#191/1165 ●連載
★タイトル (tra ) 03/12/14 20:28 ( 50)
寝床(二) Trash-in
★内容
竹本竹光は、胃が痛かった。ストレスによることは明らかだった。弟子の一人が義太
夫の会を催すのだ。そして同じ舞台で伴奏の三味線を弾かなければならない。師匠なの
だから弟子の晴れ舞台を喜ぶのが筋である。そんなことは竹光も重々承知だ。通常の弟
子なら、竹光も心の底から喜んだろう。しかし、この弟子は通常の弟子ではない。木俣
幸惟は木俣製作所の社長なのだ。といって、よくいるようなわがままなワンマン社長と
いう訳ではない。その逆だ。円満で実直な人柄は人を惹きつけてやまない。情に厚く、
信義を重んじる。人格者という言葉がこれ程ふさわしい人物は見当たらない。正真正銘
の名士だ。
この弟子の異常さは、そんなところにあるのではない。それは木俣が語る義太夫の異
常なまでに破滅的な下手くそさにあった。稽古をつけるのは苦痛以外の何物でもない。
至近距離で相手の義太夫を聴かされるからだ。だから竹光は木俣に稽古をするときは、
「手本をお見せします」と言っては、自分が語り、できるだけ木俣の義太夫を聴かない
ように最大限の努力を払った。また、木俣の声がこの世のものとは思えないほどひどか
った。悪夢のような声だった。あるとき、出稽古のあとの帰り道、川辺を歩いている
と、ウシガエルの鳴き声が聞こえてきた。そのときの竹光には、ウシガエルの声が聖歌
隊のボーイソプラノのように澄み切った清涼なものに思えた。
なぜだろう。竹光はいつも木俣のことを考えると悲しくなった。あのような人格者が
なぜかくまで破滅的な義太夫を語りたがるのだろうか。下手の横好きとはいうが、あれ
は下手というほど上等なものではない。地獄の咆哮だ。
実は、竹光は木俣を弟子にすべきかどうか迷ったのだった。あまりにも木俣の義太夫
が酷かったからだ。長時間の聴取は生命に危険を及ぼす惧れすらあった。だが直接断る
には気がひけた。そうさせるほどの魅力のある人物だった。だから、通常の月謝の5倍の
金額を提示して、あちらから断るようにしむけた。しかし、木俣はあっさりと受け入れ
た。それどころか出稽古をするようになり、竹光が木俣の自宅を訪れるようになると、
木俣はさらに月謝を倍にした。竹光は固辞したが押し切られた。理由を尋ねると、「先
生にこちらに出向いていただくのは恐縮です。それに、先生は本当に熱心に教えてくだ
さる。稽古の最中にあんなに一生懸命、長々と時間を割いて手本をみせてくれるのは先
生だけです」と言った。竹光は申し訳なさと恥ずかしさで穴があったら入りたい気分だ
った。だがやはり、稽古時間の大部分は手本を見せ続けた。命には代えられない。
竹光は母が死んだ時のことをよく思い出す。通夜に駆けつけた木俣は、亡骸を見て、
手を合わせた。
「穏やかな、まるで眠っているようなお顔ですね」というと、泣いてくれた。面倒くさ
げに義理で仕方なくやって来る親類達に心がすさんでいただけに、木俣の涙が胸にしみ
た。
「私が、稽古のたびに先生のご自宅にお伺いすると、いつもおいしいお茶をだして頂い
て、高度成長前の古い話をいたしました」そう言うとまた泣いた。「私の早死にした姉
がちょうど、先生のお母様と同じ年頃で・・・もう一度姉を亡くした気分です」
「うちの母は木俣さんのことを立派な紳士だと申しておりました」竹光は答えた。母親
が「あんな下手くそ聴いたことがない」と言っていたことは伏せておいた。
「最近は私の自宅に出稽古に来ていただいているので、こちらに伺わなくなって、あま
りお会いすることはなかったのですが」
「私の母も、木俣さんの義太夫をまた聴きたいと申しておりました」実のところ「近所
から苦情がくるといけないから出稽古にしなさい」と言っていたのだが、これもまた伏
せておいた。
「ありがたい話です。私なんかの義太夫を・・・。では手向けに一節語らせていただき
ましょう」
「そっ、そっ、それはいけません」竹光は思わず木俣にすがりついた。「そのう、あの
う・・・母は木俣さんの義太夫を、ことのほか好んでいました。今ここで木俣さんが義
太夫を語れば、そのう、あのう、げげげ現世に未練が残って成仏できなくなってしまい
ます。仏が迷ってしまいます。それはそれは木俣さんの義太夫を好んでいましたから」