AWC 白き翼を持つ悪魔【03】            悠木 歩


前の版     
#274/598 ●長編    *** コメント #273 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  22:48  (452)
白き翼を持つ悪魔【03】            悠木 歩
★内容                                         06/08/26 21:31 修正 第2版

「お前はバカか?」
 どれほど無能な作家であっても、ここまで見え透いた脚本を書いたりはしまい。
そんな女の手口にいとも容易く金を手渡してしまった青年に、彼女は一瞬の逡巡
もなく言い放つ。腹が立つ、というより愚かな青年へ呆れてしまったのだった。
「あいつの話は全部嘘だ。まさかそれも見抜けないほど、愚か者なのか、お前は?」
 侮蔑の念もあからさまに彼女は言う。青年の感情を波立たせることが目的であ
った。彼女にとって「成すべき事」を成すためには、青年の心の中、揺らめくも
のの正体を少しでも把握しておきたかった。青年の過ぎるお人好しさ加減に少々
腹立たしさを覚えたのも事実である。
 しかし青年は答えなかった。彼女の言葉に対し、短く「はは」と笑うだけだっ
た。
 それから暫く沈黙が続く。彼女にして見れば、自分の使命を果たすまでに定め
られた時間があるわけではない。青年の心の奥底にあるものを、いまこの場で強
引に探り出す必要はないのだ。
「分かっているさ」
 虫の足音にさえ、かき消されてしまいそうなほど、小さな声が返って来たのは、
だいぶ時間が経ってからのことだった。「分かっている」それが、女の話が嘘であ
るということ指しているのか、それとも彼女が「愚か者」と呼んだことに対して
なのか。彼女は再び問いはしない。青年もそれきり、言葉を続けはしなかった。



 冷たい風が吹き抜けて行く。
 朧気な明かりの中、葉を落とした木々の枝が不気味な踊りを見せた。その姿は、
まるで肉体が滅んだ後も死にきれず、もがき苦しむ骸骨たちのようでもある。
 幽霊や妖怪、物の怪の類など存在しない、怖くない。そう豪語する者でも些か
不安な気持ちになっても不思議ではない光景だった。
 が、むしろ彼女にとっては心落ち着く環境と言えた。
 不快極まりない人ごみもない。おぞましい血の海もない。
 寒さは彼女に辛さを与えるものではなかった。もとより、彼女は「寒い」と感
じることがない。
 彼女はいま、青年のアパートからそう遠くない公園にいた。
「えっ、あ、だけどきみ、行くあてがないって」
 部屋を出ようとした彼女に掛けられた、少し驚いた様子の青年の声。
「あれは冗談だ」
 短く彼女が答えると、青年の表情に微かな安堵の色が浮かぶ。同時にどこか寂
しげでもあった。
「なに、どうせまたすぐ会える」
 そう一言残すと、彼女は青年の反応を確認することなく、部屋を後にした。

 青年は彼女に対し、少なからず好意を抱いていた。これは別に彼女の自意識過
剰によるところの思い込みではない。彼女にはそれが分かるのだ。
 ただ彼女が部屋を出ようとした時に、安堵の表情を見せたことから、青年が女
に対し免疫を持ち合わせてはいないのだと窺える。身体を開き、男を魅了し手玉
に取るなど、さして難しいとは思わない。目的のためならば、どんな男にでも抱
かれるのに抵抗はない。
 だが青年に対して、それは効果的ではない、と彼女は判断した。
 客観的に見れば、女に騙され、いい様に金を貢がされているだけの馬鹿な男。
そうであるならば、これほど扱いの容易い相手はないだろう。身体を開くことで、
いや、彼女にその意思があるかのように匂わすだけで、どうにでも動かせるであ
ろう。
 しかし青年は女に、ただ手玉に取られている訳ではない。何か思惑があっての
ことだと、彼女には感じられた。それは彼女が青年と出逢った直後、その心の奥
底に感じた「何か」と深く関わりがあるように思える。
 青年の心の奥にあるもの、それを彼女は利用したい。それこそが彼女の「成す
べき事」と判断したからである。
 彼女には青年の心の中の奥、揺らめくものの正体を知る必要があった。そのた
めには、性急な接近はかえって逆効果である。時間を掛け、彼女は青年と親しく
ならなければならい。幸い、「成すべき事」を成すために、時間の制限は課せら
れていない。青年も彼女に何かしらの好意を持っている。ただ一つ不安材料があ
るとしたなら、青年が彼女に対して持つ好意が、必ずしも異性に対してのそれで
はないことぐらいだった。
 まずは無理なく、自然に青年へと接近するため、一旦部屋を後にしたのだった。
「さしあたっては、金、か」
 人の世で暮らして行くのには金が必要である。さすがに彼女も錬金術は使えな
い。金を手に入れるためには、何かしらの手段を講じなければならない。どこか
金のある場所から頂いて来ることが最も簡単な方法ではあるが、「成すべき事」
を成す前に目立つような真似は避けたい。
 無意識のうち、彼女の口元に笑みが浮かぶ。
 もしその笑みを、危険を避けるための最低限の能力を持ち合わせた者が見てい
たのであれば、他の何事より先にその場から逃げ出すと言う選択肢を選ぶであろ
う。
 それほどまでに凶悪な笑みが浮かぶ。
 しかし、近くの外灯が彼女の姿を照らし出してはいたが、相手が彼女の笑みを
認識するには光量が不足していたし、些か距離もあった。
 何より彼らには光量よりも、知恵というものが不足していた。
 先に彼女の存在に気がついた男が、もう一人の男を肘で軽く突く。
 二人の男の視線が、彼女へと向けられる。
「あれ、あの女、昼間の」
 風の途切れた中、明かりは不足していても声はよく通る。一人の男がもう一方
に耳打ちしたつもりの言葉は、彼女の耳にも届いていた。
 突然男たちは、小走りとなる。逃がすまいとしてのことであろうが、彼女に逃
げる意思はない。むしろ男たちの接近を歓迎して待っていた。
「よう、また会ったな」
 彼女の前に立った男が言う。その間に、もう一人の男が彼女の背後へと回った。
退路を断ったつもりらしい。
 既に分かってはいたが、接近によって男が何者であるのか、肉眼でも確認され
る。彼女の前に立ったのは、昼間、スクランブル交差点で出会った、ニット帽の
男であった。後ろにいるのは、茶髪の男であるのは間違いない。
「なんだい、一人かよ。お兄ちゃんは、どうしたんだ」
 だらしない笑みを浮かべながら歩み寄る姿は、白痴そのものである。夜の公園、
他に誰も居ない中、数の上で勝るというだけで自信を持っているのであろう。あ
るいは絶対に男の方が女よりも力に勝っていると思い込んでいるのかも知れない。
確かに彼女が普通のか弱き女性あれば、逃げ出すことの叶わない距離にまで男た
ちは詰め寄っていた。それが自分たちの命取りになるなどとは考えもせずに。
「けど、また会えるとはな。俺たち、よっぽど縁があるんじゃない」
 前に立ったニット帽の男が彼女の手首を掴む。
「なあ、今度こそ俺らに、付き合ってくれるよね」
 茶髪の男が、後ろから彼女の肩を抱いて言った。それは明らかに彼女の意思を
確認するためではなく、脅迫を込めてのものであった。
「私もまた会えて嬉しい」
 彼女が短く言葉を返すと、男たちはそれぞれに掴んでいた手首、抱いていた肩
を離す。他に見る者もない中、彼女には自分の力を抑える必要がない。短い言葉
の中にも、それまで以上の凄みが溢れていたのだ。さすがに愚鈍な男たちも、感
じ取ったらしい。たが悲しむべきことに、男たちにとって行動を司る最も基本的
ものは「欲望」であった。目の前に存在する彼女を、己の生命にとって危険なも
のとして認識するより先に、性的欲望の対象として捉えていたのだった。

「へへっ、な、なんだ………意外と話が分かるじゃんか」
 彼女の言葉の意味を誤って理解した男の口元が緩む。
「じゃ、よ。こんな公園で、ってのもナンだからさ。俺、いいとこ、知ってんだ
よ。な、一緒に行こうぜ」
 ニット帽の男が、再び彼女の肩へと手を伸ばす。しかしその手が彼女の肩に触
れることはなかった。
 突風。
 突然吹き抜けた強い風に、二人の男は倒れこむ。
 吹き抜けた―――と言うには、少々不自然な風である。舞い上がった木の葉が、
その不自然な軌道を浮かび上がらせていた。
 螺旋。風は彼女を中心に、螺旋の渦を描いて吹き抜けたのだった。
「行き先は決まっている」
 男たちを見下し彼女は言った。その声は恐ろしく冷たい響きを持っていた。こ
の頃になり、男たちはようやく彼女の尋常ならざる様子に気づく。
「お、おい………待てよ。金、金だろう。持ってるぜ、ほら、これやるから」
 いきなり焼けたアスファルトへ落とされた芋虫のように身を捩り、茶髪の男が
ズボンの後ろのポケットから財布を取り出す。相当な厚みがある。数十万円単位
の金が入っていそうだ。
 しかし彼女は財布に対し、特に一瞥をくれることもなかった。彼女はいま、金
を必要としている。あの青年に近づき、自然な形で彼の心の奥底にあるものを探
り出すためにも金を欲していた。だが、慌てて奪わずともよい。男たちを片づけ
た後、ゆっくりと頂けばいい。
「行き先は、地獄だ」
 言い放った彼女の顔に笑みが浮かぶ。底知れぬ恍惚感が全身を駆け抜けて行っ
た。
 男たちは惚けた表情で彼女を見つめている。唐突な彼女の言葉の意味を解さな
かったのか、あるいは冗談だと思ったのであろうか。しかし彼らは自分たちの置
かれた、絶望的状況をすぐに知ることとなる。
 すうっ、と身体の横に伸ばされた腕。黒いコートの袖の先、白い手が闇に浮か
ぶ。
 目を瞬かせるニット帽の男。痴呆のように開いた口が閉じなくなった茶髪の男。
 彼らの目の前で起きているのは、SFXを駆使したホラー映画の中でしか登場
することのない光景だった。
 ゆらゆらと、陽炎越しに見るかのように、彼女の左半身だけが歪む。もちろん、
それが偽りの身体であると、男たちは知らない。歪んで形を失った半身は赤く色
を変え、まるで血が流れるようにして、彼女の右手へと移動をする。そしてそれ
はそこで再び形を成す。一振りの巨大な鎌へと。
 血の海の中、ビルほどもある化物蛆虫を葬った彼女の武器である。たかだか人
間の男二人を始末するのには充分過ぎる、いや余るものだった。まして男たちは
限度を超えた恐怖に、身体の自由を失っていた。ゆっくりと行動を執る彼女に対
し、男たちにその場から逃げ出す時間的な余裕は充分あったはずである。それに
も関わらず男たちは操演者を失ったマリオネットの如く、地に転がり、呆然と彼
女を見つめていたのだった。たとえ身体の自由が利いていたとしても、男たちが
逃げ出すのを許す気など、彼女にはなかった。
 鎌の柄を握る手に、少し力を入れる。冷たく、確かな感触が伝わって来る。鎌
を振るい男たちの命を絶つ瞬間を思うと、彼女は恍惚とした気分になった。今、
改めて実感する。やはり自分は悪魔の眷属なのだと。恐怖に引きつる男たちの表
情が、彼女を心地よくさせる。動かぬ手足を必死に動かし、わずか一ミリにも満
たない後ずさりをする男たちが、あまりにも滑稽で吹き出してしまいそうだ。
 殺すことは簡単である。それより、死までの時間を長引かせることで、男たち
により多くの恐怖を与えることが楽しかった。しかし彼女にとって、男たちの殺
害が本来の目的ではない。「成すべき事を成す」ための、ほんのついでに過ぎな
い。ここで時間を掛け、万が一にでも他の誰かに見られたりすれば面倒だ。もっ
ともいま完全に彼女の支配する空間と化したこの公園に、無関係な第三者が入る
のは不可能な筈である。しかしリスクは少ないに越したことはない。
 すうっ、と軽い動きで、鎌を背後へと引く。次の瞬間、勢い良く振るうために。
「ふふっ」
 彼女は背中に熱を感じ、微笑する。彼女の意思に呼応し、鎌が熱を帯び始めて
いたのだ。それは温かいと表現される程度のものではない。生身の身体であれば、
鎌を持つ彼女すら無事ではいられないほどの高温にまで達していた。
 数秒後、繰り出された鎌はその熱を以って男たちを焼き尽くし、灰すら残さな
いであろう。それからは二度と、彼女が男たちを思い出すことはない。人が三年
前の夏、潰した蚊を記憶に留めてはいないのと同じように。

 だがその瞬間は訪れない。振り上げられた鎌はもう一分近く、彼女の背中でそ
の位置を保ち続けていた。
「ぐっ」
 噛み締めた奥歯から、くぐもった声が漏れる。
 躊躇しているわけではない。躊躇するはずがない。しかし鎌は彼女の意思に反
し、その場から一ミリたりとも動こうとはしないのだ。
 鎌を握る手に、更なる力を込める。が、結果は変わらない。
「おのれ、糞が」
 誰に対して吐いたのか、彼女自身、意識していた訳ではない。汚い言葉が口か
ら零れ出る。
 どれほどの時間が過ぎただろうか。長くも感じられたが、実際には三分と経っ
てはいないだろう。しかし地べたを這いずり回ることさえ敵わなかった男たちに、
生き延びる機会を与えるには充分な時間だったようだ。ほんの少し前まで、ミリ
単位さえ思うようにならなかった後ずさりが、今ではセンチ単位にまで及んでい
る。そればかりか、身体を起こそうと懸命に手足へ力を入れている。このままで
は、あとわずかな時間でその努力が報われてしまうだろう。
「させるものか」

 今度は穏やかなものだった。先ほどの言葉の中には見えていた焦りが、再度開
かれた彼女の唇からは消えていた。
 くくっ、と、まだ滑らかと表現するには程遠い動きであったが、鎌を握る腕が
前へと進み始める。これならば男たちが身体の機能を取り戻し、逃げるよりも先
にその命を絶つことが出来る。彼女がそう確信した時だった。
(………ちが………)
 誰かの声が聞こえた。
 もちろん彼女のものではない。まして男たちのものでもない。別の誰か、女性
のようであった。どこかで聞き覚えのある声ではあったが、詮索は鎌を振り終え
た後でいい。
(の………成すべ…は……じゃない……)
 再び声がする。
 それと同時に、彼女の目に映る全てが白一色に染まった。
 強い光が彼女の視界を遮ったのだった。
 それが声の主の仕業と、彼女が考えるのは自然なことであろう。視界を遮られ、
男たちの姿を見失ってしまったが、慌てる必要はない。多少、動きを取り戻しつ
つあったとはいえ、彼女の鎌は、確実に男たちを捉えようとしていたのだ。繰り
出した鎌が目標に達するまで、瞬きに要する時間ほども掛かりはしない。それこ
そ、風よりも速い動きをしないかぎり、男たちが難を逃れる道理はない。



 しかし鎌は空を切る。
 光が消え、暗闇が帰った中で彼女の瞳に映ったものは、自分の右腕だった。光
が消えると同時に、鎌も消えていた。そればかりか、男たちの姿さえ残っていな
い。
 ゆっくりと周囲を見渡してみる。やはり男たちの姿はない。近くの樹木やベン
チといった場所に姿を隠したのかとも思われたが、その気配は感じられない。悪
魔の眷属たる能力を使い公園内を隈なく探ってみても、どこにも男たちが潜んで
いる気配はなかった。
 しばらく、彼女はその場に立ち尽くす。焦りはない。
 逃げた男たちが彼女のことを誰かに話したところで、まともに耳を傾ける者は
ないだろう。万一、仲間を引き連れ、再び彼女の前に現れようとも、それは脅威
となり得ない。あの程度の男たちであれば、二人が百人、千人になったとしても
大差ない。もっともあの男たちに、たとえ軍隊の後ろ盾を得たとしても、もう一
度彼女の前に立つ度胸があるとは思えない。
 いま彼女が考えているのは、あの声の主についてであった。
「ふん、そうか」
 どこかで聞き覚えのある声だと感じていたが、ようやく思い当たった。
 青年と初めて出会ったとき、聞こえた声である。
 あの時は、漠然と「聞こえたような気がした」だけの声であったが、今度は確
実に彼女の耳が捉えている。
 どうやら声の主は少なくとも、青年と出会ったときから先ほどまでの間彼女を
監視していたものと思われる。彼女に気取られることもなく。いや、あるいは監
視はいまもなお続いているのかも知れない。
 それはとてつもなく不快極まりない想像であった。
 たったいま妨害を受けたばかりである。声の主が彼女の味方であるとは到底考
えらない。他の何者が彼女の前に立ち塞がったところで、それを脅威と思いはし
ないが、この声の主だけは違う。もしこの世に彼女の「成すべき事を成す」ため、
妨げになる者があるとしたなら、それはあの声の主のみ。彼女はそう直感してい
た。
「何者かは知らぬが、これ以上邪魔をするのならば、ただではおかない」
 背後に何者かの気配を感じ、振り返った彼女は恫喝の言葉を放つ。しかし誰も
いない。代わりに彼女は地面の上に、何か白いものを見つけた。
「なんだ?」
 白いものの正体を確認するため、歩を進めようとした時であった。それまで闇
と、闇を支配する彼女に遠慮してか、止んでいた風吹き抜ける。風に煽られた白
いものは、宙に舞い、軽やかな動きで彼女の元へと向かって来た。
 彼女は両の手を、まるで水を掬い取ろうかとするような形で、前へ差し出す。
 手乗りの小鳥。
 もしその様子を見る第三者があったとするなら、そんなものを連想したであろ
う。宙を舞う白いそれは、自らの意思を持つ生き物の如く、彼女の掌の上へと降
り立った。
 一枚の羽根であった。
 彼女は根元を指で摘み、それを外灯にかざして見る。
 白く細い、無数の筋が光を受け、きらきらと輝いた。
 美しい。
 血の海の中で目覚めてからの記憶しかない彼女にとって、それは初めての感情
であった。
 どんな鳥の羽根であろう。小さなものではない。街中で見られる大型の鳥とい
えば、鳩や鴉となろうが、羽根はもっと大きい。あるいはどこからか迷い込んだ
鷹のものだろうか。鳥についてさしたる知識を持たない彼女であったが、それで
もまだこの羽根の大きさには足りなく思えた。
 天使。
 ふと浮かんだ一つの単語に、彼女は首を横へ振る。
 馬鹿げている。夢見がちな乙女の空想でもあるまいし、天使などいうものが実
在する訳がない。ほんの一瞬でも、愚かしい発想をしてしまった自分が滑稽で、
彼女の口元に笑みが浮かんでいた。
 彼女にとって、悪魔は当然の如くこの世に在るものでも、天使は存在し得ない
ものなのであった。
「まあいい」
 その一言で全てが片付いてしまった。
 邪魔をしたのが何者であっても、これ以上関わって来るのなら何れ正体も知れ
よう。そうなれば、幾らでも対処のしよう、始末のしようもあるだろう。
 そう考えた彼女の頭の中からはもう、逃げた男たちのことも、羽根の持ち主へ
の興味も完全に消え失せていた。



 彼女は苛立っていた。
 運がいい。ついている。そう考えれば、もっと楽な気持ちにもなれただろう。
しかし、こうも物事が思うように進むと、却ってそれが面白くない。

 公園を後にした彼女は、その手に羽根を持ったままであることに気がついた。
すぐに片手で折って捨てようとした。が、そうはしなかった。
 何かの役に立つかも知れない。天使の存在こそは否定したが、この羽根は彼女
を妨害・監視する者が落としていった可能性もある。いずれその者を見つけ出す
ための、ヒントとも成り得る。と、これは後から自分を納得させるためにつけた
理屈だった。本当のところは、理由もなくただ捨てられなかったのだ。
 彼女は羽根をコートの内ポケットへとしまう。と、その時彼女はポケットの中
に他の何かがあるのに気づく。羽根をしまった手が、冷たく固いものを掴む。内
ポケットから抜いた拳を広げてみると、それは小さな鍵であった。どうやらコイ
ンロッカーの鍵であるようだ。二桁の数字が記されたプレートが付いている。
 当然、彼女はその鍵に覚えがなかった。もっとも血の海に裸で漂っていた時か
らの記憶しかない彼女には、いま身に着けているもの一切に覚えがない。これま
で、彼女を人の世へと送り出した城の主が与えたものだろう、とその程度にしか
思っていなかった。しかしたとえあれが「悪魔の王」だとしても、無から有を生
み出すことが可能だとは考え難い。だとするならば、このコートには彼女以前に
所有者がいたとしても不思議のない話である。鍵はおそらく、その所有者のもの
であろう。
 彼女はコインロッカーを探して見ることにした。
 あるいは、コートの前所有者も彼女と同類の者なのかも知れない。彼女と同じ
ように「成すべき事を成す」ため、人の世に現れた者。ならばこの鍵に合うロッ
カーには、彼女が目的を果たすにあたり、役に立つものがあるかも知れない。そ
う考えたのだ。
 だが、コインロッカーがこの世にどれほどの数、あるのだろうか。
 いや、この街と限定しても数十では済まないだろう。ましてこの街にあるとい
う根拠は何もない。ところが、である。それはいとも容易く見つかった。
 それは彼女がこの街で最初に目にした交差点から程近い、駅にあった。改札口
の脇、証明写真の機械横に並んだロッカー群の一つが、その鍵と一致したのだっ
た。
 思案や、迷う、といったことは全くない。ただなんとなく足を運んだ場所のコ
インロッカーが、彼女の持つ鍵と合ったのだ。それもまた、「成すべき事を成す」
ため、頭の奥底に刷り込まれていた記憶によるものだろう。彼女はそう理解しよ
うとした。
 差し込んだ鍵は簡単に回る。料金の不足はない。もしこのコインロッカーを、
彼女の前に「成すべき事を成す」ためこの街にやって来た者が使用していたのな
らば、その者がこの地を去って、いくらも時間が経っていないということだろう。
 コインロッカーから出て来たのは、通帳と印鑑、キャッシュカードの三点であ
った。
 通帳を開き、残金の確認をする。大金ではないが、数日、この地に滞在するに
は充分な額がある。と、そこで彼女は合点のいかない事実に気づいた。通帳に記
されているのは入金ばかりで、引き出しの記録が一切ないのだ。しかも最後の入
金は随分昔になっている。コインロッカーの中身を手にした彼女は、その足で近
くのコンビニエンスストアーへ向かった。そこのATMでカードを使い、口座の
残高を確認するためである。
 画面の指示に従い、四桁の暗証番号を思いつくまま適当に入力した。少しばか
りの待ち時間は要したものの、機械は問題なく彼女の操作を遂行すべく作動し始
める。そのことに驚きはない。コインロッカーが容易く見つかった時点で、これ
は自分のために用意されたものだと彼女は考えていた。暗証番号を適当に入力し
たのも、それを再確認するためであった。ほどなくして機械が示して来た口座の
残高は、通帳に記されたものと一致した。
 それは彼女を不快にさせる。
 コインロッカーの発見、適当に押した暗証番号。
 これらのことから、この口座は予め何者かが彼女のために用意したものと推測
出来る。それが最初の予想通り、彼女の前任者であるなら問題はない。しかし引
き出しの記録がない以上、彼女の前任者という考えは難しくなった。しかも最後
の記録が数年前というのも得心がいかない。少なくともこのカード等がコインロ
ッカーに入れられたのは、ごく最近であるのは間違いないのだから。
 では、一体何者が?
 地獄の王が銀行口座を開設する姿など考えられない。だが他の心当たりなど、
彼女にあろう筈もない。
 ―――あるいは。と、彼女は思う。
 公園で男たちの始末を妨害した何者かが、彼女に与えたものなのだろうか。妨
害を受けた直後、鍵に気がつき、ここまで来た流れを思えば、その何者かに導か
れたようにも見える。いや、しかしそれこそ考えられない話である。一度邪魔を
しておきながら、次は彼女の手助けをするなどとは、不自然過ぎる。
 考えながらも、彼女の手は休むことなく次の作業を終了させていた。やがて機
械は、彼女の希望した金額を吐き出す。
 当面必要な現金を手に入れ、彼女はコンビニエンスストアーを後にした。口座
の元の所有者が誰であろうと、いまこうして彼女は現金を手にした。これで人間
として社会に潜み、青年に近づくという、「成すべき事を成す」ため準備に取り
掛かれる。急ぐことはない。妨害する物が在るなら、ゆっくりと正体を暴き始末
すればいい。
 だが彼女は忘れていた。
 いや、考えつくことが出来なかった。
 彼女の手に渡った銀行口座の、元の所有者についてもう一つ可能性があること
に。



 まるで耳が自分のものでは、なくなってしまったようだ。
 吹き荒ぶ風が、街路樹の枝を激しく揺すり、けたたましいと表すのに不足ない
音を立てる。冬の最中に在っても、まだ葉を残している木々の揺さぶられる音は、
常軌を逸した喧騒を生む。おそらく、この葉も夜が明ける前には全て落ち切るこ
とだろう。
 風の冷たさは限度を超え、耳が感じるものは痛さとなっていた。いや、痛さも
超え、もう耳の感覚は失われつつある。しかしまた、最も感覚を刺激されている
のも、耳であった。
 この日の寒波は、数年に一度という強い勢力を持つらしい。今朝方、テレビの
中で繰り返し強調していた気象予報士の言葉も、大げさではなかったようだ。
 強い風が吹く度、腕にぶら下げた白いビニールの買い物袋が飛ばされ掛けてし
まう。そのつど足を取られそうになる自分に、青年は苦笑した。以前テレビで見
た、音速を超える車がブレーキを掛けるのにパラシュートを使う姿と、自分と重
ねていたのだった。
 袋は重いものでもないのだが、中身のサイズに対してかなり大き目だったため、
風を受け飛ばされそうになる力も相当に強くなる。
「これじゃ、部屋に着く前に、本当に飛ばされるかもな」
 買い物袋だけではなく、一緒に自分が飛ばされていく場面を想像し、青年はつ
いに声を出して笑ってしまう。風の音に隠され、夜の街に響き渡るような声では
なかったが、自分自身を驚かせるのには充分であった。
 笑ってはいけない。小さく呟いた。
 口元をぐっと引き締める。笑うのは、その必要があるとき。他人に対し、自分
を愚か者と思わせるためだけでいい。心の中で己に言い聞かせながら、青年はふ
と昨日逢った少女を思い出していた。
 あの娘には、本当の笑顔を見せてしまった。そもそも性質の悪い連中に絡まれ
た少女を、なぜ助けようという気を起こしたのだろう。目的を達する日まで、目
立たず、他人とは関わらないと決めていたはずのなに。現にいままでは、そうし
て来たではないか。それが、あのときに限って無視出来なかった。
 まあ、いい。やってしまったことは仕方ない。昨日のことは忘れよう。
 襟を立てコートのジッパーを限界まで引き上げる。風に飛ばされないよう、袋
を腕に巻きつけた。中身はコンビニエンスストアーで買ったカップ麺とにぎり飯
が一つ。麺を食べ終えた後、にぎり飯を残ったスープにつけ、おじやのようにす
る。そうやって食べるのが、青年の数少ない楽しみの一つだった。
 一段と強い風が吹いた。枯れ葉や小石が顔に当たって痛い。早く部屋に帰って
熱いお湯をカップ麺に注ごう。それを食べれば身体も温まる。青年は家路を急ぐ
足を速めた。

 大通りには今風の洒落た造りの建物が目立つが、一歩路地に足を踏み入れた途
端、突然時代が逆行する場所があった。まるでフォークソング全盛期を思わせる
街並みが現れる。情緒のある、と言えば聞こえがいいが、その実、時代の波に取
り残されただけのことである。青年のアパートは、そんな一角に建っていた。
 そのまま時代劇の撮影に使えそうな古い店構えの酒屋。その横、やや奥まった
所に木の引き戸があり、そこを潜って五・六歩進むとアパートの玄関へと到達す
る。昼間は木戸と玄関の鍵は開けられているのだが、さすがに夜は無用心という
ことで施錠されていた。しかし今夜は先に帰宅した住人が掛け忘れたのか、木戸
の鍵は掛かっていなかった。
 開錠のため手にしていた鍵を拳に握り締めたまま、いま抜けてきた木戸を施錠
する。当然内側からは鍵を使わず錠を掛けられる訳だが、まだ玄関、そして自室
と使うべき場所が残っている。従って鍵をいちいちポケットに仕舞うのは面倒な
のだ。
 薄暗い中、手にした鍵に目を遣りながら歩いたので、前方への注意が疎かにっ
ていた。そのため、玄関前に立つ人影に気づいたのは、お互いの息が直接顔に掛
かるほどまでに接近してからのことであった。
「うおっと」
 自分でも情けないと思うような声が出る。複数の人間が住むアパートだ。玄関
先で他の住人と鉢合わせになるのも、そう珍しくはない。しかし手元の鍵に気を
取られていたとはいえども、そこに在った人影は青年にとってあまりにも予想外
であった。
「驚かせたか。すまない」
 些かぶっきらぼうな口調で、相手の方から先に詫びて来た。どこかで聞き覚え
のある、女の声だ。
「いえ、こちらこそちゃんと前を見ていなかったものですから………変な声を出
してしまって」
 誰か他の住人の恋人だろうか。このアパートを女の人が訪ねて来るのはあまり
記憶にないな、そう考えながら青年は初めて女性の顔を直視する。
「あっ、君は」
 声に聞き覚えのあるはずだ。そこに立っていたのは、昨日、駅前の交差点で出
会ったあの少女だったのだ。
「ずいぶんと、遅かったのだな」
「ん、えっ、ああ。残業で」
 昨日の少女が、再び目の前に現れた。そのことに酷く狼狽した青年は、自分の
声が震えるのを感じていた。
 ちらりと、腕時計に目を遣る。間もなく午後十一時になろうかとしていた。
「君は、なんでここに?」
「お前を待っていた」
 相変わらず少女の言葉遣いは乱暴なものであった。しかし昨日に比べれば、少
し口調は柔らかく感じられる。
「ぼくを?」
「ん」
 突然突き出された彼女の手には、大きな紙袋があった。青年はそれを、反射的
に受け取る。ずしりとした重みがあった。
「昨日の礼だ。迷惑だったら、捨ててくれ」
 青年の手に紙袋が渡るとほぼ同時に、彼女はもうその場を去ろうと歩き始めて
いた。
「ちょっと待って。君、家は近いの? 送っていくよ」
「いらん」
 無愛想な返事をよこす彼女の姿は、既に木戸の向こうへと消えていた。
「そうはいかないよ」
 持っていたコンビニエンスストアーの袋を、紙袋へと押し込む。その際見えた
紙袋の中身は、大きな段重ねの弁当箱だった。




元文書 #273 白き翼を持つ悪魔【02】            悠木 歩
 続き #275 白き翼を持つ悪魔【04】            悠木 歩
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