#5098/5495 長編
★タイトル (AZA ) 00/ 6/29 11:25 (181)
そばにいるだけで 49−6 寺嶋公香
★内容 16/06/14 01:13 修正 第2版
見上げるまでもなく、空が暗くなったのには気が付いていた。日没にはまだ
早いが、雲が広がり始めているのだ。
「どうしよう」
心細さが言葉になって表に出る。
(落としたんなら、この辺りのはずだわ。探して、見つけなくちゃ!)
探照灯のように視線を地面に当てる。当てながら、ゆっくりと前進する。気
が急いているだけに、つい早足になってしまいそう。
これではいけないとしゃがみ込み、膝を抱えて一所に落ち着く。
車道や歩道の上にないことは、すぐに分かった。しかし、道に沿って小さな
川――水路が設けられている。もちろん、水が流れている。その向こうには、
草むらの残る箇所もちらほらあった。
草の根を分けて探す労は厭わない。たとえ水路に落ちていても、拾う。ただ、
もしも水の勢いで流されてしまっていたら。あの日、強い雨が長く降り続いて
いたし……。不安が悪い方に際限なく膨らんでいく。
純子は目を瞑り、首を左右に振った。
(何としてでも見つけなければいけないのよっ。流されてたって、見付かるま
で追い掛ける!)
意を決し、純子は地面に膝をつき、水路を恐る恐る覗き込んだ。そこに琥珀
があってほしいような、なくていいような。
純子の視界に、巾着袋はなかった。
ほっと安堵したのはほんの一瞬で、探索に集中する。水路の一部にはコンク
リートの蓋を被せてあるため、その下は身を逆さに乗り出すようにして覗く必
要があった。
純子が片手を溝の側面に当て、覗こうとしたとき、決心をくじく音が、空の
彼方から届く。
びくりと身を震わせ、動きを止めた。それから身体をコマ送りのような動作
で起こして、暗い空を見つめる。
(やだ、雷? い、急がなくちゃ)
急ぐことで見つけ出せるのなら、苦労はない。
実際、純子は徐々に近付く雷の音に怯えて震えそうになるのをこらえつつ、
必死の思いで琥珀を探した。それにも関わらず、見つからない。
その内、頭上には明らかな雨雲が垂れ込めていた。渦巻くような動きを見せ
ている。ちょっとしたきっかけで降り出しそうだ。
(傘じゃなくて、レインコートにすればよかった)
心の中では弱音を吐いたが、帰るつもりはない。意地になって、溝を覗き込
んだ。それを待っていたかのように、大きな雷鳴が鳴り響く。身体が勝手に震
えて、危うく水路にはまるところだった。
「ないわ」
唇を噛む。草むらに目を移した。どちらを優先して調べるべきか、迷う。
ためらう純子の鼻先を、冷たい物がかすめた。
とうとう降り出してきた。分かっていても、見上げてしまう。勢いはごくご
く弱いが、雨粒自体は大きいような気がする。
純子は鼻の頭を手の甲で拭って、草むらに移動した。巾着袋が濡れると、土
の色と見分けが着かなくなる。だから、先にこちらを探そうと思った。
傘を開かぬまま、十分近くかけて、巾着袋を隠せそうな草むらをあちらこち
ら、かき分けてみたが、これもまた徒労に終わった。
(ここじゃないの? でも、でも、落とすとしたら、あのときしかないはずな
のに。他にある?)
よそで落とした可能性を考える純子の身体を、雨が冷やしていく。半袖なの
で、一層冷たく感じる。やっと傘を開いた。
(だめ、他に浮かばないよ……。けれど、ここを探すとしたら、あとは溝を流
されていったとしか)
弱気になる。身震いして、二の腕を両手で抱えた。いつの間にか、雨の勢い
がきつくなって、アスファルトを激しく叩く音がする。水滴の当たった肌に痛
みを感じるのは、弱気のせいだろうか。
純子は頭を振った。髪先から、しずくが四方に散る。
(今やめて、帰ったら、もう見付からなくなる。完全に流される)
決心して、純子は水路の内側に降り立った。
蓋をしてある領域も、傘を置いて、しゃがめば入れないことはない……。
* *
(あ、雨か)
相羽は用があって、純子の家に電話を掛けた。雨音に気付いたのは、そのと
きだった。
(雨なら、母さん、早く帰って来るかも。夜景の撮影だって言ってたからな)
嬉しくなったところへ、相手側の送受器の持ち上がる音が届いた。出たのは、
純子の母親だ。
相羽が名乗ると、用件を切り出すより先に、純子の母から尋ねられた。
「相羽君、純子がお邪魔してないかしら?」
「いえ。見えてませんが」
「そう……どこ行ったのかしら」
消え入りそうな声だったが、相羽はしかと聞き届けた。
「どうかしたんですか?」
「あの子ったら、二十分ほど前に、急に出かけたのよ。もう夕方だからって引
き留めたのに、飛び出しちゃって。それで、この雨でしょう。少し心配になっ
てきて」
「行き先を言わずに、ですか……」
相羽も不安に駆られた。
ただ、真っ先に浮かんだ想像は、香村と会っているのではないかというもの。
「突っ込んだ話をお聞きしますが、服装はどうだったんでしょう?」
香村と会うなら、それなりに着飾るのではないか。相羽は予想した。
「それが、本当に普段着のまま。ブラウスに、下はスカートだったかしら」
その返答に、相羽は香村の存在を頭から消した。
「あの、傘は」
「玄関を見たら、あの子の傘がなかったから、持っていったんじゃないかしら」
「僕以外に、友達の家に電話されたんでしょうか」
「いいえ、まだなのよ。どこか心当たり、あるかしら?」
「じゃあ、僕の方で、電話してみます。――あっ、仕事の関係で急遽出かけた
ということは、ありえませんよね」
「だと思うわ。純子が仕事のことで、黙って出て行くなんて、今までなかった
んですもの」
「分かりました。あとでまた連絡すると思います」
当初の用件を放置し、相羽は電話を切ると、送受器を握ったまま、町田の家
の番号を押した。何度目かのコールで、本人が出た。純子が来ているかどうか
を聞き、答がノーだと知ると、相羽は状況を伝えた。
「純がどこに行ったのか分からないってわけ?」
「うん。女子達で、何か約束してたんじゃないのか?」
「何にも」
「富井さんや井口さんの家に行ってる可能性は、ない?」
「ないとは言い切れないけれど。夕方のこんな雨の中、飛び出していかなきゃ
ならない用事はないと思うわ」
「念のため、町田さんも心当たりに、電話なり何なりで確認してみて」
「分かったわ」
相羽はこのあと唐沢にも、同じような電話を掛けた。さらには、学年名簿を
持ち出し、結城や淡島にも伝えた。
そして自分自身は、純子の家に電話した当初の用事に立ち返り――外に出よ
うと思った。母には、置き手紙をしておけばいい。
とにかく、予感があった。
(近くに来てるのかもしれない)
漠然としたものではなく、ある程度、筋道の通った予感が。
家を出ようとした刹那、電話の呼び出し音がした。片方だけ履いた靴を脱ぐ
のがもどかしくて、けんけんをしながら電話のある場所までたどり着く。
送受器を取るなり、向こうから名乗った。
「こちら淡島です」
いつもの平板な口調に面食らいながら、相羽は聞き返した。
「あ、淡島さん? 涼原さんのことで何か分かったの?」
「分かったと言えばそうなるけれど……でも信じてない人には、何にも分かっ
てないことと変わりないの」
理解しづらい言い回しだ。相羽は壁に手を突き、再度の説明を求めた。
「先ほど電話をもらってすぐ、涼原さんの居所を占ってみました」
「占い? ああ、なるほど」
淡島が占い研究会所属であることを思い出した相羽。どちらかと言えば信じ
ない方の彼だが、今は場合が場合だ。たとえ気休めに過ぎなくても、いい話を
聞きたい。
「結果はどう出た?」
「それが、地図を見ると、相羽君の家の近くにいるみたい」
「えっ?」
驚く。自分の予感と一致するから。
(本当にいい話を聞けた!)
密かにガッツポーズをする相羽。
「もしもし、相羽君? 聞いていますか?」
相羽の短い叫びを、淡島は信じていないものと受け取ったらしく、詳細を呪
文のように唱え始めた。
「私の家を基点と見立てて、北東の方角、距離は――」
「ああ、ありがとう。僕もそう思っていた。これから探しに、飛び出すところ
なんだよ!」
「それはよかった。あなたもちゃんと、“感じて”いたんだわ」
すぐには把握できないことを言う。占いに凝ると、どこか運命論的、神懸か
り的になるものなのだろうか。
「淡島さん、知らせてくれてありがとう。探しに行かなければいけないから、
これで」
「がんばって。でも、きっとすぐに見つかるわ。何故なら――」
「そうだといいな」
相羽は悪いと思いつつも、時間の経過が惜しくて、半ば強引に電話を切った。
そして玄関で靴をきちんと履き、傘を念のため二本掴むと、純子を見つけるべ
く、雨の中へと駆け出していった。
「先だって、恋占いをしてみたら、涼原さんと相羽君の相性は、この上なくよ
く、引かれ合っていたのだから」
淡島が電話口で続けようとした言葉は、聞いても聞かなくても、一緒だった。
* *
開いたままの傘を道端に立て掛け、路面に手をつき、左の靴底が溝に触れた
のと全く同時だった。
「純子ちゃん!」
聞き覚えのある声がした。
しかし、純子は自分を呼ぶ声だと認識できない。かまわず、右足も溝の底面
に着いた。流れの勢いを感じる。水面に、いくつもの雨粒の跳ねるさまが、絶
え間なく見られた。
屈もうとしたとき、先ほどと同じ声が、今度はほぼ真上から降ってきた。
「何してんだっ? 危ない、上がれ!」
動きの止まった純子の肩を、声の主の手が掴む。力強く、引き戻された。
振り返る。
相羽の姿がそこにあった。
「濡れてる……。こんなことやめて、上がろう」
「――お守り、探さないといけない」
純子の返事は生気に欠けた口調だった。唇が小刻みに震える。相羽も溝の中
に降り立ち、聞き返した。
「お守り? 琥珀の?」
「そうよ。あれがないと、だめなの!」
手を振りほどこうとした純子にそれをさせず、相羽はなおも引き留めた。
「探さなくていいよ」
「いるのよ! 大事な物なんだからっ」
いやいやをする幼子みたいに首を振り、全身を強張らせる純子を、相羽は正
面を向かせ、両肩を掴んだ。そうして、目を覗き込んで、重い調子で尋ねる。
「香村から、もらった物だからか?」
「――違うわ。香村君じゃない。くれたのは、あの男の子なの! 恐竜展で私
を助けてくれた、優しくしてくれた、あの男の子!」
――つづく