AWC BookS!(19)■夕暮れの少女■   悠木 歩


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#580/1159 ●連載
★タイトル (RAD     )  07/09/10  21:01  (259)
BookS!(19)■夕暮れの少女■   悠木 歩
★内容
■夕暮れの少女■



 それを喧しいと感じる人は少なくない。
 カナカナと、まるで街の隅々まで滲み込ませようしているかの如く、蜩たち
の声が響き渡る。
 確かに街には大小の公園が幾つもあり、広い庭を持つ家も多く、至る所に街
路樹が見られ、緑が豊かと言えた。しかし彼らが普段、どこでどう過ごしてい
るのか知らない。それを考えると不思議な気持ちになる。
 淡く朱に染まる街を歩きながら、明日香は蜩の奏でる音色に耳を傾けていた。
 秋の夜の虫に比べ、蝉の声には品がない。やかましいだけだと言う人も多い。
 しかし明日香は、蜩の声を切なく感じる。
 蝉の命は一週間ほどと聞いたためであろうか。残された時間を懸命に鳴き続
ける姿を、健気に思う。
 まして蜩は蝉の中でも、歌声を響かせる刻限が限られている。
 故にその鳴き声は懸命で、儚いものに明日香は思えるのだった。
 そんな蜩の声を全身に浴びながら、少女は夕暮れの街を歩いていた。スーパ
ーでの買い物を終えた帰り道。とある角で、その足がふと止まる。
「そうそう、ここで紫音さんとぶつかったんだっけ」
 あのときも、買い物帰りであった。
 思い出していたのは、紫音との出逢い。
 ぼんやりと、考えごとをしながら歩いていた明日香と、疾風の如く駆け抜け
て来た紫音とがぶつかった場所。
 ごく最近の出来事であるのに、なぜか妙に懐かしく思える。
 一陣の強い風が吹き抜けた。
 明日香の長い髪が舞う。
 吹き上げられたスカートが、買い物袋を叩き、音を立てる。
 袋の中身は卵や牛乳、薄力粉やベーキングパウダー。ケーキを焼くための材
料であった。
 夏休みが開けてすぐに訪れる幼馴染みの誕生日。その日に備えて、練習をす
るために買い求めたものだった。
「えっ、あ!」
 視界を遮るかのように踊る髪。その先に、覚えのある影を見たような気がし
た。
 やがて風は止み、舞っていた髪もゆっくりとあるべき位置へ返る。
「……………」
 明日香は無言のまま、暫し佇む。
 見えていたかと思われた影はもう、どこにもない。気のせい、見間違いの類
であったのかも知れない。いや、そうであろう。そう思いつつも、高鳴る鼓動
に歩を進めることが出来ないでいた。
 黎と紫音、並んで歩く二人の後ろ姿を見たような気がした。
 なぜ二人が、そう考えると息が止まってしまいそうなほどに、鼓動が早くな
ってしまう。
 馬鹿馬鹿しい。
 気のせいだったかも知れないではないか。
 後ろ姿だけで、どうして二人だと断言出来る。
 己で己の目を否定しながらも、まるで足に根が生えてしまったかのように、
その場から動けない。
「ばか………私って、本当にばかだ」
 涙が一粒、零れて落ちる。
 つまらない焼きもちに動揺している自分が、酷く惨めに思えた。堪らなく、
自分が嫌いになる。
 せっかく得たばかりの友を、自分はそんな目で見ていたのか。
 もし仮に、である。もし本当に、友と幼馴染みが親しくなっていたとするな
ら、なぜそれを喜べない。自分はとても、器量が狭い。それが悲しい。
 涙を指で拭ったとき、明日香はまた、二つの影を見出した。しかしそれは、
先刻のものと少し違っている。先ほどより、一回り小さな影だった。
「あれは………」
 影はやはり、明日香にとって見覚えのある人物のものであった。いつの間に
か、金縛りのような状態からは解放されている。明日香は、その影に向かって
歩み始めていた。

 アスファルトを叩く靴音は、軽快なリズムを刻む。
 椚理奈子はその靴音が知らせる通り、上機嫌であった。まるで耳の奥に突き
刺さるかのように響く蜩の声さえ、心地よく聞こえる。
 オレンジ一色に染まった街並みも、きらきらと輝いて見えた。
 彼女の手によって大きく回転するのはビニール製の袋。水着が収められたも
のである。理奈子は友だちとプールに行った帰りであった。
「理奈子ちゃんって、やっぱりすごいよね」
 お下げ髪に眼鏡をした少女が言う。
「ほんと、私、びっくりしちゃったもん」
 お団子頭を仔犬のキャラクターがプリントされた布で包む少女も、これに同
意する。
「えーっ、べつにそんなことないよぉ」
 一応は謙遜して見せるが、友だち達からの賛辞に悪い気はしない。ショート
カットのヘアに三人の中で、最も陽に焼けた肌。理奈子は縁石に飛び乗り、両
手を広げてバランスを取りながら歩く。
「だって、夏休みの前までは、ぜんぜん泳げなかったんでしょう」
「それが今日はもう、百メートルだもん。すごいよ」
「えへへっ、そうかな?」
 右手の人差し指で、鼻の下を擦る。子どもらしい仕草が、理奈子の心情を示
していた。
 剣道の師範である父と祖父を持ち、兄も有段者。そんな環境に育った理奈子
もまた、剣道やその他のスポーツに、秀でた才能を見せる。但しその中でも唯
一、水泳だけは苦手としていた。
 運動に関して、理奈子自身、絶対的な自信を持っていた。従って、苦手とす
るスポーツがあると言うことをプライドが許さない。小学四年生の夏休みに入
ると同時に、学校や市営のプールをフルに活用して、水泳の練習に明け暮れた。
そしてついに今日、百メートルを泳ぎ切るまでに至ったのである。
「私なんか、まだ十五メートルがやっとだもの。せめて二十五メートルくらい
は、泳げるようになりたいな」
「理奈ちゃんに教えてもらえばいいじゃない」
「ああ、そうだね」
「えーっ、私なんて人に教えられるほど、上手じゃないよ」
「そんなことないよ。だって百メートル泳げる人なんて、男子でもいないよ」
「そうかな」
 姦しい声に街を行く人々が振り返る。
「じゃあ、また。今度は登校日だね」
「うん、ばいばい」
 家路がそれぞれに別れる交差点。三人の少女たちは互いにほんの数日の別れ
を惜しみ、手を振り合った。
 小さくなって行く友人の背中を見送り、理奈子も再び自分の家路を歩き始め
る。一人になって少しの距離を歩いたときだった。
 蜩たちに混ざって、別の声が聞こえて来る。
 子どもの、泣き声のようだった。
 見れば理奈子の位置から五十メートルほど先に、両の掌を顔に充てて、泣い
ている少女が居た。
「あの子、どうしたんだろう?」
 気になった理奈子は、足を速めて少女の元へと急ぐ。
 そして近くまで寄り、そっと少女の顔を覗き込む。掌で隠されているため、
はっきりと確認は出来ないが、全く見覚えのない少女であった。
 長い黒髪は、真っ直ぐと曲げた肘の高さまで伸びている。白地に、淡い水色
の格子模様が入ったワンピース。理奈子より、歳下なのは間違いない。
 しかし見知らぬ子であっても、理奈子は泣いている少女を無視して通り過ぎ
て行けるような性格ではなかった。
「ねえ、キミ、どうしたの? 何を泣いているの?」
 優しく、少女へ声を掛けた。
 覆い隠していた掌が離れ、涙と鼻水でぐしょぐしょにぬれた顔が上げられる。
「………まご、……と、ちゃった、ど」
 鼻を啜りながら喋る少女の言葉は、理解するのが難しい。だがその足元を見
れば、少女の泣いている理由は容易に知れた。
 アスファルトの上に落ちた、卵のパック。十個入りの卵に、無事なものは見
当たらない。どれもひび割れ、あるいは砕け、パックの中を黄色く染めていた。
「あーあ、卵、落として割っちゃったんだ。顔、ふこうね」
 理奈子はショートパンツのポケットからハンカチを取り出すと、鼻水で汚れ
るのも構わずに、少女の顔を拭いてやった。その間少女は、理奈子の右手肘辺
りを強く掴み、離そうとはしない。顔を拭くのに邪魔となったが、理奈子はそ
のことについて、何も言わなかった。
「よし、キレイになった」
 顔を濡らしていた全てのものを拭き取り、理奈子は少女へと微笑み掛けた。
まだ涙の収まらない少女だったが、その量は少なくなって来たようにも思える。
「だけど、どうしようね、卵。私、お金持ってないし」
「ふっ、ううっ………ぐすっ」
 思い出したように、少女の瞳から大粒の涙が再び溢れ出す。
「ああん、ゴメン。泣かないでよぉ」
 少女の涙に、困惑する理奈子であった。

 近づくにつれ、二つの影はより鮮明になる。
 何れも幼い少女であった。
 一人は、より幼いほうの少女は全く見覚えのない子だった。しかしもう一人、
歳上の少女はやはり見知った顔であった。
 椚理奈子。
 剣道部キャプテン、椚主将の妹である。明日香は剣道部部員として、何度か
道場を営む椚主将の家を訪れていた。その折に知り合った少女である。
 非常に快濶で気さくな少女で、深く印象に残っていた。
「こんにちは、理奈子ちゃん」
「えっ、あっ!」
 明日香が声を掛けると理奈子は少し驚いたような、そしてどこか安堵したよ
うな表情を見せた。
「あら、私のこと、忘れちゃった? 明日香よ、神蔵明日香」
「ううん、覚えてるよ。兄ちゃんのところの部員さんだよね。明日香姉ちゃん」
 人懐っこいショートヘアが微笑む。
「ええ、そうよ。覚えていてくれたんだ。嬉しいな。あら………そっちの子は、
どうしちゃったのかな?」
 見ればもう一人の少女は、何やら泣いている。
 明日香は腰を折り、少女の目線の高さに、自分の顔を合わせた。
「お譲ちゃん、どうしたの? 何を泣いているのかな?」
 小さな拳は、理奈子の肘を強く握り締めていた。涙に潤んだ瞳が、おどおど
と怯えたように明日香を見つめる。
「あど………ね、………まご、……したっだの」
「その子ね、卵落として、割っちゃったの」
 嗚咽に言葉も儘ならない少女に代わって、理奈子が答えた。なるほど少女の
足元には、割れた卵のパックが落ちている。更に少女の手元を見ると、片方の
持ち手だけが握られたスーパーの袋がある。多分何かの拍子でもう片方の持ち
手が外れて中身が落ちたか、初めから片方しか握っておらず、飛び出してしま
ったのだろう。
「知っている子?」
「ううん、初めて会う子」
 理奈子は見も知らない子の世話を焼いていた、と言うことらしい。血筋なの
だろうか、椚主将も面倒見のいい先輩であるが、その性格は妹にも引き継がれ
ているようだ。
「でも困ったわね」
 明日香は暫し考えた。
 卵を買ってやる程度の金は持ち合わせていた。その金を惜しんだ訳ではない。
ただ簡単に買い与えてしまうことが、本当に少女のためになるのか悩んでいた
のだ。
「あっ、そうだ!」
 名案を思いついたとばかりに、明日香は手を叩く。
「お譲ちゃん、これ、持って行きなさい」
 明日香は自分の袋から卵のパックを取り出すと、少女の袋の中へ滑り込ませ
る。そして両方の持ち手をしっかりと握らせた。
「えっ………いいの、お姉ちゃん?」
 少女は驚きの表情で明日香を見上げる。
「うん、代わりにお姉ちゃんはこっちをもらうから」
 そう言って、落ちた卵のパックを拾い上げて、自分の袋に入れる。
「でも………でも、そのたまご、われてて、つかえないよぉ」
「いいのよ、お姉ちゃんは卵を割って、かき混ぜて使うつもりだったから」
 明日香は優しい顔で、優しい声を少女へ返す。
「ありがとう、お姉ちゃん」
 涙の消えた顔に、満面の笑みが浮かぶ。
「ありがとう、明日香姉ちゃん」
 少女に続き、理奈子もお礼の言葉と共に頭を下げた。理奈子自身には、礼を
述べなければならない理由はないと言うのに。優しく、いい子なのだなと、明
日香は感心する。
「よかったね………あれっ、キミ、名前、なんていうの?」
 理奈子も、そして明日香も、まだ少女の名前すら知らなかった。それに気づ
いた理奈子が問う。
「わたし、ナナ」
「可愛らしいお名前ね。あっ、そうだ、ナナちゃん、理奈子ちゃん。これ、食
べる?」
 明日香が掌に載せて見せたのは、たったいま、ポシェットから取り出した二
つの小さな袋だった。
「あっ、アメだあ!」
 少女の目が、きらきらと輝く。
 そんな少女の反応に、いまどきの子どもはたかがキャンディ一つで、それほ
ど喜ぶとは思っていなかった明日香を驚かせる。
「ナナちゃんはどっちがいい?」
「んーとね………」
 少女は二つのキャンディを、懸命に見比べていた。キャンディはそれぞれス
トロベリー味とメロン味。やがて意を決めた少女は、片方を指さした。
「わたし、いちごがいい」
「じゃあ、私はメロンをもらうね」
 二つの小さな包みは、それぞれ二つの小さな手へと渡る。
「あっ、まあい」.
「うん、甘いね」
 嬉しそうに笑う少女に、こちらの気持ちも明るくなるようであった。
「ナナ、ナナ!」
 少女を呼ぶ声。三人の視線が、一斉に声の方を向く。
「あんまり遅いから、心配したよ」
 それは背の高い、中年男性であった。
 細く、すらりとしたシルエットをワイシャツに包み、銀色の細い縁の眼鏡を
掛けている。その奥の瞳は、とても優しげであった。
「あのね、このお姉ちゃんから、アメをもらったの」
 駆け寄る少女の頭を、男性はそっと撫でた。
「あの、あなた方は?」
「ナナちゃんのお友だちです」
「友だちだよ」
「そうですか」
 男性は微笑み、小さく頭を下げる。
「私は古川と申します。この子は大人しい性格が災いしてか、中々友だちが出
来ないでいたのですが」
 男性の大きな掌が、少女の小さな頭を包み込んでいた。少女はまるで仔猫の
ように、目を細める。
「どうかこれからも、仲良くしてやって下さい」
 若い明日香や、幼い理奈子に対しても、男性の物腰は低い。大人がよく見せ
る、目下の者に対して丁寧な言葉を使いつつも、何処か上に立った態度は全く
なかった。
「それでは、これで失礼します」
 再度明日香たちに頭を下げると、男性と少女は手を繋ぎ、こちらへ背を向け
て歩き出す。と、その足が五歩ほどで止まり、男性は振り返った。
「そうだ。もうこの子から聞き及んでいるかも知れませんが、私たち親子は街
の教会に暮らしています。いつでも遊びに来て下さい。ああ、決して勧誘のよ
うなことは致しませんから、ご心配ないなく」
 そう言い残して、今度は本当に立ち去って行った。
「行っちゃったね」
 少女たちの姿が完全に消え、理奈子が言った。
「古川………教会?」
「どうかしたの、明日香姉ちゃん」
「うーん、ちょっと待って………何か、どこかで覚えがあるのよ」
「え? なにが?」
 教会に古川。
 二つのキーワードに、明日香は何処か覚えがあった。この単語が含まれた話
を、何処かで聞いている気がするのだ。
 明日香は靄に隠れた記憶を、懸命に検索するのであった。

                          【To be continues.】

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