AWC 白き翼を持つ悪魔【02】            悠木 歩


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#273/598 ●長編    *** コメント #272 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  22:46  (401)
白き翼を持つ悪魔【02】            悠木 歩
★内容


 蘇った意識が捉えたものは、おぞましき血の海の光景に勝るとも劣らない。
 耳障りな電子音が奏でる音楽。無数の靴音。身勝手に鳴らされるクラクション
と整備不良を思わせるエンジン音。
 強い整髪料に香水、そして防虫剤の匂い。埃と排気ガス。それによって食欲を
そそられる者が在るのか甚だ疑問となる、屋台からの安っぽい香り。
 統一性もなく、各々が目立つことばかりを考えた看板群。その奥には巨大さ、
豪華さを競いながら冷たさ以外には何も感じられないビル群。
 そして彼女の周囲には人、人、人。
 彼女は立体交差点の中央に立っていた。
「人の世に行き、己の成すべき事をせよ」
 直前、あるいは遥かな昔に聞いた言葉を呟く。そして彼女は悟った。
 自分はあの地獄の王の僕なのだと。
 地獄の王の僕――それはすなわち、彼女自身が悪魔の眷族であることを意味す
る。
 と、なれば「己の成すべき事」も見えてくる。
 彼女はゆっくりと、周囲を見渡した。
 足早に交差点を渡って行く人々。歩道を行く人々。彼女から見ることは出来な
いが立ち並ぶビル群の中にも沢山の人が居ることだろう。
 もしここで、と彼女は考える。
 あそこで信号待ちをしているタンクローリー車が、突然爆発炎上をしたならば。
交差点の向こうの、一際高いビルが倒壊したとすれば。いま上空を過ぎようとし
ている飛行機が、ここに墜落して来たとすれば。さぞかし多くの人間が犠牲とな
るであろう。
 妄想などではない。
 まるでそれは反社会的なテロリストや、世の中を嫌悪し始めた思春期の少年に
よる空想のような話であったが、彼女が望み、強く願えばすぐさま実現される。
何の根拠も、試したこともないはずであったが、彼女には自信があった。超能力、
あるいは魔力といった類のものであろう。そうした特殊な能力が備わっているか
らこそ、地獄の王は自分をこの世に遣わしたのだろう。
 暫し、彼女の視線は浮遊を続ける。
 より効果的に惨劇を引き起こせる対象を探して。
 結果的に何も起こさなかったのは、彼女が自分の能力に不安を持ったからでも、
人間らしい良心に抑制されたからでもなかった。ここで惨事を起こすことが地獄
の王の言う、「己の成すべき事」ではない。そう考えたからである。
 多くの人間の生命を奪うよりも、もっと何かするべきことがあるはず。理由は
なかったが、彼女はそう感じられた。
 ふと気づくと、彼女の周囲から人影が消えていた。その理由を知るよりも先に、
激しい不快感が彼女を襲う。続いて、目に映る風景が横に流れ始めた。何者かが
彼女の左腕を引いたのだ。
「危ないなあ、交差点のど真ん中で、何ボーッとしてたのさ」
 背筋に悪寒が走る。知能程度の低さを窺わせる軽薄な声。それは地獄の王にさ
え恐怖しなかった彼女をも震えさす。
 声の主は典型的東洋人の顔立ちに、滑稽なまで不釣合いな茶色の髪をした若い
男。傍らに立つ男もその仲間であろう。右瞼の飾りは、何か宗教的な意味でもあ
るのだろうか。極彩色という以外、統一性もデザイン性も感じられない服装まで
含め、何もかもが彼女の癇に障った。
「ねえ、彼女、ヒマなんでしょ? 俺らと一緒に遊ぼうよ」
 と、こちらも不快感しか残さない声を発したのは長い髪にニット帽を被った男。
この二人に手を引かれ、彼女は立体交差店の中央から歩道へと移動させられたの
だった。
 自分の身に起きた事態さえ理解出来れば、男たちには興味もない。彼女は一瞥
をくれることもなく、その場を去ろうとした。
「ちょっと、シカトはないんじゃない」
 ニット帽の男が左腕を掴んで彼女を引き止めた。それが男たちの声や服装以上
に、彼女に不快感を与える。
「私に触れるな、クズが!」



 街の喧騒の中にあって、決して周囲に響き渡るような声ではなかった。むしろ
その言葉を向けられた二人に辛うじて届く程度ものだった。
 一瞬、ほんの一瞬、二人の男は身を退く。半歩の更に半分ほどの後ずさり。
 彼らがもし、草原で草を食む獣であったのならば、間違いなくそのまま逃走し
ていたはずだ。いや、これが百獣の王と謳われるライオンだったとしても、いつ
までも彼女の前に身を晒すような愚かな真似はしなかったであろう。
 それほどまでに、彼女の言葉には迫力があった。だが悲しいことに、男たちは
野生ではない。弱肉強食の世界で、命を繋ぐ術を知らない。短い言葉の中、これ
ほど明確に現れている、己と相手との力量の差を読み取ることが出来ない。
「おい、あんま、イキがんじゃねーぞ」
 男は凄んでみせた。
 それが昼寝している猛獣の尾を、わざわざ踏み付けて起こす行為にも等しいの
だと、理解する知能も持たずに。然したる知識も理性もないその頭には、性的な
期待しかない。と、彼女には容易に知れていた。
 三秒。
 それだけあれば、充分であった。たかだか二つの首を落とすのに、それ以上の
時間は必要ない。数分前、数百人単位での殺害を思い止まった彼女であったが、
不快極まりない二人に理性は失われていた。巨大蛆虫を撃退した力を、再び放と
うとして二秒が経過したときであった。
「こんなところにいたんだ」
 突如割り込んで来た二人とは別の男の声に、彼女は機先を制される形になる。
「なんだ、お前」
 と、ニット帽の男。二人の関心は彼女から、第三の声の主へと向けられた。
 それはまた、何とも冴えない青年であった。
 間違ってもブランド物とは思えない、少し青み掛かったブルゾン。相当の年期
が入ったものと容易に知れる。元は黒一色だったはずのズボンも、膝の辺りに白
い色が見えている。
 二人の男に比べればまともな、しかし工夫も面白みもない短髪の下に笑顔らし
き表情があったが、それも酷く弱々しい。
「こいつ、ぼくの妹なんです」
 青年は軽く動かした顎で、彼女を指しながら言った。元々身長のある青年では
なかったが、少し腰を折り、上目遣いで男たちを見ているため、一層矮小に感じ
られる。
 勇ましい訳ではない、と言うよりむしろ気弱な性格なのだろう。それが何ゆえ、
知性の低さに反比例した凶悪さを持つ男たちに対し、見え透いた嘘を以って割っ
て入ったのだろうか。好意的に判断すれば、悪漢に絡まれた女性を救わんとして、
また穿った見方をすればライオンの獲物を掠め取ろうとするハイエナの目論見で
あるのか。
 いずれにしろ、青年の意図など彼女には興味がなかった。
 ただ一瞬の感情で、男たちの命を断とうとしていた彼女である。「人の世に行
き、己の成すべき事をせよ」と語った地獄の王の言葉に従おうとする彼女にとっ
て、青年は大局的に見れば、恩人になるのかも知れない。
「はっ、妹だと」
 薄ら笑いを浮かべたのは茶髪の男であった。当人にしてみれば、威嚇の表情な
のであろうが、彼女の目には不細工且つ、滑稽にしか映らない。
「あの、何か妹がご迷惑をお掛けしたみたいで………ほら、お前もちゃんと謝っ
て」
 腰を低くしたまま、青年は彼女へと歩み寄る。そして小声で「走って」と耳打
ちをするや否や、彼女の手を取り駆け出した。
「あ、この、待て!」
 二人の男も、すぐにその後を追おうとする。が、決して追いつけはしないだろ
う。
 駆け出した背後で起きたこと故、青年は気が付かなかったであろうが、二人の
男は派手に転倒をしたのだった。彼女の仕業である。
 既に二人の命に興味を失った彼女にしてみれば、青年と共にこの場を逃げるこ
とが最善の策であると思えた。もし、青年もまた男たち同様、彼女に対し邪な期
待を持ち合わせていたとしても、その時はその時である。相手が一人であるなら、
いかようにも出来るだろう。
 時間にして三分程度、走ったであろうか。
 青年と彼女は先ほどの雑踏がさほど遠くない場所にあるとは思えない、静かな
路地にいた。
「いやあ、やっぱり普段、運動、してないと、きつい、や」
 膝に手を置き、切れ切れの息で言う青年。腹に何か一物を持つ者ならば、間も
なくその本性を見せるであろう。特に恐れる必要もない彼女は、静かに青年の動
向を待った。
「キミ、すごいね」
 青年の発した言葉に、その意味が分からず、彼女はわずかに眉を歪めた。それ
に気づいたのだろう、青年はすぐに補足する言葉を続けた。
「いや、これだけ走って、息一つ、切らしてないから」

「なんだ、そんなことか………」
 愛想ない彼女の応答に、青年は軽く笑みを浮かべる。それから少しの時間、黙
って彼女を見つめた。その表情からは、悪意らしきものを感じ取ることは出来な
い。何かを愛しむ、と言うり懐かしんでいるようでもあった。
「たぶん、キミ、強いんだろうけど。あんまり無茶しないことだよ。女の子、な
んだから」
 そう言って青年は彼女に背を向けた。そしてそのまま彼女を残し、路地の出口
へと、一人歩き出す。
 それでは、青年の行動は本当に、ただ彼女を救おうとしただけのものだったの
か。
「おい、待て」
 そう思うことが、彼女を酷く不快にさせた。自然と青年に掛ける声も、あの二
人組へ向けたもの以上に乱暴になる。
「ん、どうかした?」
 足を止めて青年は振り返る。
「なぜ私を助けた。何か目的があったんじゃないのか?」
 詰問口調、と言うより完全な詰問だった。彼女は真っ直ぐ、青年の目を見据え
る。その気迫に圧されたか、あるいは己のやましさ恥じたか、わずかな間の後、
青年のほうからそっと視線を外した。
 瞬間、彼女は確かに見た。いや、感じたとするのが正しいのか。
 青年の中、心の奥に何か揺らめくものがあるのを。
 それはコンピュータ内の重要情報さながらに、幾重にもプロテクトを掛けられ
ているようだった。彼女の特殊な力を以ってしても全てを窺うことは出来ない。
そのためはっきりと断定しきれないが、巨大な悪意のようであった。先ほどの二
人組の、本能のみに支配された刹那的欲望による悪意とは違う。もっと巨大な、
根の深い何か、であった。
 俄かに、この冴えない青年に対して、彼女の中で興味が生じる。そう、青年の
心の奥底にある何かが彼女の「成すべき事」に繋がっているのだと直感したのだ
った。
「べ、別に目的なんか………」
 随分と遅れて青年の口から出てきたものは、先刻の彼女の詰問に対する答えで
あった。だが、もう彼女にとって、そんなものはどうでもよくなっていた。
「責任をとれ」
 大股で青年との距離を詰め、彼女は言った。あまりにも接近し過ぎたため、彼
女は言葉とともに吐き出された自分自身の息が、青年に当って返るのを感じる。
 ここまで近づいて、彼女は始めて青年の背が、当初の印象より高いことに気づ
く。二人組の前で腰を低くしているときには、矮小に感じられた青年だったが、
こうして見ると彼女よりちょうど頭一つ分高い。そのため、青年の目を見据えよ
うとする彼女は、随分、首に負担を掛けることとなった。
「責任って言われても………ぼく、キミに何か悪いことしたかなあ」
 やや臆したように、軽く顔を横に逸らし、青年は彼女からの視線を切る。その
様子から、青年が女性に対し、不慣れであると察しがつく。少なくとも、二人組
から彼女を救い出したのには、何かしらの打算があったと考えるのは間違いのよ
うだ。ただそれを知ることで、彼女はかえって不快になった。同時にいまはもう、
完全に感じられなくなった、青年の心の中にある何かに、強い関心が湧く。
「私にはあてがない」
「えっ?」
「行く当てがないのだ。だから、お前の住まいに案内しろ」
 彼女の言い分は、まるで正当性のないものであったが、青年から抗議の言葉は
なかった。正しくは呆気に取られ、抗議することも忘れていたのだろう。しばら
く何かを言い返そうと考えているようでもあったが、彼女には青年が言葉を見つ
けるまで待つつもりなどない。
「ほら、早く」
 彼女は立ち尽くす青年の横を抜け、先ほど彼が立ち去ろうとしていた方角へと
歩き出す。
 狭い路地だったせいもある。横を通り抜けようした一瞬、互いの肩が微かに触
れた。同時に何か声が聞こえたような気がして、彼女は青年を振り返った。
「何か言ったか?」
「いや………何も」
 青年が呆けたような表情をしているのは、彼女の問い掛けに対してだけではな
いだろう。その前からの言動全て、人を驚かすのには充分なものであったのだか
ら。
 とにかく青年が嘘をついたり、惚けたりしているのではないらしい。そうする
理由がない上、余裕もなさそうだ。

 あるいはどこからか聞こえて来た、別の者の声か。それともまた青年の心の奥
底にあるものが、今度は声として聞こえたのだろうか。
 そのどちらでもない。
 それは確かに彼女の近くから聞こえて来た、女の声であった。
 彼女はそれ以上、声の正体について追及するのを止める。知ったところで、意
味もないことだと思えたのだ。「成すべき事」に無関係であれば、興味を持つ必
要もない。

 彼女はわずかに首を振ることで、青年に対し急ぐよう促し再び歩を進める。
「お願い、助けてあげて」
 そんな声が聞こえたことは、もう忘れていた。



 それはあまりにも慎ましやかなものであった。
 玄関の引き戸を開けると、薄暗い廊下の左右にドアが計六つ。手前右側の一つ
だけやや奥まった造りになっており、そのドアには「TOILET」の文字が見
える。他の五つのドアが、それぞれ別の店子の住む部屋となっているのだろう。
 青年の住む部屋は、おそらく前の元号時に造られたこの古いアパートの、ぎし
ぎしと軋みを上げる階段を上がった二階の一番手前にあった。
 共同の玄関同様、ただし材質は異なった重い引き戸を開けると、いきなり畳半
分ほどもない台所が現れる。その横、わずか一間の空間が、青年の生活の場であ
るようだ。
「ま、まあ、座って。楽にして」
 青年に勧められるのを待たず、彼女は室内に一枚きりの座布団に着座していた。
 しばらくは所在無さげに立ち尽くしていた青年だったが、意味もなく左手で頭
の後ろを掻きながら彼女から距離を置いた、窓の前に腰を下ろす。
「えっと、テレビでもつけようか………」
 手を伸ばし、彼女の前にあった座卓よりテレビのリモコンを取って青年が言う。
「構わなくていい」
 一言発し、彼女は部屋を見回した。
 六畳一間に半畳弱の台所。世辞にも広いとは言えない部屋であったが、しかし
そのわりに狭くも感じない。室内に置かれた物が極端に少ないためである。
 彼女のすぐ横に、食事用のテーブル及び机としての役割を兼ねているのであろ
う座卓。その正面は窓となっている。アパートの側が厚くなっているためか、出
窓のような空間があり、そこに小型のテレビが置かれていた。
 彼女の向いた正面、青年の後ろにも窓があった。通常アパート内、全ての部屋
が同じ造りになっているはずだが、ここには角部屋ということもあり、窓が一つ、
余分に設けられているのだと思われる。故に部屋はかなり明るく、その点でのみ
恵まれていると言えよう。
 その他には、壁の桟にハンガーで掛けられたコート。台所横の空間が押入れと
なっており、中に青年の布団ぐらいはあるのだろう。それからドアの横、台所の
斜め前に、玩具と見紛うほど小さな冷蔵庫。さらにその横には暖房器具らしきも
の。上部に「セラミックファンヒーター」の文字が見える。薄っすらと埃を被っ
ているところを見ると、光熱費節約のためか、使用頻度は低そうだ。
 これが青年の家財道具の一切であった。ただ生きていくだけならば問題ないが、
現代人の生活としては、質素極まりないものであった。
「寒かったら、つけるけど」
 彼女の視線が暖房器具で止まったのに気づいたようだ。青年が声を掛けてくる。
「構うなと言った」
 答えながら、彼女はふと思った。
 部屋に置かれた暖房器具。「寒かったら、つけるけど」と言った青年。
 そうか、いまは冬なのか。
 彼女は視線を落とし、自分の着ているものを確認する。
 目に飛び込んできたのは、彼女に相応しい闇色。黒の一色。
 黒のソックスに、黒く細いズボン。そのズボンを膝下辺りまで隠すのは、身体
のシルエットをあまり隠さない、黒のコート。首に柔らかく触れているのは、ボ
アの付いた黒い襟であった。
 彼女自身、暑いとも寒いとも感じない。そのことについては、特に不思議だと
思わなかった。
 悪魔の眷属であるから。
 その一言だけで、彼女の中では充分に説明がつく。
 しかしまだ疑問は残る。
 部屋の様子から、青年の暮らしぶりが決して豊かなものでないと知れる。だが
知れる、と言うのは比較する別のものを彼女が知っていてのことである。そう、
彼女は知っていた。人の暮らしぶりと言うものを。
 これは教えられた、あるいは書物から学んだ知識とは異なる。たとえば水がH
2O、二つの水素原子と一つの酸素原子から構成されている、ということは学ん
だ者であれば当然の知識として持ち合わせている。だが水を見て、それを実感す
る人間はまず存在しない。
 しかし彼女は、青年の暮らしぶりが豊かなものではないと、実感することが出
来る。これは彼女が比較する人の暮らしぶりを幾つか、体感的に持ち合わせてい
る証と思えた。
 かつて彼女は人として生きていた。
 そう考えれば説明はつく。
 悪魔に魂を売る、そんな言葉がある。
 あるいは、昔話に人が鬼になった物語を聞いたことがある。
 強い怨念を持って死んだ者は、地獄の王の配下となるのだろう。もとより血の
海の中、半身のみで浮いていた自分が、安らかなる死を迎えていよう筈もない。
 彼女はそれ以上考えることを止めた。
 おぞましき姿で目覚めた、あの時以前の自分を探ってみても仕方ない。それが
「己の成すべき事」へのヒントになるとは思えなかったのだ。
 かつての自分が何者であったかよりも、いまの彼女には「己の成すべき事」の
方が遥かに重要であった。それを成した後、何があるのか、己がどうなるのか、
関心はない。と言うより地獄の王の命に従う以外、彼女には自分の存在理由を見
出すことが出来なかったのだ。
 身体半分しか持たず、それを鏡に映した偽りの半身で隠す彼女にとって、地獄
の王に与えられた使命のみが全てだった。
――コンコン――
 と、二回、戸を叩く音。正確に表現すれば「コンコン」などと小気味いい音で
はない。安手の合板木材と薄い曇りガラスが緩くなった戸は、些か乱暴な拳によ
って磨り減った敷居の上を震え、不快な軋みを響かせる。
「ケンちゃんいるぅ?」
 次に聞こえたのは、女の声。その媚びた響きには、声の主の善からぬ企みを推
し量るのに何の障害もなかった。
 一瞬。
 また一瞬のことである。
 あまりの短さに、はっきりとした姿を捉えることは出来なかったが、青年の心
に一瞬の揺らぎが生じたのを、彼女は見逃さない。地獄の王の眷属たる彼女にと
っては心地よい、禍々しい感情を。
「ああ〜よかったあ。ねぇ、ケンちゃん、お願いっ、助けてぇ」
 部屋の主が答えるのも待たず、乱暴に戸が開かれる。続いて現れた女の姿に、
彼女は反吐が出そうになった。交差点で声を掛けてきた二人組といい、この女と
いい、人の世とは彼女の癇に障る存在の何と多いことであろうか。こうした輩と
同じ空気を吸って過ごすこれからの時間を思えば、血の海で漂っていた地獄での
時間の方が、遙かに快適であった。
 戸の開け方一つで、育ちの悪さは充分に窺い知ることが出来たが、それに容姿
を付け加えると、全く女には救いがない。
 本人はファッションのつもりなのだろう。部分的に染められた紫の髪は、見た
目にも汚らしく、いまにもそこから虫が飛び出して来そうであった。尤もどんな
虫が飛び出して来ようと、それがたとえ血の海で会った巨大蛆虫や蝿であったに
しても、彼女にして見ればその女自体よりよほど可愛らしく思えたであろう。
 白地に黒という、あからさまに模造毛皮と知れる豹柄のハーフコート。やけに
光沢のあるレザーの黒いスカート。短いスカートから伸びる二本の脚は扇情的と
いうより、女の羞恥心の乏しさを周囲に知らしめているだけであった。
 如何にも愚鈍そのものを絵にしたような女であったが、生き物として最低限の
直感は有していたのかも知れない。それとも単に偶然であったのか。ただ悪意の
みを持って見つめる彼女と女との目が合う。
 突然の静寂。
 がさつな立ち居振る舞いで、指一本動かすのにさえ騒音を伴いそうな女が、彼
女と視線を合わすと同時に動きを止めたのだ。
 特別隠してはいないが、彼女にはそれほど明確な形で悪意を女に向けたつもり
はない。尤もそうしていたところで、それを感じ取ることが出来るような繊細さ
を女が持ち合わせているとは思えない。
「あっ、彼女、ぼくのいとこなんだ」
 女の様子に気づいたのか、青年が偽りの説明をする。
「ふうん、そう」
 偽りの説明を受けると、女はもう、彼女への関心を失ったようだった。しかし
先刻のけたたましさは幾分抑えられ、ゆっくりと青年へ向き直る。
 青年に比べれば、女の感情は読みやすい。
 恐怖。あるいは驚愕、恐慌と言ってもいい。
 細部まで読み取ることは叶わなかったが、彼女を見た瞬間の女の感情は驚きで
あった。それも自分の恋人の部屋で見知らぬ若い女性を目撃した際の嫉妬、と言
った類の驚きではない。恐れを伴う感情。女は瞬間、彼女に対して恐怖を感じて
いた。
「お願い、ケンちゃん」
 彼女に恐怖感を抱いた記憶さえ、もう失ったのだろうか。女は青年の前で膝を
突くと、両手を胸の上で合わせ、拝むような形を見せた。青年を見つめる媚びた
目つきは手馴れた感がある。どうやら女には、男にこのような仕草を見せること
が、習慣的にあるらしい。
「お母さんが急な病気で入院しちゃって、私………どうしたらいいのか」
 見え透いた、と言う言葉がここまで当てはまる例は他にないだろう。続く台詞
を聞くまでもなく、女がここを訪ねた訳は容易に想像がつく。
「金の無心か」
 女の目論見を妨害するつもりはなかった。青年を助けるつもりもない。敢えて
理由をつけるなら、彼女にとって女が癇に障る種類の人間であったから、だろう。
思ったことが、そのまま彼女の口をついて出た。
 小さく、微かに舌打ちをする音が聞こえた。一瞬たりとも彼女を振り向くこと
はなかったが、女のしたものに違いない。
「大変だったね、お金、いるんだろ?」
 穏やかに、同情を込めた青年の声。この狭い部屋の中で、彼女の言葉や、微か
な音ではあっても女の舌打ちが、耳に届いていない訳はない。それでも青年の声
には、女の無心に応えようという意思が見て取れる。
「あっ、ほら、交通費とか、入院保証金とか、他にもいろいろ………三十、うう
ん二十万円くらい」


 事は女の思惑通りに進む。
 予め用意してあったのか、あるいは即興で作られたものなのか。まるで学芸会
の芝居を観るような女の台詞。女と青年の間で交わされる会話に、彼女の存在は
まるで無視されていた。
 もともと二人の間に介入する理由はない。彼女は黙って成り行きを見ることと
した。
「ごめん、いまこれしかないんだ」
 青年は机―――座卓の引き出しの奥から封筒を取り出し、女へと手渡した。女
は躊躇いや、遠慮の間を置くことさえなく封筒を受け取ると、中の一万円札を抜
き取り扇状にして数え始める。全部で十二枚。念を押すかのように、二度に渡っ
て数え直した女は一万円札だけを、コートのポケットへとねじ込んだ。女の関心
を得られなかった封筒が、畳の上へと落とされた。
「ありがとう、助かったわ。あとはなんとかするから」
 礼を述べる言葉に感謝の気持ちは微塵も感じられない。そればかりか、金を受
け取ったことにより、青年に対しての興味を完全に失ったようである。こんな場
所に長居は無用とばかり、踵を返しまるで走るようにして部屋を出て行ってしま
った。
 女が現れ立ち去るまで、わずか五分にも満たない時間であった。
 この間のやり取りを見れば、彼女の特別な能力を使うまでもなく、二人が恋人
同士の関係にあるとは思えない。少なくとも、女の方は男に特別な好意を抱いて
はいない。それを確認するため、女の後を追ってみることにした。
 それは文字通り、女の後を着けて行く、と言うことではない。軽く瞼を閉じ、
耳を澄ませ、部屋を立ち去る際の女の足音を思い浮かべる。記憶を辿る作業のよ
うでもあるが、彼女の行うそれには曖昧な部分も、想像力に頼る部分もない。耳
に蘇った女の足音は、彼女の視覚に映像を伴わせる。まるで女の横に立ち、一緒
に歩いているかの如く。

「だーめ、あいつ、全然シケてやんの」
 と、少々不機嫌に女は言う。
 青年のアパートからわずか数十メートル、路上に停められたダークブルーの車。
その助手席に乗り込むと同時に発せられた一言であった。
「で、いくら?」
 そう言ったのは運転席の男。短い髪をハリネズミのように立てている。豹柄の
ハーフコートは女とお揃いのつもりか。コートの下から覗いているのはストライ
プ模様のタンクトップ。首、そして両方の手首にはメッキか、あるいは本物なの
か金色のチェーンが巻かれていた。全体的に男の着こなしは毒々しいと言うより、
滑稽であった。
 女と並んだ姿は、まるで売れないコメディアンである。
「んー」
 男の問いに女は動きで応ずる。無造作にポケットから握り出された一万円札。
それを、男もまた乱暴に掴み取り、枚数を確認した。
「ふうん、まあまあ、ってとこか。んじゃまあ、あんまり贅沢は出来ねぇけど、
こいつを持って出かけますか」
 言うや否や、男は一万円札をダッシュボードに投げ出し、その勢いのままシフ
トレバーへと手を移動させる。
 けたたましいエンジン音と、タイヤが路面を激しく擦る音を残し、車は走り去
って行った。





元文書 #272 白き翼を持つ悪魔【01】            悠木 歩
 続き #274 白き翼を持つ悪魔【03】            悠木 歩
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