#5096/5495 長編
★タイトル (AZA ) 00/ 6/29 11:22 (200)
そばにいるだけで 49−4 寺嶋公香
★内容
「特に優しい曲のときの相羽君の演奏、とっても素敵なんだからっ。身体に染
み込んでくるの。心をやわらかく包み込んでくれるような」
焦れったくなった。言葉をいくら紡いでも不充分。
「私はくじけそうなとき、あなたの演奏を思い出しているのよ」
本当のことだ。ただ、思い出すのは相羽の演奏だけでなく、相羽の全てであ
るかもしれないけれども。
「ありがとう」
相羽が言った。横を向いたのは、照れ隠しに違いない。
二人はお喋りを続けた。高校に入って勉強はどうだとか、天文部の望遠鏡っ
て案外小さいねとか、化石発掘ツアー参加の話はどうなったの?とか。あるい
は新しい友達について。
そして話の流れは、中学のときの友達に行き着く。
「町田さん達とは、どうしてるの? たまに帰りが一緒みたいだけれど」
「うん……前ほどは会ってない。相羽君だって同じじゃない?」
「確かに。電話をするぐらいかな。まあ、いい方に考えるなら、会わないほど、
同窓会したときに懐かしさが膨らむ」
「あは、そうだといいね」
軽い口調の純子だったが、心中では真剣に願っていた。
(同窓会なんかじゃなく、今すぐにでも郁江達と笑って話ができるようになり
たい)
そう思うと、この状況にいたたまれなくなる。でも、雨は降り続いていた。
純子は顔を若干赤らめ、唐突に立った。
「お、お手洗い、貸して」
「――どうぞ。場所は変わってないから」
少しだけ目を丸くして、相羽。
トイレがどこにあるのか、これまで何度か使ったことがあるから、知ってい
る。純子は用もないのに中に駆け込み、鍵をした。
(ほんのちょっとだけでも、離れていよう)
免罪符になるとは思ってない。自己満足でもいいから、富井や井口を裏切ら
ないため、とにかく何か努力したい。
と、物思いに耽るに任せ、長く座っているわけにもいかない。三分もたずに、
純子は出て行くことにした。一応、水を流し、手を洗う。替えたばかりと思わ
れるタオルを前に、気が引けて、純子は自分のハンカチを使った。
元の部屋に引き返すと、相羽はこちらに背を向けて、キッチンで何かごとご
とやっていた。純子は少し身体を傾け、洗い物だと知った。その割に、やかん
の載ったガスコンロに火が点いている。
「相羽君」
「あ」
今初めて気付いた風に、肩越しに振り返る相羽。その間も、両手はちゃんと
動いている。無駄な動きがない。調理部時代の成果が出ているようだ。そこは
かとなくおかしい。
「なかなかやまないね。お茶でも入れて、時間を持たせないと」
「いいわよ、おかまいなく」
「ダイエットなんか、してるの?」
前に向き直って、相羽は作業を続ける。手の水分をすっかり拭うと、紅茶の
準備を始めた。純子は仕方なく席に着いて、両腕をテーブル上で伸ばした。
「してないわよ。どうして、そんなこと聞くの?」
「モデルというと、節制をしてるものかなと」
「おあいにくさま。私は半人前ですから、ダイエットできるほど意志は強くあ
りません――なんちゃって」
純子のジョークに、相羽は肩を揺らした。
「他の人が聞いたら怒るよ、きっと。真面目な話、売れてるっていう自覚を持
たないといけない。モデルにしろタレントにしろ、あるいは歌手にしろ」
「それ、おばさまが言ってたの?」
上半身を起こして首を傾げた純子の問い掛けに、相羽は「まあね」とだけ答
えた。やかんが蒸気を噴いて音を立てている。
紅茶を入れにかかった相羽の邪魔にならないよう、純子は口をつぐんだ。左
右とも頬杖をつき、この風景を楽しく感じる。
(こういう状況って、普通、女の私がお茶を入れる立場かしら。それを相羽君
が見つめてる……)
そんなことを思って、苦笑顔で首を振った。頬杖を解いて、顔を手でこする。
少し、頬が赤くなったかもしれないと感じたから。
程なくして、紅茶一式が運ばれてきた。お茶請けとして、あの手焼きのクッ
キーが添えてある。食べてみると、変わらぬおいしさだった。
「万一、太っても責任持たないよ」
「あはは、持たなくても大丈夫よ。相羽君こそ、もうモデルはしないの?」
「え、何て?」
カップ片手に相羽は怪訝な顔をした。純子の方も似たような表情になる。
「忘れたの? 一年くらい前に、やったじゃない。口紅のポスターで、私と一
緒に。ヘアピース着けてさ」
「ああっ! あれかあ」
顎を天井に向けて、後ろに反り返る相羽。馬鹿負けしたみたいに、大きな笑
い声を立てた。
「あれこそ正真正銘のピンチヒッター。モデルじゃない」
「あら。最初は私も同じピンチヒッターだったのよ。この先、どうなるか分か
らないと思わない?」
「思わない」
きっぱり言い切った相羽。雨足が強まる中、紅茶をすする音が不思議とよく
聞こえる。
「つまんないのー」
「……そりゃあ、前みたいに、緊急の必要性があって、僕が役立てるようなケ
ースがまたあるのなら、協力する。言うまでもないでしょ。プロのモデルにな
る気はないよ。なれるかどうかの前に」
「私にはさせておいて、ずるいなー」
「何言ってるのさ。自分で決めたんだよね?」
「えへへ、そうです」
頭をかくポーズをしながら、感じる。相羽との会話は、どう転んでも楽しい
方向に行くような気がする、と。
「ほんと、やまないな」
磨りガラスの窓へ振り返りながら、相羽が呟いた。
「ゲームでもする?」
「え。相羽君て、ゲーム持ってたの? 見たことなかった……」
「持ってるよ。あんまりやらないけれどね。特に最近は、ゲーム機、仕舞い込
んでしまって」
「もったいない。どうして」
「やり始めたら、熱中しちゃう方だから」
この説明だけでは不充分だ。純子は小首を傾げ、透明な疑問符を浮かべた。
「……万が一、指を痛めたら、ピアノの練習に差し支えるだろ」
「そっか。――じゃ、じゃあ、武道はもうやめたのね?」
「道場には行ってない。でも、基本的なトレーニングは続けてる。走り込みと
か柔軟とかね」
「それは、何のため?」
「いざというときのため。継続的に動かしていないと、どんどんなまってしま
うし、勘も鈍るだろうから。気休めだけどね」
相羽が武道を始めた大元の動機は、母親を守れるようになりたい、だった。
それを思い出して、純子は納得した。
そのとき、相羽がぼそりと付け足す。
「日頃から鍛錬しとかないと、ボディガードは務まらないし」
「――さっきの話、覚えてたのね? ボディガード」
「う……ボディガードなんか、必要にならない方がいいんだよ」
顔を逸らしかけたが、踏みとどまって、相羽は応えた。平静を取り繕って、
紅茶の残りを呷る。でも、少し咳き込んでいる。
「相羽君」
「何?」
「ううん。何でもない」
純子は、嬉しさをその表情の下に隠した。嬉しくて、つらいから。
雷が完全に消え去り、小雨になったのを機会に、純子は相羽の家を辞去した。
そして、エレベーターで一階に着くなり、外へダッシュ。
ちょっとくらい、濡れるのがいいだろう。傘は折り畳まれたまま、手提げの
中。ぶらぶら揺れている。
(こんなに長話ししちゃった。私って、意志弱いのかなぁ……。こんなのじゃ
あ、郁江達に許してなんて、とても言えない)
今できるせめてもの償いとして、一刻も早くマンションから遠ざかろうと、
懸命に走った。一目も気にせず、全力疾走。
走り疲れて、曲がり角の手前で立ち止まり、両膝に手を置いて、呼吸を整え
にかかる。
そのとき、純子の目の前に、覆い被さるようにして影が差した。
あっと思った瞬間にはもう遅く、ぶつかられた。バランスを崩し、アスファ
ルトの上に尻餅をつきそうになるが、どうにか両手で支えることに成功。それ
でもまだ乾ききっていない道路には、小さな水たまりがいくつもあって、小さ
な飛沫を浴びてしまった。
「ああ、失礼!」
一メートルほど行き過ぎた地点で、スーツ姿の初老の男性が両手をわななか
せている。白髪の方が多い頭、鼻髭を蓄えた容姿は、普段は落ち着いた風格を
備えているに違いない。それが今は、見た目にもおろおろした態度が明らかで、
よほど動転しているのだろう、純子が起き上がる頃になって、ようやく駆け寄
ってきた。
「すみません、お嬢さん。急いでいたもので」
手を差し伸べて、引っ張り起こしてくれた。
「申し訳ない。お怪我はありませんかな」
「はい、何とも」
答えながら、自分の手の平を見る純子。砂粒に近い小石が多少付着しており、
わずかながら擦りむいたと分かった。
その有り様は、相手の男性にも見えたらしい。眉を寄せ、慌てながらもグレ
ーのハンカチを取り出し、純子の手の平に当てる。
「これは悪いことをしてしまった。本当に申し訳ない」
「あの、平気ですから。お急ぎなんでしょう?」
「それはそうなんだが……しかし、着物も汚れてしまったようだし」
初老の紳士は、懐に手を入れると大ぶりの財布を取り出した。そこから一万
円札二枚と名刺を一枚抜き、純子に渡そうとする。「え」と両手を振って断ろ
うとする純子に、男性は改めて言い添える。
「時間がなく、こんな形になってお恥ずかしいのだが、治療費とクリーニング
代を含めたお詫びに」
「そんな。いただけませんっ」
「気にしなくていい。頼むから、受け取ってくれたまえ。何か問題あったら、
あとでその番号に電話してくれてかまわないから。急いでいるので、これで失
礼するよ」
「あ、あの!」
早口で言い置いて、駆け足で去る男性。純子がいくら呼び止めようとしても、
もはや振り返ることはなかった。
(……こんなことされても、困る……)
手元に残った名刺とお金を見下ろした。
名刺には、種村遥輔(たねむらようすけ)とあった。大学教授で、専門は地
質学と記されていた。
今日の下校は女子だけの形になっていた。
結城や淡島と一緒に駅内に入る。上りも下りも来るまでには、まだ時間が少
しあると分かり、プラットフォームに出ずに座って待つことにした。
「なーに、あの宿題の量? 先生、機嫌悪かったんじゃないかしら」
本日最後の授業で、英語の先生が普段に倍する課題を出したことを、結城は
口をへの字に曲げて嘆くと同時に、勝手な憶測をした。
「恐らく昨晩、奥さんと口げんかして、言い負かされたんだ、あれは。それが
原因でなかなか寝付かれず、朝になっても気分が優れない。私達に宿題を大量
に出して、鬱憤晴らししてるんだわ」
「あはは、まさか」
純子が笑って受け流したのに対し、淡島は「当たってるかもね……」と抑揚
を欠いた口調で応じた。結城は結城で派手に笑い声を立てながら、
「まあ、いざとなったら、純子に教えてもらうからいいか。その節はよろしく」
と、純子の手を両手でしっかり握る。
「何で? 私、そんなに得意じゃないよ」
「だから、純子は分からないとき、相羽君に聞くでしょ? 相羽君て、凄く英
語得意らしいじゃないの。聞いたわ」
「だ、誰から」
「さあ? 多分、唐沢君が話してるのを小耳に、だったと思うけれど」
「た、確かに、相羽君は英語喋れるくらいよ。でも、いっつも頼ってばかりも
いられないじゃない」
「そんな、もったいない」
淡島が後ろから、おんぶお化けみたいに両手を肩に回してくる。
「折角、いい話を聞けたと思いましたのに。涼原さんにはぜひともこのルート
を活かしてもらいたいですわ」
「そう言われても」
はっきりした返事をしにくい純子は、電車が入るというアナウンスに救われ
た。逃れるようにベンチを立ち、「じゃあね、ばいばい」と二人に手を振る。
車内は冷房が効いて、ひんやりとしていた。肌寒いくらいだ。それでも、湿
度の高い外から来た者にとっては心地よい瞬間。思わず、軽く伸びをした。
「純」
いきなり呼ばれて、慌て気味に振り返ると、町田が近くまで来ていた。
――つづく