わっているが、おおよそ次のようなものだ。
 人間の転生を見せ付ける僧が、唐代に現れた。名を円沢という。また唐の都・洛陽
に、李源という者があった。父は官に就き東都を守っていたが、安禄山の乱で殺され
た。李源は国家というものに嫌気が差し、酒色に溺れて過ごした。しかし放蕩に虚しさ
を感じたか、全財産を慧林寺に寄進し堂宇を修復、自らは寺に寄宿した。二人は慧林寺
で出会った。共に音楽的才能に恵まれていたため、馬が合った。暇さえあれば、膝を交
えて詩文・音楽談義に耽っていた。
 幾年か経ち、二人は共に西部の蜀へと行こうとした。どこを通るかで意見が割れた。
円沢は、古都・長安を回って行かなければ困ると懇願した。嵋峨山に薬を取りにいくた
め渓谷を通ろうとする李源は、言い返した。「俗世を捨てているべき僧が、華やかな都
会に行くとは何事か」。言い負かされて円沢は、李源が勧める道を採った。暗澹たる表
情をしていた。荊州に至り、将進峽を通り掛かった。女性達が色っぽい衣装で、水を汲
んでいた。円沢は涙を流し、「恐れていたことが起こってしまった。彼女を目にすると
は」、と悲しんだ。李源は訝った。「旅の途中で同様の女性を他でも見かけた。ここで
何故、驚き嘆くのか」。円沢は答えた。
 「私は、仏の説く輪廻転生を、この世に示す運命を与えられている。女性たちの中に
王氏の娘がいる。胎児を宿して三年が経つ。この胎児こそ来世の自分なのだ。私が、母
となる女性を見ないうちは出産しない定めであった。しかし私は、彼女を見てしまっ
た。子供は三日後に生まれる。それは即ち、私の死を意味するのだ。李源よ、私が早く
再生するよう祈れ。そして、ここから少し進んだ所で宿をとり、数日を過ごしてくれ。
私が死んだら、山の麓に葬るように。三日後、王の家を訪ね、生まれた子供に微笑みか
けてくれたまえ。生まれ変わった私が、微笑み返そう。それで、嬰児が私であると分か
るだろう。また、十二年後の仲秋の月夜、杭州・天竺寺の前に来てくれ。私も行く」。
 この道を強いて円沢を死に追い遣ることになった李源は、深く後悔し悲哀の海に沈ん
だ。二人は、件の女性に話しかけ、もうすぐ子供が生まれるとだけ告げた。女性は喜び
家に帰った。親戚が集まった。魚を捉え酒を汲み、川の神を祭った。朗らかな宴の声が
李源らの宿所にも伝わってきていた。円沢は沐浴し、新しい衣に替えた。座禅を組み、
夜を更かした。その晩のうち、李源が気付かないほど静かに、逝った。三日後、李源は
王家を訪れた。微笑みかけると、嬰児も笑った。李は王氏に顛末を話した。王氏は円沢
を手厚く葬った。心虚ろとなった李は二日後、慧林寺に戻っていた。
 十二年後の仲秋月夜、円沢との約束に従って李は、杭州・天竺寺の前に立っていた。
見回すと、円沢はいなかった。ただ、沢に円い月が映っていた。と、その畔で、牛に乗
った牧童が、鞭で角を叩きつつ三峡地方特有の節回しで歌っていた。
 「三生石に昔の心が凝縮して宿っている。月を愛でよう、風に歌おう、小難しい話な
んてしたくない。別れのきっかけつくった恋人が、後悔に胸を掻き毟りながら、遠い道
を訪ねてくる。私は生まれ変わり、すっかり変わってしまったけれど、これからも、ず
っと生きていく」。
 李と牧童は門の前で顔を合わせた。李の唇から、思わず言葉が迸り出た。「や、や
あ、円沢」。牧童は応じた。
 「君は約束を守る誠実な人間だね。慧林寺ではいつも一緒にいたけれども、君と私は
生きる道が違う。君の俗縁は、まだ尽きていない。でも、これから修行に打ち込めば、
また私たちの会える時が来るよ」。
 あどけない少年に似合わぬ、老成した口振りだった。募った思いのたけを口にも出せ
ず李は、ただ涙に暮れた。牧童/円沢は、牛の歩を進め、再び歌い始めた。
 「前世のことも来世のことも、はっきりとは分からない。人が生まれ変わるなんて教
えたら、再び出会ったときの辛さを大きくするだけ。呉越の山々は、すべて見て回っ
た。瞿唐峡、川を巡る舟の棹に、纏わり付く煙を私は見上げていた」。
 円沢は去っていった。遠ざかる歌声を聞きながら、李は立ち尽くしていた。
 これが高僧・円沢が死んだ渓谷に建つ三生石をめぐる物語である。

 ……しかし、どうだろうか。二つの話よりも、右衛門三郎の物語は、より明確に輪廻
転生というものを表現しているように思える。右衛門三郎の生まれ変わりである息方
は、石手寺の権現社を信仰し、神殿・拝殿を再建した。生まれたときに握っていた石を
宝殿に納め、後世に伝えた。また、熊野十二所権現を勧請した。それまで安養寺と称し
ていたが、このとき熊野山石手寺と改称したようだ。境内として山林を多く与え、花原
郷を寄進して寺の維持費に充てた。建物は六十六宇を数えた。香の煙が立ちこめ、空の
雲と連なるようだった。
 村上天皇の時代、天徳二年に令旨によって、阿闍梨位を継承するための秘儀・伝法灌
頂を行うなど、重要な仏教拠点となっていた。記録に残っていることだが、表記が分か
りにくいため、要点だけ記した。
 源頼義が北条親経【鎌倉幕府執権の北条氏ではなく伊豫土着の河野新太夫の別名と考
えられる。河野氏が拠点とした風早郡は現在の愛媛県北条市あたり】に命じて、伽藍を
再興した。
 永保二年の夏に大干害となり、勅命によって四国一円の降雨を祈った。褒賞として勅
額を与えられ、住持の良寛は僧位を権僧都に進めた。
 寛治三年、堀河院が空海の御影を寺に与えた。北条親経に命じて、大師堂を建てさせ
た。
 永久二年、源頼義の末子・河野冠者親清が、堂宇の破損を修復した。
 治承元年、高倉院の勅命によって、唐から伝来した大般若経一部を与えられた。
 源頼朝から足利尊氏に至るまでの将軍家御教書が残っており、河野氏が修復したこと
も度々だが、特別なもののほかは一々記さない。
 元久元年三月三日、権現の祭礼を行った。十二社を仏教の立場で祀った。音楽を演奏
し、威儀を整えた。河野四郎通信が月例の能を始めた【鎌倉幕府草創期に活躍した通信
が、室町期前半に成立した「能」を行わせたとの記述には疑問がある。能のもとともな
った、芸能を指すか】。
 弘安二年、河野対馬守通有が、三島明神を勧請した。本社・拝殿・十六王子祠を備
え、九月二十六日に祭礼を執り行った。
 河野氏は、孝霊天皇の皇子で伊予に封じられた小千王から出たという。孝霊天皇の子
供のうち誰のことかは分からない。河野氏は天正年間まで七十二代を相続して、石手寺
も栄えた【孝霊天皇の子・狭島彦命/伊豫親王が海賊鎮圧のため下向し地元の海女と結
ばれて三つ子をもうけた。三つ子は不吉であるとして、それぞれ船に乗せ海に流した。
三番目の子供が小千/越智郡大浜に流れ着き、小千王と呼ばれ小千国造に任じられた。
後に越智氏を名乗った。この越智氏から河野氏が分かれたとされている】。
 崇徳天皇が讃岐に流されたとき、お忍びで参詣したという。三月上旬のことだったら
しい。歌が残っている。「名にし負はば又と来て見ん花の春 夕影残る雪の降る寺」。
歌われた花は、車返しの桜と呼ばれた銘木であった。五十八九年前に枯れてしまい、そ
れから出た檗が往事を偲ぶ縁となっている。
 霊宝には名高い物も多く、参詣したときに記録したもの総ては載せられない。
 橋の外に源朝義の石塔がある。
【奥付あるはずも欠】





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