#174/598 ●長編 *** コメント #173 ***
★タイトル (kyy ) 03/10/19 21:36 (417)
お題>都市伝説>ルナティック・プレイス 後編 舞火
★内容 03/10/19 23:08 修正 第2版
「前に進むしかないのね……」
ぽつりと呟いた言葉が、薄闇の中に消えていく。
途端に吹き荒れていた風がいきなり止んだ。
それにほっとして、細めていた目を開ける。
先ほどから薄暗い部屋にいたせいか、薄闇の中でも見えないことはない。しかも、何
が光っているのか、はるか彼方に光源があってそれがかろうじて真理恵の足下辺りまで
照らしていた。
それに縋って、ゆっくりと一歩を踏み出した。
怖いと思う。
キリノの言っていた『母親』という言葉が、たとえようもない恐れを身の内に引き起
こして、肌が総毛立つ。
それでも真理恵は進むしかなかった。
一歩一歩確かめるように進む道は、確かに下っている。おぼつかない足下のせいで触
れた壁は、気味が悪いほどに生暖かかった。
それは、先ほどの風と同じ温度だ。
しかも、岩だと思ったそれは、見た目よりは柔らかい。指先が僅かに食い込むような
感じは、まさに肉そのものだった。
ぞくりと全身が小刻みに震える。
先に進むにつれ、闇が失われていくのに逆らって、真理恵の恐怖は募っていき、堪ら
なくなって足を止めた。
まだそんなに歩いていないのに、体が酷く疲れていた。
真理恵は、気味悪さを堪えて壁に手をついて、深呼吸を繰り返す。と。
どくん。
何かが震えた。
「ひっ!」
鋭い悲鳴が喉からほとばしる。真理恵は慌てて、触れていた壁から手を離した。握り
しめた手をもう片方の手で覆う。
震えは確かにその手から伝わったのだ。
真理恵の視線が先ほどまで手が触れていた場所を探った。
壁、だと思っていた場所が、小さく脈動していることに気付いて、真理恵は堪らずに
後ずさった。が、狭い通路にすぐに背が壁に当たる。
どくん。
今度は背一面でそれを感じてしまう。
真理恵は悲鳴を上げることもできずに、跳ねるように立たせた体を硬直させた。
たらたらと流れる冷や汗が、あっという間に着ていたブラウスを濡らし、肌に張り付
かせる。
「……もうっ」
苛だたしくそれを引きはがして、真理恵は通路の先をキッと睨み付けた。
怖い。けれど、立ち止まるわけにはいかない。きつく噛みしめた唇の痛みが、恐怖か
ら意識を逸らす。
真理恵の足がようやく、というように動き始めた。
「怖くない、怖くない。宏一のところに行くだけなんだからっ」
呪文のように同じ言葉を繰り返し、それに縋っている真理恵の目は、もう正面しか見
ていない。
先ほどよりさらにはっきりと脈打ちだした壁は、もうとても岩壁のようには見えな
い。それを凝視しないように、真理恵は足先に神経を集中させていた。
ただ、どこまでも続くように見えるその通路は、確実にその先に近づいているよう
で、辺りを照らす灯りは先ほどよりは確かに明るい。
その分、壁がはっきりと見えるようになった。
脈打つそれからもう逃れられない。
恐怖心もそれに呼応するかのように大きくなって真理恵を苛んだ。
そのせいで、真理恵の足が速くなる。
速く、速く。
それだけが頭の中を占めてきて──最後は駆けるように、一気に明るい中に飛び込ん
だ。
まぶしさに目が眩んで、真理恵は手を目の前にかざした。
明るさの源は、広々とした空間の中央に据えられたランプらしい。
真理恵はそれから目を逸らし、ゆっくりと辺りを窺った。
壁は今までとは違って岩のように見える。ごつごつとした少し赤みがかった色。だが
地面は柔らかいフェルト地のようで、沈み込むような感じがあった。
まぶしさに白っぽいその場所は、確かにあの鏡で見た風景と似ていた。
しかも、壁に寄り添うように人が座り込んでいる姿すら見える。
宏一か?と、まだ慣れない明るさに開けきれない目をそれでも開けて、真理恵はその
人を凝視した。
だが、すぐに落胆して目を逸らした。
力無く蹲ったそれは確かに男のように見える。だが、宏一よりはかなり年とっている
ようだ。それにふわりと男が動いた拍子に見えた顔も違う。
それでも、人がいたというそのことが真理恵に確信を持たせた。
「ここだわ」
間違いないと真理恵は小さく頷いて、ゆっくりと辺りを窺いながら歩き始めた。
心臓が緊張に煽られて、激しく鳴り響く。真理恵はそれを押さえるように拳で胸を押
さえつけた。
場所を変えれば、壁のくぼみに寄り添うようにしている複数の人影を見つけることが
できる。だが、音はない。
真理恵の歩く音ですら、吸収されているのか響くことはない。
その中で、真理恵の荒い呼吸音だけが耳障りなほどに響いた。
それが気になって深呼吸も考えるが、どこか生臭さを感じる空気に、それもためらわ
れる。
真理恵は仕方なくそのまま歩き続け、入ってきた側と反対側の辺りで見つめた人影
に、鋭く息を飲んだ。
胸を押さえていた手がさらにきつくなる。
「……宏一?」
問いかけたのは、あの鏡で見た時の情景と変わらない場所にいた男。
窺うようにしたけれど、間違いないとも思う
男が着ているシャツは、喧嘩別れした時に宏一がきていた紺色のデニム地。ズボンも
独特のステッチが入ったジーンズ。
見間違いようがなかった。
「宏一?」
声が震える。足から力が抜けて、体が揺らめく。
呼びかけても宏一は返事をしない。
目は開けているのに、それは何も映していないようだ。ただ、壁にもたれてぼんやり
としている。『洗脳されているようなもの』
キリノが言った言葉が脳裏に響く。
『母親の子宮。ようやく戻れた』
そうも言っていた。
だけど。
真理恵はふっと頭を上げて辺りを見渡した。
真理恵にはそうは思えない。
ここはただ、生暖かさと気味の悪い壁を持つ空間でしかない。ここにいたいとは思え
ない。
母親の胎内になど、今更戻ってどうなるというのだろう。
ここにはおしゃれな洋服も遊びも、弾けるような楽しみもない。
友達とウィンドウショッピングもできないし、ゲーセンでいい男を物色することもで
きない。まして、彼氏とのデートなど論外だ。
──ここには苦もなく、そして楽もない。
そう思って、真理恵はフッと口の端を歪めた。
──苦労なんてしたくはないと思うけれど、でもそれがあってこそ人生は楽しいもの
になる。
前にも宏一と喧嘩したこともあったけれど、その後の仲直りのデートは最高に楽しか
った。
だから。
「宏一、帰るわよっ」
真理恵は力無く垂れていた宏一の手首を握ると、力任せに引っ張った。
ふわりと宏一の体が揺らぐ。
虚ろな瞳が真理恵に向けられた。
「宏一っ」
呼ん反応はない。宏一の体は重く、真理恵の力だけでは立ちあがらせることもできな
かった。
「宏一、私、真理恵よ。迎えにきたの、帰ろうよ」
どんなに呼びかけても反応はない。
『難しい』
そう言われた言葉が何度も真理恵の頭の中を過ぎる。
だが、諦めきれない。
ここに来るまであんなに頑張ったのだと、それが真理恵自身を奮い立たせた。
「宏一っ!」
振り上げた手を下ろした途端、宏一の頬で乾いた音がした。
「目を覚ましなさいっ!あんた、男でしょっ。なんでも任せろって言ったでしょっ!そ
れなのに、こんなところで閉じこもってどうすんのっ!」
ひりひりとした手が真理恵の心に火をつけた。
迸った言葉がさらに心を熱くして、苛立ちを燃えさせる。
それに少しは反応したかのように、宏一が真理恵を見たように思った。
「宏一っ!私が判んないのっ!」
ヒステリックに叫んで、両手で宏一の腕を引っ張った。
途端に、ふわりと宏一が立ちあがる。
その動きはひどくぎこちなさがあったが、真理恵の顔が悦びで満ちた。
宏一の心を取り戻したと思ったのだ。だが、立ちあがったものの、宏一の視線は真理
恵を捕らえていなかった。
それでも、と真理恵はその背を入ってきた場所に向けて押す。
「宏一っ、帰るわよ」
ここから出れば。
あの扉から出れば。
力の入らない、歩く意志のない体は、ひどく重い。
それでも真理恵は必死で押し続けた。
生暖かい上に、湿気も高いのか、あっという間に真理恵の体は汗だくになっていた。
額を流れた汗が目に入り、開けていられなくなる。
その間だけ押す手が緩む。
「宏一っ……御願いだから……歩いて……」
荒い息の間に懇願する。
こんなにも頑張っているのに。
一向に反応しない宏一に、真理恵の苛立ちが募ってきた。
狭い通路はだんだんと薄暗くなって、足下もおぼつかない。降りる時は気がつかなか
ったが、通路は少し曲がっているようで、何度か宏一の体を壁に押しつけてしまった。
「ごめん……大丈夫?」
最初はそのたびに謝っていた真理恵も数度同じ事が続くと、乱暴に壁から引きはがす
だけになっていた。
帰りたいと願っているのに、宏一はまるで帰りたくないとばかりに力を入れない。
昇っていく通路は、それでなくても真理恵の体力を奪った。
連れて帰ると強く願った心は、今はもう欠片しかなく、意地だけで押しているような
ものだった。
「宏一ぃ、御願いだから、歩いてよお」
自分がこんなに一生懸命頑張っているのに、当の宏一は──と、情けなさが込み上げ
てくる。
鼻の奥がつんと熱くなって、目に涙が浮かんできた。
つうっと流れ落ちるそれが涙なのか汗なのかはもう判らない。
邪魔だとばかりにぐいっと服の袖で拭っても、すぐに新しい、今度は確かに涙が流れ
ていく。止めようと思っても止まらない。
緊張の糸が切れてしまったように、真理恵の体がずるずると崩れ落ちた。
ぺたりと下に座り込み、押していた両手は宏一の足に縋る。
「ひいっく……うっく……宏一い……帰ろうよお……帰りたいよお……」
嗚咽を漏らし、幼子のように懇願する真理恵に、ここに入ってきた頃の気丈さはもう
なかった。
「ねえ……帰ろ……。帰ろうよ……」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をもう拭うこともしない。
帰りたいと思う。
もう何もかも捨てて、自分だけでも帰りたいと思う。
それでも。
心の片隅に不意に込み上げたのは、喧嘩した時の宏一の顔だった。
あの時、理不尽な怒りをぶつけて宏一の言葉も聞かない真理恵に向けられた顔は確か
に怒っていたはずだ。なのに、今思い出したのは、怒りながらもどこか悲しそうな顔。
あれは、怒りのままに伸ばした手を叩き払った時だったろうか?
「ごめん……ごめんなさい……ひいっく……んく……。私が、悪かったの……よね。私
が我が儘で、子供みたいに困らせて……。だから、宏一怒ったのに……。なのに……な
のに……」
挙げ句の果てに、気がついたらこんなことになっていた。
──そうだ。
不意に真理恵は泣き濡れた顔を上げた。
どうして、宏一は星に魅入られたのだろう?
こんなところに閉じこもってしまったのだろう?
それは本当に宏一の意志でないと言うのだろうか?
一度浮かび上がった疑問は、連鎖的に次の疑問を浮かばせて、頭の中を疑問符が飛び
交っていく。
真理恵がここに来たのは、宏一を捜すためだ。
だが、宏一はそんな理由ではないことは確かだ。
あの日、真理恵と喧嘩した宏一は何をしたのだろう?
どうしようとしただろう?
真理恵は、今までつきあって知っている宏一の性格と経験から、その日の彼の行動を
想像してみた。
家にいる真理恵の携帯に宏一から電話が入ったのは、もう夜の10時も過ぎていた。
何度か鳴った携帯を無視して電源を切ったのは、それから数分も経っていない。
それから……。
「宏一ならどうしただろう?」
しょうがない、と諦めたろうか?
真理恵と会って話をしようとしただろうか?
それとも──ほとぼりが冷めてから、プレゼントか何かで懐柔しようとしただろう
か?
「プレゼント……」
そういえば、前に喧嘩した時も欲しがっていたオルゴールを買ってきてくれた。
あの時の喧嘩も、おもちゃ屋で見かけたオルゴールが欲しいって言った真理恵に、宏
一が『子供っぽいっ』と言ったのが原因だった。
そして今回の喧嘩はといえば、宏一が真理恵の誕生日に出掛けていないということが
原因だった。
『そんなのイヤだ』とごねたのは真理恵で、『どうしても外せない用事』なんだと拒
んだのは宏一。
今から思えば、本当に子供じみた我が儘だと思う。
それでもあの時は必死で──ならば、宏一はどうしようと思っただろう?
宏一とて、真理恵の性格を知っている。
激情に駆られた真理恵も日が経てば、落ち着いていくるということを。
「それだったら……」
真理恵は泣いていた情けない自分を振り払うようにぐいっと顔を拭った。
「絶対に宏一が自分でこんなこところにくるわけは無いんだから」
それは真理恵自身に言い聞かせるための言葉だった。
宏一はその間もじっとその場に佇んでいる。
だが、落ち着いた真理恵がじっと窺っていると、何も映していないような視線が時折
ふらりと揺らぐのに気がついた。その方向は、今来たばかりの、つまり背後だ。
マズイと焦燥に駆られ、真理恵は慌てて立ちあがった。
再び宏一の背を押し始める。
闇の中、通路はどこまで続いているのか全く判らない。
果てること無い行為は、精神的にも真理恵を疲労させた。
それでも、真理恵は渾身の力を込めて宏一を押す。なおかつ、ずっと宏一に話しかけ
た。
荒れる呼吸に、それは余計に真理恵を疲れさせたけれど、止めるわけにはいかなかっ
た。
「宏一……帰ったらね、一緒に買い物行こうよ。だって……もうすぐ私の誕生日だし…
…」
最初のうちは、話し続けることが苦痛であったけれど。
「ごめんね、あの時あんなに怒って。でもさ……はあっ……宏一と一緒にいたかったか
ら……」
なぜだか、話しているとほんの少しだけ気分が楽になった。
ずっと言いたかった。話したかった事が堰を切ったように溢れ出して、止まらない。
「んっ……あのさ、宏一も仕方がないんだって……気がついたから……。今更遅いかも
知れないけど……でも……ごめん……」
普段なら、こんなに簡単に謝れない。だが、真理恵は何度もごめんと呟いた。
「ごめんなさい。だけど、その日を外したら……会えるって言っていたよね……だか
ら、その会える日に……」
不意にもう止まったと思っていた涙が頬を流れた。
そんな日が来るのだろうか?
真理恵の心に湧いた想いが涙を誘発した。
「宏一っ!」
堪らずにその背に抱きついて、頬をすり寄せる。
真理恵の涙が、宏一のシャツに染み込んで染みを広げていった。
「宏一……帰ろう……一緒にデートしようよお……」
足は止まらない。
涙も止まらない。
真理恵はすり寄せた全身で宏一を押し続けていた。
「……帰る……?」
ぽつりと呟いた言葉が聞こえたのは、もう手も足も感覚がないほどに疲れ切って、喋
り続けた喉が掠れてしまった頃だった。
びくりと震えた真理恵が、恐る恐る顔を上げると、肩越しに見えた宏一がじっと上を
見上げていた。
「宏一……?」
呼びかけても返事はない。
だが、もしかして、と思ってその背を押すと前より幾分軽くなったような気がした。
ふと気がつけば、宏一の足が歩こうとしているように見える。
「そうだよ。私たちの街に帰ろう。あのね、もうすぐ私の誕生日なんだよ。宏一はその
日一緒にいられないって言っていたじゃない。だから、次のお休みの日にデートしよ。
ね、宏一祝ってくれるって言ったじゃない」
もう何度も言った言葉を掠れきった声であったけれど絞り出す。
「……デート……」
今度は確かに耳まで届いたのは、確かに宏一の声だった。
「そうよっ!ね、こんなとこじゃ、デートもできないよ。だから帰ろうっ!」
その背を押せば、さらに軽くなっていた。
一歩進むごとに足取りが軽くなる。
明らかに宏一の足は動いていた。
そして。
「宏一、帰ろう」
「そうだ、帰ろう」
何度目かの言葉に、初めて宏一が返してきて、真理恵は思わずその顔を凝視した。少
し高い位置から振り注ぐのは、確かに真理恵を捕らえた視線だ。
真理恵の震える手が伸びる。
頬に触れればくすぐったそうに宏一が微笑んだ。
「帰りたい?」
問えば、心外そうに目を見開いてこくりと頷く。
「なんか、気持ち悪いなここは。俺、どうしてこんなところにいるんだ?あの店にいた
はずなのに……」
『店』という単語に真理恵の片眉がびくりと動く。だが、今はそれどころではなかっ
た。
「本当に帰りたい?」
帰りたいと思わなければ帰れないのだ、と彼の意志を確認する。
「……帰りたいさ。なんか疲れたし。真理恵にも会えたし」
まるでデートの終わりで遊び疲れたような言葉。
だが、それもまさしく宏一の言葉だ。
「そうね。帰りましょ」
そう真理恵が言った途端、目前にドアが現れた。
開けてみると、そこは何もない室内だった。
「……ここ?」
宏一が不思議そうにそこを見回す。
「知っているの?」
問いかけた真理恵自身は確信は無かったが、ここはあの「ルナティック・プレイス」
の室内だと思っていた。
キリノが座っていた椅子も机も、そしてあの鏡も無い。
けれど、間取りはあの部屋と一緒だ。
「あの……占い屋の部屋と一緒だと思うけど……」
「占いって……どうして」
「喧嘩してさ、すぐにはどうしようもないって判っていたんだけど……。だけどさ、し
ばらく出掛ける予定だったし、早く何とかしたかったんだ」
さび付いた音を立てるドアを開けながら、宏一が口の端を歪めて嗤った。
「ん……」
「そしたら、ふらりと歩いている時にチラシを渡されて。……お前って占いとか好きだ
ったから、その手のグッズとかプレゼントしたらいいかなあって思って」
灯りのないビルの通路は窓から差し込む街灯の光のせいで歩くのに不自由は無い。
「それで?」
「やっぱり、このビルだな。ここに来て、女の人に会って……」
「それから?」
問うては見たものの、身の内から湧いてくる恐怖に真理恵は震える体を止めたくて宏
一の腕に縋った。
「俺の話を聞いた彼女から、賭をしようと言われた」
「賭?」
ビルの出入り口のドアを押し開いた途端に、風が舞った。
ひんやりとした冷たさに、ぶるりと体が震える。身を竦めた真理恵の肩に宏一が腕を
回して抱き寄せた。
「しばらく眠っている間に、真理恵が迎えに来れば俺の勝ち。来なかったら彼女の勝
ち」
「何それ?」
確かにそれが賭なら宏一は勝ったことになるだろう。
「ちゃんと真理恵に連絡を取るって言っていたし、勝ったらその……10万円くれるって
言っていたし……その……」
「呆れたっ、お金のためにそんな賭、引き受けたって言うのっ」
「いや……その……。でも、確かにそうだな。でもあの時は、それが変だとは思わなか
った。彼女の言葉の通りにしていれば、真理恵と仲直りできるんだって思って……それ
で」
「もういいわ……判ったから……」
制止する声が震えた。
宏一の言葉を聞いた途端、それが真理恵にも当てはまると気がついたからだ。
あの時、キリノと話をしながら宏一に会いたいと思った時、キリノのどんな言葉も信
じてしまっていた。
会いたいと思ったのは事実だったけれど、実際に体験した今でも、それがどんなに荒
唐無稽な話だったか判る。
なのに信じた。
そして。
「とうとう連れて帰ってしまったのね」
キリノがそこにいることも、自然にそれを受け入れる。
「何を企んでいるのか知らないけど、もう宏一は渡さないから」
睨む真理恵の先で、キリノが笑う。
「帰ってきてしまった人は、もう無理だもの」
「どういう意味だ?」
宏一は訝しげに首を傾げている。
彼は、行きと帰りしか知らない。
それでも、その脳天気な言葉に真理恵はムカッと腹が立ってきた。だが、それ以上に
キリノに対しての方が腹が立つ。
「あんなところにいっぱい人を閉じこめて……全部あなたの仕業でしょう?」
「違うわ。あの人達は星に魅入られたのよ」
歌うような言葉を真理恵は信じてしまう。
「あの人達……一体どうなるの?」
「あの人達は、ああやって星と一緒に夢見て朽ち果てるの。星と同じ夢を見て、星と同
じように楽しむの。星だって、一人だと寂しいからああして仲間を集めているのよ」
「いつまで……」
「ずっと……。星からの糧を受け入れられなくなって、その体が朽ち果てるまで」
その途端に真理恵が掴んでいた宏一の腕が、びくりと震えた。
「ずっと?」
「ええ、ずっと。でもあなたは賭に勝ってしまった。だから戻ってきた。そんな人は初
めてよ」
少し悔しそうなキリノを睨んで、真理恵は宏一を引っ張った。
「あなたが誰かは知らないけど、もう二度と話したくないし、これ以上関わりたくもな
い。だから、さっさと店を畳んだ方が良いんじゃない?」
真理恵は帰ったら友人達に今夜のことを話そうとしていた。が。
「あら」
可笑しそうにキリノが吹きだした。
「あなたの言うことをたとえ友人が信じたとしても、その次の人達は信じると思う?眉
唾物のホラ話だと誰もが疑うわ。それよりも、会いたい人に会える、とか、困ったこと
から救う、とか、といったような話の方が人は飛びつくの。だから、店を畳むつもりは
ないわ」
「そんなのっ」
強く否定しようとした真理恵が、途端に口ごもる。
キリノの言葉を否定することはできなかった。彼女が正しいと思ってしまった。
「でも安心して。あなた達とは二度と会わないから」
そう言って艶やかにキリノが笑った途端、風が吹いた。
「だっていくらでも代わりの人は手に入るもの」
つむじ風のようなそれが砂埃を巻き上げ、真理恵は咄嗟に目を瞑る。
開けるまでの時間は数秒にもならない。だが、もう真理恵達の前には、彼女の姿はど
こにもなかった。
「消えた……」
他に言い様がない言葉を、宏一が呟く。
「ねえ……帰りましょう。帰って、休みましょう」
何も考えたくなかった。
こんな非現実的なこと、確かに誰が信じるだろう。実際、あれだけすんなり信じてい
た真理恵も、今となっては信じられなくなっている。
明るいネオンで照らされた通りに、宏一があの日とは違う風景に目を白黒させてい
る。
宏一は、自分が行方不明状態だったことにまだ気がついていない。
それに真理恵自身も時間の感覚がおかしくなっていた。
あのビルに入ってから、まだ一時間も経っていなかったのだから。
だが、それも今はどうでもいいと、真理恵はため息をつくと動かない宏一を引っ張っ
た。
とにかく今は帰って眠りたかった。眠ってしまえば、今までのことが全て夢だったと
思えるだろう。
「明日……明日になったら、私が知ったことも教えて上げる。だけど今は疲れたから…
…だから帰ろ?」
「あ、ああ……」
冷たい風が吹き向けるアーケードの下は、まだ人通りが多い。
足早なそれらにお互いが分かたれることがないように、真理恵は宏一の腕をしっかり
と掴まえて、駅に向かって歩く。
ふと、真理恵が宏一に寄せていた顔を上げた。
「笑い声……」
「何も聞こえないけどな……」
耳を澄ませた宏一が首を振る。
「そうね。気のせいね」
本当は気のせいではないと判っていたが、それでも真理恵は頷いた。
風音のように聞こえたそれが誰のものなのか、もう考えたくもなかったのだ。
FIN.