#4895/5495 長編
★タイトル (AZA ) 99/ 7/31 10:24 (200)
そばにいるだけで 38−9 寺嶋公香
★内容
もう一つの問題の方は、精神的にもっと入り組んでいる。一旦は告白しよう
と決意したものの、万が一、J音楽院に通うことになったら……。
(離れ離れになる可能性があるのに、その前に告白するのはな。事情を正直に
話してから、気持ちを打ち明けるのもずるい気がする。どうすりゃいいんだよ、
まったく)
知らず、唇を尖らせていた信一。告白について悩む前に、まず純子と仲直り
しなくちゃ始まらないんだが、その点に関してはひとまず置く。
(純子ちゃんは今日、香村と会っているというのに、自分はまだ決心できない
でいるなんて。日本の音楽学校に何の問題もなく行けるなら、こんな心配しな
くていいのにな!)
「どうかしたのかい」
声にはっとして目を向けると、鷲宇が少々怪訝そうに瞬きをしていた。母親
までも、不思議そうに顎先に指を当てている。
どうやら、頭の中で悶々と考え込む内に、舌打ちの一つでも漏らしてしまっ
たらしい。相羽は軽く首を振り、頭をかいた。
そして正直かつ簡単に答える。
「将来について色々と」
* *
「純子、調子はどうだ」
勉強を終えて階段を下りていくと、珍しくも父が声を掛けてきた。
「え? 勉強のこと? うん、だいぶ取り戻したかな」
純子は母に頼み、小さなコップに牛乳を注いでもらってから、それを持って
父の隣に座る。
その間、テレビのボリュームを絞った父。
(あれ? 今夜はビール、飲んでないみたい)
テーブルにあるのはコーヒーカップだけだ。気付いた純子は、これは何かあ
るんだわと覚悟した。
娘の覚悟とは裏腹に、父はどう切り出していいのか迷う風に、髪や耳、鼻を
続けざまに触る。やがて思い切ったように始めた。
「何だな、もう夏休みが来るわけだな」
「? うん」
一瞬きょとんとして、とりあえず曖昧に返事しておく。
「おまえも中学三年生で、その、来年には卒業することになる」
「――お父さん、進学の話ね?」
察した純子が尋ねると、父は短い戸惑いのあと、笑みを広げた。
「まあ、それもある」
残っていたコーヒーを飲み、改めて話し始める。
「勉強……受験の準備は始めてるのか?」
「えっと、まだ本格的じゃないけれど。夏期講習から頑張る。遅い、かな?」
「いや、それでいいんだが。何て言うか、モデルとかタレントとかやっていて、
大丈夫なのかと少し心配でな」
「そのことなら。八月で一区切りするの。受験が終わって、それでもまだお仕
事もらえるようだったら続けるつもり」
自然と微笑する純子。この点、気持ちの切り替えはすでにできていた。
「なら、心配いらないか。母さんからも聞いたしな」
父は洋裁をしている母を一瞥した。
「聞いたって、何て?」
「前の面談で、今のまま調子を上げていけばまったく問題ないと、先生からお
墨付きをもらったと」
言葉を区切ると、父はまたコーヒーカップに手を伸ばした。今度は残ってな
くて、わずかなしずくを口で受け止めるに終わる。
「もう一つ、心配してるんだが」
「勉強で? 大丈夫、ちゃんとやる」
「ああ、それは信じてるよ。心配なのは……純子、最近、芸能人と付き合い始
めたんだって?」
「……お母さーん!」
口に運びかけたグラスを置き、純子は隣室を覗き込んだ。苦笑している母の
姿を捉える。
「付き合ってるなんて、言ってないでしょっ?」
「私も言ってないわよ。お父さんが勝手に間違えてるだけ」
「おいおい。これまでに二回も、その、何だ、デートしたって聞いたから。そ
ういうのを付き合っていると表現して、どこが悪いんだ」
娘、母、父の間で視線が巡回していく。
純子は拳を握って否定した。
「違うってば! 香村君とはそんなんじゃないの。一緒にドラマの仕事をして、
仲よくなった友達よっ」
「それじゃあ、何ともないんだな」
「何ともないって、どういう意味?」
分からなくて聞き返すと、対する父は「いや、まあ、あれだな」と語尾を濁
した。それから煙草を取り出し、純子に吸っていいか聞いてきた。
「いいよ。でも、こっちに煙を流さないで」
煙草に火を着けたあと、しばらく煙の動きを観察してから、父は座る位置を
移動した。ようやく会話再開だ。
「じゃあ、一般論として……一般論と言うのも変か。とにかくだ。純子は今、
付き合っている相手はいるのか、いないのか」
ストレートな質問に、純子は呆気に取られてしまい、答えるのが遅れた。
「いないわ。おかしな心配しないでよ」
「たまに来ていた彼はどうなんだ? そう、相羽君だ」
「友達!」
きつく言い置くと、純子はすっくと立ち上がった。もう付き合ってられない。
「ほんと、何でもないんだから、余計な心配しないで。相談したいことができ
たときは、ちゃんと言うから」
父のやや寂しげな「そうか」というつぶやきを背中で聞きつつ、居間を出る。
再び自分の部屋に戻り、机の前に座ると、出したままのノートや教科書を隅に
やり、両頬杖をついた。
(さっきはあんな風に言ったけれど、困ってることは困ってるのよね)
六月末、香村と会ったときのことが思い出される。
告白されて戸惑い、思考回路が一時的にショートしてしまった純子に、香村
は返事はいつでもいいと言い添えた。僕のこと嫌いじゃなければ、試しに付き
合ってみてほしいとも言ってきた。
(嫌いじゃないわよ……でも、私なんかじゃ香村君と釣り合い取れない。世界
が違うと思う)
純子自身も身体半分以上、芸能界に入り込んでいるというのに、自覚はない
みたい。
(私も香村君のファンだけど、付き合うとか恋人とかそういう感情とは別のよ
うな気がする。少なくとも今は恋愛の『好き』じゃなくて、ファンの『好き』、
だよね)
そう思っていても、試しに付き合ってみてという言葉には考えさせられる。
香村のアプローチの方法がうまかったと言えるかもしれない。すべて「試し」
なのだから。
また、これからも一緒に仕事をする機会があるかもしれないという状況が、
純子の心理にわずかではあるが影響を及ぼす。
(ルークのためを思ったら、仲よくした方がいいに決まってるよね。……市川
さん達、私が全然売れなくなったらどうなるのかしら? 他にタレントやモデ
ルを募集するつもりはないみたいだし。ルークを畳んで、元に戻れるのかな)
ここまで思慮するのは、中学生には荷が勝ちすぎる。純子は首を振った。
(変な風に結び付けちゃだめ。よくない。香村君は真剣なんだから――本当に
真剣なのかな? からかわれてるんじゃ……)
ドラマ出演をきっかけに香村と出会ってまだ間もない頃、散々からかわれた
記憶のせいで、今度の告白にもそんな気を抱かないでもない。
(芙美達から何度も言われていた、琥珀の王子様との再会だけど、あんまりロ
マンチックじゃないわ。もっと運命的なものを感じるんじゃないかって、結構
期待してたのに)
芸能界というフィルターを通したからと純子は思っていた。あらかじめ考え
ていた以上に俗っぽくて、競争も激しい。現実的すぎる世界に、ロマンを求め
てもしょうがないのかな、と。
(普通に再会できたらよかったのに。私には学校生活の方が向いてるわ)
そんなことを思い始めた途端、相羽の顔が心に浮かんだ。口喧嘩をしてから
二週間ほど経ったが、まだ仲直りできていない。
「どうしよう……」
ぽつりと小さくこぼれる言葉。ため息のように消えてなくなる。
(何でこうなの。つまんないことで喧嘩しちゃったな。早く元通りになりたい
のに、こっちから謝るのも変だし。だって、あいつがおかしなこと言うから)
眉間に小さくしわを寄せ、表情が曇りがちになっても、純子は気付かない。
(理由もなしに、香村君を悪く言うからよ。いくらあいつでも許せない。私、
間違ってないわよね? ……でも、琥珀のことにあんなにこだわるなんて、ど
うして? 何か事情があるみたい……けど、今さら聞けない)
気掛かりはもう一つあった。
相羽の忠告が頭にあったせいでもないのだが、恐竜展にまつわる香村の話を
注意深く掘り起こしてみた。
(聞いた直後も変に感じたけれど、新種の化石について全然触れないのは、ど
うしても不自然な気がする。忘れるはずないと思うもの)
しかし、香村を疑うまでには至らない。そんなことをされる理由に思い当た
らないから。
(折角話ができたのに、前よりももやもやしてきちゃった。どういう意味なの
か教えてよ、相羽君)
悩みごとなぞお構いなしに、テスト期間に入り、試験準備が足りていないと
感じている純子は、急ぐあまり靴を荒っぽく履いた。
「あっ、と」
駆け出そうとして、危うくつまずきかけた。右足が釘付けされたように突っ
張る。床に目を落とすと、右の靴紐がほどけていた。それを踏み付けていた左
足を動かし、右膝を立ててしゃがむ。
「そこにいられると、靴が出せないんだけどな」
唐沢の声に、靴紐を結ぶ途中で真上を見やる純子。
「あ、ごめん。すぐ退くから」
床に置いた鞄に手を伸ばそうとしたところへ、唐沢が「いいって。ゆっくり
結んでよ」と機嫌よく応じる。
「その代わり、ちょっとだけ付き合ってくれると嬉しい」
「え、私、帰って勉強しないと」
「なら、途中まで一緒に帰る。いいだろ?」
「じゃ――行きましょ」
純子は靴紐を結び、鞄を持って立ち上がった。唐沢は先んじると、肩の高さ
にした左腕を使って昇降口のガラス戸を押し開けた。
「どーぞ、すっずはらさん」
「あ、ありがと」
純子を送り出すと、唐沢は静かに、しかし可能な限り早くドアを閉め、急ぎ
足で追い付いた。
「珍しいね、涼原さんが一人で帰ろうとしてたのってさ」
「そうかな? 急いでたら一人よ。今日みたいに勉強しなくちゃ行けないとき
や、モデルの仕事があるときなんか」
「なるほど。俺が見てなかっただけかぁ」
あっさり認めると、唐沢は学生鞄を握る両手を後頭部に持って行き、空を仰
ぎ見た。半ドンなので太陽はまだ高く、空も青い。風景だけ見ていれば涼しげ
でさえあるが、実際は夏特有のじめっとした空気が停滞している。
「一人で帰るのが珍しいのは、唐沢君の方じゃないかな?」
「えっ?」
「私が見てるときは、いつも女子と一緒。人数は、そうね、常に三名以上。ク
ラスも学年も自由自在」
「ありゃま。見られてるもんだ」
おどけて自らの額を叩く唐沢に、純子は思わず吹き出した。おかげで憂さが
少し晴れたかもしれない。
「あれが俺の本質だと思わないでくれよ」
「じゃあ、どんな本質? ふふっ」
「うーむ、一言では説明しにくいが……これと決めたら一つに打ち込むタイプ
と言えば近いかな」
純子を横目でちらと一瞥した唐沢。
「――あれ?」
一方、純子は不意に声を上げて、腕を伸ばすと角を示す。
「あっちでしょ、唐沢君の家」
「もうしばらく付き合うよ。よかったら、最後まで送ろうか」
「私がよくても、唐沢君がよくないんじゃあ……」
「いいからいいから。話の途中でやめられない」
唐沢の台詞に、小首を傾げた純子。
(話の途中って、そんな大事な話をしてたかしら?)
疑問が解けぬまま、唐沢のお喋りは続く。
「実はさ、心配したんだ。涼原さん、誰かと喧嘩したんじゃないかなってね」
「……あは、そんなことないわ。郁江や久仁香とは仲よくやってまぁす」
鈴の音のような笑い声を立てた純子。が、唐沢は対照的に抑えた口調に。
「あーあ、あいつを無視する気かい? 俺が言ってるのは、調理部唯一の男子
部員のことだぜ」
「……もうっ。唐沢君まで、やあねえ。私が相羽君とちょっと話をしなくなっ
たからって、何で気にするのよ。女子と男子って、元々そんなに話しないじゃ
ない? 普通になったと思えばいいんだわ」
早い口回しになったのに気付いて、純子は話すのをぴたりとやめた。
唐沢は片目を瞑り、手で頭やこめかみをしきりにかいた。
――つづく