AWC BookS!(07)■緑風高校剣道部■  悠木 歩


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#550/1159 ●連載
★タイトル (RAD     )  07/07/23  20:03  (339)
BookS!(07)■緑風高校剣道部■  悠木 歩
★内容
■緑風高校剣道部■



 深い眠りを妨げたのは、けたたましい電子音であった。
 迫水黎は慌てて飛び起き、寝床から離れた机上で猛り狂う目覚まし時計を沈
める。そこに示された時刻は午前六時十五分前であった。
「あれ、俺、どうして家で寝てたんだ」
 額に指を二本押し当てて、昨日の事を思い出してみる。
 磯部に会うため鳴瀬大学を訪れたこと。その研究室で見掛けた奇妙な本。突
然襲って来た男女。逃げ込んだ林の中で輝きだす本。光と共に現れた二人の少
女。そして戦い―――
 そこで記憶が途切れる。
 戦いの後、一人林に取り残されたところまでは覚えている。しかしその先、
どうやって家に戻ったのかまるで思い出せない。
 あるいは全てが夢だったのではないだろうか。そう考えれば、その後の記憶
がないのも得心が行く。
 そうだ、冷静に考えてみよう。
 あの戦いは、人間の常識と限界を大いに逸脱している。
 化け物じみた武器を操る男。
 軽業師も裸足で逃げ出すような、アクロバティックな動きを見せる少女たち。
 あれを現実と考えるほうに、無理がある。
 そう結論付ける、いやそうであって欲しいと願う黎ではあったが、希望を否
定する要因もあったのだ。
 押し当てた指が感じ取っていたもの、額に貼られた絆創膏である。男に襲わ
れた際、砕かれた壁の破片に付けられた傷痕。
 そしてもう一つ。
 枕元に置かれていた、あの黒い表紙の本。

 三度目の電話も無駄に終わる。
 電源が切られているのか、圏外に居るのか。磯部の携帯電話に繋がることは
なかった。
「困ったな………どうしようか?」
 色々と聞きたいこともある。
 本も返さなければならないだろう。
 このまま本を所持していれば、何時また昨日のような目に遭わないとも限ら
ない。しかしもし本を返した後に、襲撃を受けたとしたなら。想像すると背筋
が寒くなる。
「そうだ、あの子たち」
 黎を助けてくれた少女たちの姿を思い出す。息を呑むような、美しい少女た
ち。もう一度会って見たい。そうだ、彼女たちに話を聞けば全て分かるかも知
れない。
 黎は部屋と駆け戻り、本の前で腰を下ろした。それからペラペラとページを
捲る。だが昨日のように読める文字は見当たらない。仕方なく、適当なページ
を開いて置く。
 静かに目を閉じ、心を落ち着ける。それから、あの呪文をゆっくりと唱えて
みる。
「右に光、左に闇」
 だが何も起こらない。
 やはりあれは夢だったのか。それとも本と少女たちは関係なかったのだろう
か。
「右に光、左に闇」
 もう一度呪文を繰り返すが、結果は変わらない。昨日のように、光を伴い少
女たちが現れることはなかった。
「やっぱりダメか………」
 諦めて本を閉じた黎は、時計を見遣る。七時半を過ぎていた。
 朝食を摂るため、居間へ向かう。その途中、先ほどは気づかなかったが、電
話機の赤いランプが点滅しているのを発見した。誰かが電話を掛けてよこした
らしい。
 黎は留守番電話の再生ボタンを押す。
(黎くん、お母さんです。どこかに出掛けているのかな? 夏休みだものね)
「母さん」
 聞こえて来たのは、母親の声である。
 黎の母親は現在海外に居る。黎が高校に入学した直後、父親に海外赴任の辞
令が降りたのだ。自身の希望もあり学校のある黎は日本に残り、両親は海外に
渡った。そんな理由で黎はいま、一人暮らしをしている。
(元気にしていますか? お父さんとお母さんは元気ですよ。ほら、お父さん
も、黎くんに何かメッセージを………もう)
 父親は電話に出ることを拒否したようだ。必要なとき以外、殆ど口を開くこ
とのない父らしいと、黎の顔には笑みが浮かぶ。
(明日香ちゃんとは仲良くしていますよね? ダメですよ、明日香ちゃんを泣
かしたりしたら。そうそう、もう二人とも高校生ですから、色々、えっと、あ
るかも知れないですが、黎くんはまだ自分だけで責任を取れるようになってい
ませんから、それを忘れないようにね。じゃあ、また、電話しますね)
「な、何言っているんだ、母さんは」
 顔が熱くなった。どうにも黎の母親は、解放的な性格が過ぎることがある。
そして更に母の性格を端的に示す事実が続く。
(ゴゼン二ジ十七フン)
 合成音が告げる、電話が掛けられた時刻である。
「時差ってモンがあるだろう………寝ているって、その時間は」

 軽い朝食を済ませた黎は、濃紺のブレザーに着替えた。緑地に赤のチェック
模様、太い線の両脇に細い線の施されたネクタイを締める。黎の通う緑風高校
の制服であった。
 気は乗らないが、家にいても考え込んでしまうだけだ。学校に出掛けること
にした。
 夏休みではあったが、部活動は行われている。黎は剣道部に所属していた。

 家から歩いて十五分ほど。街を見下ろす高台に緑風高校は建っていた。
 黎がこの高校を選んだ理由はただ一つ。家に近いから、と言うことだけであ
る。ラッシュ時の電車通学など、想像するだけで嫌になる。歩いて通える学校
が楽であると、選んだ高校だった。
 ただ楽あれば苦ありの言葉もある。
 中学三年生当時、黎の成績は緑風高校の合格基準には些か足りないものだっ
た。担任の教師からは、合格率はよくて三分四分と言われていた。それを猛勉
強の末、合格を勝ち取ったのだった。
 校門を抜け、玄関に沿って右に折れる。校舎の裏側をしばらく歩くと、プレ
ハブ造りの平屋の建物が見えて来た。剣道場である。
 緑風高校には剣道場と柔道場とが、別々に存在していた。これはかつて共に、
全国に名を轟かせた強豪だったことに由来する。しかし近年、剣道部は衰退の
一途を辿り、いまや一回戦負けの常連と化していた。
「うーすっ………はあっ?」
 剣道場の扉を開いた黎は、動きを停止させる。目に飛び込んで来た、奇妙な
光景がそうさせたのだった。
 道場の中央には打ち込み台。骨組みに篭手、面、胴を取り付けた、打ち込み
練習用の人形である。剣道に無縁の者から見れば、その台一つだけでも奇妙に
感じるかも知れない。しかし剣道を知る黎を驚かせたのは、台の前に立つ人物
のほうであった。
 防具を装着したその人物の手には、滑稽なほど短い竹刀が握られている。左
右の手に一本ずつ、であった。
 右手は上段に、左手は下段に構え、打ち込み台を観客に、不細工な舞を見せ
ている。
「何、やってんだ?」
「ん………よお、来たか、黎」
 黎に気づいた人物は、面を外す。たっぷりと掻いた汗が、道場の床に滴り落
ちた。頭の手拭いを取ると、七三に分けられた髪に乱れはない。
 椚宗一郎(くぬぎそういちろう)、この夏剣道部の新主将に任命された、黎
の同級生である。
「創作ダンスの練習でも、していたのか?」
「うむ、何、二刀流の練習をしていた」
 更衣室に向かう黎の背後から、極めて真面目な声が返った。黎の剣道着、及
び竹刀、防具一式は更衣室に置かれたままになっている。
「お前、まさか二刀流に転向するつもりなのか」
 更衣室の戸は開けたまま、同性の宗一郎に気遣う理由はない。もっとも女子
が居たところで、黎は気にするタイプではなかった。
「いや、何。お前、先日のテレビで中継された大会を観たか?」
「大会って、剣道のか?」
「当たり前だ、ここでサッカーの大会の話をしてどうする」
「いや、観ていない」
 パンツ一枚になった黎は、素肌の上から剣道衣を羽織る。
「その大会でな、たしか熊本の人だったが、二刀流の選手が準々決勝まで、残
ったんだ」
「それに影響を受けたのか。お前らしくもない」
 袴に足を通し、紐を締める。初めは柔軟体操やストレッチを行うつもりなの
で、防具は着けないで道場へ戻った。
「いや影響を受けたと言う訳ではない。黎、お前、同じ武道でありながら、柔
道に比べて剣道がいま一つマイナーなのは、何故だと思う?」
「ん、ああ。まあ、柔道は国際的に行われているからなあ」
 屈伸運動をしながら、宗一郎へと答える。
「そうだ、柔道は世界的に広く行われている。比べて剣道は、ほぼ日本だけで
しか行われていない」
「そりゃまあ、ヨーロッパとかにはフェンシングがあるしな。国によって、そ
れぞれの剣技みたいなモンがあるだろう」
 黎は背中に回した竹刀を両腕で押さえ、腰を捻る運動に移っていた。
「しかしな、だとしてもせめて国内での人気だけでも、高める必要があるとは
思わないか?」
「うんまあ、人気があったほうが、こっちとしてもやり甲斐はあるだろうけど
な。けど、それと二刀流と、どう言う関係があるんだよ?」
「そこだ!」
 突然宗一郎が、黎を指さす。
「剣道には相手を攻撃するのに、そのポイントはわずかに四つしかない。小手、
面、胴、そして突き。(注1)だからこそ実はそこに深いものがあるのだが、
これは遣った者にしか分からない。観客には理解出来ないだろう」
 宗一郎の言は俄かに熱を帯び、演説めいて来る。彼は将来、政治家に向いて
いるのではないかと、黎は考えた。
「それでは多彩な技を持つ柔道に適わない。そこでだ、見た目にも面白い剣道
と言うものを考える必要があるのだ」
「で、それが二刀流なのか………」
「うむ、何も二刀流でなくてもいいのだが。こうした言い方は二刀流の使い手
に失礼だと思うが、多少色物的存在があってもいいのではないか、そう考えた
次第だ」
「けどお前まさか、本気で二刀流に転向する気じゃないだろう」
 宗一郎と言う人物は、どうにも冗談と本気との境がはっきりしない傾向があ
る。誰もが冗談としか思わないものに、本気で取り組むことも珍しくはない。
黎は少し心配になっていた。
「まさか………そんな一朝一夕に、ものになるものでもあるまい。ウチにも二
刀流の指導が出来る者は居ないしな」
 その言葉に黎はようやく安堵する。これが本気であれば、そのうち今度は鎖
鎌だとでも言いかねない。
 宗一郎の言う「ウチ」とは剣道部を指してのものではない。自分の家のこと
を言っているのだろう。彼の実家は、剣道の道場を営んでいるのだ。
 そのせいもあって、宗一郎は高校二年生で剣道三段の腕前を持つ。
 剣道の昇段試験は中学二年より初段を受けられる。しかし二段を受けるため
には、初段合格から一年を経なければならない。更に三段を受けるには二段合
格から二年、四段は三段合格から三年、と現在の段位と同じ年数を経過しなけ
ればならない。従って宗一郎の三段は、いまの年齢で取れる最高段位なのであ
る。
 実際緑風高校は前回の大会に於いて、団体戦こそ一回戦で敗退したものの、
個人戦で宗一郎は決勝まで上り着いていた。惜しくも決勝で敗れたものの、そ
れでも堂々の準優勝に輝いた。もちろん団体戦でも宗一郎は相手に一本も取ら
れず勝利している(注2)。もしこれが星取り戦ではなく、勝ち抜き戦であっ
たなら、緑風高校はもっと上位まで行けたかも知れない。あるいは宗一郎の在
学中、緑風高校の強豪復活はあり得ると、黎は思っていた。
 ちなみに黎も、同じ大会でベストエイトまで進んでいた。
「ところで今日は、俺と宗一郎だけか」
 今更ではあったが、剣道場を見渡してみても宗一郎以外の姿はない。
「ああ、諸角はまだ風邪が治っていない。篠原は家族でカナダ旅行だったな…
……それと本間は連絡なしだ」
 宗一郎の挙げた三つの名前は、いずれも一年生。これに黎と宗一郎を加えた
五名が緑風高校剣道部男子の全部員である。つまり剣道部は一人欠けても、団
体戦には出場出来ない状態にあった。
「女子は分からんなあ………まあ、神蔵くんのことだ。追っ付け来るだろう」
「たぶん、な」
「たぶん、な、じゃないだろう」
 こん、と宗一郎の竹刀が黎の頭を叩く。
「痛てっ。何すんだよ」
「神蔵くんは黎の幼馴染みで、家も近所だろうが。何故一緒に来ない?」
 神蔵明日香。
 剣道部唯一の女子部員である、一年生の名前だ。宗一郎の言う通り、黎にと
ってごく親しい少女ではあった。
「あのなあ、高校生にもなって、女の子と一緒に登校出来るか、つーの」
 仕返しとばかりに、黎も宗一郎の頭へと竹刀を振るう。しかしこれは簡単に
避けられてしまった。
「ふん、もどかしいヤツめ」
「もどかしいって、何が?」
「いや、いいさ。それより黎、柔軟は終わったな。ひとつ手合わせ願おうか」
「えっ、俺とか?」
「だから他に誰か居るか?」
 少しだけ宗一郎を待たせた後、結局黎は「分かった」と返答する。昨日のよ
うなことが、また起きるかも知れない。例え付け焼刃だとしても、何もしない
でいるよりはましであろう。
 向き合って一礼。前に進み出て竹刀を構え、その場で蹲踞の姿勢を執る。正
式な試合であれば審判の声を待つが、ここは互いの呼吸が合ったところで立ち
上がって試合開始となった。
 黎は基本的な中段の構え。そして宗一郎は下段の構えで挑む。
 さすがに幼少時から鍛錬を積んで来た宗一郎は、一通りの構えを使いこなす。
上段、中段、下段はもちろんのこと、八相の構えや脇構えを執っても、並以上
の戦いが可能であった。
 そんな宗一郎が守りに向いた下段の構えをして来たのは、黎を手ごわい相手
と認めているのだろう。しかし黎は、それに満足していられない。
 例え高く評価されていたとしても、やはりその実力では宗一郎のほうが上回
る。
「やーっ、面!」
 黎が狙って行った面も、宗一郎はその場から足を動かすことなく、軽く竹刀
で払い除けた。
「ちっ」
 それは黎も予測していた。そのため竹刀を払われても、大きく体勢を崩すこ
とはない。しかしそれでも若干の崩れはあったはずだ。宗一郎の実力であれば、
打ち込んで行くのには充分な隙であっただろう。だが宗一郎は打ち込んで来な
い。構えを下段に戻し、じっと黎を見据えていた。
「野郎!」
 その余裕が気に喰わない。黎は勢いを付けて宗一郎に飛び込んで行く。体当
たりをする形で鍔迫り合いに持ち込んだ。
 パワーと言う意味での力であれば、黎が勝っていた。じりじりと宗一郎を後
ろへと押し遣る。
「くっ、このバカ力め」
 珍しい宗一郎の悪態。黎は俄かに己が優位に立った錯覚に陥った。
「でやっ」
 気合もろ共、宗一郎を後ろへ跳ね飛ばす。一瞬崩れかけた宗一郎の体勢を見
て、狙っていた抜き胴(注3)から面に切り替えて竹刀を振るう。が、さすが
に三段の腕前を持つ宗一郎であった。体勢が崩れ掛けていたのにも関わらず、
黎よりも早く竹刀を繰り出していた。
「くっ」
 攻撃に入っていた黎は、身をかわしてこれを避けることが出来ない。頭を横
に倒し、面への直撃を回避する。
 びしっ、と鈍い音がした。宗一郎の竹刀が、黎の左肩を叩いた音である。
 面の一部が肩の部分までカバーしてはいるが、それも厚手の布一枚である。
宗一郎の鋭い一撃は強烈な痛みを残した。
(ダメだ、これじゃあ………)
 試合に於いてであれば、肩への一撃は無効となる。いまは宗一郎の攻撃を、
黎が避けたことになる。しかしもしこれがルールのある剣道ではなく、本物の
戦いであったのなら。もし真剣での勝負であれば、黎は袈裟懸けに斬り捨てら
れていたところだ。そう、昨日のスコーピオンと呼ばれていた男の攻撃であれ
ば、黎の胴体は跡形もなく潰されていただろう。
「こんのぉ!」
 悔しさが痛みを凌ぐ。
 黎はすぐ様反撃に出た。
 守りも糞もない。渾身の力を込めた竹刀は、真っ直ぐ宗一郎の喉元を目指す。
しかしこれも宗一郎に払い除けられる。黎の竹刀はその手を離れ、道場の床を
滑って行った。
「待った、これまでだ」
 圧倒的に優位な宗一郎のほうから、タイムが掛かる。
「済まない、いまのは痛かっただろう。神蔵くん、看てやってくれ」
 宗一郎の口から、その場には居ないはずの者の名が出る。だが居ないと思わ
れていた人物が慌てた様子で、はい、と応じるのだった。
 我に返った黎が目を遣れば、道場の入り口に立つ少女の姿が在った。
 男子のものより、やや淡い紺色の制服。ネクタイと同じ柄のリボン。白いス
カートも学校指定のものである。大きな瞳と小振りな唇が顔立ちを幼く見せて
いるが、間違いなく緑風高校の生徒である。
 申し訳程度の胸の膨らみが、顔立ちに見合った身体を更に幼く感じさせる。
そこに竹刀と防具の袋、加えて何やら目一杯に詰め込んだ紙袋の大荷物が、や
けに痛々しくさえ思えた。
 宗一郎に名前を呼ばれた少女は、腰の近くまである長い髪を翻して、更衣室
へと走った。
「かあっ、参った。勝負をしながら、明日香が来たことにまで、気がついてい
たなんてな」
 面を外し、黎は両手を挙げて降参のポーズをしようとする。が、思いの外左
肩が痛く、右腕だけで間に合わせた。
「何、たまたま俺のほうが入り口の見える位置に居ただけの話さ。それより黎、
お前、秘密特訓でもしたのか?」
「はあ? いや、何もしていないけど。ほら、俺、道具一式置きっぱなしだか
らな。特訓もクソもない」
「そうか」
「でも、どうして?」
「いや、何な」
 宗一郎は顎に手を遣り、何やら考え込む仕草を見せた。そこへ明日香が救急
箱を手に戻って来る。
「迫水先輩、肩を見せてください」
「ん、ああ、いや、いいよ。大したことはない。そんな、大袈裟にするような
モンじゃないよ」
「だめです、見せて下さい」
 半ば強引に、少女の細い腕が、黎の道着を捲る。外気に晒された左肩は、腫
れてはいないものの、見事なまでに赤く染まっていた。
 冷却スプレーが吹き付けられる。その感触に、黎は身を震わせた。スプレー
液を乾かそうと言うのだろう。患部へ息が吹き掛けられる。今度はこそばゆさ
に身を捩る黎であった。
「おい、明日香。そこまでしなくて、いいってば」
 見れば少女は、大判の湿布薬を手にしていた。
「だめです」
 きっ、と黎を睨みつけるような、少女の視線。普段は過ぎるほどに物静かな
明日香だが、こうなると如何なる抗議、意見も聞き入れられない。少女の性格
を知る黎は、もはや口を噤む以外なかった。
「さっきの話だが………」
 手当てを終えた明日香は、救急箱を片付けるため再度更衣室へ消えて行く。
それを待っていたのだろうか、宗一郎が先刻の話を続けた。
「戦いの荒っぽさは、相変わらずなんだが………何と言うか、技の鋭さが夏休
み前に比べ、増したように感じられた」
「そうかあ? 本当に、何もなかったけどなあ」
「うむ、まあいいんだが。こんな話を聞いたことはないか? 人を斬った経験
のある武士は、経験のない武士の十倍の戦力に相当するって」
「止せよ、それじゃまるで、俺が辻斬りでもしているみたいじゃないか」
 笑って見せる黎だったが、思い当たる節はある。昨日の一件だ。
 ただ逃げ惑うばかりではあったが、それでも実戦を経験したということにな
るのだろう。命懸けの戦いをその身を以って知り、それが何かしら黎の剣に影
響を及ぼしたのかも知れない。
「椚主将、今日は遅刻してしまいました。申し訳ありません」
 剣道着に着替えた明日香は、戻って来るなり、宗一郎へ深く頭を下げた。上
下共に白の剣道着は(注4)サイズが合っておらず、どこか服をお仕着せられ
た子どものように見えてしまう。
「いや、別に気にすることもない。夏休みの練習は自由参加だ。おい、黎。神
蔵くんの打ち込み練習の相手をしてやれ」
「ん、分かった。おい、明日香。柔軟で身体を解しておけ」
「はい、迫水先輩!」
 どこか嬉しそうに、元気な返事を返す明日香であった。

(注1)突きについて、小中学生は使用禁止。高校生でも禁止される場合があ
る。
(注2)剣道の試合は通常三本勝負。先に二本を取ったほうの勝利となる。
(注3)通常、胴は自分から見て相手の右側に体を入れて打つ。対して抜き胴
は相手の左側に制止せず抜けて行く打ち方。
(注4)これは余談になるが。一般的に剣道着は黒系統(黒・紺・藍等)が多
く使われる。小学生など低年齢者は白に黒糸で模様の施されたもの、女子は白
い道着が用いられる場合が多い様である。


                          【To be continues.】

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