#235/598 ●長編
★タイトル (BWM ) 04/08/11 23:49 (396)
水と和音(わおん) 上 (とりあえず版) 泰彦
★内容 04/08/11 23:52 修正 第2版
その日、私はバスに揺られながらぼんやりと外を眺めていた。窓の外では人々が忙し
そうに動いている。通学する人々は電車やバスに乗り遅れないように、お店の人は開店
前の準備で。朝は全てが早送りだ。時々お年寄りが散歩をしていると、逆にスロー再生
されているように見えてしまう。
それなのに、私のこの緊張感のなさはなんだろう。向かう先は、気乗りしない場所。
これから3年間、毎朝こんな思いをするのだろうか。
4月。窓の外はピンクに染まっている。
今日、私、山下佐知絵は高校に入学する。
〜 1.合唱部 〜
校門から校舎までわずか30mほどの桜並木。その両脇にはおびただしい数の上級生が押
し合いへし合いしていた。看板が立てられ、のぼりがいくつもはためいている。最寄り
のバス停からとぼとぼと歩いてきた私は、校門の前で思わず立ち止まり、一歩後ずさっ
てしまった。周りには同じように校門内のただならぬ雰囲気に恐れをなした新入生とお
ぼしき人々の姿が少なからず見受けられる。
私は門柱に目的の高校名を確認してから、一歩踏み出した。何も間違ったことをして
いないのだから、立ち止まっている道理はない。
それからの数分間の事は良く覚えていない。左右から紙を持った手が伸びてくる。部
活動の名前が連呼される。名前を書いてくれとノートが差し出される。そんな事が何回
繰り返されたのだろうか。気が付いた時には視界が開け、私が3年間を過ごすであろう校
舎が目の前に鎮座ましましている。そして、私の両手は紙の束でいっぱいだった。
振り返ると、私と同じように機械的に紙を受け取るだけ受け取る人もいれば、早速部
活に入部しようという人もいて桜並木はお祭り騒ぎだ。
願書提出、入学試験、入学手続きの3回しかこの学校に来たことのなかった私は、その
熱気に呆然として、しばらくその場を動けなかった。
私が和音に始めて出会ったのは、放課後の音楽室だった。
その日私は、黒板の隅に小さく書かれた文字を見逃さなかった。様々な部活動が放課
後の活動について連絡するために朝早く書かれた文字。水泳部と吹奏楽部の間に挟まれ
て少し縮こまるようにして「合唱部 15:30から音楽室にて」
合唱部という部活を選ぶことに、深い理由はない。中学校の時に姉が合唱部に入って
いたから、何となくやってみたくなった。ただそれだけの事だ。
入学式から一週間が経ち、私は入学前の気乗りしない気持ちが間違いでなかったこと
を痛感していた。入学式もオリエンテーションも中学校と大差なかったし、ホームルー
ムでの自己紹介や探るような会話も経験済みだった。きっとクラスの女子はいくつかの
グループに分かれて一緒にお弁当を食べたり、トイレに行ったりするのだろう。
違うと言えば大学入試がより視界に入ってきた事だろうか。以前は東大に何十人も送
り込んでいただけあって教師の質が高いと有名な公立校なだけに、勉強に集中すればあ
まり予備校に通わなくても何とかなるかもしれない。
それでも合唱部に興味を持ったのは、未経験の合唱というものに対する好奇心と、そ
の他のものに対する失望の反作用だろうか。不思議なことに、私の中に見学もせずに帰
宅部を選ぶという考えは少しもなかった。
そんなわけで、私はとりあえず見学に行ってみることにした。授業が終わったのが15
時。当番だとその後に掃除があるが、今週はそうではなかったのでそのまま音楽室に向
かう。途中、三年生の教室の前を通らないと音楽室にたどり着けないことに気が付い
た。校舎は学年で階が分けられているのではなく、クラス別になっている。ABC組は1
階、DEF組は2階、GHI組は3階。音楽室は3階の隅にあって、その隣は3年生の教室だ。何
階から音楽室へ向かっても避けられない。けれど別に悪いことも間違ったこともしてい
ないのだから、通らない道理はない。帰宅する人、部活へ行く人の間をすり抜けなが
ら、私はその3階の隅を目指した。
音楽室の大きな扉を開けた私の目に、教室よりはるかに大きな空間が飛び込んでく
る。音響のことを考えて高く湾曲した天井。音が反響しないようになっている壁。授業
のために並べられたパイプ椅子。上下にスライドする大きな黒板。指揮者用の譜面台。
そして向かい合わせに置かれた2台のグランドピアノ。
そこは校舎の他の場所とは少し違う空間だった。防音がしっかりしているせいだろう
か、喧噪から隔絶されている。そして生活臭がない。どこか壮大で、どこか異空間のよ
うな部屋。
その中に2つの人影があった。中肉中背の男性がグランドピアノに向かっていて、小学
生のような女性がその脇からグランドピアノをのぞき込むようにしている。
その女性がこちらを向いた。女性と言うよりは少女といった方が良いだろう、愛らし
い顔つき。
視線が交わる。
その表情をなんと表現すればいいのだろう。最初の一瞬、その顔を覆っていたのは一
言で言うなら怯えだった。新たな侵入者に対する絶望的な感情。もしこの場に2人しかい
なかったら、事情も分からないまま謝罪の言葉を口にしてしまいそうだ。
けれどその表情は、次の瞬間にはすがるようなそれに変わった。次の問題を自分が答
えないといけないという場面で、偶然通りかかった優等生を見るような、そんな視線。
私の出現に明らかにほっとしている視線。勉強も運動も音楽もその他どんな能力も突出
していない私にとって、それは生まれて初めて受ける視線だった。これほど強く自分が
必要とされていることを感じたことはない。
視線に捕らわれて、私は身動きできなかった。
「あ、見学者?」
その一言で世界が広がった。音楽室の入り口にいる自分を再認識する。そこで初めて
男性がこちらを向いていることに気が付いた。さっきの言葉はこの男性が口にしたらし
い。眼鏡をかけて愛想良く笑っているその顔は、こんな事を言うのは失礼だけれどカッ
パによく似ていた。思わず吹き出しそうになりながら私はその人へ答える。
「ここが合唱部なら、そうです」
「ようこそ! ここが合唱部です」
勘違いで違う部活に入部させられてはたまらないという思いが、ひねくれた答えにな
ってしまったのだけれど、その人は両手を広げて歓迎の意を示してくれた。
「俺は三橋って言います。入学式の後に校歌指導をやってたんだけど見てくれた?」
ああ、そういえば見たような気がする。さっきカッパに似た顔を見て吹き出さないで
いられたのは、1回見ていたからかもしれない。もっとも校歌指導自体は覚えていても、
指導していた人まではよく見ていない。もし位置が近ければその顔を覚えずにはいられ
なかっただろうけれど、残念ながら五十音順で「や」はとても後ろの方なのだ。
「この子もね、見学に来てくれたの。えーと、桐島さん、だよね?」
三橋と名乗ったその人は、隣の少女に確認する。少女はおどおどしながら口を開い
た。
「ええと、桐島和音です。1-Fです」
「山下佐知絵です、1-Aです」
再び彼女と目が合う。さっきまでのすがるような雰囲気はそこにはない。あるのは安
心とでも言うのだろうか。私はその視線の意味が良く分からなくて、ぎこちない微笑み
を返した。
「山下さんは、合唱はやったことある?」
私たちが挨拶を交わすのを待って、三橋先輩が口を挟む。
「いいえ。でも姉が昔やっていたので、聞いたことはあります」
「いいねぇ、合唱曲を聞いたことがあればもう経験者だよ」
「いえ、あの、初心者ということでお願いします」
あっという間に経験者にされそうで、私はあわてた。聞いたことがあると言っても、
今となってはほとんど何も覚えていないのだ。変に経験者扱いされてはたまらない。
「そんなことないと思うけどなぁ」
笑いながら、ちょっと残念そうに言う先輩。でもそのことは別にどうでも良いのだろ
う。すぐに合唱部の説明をしてくれた。
練習は水曜日と木曜日の放課後と、火曜日から金曜日の昼休み。部員は2年生が4人
と、引退したけれど3年生が8人。それでいて30人以上いる吹奏楽部や管弦楽部と同じ頻
度で音楽室を使っているから、この両団体からはあまり快く思われていないらしい。何
でも合唱部にも昔は部員が40人以上いた時代があって、その頃と音楽室の配分が変わっ
ていないのだとか。
「でも部員同士は個人的に仲が良かったりするんだよ」とフォローする辺り、この先輩
は人が良いのかもしれない。そう思っていたら、
「今の時期は5月1日にある新入生歓迎会の練習なんだけど、うちは新入生にも歌っても
らうからよろしくね」とさらりと言う辺り、この先輩は人が悪いのかもしれない。
ちなみに新入生歓迎会とは新入生向けの文化祭のようなもので、50以上あるという
部、同好会、サークルが新入生を獲得すべく熱い戦いを繰り広げる場らしい。
オリエンテーションでは何も言われなかったから、先生方にとってはあまり大きな行
事ではないのだろう。部活動に所属しない、いわゆる帰宅部の人もいるだろうから、全
校行事の文化祭に比べて盛り上がりに欠けるのは仕方がないのかもしれない。
「『河口』って曲、知ってる?」
その曲名には聞き覚えがあった。卒業式で歌う学校が多いという合唱曲だ。私の出身
中学では大地讃頌だったけれど。
「歌ったことはないですけれど、曲名なら。」
「さすが経験者は違うね」
「ですから、曲そのものは知りません」
そう言い返しながら、私の耳は「すごいなぁ」というつぶやきを聞き逃さなかった。
誰の声と確認するまでもなく、この場には私と先輩以外の人は1人しかいない。
「曲名だけ知っているというのは、『大学受験』という言葉だけ知っているようなもの
よ。言葉を知っていれば入学できるわけではないでしょう?」
「上手い上手い。確かにそうかもね」
横で先輩が頷いている。桐島さんはといえば、「そうかなぁ」と言いながら首をかし
げた。
「私とあなたは同じ1年生。同じ合唱初心者。それでいいじゃない」
私が思わず強く言うと、彼女は少し怯えたようにこくこくと首を縦に振る。何だか弱
いものいじめをしているような気分だ。
「まあまあ、そのくらいにして練習を始めようか。まだ他の人が来ていないから発声練
習の前に『河口』の音取りを」
「みきょー」
"音取り"という耳なじみのない言葉について聞き返そうとした時、音楽室の出入り口
で奇妙な叫び声が響いた。そちらに目をやると、長身に眼鏡をかけた女性と、線の細い
男性が音楽室に入ってきたところだった。女性はこれでもかと言わんばかりに右手を頭
上で左右に振っている。その動作はどう考えても30m以上遠くにいる人にするような大げ
さなものだ。
「みきょ?」
「その呼び方はやめてって言ってるでしょう」
桐島さんが首をかしげるのと、三橋先輩が女性に抗議するのはほとんど同時だった。
そうすると「みきょ」というのが三橋先輩の呼び名らしい。
「あ、新入生? こんにちは。福岡です。部長をやってます」
人なつっこそうな笑顔がかわいい。年上に対して可愛いと言うのはちょっと失礼だけ
れど。
「このちっちゃい子が桐島さん。こっちが山下さん。山下さんは経験者だって」
「違いますって」
「おおー、期待のホープだね」
私の否定はわずか1m先までも届かない。
「で、そっちの子は新入生?」
「そうそう、入り口のところで入ろうか迷っていたから声をかけたの」
どうでもいいけれど、福岡先輩の身振りは常に、見ていて恥ずかしいくらいに大げさ
だ。「そうそう」で大きくうなずき、「入り口のところで」できちんと入り口を指差
し、「入ろうか迷っていたから」ではロダンの考える人のポーズ、そして「声をかけた
の」で肩に手を置いて話しかける体制。一連の動作には無駄がなく、これがパントマイ
ムだったら拍手を送らずにはいられないと思う。それを日常の動作の中で行っているの
だから驚きだ。しかも本人は意識してやっているわけではない節があるから、なお驚き
である。
「佐々原和久といいます」
線の細い男性はぺこりと頭を下げた。お辞儀は腰からきっちり30度。きまじめそうな
人だ。
ふと横を見ると桐島さんの体がさっきに比べて少しこわばっているようだった。
結局その日の新入生参加者は私を含めて5人だった。男性は佐々原君だけで、彼は見て
いて気の毒なほど居心地が悪そうだった。彼の後にやってきた女の子二人連れはカラオ
ケの延長線上で考えていたらしく、上級生の弾くピアノや歌声をお手本にしながら旋律
を覚える"音取り"にとまどっていた。しかも2人は女性の高音を歌うソプラノと低音を歌
うアルトに分かれてしまい、懸命に指導していた先輩には申し訳ないけれど、もう来な
いんじゃないかと思った。
〜 2.帰り道 〜
18時に活動が終わると、私と桐島さんは連れだって校舎を出た。別に深い理由がある
わけではなく、先輩や他の新入生は自転車通学で、私たちだけがバス通学だったから
だ。この学校は全校生徒の約7割が自転車通学をしていて、始業5分前ともなると学校前
の道路は北京大通りもかくや、という状態である。
「桐島さんはどうして自転車通学しないの?」
自分のことを棚に上げて聞いてみると、彼女は申し訳なさそうにうつむいた。
「学校まで自転車で通えるだけの体力がないから」
なるほど。見るからに線の細い彼女のことだ。自転車をこぐのも一苦労に違いない。
「山下さんは?」
「私? 面倒なのは嫌いだから」
「面倒?」
自転車の方が楽なんじゃないの?という視線に、私は笑って答える。
「雨が降ったらバス、晴れたら自転車って使い分けるのは面倒じゃない? 家を出る時
間も少し変わるし。私にとってはいつもバスで通う方がよっぽど楽よ」
「あー、そうか。そうだよねぇ」
こくこくと真剣にうなずく彼女の顔は、真剣だからこそ少しおかしい。そして「おか
しい」と思う自分に「おかしいなぁ」と思う。ついこの間、あんなに高校生活に気乗り
しなかったのに。
「また短気を出しちゃったかな」
一人ぼやく。短気は昔からの悪い癖だ。
ふと桐島さんと目があった。彼女は少し照れたような、まぶしそうな表情でこちらを
見ている。
ああそうか。私は昔からこの手の視線に弱いのだ。頼られたり期待されたりすると、
それに応えずにはいられない。手痛い目にあっても。その性分は高校生になったからと
いってそう簡単には変わったりはしないらしい。
「桐島さん」
自分のことを第一に考えるとそんな性格だよな、と思いつつ、私は彼女に声をかけ
る。
「はい?」
向けられた視線は、初めて音楽室であった時に向けられたそれに似ていた。あの時と
違って表情のこわばりはないけれど。
「『和音』って呼んでもいい?」
「ありがとう。そう呼んでもらえるとうれしいな」
ちょっとずれた答え。きっと彼女にとってそれはあえて肯定する必要がないくらい明
確なことなんだろう。
「私のことも好きに呼んでくれていいよ。あ、変な呼び方は却下だけど」
「ええと、好きに呼んでと言われても……」
「中学校だとさったんとか佐知とか呼ばれてたけど」
この感じからすると、あだ名を付けた事なんてないんだろうな。見ていて息が詰まり
そうなくらい懸命にあだ名を考える人なんてそうはいないと思う。
「じゃあ、佐知絵さん」
ずいぶんと経ってから、不意にこちらを向いて言う。
「ええ? 何それ。他人行儀じゃない」
「そ、そんなことない、と、思うけど」
急に口調がしどろもどろになる和音。
「だってさ、今時初対面でも佐知絵さんって呼ばれるよ」
「ええと、初対面だし」
そうだった、彼女とは今日が初対面だ。けれど私が言いたいのはそういうことではな
い。
「私が名前を呼び捨てにするのに、あなたはさん付けなんて対等じゃない気がしない?
何だか避けられている気分」
「違う、違うの」
私の言葉を遮って、和音は半ば叫んでいた。バスの中の乗客が驚いてこちらを振り返
る。私はゆっくりバスの中を見回した。私と目が合う前に誰もがそそくさと視線を戻
す。それを見て和音も自分の声が大きかったことに気づいたらしく、小声で「ごめんな
さい」とつぶやいた。
「謝らなくても良いんだけどさ。いや、公共の場なんだからね、と怒っておいた方がい
いのかな」
声もなくうつむく和音。何だか小動物をいじめているような気がして、気分が悪い。
「それで?」
水を向けても返事がないので、私は言葉を続けた。
「どう違うの? 私としてはさん付けは壁を作られたみたいで気になるんだけど」
それでも返事はない。和音はますます怯えたように縮こまっている。
もう、何なのあんた。そう言おうとして、さっき短気を反省したばかりだったことを
思い出した。さすがに数分後に再爆発しているようでは短気にもほどがあるというもの
だ。
「あのさ、和音はどうして私をさん付けで呼びたいの?」
北風と太陽のお話じゃないけれど、かたくなな相手に対するには力押しは逆効果だ。
そう思って優しく声をかけると、しばらくためらってから彼女はぼそぼそと口を開い
た。
「ええと、それが自然だから」
「自然?」
少し苦労して「怒っていないよ笑顔」を作ると、私は目で続きを促す。
「私がね、山下さんのことをさっちゃんとか佐知って呼ぶのは、私にとっては自然な事
じゃないの」
まるで泣き出しそうな口調。
「無理しないと出来ない」
こっちが呼んでいいと言ってもそういう風に思う人がいるのだろうか。そう思いつ
つ、現に目の前にそういう人がいるわけだ。
「だから佐知絵さんって呼ぶのが私にとって一番自然で、一番親しい呼び方なんだけど
……」
駄目かなぁ、という視線。ええい、そういう目を向けられたら嫌だとは言えないじゃ
ないか。
「分かった。好きにして」
「ありがとう、佐知絵さん」
天然なんだろうけど、これって結構ずるい。
一瞬で笑顔に変わった和音を見ながら、私は内心でため息をついた。
〜 3.依頼 〜
合唱部を見学してから一週間が経ち、新入部員は8人にまで増えた。女5男3という比率
に、三橋先輩は「男がちょっと少ないくらいがちょうど良い」と言って喜んでいる。
新入生同士がぎこちなく会話を交わすようになったその頃、私は一人の男性に声をか
けられた。
それは部活に参加しようと教室を出た時だった。
「山下さん、だよね」
声のした方に目をやると、大きなショルダーバックを提げた線の細い男性がこちらを
向いている。誰だよと思いつつ、佐々原君に体格は似ているけれど、彼は弱そうだから
なぁと観察していると「ちょっと話があるんだけど」ときた。
この人は目に力がある。私はそれに逆らえず、彼の後に続いて非常階段へ出た。
男の人と2人で非常階段。
このシチュエーションに本当は胸躍らせるべきだったのかもしれない。けれど2つの理
由でそんな気分になれなかった。
1つは彼の目。その目は私を見ていない、と私は感じていた。私に対して本当に私個人
の話をするなら、きっともっと違う目をするに違いない。
そして2つ目は、私自身がそんな場面に誘われるような人物ではないことを自覚してい
たから。長いつきあいの人からならともかく、話したこともない人から告白されるほど
私の容姿は麗しくない。
「で、何の用?」
私は単刀直入に口を開いた。私個人の問題でないなら、挨拶に時間をかける意味はほ
とんどない。
「桐島和音って知ってるだろ」
「知ってるけど?」
質問と言うよりは確認に応じながら、私は和音のことを思った。あの初めて一緒に帰
った日から、彼女は何かと私の後をついて来た。昼休みの合唱部の練習前にはいつも遺
書にお弁当を食べていたし、放課後の練習からの帰りもいつも一緒だった。
それどころか授業中に何かおもしろいことがあったら、たった10分の休み時間にも報
告しに来るくらいだ。いつもなら鬱陶しいと思う私なのだが、和音のことはあまり気に
ならなかった。それは彼女に見返りを求める姿勢が見えないからだと思う。
「やめて欲しいんだよね」
そう言われて、私は思わず持ち前の短気を遺憾なく発揮しそうになった。
はぁ? 何言ってるの? 何でそんなことをあなたに言われないといけないわけ?
だいたいあなた何様なのよ。そんなことを言う権利があるわけ?
あわてて手綱を引く。
「先に聞くべきだったんだろうけど、あなた誰?」
口調と目つきが鋭くなるのは抑えられない。まあ相手にとっては怒鳴られるよりはま
しだろう。
彼はそれを気にする様子もなく「ああ言ってなかったっけ。1-Fの杉原響一」と答えて
からさらに続けた。
「和音の幼なじみ」
幼なじみ! 私は大げさではなくのけぞりそうになった。転勤族の父の元で何度も天
候を経験した私には全く縁のない言葉。小さい頃から隣近所で、親同士も知り合いで、
兄妹のように育ったという奴か。
「で、その幼なじみからすると、私という悪友と付き合うのは良くないというわけ?」
勢い、口調の鋭さが増す。
「誰もそんなことは言ってないだろ」
「やめて欲しいって言ったじゃない」
「違う。いや、確かにそう言ったけど、友達付き合いをやめて欲しいとは言ってない」
さすがに私の剣幕にたじろいだのか、彼は軽く両手を開いて見せた。
「和音に安易に答えを教えるのをやめて欲しいんだ」
「答え? 私が和音に?」
思わず眉間にしわを寄せて聞き返す私。
「私、先輩にポニーテールも似合いそうって言われたんだけど、ポニーテールにした方
が良いかな」
ゆっくりと、少し舌足らずに話す和音の口調で彼が言う。
「聞かれただろ?」
先週確かに和音にそう聞かれた。私は黙って頷く。
あのときは「たまには良いんじゃない」と答えたら、次の日彼女はポニーテールにし
て来たのだった。そして「それはそれでいいけど、たまにがいいかもね」と言ったら、
次の日には元の髪型に戻っていたのだ。
「工芸選択の時間、籐かごを作ることになってデザインを考えている時に、『どんなデ
ザインがいいかな』って聞かれただろ」
「あのさ、それくらい友達なら普通の会話なんだけど」
私は耐えきれなくて言い返した。聞かれて答えなかったら、それは単なる意地悪だ。
「そりゃそうかもしれないけどさ」
彼はじれったそうに頭をかく。
「あいつの場合はちょっと違うんだよ」
どう違うのかを気候として、私はふと肝心なことに気が付いた。
「あなた、何の権利があってそんなこと言ってるのよ。」
まるで保護者のような口ぶりに、私はむっとしていた。何様のつもり?と言いたいの
をぐっとこらえて穏便な表現に抑えたのは我ながら見事。ところが鼻白むかと思った彼
は、こともなくこう答えた。
「幼なじみなんだ、生まれてこの方」
「へえ、幼なじみって交友関係にまで干渉するんだ」
「だから違うって」
彼は心底困ったような顔をする。
「分かったよ。詳しく説明するから」
最初からしろよ、と思いつつ、私は目で続きを促した。それでも思わず口から出る言
葉は抑えられない。
「手短にね」
杉原君の説明によると、彼と和音は隣ではないけれどごく近所に住んでいる幼なじみ
なのだそうだ。生まれた時からではなく、幼稚園の時に和音が引っ越してきて、転校生
のご多分に漏れずからかいの対象になっていたのをかばってあげてから、和音は彼の後
ろをくっついて歩いているらしい。
ところが一緒にいることが多くなるにつれて、和音の問題点が見えてくる。それは彼
女が何でも相談してくることだった。最初は気軽に相談に乗っていた杉原君は、少しず
つ違和感を覚えるようになる。そしてその正体が分からずに何年間かが過ぎ、ある時彼
はようやくそれを説明する言葉に出会う。
「他人への過剰な依存」
選択肢が複数ある場合、和音はどれにするべきかを尋ねる。そして答えたとおりに選
ぶ。
選択肢がない場合、つまり選択回答式ではなく記述式の問題の場合、和音はどうする
べきかを尋ねる。そして答えたとおりに選ぶ。
もし答えなかったら、和音は他人のまねをする。その対象は杉原君であったり同性の
誰かであったりするのだけれど、必ず誰かの行動を見てから行動する。
「だから、僕はなるべく聞き返すようにしているんだ。和音はどう思うのか、って」
それはまた涙ぐましい努力だ。彼一人が頑張ったところで、他の人が答えを与えてし
まっては意味がない。
そこまで思って私はようやく気が付いた。彼は私にも同じ事をやらせようというの
だ。とっくに自分の力の限界には気づいているに違いない。
「ここ一週間、僕は毎日和音から君の話を聞いた。もちろんこれから交友範囲は広がっ
ていくと思う。だけど、今のところ和音は友人の中では僕の次に君に依存しているみた
いだから、君にあんまり安易に答えを与えられてしまうと、僕の努力が無駄になる。僕
の努力が無駄になるだけなら別に良いけど、和音のためにならない」
そう言う彼の目は、最初に見た時のまま、私を通り越して和音を見ていた。
「あなた、和音が好きなんだ」
内容はともかく、そこまで相手に何かをしてあげたいと思えることに私は感嘆しなが
ら尋ねる。その和音への気持ちに、私は「協力してもいいかな」という気分になりつつ
あった。
「正直、分からない。近くにいるのが当たり前だから、もしいなくなったりしたら寂し
いし、これからもこの関係が続くといいとは思うけど、それが『好き』という感情なの
かどうかは自分でも良く分からない」
「巷ではそれを『好き』って言うみたいだけど」
もっとも、それは本筋とは関係のないことだ。
「そろそろ部活に行かせてもらってもいいかしら。あまり遅いと、それこそ和音に怪し
まれるわ」
「話はまだ終わってないだろ」
あわてて引き留めようとする杉原君に向かってひらひらと手を振りながら、私は了承
の意を伝えた。もしかしたら少し笑っていたかもしれない。彼のまっすぐな気持ちがち
ょっとまぶしくて。
「前に向かって歩こうとする人は嫌いじゃないわ。もっとも『将を射るためにはまず馬
を狙え』っていうからめ手は、本当は好みじゃないんだけどね」
それだけ言うと、私は彼の横をすり抜けた。そろそろ部活に行かないといけないのは
本当のことなので、少し早足で。おかげで彼の表情はよく見えなかったけれど、一瞬笑
って見えたのは気のせいだろうか。
10分ほど遅刻した私は、和音に大いに文句を言われたのだった。
#236/598 ●長編 *** コメント #235 ***
★タイトル (BWM ) 04/08/11 23:50 (249)
水と和音(わおん) 中 (とりあえず版) 泰彦
★内容 04/08/11 23:52 修正 第2版
〜 4.拒絶 〜
音楽室にはいると、はっとしたようにこちらを向いた和音と目があった。
どうやら他にはまだ誰も来ていないようだ。
しまった、と思う間もなく、和音が顔を背ける。どうやらピアノを使って音取りをし
ていたようだけれど、ピアノと向き合ってはいるもののその手は膝の上に置かれたまま
だ。軽く握った拳は、遠目に見ても少し震えている。
何か声をかけようと思って言葉を探すけれど、和音の背中は話しかけられることをか
たくなに拒んでいた。いや、正確には私を完全に拒んでいた。
私は肩をすくめると、壁際にある電子ピアノの脇に鞄を置いて楽譜を取り出す。今日
はサウンド・オブ・ミュージックの曲を練習する予定だ。電子ピアノに向き合うと、和
音とはお互いに背中を向け合うことになる。背後ではきっとさっきと同じ姿勢でじっと
固まっていることだろう。ピアノと向き合っているはずなのに、その音は聞こえてこな
い。
嘆息。
聞こえるようにしてしまう辺り、私は嫌味な女だ。
こんな状態が、もう一週間も続いていた。
事の発端は、杉原君に呼び止められたあの日。
練習で新入生が思いのほか期待できるのが分かったということで、三橋先輩も福岡先
輩も大喜びだった。私たち新入生はまだ合唱のことも良く分かっていないのにほめられ
てしまい、喜びというよりはとまどいの中にいた。
そして気をよくした三橋先輩が、あの発言をした。
「サウンド・オブ・ミュージックのオブリガートは桐島さんにやってもらおうかな」
いわれた当の本人はおそらくオブリガートの意味も良く分かっていなかったに違いな
い。
オブリガートとは主となる旋律を補助するように流れる旋律のことで、普通は女性の
高音であるソプラノよりさらに高い音を差すことが多い。和音は確かに高い音がきれい
に出ていた。
「よろしくね」
和音は、そう言われてようやく我に返ったらしく、急にあたふたしだした。
「ええと、私ですか?」
「そう、桐島さんって1人しかいないでしょう?」
こともなく言う三橋先輩。
「もしかして双子の姉妹と入れ替わってる?」
そんな訳ないだろう、と私は心の中でつっこみを入れたが、和音はそんな言葉にすら
律儀に対応する。
「ええと、私は姉も妹もいないんですけど」
「いや、本気で答えられても困るんですけど」
案の定、先輩は苦笑していた。
「大丈夫。今のところこの中で一番高音がきれいに出るのは桐島さんだから。できるっ
て」
「は、はあ、でも……」
まだもごもごと言っている和音に「じゃ、そういうことで」と決定を告げて、三橋先
輩は練習を再開する。
そして、和音のオブリガートの出来は最悪だった。
バス停でバスを待つ間、和音は終始無言だった。
あの後オブリガートのある部分を10回は練習した。いや、練習しようとした。けれど
タイミングがつかめなかったのか和音が全く歌わなかったのが半分、歌い始めたのに急
に歌いやめてしまったのが3回。歌い始めたのにまるで音が違ったのが2回。三橋先輩も
さすがにこのまま何度繰り返しても無駄だと思ったのだろう、「急に言われたから緊張
しちゃったかな。また今度やろう」と言って別の曲の練習に切り替えてしまった。
和音からはショックの色がありありとうかがえる。直後に目にためていた涙こそひい
たが、気恥ずかしさからか真っ赤だった顔は、むしろ青ざめていた。私の「大丈夫だっ
て」という励ましにも黙ってうなずくだけだ。
扉が閉まって、バスはやや乱暴に走り出した。一番後ろの座席に並んで腰掛けた私た
ちだったが、話し出すきっかけがつかめない。
和音が口を開いたのは、バスが右折しようとして大きく揺れた後だった。小さな悲鳴
をあげたから、声の出し方を思い出したのかもしれない。
「ええと、私、どうすれば良いんだと思う?」
前の日までの私なら、迷うことなく和音を励まして自信を持たせてあげたに違いな
い。
けれどその時、私は杉原君の言葉を思い出していた。
答えを与えないで。
私の励ましは、オブリガートを降りるという選択肢を奪うことにならないのか?
「和音はどうしたいの?」
思いがけず問い返されて、和音は「え?」と私を見た。
「どうって言われても……」
床へ視線を落とす。しばらく考えて、つぶやくような言葉が返って来た。
「みんなは、どうして欲しいのかな」
「ねえ和音」
私は彼女の顔をのぞき込むようにして言う。
「他の人は関係ないでしょう。あなたはどうなの? やりたいの? やりたくないの?
上手かどうかはその次じゃない?」
少し強い口調になる。和音の顔に浮かんだ驚きともおびえとも取れる表情を、私はあ
えて無視した。今ここで引いたら、和音はこの先も同じようなことを繰り返すことにな
る。そんな気がして。
「私は、みんながやった方が良いと思う、なら、やる」
「それは他人の意見に流されているだけでしょう。あなたの意見じゃない」
和音の声が弱々しくなるのに反比例して、私の声は大きくなる。そしてそのことがま
た、和音の声を小さくさせてしまう。悪循環だと思ってはみても、容易には抜け出せな
い。
「いつもいつも他人の顔色を見てないで、たまには自分で決めなさいよ」
次の瞬間、和音の顔がこわばった。
「いつも?」
聞こえるか聞こえないかのつぶやき。私は、自分のうかつな失言を悔いたがもう遅
い。
「いや、今までが迷惑だったって事じゃないよ。杉原君から話を聞いたから、さ。
「響一が?」
私は二重の過ちを犯したことに気づいた。自分の知らないところで自分の話をされて
気分が良いはずがない。不信感を抱いてくれと言わんばかりの失言だ。
気まずい空気が流れ、私も和音も互いを直視できなかった。バスのエンジン音がやけ
にうるさい。車中に客は少なく、いくつかの停留所を通過する。
先に動いたのは和音だった。すっと立ち上がる。
「和音?」
意図が分からず声をかけた私の方は見ずに、和音は降車ボタンを押した。
「私、もう降りるから」
気づけば次は和音が降りるバス停だった。彼女は私より3つ手前のバス停が最寄りなの
だ。
バスは乱暴に止まった。私は前の座席につかまったが、大きく体が揺さぶられる。け
れど和音は手すりにつかまったままほとんど揺るがなかった。それは硬化した彼女の信
条の表れのよう。
じゃあねもまたねもなく、彼女はタラップを降りた。
ブザーが鳴ってから扉が閉まる。バスは止まった時と同じように乱暴に発車した後ろ
を振り返ったが、暗がりの中で和音の表情はよく見えなかった。
そしてそれから一週間、私は彼女に避けられていた。
部活には出てくるが、先輩には「少し考えさせて欲しい」との申し出があったらし
く、新入生歓迎会の本番直前までオブリガートのある曲の練習は取りやめになった。
休み時間に彼女のクラスへ行ってみたこともある。けれど私の姿を見るなり彼女は目
に見えて緊張し、図書室へ行ったりトイレへ行ったりを理由に会話は拒絶された。
杉原君に事情を説明して取りなしてもらおうかとも思ったけれど、第三者から言い訳
がましいことを聞かされるのは自分なら耐えられないのでやめた。
こうして私は、和音に嫌われたまま打つ手もなく、手をこまねいているのだった。
〜 5.呼び出し −杉原君の場合− 〜
金曜日の休み時間は月曜日のそれと同じくらい騒がしい。
金曜日になると教室中がにわかに週末の話題に包まれる。遊びに行こう、どこへ出か
ける、見たい映画が、買い物をしたい、家族で、彼氏と、部活が、先約が。そして月曜
日にはその成果を報告し合うのだ。まだ入学して間がないから他人が珍しいのかもしれ
ない。出来ればそうであって欲しいと思う。
先週、私はクラスの人にボーリングに誘われた。私はそれを地元の図書館へ行きたい
からという理由で断ったのだが、今週は同じメンバーからカラオケに誘われた。私の感
覚では仲良くなったから遊びに行くのだが、彼女たちの場合はどうもそうではなく、仲
良くなるために遊びに行くらしい。まるで合コンじゃないかと参加したこともないけれ
ど思う。
他に理由も思いつかず、「ごめんね、今週も図書館に行きたいんだ」と断ると、「そ
んなに毎週図書館に行って何してるの?」「さては男か?」「山下さんもスミにおけな
いなぁ」という黄色い声に包まれてしまった。
「そんなんじゃないから」という抗議もむなしく、彼女たちは「まあまあ、隠さなく
てもいいって」「頑張ってね」と言いながら離れていった。しばらくの間、この誤解は
解けないだろうな。
そう思った私の目に、教室の入り口からこちらを覗く杉原君の姿が映った。目が合う
と、彼はあごをしゃくって例の非常口の方を示す。その顔は心なしかこわばっているよ
うに見えた。
「和音のことなんだけどさ」
非常口に出るなり、彼は口を開いた。
「最近様子が変なんだ」
私が「何?」と聞く暇を与えず、彼は私に問いかける。
「何か心当たりはないか?」
「ない訳じゃないけど」
私は一週間前のことを思い出しながら言葉を探した。
「教えて欲しいんだ」
「教えない」
一蹴。我ながら、探したにしては単刀直入だ。ここで話したら、この一週間が無駄に
なってしまう。
「私と彼女の間にあったことに、あなたは関係ないわ。いえ、厳密に言えばあるけれ
ど、それはもうどうでも良くなったの」
「何だよそれ」
さっぱり分からないという様子で口をとがらせる杉原君。私は構わずに続ける。
「これは私と彼女の問題なの。見ているだけなのは歯がゆいかもしれないけど、今は何
もして欲しくない。きっと私が何とかするから、しばらく待って」
誤解さえ解ければきっとまた上手くやっていけるはず。同じ部活でこれから一緒にや
っていく仲間なんだし。
杉原君は黙っていた。きっと彼は幼なじみとして言いたいことがたくさんあるに違い
ない。それでも、私の方を見たまま、彼は口を開かない。
じっと向き合う2人の間を、風が吹き抜けていく。入学式であれだけ咲き誇っていた桜
はすでに散り、もうすぐ新緑の季節だ。
「分かった」
意外にすっきりとした顔。その表情からは和音のことを信じようという気持ちがうか
がえた。
「そうだよな。高校に入ったんだから今までと違うことがあって当然だよな。成長でき
てなかったのは僕の方だったか」
苦笑しながら頭をかく姿を見ていると、つい一言言いたくなった。
「そうそう、ここは大人の私に任せておきなさいって」
「よろしくお願いしますよ、お姉様」
案外いい友人になれるかもしれない。あのクラスの人たちよりも。
突然吹いた風に髪を押さえながら、私はそんなことを思った。
〜 6.呼び出し −三橋先輩の場合− 〜
金曜日、放課後の教室は喧噪に包まれていた。クラスメートが名残を惜しむかのよう
におしゃべりをしているが、私はそれを避けるように廊下へ出る。けれどそこはそこで
別な喧噪に包まれていた。全ての教室から流れ出た喧噪が、廊下を通って昇降口から外
へと消えていく。その流れに乗って下駄箱へ向かうと、そこには見覚えのある人が立っ
ていた。
「三橋先輩」
「やあ、こんにちは」
今日は部活はないはずだ。それに2年生の教室から下駄箱、そして校門までの道のりと
この場所は大きく離れている。
「急いでる?」
「いえ、別に」
「良かった。思っていたより早く出てきたから、用事があるのかと思った」
大げさに胸をなで下ろしてみせる先輩。
「行き先に魅力があるというより、現在地に魅力がなくて」
そんな憎まれ口に困ったような顔を見せながら、三橋先輩は「あまり魅力的でなくて
申し訳ないんだけど」と言って続ける。
「ちょっと話があるんだけど、いいかな」
私を見る先輩の目は、いつかの杉原君に似ている。つまり私はここでもどきどきする
タイミングを逃してしまったのだった。
「桐島さんのことなんだけどさ」
どこかで聞いたことのあるような切り出し方に、私は思わず笑いそうになった。
「最近何かあったの? 一番仲が良いのは山下さんだと思うんだけど、ここのところ話
をしてないみたいだし」
「ええ、まあ」
どこからどこまで話したものか。その迷いが顔に出たのだろう。三橋先輩は私を押し
とどめるようにして言った。
「ごめん、聞き方が悪かったね。彼女へのプライベートに口を挟むつもりはないんだ」
軽く唇をかんで、先輩は続ける。指揮をしている時の真剣な表情で。
「彼女はオブリガートをやってくれるのかな」
つまるところ、先輩は指揮者として曲を心配しているのだ。和音がオブリガートを歌
えないのなら、早めに代役を立てなければならない。
「分かりません」
私は正直に答える。
「ただ、やりたいかやりたくないかは別にして、彼女は自分では力不足だと思っている
と思います」
一週間前の練習。10回のやり直し。それが「どうして欲しいのかな」という質問にな
って現れたんだろう。
「力不足か……」
三橋先輩は少しの間天井を見上げ、今度は足下に視線を落とした。
「山下さんはどう思う?」
「え、私ですか?」
意見を求められるとは思っていなかったので、私はとっさに答えられなかった。咳払
いをして時間を稼ぎながら考えをまとめる。
「要は本人のやる気次第だと思いますけど」
私が彼女に聞きたかったことだ。やりたいのか、やりたくないのか。
「桐島さんはね」
かたわらををにぎやかな集団が通り過ぎていく。それが5mは離れてから、先輩は続け
る。
「声だけで言えばダントツきれい。自信がなくて全然大きな声を出してくれないんだけ
ど、声の質は良いよ。本当にきれい。3年生にも負けない」
そう言う先輩は心なしかうれしそうだ。
「でも、そう、君が言うとおり、本人のやる気次第なんだよね」
目が合う。
「お願いがあるんだ」
その真摯さに、私は吸い込まるような錯覚に襲われた。けれどその目は、さっきまで
の指揮者三橋先輩のそれとは少し違うような気がする。
「桐島さんにに答えを出させてあげて欲しい。もちろん桐島さん自身の意志で」
「私が、ですか?」
「僕が言ったら押しつけになっちゃうから」
確かに和音なら先輩に聞かれて「やらない」とは言えないだろう。
「ごめんね、急にこんな事を頼んじゃって」
先輩は私に向かって顔の前で手を合わせる。どこかコミカルなその動きに、私は「無
理です」という言葉を飲み込んだ。
「水曜日の練習までに結論が出れば、もしやらないことになっても何とかするから」
「あまり期待しないでくださいね。どうも嫌われちゃったみたいですから」
予防線を張る私に、先輩は笑って言った。
「大丈夫、それはないと思うよ」
その意味を聞き返そうとする私に「じゃ、頼んだから」と言い残して、先輩は背中を
向けて立ち去ってしまった。呼び止めたり追いかけることも出来たけれど、私はなぜか
その場に立ちつくす。
あの目は、指揮者としての殻をかぶってはいたけれど、本当は先輩個人としてのお願
いだったんじゃないかと思いながら。
#237/598 ●長編 *** コメント #236 ***
★タイトル (BWM ) 04/08/11 23:51 (214)
水と和音(わおん) 下 (とりあえず版) 泰彦
★内容 04/08/11 23:53 修正 第2版
〜 7.居場所 〜
土曜日、私は迷っていた。
元々図書館へ行く予定だったから、時間はたっぷりある。けれど予定通り図書館へ行
く気分ではない。私に重くのしかかっているのは、昨日の先輩の言葉だった。
「僕が言ったら押しつけになっちゃうから」
反則だよな、と思う。人に都合良く押しつけておいて「押しつけになっちゃうから」
はないだろう。
それでもこれは良い機会のような気もする。
和音に避けられている私。そして二人の関係が本当に壊れてしまいそうで強く踏み込
めないでいる私。
先輩は分かった上で、踏み込むきっかけをくれたのだろうか。もちろん先輩は私たち
の間にあったことは知らないだろう。それでも、上級生として後輩を見て、思うところ
があったのかもしれない。
私はさんざん迷った末に、電話へと手を伸ばした。
和音の携帯電話の番号は知らないので、配られたクラス名簿に書いてある自宅の番号
をダイヤルする。呼び出し音5回でお母様らしき人が出た。
「はい、桐島でございます」
「あ、私は和音さんの高校の同級生で、合唱でご一緒しております山下と申しますが」
「いつも和音がお世話になっております」
上品そうなおっとりとした声に、私は思わず聞き惚れそうになってしまった。和音も
そのうちこんな声になるのだろうか。おっとりとした調子は確かに似ていなくもない。
私がそんなことを思ってぼんやりしていると、お母様は「ごめんなさいね。和音は今
出かけておりますの」と言った。
それを聞いて、私は少しほっとした。問題を先送りしただけなのは分かっているけれ
ど、それでも出来れば直面したくない。そんな私を知ってか知らずか、お母様は「和音
は海に行っているのよ」と続けた。
「海、ですか?」
「そうなの。歩いても15分くらいでしょう。あの子は昔から週末には一人で出かけてぼ
んやりと海を眺めていることを多いのよ。もっとお友達と遊べばいいのにねぇ」
そして親切にも和音が良そうな場所を教えてくれる。それどころか電話を切る時には
「これからも和音のことをよろしくお願いしますね」と言われてしまった。
これは行かないといけないかな、と私は通話終了ボタンを押しながら思う。短気なく
せに、頼られるとつい引き受けてしまうのが私の常だ。苦労の割に見返りはほとんどな
いのだけれど、そんな私が、私は少し好きだった。
「よーし、待ってなよ、和音」
そんなことを言いながら、私は出かける用意を始めた。
和音がいるというのはうちから自転車で10分ほどの場所で、ちょうど学校へのバスの
ルートの途中だった。バスはうちの近くから海沿いの道を通って和音の家の近くまで行
き、そこからは海から遠ざかって町へと向かう。町の少し手前に私たちの通う高校があ
った。
私は「大漢和」と名付けた愛用の自転車にまたがって、いつもはバスで通るその道を
進んだ。「大漢和」とは、私がいつも図書館でほれぼれと眺めている漢和辞典の事だ。
諸橋徹次先生の編纂した「大漢和辞典」は、大修館書店から出版されている全13巻プラ
ス補巻2冊という重厚長大な書物で、古書店ですら10万円近くする。
4月にしてはまぶしい日差しが、早くも初夏の訪れを告げていた。海は光を受けてまぶ
しく輝いている。
程なくして、堤防がきれて砂浜へ降りられるようになっている場所を見つけた。私は
その脇に大漢和を止める。
砂浜に足を踏み入れると、思いのほか足が埋まった。こんな事もあろうかとサンダル
で来たのは大正解だ。私はサンダルと足の間に砂が入ってくるのに閉口しながら、波打
ち際まで歩く。さすがに水は少し冷たかったけれど、それでも日差しが強いから心地よ
い。
海にはほとんど波がなく、光を反射して鏡のように光っていた。もっともこれは珍し
いことではない。
言い伝えによれば、この海には神様がいないらしい。だからなのか、荒れたりするこ
とは少なく、1年の多くは穏やかだ。ところが荒れない割には海難事故が多い。これは神
様がいないから悪霊や何かが悪さをし放題だからだ、ということになっている。
もっともそれを本気で口にするのはお年寄りばかりだし、どうして神様がいないのか
という理由が分からないからあまり説得力はないのだけれど。
「悪霊ねえ」
私はサンダルを履いた足で水を蹴り上げながらつぶやいた。水は空中で光を受けて輝
き、水面に複雑な模様を描く。どう見てもごく普通の海水だ。
「さて、と」
私は本題に戻ることにした。左右を見回して和音の姿を探す。この辺りの海岸線は単
純だから、この辺というお母様の言葉が正しければ目の届く範囲にいるはずだ。
「いた」
程なく私の目は、和音の姿を発見した。赤いワンピースに身を包んで、私と同じよう
に水に足を浸している。
「和音」
そう叫ぼうして、私は突然根拠のない不安に襲われた。この快晴の中、和音が水の中
に消えてしまうのではないかという恐怖。
「和音」
体中の力を動員して私は叫んだ。普通なら聞こえるはずの距離。けれど和音は海の方
をじっと見つめたままだ。
「和音」
私は叫びながら、服に水がはねるのも気にせずに走った。入水自殺という言葉が脳裏
をよぎる。
和音への距離が遠く感じる。水が足にまとわりついて走りづらい。
おそらく数十秒だったのだろう。永遠とも思える時が過ぎ、私の手が和音に触れる。
「あれ、佐知絵さん」
ぼんやりと、和音がこちらを向いた。
「和音、こっちおいで」
強引に和音を砂浜へ引き戻す。彼女は抵抗する様子もなく、手を引かれるままついて
来た。
「あんたねえ」
一息ついて私が口を開くと、和音ははっとしたような顔をした。気まずそうに視線を
そらし、おずおずと2、3歩後ずさる。
「和音」
私が呼びかけると、びくっと体が震えた。みるみる涙があふれてくる。私が何か言う
前に、和音は身をひるがえそうとした。
「ちょっと」
私がつかんだ手に力を入れるのと、和音が叫んだのは同時。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
思いがけず強い力で身を引かれ、私はたたらを踏んだ。もちろんそれでも手は離さな
い。その間も和音のごめんなさいは続いていた。けれどそれも次第にか細くなり、それ
につれて体の力も抜けていく。
涙を流しながら、和音は黙ってうつむいていた。
私も、かける言葉を探して、同じく黙ってうつむいていた。
つかんだ時には気づかなかったけれど、和音の手首は驚くほど細い。折れなくて良か
ったと、場違いなことを思う。
「あのさ」
沈黙に耐えられず、私は口を開いた。
「みんな待ってるよ」
話す内容を決めていたわけではないけれど、言葉が自然に口をついて出る。
「三橋先輩も、杉原君も、もちろん私だって」
「そんなこと、ない」
うつむいたまま和音がつぶやく。
「私はさ、和音じゃない。もちろん三橋先輩だって杉原君だって、和音じゃない。だか
ら私たちが和音のことを考えてしたことが、本当は和音にとっては迷惑なこともあると
思う」
三橋先輩が和音にオブリガートを任せようとしたのも、杉原君が和音に安易に答えを
与えないようにしたのも、私が答えることを強要したのも、きっとみんなそうなのだろ
う。
「それでね、誰だって自分にとって居心地の良い場所が欲しいと思う。でも、それって
黙っていて与えられるものじゃないんじゃない? 人が良かれと思ったことだって、本
人にとっては辛いことだったりするんだから」
こんな偉そうなことを言う権利は私にはない。そう思いながらも、言葉は止まらな
い。
「和音、居心地の良い場所は、黙っていたって、逃げていたって、手に入らないよ」
和音はうつむいたまま、そっと拳を握った。
「三橋先輩は和音がやるのが良いと思ってオブリガートをお願いしたんだよ。和音が断
れば先輩は別な人を選べば良いけれど、黙っていたら先輩は身動きが出来ないでしょ
う。もしかしたら違う人にお願いした方が良かったのかも、って悩むかもしれない」
私は和音の方にそっと手をかける。一瞬和音の体がこわばったけれど、それはすぐに
収まった。細く小さい体は、それでも小さく震えている。
「和音、あなたの気持ちも少しは分かるつもり。でもね、逃げるのは自分のためにも他
人のためにも良くないよ。慣れないうちは少し辛いかもしれない。でも、前に向かう行
き方も結構良いと思うけどな」
私は後ろに倒れそうになるのをかろうじてこらえた。それが和音に抱きつかれたから
だということに遅れて気が付く。
和音は私に抱きついて泣いていた。私はそっと髪をなでてあげる。こうしていると和
音はまだ中学生か小学生のようだ。小さくて可愛い妹のような女の子。
きっと今までいろいろな人が世話を焼きたがったことだろう。そして誰もが彼女のた
めと思って様々な助言をし、和音もそれを素直に受け入れてきたに違いない。
「和音」
私は髪をなでる手を休めて少し考え、そしてそれを実行した。
「あいたっ」
和音が頭を押さえて私から離れる。
「ほらほら。高校生にもなってそんなに泣いていたらみっともないぞ。みんみんなくの
は夏のセミに任せておけばいいんだから。もうすぐ夏だし」
「だからって、髪の毛を引っ張るなんてひどい」
「でもほら、泣きやんだでしょう」
得意になる私をじと目でにらむと、和音は私の手の甲を素早くつまんでひねった。
痛い。けれど少し心地よい。
「お返しだもんね」
それからしばらく、私たちはたわむれあった。砂を蹴り、水をすくい、走り回った。
「私ね、嫌われちゃったと思ったの」
堤防に腰掛けて自動販売機で買ったジュースを飲みながら、和音がぽつりとつぶや
く。
「だからそれ以上嫌われたくなくて、会わなければ嫌われることもない、って」
「会わない間に憎さがつのるってこともあるんだよ」
不信感がつのることもあるだろう。本当に怖いのは、目に見えず、声の聞こえない相
手だと思う。
「うん、ええと、ごめんなさい」
「いいよ、気にしてない。ううん、気にしてなかった訳じゃないけど、今忘れた」
しおらしく謝る和音に笑って答え、私はふと気になったことを思い出した。
「私さ、和音が入水自殺するんじゃないかって思ったの」
一瞬何のこと?というように首をかしげた和音だったが、すぐにああ、という顔にな
る。
「私ね、海が好き」
そのときの表情は、まるで恋人のことを話しているかのようだった。はにかんだよう
な、ちょっと切ない瞳。私の目に映る和音は、さっきまでとはうって変わって大人びて
見える。
「うれしい時は一緒に喜んでくれる気がするし、悲しい時は慰めてくれる気がする」
そんなことを素直に口に出来る彼女が、私には少しまぶしい。
「だから苦しい時、海と一緒になれば気持ちいいかな、何も考えずにぼんやり漂ってい
るのもすてきかな、って思うの。そういう時、いつも来てくれるのが響一、杉原君なん
だ。でも」
私と視線が交わる。
「今日は佐知絵さんだった」
「お節介だったかな」
照れくさくてそんなことを言う私に、和音は真っ正面からこう言った。
「ううん、うれしかった。ありがとう」
その時、私は視界の端に見たことがあるような後ろ姿が見えたような気がした。細い
その姿を、けれど私は気にしないことにした。それがきっとお互いのためだろう。
それに。
今は目の前にある和音の笑顔を眺めていたかった。
〜 8.新しい季節へ 〜
新入生歓迎会の演奏は大成功だった。
和音のオブリガートはあまり音響の良くない体育館ですらコンサートホールを思わせ
るほど見事に響き、三橋先輩をはじめとする先輩方を驚嘆させた。
私はあらためて和音からお礼を言われた。三橋先輩や杉原君からもお礼を言われ、一
瞬自分がとても偉い人なのではないかと錯覚しそうなほどだった。
和音は前より少し明るくなった気がする。「ええと」と前置きして控えめにではある
けれど、意見を言うことが増えた。同学年の間ならちょっとした冗談も言うようになっ
たけれど、和音の感性はどこか人とずれていて、笑うポイントが分からずに顔を見合わ
せてしまうことが多い。それでも和音は私たちの仲間だった。
そして。
今回の出来事で一番変わったのは和音ではなくて私自身だ。私は密かにそう思ってい
た。
入学前のわずかな期間で人との付き合いを面倒に感じていた私。けれどそれは新しい
環境に踏み込んでいく勇気がなかった私が、逃げていただけだったように思う。和音に
は偉そうなことを言っていた私だけれど、あの言葉は自分自身に向けていたのかもしれ
ない。
私の中の私が無意識のうちに口にした言葉。それが私を変えた。今ではそう思う。
それから私の週末の予定には、図書館に加えて海が仲間入りした。あの日「海と一緒
になれば気持ちいいかな」と言った和音の境地にはまだまだ遠いけれど、寄せては返す
波の音に身を浸していると、ありのままの自分も悪くないような気がする。今度クラス
メートに誘われたら、遊びに出かけるのも良いかもしれない。
この海だって、神様はいないかもしれないけれど、これはこれでいいんじゃない。
だって私はそんなことに関係なく、この海が好きだから。
そして季節は夏を迎える。
〜 Fin 〜