#210/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 04/01/27 23:59 (497)
からくり魔神 5 平野年男
★内容
決め付ける貴之。しかし、それはこの場にいる全員の総意らしかった。坂上
伊予の事件を思い起こしても、推理だけで犯人にたどり着けるとは考えにくい。
「目撃したということか」
と、晋太郎。長らく黙っていたせいか、声が嗄れていた。
「僕も一旦、そう考えました。木村が犯人を知るとしたら、たまたま犯行を目
撃したか、犯行直後、現場から逃げる犯人を目撃した。でなければ、元から共
犯だっだか。このいずれかだと」
「分からんな。目撃しようにも、江田の部屋で江田と一緒にいたのでは、不可
能ではないかな」
晋太郎は慎重な言い方をした。今、彼の脳裏には、屋敷内の図面が克明に描
かれているに違いない。
「まさか、外に付けた角が、ここでも鏡の役目を果たしたとも思えん」
「そうなんです。目撃者になり得ない。元から共犯で、仲間割れして殺された
というのもおかしい。坂上の存在は想定外のはずだから、その坂上を殺害して
すぐ仲間割れでは、犯行計画を全く進めない内に破綻したことになります」
「それじゃあ、木村は犯人を知ることはできなかった、となるのか」
「いえ。断定はまだ早いです。いくつか考えがありますが……今は棚上げにし
ます。殺人犯の正体を知っていれば、訪問者が殺人犯でないならまず受け入れ
るだろうし、たとえ殺人犯がやって来ても対処のしようがある。結局のところ、
容疑者の絞り込みにはあまり役立ちそうにないですしね。それよりも、仮に木
村が第一の事件の犯人を知ったなら、僕達に教えなかったのは不思議に感じま
せんか」
「そうか。言われてみれば、共犯でないなら、賢治が犯人を庇う理由はない」
晋太郎の頬に皺が寄る。困惑するのは、賢治を血のつながった息子として認
めているからか。
良子達――晋太郎の周りの者なら誰しもが感じるであろう思いを言ったのは、
秘書の江田だった。
「亡くなった方を悪し様に言うのは趣味でありませんが、木村さんは狡猾な人
物でした。そんな人が他人の大きな罪を目撃して、沈黙を通すでしょうか。私
はそうは思いません。それどころか、あの人なら、殺人犯を相手に脅迫を行う
のではないかとさえ、想像を逞しくしてしまいます。夜中の訪問者が殺人犯で
も、脅迫の対象と思えば、恐れるに足らずだったのかもしれません」
「そういう見方もできるな……」
苦虫を噛み潰した表情の見本のようになる晋太郎。サングラス越しでもその
苦渋ぶりが充分に窺えた。
「さすが、長くこちらにお仕えされている江田さんだ。卓見ですね」
流の言葉が、良子にはお世辞に聞こえた。流はきっと、元々承知していたの
だが、多くの者から発言を引き出す目的で、譲ったのだ……そんな風に思えた
のは、贔屓目だろうか。
事実、江田は饒舌になった。
「坂上さんを殺した人間が誰であっても、木村さんの脅迫の標的になり得る、
つまり木村さんを殺す機会を得られることになります。そうなってくると、問
題は木村さんが第一の事件の犯人をいかにして知ったか、に戻って来ます。全
てはこれに帰結するはずなんです」
良子は我慢できなくなって口出しした。
「ちょっと待って。木村賢治は、お父さんから充分な援助をしてもらってたん
でしょ? その上にまだ他の人を脅して、お金を得ようとするかしら?」
「木村さんは完全に自由にできるお金が欲しかった、と考えればおかしくはな
いでしょう。それに、お金は持っている人ほど、それ以上にどんどん欲しくな
るものと言われますしね」
説いて聞かせる口ぶりで答える江田。良子の年齢や殺人発生下という状況を
考えれば、子供扱いもやむを得まい。しかし、納得できなかった良子は、口を
尖らせた。
「あいつはやな奴だったわ。けれど、犯罪するような人間には見えない。うう
ん、いい意味で言ってるんじゃなくて、犯罪をする度胸を持ってないと思うの。
腕っ節は全然だめだから、反撃されるのが恐いって感じ……」
「お言葉ですが、そんなことはありません」
江田は自説への執着を見せた。流を始め、皆が一層注目する。江田は口を開
きかけ、多くの視線に戸惑ったかのように、わざとらしい大きな咳払いをした。
「失礼をしました。ええっと……彼は社長を、あなたのお父さんを、いいよう
に扱おうとしていました。その悪党ぶりは、社長も同意くださることと存じま
す」
「うむ……。狡賢い面はあったが、あれは元来、小心者で憶病。誰かに依存せ
ずには生きていけない種類の人間だったように思う。少なくとも、悪党と断じ
るのは忍びない。死んでしまったことでもあるし、何と言っても私の血が流れ
る子だからかな……」
秘書は不満そうに歯がみしたが、すぐに取り澄ました。
「仕方がありません。矛を収めるタイミングのようです。私の説はひとまず引
っ込めるとします。そもそも、私が普段からもっと気を利かせて、社長にご注
意申し上げていれば、木村さんがここへ住み込むような事態にならなかったか
もしれませんのに」
ため息混じりに言って、江田は黙った。余計な口を利くのは出すぎた真似だ、
もうよそうとばかりに唇を真一文字に結んでいる。
「それでは、また僕が」
マイクを受け取るときに似た仕種で、手を軽く握った流。殺人事件の話をし
ているとは信じられないほど、穏やかな顔だ。ただし、目つきだけは鋭く光っ
ているよう。良子はそう感じた。
「長くなっていますが、ここでやっと後者の説に移ります。犯人を知らないに
も関わらず、夜中の訪問を受け入れることはあるか? 殺人発生を知らなかっ
た場合。これは考えなくていいでしょう。記憶をなくした場合も含まれますが、
さらに低い可能性しかない。
木村は相手を信頼しきっていたのかもしれない。犯人が誰かは知らないが、
この人だけは犯人ではない――と、木村が思っていた人物。たとえば、坂上殺
害時刻にずっと一緒で、お互いのアリバイを証明する関係だった江田さん」
「理屈は分かりますよ」
室内の空気がさざ波を立てる中、指名された江田は冷静な反応を見せた。さ
っきの饒舌さを残し、しっかりとした口調で答える。
「木村さんが私を犯人と思わないのは当然。だから私が深夜に訪ねても、全く
警戒することなく受け入れた訳ですね」
「否定する材料が、僕には浮かびません。まだ江田さん一人が容疑者と決まっ
た訳じゃありませんが……」
「私にとって大事なアリバイ証人の木村さんを、私が殺すのは道理に合わない
んじゃないでしょうか」
「すでに僕らがその証言を耳にしています。あなたにアリバイがあることは、
僕らが間接的に証言できます」
「なるほど。しかし、私が一体どんな理由をこねて、夜中に離れに足を運ぶと
言うんです? 木村さんがいくら私が殺人犯でないと信じていても、夜中の訪
問を受け入れるからには、それ相応の理由が必要になってきましょう」
「あくまで一例ですが、藤川さんの遺言について知り得た範囲で教える、とで
も言えば、木村は簡単にドアを開くんじゃありませんか」
「うーん、弱りました。筋が通っているのは認めざるを得ません……」
台詞こそ冗談めかしているが、余裕の笑みが消え、顔色を悪くする江田。し
きりに眼鏡を押し上げる仕種は、いつもの沈着な秘書像からかけ離れている。
「それでは、江田さんを容疑者リストに入れることになりますが」
探り探り、流は言った。警察でも探偵でもなく、ましてや年長者でもない彼
が慎重になるのは、至極当たり前であろう。
江田はため息混じりに応じた。
「致し方ないですね。他に容疑者がいない訳でもなさそうだし……。せめてア
リバイがなかったか、昨晩の出来事を思い返してみるか」
途中から独り言のようになった。
一方、流もまた口の中で何事かぶつぶつと言い、眉間にしわを寄せ、一つ大
きくかぶりを振った。未だ完全な自信を持てない……そんな弱気を振り払うか
のように、自説の開陳に立ち戻った。
「昨晩の段階で、木村が、坂上殺しの犯人ではないと確証を持てた人物は、他
にいるでしょうか? 彼の性格からして、僕達の行ったアリバイの検討をどこ
まで信じたかは微妙です。恐らく、疑り深かったでしょうから、他人の証言な
んて全く取り合わない気がしないでもありません」
「私と流さんの証言は信じたんじゃないかしら」
良子は思い切って発言した。第一の事件で有利になっても、第二の事件で不
利になるかもしれない。でも、人から言われる前に、自ら言い出したかった。
「今度が初対面で、二人でいるところを木村本人も見たんだし」
「可能性は高いな。あいつでもそれくらいは信じるだろう」
支持する貴之。坂上の事件しか頭にないのか、気楽な調子である。
「皆さんはいかがですか」
流自身は意見を述べず、話を振った。
異論は出ない。貴之より思慮深いであろう真美や晋太郎も、反対意見は表さ
なかった。
「これで、僕や良子さんもまた、木村を警戒させることなく、離れに上がり込
めるお墨付きをもらった訳です」
「しかし、常識的に考えて、流君には動機がないな」
加藤医師が述べる。その好意的な見方を、当人が否定した。
「木村の横柄な振る舞いに腹を立て、義憤に駆られたことも加わり、行動に出
たのかもしれませんよ。坂上記者が殺された直後だから、その犯人に罪を擦り
付けられると考えて」
「まさか、そんなことはあるまい。君は冷静に振る舞える頭を持っている」
「ええ。僕もそのつもりなんですが、今は、客観性を欠いた見方は取り除かね
ばなりません。ある程度の蓋然性を有さない限り、主観的な推理は採用すべき
じゃない」
「厳密さには感心するが、君達や江田さん以外にも、木村君が犯人と思いもし
なかったであろう人物はいるんじゃないか。要するに、木村君がどこまで皆の
アリバイ証言を信じたか、我々には分からないのだから。もしかすると貴之君
と牧夏美さんの証言も、百パーセント信じていたかもしれない」
「それはさすがにないでしょう」
貴之が笑い声を立てた。
「まったく、面倒な図式にしてくれたな、流。最初の事件でアリバイがあれば、
二番目の事件で有力容疑者にされちまう。その逆もしかり。同一人物の犯行と
証明できれば、すっきりするのに」
「念のために言っておくと、それはあくまでも、木村が第一の事件の犯人を知
らなかった場合での話だから。知っていたなら、むしろ同一犯である可能性が
高まると思う。何にせよ、中途半端な推理を話して、混乱させたとしたらすま
ない。皆さんにも謝ります」
こうべを垂れる流。前髪が目の前に掛かる。ゆっくりとかき上げると、ため
息をついた。
「聞きたい点が二つあるんだが、いいかね」
晋太郎が斜め上を見つめる格好で、流に言った。
「どうぞ」
「まず、消去法で犯人特定を試みているが、果たして適切なのかという疑問が
ある。このまま論を進め、最後に残った一人を犯人としていいのかどうか」
「言うまでもなく、消去の条件が正しければ問題ありません。外部犯説は排除
されていますし。無論、証拠があるに越したことはないでしょうが」
「うむ。二つ目は、足跡トリックだ。見当は付いているんだろうか?」
「一応の目星は」
流の返答に、晋太郎らが多少どよめく。犯人を特定できても、トリックとい
う難関が待ちかまえていると思い込んでいた良子に、彼の自信溢れる言い種は
頼もしかった。
「確証がないのと、トリックを弄した理由が分からないのとで、敢えて言わず
においたんですが……」
「聞かせてくれたまえ。合っている保証もないんだろう? 皆で検証するのは
無駄ではないはずだ」
「ええ、まあ、かまいません。犯人への牽制にもなるでしょうしね」
そう言うと、流し目で全員を素早く見渡した。各人の反応を探ったに違いな
い。
「足跡を残さずに雪の上を行くには、いくつか方法があるでしょうが、今度の
事件の場合、橋を架けたんじゃないかと思います」
「橋?」
典型的な反応を示したのは貴之。
「どこにそんな物があった?」
「もちろん、犯人は本館に戻ったあと、始末した。ただし、橋桁はそのままに
して」
「橋桁?」
またもおうむ返しをした貴之。ドラマのワンシーンであったなら、良子はき
っと吹き出していただろう。
「橋桁もなかっただろう。流、もっと分かり易く説明してくれ」
「そうしているつもりだが、君が口を挟むから進まない。橋桁は離れから本館
の玄関近くまで、ぽつんぽつんとありました。こんな風に仄めかさなくても、
察しのいい方はとうにお気付きでしょうが、木村賢治の遺体と人形のパーツが
それです」
貴之も今度はおうむ返しをしなかった。口をぽかんと開け放し、絶句してい
る。他の面々も似たようなものだった。想像することすら難しくて、唖然とす
るほかない。
「遺体を橋桁にしたのか。それは何というか……凄惨な絵だな」
静寂を破ったのは加藤医師。比較的血に慣れている分、神経も図太いのかも
しれない。
「橋桁だけじゃ渡れませんよ」
今度は真美が言った。
「上に橋を載せなければなりません。離れから玄関までを結べるほど、長い物
が離れにあったかしら」
「一枚板を想像してはだめです。例の額縁二枚を使って、順繰りに渡していけ
ば、本館まで到達できるでしょう」
「あ……ああ、そういう」
初めて感心したように、真美は嘆息し、背もたれに身体を預けた。車輪が案
外大きく軋んだが、誰も気に留める様子はなかった。
「多分、犯人は最初、人形と額縁だけで戻る方法を試したんだと思います。し
かし、バランスがうまく取れない。バランスを取るには、数が足りなかった。
仕方なしに、木村賢治の遺体を切り刻んだんじゃないかと……思いたいですね」
「ちょっと待て、流。玄関から一番近い人形のパーツまで、確か三、四メート
ルほどあったぞ。あそこから玄関までは、額縁二枚分だ。二枚を縦に接着させ
ないと届かないぞ」
気負い込んだ調子で貴之が指摘したが、流は涼しい顔をして応じる。波を掴
んだのか、話し方も流暢になった。
「最後は、橋じゃなく……篭に乗ったんだ」
「篭?」
おうむ返しが復活した。
「適当な言い方が見つからないから、仮に篭と呼ぶ。離れから犯人が持ち出し
た物は、額縁と人形の他にもう一点ある。そう、ロープだ。額縁を重ねて四隅
にロープを通し、吊るせるようにする。ロープの反対の端には輪をこしらえ、
投げ縄の要領で例の角めがけて放った」
え? 何人かが声を上げた。
「一発で成功したんでしょう。あとは額縁の篭に乗って、振り子のごとく、玄
関前まで行き着く」
「そんな……馬鹿げた……空想じみた……」
「額縁の頑丈さはこの目で見たし、四隅が燃やされていたのは、ロープを通し
た痕跡をごまかすためだったと思う」
「だが、角にロープを引っかけるのが、一度で成功しなかったら、雪に痕跡が
着くんだろ? そうしたら折角のトリックが水泡に帰すじゃないか」
「失敗しても大きな障害にはならない。額縁を二つ、そのまま地面に並べて、
上を歩く。玄関に着いた後、ロープを引いて額縁をある程度近くまで手繰り寄
せてから、火を放つ。燃えた額縁を見て橋に使ったと即座に気付くとは考えに
くいし、雪に着いた長方形の跡は熱で解けて、判別不能になる」
静かになった貴之に代わって、加藤医師が三度、拍手した。
「いやあ、素晴らしいよ、流君。うまく説明を付けたものだ。額縁もロープも
人形もばらばら遺体も、ちゃんと意味があった。額縁が燃やされた理由も、角
までも。これで、人形の仕業に見せかけようとした犯人のちゃちな目論見は吹
っ飛んだ訳だから、いや、痛快痛快」
「しかし、その犯人の正体が掴めてません。下手に勝ち誇っても、犯人を刺激
するだけですよ。第三の犯行に出たら出たで、捕まえやすくはなりますが、そ
んな危険は冒したくありません」
全員揃った場で言うからには、流のこの台詞もまた犯人への牽制。
彼は時計で時刻を確認してから言った。
「まだ少しありますね。第二の殺人について僕が言えるのは、ここまでです。
今度は、第一の殺人を考えましょう」
「あの女記者の事件では、アリバイの面で、絞り込みを測っていたが……」
晋太郎の声は小さく、独語めいていた。息子のアリバイは客観性が低い、と
いう事実が頭をよぎったのかもしれなかった。
「……うまく行くのかね。他に取っ掛かりもないようだが」
俯き加減だった面を起こし、流に聞く。「分かりません」という、実に頼り
ない即答が返って来た。
が、流は淡々と次の言葉をつないだ。
「動機を取っ掛かりにします。以前にも俎上に載せたように、初対面の坂上を
殺す動機は、彼女がこの家の内情を探ろうとしたことにあると見るのが妥当で
す。記者は一人になってどんな行動をしたか。家捜しか、適当な人物に会って
話を聞こうとしたか」
「その“適当な人物”とやらが、容疑者の筆頭に来るのかしら。だとしたら、
少なくとも藤川姓の者は、容疑者から外れるわね。藤川姓の者にいきなり聞き
込もうなんていう馬鹿な真似は、さすがにしなかったでしょうから」
真美が決め付ける風に言った。流は好対照なまでに、慎重な答を返す。
「そこまでは断定できません。家捜しを試みた坂上を見とがめた誰かが、勢い
余って殺してしまった線もあります」
「……仕方ありませんね」
殺人事件と藤川家とを早く切り離したくてならない。そういった感情を隠さ
ず、女主人の真美は深い息を吐いた。
「動機を持ち出すんだったら、私は真っ先に除外されていいんじゃない? あ
の女から話を聞かれるはずないし、家捜ししてるところを見掛けたって、他の
人に知らせようとするだけで、止めようとは思わないから、取っ組み合いには
ならない。誤って殺すこともないわ」
牧が言った。この頃になると、彼女も平静さを取り戻したらしかった。貴之
とも、自然な距離を保っている。
「知らせに行こうとした君に、坂上が飛びかかり、取っ組み合いの末に……と
いう想像ができるので、残念ながら却下」
「何よ、もう。流君て、相当ひねくれてるわね。知らなかったわ」
唇を尖らせた牧に、加藤医師が笑み混じりに声を掛ける。
「お嬢さん、皺が深くなるよ。そうかっかしなさんな。妥当性を保ち、検討を
重ねているだけなのだから」
「分かってます! 分かってるけど……情が感じられなくて、嫌な気分よ」
「やれやれ。ここは貴之君に任せるしかないな」
貴之が牧をなだめに掛かる。その矢先、サイレンの音が微かに聞こえた。徐
徐に近付いてきたそれは、明らかに警察車両のものだった。
「これで終了のようですね」
流がほっとしたように言った。
一番若く、未成年の良子は真っ先に話を聞かれ、すんだらさっさと寝るよう
にと自室に追いやられたため、翌朝起きたあと久仁香から知らされた話になる
が、警察の捜査は夜遅くにまで及んだ。
最初に疑われたのは、医師の加藤だったらしい。というのも、でたらめな死
亡推定時刻を吹聴できる立場にあったのは、彼一人だからだ。尤も、これには
警察の嫌がらせも多少働いた節がある。我々が到着できないのをいいことに、
勝手に死亡推定時刻を出し、捜査ごっことは図々しい素人どもだ……という訳
である。やがて死亡推定時刻に誤りがなかったと判明し、この容疑は解かれた。
ちなみに死因は絞殺と推定されている。
代わって詰問を受けたのが、流次郎だったと知って、良子は憤慨した。事件
解決に最も努力した流がどうして? 疑問に対する答は、加藤医師の場合と同
じ。出しゃ張る素人は皆怪しいとの理論が、彼ら警察の頭にはあるようだった。
適当に締め上げたところで、動機がない、第一の事件でのアリバイを認める
等の理由から、流も解放。ようやくまともな捜査態勢になったが、現時点で有
力な容疑者の見当はついていない。
「おはよう、良子さん。早起きだね。僕も早く起き出したつもりなんだが……。
眠れたのかい?」
起き出してきた流は、声こそ明朗快活だったが、目の下にうっすらと隈を作
っていた。食卓の端っこの椅子に腰掛け、新聞を探すような仕種をする。
良子は隣の椅子にあった朝刊を渡した。
「ありがとう。雪がまた積もってるなあ。昨日の朝と同じぐらいかな。まあ、
警察は雪とは関係なしに、居座るつもりだったんだろうけど」
「そんなことより、ひどい取り調べを受けたって聞いたんですけど」
「取り調べとは言わないと思うよ。事情聴取」
「どっちでもいいの! 寝てないんじゃないの、流さん?」
「良子さんはよく眠れたみたいで、よかった。あ、どうもすみません」
加藤久仁香からコーヒーを受け取り、礼を言う流。全身に染み渡らせるかの
ように、ゆっくりと飲んでいく。
「ああ、やっと意識が目覚めた感じだ」
「疑いは晴れたんですよね?」
「もちろん。心配してくれて、ありがとう」
「こういうときは、『心配させて、ごめん』よっ。もう」
「うーん、まあ、僕の方もちょっと失敗したと思ってる。知り合いの刑事の名
前を出したんだけど、縄張り意識が強いのかな。地元の刑事さん達、みんな不
機嫌になっちゃってね」
「……ほんとに、昔、事件を解決したことあるんですか?」
「解決じゃなく、手伝っただけだよ」
「それでも凄い」
素直に感心した良子。足跡のトリックを解き明かしたことと合わせ、流に期
待する気持ちがますます高まる。
「警察、当てになりそうにないから、流さんが解決してよ」
「僕はもう手を引くつもりだったんだけどな。限界を感じていたし」
運ばれてきた朝食に手を着ける流。良子はそんな相手の肩を揺さぶった。流
がこちらを向いたところへ、強い調子で言った。
「だめよ。警察から情報もらって、手がかりが全部揃ったら、解明できるわ」
「あの様子では、警察は情報をこれっぽちも漏らしてくれそうにないよ。それ
が普通だけどね」
「じゃあ、お母さんに掛け合って、うちの秘密っていうのを話してもらうわ。
私も何か知らないんだけど。事件解決に必要なんでしょう?」
「良子さん、そこまでしなくていい。必要とは言い切れない。事件の大事な要
素かもしれないっていうだけ。そんな当て推量で、秘密を聞き出すのは忍びな
い」
「……私にできることってないんですか?」
真剣な思いを込めた眼差し。流は箸を置いた。
「危険に近寄らない。それだけでいい」
「足手まといってことじゃないですか」
「そうじゃない」
言い聞かせる口ぶりになる流。
「下手に事件を嗅ぎ回れば、犯人に目を付けられかねない。一人でいるところ
を襲われたら、君は防げないだろう」
「そ、そんなの、詭弁だわ。流さんも同じ立場じゃないの。犯人がピストルや
ナイフを持っていたら、防げっこない」
「僕は手を引くと言ったろう」
「違うわ。『手を引くつもりだったんだけどな』って言った。過去形にしたの
は、警察の捜査方針を信頼してないから。自分でもっと調べてみたいからじゃ
ないんですか?」
「……驚いた」
口笛を失敗したときみたいに、尖らせた口で丸い形を作る流。目を見張り、
やがて優しく微笑んだ。
「そこまできちんと言葉を使い分けてるなんて」
「からかわないでください」
「そんなつもりはない。そう感じたなら謝るよ。確かにまだ調べてみたいとい
う気持ちは、僕の中にある」
「じゃあ……」
「闇雲に調べても、恐らく徒労に終わってしまう。何か策を講じないといけな
いんだが……知り合いの刑事の名前を出すタイミングを間違えたと、つくづく
反省してるよ」
「考えましょうよ、新しい策を」
良子が流の手を握ったそのとき、貴之と牧が食堂に姿を現した。
「お……何やってんだ、良子。朝から宿題の手伝いをお願いか?」
「ち、違うわよっ」
兄の能天気な物言いに、思わず声が大きくなった。殺人事件に巻き込まれた
というのに、どうしてこんな……。場を明るくしようとしての行為かもしれな
いが、それにしてもデリカシーがなさ過ぎる。
「そのことは食事のあとで考えよう」
流の言葉を受け取って、良子はやっと心落ち着けた。
食事を片付ける頃には、朝の七時四十分過ぎになっていた。まだ食べている
貴之や牧と別れ、流と良子は食堂を出た。
「良子さん。お父さん達はどうしているか分かる?」
廊下をしばらく歩いたところで、流は立ち止まった。人に聞かれずに話がで
きる場所ということだろうか。良子も足を止め、答える。
「部屋にいると思う。元々、朝はたいてい自室で食べるの。それに、警察が話
を伺いたいって言ってたそうだから、きっと自分の部屋で答えてるんじゃない
かしら」
「心配じゃない?」
「お父さんやお母さんのこと? それは心配だけど、いくら何でも警察だって、
お父さん達が犯人じゃないと分かってるだろうし、もし具合が悪くなっても加
藤先生がすぐそばにいるから」
「それならまあ、安心かな」
窓の外に視線を向ける流。ちょうど離れが見通せた。捜査員らしき男が幾人
もいた。発見時の状況を再現しようと試みているのか、写真を手にした人と、
人形のパーツを手にした数人が額を寄せ合っていた。
「昨日の今頃だったかな。いや、もう少し早いか」
「何がです?」
「江田さんが僕らに異変を知らせてくれた時間だよ。あの人の話だと、この廊
下の窓から、人形と何かビニールにくるまれた異物を目撃した……」
現場検証の様子を横目で見ていた流だったが、そちらに背を向けると良子に
言った。
「さて。僕らはこれからどうすべきか、だけど。ふと思ったんだが、部屋に二
人きりでいると、刑事に疑われるかもしれないね。アリバイの口裏合わせをし
ているんじゃないかと」
「そんなのって」
良子は一瞬だけ肩を震わせたが、じきにため息をついた。怒るよりも、呆れ
てしまった。
「馬鹿々々しい。そういう回り道をするくらいなら、証拠の一つでも見つけて
ほしいわ。流さんは足跡のトリックを解明して見せた分、リードしてるから、
威張っていいわよね」
「ははは。威張っても仕方ないな」
「そういえば、あのトリック、警察に説明してやったんですか?」
「まだだよ。とてもじゃないが、説明する雰囲気じゃなかった」
「なあんだ。じゃ、トリックを教える代わりに、情報や手がかりを教えてもら
うっていうのはどうかしら。交換条件として充分に成り立つでしょ」
いいことを思い付いたとばかり、手を叩く良子。だが、流は否定的だ。
「いや、そんなことすると、また素人の出しゃ張りと受け取られて、あらぬ疑
いを再びかけられそうだな。犯人だからトリックが分かって当然だとか何とか」
「あーん、じれったい!」
その場で足踏みをした良子だが、不意にその仕種をやめた。窓からの光に目
を射られたためだ。
「眩しっ!」
何の反射かと訝りながら、立ち位置を横へずらして窓外を窺う。捜査員が手
にした例の人形、そのメタリックな表面が太陽光を受けているのが分かった。
捜査員は歩き回っているし、持ち方もしょっちゅう換えているから、さっきの
は、ちょうどこちらに光を反射する角度になったのだろう。
「いきなり高い声を出すから、びっくりしたよ。光が射し込んできたのか」
流は苦笑を浮かべ、振り返った。
と、その横顔が引き締まる。
「再現するくらいなら、そのまま置いて置けばよかったのに。昨日の今日なん
だから。非効率的というか――流さん? どうかしたんですか」
流の変化に気付いた良子。答が返るまで、しばらくの時間が必要だった。
「……ひょっとすると」
流は口の真ん中に右手人差し指を縦に当て、何事かを集中的に検討している
のか、中空を見据える。
「頭の中だけでは決められない。実験しないと」
「実験て何のです?」
「警察に頼まないと難しい、再現実験だよ。しかも、急がなければ」
少し困ったような笑顔をなしてから、流は玄関に向かって歩き出した。良子
は置いて行かれないようにするので精一杯。玄関ドアを開け、大声で何事か頼
んでいる流に、どうにか追い付けた。早くも中年刑事とのやり取りが激しくな
っている。
「出て来るなよ。学生風情が何を言っても聞く耳持たん。部屋で大人しくして
るんだ」
「出ませんから、お願いします。早ければ早いほどいいんです。今すぐ、あの
人形を元のように置いて、遺体の代わりになる物も置いてください。それをあ
ちらの窓から見れば、はっきりします」
「一体何様のつもりだ、君は。まだ容疑者の一人なんだぞ」
厳めしい顔をさらに険しくし、かみつかんばかりに詰め寄る刑事。だが、流
は冷静に対応した。
「犯人が分かるかもしれない。今を逃すと、実際の検証は少なくとも一日待た
ねばならない。あの窓から見える光景が大事なんですよ!」
「……そっちの窓から犯行を目撃したなどという証言は、誰もしておらん」
「犯行ではなく、遺体発見時のことです」
流の説得を聞いていた良子の心中に、一人の名前が浮かんだ。
(まさか……江田さんのこと?)
流を見上げる良子。そんな視線に気付いたかのように、流は言った。
「こちらの秘書、江田さんの証言を確認すべきです。昨日の今頃、窓から異常
に気付いたと江田さんは言ったが、本当にそんな景色が見えるのかどうか。ぜ
ひ、実験してください。雪と角、そしてばらばらにされた人形が朝日を反射し
て、とても見えない気がするんです」
「……よかろう」
中年刑事はようやく行動に移った。渋々やってやるんだぞという感情を剥き
出しにした面持ちで。
思いも寄らぬ殺人事件に揺れた北の地での滞在が、終わろうとしていた。
結論から述べると、流の推測は正しかった。江田が異変に気付いたという窓
から外を見ても、白い光がまともに照り返して来るため、どんな風景が広がっ
ているのかは分かるはずがないのだ。ましてや、「赤っぽい物と銀色の立方体」
などと詳しく説明するのは不可能。にも関わらず状況を掴んでいた江田は、元
から知っていたに他ならない。それはとりもなおさず、彼が木村賢治を殺した
可能性の高さを示す。
この実験結果を突きつけられた秘書は、最初こそ否定し、「当日と今日とで
は条件が微妙に違うから、実験は無意味だ」とまで抗弁した。だが、例の中年
刑事が「コンピュータにデータを放り込んで、シミュレーションを行えば、ち
ゃんと分かるんだぞ」と凄むと、江田は呆気なく陥落した(なお、刑事の台詞
ははったりだったのかもしれない。何せ、その台詞を正確に記すと、「コンピ
ューターにデーターを放り込んで、シュミレーションを行えば、ちゃんと分か
るんだぞ」であったのだから)。
「自白してくれて助かった気分だよ」
警察が江田を連れてひとまず引き上げたあと、流は良子や貴之、牧のいる前
で、安堵の表情を見せた。
「何しろ、坂上記者の事件は、完全な証明のしようがなかったからね」
「しかし、彼にはアリバイがあったはずだ」
理解できんという風に首を傾げる貴之。隣の牧も、そうよねと頷いた。
「証人の木村は死んでしまったが、あのアリバイは崩さないといけないだろう」
「種を明かせば単純だった。江田と木村は第一の事件で、お互いに偽証をして
アリバイを作ったんだ」
「何? そんな簡単なことかよ……。だけど、何故だ? あの二人がそういう
共犯関係にあるとは、とても見えなかったが」
「江田の話では、第一の事件でアリバイ検討を始めた際、木村賢治が勝手に証
言を始めたらしいよ。当然、驚いた江田は、同時に木村が何らかの思惑を持っ
てるんだと感じ取った。それも道理で、江田は坂上を殺害し、逃げるところを
木村に見られていた。案の定、木村は江田を脅してきたそうだ。藤川家の秘密
を教えろと」
木村は江田が殺人者と承知していた。承知していながら離れに上げたのは、
相手を人知れず脅迫するべく自ら招いたからであり、時間帯を夜中にしたのも
当たり前と言える。
「それなのに殺されるとは、木村の奴も間抜けだな。脅迫相手だからと見くび
ったか」
「そこまでは分からない。話し合いが決裂し、背後から襲って紐で絞めたとい
う江田本人も、大した抵抗もなくぐったりしたので、驚いたと述懐していた。
恐らく木村は、脅迫という罪に慣れてしまっていて、逆襲されるとは全く想像
できなかったんじゃないかな」
「弱者にのみ強く出る。あいつらしいよ」
皮肉っぽく吐き捨て、貴之は最早忘れたいという風に、頭を水平方向に何度
か振った。
――続く