#4896/5495 長編
★タイトル (AZA ) 99/ 7/31 10:25 (200)
そばにいるだけで 38−10 寺嶋公香
★内容
「まあな、俺としてもどうでもいいこと。都合がいいくらいだ」
「――それってどういう……」
「だけど、何となく気に入らないんだよ。こういうのは、俺は好きじゃない」
「な、何言ってるの、唐沢君?」
徐々に語気を強める唐沢に、純子は思わず息を飲んだ。いつの間にか前に回
り込んだ唐沢と、向き合う形で言葉を交わしている。
「今ははっきり言えないけどさ、とにかく涼原さん、相羽の奴と仲直りしなよ」
「……」
ほんの少し、涙腺が緩んだ。純子は瞬きを何度かし、手の甲で目のすぐ下を
こすった。
(言われなくても、仲直りしたいわよ。だけど、どうしたらいいのか分かんな
いのっ。わけを聞きたくても話ができないし、私から謝るのもおかしいし)
純子の唇は、声にならない心中の言葉で、かすかに震えた。
「何なら、俺が橋渡ししてもいい。相羽の奴に伝言でも何でもしてやるよ」
唐沢の熱っぽい口ぶりに――純子はゆっくりと笑みを作った。
「ありがとう。でも、いい」
「どうして……」
「これは私の問題だから。……なんちゃって、えへへ、月並みかな」
唐沢は一瞬の呆気に取られた表情の後、両手を軽く挙げた。
「分かったよ。俺も応援してることをお忘れなく」
「うん!」
純子は精一杯元気よく応じた。依然、仲直りに自信が持てないでいたけれど。
さっきのテストの問五……。
喉元まで来ていた言葉を、純子は一生懸命飲み込んだ。
(自信のない問題の答、あいつに聞くのが癖になってる)
鞄を持って席を立った相羽の背をしばらく見つめ、純子はうつむいた。今日
もまともに口を利かなかった。
「あ、相羽君」
廊下で富井の声がする。思わず顔を上げた。磨りガラスで見えないけれど、
井口も一緒らしい。
「帰るとこ? 純ちゃんは?」
「さあ……。悪い、急いでるんだ」
気配で、相羽がすり抜けるように走り去るのが感じられた。
不満そうな響きの富井と井口の台詞が続く。
「待ってよー……もー、行っちゃった」
「ホームルーム、長引かせるから」
クラス担任の悪口を言いつつ、二人は五組の教室に入ってきた。純子の席に
直行し、泣き言を訴える。
「相羽君、帰っちゃったよー。純ちゃんが掴まえてくれてればよかったのにぃ」
「テストで教えてほしいところあったし。純子は聞かなかった? 問五だけど」
純子は二人の言葉にも上の空で、ゆっくりした動作で鞄に荷物を詰め込み、
蓋をした。そしてごそごそ音を立てて腰を上げた。
「どんな用事か言ってなかった? とっても急いでたよ、相羽君」
「ふうん」
三人揃って廊下に出たところで、井口がまず気が付いた。
「純子、どうしたの? さっきから変だよ」
「え、純ちゃん、何か変かなあ?」
富井の方は相羽のことで頭がいっぱいなのか、依然として気付かない様子。
純子は左、右と一度ずつ首を振った。声は出ず、代わりに小さなため息が一つ。
「今日のテスト、ミスったとか?」
「――ううん。そんなことじゃない」
答える声がわずかにかすれる。喉の奥が痛かった。
相羽に「さあ……」と言われたのがショックだった。
香村から告白されたことよりも、相羽と話せない今の状況の方が大きな問題
のような気がする。
(私は悪くないはず……よ。だけど)
相羽の笑顔が浮かぶ。随分長い間、見ていない。
* *
一心不乱――この言葉を体現したような相羽の打ち込みぶりだった。
定められた練習日でもないのに道場に直行した相羽は、昼食を摂らないまま
二時間通して稽古を続けた。
(……だめだなぁ)
練習中は、心を空っぽにできていたかもしれない。だが、終わって汗を拭い、
着替えた、たったそれだけの短い合間に、悩みを再び心に宿してしまった。
(そう簡単には吹っ切れないってことか)
今の相羽は、純子に尋ねたくてたまらないことが一つあった。
(「香村と会って、どうだった?」)
言葉にすれば短い。口にするのに二秒あれば充分。
しかし聞けない。喧嘩したからではなく、たとえ普段のままでも聞けないか
もしれない。
(これは、しばらく抱えてなきゃならない悩みになるってことか。はあ……)
嘆息していると、先生の柳葉が声を掛けてきた。
「精が出るね。それに、努力が身に着いてきた」
「――どうも、ありがとうございます」
一礼した相羽に、柳葉は柔和な笑みを浮かべて続けて言葉を掛ける。今度は
質問だった。
「やはり、試合が決まったせいかな? 相当入れ込んでいるようだ」
「あ、いえ――」
試合のための練習であるには違いないが、それは二義的な動機だ。
相羽は否定の返答をしようとしたが、言っても仕方ないことだと思い直した。
「どうしたね」
口ごもった相羽を、覗き込む柳葉。と言って、心配している風は微塵もなく、
ただ門下生を見守る目つきだ。
「何でもありません」
「……ふむ、ならばいい。津野島君に勝るよう、精進しなさい」
超然と言ってから、柳葉は楽しげに笑い声を立て、きびすを返した。
再び礼をしつつ、相羽は思った。もしかすると、すべて見通されていたのか
な?と。
* *
気まずい空気を醸し出さないよう、努力していたつもり。
だが、意識することで、かえってぎくしゃくしたかもしれない。
「塩、どこ?」
調理室の流し台できゅうりを刻みながら、純子は隣の井口に聞いた。
「塩は……あ、相羽くーん!」
離れた場所で鍋の湯の沸騰具合を見ていた相羽を呼ぶ。そのすぐ近くの戸棚
に塩の小瓶がある。
「お塩、取って」
「――これ?」
小瓶を持った手を宙にさまよわせる。井口は目で、純子に渡してという素振
りをした。
無言で遠慮がちに差し出された塩の小瓶を、純子は相羽と目を合わすことな
く受け取った。
それでも一応、ごく小さな声で「ありがと」とだけ言い添えておく。相手に
届いたかどうか、定かでない。
果たして相羽はせかせかと元の立ち位置に引き返していった。湯の沸騰が始
まっていた。
(聞こえなかったのかな。それとも、聞こえなかったふり?)
つまらないことなのに、気になって仕方ない。調理作業の方も機械的になっ
てしまう。
「――純、手元!」
町田の鋭い声が飛んだ。
はっとして下を見ると、きゅうりが塩に埋まっていた。
「もおー、ぼーっとしてちゃだめでしょうが」
怒られてしまった。照れ隠しもあって、舌を少し覗かせて答える純子。
「あは、ごめん。ちょっと考えごとしてたの」
「まったく。くれぐれも、包丁使ってるときはしっかりしてちょうだい。最後
の最後で大怪我なんてなったら、私ゃ泣きますよ」
「はいはい。部長には迷惑掛けませんて」
冗談めかし、作業に復帰。とりあえず、余分な塩を払い落とす。このあと、
簡単な飾り包丁に挑戦するのだが、気を入れ直さなければならない。
(最後の部活なんだから、楽しくね)
試験が終わってこの時期に実習をやるのは、調理部の歴史としては異例のこ
とである。これまで三年生最後の実習は夏休み中か、九月の初めに行ってきた。
純子達の代も夏休み中にするつもりだったのに、今年から学校の補講パター
ンが新しくなったおかげで、変更を余儀なくされた次第。
「せんぱーい、やることなくなっちゃったんですけど」
本日、一、二年の部員は基本的に調理そのものにはタッチしない。生ごみの
処理や使った調理器具の洗い物、あるいは家庭科準備室の大掃除を担当する。
「なにっ? もうそんなに時間経ったのかな」
時計を見る町田。だが、予定通りの進行で、遅れてはいない。
「みんな手際よくなったわねー。感心感心」
「簡単な仕事ばっかりだし、人数多いですし」
「うむ、謙遜も覚えましたか」
町田部長の言葉に、後輩達がくすくす笑った。
「それじゃあまあ、自由にしてていいよ。家庭科室から出てもいいけど、味が
心配ならしっかり見ておくように」
「あ、部長」
相羽が改まった調子で町田を呼んだ。部の活動中は、たいてい部長と呼ぶ。
「その前に役職決めさせないといけないんじゃ?」
「おお」
言ってから、左の手の平を右拳でぽんと叩く。芝居がかったのは照れ隠しも
あったかも。
「いかん、忘れていたわ。――あー、聞こえた? 役職、誰が何になるか、希
望があったら決めとくように」
特に二年生部員へと呼びかける町田。即、質問が返って来た。
「先輩達が決めるんじゃないんですか?」
「そうしてもいいんだけれど、みんなの希望優先にしてみようかなと。なりた
い人がなるのがいいでしょ。もしも一年生で役職やりたいってのがいるなら、
それもかまわないと私個人は思っているのだが、ま、その辺りは好きなように
やってちょうだい」
二年生に一年生も何人か加わって皆でわいわいがやがや、女子ばかりだから
と言うこともあるのか、にぎやかに話し合いが始まった。
(芙美もすっかり親分肌……なんて言ったら悪いかな)
純子はそんなことを考えて笑っていたのだが、同時に涙がこぼれてきた。
何故って、たまねぎを刻んでいたので。
(やだ、これ、染みる! 染みないのばかりだと思って油断してたら……)
目尻に指を持って行こうとして、思い止まった。たまねぎを触った手で目に
触れれば、ますますひどくなるに違いない。
ハンカチを取り出し、皆に気付かれないよう目の下にあてがう。
やがて拭き終わり、涙の出も収まってきたので仕舞おうとしたその刹那、斜
め前方から小さな舌打ちが聞こえた。
「――っ」
まだしょぼしょぼする目でそちらを向く。相羽がいたはずだ。瞬きを三度し
て、ようやく視界がはっきりした。
相羽は包丁を置き、左手の平に目を凝らしていた。それから、人差し指の付
け根辺りを嘗める。赤い色が純子にも確認できた。
次の瞬間、純子は行動に移っていた。テーブルを大きく迂回して、相羽の元
へ駆けつけると、手にしていたハンカチを差し出す。
「あの――これ」
「あ」
ぎこちない会話のあと、続かない。言葉も、動作も。
純子は受け取ってもらえないハンカチを自分の手で細く撚ると、相羽の左手
を引いた。
「――汚れるよ」
「いいの」
冷静であれば、家庭科室備え付けの救急箱を思い出していたはず。しかし、
このときの純子の心にはそんなこと、まるで浮かばなかった。
意外と深く切ったらしくて、血はまだ止まっていないようだったが、とにか
く純子は応急処置としてハンカチをきつく結んだ。
「大丈夫?」
「……うん。ありがとう」
今までと変わらぬ相羽の声が聞こえた。
純子は、本当に泣きそうになった。嬉しくて。
「洗って返すね。落ちなかったらどうしよう」
「ううん、いいの」
純子はうつむきながら、首を横に振った。それくらいでは、涙を隠せそうに
ない。案の定、相羽に勘付かれてしまった。
「どうしたの?」
「えっと……あは、やあねえ、もう、たまねぎが」
――『そばにいるだけで 38』おわり
※作中に登場する『コートゥルスラプトル』は筆者の想像の産物で、一九九九
年七月現在、このような恐竜と鳥とを直接につなぐ生物の化石は発見されてい
ません(少なくとも報告されていない)。