AWC 口語訳_四国遍礼霊場記3 伊井暇幻/久作


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#179/598 ●長編
★タイトル (gon     )  03/11/08  04:10  (225)
口語訳_四国遍礼霊場記3 伊井暇幻/久作
★内容                                         03/11/08 04:19 修正 第2版
四国遍礼霊場記巻三
  阿州上
霊山寺、極楽寺、金泉寺、黒谷寺、地蔵寺、安楽寺、十楽寺、熊谷寺、法輪寺、切幡
寺、藤井寺、焼山寺、一宮寺、常楽寺、国分寺

▼竺和山霊山寺一乗院(一番)
 板野郡板東村にある。聖武天皇の勅願寺ともいわれ、また空海の開基ともされてお
り、確かなことは分からない。本尊は釈迦如来で、霊山寺と号す。天竺の霊山を擬して
和国(日本)に建てたため、竺和山と呼ぶ。霊験あらたかな場所のようだ。空海が訪
れ、釈迦如来・大日如来・阿弥陀如来の三尊像を自ら作り、三堂にそれぞれの像を安置
して、国家鎮護の押さえとした。
 昔は壮大な伽藍で、仏教談義に明け暮れる僧侶が多く集まっていた。数回の戦争を経
て、堂舎はことごとく壊され建て替えられた。多く集まっていた僧侶は、どこかえと去
っていった。供養する香の煙も途絶え、ひっそりと霧の中へ閉ざされてしまった。
万治年中に阿波・淡路両国太守・蜂須賀光隆が、名刹の興廃を慨嘆し再興した。先代の
住持・栄心は寺の復興を志し、大師堂・鎮守社・二金剛像を作った。垣を隔てて右に配
置した。竹林がサラサラと音を立て、窓から入る風が涼やかだ。
 大麻彦権現を、奥の院とする。阿波一宮で、霊威があることで有名だ。寺から八町ほ
ど北にある。伴社・中宮明神・西宮を備える。神社の後には、求聞持堂がある。また背
後の山は大麻山を名とする高い険山で、頂上に登れば隣り合う八国を見渡せる。この神
社は太守が造営したという。
この寺が八十八カ所の最初だと言われている。道場寺や井戸寺から始めることもある。
どうやら、道順の都合によるものだ。


▼日照山極楽寺(二番)
 板野郡檜村にある。行基菩薩の草創で、昔は立派な伽藍であったらしい。事物が変わ
ることは世の常、今では荒廃してしまっている。本尊の阿弥陀如来座像は高さ四尺五寸
で、行基の作。左に薬師如来像、右に空海像を置く。いつの頃からか、禅宗の住持が住
むようになった。

▼亀光山釈迦院金泉寺(三番)
 板野郡大寺村にある。空海の開基。高さ三尺の釈迦如来像を作り、七間四方の堂を建
てて安置した。この堂は板東・板西の間にあり、扉の板の東西で両村を分けている。ゆ
えに板東・板西の名がある。宝塔には五仏を納めていたが、今は礎石だけが残ってい
る。牛頭天王・天神堂も再建できていない。どうにか鎮守・春日明神の祠と弁財天の祠
が建っている。
 中世、亀山法皇の御願として堂宇を再興したことがあった。唐・洛陽の蓮華院に倣
い、三十三間堂を建て千手観音像を安置した。このとき経蔵も置いたので、寺を経処坊
とも号した。今でも当地では、口達者な者を、経処坊の所化、と呼んでいる。
 金泉の跡というものがあるが、由来は聞かない。
 亀山法皇の廟があったが、今では痕跡が残っているのみだという。

▼黒岩山遍照院黒谷寺(四番)
 板野郡黒谷村にある。空海が一刻三礼して作った大日如来像を安置している。飾り付
けた棟が並び、美しい門が広く開いていた。しかし星霜を経て堂は傾き、装飾の光は失
せた。
 応永年中に、松法師という人に夢のお告げがあり、寺を修復したという。三百年が経
ち、人が移り変わり世も末となって、荒廃してしまった。今の住持は寝ても覚めても寺
の再興を考え、人に相談していた。中国の龍興寺で行った●華厳社について聞き及ん
だ。僧侶が十万人を集め、華厳経十万部を転じ斎を設けて、浄財を得たというものだ。
白氏文集に書かれている。これを真似て万人講なるものを企て、近頃堂宇を荘厳に作り
替えた。
 村に安芸木工兵衛がいた。銅鐘を鋳造し鐘楼に架けて時刻を知らせるようにした。
 寺を大日寺とも呼ぶ。院号の遍照は、遍照大日のことであり、本尊が大日如来だから
こその名称だ。そのゆえに、大日寺とも呼ぶのか。

▼無尽山荘厳院地蔵寺(五番)
 板野郡矢武村にある。この場所を空海が訪れたとき、熊野明神が現れて霊木を授け
た。この木で霊像を作り、ここに寺を建てれば、国家に福をもたらすとの空海の願いに
かなうと告げた。空海は霊木で高さ一寸八分の地蔵菩薩像を作った。阿波の民が力を合
わせたため、間もなく立派な伽藍が出来上がった。僧侶も、そうでない人も多く参詣し
た。本尊に利益を求めれば、必ず叶えられた。後宇多院の時代に、住持の定宥が夢のお
告げによって高さ一尺七寸の地蔵菩薩像を作り、一寸八分の古像を胸に納めた。阿弥
陀・薬師の二像も作り、両脇士とした。地蔵と観音は一体のものなので、これは観音・
阿弥陀・薬師の熊野三尊に準えたものだろう。定宥は才知も徳も兼ね備え、人格も立派
な修行者だった。また、ある夕、熊野権現の神託で、霊薬の処方を教わった。万病に必
ず効く、万病円という名の薬だ。処方を書き写して他の場所で作っても、効き目はない
という。人々は不思議がっている。この薬は、四百年間伝わっている。
 鎮守の熊野権現社と天照太神社が鎮座している。中門に、高さ五尺ほどの多聞・持国
天像がある。運慶の作。本堂の南西に摩尼珠山と呼ばれる小山がある。空海が宝珠を埋
めた場所だ。昔は寺があった。礎石が残っている。北東には、清水を湛えた井戸があ
る。阿伽に用いている。泉福寺なる寺が建っている。住坊は、そこから五六町離れた東
にある。
 地蔵寺は昔、いくつかの坊を従えており、三百人の僧侶を擁していた。

 矢武という地名は、寺の本尊・勝軍地蔵にちなむと言われている。堂の前に池があ
り、弁財天祠を建てている。蓮は濁りに染められず、清い花は露をあざむくばかりだ。
芳香が、遠くまで漂っている。
 もとは山院寺号の宸筆額があったが、戦争の間に失われた。残っている宝物は、空海
が納めた仏舎利、空海作で高さ四尺八寸の不動像、空海作で源頼朝が所持していた高さ
七寸の愛染明王像、恵心作で高さ一尺三寸の迦羅陀山地蔵像、空海が描いた普賢延命
像、同じく空海筆の不動明王像、大小とも空海の筆になる五大尊、大師が描いた三宝荒
神、
 行基作の地像像、小野篁が描いた大きな釈迦像、●の涅槃像がある【涅槃像(大幅非
伝子)】。このほか、牧渓・雪舟・金岡・増吽の筆になる仏画が多くある。

▼瑠璃山日興院瑞運寺(六番)
 板野郡引野村にある。昔から温泉があり、様々な病に効果があった。仏の大いなる慈
悲のうち顕著なものだ。このため空海が高さ一尺三寸の薬師如来像を作り、美しい堂を
建てて安置した。次々に参詣者が訪れ、医王の霊験にあやかろうとした。寺は繁栄し、
十二の堂が所狭しと並んで、鈴や鐘の響きが絶えることはなかった。しかし戦争のため
に没落し、ほかの坊は再建することができずに、跡のみを残すことになった。鎮守の天
照太神社がある。弥勒菩薩の霊像、空海の御影が、どうにか残っている。
 昔温泉があったので、温泉山と号していた。今では瑠璃山と呼ばれている。中世、温
泉に人や獣の死体が入ってしまい、それを嫌って使われなくなったという。
 また、もとは安楽寺といっていたが、国の太守から寄進をうけたとき、瑞運寺と改名
した。境内は二町四方だという。

▼十楽寺(七番)
 板野郡土成村にある。寺の由来は分からない。本尊は阿弥陀如来。恐らく、この寺に
来れば、去此不遠の状態になる、すなわち阿弥陀如来が主宰する極楽の上品蓮に往生す
るとき、この身のままだという、去此不遠の状態になると、言いたいのだろう。寺の背
後には、険しくない山があり、松風が常に通っている。前面に田が美しい布のように広
がっている。訪れる人は、風景を楽しむ心の必要性をさとり、俗事が空しいものだと思
い至る。

【
前略……今挙十楽而讃浄土、猶如一毛之H大海、一聖衆来迎楽、二蓮華初開楽、三身相
神通楽、四五妙境界楽、五快楽無退楽、六引接結縁楽、七聖衆倶会楽、八見仏聞法楽、
九随心供仏楽、十増進仏道楽也(「往生要集」巻上)。

十楽

聖衆来迎楽 安らかな死に臨んで阿弥陀三尊はじめ諸仏や天人天女が極楽から迎えに来
る幸せ。

蓮華初開楽 極楽に生まれ変わって、素晴らしく美しい蓮華を開くところを初めて見る
幸せ。

身相神通楽 五通(神足通、天眼通、天耳通、他心通、宿命通)などの神通力や仏が有
する特徴・三十二相が身に備わる幸せ。

五妙境界楽 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚ともに最高度に満ち足りる、素晴らしい環
境にある幸せ。

快楽無退楽 この世にないほどの快楽が永遠に続く幸せ。

引接結縁楽 互いの心が結ばれ睦まじくする幸せ。

聖衆倶会楽 上善の仏と共にある幸せ。

見仏聞法楽 仏を目の当たりにして真理を聞く幸せ。

随心供仏楽 心のままに仏を供養する幸せ。

増進仏道楽 仏性が徐々に高まり続ける幸せ。

五通
神足通 どこにでも行ける能力。
天眼通 何処にあるものでも何でも見える能力。
天耳通 どんなに遠くのものでも聞こえる能力。
他心通 他人の心が完全に理解できる能力。
宿命通 自分や他の人の過去を眼前にするが如くに知る能力。
】


▼普明山真光院熊谷寺(八番)
 開基、本尊の作者については詳しく分からない。定説がないようだ。清らかな幽玄の
境地で、谷深く、清らかな水が流れている。瀬戸内海が一望に見渡せる。
 本尊は高さ六尺の千手千眼観音像。頭部に仏舎利百二十六粒を納めていると、足の裏
に記しているらしい。脇士の不動明王・毘沙門天像は運慶の作。観音が変化した三十二
の姿を写したものもある。作者は分からない。右に空海の御影堂、前に鐘楼。石段の下
には中門があり、運慶が作った高さ六尺の二金剛像が安置されている。空海直筆の古い
額を掛けている。左の山には鎮守の熊野神祠と八幡社がある。

▼白蛇山法輪寺(九番)
 山のない平野にある。草に埋もれた一堂に、空海が作った高さ一尺五寸の釈迦如来像
を安置している。路地の奥に人はおらず、憂いが尽きることはない。ここは木々に心が
あるようで親しみやすく、浮世の俗塵を忘れることができる。今の寂しい有様を見て、
盛んであったであろう昔に思いを馳せる。世の移り変わりは、このようなものだ。

▼得度山灌頂院切幡寺(十番)
 阿波郡切幡村にある。伝承によると、空海が始めて来たとき、空から五色の幡一流が
降り、上半分は西へと飛び去り、千切れた下半分が、この山に舞い落ちた。怪異を伝え
ようと空海は寺を建て、切幡寺と名付けた。本尊の千手観音は秘仏で、開帳することが
ない。両脇に不動明王と毘沙門天を配置している。これら三尊は、空海の作。
 堂の右には大日堂、隣に鎮守と御影堂がある。ここから眺める海は、絶景である。傍
らに冷泉がある。汚れた人の心も浄化されるという。空海時代のものだとして、花形の
壇が崩れながらも堂内に残っており、人々を驚かせている。古仏が多い。
 本堂の左方に鐘楼。前にある中門の多聞天・持国天は、運慶の作。
 左の岩山に龍王の祠がある。空海が阿伽井を加持すると、清水の様子が尋常ではなか
った。このため龍王を祀った。
 西の山の尾に、以前の寺跡がある。二町四方で周囲に築垣が巡っている。ほかにも寺
の跡は多く残っている。今の寺は、昔の寺の塔が建っていた場所だ。
 暦応年中、参議三位源朝臣直義が納めた願文が残っている。導師は宥範阿闍梨。直義
は、足利尊氏の弟である。

▼金剛山藤井寺(十一番)
 麻植郡にある。空海の開基。本尊は空海作の薬師如来像。寺の前部分に鐘楼、傍らに
地蔵堂・鎮守の祠がある。下手に二王門を構えている。今は禅宗の者が住持となってお
り、堂も禅宗風に作り直している。渓谷の水が清く流れ、岩の上を滑り落ちる様子は、
白藤の棚のようだ。堂の前に老藤がある。寺の名は、問わなくても分かる。

▼摩盧山性寿院焼山寺(十二番)
 道が極めて険しく、雲霞に覆われている。阿波で最も高い山だ。本堂には空海作の虚
空蔵菩薩像を安置している。左に御影堂、続いて熊野権現社の拝殿・鳥居がある。前面
には鐘楼・大門・中門を構えている。
 奥の院までは、およそ十町余。途中、六町ほどの所に祇園の祠、後脇に蛇窟がある。
右に空海が作った三面大黒天の堂が建っている。ここから上がると護摩堂、更に一町ほ
ど行くと聞持堂がある。また更に登ると、本社の弥山権現社となる。本体は蔵王権現ら
しい。
 下の杖立という場所で、空海が杖を立てたのだろうか。
 蛇池がある。大きさは二十間と三十間ほどもある。
 大門から十八町坂を下った場所で右衛門三郎が死んだ。大きさ七囲いもある杉が、墓
印だ。右衛門三郎については、伊予石手寺の項で触れる。

▼大栗山華蔵院大日寺(十三番)
 名東郡。一の宮寺とも呼ぶ。空海以前の開基か。空海が訪れ、大日如来像を作ったた
め、大日寺と呼ぶ。今の本尊・十一面観音は、一宮の本地仏だという。
 一ノ宮記に拠れば、阿波の一宮は板野郡にある大麻彦神だ。どこが一宮か争うこと
は、昔からある。時代によって変わるものなのだろう。
 奥の院だとされる場所が、寺から十八町西にある。本尊は、空海作の薬師如来像。聞
持堂の跡もあるが、女人禁制である。山上には、不動明王の石像を本地とする瀧権現い
ます。
 この山には、花の谷・花の蔵と呼ばれる場所がある。このゆえに、花蔵院と号する。

▼盛寿山常楽寺(十四番)
 名東郡にある。本尊は、空海作の弥勒菩薩。残っている礎石からすれば、昔の本堂は
七間四方だったらしい。ほかの坊社も跡は残っている。現在は粗末な堂の傍らに庵が一
つ建っている。人が住んでいるか分からない。古い詩句を思い出す。惆悵興亡無問処黄
昏啼殺樹頭鴉【唐詩などに同様趣旨のものは幾つかあるが、未詳】。

▼法養山金色院国分寺(十五番)
 国分寺は、聖武天皇が天平九年に詔勅を発して諸国に建てたものだ。高さ一丈六尺の
釈迦如来像・四天王像を置き、大般若経を写させて、頒布した。各国の税を割いて納め
させた。吉祥懺を修し金剛般若経を転じ、豊饒を願い厄を払うものである。代々、国家
から費用の給付を受けていたことは史書に明示されている。しかし、その権威が失われ
る前に、官吏や豪族たちに収入を横取りされ、荒廃するところもでてきた。廃帝天皇の
時代、宝字の末年、諸国司に命じて実態を調査させた。その後、延暦・大同年中にも寺
領・寺田を侵し仏教を蔑ろにする者があったので、再び禁令を発した。昔でさえ、この
ような状態であったから、千年を経た現在の荒廃は、仕方のないことだ。阿波の国分寺
も廃れてしまい、名を残すのみとなっている。小さな堂に薬師如来像を安置している。
一人の腹を空かせた旅の僧侶が、竹窓から通う風に曝されながら、横になっている。嗚
呼。





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