AWC お題>都市伝説>ルナティック・プレイス 前編   舞火



#173/598 ●長編
★タイトル (kyy     )  03/10/19  21:35  (354)
お題>都市伝説>ルナティック・プレイス 前編   舞火
★内容                                         03/10/20 22:16 修正 第3版

「もうずっと会っていない」
 真理恵はカレンダーの数字を目で追いながら、携帯電話に向かって呟いた。
 流れるメッセージが、相手先に電波が届かないと伝えてくる。もう何度も聞いたフ
レーズは空で覚えていて、真理恵はため息をついて電話を切った。
 先月までは宏一の休みのたびに会って、楽しく過ごした。
 だが月が変わって、朝夕に彼の温もりが恋しいと思うほどに肌寒くなった途端、宏一
からの連絡は途絶えた。それがもう10日も続いてる。
 訪れた彼のアパートは、何度チャイムを鳴らしても人の気配はしない。
 いつもならきちんと片づけられているはずの郵便受けに乱雑に差し込まれたダイレク
トメールが、ずっと留守なのだ、と物語っていた。
 会えないとなると恋しさが募る。
 会いたいと、いてもたってもいられなくなる。
 まして、最後に会った日に真理恵は宏一と喧嘩していた。
 そのときは宏一が悪いと一方的に決めつけて、夜にかかってきた電話もイヤだと電源
を切った。だが、一夜明ければ一時の激情はなりを潜め、そうなるとどう考えても喧嘩
の原因は真理恵の我が侭な物言いだと気づいてしまう。
 そうなれば後悔しかなく、慌てて電話をしてみた真理恵の耳には、今日と同じく無機
質なメッセージが流れてきた。
 何度かけても繰り返されるメッセージ。
 そのとき以来、真理恵は宏一の声も、姿も見ることはなかった。

 
 何も言わずに姿を消してしまった宏一を捜す術もなく、真理恵は惰性のように向かっ
た学校でぼんやりと友達が話をするのを聞いていた。
 何を考えても結局は宏一に辿り着いて、会いたいという思いが募っていく。
 しかも明日は真理恵の誕生日だ。
 もともと用事があって会えないと言っていたが、電話くらいはできるはずだ。なの
に、電話もない。
 何度もため息をつく真理恵に友人達が心配してくれている。しかし、今の真理恵にと
っては下手な慰めも何の効果もなかった。
 友人達の楽しそうな会話が、空虚に響いて通り抜けていく。
 だが。
「……に行けば、願いが叶うんだって……」
 そんな言葉が耳に飛び込んできて、真理恵はハッと顔を上げた。
 聞き慣れた声は、傍らで話し込んでいた友人の由美。その彼女が、別の友人達に声を
潜めながら喋っていた。
「その店って、ずいぶん前に閉まったとこよね?」
 眉を潜めて疑いのまなざしを向ける友人に、由美がムッとして言い返す。
「だって、彼氏に聞いたんだもん。友達がほんとうに会えたんだって。行方不明だった
彼女とさ」
 会えた、という単語に、ぴくりと真理恵の肩が跳ねる。
「へえ、マジ?」
「うん。何でもさ、そこに行って運が良かったらお店に入れるんだって。で、そこで頼
むんだって言ってたよ」
 そこで頼んだら──会える?
 そう思った途端、真理恵は二人の間に割り込んでいた。
「その場所ってどこ?」
「え……」
 ぼうっとしていた真理恵がいきなり息せき切ったように割ってきたものだから、由美
達は呆然と彼女を見つめ返した。
「ね、どこっ?」
「どこって……」
「……ルナティック・プレイスって占いの店、真理恵も知っているでしょ?」
「え……」
 言われた店の名を真理恵は確かに知っていて、だが、同時にその店がとっくの昔に閉
まってしまった事も思い出す。
 どうして、と思ったことが顔に出たのか、噂を聞いたという由美がしたり顔で頷い
た。
「私もね、変だって思って聞いたらさ。今の店と前の店ってやってる人が違うみたい。
それにその店って、いろんなところで出店みたいにしているんだって。しかもいつどこ
で店が開くのかは決まっていなくて、捜すことはとっても難しいって」
 声を潜める由美に真理恵以外の者は、その胡散臭さに顔をしかめていた。けれど、宏
一と会いたいというそれだけが頭を支配している真理恵にはそこまで気が回らない。
 もったいぶって言葉を切った由美の次の言葉を待ち続ける。
「店に行きたい人は、日が暮れてから、前に店があったビルの周辺を願い事を思いなが
ら歩いていると、案内のチラシを手に入れることができるって。彼氏の友達もそれで手
に入れたって」
「そんなの変じゃん。どうやったらその人が願い事を持っているってチラシを配る人が
判るって言うのよ」
 バカにしたように笑う友人達に、由美は眉間に深いシワを寄せて睨んだ。
「何よお、私の彼氏が嘘ついているとでも言うのっ」
「別にそんなつもりじゃ……」
 由美の剣幕に他の皆が鼻白む。だがその傍らで真理恵は視線を泳がしながら、由美の
言葉を何度も反芻していた。
──願っていれば店に行けて、宏一に会える。
「ちょっと真理恵、あんたこんな話信じるって言うの?」
 一人がバカにしたように言い放ったけれど、真理恵は由美だけを見つめて、確認する
ように問いかけた。
「会いたいって思って、店を探せばいいのね?」
「え、ええ」
 真理恵の真剣な表情に、由美がつられるように頷いた。 


 教えられた場所は、真理恵の家からバスで30分程の場所にあった。
 友人達や宏一と遊び回った街とは言え、さすがに昼とは雰囲気が全く違う。まして、
言われた場所は、歩く人たちの年齢層も高い、ネオンが妖しく輝く飲屋街だ。
 常ならば立ち入る事のないその場所を、真理恵は緊張した面もちで通り過ぎた。
──会いたい……宏一に会いたい。
 その場所に近づくにつれ、真理恵の思いは強くそれだけになっていく。
 にぎやかな場所を通り抜け、脇道を入って一つ通りを外れた。途端に喧噪が小さくな
り、人の波も一気に消える。
 そのいきなりの喪失感に気が付いて、ただ願ってばかりいた真理恵は顔を上げた。そ
の表情に不安がこびりつく。
 言われた場所はこの先のビルで、昼であれば何度か行ったことのある場所だった。
 なのに、今自分がどこにいるのか判らない。
 それに気づいた途端、ぞくりと背に悪寒が走った。
 たまらずに見上げれば、見慣れた屋上広告が目に入る。なのに、ほんの少しの安堵と
共に視線を降ろせば、そこは知らない場所になる。
 それでも、真理恵は足を踏み出した。
 宏一に会いたいという願いを何度も頭の中で繰り返して、祈るように両手の指を組み
合わせる。
 そうすると不思議に恐怖は消え、足取りも軽くなっていったのだが、不意にゾクリと
背が震えた。
 ちょうど、薄汚れた灯りのない4階建てのビルの横を通り抜けようとした時だった。
 しかも立ち止まった時から、チリチリと焼け付くような鋭い痛みをうなじに感じる。
「何?」
 小さく呟いて、その痛みに誘われるように振り返った真理恵は、鋭く息を飲んだ。
 今の今まで、何の気配も感じていなかったのは、願うことに気を取られていたからだ
ろう。1mと離れていないところに立っている男が、真理恵に一枚のチラシを差し出し
ていた。
「あ……」
 驚いて開いた口から、喘ぐような声が漏れる。
 だが、のっぺりとした顔の男はチラシを差し出したまま、身動き一つしなかった。真
理恵の視線が降りてチラシを見つめる。無意識のうちに手が伸びて、それを掴んでい
た。
「っ……」
 空気が小さく音を立てた。
 その音の源に視線をやれば、男の口許が弧を描いている。途端に恐怖に襲われ、身を
震わせた。
 堪らずに目を伏せた途端、全身が巻き込まれるような風を感じる。むきだしの肌に風
が突き刺さり、鋭い痛みをもたらした。
 慌ててひりひりと疼く頬に手を当てる。
「えっ?」
 気がつけば、男の姿はどこにもなかった。
 震える体が物に縋るように手をきつく握りしめる。途端にくしゃりと音がした。
 手の平に感じた音に目をやって、真理恵は飛び込んできた文字に息を飲んでしまう。
『ルナティック・プレイスにようこそ』
 それは紛れもなく、真理恵が探し求めていた店の名であった。

 チラシに描かれているのは、歓迎の文句と地図のみ。だが、その地図を見やって、真
理恵は首を傾げた。
「ここって」
 間違いではないかと指で地図の道を辿り、合点がいったかのように傍らのビルを見上
げた。
 真理恵がチラシを貰った場所の真横のビル。
 それが地図の場所だった。
 薄気味悪いほどに暗いビルには、僅かな灯りすら漏れていない。地図には、このビル
の地下に店はあると描かれている。
 真理恵は何度もそのビルを見上げ、そして入り口らしき場所に視線をやった。
 街灯の灯りが入り口の中まで照らしているが、とても店をやっているようには見えな
い。
 ためらいが真理恵を襲う。けれど、手の中にあるチラシの存在が、ここに来た目的を
思い出させる。
「会いたい」
 ただそれだけで、ここに来たのだから、こんなところで引き返すわけにはいかなかっ
た。
 意を決して、震える手が入り口のドアを押し開く。
 キイッとさび付いた音が見通せない通路に響いて、真理恵の体をびくりと震わせた。
 と。
 不意に眩い光に照らされた。
 通路の蛍光灯が点いたのだとは判るけれど、それを点けた人の気配は全くない。
「だ……誰か、いるの?」
 問いかけた声は虚ろに響いて、やはり人の気配を返さない。ごくりと息を飲む真理恵
が発する音だけが、やけに大きく響く。
──怖い。
 この先はダメだと心が叫ぶ。だが、それ以上に宏一に会いたいという想いもある。
 僅かな逡巡の後、真理恵の宏一への想いは、恐怖をも打ち砕いた。


 地下にはドアが一つだけしかなくて、それが薄く開いていた。
 通路の灯りがその中に流れ込み、一筋の光が僅かな部分を照らしている。
 他にはドアはなく、地図が指し示す店はその中だろう。人の気配を感じさせないその
ドアを真理恵が恐る恐る開けた時だった。
「ようこそ」
 突然中から声をかけられ、真理恵が喉の奥で悲鳴を上げた。
 握っていたドアノブから手が離れ、一歩分後ずさる。
「どうぞ、お入りになって」
 だが、真理恵の驚愕に気がついていないのか、相手の声は変わることなく穏やかだ。
それに気付いて、真理恵は大きく息を飲んだ。
 そのままゆっくりと吐き出す。
 勇気を絞り出すための真理恵の儀式だ。
「誰?」
 小さな誰何の声が、静かな地階に響いた。それに間髪入れずに返された。
「ルナティック・プレイスにようこそ。私はここの店主、キリノと申します。よろしく
御願いします」
「ここが……」
 丁寧な声音に真理恵は声のする方に、ゆっくりと踏み出した。
 近づくにつれて、小さな机の向こうにサリーのような衣を身に纏った女性が座ってい
るのが判る。
 紫苑色の薄布が顔を覆っているけれど、表情を隠すほどではない。はっきりとした顔
立ちは美人と称してもおかしくはなかった。しかも、若い。
 ふと真理恵は胸の奥でちりりと不快気に痛む物を感じた。
 それが何かを眉根を寄せて考える。
 けれど今はそれは些細な事だと、逸らしていた視線をキリノに戻した。
 途端に彼女はロの端を少しあげる。それが嘲笑だと、少なくとも真理恵はそう思っ
た。
 冷え冷えとした場の空気がさらに下がって、真理恵は寒さに全身を震わせた。
「今日は何を占えばいいのかしら?」
「私は、ここに来れば会いたい人に会えると聞いたわ。あなたが会わせてくれるのっ
?」
 一気に言い放って、真理恵の心を波立たせるキリノの視線から、慌てて目を逸らす。
 部屋は薄暗いが今まで何度か訪れた占いの店とそう変わらない。視線も、過去にそん
な占い師に会ったこともある。
 だがここには、同時にまとわりつくようによどんだ空気が存在していた。
 重く感じる空気は呼吸するのに力が必要で、真理恵をひどく疲れさせる。しかも逸ら
していた筈の視線が、気付かぬうちにまたキリノのそれに合ってしまう。
 そのせいなのだろうか?
 真理恵は落ち着かない神経を宥めるように深く息を吸った。
「私の恋人が急にいなくなったんです。携帯にも出ないし、部屋にもいなくて。バイト
先に行ったら、ずっと休んでいると言われて……。他の連絡先なんか知らなかったから
……。捨てられたのかとも思ったけれど、そんな酷いことする人だとは思えないし。そ
うしたら、ここに来れば会いたい人に会えるって聞いて……」
 視線に縛られていた。キリノは何も言わないのに、彼女の視線が先を促す。
「私、どうしても会いたくて。嫌われたなら嫌われたってはっきり聞きたくて……」
 会いたいという思いと不安をとうとうと伝える。
 ひとしきり喋った後、ふっと真理恵は呪縛から逃れたように口を閉じた。自分だけが
ずっと喋っている事への不安が一気に押し寄せたのだ。上目遣いにキリノを窺って、口
を開く。
「あの──え?」
 途端に、キリノが艶然と微笑んだ。
「つまり行方不明の彼氏に会いたいのね?」
 声すらも違ったかのように、その物言いは優しくて、真理恵はつられてコクリと頷い
ていた。
「会いたい人の写真か何か──顔のわかるものはあるかしら?」
 細くて白い指が机の前の椅子を指さして、真理恵に座るように促す。その時になって
初めて、そこに椅子があることに気が付いた。
 ずっと突っ立っていた真理恵は、顔を赤らめながらクッションの効いた椅子に座り込
む。
 アンティーク家具と思われるそれは、肘掛けに触れた手が自然に馴染むほどに座り心
地が良かった。
 そのせいか、真理恵の未だ強張った心が解れていく。
 先ほどまで感じていたキリノに対する反発心などいつの間にか消えていた。
「写真があります。逢えなくなった一週間前に撮ったものなの」
 机の上に滑らすように写真を置いた。
「……この人ね。最後にあった日は?」
「先月……最後の日曜日なんです。えっと……」
「9月29日、かしら?」
「はい、そうですっ」
「じゃあ、連絡が取れないと気付いたのは?」
「それは──」
 キリノの問いかけは巧みで手際が良く、みるみるうちに真理恵がうろ覚えだった出来
事までも思い出せてくれた。
 それをキリノが僅かに茶に色づいた紙に長い柄のついたペンで書き込んでいく。イン
クは薄い青色をしていて、長い文をキリノが書いている間、真理恵はそれをぼんやりと
見つめた。
 会いたいと願ってここに来た時は緊張の連続だったが、今はどこか安心したように体
から力が抜けている。
 一連の出来事を話せたことが、吐き出すことができずに重くのしかかっていた塊を消
してくれたようだった。
「じゃあ、まず探してみるわね」
 にこりと微笑み視線を向けたキリノに、真理恵は大きく頷いた。
 

 キリノの指が彼女の右側の壁を指さした。
 それを辿るように真理恵も視線を動かす。
 そこには、姿見としても十分な大きさの鏡が掛けられていた。縦に長い楕円の鏡は唐
草模様の彫刻で飾られていてアンティークのようにも見える。
「何?」
 薄暗い室内の様子のみを映すそれに何があるのかと、戸惑いのままに問いかける。
「あなたが会いたい人のいる場所」
 キリノの静かな言葉に驚いて彼女を振り返り、再び視線を鏡に戻した途端、鋭く息を
飲んだ。
「っ!」
 先ほどまで部屋が映っていた筈の鏡。なのに今は、岩のような壁を持つ空間を映し出
していた。
 その中に真理恵が探し求めていた宏一が虚ろな表情で足を投げ出して座り込んでいた
のだ。
「宏一……やっぱり宏一だわ。でも……ここは?」
 驚きと安堵、だがそれ以上に宏一の様子に戸惑いが隠せない。ゆらりと椅子から立ち
あがり、鏡に近寄る。鏡に映った宏一に手を添えても、無機質な冷たさしか感じなかっ
た。
 それは投影されたものでしかない。
 真理恵はじっと鏡を見つめた。
 どうやって宏一の姿を映したのか?とふと思ったけれど、次の瞬間、それは頭の中か
ら消え去って、ただ宏一の姿だけが頭の中を占めていく。
 宏一はこの場所にいるのだと、信じた。
 けれど、これでは願う通りには会えていない。真理恵が会いたかったのは、温もりの
ある生身の宏一なのだから。
 真理恵の縋るような視線を受けて、キリノがこくりと小さく頷いた。
 いつ立ちあがったのか判らないほどに滑らかな動きで真理恵の元に近寄ったキリノ
は、鏡の表面に触れて、目を伏せた。
 まるで何かに語りかけるように、そのまま小さく呟き続ける。
 流れるようなそれは、歌のようにも聞こえた。だが、その内容までは判らない。
 そのまま時間が流れ、真理恵が焦れだした頃。不意にキリノが顔を上げ、視線だけを
真理恵に向けた。
「彼は、星に好かれたようですね」
「ホシ?」
 何のことだと訝しげにキリノを見上げれば、最初に会った時のように嫣然とした微笑
みがその顔に浮かんだ。
「”星”です」
「……その星って人が宏一をこんなところに?」
 人の名かと顔色を変えた真理恵に、キリノは苦笑して首を左右に振る。
「星──すなわちこの大地そのもの。人が生きていく場所ですよ」
「え……?」
 今度は間違いなく『星』という単語が脳裏に浮かぶ。
 けれど、その言葉の持つ意味に、キリノを見つめる瞳に疑いの色が籠もった。
 だが。
「信じられませんか?そんなことはないでしょう?あなたも信じているはずです」
「はい、信じます」
 知らぬうちに言葉が出て、キリノの言葉は正しいと──そこに間違いはないと思っ
た。
 その異常さに気付かない。
「星に魅入られた人と会うためには、あなたもあの場所に行かなければなりません」
「どうやって?」
 薄暗い空間。岩肌のようにでこぼこした壁を持つそこは、どこかの洞窟のように見え
る。
 宏一のいるその場所に真理恵は心当りがない。
「この下」
 簡潔な言葉につられて、真理恵は視線を床におとした。
「地中は星そのもの。今彼はその中にいる。そしてそこに行くためには、あなたが彼に
会いたい。助けたいという思いを強く持って、道を進むしかないの」
 こともなげに言っているキリノの瞳が、鏡と向き合う。
「道をつけることは容易いけれど、あなたはそこまでして、彼に会いたい?星に魅入ら
れた人を取り戻すのはたいへんなのよ」
「何が……大変だというのよ」
「行って連れて帰ればいいだけなのは、間違いないわ。けれど、星に魅入られた人は─
─そうね、洗脳されているようなもの、と言えば判りやすいかしら。あの場所からは離
れようとしないのよ。だってあそこは争いも何もないのよ。楽しくて優しくて、とって
も居心地が良いところだから」
「でも私は、宏一と会いたいの。取り戻したいのよ。どうすればいいか、教えて?」
 キリノなら知っているはずだと、信じて詰め寄る真理恵は必死だ。
 今の真理恵を突き動かすそれは、嫉妬だった。
 星に魅入られるほどの宏一は自分の彼氏なのだ。
 盗られると思うと、手放したくない思いが強くなる。宏一の恋人は己なのだという自
負もある。
 これは明らかに横やりで、相手が誰であろうと宏一を渡すつもりはなかった。
 だから、キリノに問う。
「入り口はこのドアの向こうよ。でも、さっきも言った通り、彼に帰りたいと思わせな
ければならないのよ?できるかしら?」
 苦笑気味に言われて、カッと頭に血がのぼる。
 真理恵はきつくキリノを睨むと、再度鏡に視線を向けた。
 うつろな瞳の宏一をどうやって星は取り込んだというのか?だが、それでも彼は真理
恵の彼氏なのだ。
「できるわっ!そこから行けばいいのね」
 ドアへ向かう足も、ノブに伸びる手も、ためらいはない。
「彼を目覚めさせるのは大変よ。あそこは子宮のようなものだから」
 その言葉に、真理恵の手がぴたりと止まった。押して開きかけたドアから、生暖かい
風が吹き出してくる。それは動物の吐息のような気味悪さで、真理恵は硬直しているは
ずの体が悪寒に震えるのを感じた。
「判るかしら?ここから先は星の胎内なの。私たち、星の上に生きる者にとっての母
胎。出て初めて、どこよりも懐かしく戻りたいと願う場所──そして決して戻れない場
所。そんな場所に戻ることできた彼を連れ出すのよ。それがどんなに難しい事か」
 キリノの視線はずっと鏡に向かっている。
 歌っているようにも、語りかけているようにも聞こえる物言いは、彼を連れ戻すこと
は罪悪なのだと真理恵に聞こえた。
 彼女の言葉はあまりにも荒唐無稽で、とても信じられるものではない。なのに、逆ら
うことなどできない。
 キリノの言葉がためらいを生み、真理恵の体を強張らせる。
 だが、それを解したのもキリノの言葉だった。
「あなたは母親に勝てるのかしら?」
 嘲るようなその声音に、一瞬にしてためらいが消える。
 宏一は真理恵のものなのだ。
「絶対に連れて帰るわっ!」
 言葉と共に扉を大きく押し開く。
 生暖かな風が顔をなぶって、思わず目を瞑った。その耳に風切り音が響く。
 その中で、空耳のような微かな言葉が耳に届いた。
「後悔しないように祈っているわ」
「何をっ!」
 今更のことを、と言い返そうとして、真理恵は振り向いたまま硬直する。
 そこに、もう扉はなかった。


つづく




#174/598 ●長編    *** コメント #173 ***
★タイトル (kyy     )  03/10/19  21:36  (418)
お題>都市伝説>ルナティック・プレイス 後編   舞火
★内容                                         03/10/20 22:09 修正 第3版
「前に進むしかないのね……」
 ぽつりと呟いた言葉が、薄闇の中に消えていく。
 途端に吹き荒れていた風が止んだ。
 それにほっとして、細めていた目を開ける。
 先ほどから薄暗い部屋にいたせいか、薄闇の中でも見えないことはない。しかも、何
が光っているのか、はるか彼方に光源があってそれがかろうじて真理恵の足下辺りまで
照らしていた。
 それに縋って、ゆっくりと一歩を踏み出した。
 怖いと思う。
 キリノの言っていた『母親』という言葉が、たとえようもない恐れを身の内に引き起
こして、肌が総毛立つ。
 それでも真理恵は進むしかなかった。
 一歩一歩確かめるように進む道は、確かに下っている。おぼつかない足下のせいで触
れた壁は、気味が悪いほどに生暖かかった。
 それは、先ほどの風と同じ温度だ。
 しかも、岩だと思ったそれは、見た目よりは柔らかい。指先が僅かに食い込むような
感じは、まさに肉そのものだった。
 ぞくりと全身が小刻みに震える。
 先に進むにつれ、闇が失われていくのに逆らって、真理恵の恐怖は募っていき、堪ら
なくなって足を止めた。
 まだそんなに歩いていないのに、体が酷く疲れていた。
 真理恵は、気味悪さを堪えて壁に手をついて、深呼吸を繰り返す。と。
 どくん。
 何かが震えた。
「ひっ!」
 鋭い悲鳴が喉からほとばしる。真理恵は慌てて、触れていた壁から手を離した。握り
しめた手をもう片方の手で覆う。
 震えは確かにその手から伝わったのだ。
 真理恵の視線が先ほどまで手が触れていた場所を探った。
 壁、だと思っていた場所が、小さく脈動していることに気付いて、真理恵は堪らずに
後ずさった。が、狭い通路にすぐに背が壁に当たる。
 どくん。
 今度は背一面でそれを感じてしまう。
 真理恵は悲鳴を上げることもできずに、跳ねるように立たせた体を硬直させた。
 たらたらと流れる冷や汗が、あっという間に着ていたブラウスを濡らし、肌に張り付
かせる。
「……もうっ」
 苛だたしくそれを引きはがして、真理恵は通路の先をキッと睨み付けた。
 怖い。けれど、立ち止まるわけにはいかない。きつく噛みしめた唇の痛みが、恐怖か
ら意識を逸らす。
 真理恵の足がようやく、というように動き始めた。
「怖くない、怖くない。宏一のところに行くだけなんだからっ」
 呪文のように同じ言葉を繰り返し、それに縋っている真理恵の目は、もう正面しか見
ていない。
 先ほどよりさらにはっきりと脈打ちだした壁は、もうとても岩壁のようには見えな
い。それを凝視しないように、真理恵は足先に神経を集中させていた。
 ただ、どこまでも続くように見えるその通路は、確実にその先に近づいているよう
で、辺りを照らす灯りは先ほどよりは確かに明るい。
 その分、壁がはっきりと見えるようになった。
 脈打つそれからもう逃れられない。
 恐怖心もそれに呼応するかのように大きくなって真理恵を苛んだ。
 そのせいで、真理恵の足が速くなる。
 速く、速く。
 それだけが頭の中を占めてきて──最後は駆けるように、一気に明るい中に飛び込ん
だ。


 まぶしさに目が眩んで、真理恵は手を目の前にかざした。
 明るさの源は、広々とした空間の中央に据えられたランプらしい。
 真理恵はそれから目を逸らし、ゆっくりと辺りを窺った。
 壁は今までとは違って岩のように見える。ごつごつとした少し赤みがかった色。だが
地面は柔らかいフェルト地のようで、沈み込むような感じがあった。
 まぶしさに白っぽいその場所は、確かにあの鏡で見た風景と似ていた。
 しかも、壁に寄り添うように人が座り込んでいる姿すら見える。
 宏一か?と、まだ慣れない明るさに開けきれない目をそれでも開けて、真理恵はその
人を凝視した。
 だが、すぐに落胆して目を逸らした。
 力無く蹲ったそれは確かに男のように見える。だが、宏一よりはかなり年とっている
ようだ。それにふわりと男が動いた拍子に見えた顔も違う。
 それでも、人がいたというそのことが真理恵に確信を持たせた。
「ここだわ」
 間違いないと真理恵は小さく頷いて、ゆっくりと辺りを窺いながら歩き始めた。
 心臓が緊張に煽られて、激しく鳴り響く。真理恵はそれを押さえるように拳で胸を押
さえつけた。
 場所を変えれば、壁のくぼみに寄り添うようにしている複数の人影を見つけることが
できる。だが、音はない。
 真理恵の歩く音ですら、吸収されているのか響くことはない。
 その中で、真理恵の荒い呼吸音だけが耳障りなほどに響いた。
 それが気になって深呼吸も考えるが、どこか生臭さを感じる空気に、それもためらわ
れる。
 真理恵は仕方なくそのまま歩き続け、入ってきた側と反対側の辺りで見つめた人影
に、鋭く息を飲んだ。
 胸を押さえていた手がさらにきつくなる。
「……宏一?」
 問いかけたのは、あの鏡で見た時の情景と変わらない場所にいた男。
 窺うようにしたけれど、間違いないとも思う。
 男が着ているシャツは、喧嘩別れした時に宏一がきていた紺色のデニム地。ズボンも
独特のステッチが入ったジーンズ。
 見間違いようがなかった。
「宏一?」
 声が震える。足から力が抜けて、体が揺らめく。
 呼びかけても宏一は返事をしない。
 目は開けているのに、それは何も映していないようだ。ただ、壁にもたれてぼんやり
としている。『洗脳されているようなもの』
 キリノが言った言葉が脳裏に響く。
『母親の子宮。ようやく戻れた』
 そうも言っていた。
 だけど。
 真理恵はふっと頭を上げて辺りを見渡した。
 真理恵にはそうは思えない。
 ここはただ、生暖かさと気味の悪い壁を持つ空間でしかない。ここにいたいとは思え
ない。
 母親の胎内になど、今更戻ってどうなるというのだろう。
 ここにはおしゃれな洋服も遊びも、弾けるような楽しみもない。
 友達とウィンドウショッピングもできないし、ゲーセンでいい男を物色することもで
きない。まして、彼氏とのデートなど論外だ。
 ──ここには苦もなく、そして楽もない。
 そう思って、真理恵はフッと口の端を歪めた。
 ──苦労なんてしたくはないと思うけれど、でもそれがあってこそ人生は楽しいもの
になる。
 前にも宏一と喧嘩したこともあったけれど、その後の仲直りのデートは最高に楽しか
った。
 だから。
「宏一、帰るわよっ」
 真理恵は力無く垂れていた宏一の手首を握ると、力任せに引っ張った。

 ふわりと宏一の体が揺らぐ。
 虚ろな瞳が真理恵に向けられた。
「宏一っ」
 呼んでも反応はない。宏一の体は重く、真理恵の力だけでは立ちあがらせることもで
きなかった。
「宏一、私、真理恵よ。迎えにきたの、帰ろうよ」
 どんなに呼びかけても反応はない。
『難しい』
 そう言われた言葉が何度も真理恵の頭の中を過ぎる。
 だが、諦めきれない。
 ここに来るまであんなに頑張ったのだと、それが真理恵自身を奮い立たせた。
「宏一っ!」
 振り上げた手を下ろした途端、宏一の頬で乾いた音がした。
「目を覚ましなさいっ!あんた、男でしょっ。なんでも任せろって言ったでしょっ!そ
れなのに、こんなところで閉じこもってどうすんのっ!」
 ひりひりとした手が真理恵の心に火をつけた。
 迸った言葉がさらに心を熱くして、苛立ちを燃えさせる。
 それに少しは反応したかのように、宏一が真理恵を見たように思った。
「宏一っ!私が判んないのっ!」
 ヒステリックに叫んで、両手で宏一の腕を引っ張った。
 途端に、ふわりと宏一が立ちあがる。
 その動きはひどくぎこちなさがあったが、真理恵の顔が悦びで満ちた。
 宏一の心を取り戻したと思ったのだ。だが、立ちあがったものの、宏一の視線は真理
恵を捕らえていなかった。
 それでも、と真理恵はその背を入ってきた場所に向けて押す。
「宏一っ、帰るわよ」
 ここから出れば。
 あの扉から出れば。
 力の入らない、歩く意志のない体は、ひどく重い。
 それでも真理恵は必死で押し続けた。
 生暖かい上に、湿気も高いのか、あっという間に真理恵の体は汗だくになっていた。
額を流れた汗が目に入り、開けていられなくなる。
 その間だけ押す手が緩む。
「宏一っ……御願いだから……歩いて……」
 荒い息の間に懇願する。
 こんなにも頑張っているのに。
 一向に反応しない宏一に、真理恵の苛立ちが募ってきた。
 狭い通路はだんだんと薄暗くなって、足下もおぼつかない。降りる時は気がつかなか
ったが、通路は少し曲がっているようで、何度か宏一の体を壁に押しつけてしまった。
「ごめん……大丈夫?」
 最初はそのたびに謝っていた真理恵も数度同じ事が続くと、乱暴に壁から引きはがす
だけになっていた。
 帰りたいと願っているのに、宏一はまるで帰りたくないとばかりに力を入れない。
 昇っていく通路は、それでなくても真理恵の体力を奪った。
 連れて帰ると強く願った心は、今はもう欠片しかなく、意地だけで押しているような
ものだった。
「宏一ぃ、御願いだから、歩いてよお」
 自分がこんなに一生懸命頑張っているのに、当の宏一は──と、情けなさが込み上げ
てくる。
 鼻の奥がつんと熱くなって、目に涙が浮かんできた。
 つうっと流れ落ちるそれが涙なのか汗なのかはもう判らない。
 邪魔だとばかりにぐいっと服の袖で拭っても、すぐに新しい、今度は確かに涙が流れ
ていく。止めようと思っても止まらない。
 緊張の糸が切れてしまったように、真理恵の体がずるずると崩れ落ちた。
 ぺたりと下に座り込み、押していた両手は宏一の足に縋る。
「ひいっく……うっく……宏一い……帰ろうよお……帰りたいよお……」
 嗚咽を漏らし、幼子のように懇願する真理恵に、ここに入ってきた頃の気丈さはもう
なかった。
「ねえ……帰ろ……。帰ろうよ……」
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をもう拭うこともしない。
 帰りたいと思う。
 もう何もかも捨てて、自分だけでも帰りたいと思う。
 それでも。
 心の片隅に不意に込み上げたのは、喧嘩した時の宏一の顔だった。
 あの時、理不尽な怒りをぶつけて宏一の言葉も聞かない真理恵に向けられた顔は確か
に怒っていたはずだ。なのに、今思い出したのは、怒りながらもどこか悲しそうな顔。
 あれは、怒りのままに伸ばした手を叩き払った時だったろうか?
「ごめん……ごめんなさい……ひいっく……んく……。私が、悪かったの……よね。私
が我が儘で、子供みたいに困らせて……。だから、宏一怒ったのに……。なのに……な
のに……」
 挙げ句の果てに、気がついたらこんなことになっていた。
 ──そうだ。
 不意に真理恵は泣き濡れた顔を上げた。
 どうして、宏一は星に魅入られたのだろう?
 こんなところに閉じこもってしまったのだろう?
 それは本当に宏一の意志でないと言うのだろうか?
 一度浮かび上がった疑問は、連鎖的に次の疑問を浮かばせて、頭の中を疑問符が飛び
交っていく。
 真理恵がここに来たのは、宏一を捜すためだ。
 だが、宏一はそんな理由ではないことは確かだ。
 あの日、真理恵と喧嘩した宏一は何をしたのだろう?
 どうしようとしただろう?
 真理恵は、今までつきあって知っている宏一の性格と経験から、その日の彼の行動を
想像してみた。
 家にいる真理恵の携帯に宏一から電話が入ったのは、もう夜の10時も過ぎていた。
 何度か鳴った携帯を無視して電源を切ったのは、それから数分も経っていない。
 それから……。
「宏一ならどうしただろう?」
 しょうがない、と諦めたろうか?
 真理恵と会って話をしようとしただろうか?
 それとも──ほとぼりが冷めてから、プレゼントか何かで懐柔しようとしただろう
か?
「プレゼント……」
 そういえば、前に喧嘩した時も欲しがっていたオルゴールを買ってきてくれた。
 あの時の喧嘩も、おもちゃ屋で見かけたオルゴールが欲しいって言った真理恵に、宏
一が『子供っぽいっ』と言ったのが原因だった。
 そして今回の喧嘩はといえば、宏一が真理恵の誕生日に出掛けていないということが
原因だった。
 『そんなのイヤだ』とごねたのは真理恵で、『どうしても外せない用事』なんだと拒
んだのは宏一。
 今から思えば、本当に子供じみた我が儘だと思う。
 それでもあの時は必死で──ならば、宏一はどうしようと思っただろう?
 宏一とて、真理恵の性格を知っている。
 激情に駆られた真理恵も日が経てば、落ち着いていくるということを。
「それだったら……」
 真理恵は泣いていた情けない自分を振り払うようにぐいっと顔を拭った。
「絶対に宏一が自分でこんなこところにくるわけは無いんだから」
 それは真理恵自身に言い聞かせるための言葉だった。
 宏一はその間もじっとその場に佇んでいる。
 だが、落ち着いた真理恵がじっと窺っていると、何も映していないような視線が時折
ふらりと揺らぐのに気がついた。その方向は、今来たばかりの、つまり背後だ。
 マズイと焦燥に駆られ、真理恵は慌てて立ちあがった。
 再び宏一の背を押し始める。
 闇の中、通路はどこまで続いているのか全く判らない。
 果てること無い行為は、精神的にも真理恵を疲労させた。
 それでも、真理恵は渾身の力を込めて宏一を押す。なおかつ、ずっと宏一に話しかけ
た。
 荒れる呼吸に、それは余計に真理恵を疲れさせたけれど、止めるわけにはいかなかっ
た。
「宏一……帰ったらね、一緒に買い物行こうよ。だって……もうすぐ私の誕生日だし…
…」
 最初のうちは、話し続けることが苦痛であったけれど。
「ごめんね、あの時あんなに怒って。でもさ……はあっ……宏一と一緒にいたかったか
ら……」
 なぜだか、話しているとほんの少しだけ気分が楽になった。
 ずっと言いたかった。話したかった事が堰を切ったように溢れ出して、止まらない。
「んっ……あのさ、宏一も仕方がないんだって……気がついたから……。今更遅いかも
知れないけど……でも……ごめん……」
 普段なら、こんなに簡単に謝れない。だが、真理恵は何度もごめんと呟いた。
「ごめんなさい。だけど、その日を外したら……会えるって言っていたよね……だか
ら、その会える日に……」
 不意にもう止まったと思っていた涙が頬を流れた。
 そんな日が来るのだろうか?
 真理恵の心に湧いた想いが涙を誘発した。
「宏一っ!」
 堪らずにその背に抱きついて、頬をすり寄せる。
 真理恵の涙が、宏一のシャツに染み込んで染みを広げていった。
「宏一……帰ろう……一緒にデートしようよお……」
 足は止まらない。
 涙も止まらない。
 真理恵はすり寄せた全身で宏一を押し続けていた。


「……帰る……?」
 ぽつりと呟いた言葉が聞こえたのは、もう手も足も感覚がないほどに疲れ切って、喋
り続けた喉が掠れてしまった頃だった。
 びくりと震えた真理恵が、恐る恐る顔を上げると、肩越しに見えた宏一がじっと上を
見上げていた。
「宏一……?」
 呼びかけても返事はない。
 だが、もしかして、と思ってその背を押すと前より幾分軽くなったような気がした。
 ふと気がつけば、宏一の足が歩こうとしているように見える。
「そうだよ。私たちの街に帰ろう。あのね、もうすぐ私の誕生日なんだよ。宏一はその
日一緒にいられないって言っていたじゃない。だから、次のお休みの日にデートしよ。
ね、宏一祝ってくれるって言ったじゃない」
 もう何度も言った言葉を掠れきった声であったけれど絞り出す。
「……デート……」
 今度は確かに耳まで届いたのは、確かに宏一の声だった。
「そうよっ!ね、こんなとこじゃ、デートもできないよ。だから帰ろうっ!」
 その背を押せば、さらに軽くなっていた。
 一歩進むごとに足取りが軽くなる。
 明らかに宏一の足は動いていた。
 そして。
「宏一、帰ろう」
「そうだ、帰ろう」
 何度目かの言葉に、初めて宏一が返してきて、真理恵は思わずその顔を凝視した。少
し高い位置から振り注ぐのは、確かに真理恵を捕らえた視線だ。
 真理恵の震える手が伸びる。
 頬に触れればくすぐったそうに宏一が微笑んだ。
「帰りたい?」
 問えば、心外そうに目を見開いてこくりと頷く。
「なんか、気持ち悪いなここは。俺、どうしてこんなところにいるんだ?あの店にいた
はずなのに……」
 『店』という単語に真理恵の片眉がびくりと動く。だが、今はそれどころではなかっ
た。
「本当に帰りたい?」
 帰りたいと思わなければ帰れないのだ、と彼の意志を確認する。
「……帰りたいさ。なんか疲れたし。真理恵にも会えたし」
 まるでデートの終わりで遊び疲れたような言葉。
 だが、それもまさしく宏一の言葉だ。
「そうね。帰りましょ」
 そう真理恵が言った途端、目前にドアが現れた。


 開けてみると、そこは何もない室内だった。
「……ここ?」
 宏一が不思議そうにそこを見回す。
「知っているの?」
 問いかけた真理恵自身は確信は無かったが、ここはあの「ルナティック・プレイス」
の室内だと思っていた。
 キリノが座っていた椅子も机も、そしてあの鏡も無い。
 けれど、間取りはあの部屋と一緒だ。
「あの……占い屋の部屋と一緒だと思うけど……」
「占いって……どうして」
「喧嘩してさ、すぐにはどうしようもないって判っていたんだけど……。だけどさ、し
ばらく出掛ける予定だったし、早く何とかしたかったんだ」
 さび付いた音を立てるドアを開けながら、宏一が口の端を歪めて嗤った。
「ん……」
「そしたら、ふらりと歩いている時にチラシを渡されて。……お前って占いとか好きだ
ったから、その手のグッズとかプレゼントしたらいいかなあって思って」
 灯りのないビルの通路は窓から差し込む街灯の光のせいで歩くのに不自由は無い。
「それで?」
「やっぱり、このビルだな。ここに来て、女の人に会って……」
「それから?」
 問うては見たものの、身の内から湧いてくる恐怖に真理恵は震える体を止めたくて宏
一の腕に縋った。
「俺の話を聞いた彼女から、賭をしようと言われた」
「賭?」
 ビルの出入り口のドアを押し開いた途端に、風が舞った。
 ひんやりとした冷たさに、ぶるりと体が震える。身を竦めた真理恵の肩に宏一が腕を
回して抱き寄せた。
「しばらく眠っている間に、真理恵が迎えに来れば俺の勝ち。来なかったら彼女の勝
ち」
「何それ?」
 確かにそれが賭なら宏一は勝ったことになるだろう。
「ちゃんと真理恵に連絡を取るって言っていたし、勝ったらその……10万円くれるって
言っていたし……その……」
「呆れたっ、お金のためにそんな賭、引き受けたって言うのっ」
「いや……その……。でも、確かにそうだな。でもあの時は、それが変だとは思わなか
った。彼女の言葉の通りにしていれば、真理恵と仲直りできるんだって思って……それ
で」
「もういいわ……判ったから……」
 制止する声が震えた。
 宏一の言葉を聞いた途端、それが真理恵にも当てはまると気がついたからだ。
 あの時、キリノと話をしながら宏一に会いたいと思った時、キリノのどんな言葉も信
じてしまっていた。
 会いたいと思ったのは事実だったけれど、実際に体験した今でも、それがどんなに荒
唐無稽な話だったか判る。
 なのに信じた。
 そして。
「とうとう連れて帰ってしまったのね」
 キリノがそこにいることも、自然にそれを受け入れる。
「何を企んでいるのか知らないけど、もう宏一は渡さないから」
 睨む真理恵の先で、キリノが笑う。
「帰ってきてしまった人は、もう無理だもの」
「どういう意味だ?」
 宏一は訝しげに首を傾げている。
 彼は、行きと帰りしか知らない。
 それでも、その脳天気な言葉に真理恵はムカッと腹が立ってきた。だが、それ以上に
キリノに対しての方が腹が立つ。
「あんなところにいっぱい人を閉じこめて……全部あなたの仕業でしょう?」
「違うわ。あの人達は星に魅入られたのよ」
 歌うような言葉を真理恵は信じてしまう。
「あの人達……一体どうなるの?」
「あの人達は、ああやって星と一緒に夢見て朽ち果てるの。星と同じ夢を見て、星と同
じように楽しむの。星だって、一人だと寂しいからああして仲間を集めているのよ」
「いつまで……」
「ずっと……。星からの糧を受け入れられなくなって、その体が朽ち果てるまで」
 その途端に真理恵が掴んでいた宏一の腕が、びくりと震えた。
「ずっと?」
「ええ、ずっと。でもあなたは賭に勝ってしまった。だから戻ってきた。そんな人は初
めてよ」
 少し悔しそうなキリノを睨んで、真理恵は宏一を引っ張った。
「あなたが誰かは知らないけど、もう二度と話したくないし、これ以上関わりたくもな
い。だから、さっさと店を畳んだ方が良いんじゃない?」
 真理恵は帰ったら友人達に今夜のことを話そうとしていた。が。
「あら」
 可笑しそうにキリノが吹きだした。
「あなたの言うことをたとえ友人が信じたとしても、その次の人達は信じると思う?眉
唾物のホラ話だと誰もが疑うわ。それよりも、会いたい人に会える、とか、困ったこと
から救う、とか、といったような話の方が人は飛びつくの。だから、店を畳むつもりは
ないわ」
「そんなのっ」
 強く否定しようとした真理恵が、途端に口ごもる。
 キリノの言葉を否定することはできなかった。彼女が正しいと思ってしまった。
「でも安心して。あなた達とは二度と会わないから」
 そう言って艶やかにキリノが笑った途端、風が吹いた。
「だっていくらでも代わりの人は手に入るもの」
 つむじ風のようなそれが砂埃を巻き上げ、真理恵は咄嗟に目を瞑る。
 開けるまでの時間は数秒にもならない。だが、もう真理恵達の前には、彼女の姿はど
こにもなかった。
「消えた……」
 他に言い様がない言葉を、宏一が呟く。
「ねえ……帰りましょう。帰って、休みましょう」
 何も考えたくなかった。
 こんな非現実的なこと、確かに誰が信じるだろう。実際、あれだけすんなり信じてい
た真理恵も、今となっては信じられなくなっている。
 明るいネオンで照らされた通りに、宏一があの日とは違う風景に目を白黒させてい
る。
 宏一は、自分が行方不明状態だったことにまだ気がついていない。
 それに真理恵自身も時間の感覚がおかしくなっていた。
 あのビルに入ってから、まだ一時間も経っていなかったのだから。
 だが、それも今はどうでもいいと、真理恵はため息をつくと動かない宏一を引っ張っ
た。
 とにかく今は帰って眠りたかった。眠ってしまえば、今までのことが全て夢だったと
思えるだろう。
「明日……明日になったら、私が知ったことも教えて上げる。だけど今は疲れたから…
…だから帰ろ?」
「あ、ああ……」
 冷たい風が吹き向けるアーケードの下は、まだ人通りが多い。
 足早なそれらにお互いが分かたれることがないように、真理恵は宏一の腕をしっかり
と掴まえて、駅に向かって歩く。
 ふと、真理恵が宏一に寄せていた顔を上げた。
「笑い声……」
「何も聞こえないけどな……」
 耳を澄ませた宏一が首を振る。
「そうね。気のせいね」
 本当は気のせいではないと判っていたが、それでも真理恵は頷いた。
 風音のように聞こえたそれが誰のものなのか、もう考えたくもなかったのだ。


FIN.




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