#102/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 02/09/30 00:21 (496)
そばにいるだけで 61−4 寺嶋公香
★内容
星崎と別れたあと、鷲宇が家まで送ってくれると言うので、純子は遠慮なく
甘えることにした。
多忙な日々を送っているはずの鷲宇だが、時間さえあれば純子の送り迎えを
厭わない。いつもは感謝するだけですませていたが、気にならなくもない。
「鷲宇さん、こうして私を送る間の時間、もったいなくないですか?」
渋滞に掴まった折に、聞いてみた。
「あん? どういう意味です?」
後部座席を肩越しに振り返る鷲宇。軽く変装したのは昼間だからだろう、垢
抜けない眼鏡を掛けて、髪を整え、古いタイプのコメディアンみたいだ。
久住の扮装を解いて普段通りに戻っていた純子は、一つうなずいた。
「そのままの意味です。送り迎えなんかしてる時間があったら、音楽活動に当
てた方が有意義というか……」
「それなら、もったいないと思ったことは一度たりともないよ」
力強い即答。鷲宇が前を向く。車が動き出した。それから閃いた風に言葉を
付け足して、笑う。
「便利な未来の秘密道具あればいいのになあ、と思ったことはあってもね」
「は、はあ」
「真面目に話してないのが、不満みたいだね」
「い、いえ」
「真面目に答えるなら、これでも僕には自覚があるんだ、君に相当過酷なこと
をさせているという自覚が」
なあんだ、分かってるの。
「仕事の周辺の物事については、少しでも楽をさせてやりたい。たとえば今日、
君を一人で電車で帰らせて、もしも寝入ってしまって乗り過ごしたり、逆にラ
ッシュアワーに巻き込まれたり、あるいは駅から家までの間に変な奴に絡まれ
たりしたら、僕は……どうしたらいいんだい?」
「そんな、可能性の低いことを。第一、ルークの誰かを呼んでもらえれば、そ
れですみますよ。お母さんだって、近場なら来てくれる」
「ルークの彼……杉本君か、彼の運転では、正直言って心許ないなあ。市川さ
んもちょっと荒っぽいしね。その点、僕は安全運転だろう?」
すぐには首肯できない。純子の感覚では、鷲宇はややスピードを出しすぎの
ような気がするのだ。客観的には、鷲宇の運転は一級品なのだが。純子にとっ
て両親以外の運転で安心できるのは、相羽の母くらい。
「確かに、杉本さんや市川さんに比べたら、上手です」
一応、そう答えておく。ルームミラーに映った鷲宇が苦笑した。
「上手と来ましたか。参ったな。とにかく、だ。僕は君に気持ちよく仕事させ
てあげたい。これで充分じゃないかな」
「つまり、邪魔じゃないんですよね?」
「答えるまでもない」
鷲宇の微笑が純子を安心させた。
車が純子の家のある町に入った辺りで、鷲宇が思い起こした風に別の話題を
持ち出した。
「――そうだ。これを言っておかないと、怒られるかもしれないな。募金額、
順調に伸びているよ」
「ほんとですか? 募金て、美咲ちゃんの募金ですよね」
純子は助手席のヘッド部分に飛び付いた。当たり前のことでも、確かめずに
はいられない。
「ああ。先日報告があって、僕もこの目で確かめてきた。開始した頃の急上昇
カーブは緩くなったけれど、蓮田さんがまとまった形で入れてくれたこともあ
って、目標額にあと少しで届く。手術を、現実的な話として捉えられるように
なったわけだ」
「いつになりますか。その、美咲ちゃんが手術のために渡米するのは……」
「細かい日時は僕も分からないが、集まり次第、すぐに飛び立てるよう、準備
を整えているそうだからね。一週間以内になるんじゃないか。目標額に達する
見込みが、それくらいなんだよ」
「一週間」
随分、急に感じる。
いや、美咲にとって早ければ早いほどいいのは無論だが、純子としては空港
まで見送りに行きたいと考えていた。突然、この一週間の内にと言われても、
果たして時間が取れるかどうか。仕事なら自分の勝手で何とかできるかもしれ
ないが、学校の時間と重なっていたらアウトだ。ずる休みでもするしかない。
(空港が無理なら、美咲ちゃんが病院を出るときに声を掛けてあげたい。久住
の格好でいなければならないのは辛いけど)
もしも美咲が手術を恐がるようであれば、久住として勇気づけて、少しでも
応援しよう。純子は誓った。
「みんなに、感謝しなくちゃ」
そしてぽつりと言った。自棄にしんみりした調子になったので、純子自身、
恥ずかしさを覚える。
「一番大きかったのは、鷲宇さんの力ですね」
「僕は君に動かされて、立ち上げただけ。君なら多分、仮に僕がいなければい
ないで、自分の力でやったに違いないと思うんだ。幸いにして、久住淳という
名前もあることだしね」
「それなら、やっぱり鷲宇さんのおかげだわ」
「うん?」
「久住淳の育ての親は、鷲宇さんなんですから」
純子が明るい調子で答えると、鷲宇はつられたように笑った。生活道路に入
り、穏やかにハンドルを切る。
「もうすぐだ」
* *
「エリオット先生!」
酒匂川愛理からの話を聞いた翌日、相羽は学校が終わるや、居ても立っても
いられず、アルビン=エリオットの勤める大学に駆け付けた。
事前連絡をしていなかったため、エリオットがいるかどうか定かでなかった。
部屋の前まで来て、壁にあるプレートで幸いにも在室だと分かり、思わず、ノ
ックも適当にドアを開けてしまった。
「――信一。どうしたね? 今日はレッスンのある日じゃないはずだが」
エリオットはそう言いつつも、卓上カレンダーに目をやる仕種をした。
相羽は息を整え、台詞を選ぼうとした。だが、うまくまとまらない。浮かん
だまま、声にする。
「先生。話を聞きました」
「話とは?」
鼻筋をこすり、ほんのかすかな笑みを目尻に滲ませ、エリオットが応じる。
鮮やかな虹彩が、相羽を捉えた。
「酒匂川の……妨害があったんですね」
「なるほど、その話か。君の耳にもとうとう入ったのだね」
今度は時計を見やるエリオット。少し渋い顔をして、相羽を振り返る。
「わざわざ駆け付けてくれた君には悪いのだが、これからまた授業なんだ。そ
の件については、日を改めて話をしたいと思う」
「待ちます」
決然として言った相羽。立ったまま、エリオットを、熱のこもった視線で見
下ろす。
「今日は母が仕事で遅くなります。家に戻っても僕一人です。悶々と思い悩む
よりは、エリオット先生、あなたと一刻でも早く話がしたい」
「嘘じゃないだろうね? その、お母さんが仕事で遅いというのは」
「はい」
「お母さんには、きちんと断ったのかね?」
「いえ、それはまだ……」
「ならば、とりあえずお母さんに連絡を取りなさい。承諾がもらえたら、信一
の言う通りにしよう。話がしたかったのは私も同じだからね」
諭すような物言いに、相羽は黙ってうなずいた。そして授業の終わる時刻を
尋ねて確かめると、一礼して部屋を退出した。
携帯電話を持っていない相羽は、公衆電話を探した。
エリオットの授業が終わるのを待つ間、有意義な時間を過ごせたのは、相羽
にとっても予想外だった。これも一種の嬉しい誤算だ。
すでに大学側に認知されていることもあって、相羽はキャンパス内のたいて
いの場所に自由に出入りできる。
母親の了解を得て電話を終えた当初、気もそぞろにただ歩いていた相羽に、
顔見知りになった学生の男女二人が揃って声を掛けてきた。課題を片付けた直
後で時間的余裕のあった彼らは、相羽に付き合って、色々な話を聞かせてくれ
た。
特に関心を持ったのは、留学のこと。
「私の先輩がね」
女子学生の方が、唱うような口調で、それこそ夢見る風に言った。
「今度、本学の推薦を受けて、留学が決まりそうなんだ。ウィーンの国立音学
校よ。聞いただけで、凄さが分かるってもんでしょ?」
「それはまあ……」
我がことのように喜ぶ相手を見る内に、相羽は思わず苦笑を浮かべた。
男子学生の方は、同級生をからかうかのごとく、「留学するだけなら、お金
を出せばできるんだよね」とぽつり。
「そんな夢のない話を前途ある青少年に聞かせて、何が面白いのかな」
「選択肢の一つを示しただけさ。お金と、あとは語学のハードルをクリアすれ
ばいい。少年は、知っていたかい?」
彼からは“少年”と呼ばれる相羽。「いえ」と短く返事した。
「そうだろうそうだろう。でもな、目玉が飛び出るくらい掛かるぞ。一ヶ月で
百万近く。ああ、単位は円だから、その点は安心していいよ」
「何の足しにもならない話だわ」
嘆息混じりに首をすくめた女子学生。その瞳が、相羽を捉える。
「国立ウィーンの講師陣は、そうそうたる顔ぶれが揃っているそうよ。向こう
の第一線で活躍する指揮者や奏者が」
聞いた話として、留学そのものの内容や、向こうでの生活を次から次に語る。
その合間合間に、男子学生が「生半可な才能じゃあ、押し潰されちゃうってよ」
「プロになるには、留学歴があった方が売りができるよな」などと茶々を入れ
た。
そのせいかどうか、女子学生の台詞が途切れる。少し首を傾け、考える様子。
じきに再開した。
「相羽君はしかし、エリオット先生のお気に入りだから、留学するにしても、
オーストリアじゃなくてUSAかな。あっちにもいい音学校あるもんね。差詰
め、エリオット先生のJ音楽院」
「あの」
エリオットが三月までで退官する話も聞きたいと思っていた。糸口を掴みか
けたが、相手の方が押しが強かった。
「将来は? 普通の高校に通ってるって聞いたけれど、ピアノの道を目指した
いんでしょうが、ここまで習いに来るぐらいだもの。呑気に卒業を待って、こ
こに入るよりも、手遅れにならない内に留学した方が君のためじゃないかしら」
「あの……エリオット先生が退官されると聞きました。どうしてなのか、理由
は伝わってますか?」
「ああ、それね」
学生二人は顔を見合わせた。どこか苦渋めいた笑みがともにある。話し手の
バトンが男子学生に渡された。
「言いにくいんだが、表向きは、学外の人間にレッスンをしていたことに、極
一部の現役学生の親からクレームが来て、マイナスになったと」
「……」
「気にする必要はない。誰もクレームなんか付けてないさ。知っての通り、こ
こにいる僕らみんなは、少年の実力を認めているんだからな」
「だったら、どうしてエリオット先生は」
「分からない。噂が嘘だってことは分かるんだが、本当のところは分からない」
あっさりとした答に、相羽はむしろ安心できた。自分の父方の家族が妨害工
作をしたためと知られたら、どんな顔をされるだろう……。エリオットを尊敬
し、師事する学生は大勢いるはずだ。
彼らとの話が終わる頃、授業もちょうど区切りとなった。
部屋を訪ねると、エリオットと廊下で出くわした。ちょうど教室から引き返
してきたところらしい。
「私の部屋で出せるコーヒーより、カフェテリアのコーヒーの方が何倍も美味
いが、やはり、君と私の二人きりがいいかね、信一?」
気分をほぐす意図があるのだろうか、エリオットは気安い調子で聞いてきた。
相羽は形ばかりの笑みを少しだけ浮かべ、同意した。
「そうですね。秘密の話ですし」
来たときと同じように、部屋に入った。
「先に私から言おう。ここに残ることに執着はない。ただ、日本から離れねば
ならないのが残念でならないよ」
エリオットと真向かいに座った相羽は、間を置かずにこうべを垂れた。
「本当に、すみません」
「何故、謝る? 信一が謝る必要はない。その点に触れていては、前進しない
と思うんだが、どうかな」
「……先生がそれでかまわないんでしたら」
「よろしい。私の望みは、たった一つ。世界のどこでだろうと、君にピアノを
教えたい。それだけだ」
「……」
「通信教育ではなく、直接ね」
エリオットのジョークにも笑えなかった。今の相羽にできるのは、言葉の意
味を明確にさせることくらいだ。
「先生。それは、着いて来いと言っているのと同じと解釈すべきなのですか」
「そう捉えてくれてかまわない」
「これまで、何度かお断りしました。心ならずも、でしたけど。そんな自分が
今さら……」
「一向にかまわない。今からでも遅くないし、今が最後のチャンスかもしれな
いのだよ」
「本当にありがたい話で、感謝しています。でも、僕一人で簡単に決められる
ことではないので……」
「もちろん、承知している。まずは、お母さんとの相談が必要だろう」
エリオットは微笑を浮かべた。
相羽の方は、曖昧にうなずく。確かに、母との相談は必要だ。最低限、母の
理解と支援がなければ、進められる話ではない。
ただ、相羽にはもう一つ、考えなければいけないことがある。そして多分、
これら二つは、ともに大事すぎて、優先順位を付けることができない。天秤に
掛けられないのだ。
「結論をすぐに下せと求めているわけじゃないんだ、信一」
俯きがちになった相羽を、エリオットは迷いの態度の現れと見て取ったらし
い。穏やかな調子で続ける。
「周囲の状況は、一旦、考えないようにしようじゃないか。その上で、君の現
在の素直な気持ちを聞かせてくれないか」
「それなら簡単です」
相羽は明確に、着いて行きたい意志を示した。
「君が前向きな気持ちでいることが、私には嬉しいよ。だが、無理強いできな
いことも、わきまえているつもりだ。よく考え、周りの人達とよく相談して、
決断しなさい」
エリオットは柔和な笑みを残しつつ、一旦、相羽に背を向けると、大きめの
黒鞄から何かの冊子を取り出した。色鮮やかな写真がふんだんに使われた物に、
文字だけの白黒の紙が数枚挟んである。
「以前に説明したことと重複する点も多いが、これが最新のパンフレットだ。
あと、挟んである紙は、留学生の体験談を記した物だよ。と言っても授業につ
いてはパンフレットにある通りだからね。主に、日常生活面について書いてあ
る。参考になるかな」
エリオットからそれらを手渡され、相羽は軽く会釈した。
「とりあえず、母に話します」
もう一人の大事な人には、どうしようか。
* *
ホワイトデー当日は休みだし、期末試験を乗り越えたあとだったから、相羽
と会うのに何の障害もなかった。いや、ないはずだった。
だが、その前日に入った一本の電話が、予定をちょっとだけ狂わせる。
「明後日出発、ですか?」
「そうなんだ。色々あって少し遅れたが、やっとはっきりした」
電話は鷲宇からで、内容は美咲の渡米する日取りが決定した話だった。
「平日の朝早くだるから、見送りは恐らく無理だろう?」
「はい、そうなりますね……」
「そこで、以前、君が希望していたように、明日、病院を出るまでに会いに行
ったらどうかと思ってね。それとも何か予定があるかい?」
鷲宇が聞いたのは、仕事のスケジュールについてかもしれないし、プライベ
ートのことなのかもしれない。純子は電話口で首を横に振った。
「いえ。喜んで行きます」
本当はデートだったのだが……。相羽なら話せば分かってくれる。ただ、純
子自身、がっかりした気持ちがゼロかというとそうではなかった。
それでもなお、美咲を応援する気持ちが上回った。
「鷲宇さん、一つ、お願いがあるんですが」
「何でも言ってご覧」
「私……久住淳にならないで、普段の格好のままで、美咲ちゃんに会っておき
たいんです」
「え?」
さすがの鷲宇も、意表を突かれていささか驚いた気配があった。声の調子に
これだけはっきりと、感情の動きが現れるなんて、本当に珍しい。
が、沈黙は一秒と続かず、返事があった。
「そういう風に考える気持ちは、分からないでもない。だが、ばらすのだけは
だめだ。あの少女を後押しするどころか、逆効果になるのは目に見えているか
らね。ショックを受けるに決まっている」
「分かってます。私が言ってるのは、明日、久住としても女の子としても会い
たいっていう意味ですよ」
鷲宇の思い込みに、つい、口調が笑いを含んでしまう純子。
「ふむ。なるほどね。しかし、大丈夫かな。二人並んで姿を現すのは無理だか
ら、当然、続けざまに会うことになるわけだろう? そうなると、気付かれる
危険性が高まるように思えるね」
「大丈夫です、ばれないようにします」
今まで乗り切ってきた自信が言わせる台詞。そのはきはきした物言いに、鷲
宇もあっさり折れた。
「了解したよ。市川さんには僕から言っておく。迎えはいるかい?」
「ありがとうございます。でも、久住じゃないんだから、鷲宇さんと一緒には
行けません」
「ふむ、道理だね。分かった。着替える場所は、僕が確保しておいてあげよう」
「わあ、すみません。すっかり忘れてました、着替えのこと」
このあと、明日の段取りを決めて、鷲宇との通話を終えた純子は、早速相羽
に電話を入れた。相羽の母は土曜も仕事があるらしく、相羽本人が出たため、
「もしもし」という声も一段と弾む。
「番号を見ると、どきどきする」
相羽が笑いながら言った。純子もそうだ。電話に出る直前、表示された番号
が相羽の家のものだったら、やけに緊張してしまう。それ以上に嬉しいのだけ
れども。
「明日のこと?」
「うん。緊急の用事が入って」
美咲の退院及び渡米について話す。退院に立ち会いたいと純子が言い出す前
に、相羽は察しよく反応した。
「僕も行こう。行ってもかまわない?」
「行くって……」
「明日、退院する前に、会いに行くつもりでしょ、純子ちゃん?」
「え、ええ」
「僕も行くよ。久住の知り合いという形で問題あるのなら、外で待ってる」
「あ、ありがとう。問題ないと思う。だって、いちいち久住の知り合いと名乗
らなくたって、相羽君は募金したんだから、道場のみんなを代表してやって来
たことにすれば」
純子の見方に、相羽は渋い返事をよこした。
「押し付けがましくないかな。音頭を取った鷲宇さんや君ならまだしも、僕の
立場だと、募金したんだから感謝してくれって言ってるみたいだ」
「そんなことないわ。美咲ちゃんもそのご家族も、そういう風な受け取り方し
ないと思うし」
「そうかな」
「あっ、それにね。私、美咲ちゃんに二回、会うつもりなのよ。久住として、
そして私自身として」
「なるほど。じゃあ、女の子の格好をした君と並んでいけばいいんだ?」
純子は密かに膨れっ面になった。“女の子の格好”ではなく、“普段の格好”
とでも言ってほしかったところ。しかし、いちいち反論してみても始まらない。
「ね。そうしよ」
促し、段取りを伝える声は、やっぱり弾んだものになった。
(気が重い……)
その日の放課後、下校時の足取りは純子と相羽達とで対照的だった。
相羽や唐沢、それに結城が心持ち早足であるのに対して、純子は気の重さそ
のまま、足取りも重い。スローペースの淡島にさえ、先行されるほどだ。必然
的に、差が開く。
「おーい、何してんのー! 早く早く!」
二十メートルくらい前方を行く結城が立ち止まり、こちらに振り返って大き
く手を振る。
「早くと言われても」
目的地に近付くに従って、純子の足の運びはますますゆっくりになる。でき
れば引き返すか、猛ダッシュで素通りしたい。
「もしや、体調が優れないのでは?」
淡島が心配してくれる。そう、確かに体調は悪いのかもしれない。精神的に。
「相羽君を呼んできます」
「ううん! いい、いい」
駆け出そうとした淡島を、腕を掴んで止める。相手は怪訝さに目を細めた。
淡島のことだから、落ち着いた場所があれば、占いを始めかねない。
「先ほどから不思議に感じていましたけど、今日の相羽君は少々素気なく、冷
たいような」
「そんなことないわよ」
距離はあるが、素気ないとか冷たくされているわけではない。気を遣っても
らっているのだ。
「じゃあ、やはり涼原さん一人が嫌がってるんですね」
「嫌がってる……そうかも」
「写真集って、そんなに嫌なものです?」
そう、風谷美羽写真集の発売日なのだ。目的地は言うまでもなく書店。わざ
わざ遠回りしてまで、何故こうしてみんなで見に行くことになったのか、その
経緯は忘れた。
「うん……知ってる人に見られるのが、ちょっと」
ため息混じりに答えて、純子は前進する意志を強く持とうとした。踵に、爪
先に力を込めて、無理にでも歩く。
雑誌に載った経験は何度もあるが、その気恥ずかしさにはいつまで経っても
慣れることがない。ましてや初めての写真集となると、また違った緊張を覚え
ずにはいられなかった。
(せめて、相羽君と二人きりなら、辛抱できると思うのに)
前にいる彼の背中を、穴が空くほど見つめる。すると相羽が肩越しに振り返
った。念が通じたのではなく、偶然だろう。
相羽は声を発することなく、右手の方角を指差した。すぐそこに大型書店が
ある。店内に入るには、広い駐車場を横切る必要があった。
(こうなったら仕方がないわ)
心中で開き直ろうと努力する純子。
(悪いけれど、他のみんなは石ころだと思って、相羽君と二人で来たつもりに
なろうっと。デート、これはデート)
意を強くすると、淡島を追い越し、相羽の隣に着く。
「あとで、フルーツパフェをおごって」
「――突然だね」
面食らったはずなのに、相羽の表情の変化は、苦笑いを浮かべただけだった。
「突然思い立ったんだもの」
「おごるのはいいけど、下校途中に喫茶店に寄るのは校則に」
モデルの仕事を大目に見てもらっている純子としては、校則を破ったところ
を見つかって、目を着けられるのはどうしても避けたい。だから。
「分かってる。スーパーで売っているカップ入りのでいいから」
「カップのパフェで、覚悟はできた? 写真集が人目に触れる覚悟」
「……ばれてた?」
「毎度のことだからね」
相羽に頭をぽんぽんと撫でる風に軽く叩かれ、純子は俯いた。かなわないな
あと感じ入る。
「純子ちゃんはもう目を通したんでしょ?」
「うん。出版社の方から前もって、直接送られてきて」
「だったら、どんな仕上がりなのか分かっているんだ。恥ずかしがるような出
来なの?」
「ううん、そんなことないと思うけど……写ってるのが私自身ていうところが
問題で」
「何をごちゃごちゃやってんだ?」
唐沢が割り込んできた。気が付けば、もう書店の建物が目の前だった。
「見せつけるつもりなら、俺のいないところでやってほしいな」
「私も同感よ、お二人さん」
唐沢に続き、結城までそんなことを言い出した。
「折角、このあと冷やかしてあげようと目論んでいたのに、白けちゃう」
「うー……」
何か言い返そうと思ったが、取りやめ。気にしないでおこうと、脳裏でおま
じないのように繰り返し唱える。
「さて、写真集のコーナーは、と」
先頭を切って店内に入った唐沢が、額に手で庇を作りながら見渡す。程なく
して動きが止まる。レジの右斜め前、かなり目立つ位置にある平台が、様々な
写真集で彩られていた。
純子の、というよりも風谷美羽の写真集は、探すまでもなく見つけることが
できた。同時期に強力なライバル写真集の発売がなかったのか、表紙が見える
形で置いてあったのだ。ただし、位置としては台の一番端っこだが。
「すわ〜」
最初に手を伸ばしたのは結城。奇妙な感嘆の声を漏らす。表紙を見つめ、そ
れから裏表紙へ。タイトルは至ってシンプル、『風谷美羽写真集』とある。
「……きれいだわ」
「本当に。さすが、涼原さんですね」
背伸びして覗き込む淡島もまた、感心した風な口ぶり。
迂闊に口を開かないでおこうと決めた純子は、頬を赤く染めつつ、目をそら
した。何しろ、表紙には気取った自分の全身写真が大きく出ている。化粧気こ
そ薄いが澄まし気味の笑顔はやや横を向いて、白い歯が覗く。髪はいつものポ
ニーテール。タータンチェックのシャツに、青のジーンズパンツという着こな
しは、春でも秋でも似合いそう。胸元に当てた右手に、シンプルなブレスレッ
ト二連が光る。
「乗馬クラブのお嬢様みたい」
「そうか? 牧場のお転婆娘って感じだ」
別の一冊を手に取っていた唐沢が、異論を挟む。相羽は「感じ方は人それぞ
れだからね」と言い、笑いたいのをこらえる風に口元を手で隠した。
「どちらかというと、裏表紙の方がお嬢さんぽい」
「それもそうかな」
唐沢と結城が意見の一致を見たところで、純子もようやく写真集に手を伸ば
した。それを待っていたのか、相羽が横に立ち、視線を向けてくると、小声で
聞いた。
「すぐそばで感想を言われるのって、どう?」
「うーん……落ち着かない感じ。誉められたらお世辞じゃないかと思うし、貶
されると落ち込むし。でも」
写真集に微笑混じりで見入る唐沢達を一瞥し、純子は続けた。指でページを
めくるが、中は見ていない。
「今はそれほどでもなくなったかな。感想をもらえること自体、嬉しい」
「じゃあ、僕も感想を」
純子の持つ写真集に相羽が手をやる。ページのめくれる動きが止まった。左
側のページには、パレオ風スカートのドレス姿で、大きな麦藁帽子を被るとこ
ろ(あるいは脱いだばかり)の純子が一面を占める。右側のページは、アジア
系の異なる民族衣装を着込んだカットが四つ、ややずらし気味に並べてあった。
「好きだ」
「な、何を言い出すの、こ、こんなとこで」
力が抜けて、口元がふにゃふにゃした感じを覚えた。相羽は写真集から目線
を外し、前を向いていた。
「好きという感情のメーターは振り切れたと思っていたのに、上があった。ど
んどん好きになる。多分、これからも」
「――」
純子は目元を赤くしながら、俯いた。写真集で顔を隠したい。
と思った瞬間、唐沢の「おおっ!」という素っ頓狂な声が。反射的に、背筋
が伸びた。
「これはまた大胆な」
大胆と言われるほどのカットはなかったはず名のだが……。気にしないつも
りだったのもどこへやら、やっぱり無視できない。横目で唐沢の開いているペ
ージを確かめた。
水着のページだった。そうと知って、純子はなあんだと思った。モデルを始
めた頃なら赤面ものだったが、今は違う。撮影現場で気分を乗せられたという
理由もあるけれども、堂々としていられる。
「少しだけ、筋肉質になったね。バランスよくなった感じ」
新たに写真集を手に取り、同じページを開いた相羽がぼそりと言った。食い
ついたのは結城。写真集から顔を起こすと振り返り、相羽と純子、どちらへと
もなしに聞いてくる。
「ということは、昔はもう少しふっくらしてたの?」
「ふっくらというか、単にやせている、細いって感じだった。何年も撮り溜め
した物が載っているから、中学生のときの写真もあるはずだよ。比べてみれば
分かる」
相羽が答える。純子は、そんな風に映っていたんだ、と思った。ちょっとし
た発見。
(そういえば昔、やせてるって言われたのを、私ったら過剰反応して、すぐ胸
のことに結び付けてたっけ)
思い出して、つい、胸元に手をやる。あの頃は、周りの子がどんどん膨らむ
のを見て、随分コンプレックスに感じていた。現在でも精神的にその名残がゼ
ロではないが、恥ずかしいとは思わない。
(モデルさんの平均と比べたら、やっぱり小さいけど……)
自嘲気味に笑って、写真集を棚に戻す。
と、その隣に立った淡島が、別のアイドルの写真集を取り上げた。適当に開
いたかと思うと、おもむろに相羽の方にそのページを向ける。
「相羽君は、こういうのにはご関心ありませんか」
「どうして敬語を使うの?」
とぼけてやり過ごそうというのか、相羽は関係ないことを指摘する。
その間に純子は淡島の前に回り、問題の写真集を見た。ビキニ姿のアイドル
が白い浜辺に寝そべり、小麦色の肌を見開きいっぱいを使って誇示している。
そのとき、淡島がページをめくった。次のページでも、同じ格好のアイドル
が、今度は胸を強調する風に、両手両膝を砂浜についていた。
「では、言い直します。関心ない?」
「特にない」
「俺は関心も興味も好奇心も激しくあるけどな。うーん、素晴らしー」
写真を見ながら、唐沢が茶々を入れる。
「涼原さんに、少しの間、外してもらいましょうか?」
純子の方を見ずに、淡島は言った。自分でもよく分からないが慌てる純子。
対照的に、相羽は落ち着いていた。
「そんなことしても意味がないよ。さっきのが正直な答だから」
「不健全ーっ」
結城も参入してきた。彼女の場合、面白がる度合いがあからさまに強いが。
「もしかして相羽君は、こういった写真集を買ったことがないのかな」
「ないなあ。あ、純子ちゃんの写真集をこれから買う」
「じゃなくて」
漫才師の手つきそのままに突っ込む結城。淡島は頬に両手を当て、ため息を
ついた。彼女らの横合いで、純子は赤くなった表情をはっとさせていた。
(前もって言ってくれたら、渡したのに。それに、おばさまも関係した仕事な
んだから、そのルートで手に入らないの? 持ってくれるのは嬉しいけれど、
わざわざ店頭で買わなくても……)
幸い、今回は話の流れから、冷やかされずにすんだからいいようなものの。
「他に興味を持ってるアイドルとか芸能人とか、いないの? 勿論、女性に限
っての話よ」
「今も健在の人じゃないとだめかな」
「あ、オードリー=ヘップバーンを言うつもりでしょ。前に純子から聞いた。
そういう昔の人じゃなくて、今、現役ばりばりの人。できれば日本国内に限る」
「そう言われても、いないんだから仕方がない」
相羽の返答に、唐沢だけがうんうんと何度もうなずいた。腕組みをしてから、
言った。
「おまえの気持ちは、よーく分かるぞ。恋人がいれば、他の女なんか関係ない
もんな」
唐沢の言に対して、相羽は肯定も否定もせず、ただ、純子を見た。
何か言ってくれるのかと思い、心構えをした純子だったが、相羽は視線をつ
いっと斜め下に向けると、写真集を一冊手にした。
「買ってくる」
――『そばにいるだけで 61』おわり