#5099/5495 長編
★タイトル (AZA ) 00/ 6/29 11:26 (187)
そばにいるだけで 49−7 寺嶋公香
★内容
「……」
言葉をなくした相羽は、傘を後方に放ると、純子の両手を取り、握りしめた。
どうしたの?――純子の目が不思議そうに問う。
相羽は純子の頭を後ろから手でそっと覆うと、心持ち、抱き寄せ、「よかっ
た……」とつぶやいた。
意味を飲み込めないまま、距離を取ろうとする純子。
「相羽君、放して。私、探さないと」
「いいから。とにかく、上がろう。凄く冷たい」
「嫌」
腕を引っ張られ、純子は腰を落とそうとした。
間を置くことなく、相羽が叫ぶ。いつになく、きつい調子で。
「君のお母さんも心配してるんだぜ。分かってる?」
「で、でも――きゃ」
相羽は純子の言を受け付けず、強引に押し上げようとする。
「や、やめてよっ」
「僕が探す」
「な、何を言ってるの?」
相羽はこれも無視し、純子の腰の辺りを抱きかかえた。武道の修練の賜物か、
軽々と――少なくとも見た目は――持ち上げる。
仕方なく、道路に足を着く純子。相羽の方を振り返ると、彼は腰を折って水
の流れを凝視している。純子は、その背中の向こうを覗こうと、首を伸ばした。
それが叶うよりも早く、相羽は右手を前にやり、何かを水の中からすくい上
げる仕種を見せた。
「え」
向き直った相羽の手の平には、間違いなく、純子のお守りが乗っていた。
純子は思わず両手を地面に着き、その巾着袋をしげしげと見た。雨粒を吸っ
て、袋の布が変色していく。
と、雨がやんだ。
いや、違った。相羽が傘を拾って、上から差し掛けたのだ。
「少しでも濡らさない方がいいだろ」
「――嘘みたい。奇跡だわ」
「奇跡なんかじゃ、ないよ」
感嘆の息をこぼした純子に琥珀のお守りを渡し、しっかり握らせると、相羽
は溝から出た。
それから、道路にへたり込んだまま袋の中の琥珀を確認する純子に近付き、
傘を持たせた。
純子の方は、すぐには立てない。見つかった嬉しさと安堵感から、涙がこぼ
れる。雨と混じって、くしゃくしゃになる。
「見つかって、よかった……出て来ないんじゃないかと思ってた。あきらめか
けてたのに……よかった」
「――早くお母さんを安心させないと。純子ちゃん、家まで送るよ」
「うん。だけど……」
純子はやっと落ち着いて、自分自身を見下ろした。服も髪も、びしょ濡れだ。
しかも、ブラウスが透けそうになっている。
「こんなひどい格好で帰ったら、余計な心配させちゃうかもね。あは」
疲れた笑みをこぼした純子に、相羽はしばし思慮し、思い切った風に言った。
「じゃあ、僕の家に来る? 髪を乾かすくらいはできる。着替えがいるなら、
母さんが預かったままの服がある」
「預かったままの服」とは、モデルをした関係で純子がもらった衣装のこと。
もらい過ぎを気にして、受け取るのを断った服が、相羽の家に置いてあるのだ。
「……いいの?」
「来てほしいんだ」
返事を待たず、歩き出す相羽。追った純子に、冗談めかして付け加える。
「モデルさんが、そんな格好してちゃいけないしね」
身心ともに疲れきっていた。実際、寒気を感じ始めていた。
シャワーの湯が、それらをほぐしていく……。
純子は充分に暖まって、人心地着けた。すると、次に来るのは、ちょっとし
た恥ずかしさ。相手から持ちかけられたと言っても、シャワーを借りて、服の
着替えまでするなんて、厚かましい行為には違いない。
バスルームを出ると、純子は手早く身体を拭き、新しい服を着て、髪にドラ
イヤーを当てた。生乾きの状態で、脱衣所を退出する。手には、雨をたっぷり
含んだ衣類を入れた、グリーンのビニール袋。もちろん、琥珀のお守りは、今
着ている服に移しておいた。
相羽は自分の部屋に閉じこもっていた。扉をノックすると、「上がった?」
と声があって、しばらくして相羽が出て来た。
「あ、あの。ほんとにありがとう。これ以上迷惑かけられないし、私、帰るね。
おばさまによろしく言って――」
「迷惑じゃないよ」
相羽の眼差しと口調が、すぐに帰らなくてもいいじゃないかと語っているよ
うだった。決して、純子の気にせいじゃない。
「だけど、早く帰らないと、お母さんが心配する……」
「電話したから、もうしばらくは平気だろ」
「それは、そうかもしれないけれど」
ビニール袋を持ち替え、時計を見やる。およそ五時四十五分。
「相羽君も、雨に濡れて、寒いでしょ? シャワー浴びないと……」
「もういいよ。着替えて、頭を乾かしたから。それよりも、琥珀について、君
に説明しなければいけないことがあるんだ」
「琥珀のことで?」
聞き返した純子を、ダイニングへと促す相羽。「座って」と言ってから、電
子レンジを操作した。一分ほどして、中から取り出したのは、ホットミルクの
入ったマグカップ。懐中時計を持ったうさぎがデザインされている。
「飲むでしょ」
「え、あ」
戸惑う内に、目の前にマグカップを置かれた。
「……いただきます……」
カップを両手で引き寄せるが、すぐには口を着けず、手の平で囲む。安らぐ。
身体はまだ暖かさを必要としているようだ。
相羽は、純子の正面の椅子に座ると、単刀直入に切り出した。
「さっき、琥珀のお守りを見て、変な感じがしなかった?」
純子は瞬間的に考えたが、何も浮かばないので、琥珀のお守りを取り出し、
テーブルに置いた。先ほど、多少濡れて黒ずんでいた布地が、今は乾いて元通
りになった他は、特にない。
「分かんないわ」
首を振りながら、純子。
相羽は続きを話そうか、逡巡する風に上目遣いで天井を見、鼻の頭をこすっ
た。が、程なくして喋り出す。
「溝に落ちていた割に、濡れてなかったと思わない?」
「あっ! 言われてみれば」
純子の背筋が伸びる。お守りに視線を落とすと、拾った直後の映像が、鮮明
に蘇った。相羽の言う通り、ほとんど濡れていなかった。
「実は、あの場所で拾ったんじゃない」
「え、どういうこと?」
「元々持っていたのを、手先の動きで、あそこで拾い上げたように見せかけた
んだ」
説明を聞けば聞くほど、困惑が深まる。きょとんとして、目を大きく開いた
純子に、相羽は頭を下げた。
「言うのが遅れて、ごめん。今日、学校から帰ってきて気が付いた。うちのト
イレに、そのお守りが落ちてた」
「ええ? 何で、そんなことに」
「前に純子ちゃんが辞書を返しに来てくれたでしょ。多分、そのときに、トイ
レを使って」
「――あー!」
思い出したっ。
(トイレを借りて、手を洗って、そのとき、手拭いが真新しかったから、私、
ハンカチを使ったわ。取り出した拍子に、琥珀を落っことしてしまった?)
「で、でも。あれって、土曜よ。すぐ気付いてくれてもいいと思うのに……」
「袋ごと、マットと壁の隙間に隠れちゃってて……。それに、忙しくてこのと
ころ掃除してなかったし」
それなら仕方がない。と言うよりも、落とした自分が悪いのだ、と純子は反
省した。
けれども、まだ分からない点が残る。
「そういう事情だったのなら、どうして、わざわざ溝の中から見つけたような
ふりをしたの? 最初から、家に落ちてたって言えば……」
「あのとき、そうしていたら、君はすぐ信じていたか?」
少し怒ったようにも聞こえる、相羽の口調。横顔が赤らんでいた。
「こんなこと、いちいち説明したくないけれど……純子ちゃんが、あんな溝の
中を探すことを、すぐにやめさせたかったんだ。必死になってる君をやめさせ
る一番の近道だと思ったから、水中から拾い上げたように見せかけた。以上、
終わり!」
「……ごめんなさい。ありがとう」
相羽の心遣いを感じ取れなかった自分を恥じて、純子は頭をぺこりと下げた。
起こした拍子に、手が動いて、カップの牛乳がさざ波を立てる。
「謝んなくていいよ。すんだことだし……僕も嘘ついたんだし」
「でも、とにかく、ありがとう。この琥珀を持って、駆け付けてくれなかった
ら、私、いつまでもずっと雨の中、探し続けてたかもしれない」
吐息混じりにつぶやいた純子は、はたと思い当たった。
(どうして、相羽君が来てくれたの?)
琥珀を探していた自分に、その探し物を届けに来たかのように現れた。あま
りに自然なつながりだったから、当たり前のこととして受け入れていたけれど、
考えてみると不思議だ。
純子が聞いてみると、相羽は明瞭な返事をよこした。
「今日、それを見つけて、すぐさま届けようと純子ちゃんの家に電話したら、
急に出掛けたと言うから。その、ひょっとして、琥珀を探してるんじゃないか
と思って、とにかく君の家に向かったら、途中で会えた……てなところかな。
あと、淡島さんの占い」
「淡島さんの占いって?」
いきなり友達の名を出されて面食らう。
「純子ちゃんが友達の家に行ってるかもしれないから、心当たりに電話をかけ
てみたんだ。そのとき、淡島さんがね。占いをして、近くにいるんじゃないか
って言うから。まあ、当たっててよかった、骨折り損のくたびれもうけになら
なくてさ」
快活な笑い声を立てた相羽。
(占いを信じないタイプだって、自分で言ってたのに)
内心、微苦笑を浮かべてしまう。加えて、嬉しくもあった。
「私にとっても、助かったわけね。ずぶ濡れになって探した甲斐が、少しはあ
ったわ。ほんと、凄く大事な物だから、もしもなくしたり壊したりしたら……」
「……」
相羽は純子の台詞のあとを引き継ぐかのように、口を開きかけたが、じきに
つぐんでしまった。
手元に視線を落としていた純子は、その様子に気付かずに、マグカップを両
手で持ち上げ、ぬるくなったミルクを一口飲んだ。相羽の言葉だけで充分復活
していた純子には、ただのミルクだったけれど。
「あの子にも申し訳立たないものね」
独り言のように、純子。相羽は、それできっかけを得た。
「ところでさ……琥珀をくれたの、香村じゃないって?」
「あ、そのこと。ん、多分、香村君とは違う」
純子がまたカップを口に運ぶ。さっきと違い、一気に飲んだ。香村のついた
であろう「嘘」をいっとき忘れるために、かもしれない。
相羽は、純子がそう判断したわけを聞こうとはせず、無言で何度かうなずい
た。頬杖をつき、見た目に分かるかどうか微妙な程度に、目尻が下がっている。
どことなく、幸せそうだ。
純子はカップを手にしたまま立ち、台所の流しに向かった。
「貸してね。洗うから」
「え、あ」
幸せそうにしていた相羽が、手の平から頬を離し、慌てて立ち上がった。
「そんなこと、しなくていいのに」
相羽が言ったときには、もう蛇口から水が流れ始めていた。水音にまじり、
スポンジでカップをこする音が、きゅっきゅと響く。
純子はやがて、水切りのトレイに、カップを逆さまに置いた。
「いいじゃない。これくらい」
振り返り、腰に両手を当て、首を傾げた。乾かしてさらさらの長い髪が、雄
クジャクの自己主張のように流れて広がる。
相羽は肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。
「ま、いいか」
――つづく