#4528/5495 長編
★タイトル (AZA ) 98/ 6/20 13:17 (199)
そばにいるだけで 24−2 寺嶋公香
★内容
* * *
夢を見た記憶もなく、ぱちりと覚醒した。
時計を見ると、一時間と少し眠ったと分かった。
だが、眠気は完全に去ってはいないらしい。いや、どちらかと言えば眠気で
はなく、疲労感が残っている。
「……思い出しちゃった」
上体を起こし、考え込む純子。片方の足を曲げ、膝を引き寄せた。
(ポスターにああいういたずらされるってことは、評判よくないのかも)
気になり始めると、居ても立ってもいられなくなる。ベッドから落ちるよう
に起き上がると、部屋を出た。電話のあるところへ一直線。今、家には他に誰
もいないのだから、遠慮なく。
「いないかもしれないけれど」
独り言を口にしつつ、送受器を取り上げ、ダイヤルする。
呼び出し音が三回半ほど鳴った時点で通じた。
「−−相羽君?」
相羽が出たので、くだけた口調になる純子。
相羽もまた柔らかな物腰で聞き返す。
「あれ、涼原さん。何?」
「おばさんはいらっしゃる?」
「いない。仕事に出ている」
相手の声のトーンがあからさまに低くなった。
「今日、休みじゃないの?」
「ああいう仕事は不規則なの。涼原さんだってその内……」
言いかけてやめる相羽。
多少気になったが、現在の純子はもっと気掛かりなことがある。
「えーと、コマーシャルのその後の評判、相羽君は聞いてない?」
「聞いてるよ」
電話口での第一声を明るい雲の上とするなら、今の相羽の声は光届かぬ海の
底。つまらなさそうにする顔が難なく想像できた。
「そうなの? 教えて! どんなことでもいいから」
「どうしたのさ、急に? もう気にしていないんだと思ってたのに」
「気にしてしまうようなことがあったのよ」
「……差し支えなければ、何があったのか教えてほしい」
純子は迷った。送受器を持ち替えて間を取る。
(他に打ち明けられる相手はいないし……いっか)
決めると、舌で唇を湿した。
「あのね。今日、友達みんなと映画に行った帰り、駅でポスターを見かけたの」
「当然、『ハート』の?」
「うん。それがさあ……凄くショック受けちゃった」
「ど、どうしてっ?」
声高で気負った口ぶりになる相羽。
純子は耳を少しだけ遠ざけ、また喋り出す。
「ポスターの顔、鼻とか目とかに画鋲が刺してあって」
「……」
「私、こんな嫌な思いしたこと−−ない。見なければ、知らなければよかった。
何だか、とっても」
言葉が続かなかった。
喉に痛みが生まれていた。筋肉が痙攣でもしたかのように、息を吸うのでさ
え大きな苦労に感じられる。
(あ−−泣いてる)
空いていた手を両方の目の下に持って行く。
が、泣き声が唇から−−心から−−溢れそうになっているのに気付いて、急
ぎ、手を移した。
「何て? 涼原さん」
もう片方の手の中にある冷たい機械から、あったかい声が届いてくる。
「涼原さん。返事して、涼原さん」
「あ、相羽君、ごめん、なさい」
ようやく振り絞った声はわずかに震えていた。こらえようとすると、震えが
大きくなる。何より、かすれてしまって。
「あは、私。ぼーっと。しちゃって」
「泣いてるんじゃないのか」
相羽のこの一言で堰が切れた。
滴が電話機のカバーに跡を作る。次々と染みができていった。
「涼原さん? −−純子ちゃん!」
「……悔しい。悔しいよ」
涙をとどめようとするのをやめ、両手で送受器を握りしめる。純子は床に座
り込んだ。ひんやりしたフローリングの感触が伝わってくるも、気にならない。
「待ってろ。今行く」
声がした。
そして声がした。
「ごめんください! すみません、純子ちゃんいますか!」
呼び鈴を押すのを忘れたらしく、声の主は玄関のドアを開け、必死に叫んで
いる。
(家には私一人)
純子は思い出して、弾かれたように立ち上がると、玄関口まで走る。
「相羽君」
「じゅ−−涼原さん」
繰り返し声を張り上げていた相羽は、純子を見て声量を戻した。そして、上
がりかまちに立つ純子の両手を取る。
「涼原さん」
「相羽君……」
見つめる瞳は泣きはらして、みっともなく赤い。でも、相羽を見た途端、涙
は止まった。そんな気がする。
強い感触に包まれていた両手が、ふわっと軽くなる。
「−−よかった、ひとまず。泣きやんでる」
瞬間的な相羽の笑み。が、すぐに目は細められ、眉間にしわが寄る。
「えっと、上がってもいい?」
「う、うん」
がらがら声に、自分でびっくりした純子は咳払いを二度した。
「上がって」
手を握り返し、引いた。
「あ、お邪魔します」
慌てて靴を脱ぐ相羽。純子はそんなに強く引っ張ったつもりはなかったのだ
が、バランスを崩しかけていた。
「今、お父さんもお母さんもいないの」
「−−ふうん」
「泣いたのは、一人で寂しかったからじゃないわよ」
言った直後、つまらないことを説明したと後悔した。
「分かってる」
相羽が静かに言った。
純子は階段の手前まで来て、はたと冷静になり、思い出す。
(部屋……布団があのままだわ。とてもじゃないけれど、入れられない)
そう考えていると、今度は手に注意が向いた。まだ握りしめたままだった。
電磁石のスイッチを入れてプラスとマイナスが急に弾き合う様みたく、純子
は相羽の手を離した。
「あのっ、こっち」
指差した先はダイニング。
早足でその部屋に駆け込むと、椅子を引く。
「さ、さあ、どうぞ」
「……ありがとう」
戸惑いも露な相羽は、まるで警戒する風に首を巡らせながら、ゆっくりした
足取りで入ってきた。そうして、椅子の傍らの純子をじっと見てから腰掛ける。
「お、お茶入れるわ」
「いい。そんなことより、話を聞かせて。そのために来たんだ」
流し台に向かおうとした純子を、相羽が呼び止める。振り向くと、相羽は席
を立っていた。
それから手近の椅子を引いた。
「座って」
「でも」
「お客さん扱いするな。僕は君の友達だ」
「……」
純子はそれでも流し台に向かおうとした。
「涼原さんっ」
「……ふふ。誤解しないで。顔、洗わなくちゃ。みっともないとこ、これ以上
見られたくない」
「……だったら洗面台を使えば」
相羽の言葉に素直に従い、洗面台に向かった純子。相羽から見えなくなる。
思い切りよく水を出し、皮膚に叩き付けるようにして顔を洗った。
「−−っは」
タオルで顔を拭い、大きく息をつく。
鏡を覗くと、いつもよりくたびれた顔があった。雰囲気は、自転車のすり切
れたタイヤみたいだ。
だけど、さっきよりはまずまず見られる状態になったと思う。
目をぱちぱちさせ、髪を直し、「いいよね」とつぶやく。
引き返すと、食卓では相羽が少し居心地悪そうにしていた。最初の勢いが収
まって、落ち着いて周りを見渡せるようになったのかもしれない。
「あの、ごめん。急に来て、悪いと思ってる」
「ううん。飛んで来てくれたのね。嬉しい」
「飛んで……自転車だけどさ」
相羽の冗談に−−そうに違いない−−純子はくすりと笑えた。
「それにしても、ひどいな。画鋲、押すなんて」
「何であんなことするのかしら」
「理解はできないけれど、推測はできる」
相羽は一旦言葉を区切り、逡巡するかのように唇を噛みしめた。
「目立つものに反感を覚える人がいるんだ」
「……嫌われてるのかな、それって」
「嫌うと言うより、嫉妬ってやつが大部分だと思う。−−心配しなくていいっ
て」
相羽が言葉を付け足したのは、純子がうつむいたからに違いない。
「人気の出て来た証拠だよ」
「本当に? ねえ、教えて。相羽君、電話で言ってた。コマーシャルの評判」
純子は両肘をテーブルに当て、にじり寄る風にして身を乗り出した。
対する相羽は実にあっさりと返事する。
「評判、高いんだってさ」
「……気を遣わなくていいから、嘘じゃなくて、本当のことを」
「嘘なんか言わないよ。正真正銘、好評だって母さんが言っていた」
「じゃあ、おばさんが気遣ってくれてるのね。あなたに言ったことは私に伝わ
ると思って」
「そうじゃない」
さすがにむっとした顔つきになる相羽。立腹と言うよりも、持て余して困っ
ているといった風情ではあるが。
「あちこちでポスターが盗まれてるそうだよ」
「えー? ……それが何なの」
「な、何なのって……ポスターを欲しいと思う人が多いから、人気があるから
剥がされる……」
相羽の呆気に取られた顔は珍しかった。
「あの駅のポスターだって、なくなってる箇所があったはずだけど?」
「え……空白になってるところはあったわ。だけど、あれはべりべりに破かれ
たからだと」
「違う。絶対に違う。持って行かれたんだ」
「どうして分かるの。得意の推理?」
「り、理由はないっ。でも、絶対に違うに決まってる。安心して」
力説する相羽だが、彼の根拠のない主張もまた珍しい。
(変なの。怪しい……と言っても、相羽君自身がポスター持って行くわけない
もんね。おばさんに頼めばいくらでも手に入るだろうから。だいたい、欲しが
るはずないし)
考え込む純子の前で、相羽は続ける。
「まともなポスターは残っていたかい?」
「……ううん。四枚、画鋲を刺されたのがあって、あとは破かれているのが一
枚だけ」
「やっぱりそうだ。残ってたのは、最初に画鋲で悪戯されたり破かれたりして
いたからだよ。そういうのを盗んでも、値打ちないと思ったんだろ」
「じゃあ、ほんとにほんとに、好評だと思っていいのね」
「本当に本当」
念押しの質問に、相羽の返事も強調した口ぶりになる。
純子はやっと一息つけた。背もたれに身体を預け、胸の前で手をお祈りのよ
うに組み合わせ、ほぅと安堵する。
「よかった」
純子が笑うと、つられたように相羽も笑顔になった。
「ああ、こっちもほっとした。電話で聞いてたときは、どうすりゃいいのか、
焦ってたんだぜ」
「そう言えば」
思い出すと顔が熱くなってきて、両手で頬を押さえた。
「わ、私ったら、あんな、泣いちゃって……話、聞くだけのつもりだったのに」
−−つづく