AWC 口語訳_四国遍礼霊場記4 伊井暇幻/久作


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#180/598 ●長編
★タイトル (gon     )  03/11/08  04:11  (197)
口語訳_四国遍礼霊場記4 伊井暇幻/久作
★内容                                         03/11/08 04:19 修正 第2版
四国遍礼霊場記巻四

阿州下

観音寺、井戸寺、恩山寺、立江寺附取星寺・星谷、坂本、慈眼寺、鶴林寺、大瀧寺、平
等寺、薬王寺

▼光耀山千手院観音寺(十六番)
 名東郡にある。空海が開いた名刹。丹塗りの壮麗な堂が軒を連ねている。本尊は高さ
一丈六尺と立派で、本堂に安置されている。脇士は不動明王と毘沙門天。とはいえ、時
は物を朽ちさせる。堂舎は壊れ、一宇として当初の姿を留めているものはない。茅に覆
われた窓に夜の月は、あまりに明るく差し込んでいる。石段は、苔に覆われている。太
守の蜂須賀光隆は信義ある人で、古き良き時代を引き継ぐことを望んだ。住持・宥雄
は、寺の荒廃を訴えた。太守はすぐに請け負い、万治年中に寺を修復した。
 現在の堂から南に半町ばかり行くと、昔の大門の跡がある。東西には、昔の坊舎跡が
多く残っている。本尊・両脇士が破損しているので近頃、村の鈴江氏が資材を抛ち修復
して飾り、尊い姿を取り戻して威容を新たにした。

▼瑠璃山明照寺真福院(十七番)
 名東郡にある。井戸寺と呼ばれている。所の地名にちなむ。空海の開基とも、聖徳太
子の創建とも、行基菩薩の建立とも伝えられている。昔のことなので、はっきりしたこ
とは分からない。昔の本尊は八九尺のものだったらしいが、風雪に侵され、破損してし
まった。現在の本尊は、空海の作で、高さ五尺の座像である。両脇士の日光・月光菩薩
と、四天王像がある。鎮守の八幡社と楠明神社が並んでいる。
 寺の盛んな頃は、三町四方の境内であった。坊舎の跡が十二三残っている。現在門外
となっている池には弁財天の祠、隣に塔屋敷、若宮もある。今も境内は一町四方で、大
きく伸びた竹が茂る、侘びた趣のある場所となっている。

▼母養山恩山寺宝樹院(十八番)
 勝浦郡田野村にある。聖武天皇の詔勅によって、行基菩薩が建立した。大日山福生院
密厳寺と名付けた。七堂が甍を並べ、雲に届くばかりだった。本尊は、行基作の薬師如
来像。堂舎は三十二を数え、境内は広く、いくらかの田園や杣を寄進されていた。学問
に励む僧侶が多く集まっていた。しかし、さほど長い年月を経ないうち、衰退してしま
った。空海が訪れ再興した。母が人生を終える場所だと定め、死後は骨を埋めた。墓を
築き、石碑を建てた。これにより、母養山恩山寺と名付けたという。後に源頼朝が由来
を聞いて感心し、寺を修復した。足利尊氏や阿波守護の細川氏が相次いで崇敬した。三
好氏と土佐の勢力が戦ったとき、堂宇も宝物も焼失してしまった。戦争が治まった後、
以前の二割程度まで復旧した。蜂須賀小六の息子で阿波領主初代の家政・蓬菴が、旧来
の姿に復し若干の寄進をして、儀礼を復活させた。その後、火災に遭い、近頃、太守が
本堂を造営したという。
 立江寺に向かう途中に、つるまき坂がある。下ると、黒藪と呼ばれる場所に出る。空
海が生まれたとき、おむつを納めたと伝えられている。

▼橋池山地蔵院立江寺(十九番)
 聖武天皇の建立。縁起が残っているという。昔は八町四方あったらしいが、今では一
町半四方となっている。
 本尊の地蔵菩薩像は、聖武天皇が皇子の安産を願って作らせたものだという。子安の
尊像と称している。同様のものは各国に多くある。もとは小像であったが、空海が訪れ
現在の高さ六尺の本尊を作って安置したという。
 本堂の左に大師堂がある。

  付け足し 取星寺、星谷(番外)
 立江から三十町ばかり脇の岩脇村に、取星寺はある。大師釣召の星というものが残っ
ている。厨子に入れ、蓮華座の上に安置している。青黒色で玲瓏としており、心惹かれ
る。
 取星寺から二十町ほど離れた星谷に、星の岩屋がある。三間四方もあろうか。岩窟の
口の真ん中あたりに高さ数丈の瀧が懸かっている。霊場らしい。この岩の上に、取星寺
の星が落ちたと伝えられている。星石山と呼ばれている。
 落ちた星が石になると、中国では昔から言われていた。早くも左伝に書かれている。
儒者の説によれば、天を積気、日月を陰陽の精、星は万物の精だという。北斉の顔之推
の著書「顔氏家訓」帰心第十六に「天為積氣、地為積塊、日為陽精、月為陰精、星為萬
物之精、儒家所安也。星有墜落、乃為石矣、精若是石、不得有光、性又質重、何所繋屬
【天は気の積みたるもの、地は塊の積むもの。日は陽の精、月は陰の精。星は万物の精
たり。儒家の安んずる所なり。星の落つることあればすなわち、石となるか。精の、も
しこれ石となるや、光あるを得ず。性また質重たり。何所に繋属するものか】」と論じ
た【勿論、これは古来行われた中国の陰陽五行説を背景にした自然観であり、顔之推の
独創ではない】。凡人の憶説は採るに足らない。俗に色々と言われているが、みな間違
っている。仏教者の説もないわけではないが、儒者であっても顔之推のように学問に精
通している者が真摯に論じた場合、見るべき所が多い。
 星谷を後にして坂本村へ。この村には霜が降らないといわれている。昔、空海が泊ま
ったとき、夜になって酷く霜が降った。里人が我慢できないほどに辛がって憂えている
と聞いた空海が加持し、霜を降らせないようにした。隣村には、ひどく霜が降る。人々
は不思議なことだと言っている。

▼月頂山慈眼寺(番外)
 鶴林寺の奥の院ともいう。岸壁を攀じ登れば、雲が足の下から生じるほどの高峯だ。
本堂には、空海作の十一面観音像を安置している。不動明王像は、覚鑁上人の作。
 千尺もの険しい岩の中腹に、一丈ほどの木製卒塔婆がある。空海が立てたものだとい
う。中国の伝説的な発明家・魯般が作ったという万能の攻城具・雲梯でもなければ、辿
り着くことができないような場所だ。人々は不思議がっている。
 山の傍らに岩窟があって、松明を灯して入っても暗い。とても狭く、先達に従って身
を捩りながら十間ほど入ると、曼荼羅・諸仏・菩薩・龍・天幡・花鬘などの形が岩肌に
現れていた。奇怪なことだ。実際に行って見た人でなければ、その様子は想像もつかな
いという。
 瀧がある。落差二十余丈で、灌頂の瀧と称している。晴れの夜明けには火焔が立ち、
不動明王が現れる。このため、不動の瀧とも呼ばれている。信心深い人は、必ず不動に
逢えるそうだ。富士・白山の御来光を拝むことと同じだという。
 山号を月頂と号する。もとは灌頂山といっていたらしい。八十八カ所の内ではない
が、霊境なので載せねばならない。

▼霊鷲山鶴林寺宝珠院(二十番)
 勝浦郡にある。太古の創建だという。空海が霊を感じて登ったとき、瑞光が発し珍し
い芳香が漂った。空海は精神を集中し目を凝らして見回した。老木の上に一羽の鶴がい
た。翼を伸ばして何かを覆っていた。ほかの一羽が飛んでくると、それまでいた鶴はど
こかへ飛び去った。交替で何かを守っていた。空海が不審に思って見ると、鶴が守って
いる何かから光が発していた。よく見ると、小さな仏像のようだった。取り下ろすと、
地蔵菩薩の金像だった。空海は、失われることがないようにと、像のあった老木を伐っ
て高さ三尺の地蔵菩薩像を作り、金像を納めた。立派な堂を建てて安置した。鶴林寺と
名付けた。山容が、天竺の霊鷲山に似ているため、霊鷲山を山号とした。地蔵の所持三
形から、院号を宝珠とした。この山は起伏多く緑深く、峰は西北に巡り麓には川が涼し
く流れている。
 堂宇は地形に従って建てられ、石段を設けている。霊木や珍しい草が茂り、春は花、
秋は紅葉に彩られる。怪力の人がいて、桜の名所・吉野山と紅葉流れる美しい龍田川を
持ってきたのかと疑いたくなるほどだ。
 空海が伽藍を整えたとき、地面をならしていると、大木の根元で一つの小さな鐘を見
つけた。形は通常の物と同じだったが、華文が普通とは違っていた。納めて寺の宝とし
た。
 昔、山麓に猟師がいた。日頃、山に登って殺生を業としていた。ある時、猪を射た。
追うと、堂の中に入っていった。血の痕が、厨子の中へと続いていた。不審に思って本
尊を見ると、胸に矢が刺さり破損していた。これを見て後悔し、髪を剃り発心して、本
尊に仕えた。そのまま生涯を送った。二王門の下にある猟師塚が、昔を物語っている。
本尊は、大いなる慈悲によって苦を自ら受け入れ身代わりとなる願いを抱いているの
で、猪の代わりに矢を受けたのだ。また、殺生を業とする猟師の罪深さを憐れみ、救済
の方便として、このようにしたのだろう。人智を超えた事柄なので、分かるはずのない
ことなのだが。
 桓武天皇の勅願寺となってから、歴代天皇の崇敬を受けていた。寺領三千貫を与えら
れたという。綸旨や院宣が数通残っている。
 源頼朝は神仏を崇め、運を開いた。神社仏閣の修理を行った。この寺の尊像について
聞き及んで心に留めた夜、夢に本尊が現れた。頼朝は本尊を鎌倉に運び、熱心に敬っ
た。金の錫杖などの宝物を捧げた。生夷の庄から三千貫を割いて、永代寄進とした。錫
杖は、今に残っている。
 本尊が鎌倉から戻されるとき、伊勢の神官・福井氏が阿波に渡ろうとした。急に暴風
が襲い、波が荒れ狂って、舟が沈みそうになった。地蔵菩薩が現れた。舟は速やかに小
松島の浦に着いた。福井氏は、どうにか命を救われた。福井氏は深く帰依し、毎年灯明
料を捧げている。また、福井氏の子孫は以後、幼名に必ず鶴の字を使うようになったと
いう。
 六角堂の六地蔵は、空海が十八町麓から砂を取り上げ一夜のうちに作ったものだ。砂
を採った場所を、鶴瀬といい、今も所の人は信心深く謹み暮らしている。色々な超常現
象が起こる場所だ。
 鎮守の熊野権現社は、空海が勧請した。昔は年二回の祭りを厳かに執り行っていた。
山の麓にある供田を、掃除田と呼ぶ。今も名前ばかりは残っている。
 鎮守社の左に塔があった。今は壊れて跡だけが残っている。前に鶴守神祠と鐘楼が並
んでいる。
 二王門の内にある荒神や三社も空海が建てた。
 本堂の上手に弁財天祠がある。像高は七寸五分。十五童子像も共に、空海が作って安
置した。本坊の持仏堂の本尊は、高さ一尺三寸の羅陀山地蔵像。●ひしゆかつま作。
 本堂の本尊は智証大師作の不動明王像。
 寺の南に阿伽井がある。空海が加持したもので、清水を厳かに湛えている。空海が龍
神像を作って安置した。
 境内にある堂宇は七つ。本尊に仕え、国家安泰の祈りを怠ることなく勤めている。
 霊宝は、安阿弥作の阿弥陀如来像、高さ一尺二寸の覚鑁上人作・愛染明王像、空海直
筆の不動明王像、空海直筆の愛染明王像、覚鑁が描いた五大尊、同じく不動明王像、大
幅の唐絵涅槃像、覚鑁が描いた十三仏、真然僧直筆の御遺告、空海が作った五種の鈴。
このほか多くあるが、繁雑になるので記さない。

▼舎心山常住院大龍寺(二十一番)
 那賀郡にある。空海がまだ出家していないとき、この嶽の霊威を見て攀じ登り、勤操
僧正に教わった求聞持法を行った。行は成就し、空から宝剣が壇上に降った。三教指帰
序に、谷響きを惜しまず、と書かれているものだ。
 桓武天皇の勅願寺として、阿波国守・藤原朝臣文山が勅命を受けて建立した。空海が
求聞持法を行ったとき、すでに寺はあったことになる。淳和天皇の時代、寺に寄附した
ときの勅書が残っているという。その後、代々の天皇・上皇から受け取った綸旨・院宣
が数通ある。その中に、この寺を密教根本の聖跡であり自分が帰依している道場であ
る、との表現があるそうだ。そのほか将軍家の御教書も多い。
 阿波の太守は先祖から代々崇敬しており、寺領を寄附し伽藍を修復している。
 本堂の本尊は虚空蔵菩薩像。本堂の左には鎮守祠・宝塔・鐘楼・経蔵、少し高くなっ
ている場所に大師堂。壇の外に堂宇が並んでいる。
 天正十六年十一月、天火のため堂宇は焼失した。豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき、祈願所
として六間四方の堂を仮に建てた。この堂が現在の堂舎のもととなっている。
 南北に舎心の嶽が広がっている。断崖絶壁で、頼りない橋が架かっている。不動明王
の霊験あらたかな像がある。舎の字は「留まる」ほどの意味で、行き来が難しい場所だ
から、人の心を留めるからこそ、付いた名前だろう。遊方記などには、捨身と書いて、
空海が幼少の頃に飛び降りた善通寺の山と同じく扱っているが、間違いである。
 舎心の嶽から三十町ほど離れた南東の方角に、岩窟がある。半ばから二道に分かれて
おり、一方を龍王の窟と呼ぶ。昔龍神が棲んでいたといい、石面に鱗の形がはっきりと
残っている。奥に行くと、清水が豊かに溜まっている。このほかにも霊窟があるという
が、記録を見ていないので詳しく分からない。真然僧正の書いた記録が寺に残っている
という。
 霊宝は、かなり多い。中でも空海所持と伝わる長さ五尺の錫杖、空海作の瑜祇塔、空
海の先蹟などが興味を惹く。

▼白水山医王院平等寺(二十二番)
 空海の開基。高さ二尺の薬師如来像を作って安置した。構成は七堂伽藍で、僧院十二
宇があったが、遠く時は流れて今では衰微している。堂の傍らに、泉がある。これによ
り白水を山号としたらしい。泉の字を、白と水に分けたのだろう。また、心の汚れた者
が水を汲むと濁るため、潔白の意味で名付けたともいわれている。
 一月十六日に法会があり、近郷の人々が集まって、所狭しと賑わう。

▼医王山無量寿院薬王寺(二十三番)
 海部郡にある。行基菩薩が霊威を感じて創建した。話を聞いた聖武天皇が、勅願寺に
したという。後に空海が訪れ、伽藍を飾り滞在して、四十二歳の厄を落とすため薬師如
来像を作った。かつ永世利益のため堂を建てて安置した。思うに、本尊も堂も、当時と
同じ物だろう。日光・月光菩薩、十二神も並んでいる。天長年中、淳和天皇が勅願所と
し、若干の田を寄附したという。清和天皇が除厄のため勅使を送って剣を奉納し、錦の
戸帳を懸けた。
 塔の本尊は高さ三尺五寸の千手観音像で脇士は二十八部衆。ともに行基の作。恐らく
昔の本尊だろうといわれている。本堂の右に鎮守の白山権現社・拝殿がある。空海の御
影堂・塔・鐘楼が並んでいる。左には、護摩堂・住吉・愛宕社・釈迦堂がある。前には
楼門。ほかに二王門も構えている。左右に坊舎十余。昔は堂宇が雲より高く聳えていた
というが、火災に遭って礎石のみを残す建物も多い。文治の頃、後鳥羽院が再興した。
 西に六十余町行くと奥の院がある。奇岩の窟で、空海の作った本尊が安置されてい
る。空海が寺を再興したとき、窟から飛び出し自ら新堂に入ったと伝えられている。聞
く人は、みな驚いた。窟を玉厨子山と号する。 薬王寺には、行基菩薩が作った高さ五
尺の釈迦如来像がある。昔は領地も四五百石あったという。現在は十五石で、ほかに山
林・竹林は免税となっている。寛永十六年、火災で堂宇が灰燼に帰した。どうにか本尊
は助かった。太守・光隆は嘆き、堂宇を立派に造営したが、昔あった小宇の再建まで手
が回らなかった。





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