AWC アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(1) 佐藤水美


        
#124/598 ●長編
★タイトル (pot     )  02/12/14  22:41  (499)
アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(1) 佐藤水美
★内容
       序章 緋色の王子

 朝日が連なる山々の稜線を次第に染めていく。
 アストール王国の若き王子ステファンは、ガレー城にしつらえた寝室の窓から、
山の頂に残った雪が白銀に輝きはじめるのを眺めていた。
 天気は上々、この様子ならギルト公国への旅の最後の一日は、快適なものになる
だろう。
 そう思ったとたん、急に肌寒さを覚えて、ステファンは肩をすくませた。窓から
離れて暖炉を見る。炎はとうに落ちていて、彼は自分が寝間着のままでガウンさえ
もはおっていなかったことに気づいた。
 春とはいえ、大陸の北方に位置するアストールでは、朝晩はまだ冷える。夏が近
づくまで暖炉を使うことも稀ではない。
 ステファンは椅子の背にかけてあったガウンを取り、袖を通した。肩まである豊
かな緋色の巻き毛を両手で掻きあげる。本当はもっと横になっていたいのだが、そ
れは無理な願いだった。端整な顔をしかめ、物憂げに赤褐色の目を擦る。思い切り
背伸びでもすれば、少しはましな気分になるのかもしれない。だが、その程度のこ
とすら、ここではできなかった。すらりと背の高い身体つきの彼にとって、部屋の
天井が低すぎるのだ。
 木製の扉を叩く音がした。ステファンは両手を腰に当てて息を深く吐いた。もう
時間が来たらしい。
「入れ」
待ちかねたように扉が開き、旅装を整えた長身痩躯の青年騎士が入ってきた。長
く伸びた艶やかな金髪が、女性と見紛うような美貌を縁取っている。
 騎士はステファンの前に進み出ると、片膝を床について屈み、右手を胸にあて一
礼して言った。
「おはようございます。もうお目覚めでしたか」
「おはよう、アラン。天気は良さそうだな」
「はい。カラバス峠を越えたときのようなことは、もはやないと思われます」
アランと呼ばれた騎士は立ち上がり、きっぱりとした口調で告げた。夏空を思わ
せる青い目がステファンを見つめる。
「あれは確かにひどかった」
ステファンは嘆息とともに、そう呟いた。旅程を短縮するために峠越えを決行し
たものの、山特有の天候の急変でかなりの困難を強いられた。一行全員が誰ひとり
欠けることなくガレー城に到着できたのは、奇跡にも等しい。
 ギルト公国のフィリス大公と、ステファンの妹であるマリオン王女との婚礼は明
後日に迫っていた。ステファンは足を痛めた父王セバスチャンの名代として、婚礼
に出席しなければならない。
「天気が変わらないうちに出立したほうがいいだろう。ギルトまであとわずかだ。
疲れているだろうがもう少しの辛抱だと、皆に伝えておいてくれ」
「かしこまりました。では……」
と、アランは言いかけて暖炉のほうを見た。
「暖炉に火を入れさせましょうか。今朝は冷えますから」
「いや、必要ない。どうせ長くはいないのだ、薪が無駄になる」
吝嗇で言っているのではなかった。ここガレー城はギルトとの国境に最も近く、
出城の役目も担っている。戦のときに最大の能力を発揮できるように造られている
場所で、少しの暖を取るために、城内の物資を必要以上に使う気にはなれなかった。
「そういえば、ジュダはどうした?」
アランの目に困惑の色が浮かぶ。
「実はまだ……」
「寝ているのか?」
「ベッドから引きずり出してやります」
アランが真面目な顔をして言うのを見て、ステファンは思わず微笑んだ。
「もう少し寝かせてやれ。昨日の峠越えではあの男が一番苦労していたからな」
「お言葉ではございますが……」
「言いたいことはわかるが、ジュダとうまくやってくれないか。出発してからふた
りとも喧嘩ばかりだ。皆に示しがつかないし、私も仲裁役はごめんだ」
「申しわけございません。私がいたらぬばかりに……」
アランが悲しそうな顔をしてうつむく。ステファンはアランの肩に手を置き、気
持ちをこめて言った。
「お前を責めてるんじゃない。マリオンの結婚式が終わるまで、揉め事を起こして
欲しくないだけだ。わかるな?」
「はい、仰せのとおりにいたします。ではすぐに、お召しかえなどお持ちいたしま
すので」
アランの表情には平静さが戻っていた。一礼して部屋を出て行く。
 ひとりになったステファンは再び窓に近寄った。日の光は早くも山全体を照らし
出そうとしている。慌しい一日の始まりだった。
 それから二時間と経たないうちに、ステファンら一行は城門の前に集合していた。
花嫁となるマリオンは慣例に従って、先にギルトに入国している。彼女には公国
内の教会で、大公妃となるための教育を婚礼前に受ける義務があるからだ。
「今日の夕刻までにはカスケイド城に入る」
ステファンは居並ぶ騎士たちを前に声を張り上げた。
「これ以上の遅れは許されない。皆、しっかりとついてくるように。特にジュダ、
離されるなよ」
「心配ご無用でさぁ、馬のほうが先にバテなきゃ大丈夫。峠越えで乗馬の腕も上が
ったし」
ジュダと呼ばれた騎士は、不敵な笑みを浮かべて言った。黒く縮れた髪に、褐色
の肌と黒い目を持つこの大男は、腰にいつも大振りの円月刀をぶら下げている。
「いいぞ、その調子だ」
ステファンは励ますように言うと、ジュダの後ろにいる少年に目を向けた。
「顔色が悪いな、エーギル。大丈夫か?」
昨日は相当無理をしたのだろう。青い目は灰色に変わり、幼さの残る顔には疲労
の色が濃く浮かんでいた。エーギルは一行の中では最年少の十四才、身分も見習い
騎士に過ぎない。絶対に連れて行かねばならない理由はなかった。
「私は平気です。ジュダ様より早いですし」
ステファンの逡巡を察したように、エーギルは笑って答えた。
「そんなぁ、アタシだって傷つくわよぉ」
ジュダが肩越しに振り向き、しなを作って太い裏声で言う。他の騎士たちの間に
笑いが広がり、ステファンも思わず吹き出してしまった。
「無理するなよ、エーギル。よし、出発だ」
 城門が開くと同時に、跳ね橋が大きく軋みながら下りた。ステファンを先頭に、
馬にまたがった騎士たちが次々と橋板を駆け渡る。春の柔らかな日差しが、彼らを
見送るように降り注いでいた。


       第一章 伝説

 国境を越えカスケイド城に到着したのは、日が西に傾いた頃だった。城下にある
町ティファは、明日の婚礼を控えて早くも祝賀に沸き返り、かつてない賑わいを見
せている。
 城内に入った一行を出迎えたのは、ローブを着た五十がらみの小男だった。ステ
ファンの顔を見たとたんに腰を深く屈め、うやうやしくお辞儀をする。
「これはこれは、ステファン様。主ともども、ご到着を心待ちにしておりました」
「ランバートか、出迎えご苦労」
ステファンはそう言って相手の顔を見た。ランバートはにこやかな表情を浮かべ
ていたが、彼の小さな奥目は一国の宰相らしく冷徹な光を放っている。
「マリオンはどうしている?」
「王女様におかれましては、ことのほかお元気にお過ごしでございます」
「それは良かった。ところで、勉学のほうは済んでいるのか?」
「教授たちの報告によりますれば、昨日無事に終了したとのことでございます。本
日は修道院にて、ご心身を清めつつ、お心静かに明日の婚礼をお待ちしておられる
ことでございましょう。どうぞ、ご安心下さいませ」
ランバートはていねいな口調で答えると、手を二回叩いた。数人の侍女が集まっ
てくる。
「さぞ、お疲れでございましょう。広間にて、ごゆるりとおくつろぎ……」
「ランバート、先に供の者たちを休ませたい」
ステファンはランバートの言葉を遮り、肩越しに後ろを一瞥した。青い顔をした
エーギルが視界の片隅に入る。
「かしこまりました」
「ではフィリス、いや大公様にお目通りしたいのだが」
「それがその……」
「書庫に入ったきり出てこない、そうだろう?」
「ご慧眼、恐れ入りました。実は朝からお入りになったままなのでございます」
「ならば、私が直接書庫へ行こう。場所は覚えているから案内はいらない」
 ステファンは他の者たちと別れ、ひとりで書庫へ向かった。城の奥へ続く細い通
路を歩きながら、昨年のことを思い出す。

 書庫の扉の前には、護衛の兵士がひとり立っているだけだった。ステファンが自
ら名乗ると、兵士は困ったような顔をしながらも扉を開けてくれた。
 内部は薄暗く、古書特有の黴臭さが鼻を突く。何列もある本棚には書物が隙間な
く詰め込まれ、それでも入りきれない分は床に積み上げられていた。
 ステファンは本棚の間を通り抜けて奥へと進んだ。ひとつの空間に出た瞬間、深
い森を抜けたときのように光が目に飛び込んできた。入り口付近の暗さとは裏腹に、
昼間さながらに明るい。
鳶色の髪をした青年が、大きな机にかじりついて紙に羽ペンを走らせていた。彼
の周りにはいくつもの燭台が置かれている。
「許しがあるまで、誰もここに入ってはならないと言ったはずだ」
青年が顔も上げずに言い放つ。ステファンは神経質な声に苦笑しつつ青年の前に
進み、片膝を床につき身を屈めて言った。
「お許し下さい、殿下」
青年がはっとしたように顔を上げ、紫色の目をこちらに向ける。
「ステファン!」
「お久しゅうございます。殿下におかれましては……」
「そんな堅苦しい挨拶はやめてくれ、君と私の仲じゃないか」
青年は恥ずかしそうな笑みを浮かべて立ち上がり、ステファンに歩み寄った。丈
が長くて簡素な服を身に着けた姿は、大公というより修道士のように見える。
「それに殿下っていうのもだ。今までのようにフィリスって呼んでくれ。さあ、立
って」
「結婚おめでとう、フィリス」
ステファンは立ち上がり、微笑んで言った。
「ありがとう、よく来てくれた」
「マリオンはふつつかな妹だが、よろしく頼む」
「大切にするよ、安心してくれ」
フィリスはそう答えると、頬を赤く染めて目を伏せた。女性がらみの話になると、
照れてしまうところは少しも変わっていない。
「それにしても来るのが遅かったな。いつになったら着くのかと、気を揉んだよ」
「済まなかった。本城でちょっとした事件があって、出発が延びてしまったから」
「リーデン城で?」フィリスは少年のような面差しを曇らせた。
「ああ、城の厩舎から馬が全部消えたんだ。父上の愛馬もね」
「盗まれたのか?」
「たぶん……」ステファンは歯切れの悪い言い方をした。
「とにかく座れよ」
フィリスは書庫用の椅子を引き寄せてステファンに勧め、自らも己の椅子に腰掛
けた。
「どういうことだ?」
「朝、馬丁たちが餌をやりに厩舎へ行ったときには、すでに一頭残らずいなくなっ
ていた。前の晩も、特に変わったことはなかったという話なんだが」
ステファンは肩をすくめて言うと、椅子に腰を下ろした。
「犯人は捕まえたのか?」
「いや、まだだ。城内の者に気づかれずに、たった一晩で二十頭もの馬をどうやっ
て持ち出したのか……」
ステファンは嘆息して首を横に振った。親友にさえ真実を語れない後ろめたさに、
胸を塞がれる思いがする。
厩舎の梁に刻みつけられた、深くて長い爪痕を見つけたときの衝撃。忘れようと
して忘れられず、意識の下に押し込めた忌まわしい記憶。
馬を盗んだのは人ではない。十年前の夏、リーデン城に現れた……。
「誰も気づかなかったなんて変だよ。疑いたくはないが、城内の誰かが盗賊を手引
きしたのかもしれないぞ。城の人間だけじゃなく、出入りする商人や仕立て屋も調
べたほうがいい。どこかに見落としがあるはず……おい、聞いてるのか?」
「あ……、ああ聞いてるよ。ここは少し暑いな」
ステファンは慌てて答えると、上着の襟元を緩めた。
「しっかりしてくれよ、ステファン。馬は探したのか?」
「リーデン城の周囲だけでなくメンテルまで捜索させたが、駄目だった」
「すぐに売られた可能性があるな」
「馬には紋章の焼印が押してある。競り市に出たら目立つよ」
「競りなんかに出さないさ。焼印だって何かの方法で消したのかもしれない。だが、
どうして城の馬を盗むなんて危険を冒すようなことを?」
フィリスは頬杖をついて怪訝な顔をした。
「こっちが訊きたいね」
また襲ってきたら必ず仕留めてやる。ステファンは知らず知らずのうちに剣の柄
を握りしめていた。
「なんだ、急に怖い顔をして。気に障ることを言ったか?」
「いや、そうじゃなくて……」
ステファンは慌てて柄から手を離した。隠し事の下手な己の性分に苦笑するしか
ない。
「念のためにリーデン城の警備は強化してきた。父上もおられることだし、大丈夫
だと思う」
「うむ、守りは固めておくべきだね。ところで国王様の足の具合はどうなんだ?」
「少しずつだけれど良くなっているよ。乗馬はまだ無理でも、他はいたって元気だ
から」
「国王様は私にとっても父上になるお方だ。大事にしていただかねば」
「心遣い、ありがとう」
フィリスはステファンの言葉に笑顔で答えると、ふいに机の上を指差した。
「君が着いたら見せようと思って」
「何を書いてる? 恋文の代筆はしないからな」
ステファンは笑いながら立ち上がり、フィリスが指したところに視線を落とした。
細かい文字がびっしりと書き込まれた紙が2枚ある。そのうちの一枚は、インクが
乾ききっていない部分が残っていた。
「古代文字じゃないか。考古学の研究でも始めたのか?」
「正確には翻訳だね。このふたつをよく見比べてくれ、面白いぞ」
フィリスに言われ、ステファンは机に屈みこんだ。
「ふたつとも古代文字では……あれ? こっちのほうはどうなってるんだ?」
「古代の鏡文字さ。しかも反転方向が一文字ずつ違う。私が今やっていたのは、こ
れを普通の古代文字に直すことだ」
「気が遠くなりそうな作業だな。で、何が書かれているんだ?」
ステファンは紙面から目をそらせ身体を起こし、再び椅子に腰掛けた。あまりの
細かさに目眩がしてきそうで、眉間を軽く揉んだ。
「読んでみればわかるさ」
フィリスは意味ありげな薄笑いを浮かべ、直した文字が書かれたほうを差し出し
た。ステファンは気乗りがしないまま、それを受け取り紙面に目を落とす。
「古代文字なんてアカデミア以来だよ。ええと、これは……オル・ハウト、その心
臓、か。リリリ・エスト・エスト・エスト・ラニニ・エスト・エスト・エスト・リ
リリ・エスト……何だ、これは?」思わずフィリスの顔を見る。
「そこは適当な訳語がないんだ。言葉の繰り返しだから、呪文みたいなものじゃな
いかと考えている」
「ふうん……」ステファンは再び紙面に視線を向けた。
「ファルテス・ペメル・モース……、運命は死を求める。ガウプ・デ・アテマ……
魂の器? リリリ・エスト・エスト……またか、うっとうしい」
「もっと下の行……、そこから十行あたり下がったところを読んでくれ」
「はいはい、ここでしょうか……、センテ・ソルベル・スェンティア・センテ・ソ
ルベル・テリドー・ガウプ・デ・アテマ……聖戦士は知っている、聖戦士は魂の器
を隠す……、聖戦士だって?!」
「面白くなってきただろう?」
「ノイ・タンデ・ガウプ・デ・アテマ・ノイ・タンデ・ガウプ・デ・アテマ……魂
の器に触れるな、魂の器に触れるな。オルラー・オルラー・オルラー……祈れ祈れ
祈れ。リリリ・エスト・エスト・エスト・ラニニ・エスト・エスト……、ここから
先は……呪文だけか。フィリス、こんなものをどこで手に入れた?」
ステファンは顔を上げてフィリスを見た。
「ハイデルクとの国境近くに、ドールっていう小さな農村があるんだ。半年前、そ
こに住んでいる農夫が、自分の畑の中から奇妙な石を見つけた。それは石板みたい
な形をしていて、表面に文字のようなものが刻みこまれていた」
「その文字がこれなのか?」
ステファンは手にした紙をひらひらさせながら言った。
「全部じゃないけどね。石板の拓本を見てほしい」
フィリスは目を輝かせて答え、机の引き出しを開けた。きれいに巻かれた紙と丸
型のルーペを取り出し、机の上に置く。
「端のほうを押さえてくれないか」
ステファンは立ち上がり、言われたとおりにした。フィリスがていねいに紙を広
げていく。
「小さいな」
ステファンは本音を口にした。石板という言葉から、もっと巨大なものを想像し
ていたからだ。
「ああ、大きさだけなら画集とたいして変わらない」
「それにしても細かい文字だ。見ているだけで苛々してくるよ。これを君ひとりで
翻訳しているのか?」
「まさか。ひとりでやったら何年かかるかわからないよ。シド博士は知っているだ
ろう? 博士と彼の弟子たちに協力してもらっているんだ。私の担当はこのあたり」
フィリスはそう言って拓本の一部を指し示した。
「借りるぞ」
ステファンはフィリスのルーペを拓本の上に乗せ、屈みこんで中を覗いた。拡大
された鏡文字が延々と続いている。
「フィリス、これは何の石板だ?」
「何って訊かれてもなぁ。全部の解読が終わっていないから確かなことは言えない
が、聖戦士にまつわるものには違いないと思う」
 聖戦士。千五百年前に突如として現れ、精霊と共に邪神ネフェルデルに支配され
た大陸を救ったとされる英雄。だが、彼らの名前や人物像の記録は残っておらず、
邪神を打ち倒したあとの行動も一切わかっていない。
「ここに何が書いてあるのか楽しみだよ。歴史を塗り替える発見になるかもしれな
い」フィリスの声は弾んでいる。
「聖戦士か……」ステファンは小さく呟いて身体を起こした。
「でも、こいつと戯れるのも今日限りだ。近々、シド博士に預けようと思っている」
フィリスは突然妙な言い方をして、拓本を指で軽く叩いた。
「えっ?」
「私も即位して一年が過ぎた。明日は妃を迎えるし、いつまでも古文書に埋もれて
はいられない。政務だってランバートにまかせきりにしておくわけにはいかないし、
大公としての役目を果たさなければ。」
友の言葉の中に何か聞き捨てならないものを感じ、ステファンは再び身を屈めて
フィリスの顔を覗きこんだ。
「ランバートに何か不都合でもあったのか?」
ふたりしかいないのに、自然と小声になる。
「いや、そうじゃないよ。私はギルトを治めていく人間なのに、知らないことが多
すぎるからね」
「耳の痛い科白だな」
「去年よりは成長しただろう? あのときは大公になるのが不安でたまらなくて、
君にまで迷惑をかけてしまった」
「戴冠式の日に緊張するのは当然だ、気にする必要はないさ。私だって同じ立場に
なったら……どこに引きこもるかな?」
ステファンはフィリスを見て微笑んだ。
「私は食糧倉庫にするよ。書庫じゃ食えないから」
「いい考えだ」
ふたりがアカデミアにいた頃のように笑ったとき、扉の軋む音が書庫内に響いた。
誰かが入ってくる足音もする。
「殿下、ステファン様」本棚の向こうからアランの声がした。
「どうした?」
ステファンは身体を起こし、声のするほうへ顔を向けた。
「晩餐の用意が整ったとのことです。おふたりとも大広間に……うわっ!」
何かが落ちるような音がした。床にあった書物の山を崩してしまったのだろう。
「本が……、申しわけございません。すぐに直します」
「そのままでいいよ、いずれ処分するつもりだから」と、フィリス。
「本を捨ててしまうのか?」
ステファンは眉をひそめて訊いた。命よりも書物と学問が大事と、常日頃から公
言していた友の言葉とは思えない。
「いや、ティファの学問所に下げ渡すつもりだ」
フィリスは笑いながら答えると、拓本を元のように巻き取り、ルーペと共に机の
引き出しの中に戻した。
「学問所?」
「私が創ったんだ。まず国中から人材を集め、見込みのある者にはイディオンを受
験させる。アカデミアを優秀な成績で卒業すれば、身分を問わず官吏として採用す
るってわけだ」
「壮大な計画だな」
ステファンは何気なく言ったが、フィリスに先を越されたような気がしていた。
身分と環境の差があるとはいえ、同じ年齢なのに……。
「始まったばかりさ。それより食事に行こう、うまい酒があるんだ」
フィリスは椅子から立ち上がり、ステファンを促した。


       第二	 長い夜

 晩餐は申し分のないものだった。リーデン城での事件も謎の石板のことも話題に
はならず、もっぱらアカデミア時代の思い出話が酒の肴になった。
 アカデミアは大陸のほぼ中央に位置し、大教会と大学府からなる独立国家である。
特に大学府は有名で、大陸中の優秀な若者たちが文武両道を極めるために集まって
くる。だが入学を許されるのは、年一回行われるイディオンという最難関の試験に
合格した男子だけなのだ。また運良く試験を突破しても、その後の成績がふるわな
ければ容赦なく放校処分にされてしまう。
 身分や出自がどうであれ、学問や武術に秀でているかどうかが最も重視される場
所であり、非情な実力主義が学内のすみずみまで行き渡っている。学生たちの部屋
も食事も一様に質素で、服装さえも麻布を使った粗末なものしか許されない。
 ステファンとフィリスはそういう厳しさの中で出会い、固い友情を結んだ。卒業
までの四年間、学問に秀でたフィリスはステファンに補習授業をし、武術の得意な
ステファンはフィリスに剣の稽古をつけるというように、お互いの欠点を補い、助
け合って過ごしたのだ。
 
 晩餐を終え、用意された部屋に案内されたときは、夜もかなり更けていた。寝間
着に着替えベッドでくつろぐと、ステファンは酔いが一気に回ってくるのを感じた。
旅の疲れも手伝って、強烈な眠気に襲われる。寝入ってしまう前に明かりを消そう
と、重い身体を起こした瞬間だった。
 部屋の中のどこからか、微かな物音がする。ステファンは身を固くすると同時に
耳をすませた。とろりとした気分は吹き飛んでしまっている。
「……さま」
明らかに人の声だった。素早い動きで剣を取り、柄を握りしめる。
「何者だ」
押し殺した声で訊く。他国の城で騒ぎを起こしたくはなかった。
「……私よ、お兄さま」
「その声は……まさか!」
ステファンは剣を置き、部屋の中を見回した。変わったところはどこにもない。
「マリオン、どこに隠れている?」
「言えないわ。でも、私からはお兄さまの姿が見えるのよ」
「何だって?」
「このお城にも抜け道や隠し部屋があるのよ、知らなかった?」
マリオンの声は笑いを含んでいた。
 リーデン城にも同じような仕掛けがある。だがそれは落城などの非常時に使われ
るものであって、密会をするためにあるのではない。
 ステファンはため息をついて首を横に振った。
「その抜け道を通ってここに来たわけか。いつから隠れていた?」
「……少し前から」
「今すぐ修道院に帰るんだ。抜け出したことが知れたら大変だぞ」
「心配ないわ。お金で目をつぶってくれる人は多いから」
「マリオン!」
「大きな声、出さないでよ」
ステファンは全身の力が抜けていくような気がして、ベッドに座りこんだ。周り
の者を買収してまで忍んで来るとは、いったい何があったのだろうか。
「……来た理由を話せ。私でできることなら何とかしてやるから、話し終わったら
すぐに戻れ。いいな?」
重苦しい沈黙が続く。マリオンからの返答はない。
「怒らないから言ってごらん」
叱りつけてやりたい衝動を堪え、努めて穏やかに話しかけた。
「……お兄さまに……会いたかったの」妹の声は微かに震えている。
ステファンはふいに頭痛を感じてこめかみを押さえた。そんなことのために危険
を冒すとは、妃になる者として自覚がなさすぎるではないか。事が発覚する前に何
とかしてマリオンを帰さなければならない。
「明日会えるじゃないか。早く帰ってお休み」
「……いやよ」
「マリオン、いい加減にしないと怒るぞ。お前は自分が何をしているのか、わかっ
ているのか?」
修道院で婚前の清めを行った女性は、たとえ己の父親であっても男性に会うこと
は禁じられている。
「いけないことだって……、わかってる。でも、私は……」
震える声が途切れたかと思うと、部屋の隅のほうで小さな物音がした。暗い色を
したカーテンが波打つように動く。ステファンは弾かれたように立ち上がった。
「来るな、マリオン!」
止められなかった。カーテンが左右に押し開かれる。
「お兄さま!」
マリオンが叫んだ瞬間、ステファンは目を背けた。妹の姿を見ないことが、せめ
てもの誠意だと思う。
「……私を見て、お願い……」今にも泣き出しそうな声だった。
「駄目だ、絶対に」
ステファンは目を逸らしたまま、首を横に振った。衣擦れの音が近づいてくる。
「……お兄さま」
ささやき声が聞こえ、冷え切った手がステファンの手を握りしめた。
「そんなに私を待ったのか……」
呟くように言う。マリオンに目を向けずに入られなかった。
涙で潤んだ青い目がステファンを見つめていた。ばら色だった頬は少し痩せて青
白く変わり、形のよい唇は小刻みに震えるばかりで言葉を紡ぎだそうとはしない。
思いのほか憔悴した様子に、ステファンの心は痛んだ。
叱ることも追い返すこともできなかった。ぎこちない動作でマリオンを抱き寄せ
る。どうしていつもこうなってしまうのだろう。子供の頃から、妹のわがままには
勝てないのだ。
しかし、マリオンの頭髪を覆う白絹のボンネットを目にしたとき、自分の罪深さ
を見せつけられたような気分になった。薄っぺらな帽子は清めの儀式を終えた証な
だけでなく、夫以外の異性に髪を見せない、つまり貞操を誓う意味がある。フィリ
スの顔が目の前を過ぎり、気持ちがさらに暗くなった。
「ごめんなさい……」
マリオンは涙声を出し、ステファンの胸に顔をうずめた。マントをはおった細い
肩が微かに震えている。
 ステファンは幼子をあやすように、マリオンの背中を優しくさすった。
「お前は疲れているんだよ。ギルトは初めての土地だし、勉強することもたくさん
あった。私だってアカデミアに入ったばかりの頃は、泣きたくなることが……」
「でも、ひとりじゃなかった」
「えっ?」
「……アランがいた」
「それはアランもイディオンに受かったから……」
だが、マリオンはステファンの言葉を拒絶するように、首を左右に激しく振った。
「私はひとりぼっちなのよ! 誰もいない……」
「フィリスがいるよ。少し繊細なところがあるけれど、いい奴だから。アカデミア
で共に学んだ私が一番よく知っている。お前を大切にすると言ってくれた」
「アストールに帰りたい……」
ステファンは返答に窮した。マリオンは明らかに結婚を拒んでいる。自分の立場
を考えたら、少々手荒なことをしてでも彼女を修道院に帰さなければならない。明
日の婚礼は、アストールとギルトを結ぶ儀式でもあるからだ。
「子供の頃のこと、よく思い出すの」
「マリオン、私の話を聞いてく……」
そう言いかけたとき、マリオンの手がステファンの口をそっと塞いだ。
「私が初めて馬に乗った日のこと、覚えてる?」
「……ああ」
とまどいながら答える。なぜ昔の話を持ち出してきたのか、見当もつかない。
「白くて、きれいな馬だったわ」
「そうだったね」
 マリオンが八才になったばかりの頃、十年前の夏。リーデン城の馬場で、彼女は
初めての乗馬訓練を受けることになった。
当時、ステファンはアランと共に妹の挑戦を見守っていたのだが、その目の前で
とんでもない事件が起こってしまった。厳しい選別に勝ち抜いた最高の馬が、小さ
な王女を乗せた途端、激しく暴れ、壁に向かって突進し始めたのだ。
「だけど、いきなり暴れるんですもの。本当に怖かった」
「私もどうなることかと、肝を冷やしたよ」
「あのとき、お兄さまが助けてくれなかったら、私はあの馬と一緒に……」
白馬は結局、壁に激突して無残な死を遂げた。マリオンは昔の恐怖を思い出した
ように肩を震わせる。
「無事でよかったよ、それが一番だ」
「でも、私を庇ったために大怪我をして……、それに……」
「昔のことはもういい」
ステファンは語気を少し強くして、マリオンの言葉を遮った。
「ごめんなさい……、やっぱり怒ってるわよね」
「怒ってないよ、心配してるだけだ」
「……お兄さま」
マリオンは顔を上げ、思いつめたような眼差しでステファンを見た。
「私、明日フィリス様と結婚します」
「……ああ」
妹が何を考えているのか、全くわからなかった。国に帰りたいと言ったかと思う
と、その舌の根も乾かないうちに結婚すると言う。
「お兄さまは暴れ馬から私を救ってくれた。だから今度は……、私がお兄さまを守
ってあげる。ギルトと組めば、グランベル帝国も簡単には手出しできないでしょ?」
「私はそんなつもりで、この結婚に賛成したわけじゃない」
「いいのよ、もういいの」首を力なく左右に振る。
「よく聞いてくれ、マリオン。国どおしの結びつきも大事だが、それ以上にお前に
は幸せになって欲しい。フィリスなら、きっとお前を幸せにしてくれるはずだ」
ステファンの言葉をどう感じたのか、マリオンは寂しそうに微笑んだだけだった。
 大陸一の超大国グランベル帝国は、長年にわたって周辺の小国を取り込みながら
膨張を続けてきた。だがアストールは北方の小国、帝国の大軍に攻められたら勝ち
目はない。国境を接する富国ギルトと結ぶことは、大陸で生き残るためにどうして
も必要な選択肢だった。
 でも、とステファンは思う。妹と友人には幸せな暮らしを送って欲しいと。
願わくは、戦乱など起こらないことを。

 ふいに扉を軽く叩く音がした。
 ふたりとも一瞬身を堅くしたが、ステファンは落ち着いた様子で扉に向かい、マ
リオンもその隙に素早くカーテンの裏側に隠れた。
 カーテンの動きが無くなるのを確かめてから、扉をほんの少し開く。
「……誰だ?」
「私です、ステファン様」
「アランか。こんな夜更けに何の用だ?」
不機嫌な表情を作って扉をさらに開ける。だが部屋の中が丸見えにならないよう
に、気を配らなければならなかった。
「お休みのところ、失礼いたします」
アランは生真面目な顔で言い、会釈した。手にはろうそくを持っているが、服装
は着いたときのままだ。
「お部屋の前を偶然通りかかりましたら、話し声のようなものを耳にいたしました
ので、ご様子を伺いにまいりました」
「話し声だって?」
肝の冷える思いがした。声をひそめていたつもりだったのだが。
「空耳だろう、ここには私しかいないのだし」
ステファンはあくびを噛み殺すような真似をした。
「疲れているんだ、もう寝かせてくれないか。アラン、お前も着替えて早く休め」
「申しわけございませんでした。では、お休みなさいませ」
ステファンはアランの言葉にうなずくと、早々に扉を閉めた。だが、その場から
すぐに離れることなく、耳をそばだてて外の様子を窺った。足音が確実に遠ざかる
まで声は出せない。張りつめた沈黙の時が流れる。
「……マリオン」
足音が聞こえなくなってから、声を低くして妹の名を呼んだ。カーテンが開き、
マリオンが姿を現す。
「ああ、驚いた……」
「おかげで寿命が縮んだよ」
「ごめんなさい、お兄さま。アランがあんなに耳がいいなんて、知らなかったわ」
「私もだ」
お互いに顔を見合わせて微笑む。
「フィリス様のお側にも、アランみたいな人がいてくれたらいいのに」
「大勢いるじゃないか。例えばランバートとか」
「私、あの人嫌い」マリオンは唇を尖らせて言い放った。

                               (2)へ続く




 続き #125 アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(2) 佐藤水美
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