#101/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 02/09/30 00:21 (499)
そばにいるだけで 61−3 寺嶋公香
★内容 18/06/22 03:13 修正 第3版
主審の判定は――セーフ。ランニングホームランだ。
あっという間に一点差に詰め寄る佐野倉の活躍を、緑星側は鳴り物入りの声
援で称える。
当の佐野倉は大歓声には目もくれず、またチームメイトとのハイタッチもそ
こそこに、純子のいる前までやって来た。距離は五メートル以上あるが、純子
のみに焦点を合わせたのがよく分かる。受け狙いの芝居やポーズとは思えない。
純子は何故かしら緊張を覚えたが、唐沢と相羽が佐野倉に拍手を送ったので、
倣って同じようにする。
佐野倉は歯を覗かせてにこっとした。絵に描いたような爽やかスポーツマン、
といった構図だ。ついでに何か言いたいようだったが、ベンチに戻る。試合中
とあって、自重したらしい。
「佐野倉に対するイメージが変わった。改めなくちゃな」
拍手をやめた相羽がぽつりと言う。
この回の攻撃は三点止まり。だが、タイムリーを打って気をよくしたか、佐
野倉はその投球にますます磨きが掛かった。特に速球は、回を追う毎に速くな
っているように見え、相手打線を完全に抑えている。途中からの登板なので記
録とはならないが、ノーヒットノーランペース、いや、完全試合ペースだ。
対する今村も、三失点以降は立ち直り、二イニングを三人ずつで終わらせ、
七回も先頭の四番を三振に打ち取った。ここで佐野倉登場。三度目の対決だ。
今村は先の失点に加えて、打撃では佐野倉に完璧に抑えられているだけに、意
地でも封じたいところだろう。
唐沢が「声援、また頼むよん」と、純子に手を合わせる。もちろん、応援す
るつもりはあるのだが……純子は敵の守備陣を眺めやった。
「何だか、大谷と清水が怒ってるみたい」
大谷に続き、清水も六回に代打で登場し、凡打に終わるも、そのまま外野の
守備に就いている。
「ん? ははあ。そんな風な顔だな、あれは、ははは。筋違いってもんだぜ」
手のひらで庇を作って見通した唐沢が、外野を指差しながら笑った。もしも
二人が気付いたら、なおさら怒るだろう。
「大方、一点差に詰め寄られた上、佐野倉を全然打てなくて、かっか来てるん
だろ。そこへ涼原さんが佐野倉に声援を送れば、怒りたくもなるわな」
「試合をやっているときに、平静さを欠いたら、力を一〇〇パーセント発揮で
きないのにな」
唐沢に続き、相羽が言った。純子を見ながら、
「佐野倉の方は、もしかすると、一二〇パーセントぐらいの力を出しているの
かもしれないな。純子ちゃん、今度は声援を送らないで、佐野倉が打てるかど
うか、見てみない?」
と、本気とも冗談ともつかぬ口調で、提案してくる。
「いやよ。みんな、真剣に試合してるんだから、そういう試すような真似、し
たくない。私達も真剣に応援しないと」
もっともらしい理由を付けて返事した純子だが、本当のところ、声援を送ら
なかった結果、仮に佐野倉が凡退したら、困ってしまうからというのが大きい。
「それじゃあ、清水や大谷に声援を送ることもできないわけだ」
笑みを見せながら、相羽。どうやら、返答を予測していたらしい。純子はコ
ートの襟を立てて、わざとそっぽを向いた。
「佐野倉君、今度も頼むわよ!」
そして、半ば当てこすりみたいに、大きな声で応援する。
佐野倉は今度もまた反応を示した。さすがにタイムは取らなかったものの、
投手を見据えたまま、高くバットを掲げたかと思うと、ピッチャー返しを予告
するかのように、今村にその先を向けた。そして気合いを入れ、構える。
今村の口元が、何事かつぶやいた風に動いた。本藤ベンチからは、気にする
なとか何とか、色々な声が飛ぶが、重なり合ってよく聞き取れなかった。
「熱くなり易いタイプなら」
相羽が独り言のように口を開く。
「また打たれる」
今村が球を放った。砂煙が起きる。
これまでとは違う、全力投球だ。
佐野倉は――見送った。
球審判定、ボール。
佐野倉が一旦打席を離れ、肩を上下させる。その間、今村は地面を何度か蹴
り着けていた。
「佐野倉の方は、冷静なままだな」
「でも、プレッシャーもあるはずだよ。打つと宣言したんだから。まあ、相手
がタイムを取って、ピッチャーを冷静にさせたら、分からないけど、このまま
なら打てるんじゃないかな」
「確率は高いか。……あ、タイムを掛けやがった」
各選手の性格を把握できているのだろう。守備のためのタイムが掛かり、本
藤のベンチから、伝令がマウンドに送られる。内野陣が集まった。
「確率ダウンか」
唐沢が苦笑混じりに言った。
でも、バッターボックスの方向を見ていた純子はこのとき、佐野倉がかすか
に笑ったように思えた。相羽の袖を引いて、その様を教える。
「どういうこと?」
「……分からないけど。佐野倉が一枚上手かも」
「うん。そんな感じがする」
伝令が引き上げたあと、しばらくして内野守備陣が再び定位置に散り、ゲー
ムが再開される。
今村は殊更に気分を落ち着かせるためか、ランナーがいないにも関わらず、
セットポジションを取った。そして佐野倉をぐっと睨みつけると、第二球を投
げる。
佐野倉はバットを寝かせた。ボールから目を離さず、こつんと当てる。
バント。
一塁を目指して疾走する佐野倉。ボールは彼と併走したいかのように、一塁
線ぎりぎりを転がり、ラインを超えることなく、一塁手と捕手の間で停まる。
捕手が取り、一塁カバーに入った二塁手に送球するが、塁審の声は、セーフ。
決まった。
味方からの拍手を浴びる佐野倉は、塁上で照れたような笑いを浮かべ、軽い
ガッツポーズをした。
「これだけで判断するのはどうかと思うが、それでも、噂以上に凄い選手だっ
たんだな、あいつって」
感嘆の声を漏らす唐沢。相羽もうなずいていた。
この回の攻撃は無得点に終わったが、流れは若干、緑星に傾いた。八、九回
もピンチらしいピンチを迎えることなく、パーフェクトに抑えた佐野倉とは好
対照に、今村はペースを乱し、四球がまた増え出した。八回裏は緑星下位打線
を相手に四球に加えて暴投もあり、ワンアウト一、三塁の形になったが、一番
バッターのフライを清水がこれ以上ない好返球で、三塁ランナーをホームで刺
し、切り抜ける。
緑星が一点を追う形で迎えた最終回。先頭打者がまたもフォアボールを選び、
出塁。勢いづく緑星に、本藤は制球に苦しむ今村を換えようとはせず、続投。
延長がないだけに、とにかく一点を取りにいく作戦の緑星は、三番に送りバン
トをさせるが、今村の好フィールディングにより二塁で刺されて失敗。逆に、
今村はこれで気をよくしたか、続く四番を三球三振で討ち取る。
「あちゃー、やられた!」
叫んで天を仰ぐ唐沢。だが、すぐに姿勢を戻すと、「さあて、これで絵に描
いたようなクライマックス」と嬉しそうにつぶやいた。
そう、次のバッターは佐野倉。ランナーは、ダブルプレーを免れた三番打者
が一塁にいる。一発出れば逆転サヨナラ、という舞台が整っていた。ただ、こ
こは正規の野球場ではないのだから、打って即ホームランはまずあり得ない。
「二回もランニングホームラン打つのは、ちょっと厳しいか」
「うん。だけど、佐野倉はもう投げなくていいんだから、本当の全力疾走がで
きるんじゃないか? 長打コースなら、可能性は通常よりもある。……という
わけで、純子ちゃん。一生懸命、最後の応援を」
「……ホームランが出れば、こっちが勝つのよね?」
「そうなる。それが?」
「清水や大谷とまた会うのよ。気まずくならないかなあ……」
純子達は、試合前、緑星に到着した清水と大谷の二人と会って、短い時間な
がら話をしていた。その折りに、今日は試合後もミーティングがあるから無理
だけど、春休みの暇なときにでもちゃんと会おうという約束ができていたのだ。
「心配性だね。そんなことまで心配していたら、応援どころか、試合そのもの
ができないじゃないか」
「それは分かってるけど。でも、現実問題として」
緑星が負けた方が、純子個人にとっては、清水達と気持ちよく会える。だが、
自分の学校の負けを願うのも問題あり。理想は引き分けだった。
「単打のタイムリーで終わればいいんだ。はは」
「笑いごとじゃないわ。結構、切実なんだから」
「そうは言っても、応援は真剣に、でしょ」
「た、確かにそう言ったけれど……」
台詞が続かない。純子は自分の言ったことを少なからず後悔した。
「清水と大谷なら、たとえ負けたとしても、うじうじ言うようなやつじゃない
と思うよ。会っても多分、次は負けねーぞって言うくらいで」
「そういうもの?」
小首を傾げた純子に、唐沢が鋭い声を飛ばす。
「おおい、すっずはっらさん! 余計なこと考えてないで、佐野倉に声を掛け
てやれ。乗せてやるんだ!」
テニスをやっていたせいか、唐沢は意外と勝敗に拘るタイプのようだ。
(そうよね。今、うちが負けてるのに、逆転したときのことを心配しても全然
意味がない)
気持ちを切り換える。仕事をこなすようになってから、切り換えが早くなっ
たかもしれない。
純子は声に一際力を込めた。
「いけーっ、佐野倉っ! やっつけろ!」
佐野倉はしっかりとうなずいた、ように見えた。
「昨日は応援に来てくれて、ありがとう」
型通りのお礼の言葉を、どこか固い調子で佐野倉は言った。一時間目のあと
の休み時間、わざわざ純子のクラスまでやって来たのだ。
「お礼を言われるようなことは」
唐突さに戸惑い、次の授業の教科書を出そうとしていた手を止める純子。座
ったまま、まじまじと見上げる。
「とんでもない。勝てたのは、涼原さんの声援のおかげだ」
「まさか」
純子は笑って授業の準備を進めたが、佐野倉は大真面目だった。固さはある
が、初めて話をしたときに比べて、随分と優しい感じを受ける。角が取れて丸
くなったような印象があった。
「少し先の話だけど、春季大会にも応援に来てほしい」
「え」
「涼原さんがいれば、負ける気がしないんだ」
「おいおいおい、なに口説いてるんだ、佐野倉?」
強引に割って入ってきたのは、同じクラスの唐沢。女子大勢の相手に忙しい
風だったのが、振り切ってきたらしい。
「口説いてるんじゃない。昨日のお礼と……そういえば、唐沢も来てくれてい
たっけな。ありがとさん」
「取って付けたような礼を言われても、ちっとも嬉しくないぜ」
「どうせ暇つぶしに来たんだろ?」
男子二人が掛け合いを始めて、純子は応援の話がうやむやになるのを期待し
た。が、タイムアップになる前に、佐野倉が思い出してしまった。
「応援に来てくれないか? 全部とは言わないから、春季大会の何試合を」
「おまえねえ、そんな無茶な頼み事をするなよな」
またしても口出しをする唐沢。佐野倉は、さすがに不機嫌そうに睨みつけた。
「何が無茶なんだ」
「涼原さんにそんな暇、あるはずないだろ。分かってると思っていたが」
「分かってるから、何試合かって言ったんだ」
「試合数を減らしても、無理。ね、涼原さん?」
「う、うん」
返答に偽りはない。三月から四月に掛けては、モデルや芸能活動と平行して、
美咲の募金の件や、小菅先生の出産のお祝い、クイズ番組参加といった予定も
ある。いつ、身体を空けられるか、全くの未定だったし、空いたら空いたで、
仕事のスケジュールに余裕を持たせるための予備日に当てられる可能性が大。
「ごめんなさい、佐野倉君。あの、春季大会は分からないけど、夏はできる限
り、応援に行くから」
思わず、そんな約束を口にしてしまった。夏は夏で忙しくなると、充分予想
できるのに。
「分かった。涼原さんが来てくれたときは、絶対に負けない」
「その言い方は変だぞ。トーナメントなんだから、ずっと勝ち続けねえと」
唐沢が茶々を入れる。佐野倉の顔を見、続ける。
「そうだ、いいことを思い付いた。涼原さん、決勝だけを観に行くことにしな
よ。そうしたらこいつ、意地でも決勝まで勝ち上がってくるさ」
純子が反応を返す前に、佐野倉はにやりと、自信付きの笑みをこぼす。
「妙案だな。涼原さんの声援を受けて決勝でも勝つから、全国大会出場だ」
「本藤に勝ったからって、舞い上がってるな。おまえ一人で投げ抜くとしても、
得点できなきゃ勝てないぜ。いつもいつも、昨日の試合みたいにおまえがうま
く打てるとは限らないだろ」
「言われなくとも、打線強化に努めてるところさ。――ああ、本藤に知り合い
がいると聞いたが、本当か? 大谷と清水とかいう名前の」
唐沢と純子は同時にうなずいた。「中学のときの友達だ」「私は小学校から」
と相次いで答える。
「あの二人は、いいところを見せようとして、特に力が入ってたな。あとの打
席になるほど、ひどくなった。初打席の方がいいスイングだった。ま、自分だ
って、この二人には絶対に打たれまいと投げたんだが」
「……佐野倉君、それって」
二時間目の開始を告げるチャイムが鳴った。
佐野倉は小走りで教室を出て行ってしまった。
「予定日が三月十日で順調だそうだから、その二週間あとぐらいがいい頃合な
んじゃないかって話になったの」
「二十四日前後、いいじゃない。ちょうど春休みだし」
「時間はお昼の一時に一旦集まって、買い物に行って、それから先生の家に着
くのが二時半の予定」
「結構結構」
「それじゃあ、そのつもりでいてね」
「分かった。郁と久仁には私から伝えとくわ」
町田との電話を終え、一息つくと、純子は次の番号に掛けた。
もし手っ取り早くすませたいなら、学校で直接会って伝えることのできる相
手。でも、純子はそうしなかった。
相羽に電話をする理由を作りたかったから。直接の会話だと用件を伝えただ
けで終わってしまうけれども、電話なら話が脱線したってかまわないし、周り
の誰かに聞こえる心配もない。
ついでにもう一つ、理由を付け加えるなら。
(相羽君と面と向かって赤ちゃんの話をするのって、何だか恥ずかしい……)
電話が通じた。
「もしもし? 涼原ですが――」
「純子ちゃん。番号表示されてるよ」
笑いを含んだ相羽の声に、純子の目元が赤くなる。今し方、電話番号の前に
一八六と付けて掛けたのを、もう失念してしまっていた。好きな人のことを思
い描く行為は、得てしてこういうもの。
「そ、そうだった? あ、でも、名乗らないと。私のお母さんが掛ける可能性
だってあるんだし」
「フルネームじゃなかったような……」
「いいから!」
相羽のこだわりが意地悪に聞こえる。思わず、叫んでしまった。
「用事を言うからねっ。しっかりメモをしてよ!」
「ちょっと待って……うん、OK」
純子は小菅先生宅を訪問する件を、早口で話した。あんまり早口だったせい
か、相羽から二度、聞き返される始末。そのおかげで、やっと冷静さを取り戻
せたんだけれども。
「お祝いの品、何か考えた?」
「うん。最初はおしゃぶりとかほ乳瓶を考えてたんだけれど、そういうのって、
先生達も当然、すぐに買い揃える物でしょう? だから、少し先取りした乳幼
児用品なんて、いいと思わない? 絵本なんかどうかな。先生だってまだ買っ
てないはずよ」
「はは、確かに先取りだね。僕なんか、たくさんあっても貰った人が困らない
物を考えてた」
「たとえば?」
「おむつ、粉ミルク」
「あはは、悪くないけど、お祝いって感じじゃないわよー」
「そうだね」
何だかんだ言って、結局、普通に赤ちゃんの話をしている純子だった。
「相羽君は、赤ちゃんを抱っこしたことある?」
「ない、と思う。物心がついてからはない」
物心つかない内に赤ん坊を抱くことは、まずないだろう。あったとしても、
それは抱くと言うよりも、じゃれ合うに近いはず。
「うふふ、私はあるんだ」
「何だか嬉しそう」
「だって、相羽君が経験してないことを、知ってるんだと思うと」
「そういうものかな」
「そうなの! お父さんの田舎に帰ったとき、親戚のおねえさんが子供を産ん
でちょうどひと月ぐらいだったのよ。女の子で、大きくて、意外と重かった」
「何歳のときのこと?」
純子は急いで指折り数えてみた。思い出を手繰るのではなく、その親戚の子
の今の年齢を思い浮かべる。確か今度小学校入学だと聞いたから……。
「えっと、小学四年生のときだったと思う」
なるほどと相羽が小さくつぶやくのが分かった。多分、その年齢ならなおの
こと重く感じるだろうなという意味。
「そのときの感覚で抱き上げたら、力が入り過ぎて赤ん坊を恐がらせてしまう
かもしれないね」
「そんな。脅かさないでよー」
「ないとは言い切れないと思うよ」
「そ、そうかな……」
深刻に受け止める必要は全くないのだが、相羽に重ねて言われたせいで、不
安に駆られる。素直すぎるのも考え物。
「だけど、大事なのは気持ちだからね。優しい気持ちは、赤ちゃんにもきっと
伝わる」
「どっちなの?」
何だか振り回されている気がする。
「いや……純子ちゃんが赤ん坊を抱いている場面を思い浮かべると、色々と想
像が広がってしまって。はは」
それはつまり。
(もしかして、私にいいお母さんになってほしいって意味? わぁー)
やや過剰反応かも。
一人で顔を赤くする純子は、相羽が別れの挨拶をして電話を切ったあとも、
しばらくにやけていた。
* *
信一は柔斗の道場に一礼してきびすを返し、数歩進んだ。が、すぐに立ち止
まると、鞄を開けて、改めて封筒の存在を確認した。
封筒の中身はお金だ。
道場の仲間や師範からの募金をひとまとめにしたもので、信一は責任持って
募金元へ渡すようにと託された次第である。
道場の敷地を出て、十数メートル、角を折れること二度。信一の後方から、
軽快なクラクションがした。振り返りつつ、身体を道の右端にさらに寄せよう
とした信一だったが、途中でその必要がないと理解した。クラクションは自分
を呼び止めるためなのだと分かったのは、車と助手席に人間に見覚えがあった
から。
酒匂川愛理だった。いつになく化粧の乗りがよいらしく、年齢よりも随分若
く見える。もっとも、フロントガラス越しでの判断だから、当てにはならない。
立ち止まった信一の前で、車は止まった。意向を誇示するかのような黒の高
級車の表面は、鏡みたいに磨き上げられていた。
「やっと掴まえた」
顔を覗かせ、にたりと笑った愛理。できた皺に、やはり実年齢が表れる。こ
の辺りの感想には、相羽信一の主観が大きく影響を及ぼしている。
「ご無沙汰を」
どう応対しても嫌悪感が出るだけ。信一は短く、素気なく答えた。
愛理がわざわざ車から降りてきた。これは長話になるなと思った。
「その様子だと、驚いていないわね。待ち伏せしていたというのに」
「どうせ、誰かに調べさせたんでしょう。僕があの道場に通っていることは、
隠していないんだから、簡単に分かるはず」
「信一君のことを思って、調査に力を入れている点を評価してほしいわ」
「用件を早く。こんな狭い道で、あの車を長々と停められたら、他の人に迷惑
ですよ」
「相変わらず、他人行儀な口調で堅苦しいことを言う子ね。そんなに気になる
んだったら、一緒に乗ってくれる? 中で話を」
「断ります。さっさとすませましょう。僕にも急ぎの用事があるので」
にべもない返事に、顔をしかめて手を握りしめる愛理。拳をしばしわななか
せたあと、ふっと力が抜け、やがてゆっくりと口を開いた。
「さぞかし弱っていると思って、助け船を出すつもりで来たんだけれど、どう
やら思惑違いだわ」
「弱ってる? 僕が、ですか」
「あなた、ピアノの練習がなくなったから、こうしてまた道場に通っているん
じゃないのかしらね?」
そんなことまで把握しているのか、と、嫌な感じを強めた信一。
(ピアノのレッスンはまだ終わっちゃいない。道場には顔を出しただけだ)
反論はわざわざ教えてやる必要もないので、胸の内に仕舞い込み、別のこと
を聞いた。
「何を言い出すつもりか知りませんが、ピアノを弾くために、そちらのお世話
になる気は全くない」
「あのお気に入りの外国人先生じゃなきゃだめ?」
「僕が教わりたくないのは、酒匂川に関わりのある人だけですよ」
「そんな意地を張っていいのかしらね。何にも知らないようだから、教えてあ
げましょう。アルビン=エリオットの帰国が決まったでしょう?」
「それが?」
「私が手を回して、圧力を掛けたからなのよ」
突拍子もないことを、あっさりと口にする。権力を行使することが日常生活
に溶け込んでいるのかもしれない。
「ばかな。あの音大は、酒匂川家とは全くつながりがない。きちんと確認した
んだ。圧力の掛けようがない」
「確かに、昔はつながりはなかった。でもね、信一君も覚えておくといいわよ。
一年ほどの時間があれば、つながりを作るのは容易いとね」
「……信じ難いことをする人ですね」
今度は信一が拳を握り、怒りをこらえる番だった。数週間前、エリオット自
身の口から聞いた話が脳裏に蘇る。帰国の理由について話したがらなかったの
も当然だと合点できる。
「僕の邪魔をするためだけに、大学と関係を密にして、エリオット先生を追い
出した? 無茶苦茶だ」
そうして、エリオットから事情を知らされた信一が泣きついてくるのを待っ
ていたが、一向にその気配がない。しびれを切らして自ら現れ、舞台裏を明か
し、意のままに操ろうとしている……歓迎できるやり方からはほど遠い。
「私にとっては、当たり前のやり方に過ぎない。信一君もこちらに戻ってくれ
ば、最終的には今の私のような力を握れるのよ。それを示す意味合いもあって、
こういう手段を執ったまでのこと」
「馬車馬のための人参のつもりですか。全然美味しくなさそうな、真っ黒な人
参に見えます」
「力がほしくなければ、それでも全然かまわないのよ。形だけでも戻って来て
くれないかい。私は、本当の意味の後継者にあとを取らせたくてたまらない。
私の血が流れる人間にね」
「……酒匂川家に僕や母さんが入れば、エリオット先生がまだ日本にいられる
ようにするとでも?」
「そうねえ。あの外国人先生が早々と次の就職先を決めてなければ、きっと残
ってくれるわ。そして、信一君に引き続きピアノを教える。めでたく、八方丸
く収まる」
いい条件よとでも言いたげに、愛理は両腕を横に大きく広げた。孫が飛び込
んで来るのを期待しているようにすら見える。
しばらく考えてから答え始めた信一。冷たい調子に努めるのは、自分自身を
冷静にさせたいから。
「話は終わりですか。それじゃあ、ここで失礼します」
形ばかり頭を下げた信一がきびすを返そうとすると、愛理が呼び止める。
「詩津玖さんの育て方がよかったのね。でもね、いくら強い子に育てられても、
こんなときにまで強がりを言うものじゃないわ。表向きは強がってみせても、
内心ではどれほど動揺しているか、私には手に取るように分かる」
「心を読めるんでしたら、僕らがどうしてほしいか、容易く理解できるはずで
す。ぜひ理解して、行動に移してほしい」
「あなた達親子の希望とは異なるかもしれないわね。けれど私は、あなた達の
ためを思って行動し、言ってあげてるのよ」
信一は首を振った。無力感を改めて覚える。話すだけ徒労だ。このまま立ち
去るのが最善の策。そうと分かっていて実行できないのは、やはり頭の片隅で、
エリオットの身に降り懸かった災難を思うからか。
(こんな人のせいで、ピアノの道を断たれるなんて! 他のことが原因なら、
まだあきらめがつくかもしれない。でも、この人に屈するのだけは絶対に嫌だ)
歯がみするだけで、今は他に手だてがない。
(でも、僕のせいで、エリオット先生が)
そんな信一の心中を察したかのように――いや、偶然に決まっている――、
愛理は笑みを絶やさずに続けた。
「あなたのちょっとしたわがままのために、他の人に迷惑が及んでいるのよ。
そんな状況を耐えられる? 耐えられないでしょうね」
「確かに。耐えられない」
信一は足を止め、相手と向き合うと、これが最後のつもりで言葉を重ねる。
「しかし、あなたの話は切り札になりません。僕はピアノに執着心はあるけれ
ども、コンクールでの上位入賞やプロ志望を強く願っているわけじゃない。父
さんの道を追い掛けて、その先にたどり着きたいだけ。エリオット先生に教わ
るのは、日本でなくてもできます」
愛理は一瞬だけ、虚を突かれた風に口をすぼめた。本当に、ほんの一瞬。
次の瞬間には、唇の両端が、にーっと上を向いた。狡猾とさえ呼べそうな勝
ち誇った顔つきで言う。
「果たして、信一君に行動に移す度胸がある?」
「……」
「大事な人がたくさんいるのに、優しい信一君がその人達を放って、外国に行
けるのかしら。それとも、全員に着いてきてもらうのかしらね」
後悔する。呼び止められたとき即刻吹っ切って、家に帰ればよかった。道端
で論争する気はないし、奇襲を受けた分、自分の方が不利だ。
「そちらには関係のないことでしょう。僕が判断して決める」
信一は平静を装いつつ、足早に場を離れた。
黒の車が追い掛けて来ることは、さすがになかった。
* *
鷲宇は仕事が早いとの定評がある。完璧主義者と思われがちな人物なので、
あくまでも比較的ではあるが、依頼者側からしてみれば早く感じるのだろう。
ところが今回は本当に早かった。星崎と久住のユニットによる曲作りを頼ま
れる前から、構想を描いていたのではないかと思えるくらいの仕事ぶりだ。
「どうです?」
ヘッドフォンを外した星崎と純子、否、星崎と久住に、鷲宇が小首を傾げな
がら尋ねた。純子にとっては馴染みのある鷲宇独特の丁寧口調だが、星崎の方
は意外に感じたらしくて、目をぱちぱちさせている。
その星崎が手を肩の高さに挙げ、「僕からでいいですか?」と断ってから始
めた。
「凄く、合いますね。感性にぴったり重なります。いや、ぴったりと言うんじ
ゃなくて、身体すれすれを、音楽という名の衛星が周っているような」
「面白い表現だ」
鷲宇はさして表情を変えることなく、そう応じた。思惑通りだという気分な
のかもしれない。
「僕はアップテンポな曲が好みなので、こういう感じ、好きだなあ。ただ、そ
れでいて意外性もありますね。こう来るのかなと思わせておいて、ちょっと外
す」
「唄う側にも聴く側にも、緊張感を持たせたかったのでね。星崎君は気に入ら
ないかな?」
「とんでもない! これをなくしたら、持ち味が消えてしまうんじゃありませ
んか? 奇をてらったような外し方は嫌いだけど、こういうやり方はいいです
よね。うん、僕は初めてだ」
男性二人のやり取りを、純子はじっと聞いていた。純子にとっては、感想を
求められても、答は常に同じ。鷲宇の作る曲はいつも自分のフィーリングに合
う。そして唄いやすい。
「久住君はどうかな」
「初めて星崎さんと一緒に唄う曲だから、いつもと感じが違う物になるのかな
と不安だったんです。けれど、全くの杞憂でした。歌詞の付いていない内から
言うのは気が早いですけど、自然に声が出せそう」
「うん。確かに君の言う通り、いつもと同じではないんだよ。歌詞が完成すれ
ばよりはっきりするはずだけどね、一部、星崎君と久住君の闘いになる」
「闘い、ですか?」
唐突に語られた刺激的な単語に、純子は興味を引かれ、それ以上に不安を呼
び戻された。胸元に握った右手をやりそうになり、気付いてやめる。女の子っ
ぽい仕種は極力避けねば。
「面白そうですね」
星崎は微塵も不安でないらしく、感じたままを楽観的に述べる。それから純
子の方を向いた。
「闘って、負けるかもしれないけれどさ。僕が久住君に勝てるとしたら、声の
大きさと年齢ぐらいだもんな」
「じょ、冗談を」
「満更、冗談でもない」
と、星崎は純子の肩に腕を回し、引き寄せた。
「ほ星崎さん?」
押し退けることもできず、ただ問い返す純子。
星崎は天井を見つめ、しばらくしてから手を引っ込めた。
「もう一つ、勝てるものがあった。まだまだ食べる量が足りていないぞ、久住
君。華奢すぎる」
「な、何なんですかっ」
「ごめんごめん。こうするのが一番手っ取り早いから。しかし、本気で心配だ
な。鷲宇さん、この曲調だと、相当に激しい振り付けになると思いますが」
デモテープをケースに片付けつつ、質問に応じる鷲宇。
「振り付けは僕の関与するところではないが、多分、そうなるだろうね」
「彼には少々厳しくありませんか?」
星崎に指差され、純子は思わず、自分の肩を触った。そんなに弱々しく映る
のだろうか。
「外見だけで決めるのはよくないね、星崎君。君は知らないだろうが、久住君
は実は怪力無双で、持久力もあって――」
真面目な顔で言う鷲宇。純子が止める間もなく、最後まで走る。
「そして驚いたことに、豊かな胸毛があってね。実にたくましい」
「へえ? ほんと――」
「嘘です!」
振り返りかけた星崎が眼をまん丸にするほど大きな声で、純子は否定した。
憤慨のあまり、肩が上下する。
「胸毛なんて真っ赤な嘘! ぼ、僕には生えてませんっ。知ってるでしょう、
鷲宇さん!」
「わ、分かったよ。悪かった」
剣幕に気圧された上に鋭い目つきでにらまれた鷲宇が、両手で制す格好をし、
なだめる。彼はしかし、純子が怒りを沈めて椅子に腰掛け直すのを見計らい、
星崎に耳打ちのポーズで告げた。
「な、星崎君、分かっただろう? これほどまでに活力溢れる久住君が、我々
の期待を裏切るはずがない」
「そうですね」
口元に拳を当て、くすくすと笑いをこらえながら星崎は肯定した。
「多少の激しい動きは、楽にこなせそうだ」
「ええ、ええ。こなしてみせますとも」
なげやりというよりも開き直って、純子は応えた。ふてくされているときが、
一番演じなくてすむようだ。
「とりあえず、二人ともこの曲を気に入ってくれたようだから、このまま進め
るとしよう」
「完成じゃなかったんですか?」
純子が尋ねる。これまで鷲宇が作ってくれた曲は、最初を除けば、常に完成
品だったのだ。
「手探りだったからね。基本はいじらないが、手を入れるところは出て来るさ。
それに、たった一曲じゃあ、ディスクにしづらいだろうしね」
「ということは」
「そう、もう一曲。バラード調を考えているんだ。お楽しみに」
お楽しみにどころではない純子は、笑顔を強張らせた。
(星崎さんと並んでバラード! いくら声を作っても、負けちゃいそう……。
低音ではかないっこないわ)
横目で星崎の表情を探る。腕をさすり、やる気満々の仕種を見せていた。
――つづく