AWC 水と和音(わおん) 下 (とりあえず版)   泰彦


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★タイトル (BWM     )  04/08/11  23:51  (214)
水と和音(わおん) 下 (とりあえず版)   泰彦
★内容                                         04/08/11 23:53 修正 第2版
                              〜 7.居場所 〜

 土曜日、私は迷っていた。
 元々図書館へ行く予定だったから、時間はたっぷりある。けれど予定通り図書館へ行
く気分ではない。私に重くのしかかっているのは、昨日の先輩の言葉だった。
「僕が言ったら押しつけになっちゃうから」
 反則だよな、と思う。人に都合良く押しつけておいて「押しつけになっちゃうから」
はないだろう。
 それでもこれは良い機会のような気もする。
 和音に避けられている私。そして二人の関係が本当に壊れてしまいそうで強く踏み込
めないでいる私。
 先輩は分かった上で、踏み込むきっかけをくれたのだろうか。もちろん先輩は私たち
の間にあったことは知らないだろう。それでも、上級生として後輩を見て、思うところ
があったのかもしれない。
 私はさんざん迷った末に、電話へと手を伸ばした。

 和音の携帯電話の番号は知らないので、配られたクラス名簿に書いてある自宅の番号
をダイヤルする。呼び出し音5回でお母様らしき人が出た。
「はい、桐島でございます」
「あ、私は和音さんの高校の同級生で、合唱でご一緒しております山下と申しますが」
「いつも和音がお世話になっております」
 上品そうなおっとりとした声に、私は思わず聞き惚れそうになってしまった。和音も
そのうちこんな声になるのだろうか。おっとりとした調子は確かに似ていなくもない。
 私がそんなことを思ってぼんやりしていると、お母様は「ごめんなさいね。和音は今
出かけておりますの」と言った。
 それを聞いて、私は少しほっとした。問題を先送りしただけなのは分かっているけれ
ど、それでも出来れば直面したくない。そんな私を知ってか知らずか、お母様は「和音
は海に行っているのよ」と続けた。
「海、ですか?」
「そうなの。歩いても15分くらいでしょう。あの子は昔から週末には一人で出かけてぼ
んやりと海を眺めていることを多いのよ。もっとお友達と遊べばいいのにねぇ」
 そして親切にも和音が良そうな場所を教えてくれる。それどころか電話を切る時には
「これからも和音のことをよろしくお願いしますね」と言われてしまった。
 これは行かないといけないかな、と私は通話終了ボタンを押しながら思う。短気なく
せに、頼られるとつい引き受けてしまうのが私の常だ。苦労の割に見返りはほとんどな
いのだけれど、そんな私が、私は少し好きだった。
「よーし、待ってなよ、和音」
 そんなことを言いながら、私は出かける用意を始めた。

 和音がいるというのはうちから自転車で10分ほどの場所で、ちょうど学校へのバスの
ルートの途中だった。バスはうちの近くから海沿いの道を通って和音の家の近くまで行
き、そこからは海から遠ざかって町へと向かう。町の少し手前に私たちの通う高校があ
った。
 私は「大漢和」と名付けた愛用の自転車にまたがって、いつもはバスで通るその道を
進んだ。「大漢和」とは、私がいつも図書館でほれぼれと眺めている漢和辞典の事だ。
諸橋徹次先生の編纂した「大漢和辞典」は、大修館書店から出版されている全13巻プラ
ス補巻2冊という重厚長大な書物で、古書店ですら10万円近くする。
 4月にしてはまぶしい日差しが、早くも初夏の訪れを告げていた。海は光を受けてまぶ
しく輝いている。
 程なくして、堤防がきれて砂浜へ降りられるようになっている場所を見つけた。私は
その脇に大漢和を止める。
 砂浜に足を踏み入れると、思いのほか足が埋まった。こんな事もあろうかとサンダル
で来たのは大正解だ。私はサンダルと足の間に砂が入ってくるのに閉口しながら、波打
ち際まで歩く。さすがに水は少し冷たかったけれど、それでも日差しが強いから心地よ
い。
 海にはほとんど波がなく、光を反射して鏡のように光っていた。もっともこれは珍し
いことではない。
 言い伝えによれば、この海には神様がいないらしい。だからなのか、荒れたりするこ
とは少なく、1年の多くは穏やかだ。ところが荒れない割には海難事故が多い。これは神
様がいないから悪霊や何かが悪さをし放題だからだ、ということになっている。
 もっともそれを本気で口にするのはお年寄りばかりだし、どうして神様がいないのか
という理由が分からないからあまり説得力はないのだけれど。
「悪霊ねえ」
 私はサンダルを履いた足で水を蹴り上げながらつぶやいた。水は空中で光を受けて輝
き、水面に複雑な模様を描く。どう見てもごく普通の海水だ。
「さて、と」
 私は本題に戻ることにした。左右を見回して和音の姿を探す。この辺りの海岸線は単
純だから、この辺というお母様の言葉が正しければ目の届く範囲にいるはずだ。
「いた」
 程なく私の目は、和音の姿を発見した。赤いワンピースに身を包んで、私と同じよう
に水に足を浸している。
「和音」
 そう叫ぼうして、私は突然根拠のない不安に襲われた。この快晴の中、和音が水の中
に消えてしまうのではないかという恐怖。
「和音」
 体中の力を動員して私は叫んだ。普通なら聞こえるはずの距離。けれど和音は海の方
をじっと見つめたままだ。
「和音」
 私は叫びながら、服に水がはねるのも気にせずに走った。入水自殺という言葉が脳裏
をよぎる。
 和音への距離が遠く感じる。水が足にまとわりついて走りづらい。
 おそらく数十秒だったのだろう。永遠とも思える時が過ぎ、私の手が和音に触れる。
「あれ、佐知絵さん」
 ぼんやりと、和音がこちらを向いた。
「和音、こっちおいで」
 強引に和音を砂浜へ引き戻す。彼女は抵抗する様子もなく、手を引かれるままついて
来た。
「あんたねえ」
 一息ついて私が口を開くと、和音ははっとしたような顔をした。気まずそうに視線を
そらし、おずおずと2、3歩後ずさる。
「和音」
 私が呼びかけると、びくっと体が震えた。みるみる涙があふれてくる。私が何か言う
前に、和音は身をひるがえそうとした。
「ちょっと」
 私がつかんだ手に力を入れるのと、和音が叫んだのは同時。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
 思いがけず強い力で身を引かれ、私はたたらを踏んだ。もちろんそれでも手は離さな
い。その間も和音のごめんなさいは続いていた。けれどそれも次第にか細くなり、それ
につれて体の力も抜けていく。
 涙を流しながら、和音は黙ってうつむいていた。
 私も、かける言葉を探して、同じく黙ってうつむいていた。
 つかんだ時には気づかなかったけれど、和音の手首は驚くほど細い。折れなくて良か
ったと、場違いなことを思う。
「あのさ」
 沈黙に耐えられず、私は口を開いた。
「みんな待ってるよ」
 話す内容を決めていたわけではないけれど、言葉が自然に口をついて出る。
「三橋先輩も、杉原君も、もちろん私だって」
「そんなこと、ない」
 うつむいたまま和音がつぶやく。
「私はさ、和音じゃない。もちろん三橋先輩だって杉原君だって、和音じゃない。だか
ら私たちが和音のことを考えてしたことが、本当は和音にとっては迷惑なこともあると
思う」
 三橋先輩が和音にオブリガートを任せようとしたのも、杉原君が和音に安易に答えを
与えないようにしたのも、私が答えることを強要したのも、きっとみんなそうなのだろ
う。
「それでね、誰だって自分にとって居心地の良い場所が欲しいと思う。でも、それって
黙っていて与えられるものじゃないんじゃない? 人が良かれと思ったことだって、本
人にとっては辛いことだったりするんだから」
 こんな偉そうなことを言う権利は私にはない。そう思いながらも、言葉は止まらな
い。
「和音、居心地の良い場所は、黙っていたって、逃げていたって、手に入らないよ」
 和音はうつむいたまま、そっと拳を握った。
「三橋先輩は和音がやるのが良いと思ってオブリガートをお願いしたんだよ。和音が断
れば先輩は別な人を選べば良いけれど、黙っていたら先輩は身動きが出来ないでしょ
う。もしかしたら違う人にお願いした方が良かったのかも、って悩むかもしれない」
 私は和音の方にそっと手をかける。一瞬和音の体がこわばったけれど、それはすぐに
収まった。細く小さい体は、それでも小さく震えている。
「和音、あなたの気持ちも少しは分かるつもり。でもね、逃げるのは自分のためにも他
人のためにも良くないよ。慣れないうちは少し辛いかもしれない。でも、前に向かう行
き方も結構良いと思うけどな」
 私は後ろに倒れそうになるのをかろうじてこらえた。それが和音に抱きつかれたから
だということに遅れて気が付く。
 和音は私に抱きついて泣いていた。私はそっと髪をなでてあげる。こうしていると和
音はまだ中学生か小学生のようだ。小さくて可愛い妹のような女の子。
 きっと今までいろいろな人が世話を焼きたがったことだろう。そして誰もが彼女のた
めと思って様々な助言をし、和音もそれを素直に受け入れてきたに違いない。
「和音」
 私は髪をなでる手を休めて少し考え、そしてそれを実行した。
「あいたっ」
 和音が頭を押さえて私から離れる。
「ほらほら。高校生にもなってそんなに泣いていたらみっともないぞ。みんみんなくの
は夏のセミに任せておけばいいんだから。もうすぐ夏だし」
「だからって、髪の毛を引っ張るなんてひどい」
「でもほら、泣きやんだでしょう」
 得意になる私をじと目でにらむと、和音は私の手の甲を素早くつまんでひねった。
 痛い。けれど少し心地よい。
「お返しだもんね」

 それからしばらく、私たちはたわむれあった。砂を蹴り、水をすくい、走り回った。
「私ね、嫌われちゃったと思ったの」
 堤防に腰掛けて自動販売機で買ったジュースを飲みながら、和音がぽつりとつぶや
く。
「だからそれ以上嫌われたくなくて、会わなければ嫌われることもない、って」
「会わない間に憎さがつのるってこともあるんだよ」
 不信感がつのることもあるだろう。本当に怖いのは、目に見えず、声の聞こえない相
手だと思う。
「うん、ええと、ごめんなさい」
「いいよ、気にしてない。ううん、気にしてなかった訳じゃないけど、今忘れた」
 しおらしく謝る和音に笑って答え、私はふと気になったことを思い出した。
「私さ、和音が入水自殺するんじゃないかって思ったの」
 一瞬何のこと?というように首をかしげた和音だったが、すぐにああ、という顔にな
る。
「私ね、海が好き」
 そのときの表情は、まるで恋人のことを話しているかのようだった。はにかんだよう
な、ちょっと切ない瞳。私の目に映る和音は、さっきまでとはうって変わって大人びて
見える。
「うれしい時は一緒に喜んでくれる気がするし、悲しい時は慰めてくれる気がする」
 そんなことを素直に口に出来る彼女が、私には少しまぶしい。
「だから苦しい時、海と一緒になれば気持ちいいかな、何も考えずにぼんやり漂ってい
るのもすてきかな、って思うの。そういう時、いつも来てくれるのが響一、杉原君なん
だ。でも」
 私と視線が交わる。
「今日は佐知絵さんだった」
「お節介だったかな」
 照れくさくてそんなことを言う私に、和音は真っ正面からこう言った。
「ううん、うれしかった。ありがとう」
 その時、私は視界の端に見たことがあるような後ろ姿が見えたような気がした。細い
その姿を、けれど私は気にしないことにした。それがきっとお互いのためだろう。
 それに。
 今は目の前にある和音の笑顔を眺めていたかった。


                            〜 8.新しい季節へ 〜

 新入生歓迎会の演奏は大成功だった。
 和音のオブリガートはあまり音響の良くない体育館ですらコンサートホールを思わせ
るほど見事に響き、三橋先輩をはじめとする先輩方を驚嘆させた。
 私はあらためて和音からお礼を言われた。三橋先輩や杉原君からもお礼を言われ、一
瞬自分がとても偉い人なのではないかと錯覚しそうなほどだった。
 和音は前より少し明るくなった気がする。「ええと」と前置きして控えめにではある
けれど、意見を言うことが増えた。同学年の間ならちょっとした冗談も言うようになっ
たけれど、和音の感性はどこか人とずれていて、笑うポイントが分からずに顔を見合わ
せてしまうことが多い。それでも和音は私たちの仲間だった。
 そして。
 今回の出来事で一番変わったのは和音ではなくて私自身だ。私は密かにそう思ってい
た。
 入学前のわずかな期間で人との付き合いを面倒に感じていた私。けれどそれは新しい
環境に踏み込んでいく勇気がなかった私が、逃げていただけだったように思う。和音に
は偉そうなことを言っていた私だけれど、あの言葉は自分自身に向けていたのかもしれ
ない。
 私の中の私が無意識のうちに口にした言葉。それが私を変えた。今ではそう思う。

 それから私の週末の予定には、図書館に加えて海が仲間入りした。あの日「海と一緒
になれば気持ちいいかな」と言った和音の境地にはまだまだ遠いけれど、寄せては返す
波の音に身を浸していると、ありのままの自分も悪くないような気がする。今度クラス
メートに誘われたら、遊びに出かけるのも良いかもしれない。

 この海だって、神様はいないかもしれないけれど、これはこれでいいんじゃない。
 だって私はそんなことに関係なく、この海が好きだから。

 そして季節は夏を迎える。

                                  〜 Fin 〜




元文書 #236 水と和音(わおん) 中 (とりあえず版)   泰彦
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