#125/598 ●長編 *** コメント #124 ***
★タイトル (pot ) 02/12/14 22:47 (498)
アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(2) 佐藤水美
★内容
「おいおい、めったなことを言うな。彼は有能な宰相だと聞いている」
「そうなの? でも、やっぱり嫌だわ。アランみたいに正直で、私心なく仕えてく
れる人のようには見えないもの」
「ランバートは宰相だからな、アランと違うのは当然だ。それより明日は……」
「ええ、わかってる」
マリオンは突き放すように言い、うつむいてため息を洩らした。
「……行かなくちゃいけないのよね」
「気をつけて帰るんだぞ」
妹の背中にそっと手を触れる。マリオンが顔を上げ、物言いたげな視線をこちら
に向けたが、気づかないふりをした。
「さあ早く、怪しまれないうちに」
「さよなら、お兄さま……」
マリオンは小さな声で言い残すと、再びカーテンの裏側に隠れた。布が揺れ、微
かな物音がした。
ふたりきりで会うことなど、もう二度とないだろう。
ステファンはベッドの上で仰向けになった。妹を邪険に扱ったつもりはないのだ
が、後味の悪さが胸に残っている。
自分にとってフィリスは親友でも、マリオンにとっては顔も見たことのない他人
なのだ。しきたりでは花婿と花嫁が対面できるのは婚礼の当日で、それまでは言葉
を交わすどころか、お互いの顔さえ知らない。相手への愛情などあるはずもなく、
不安になるのは当然だった。
しかし近い将来、自分もアストールを守るために、顔も知らない他国の姫と縁を
結ぶだろう。王家に生まれた者として、その運命は甘んじて受けなければならない。
ステファンはいったん起き上がって燭台の明かりを消し、ベッドの中にもぐりこ
んだ。柔らかな寝具に包まれたとき、旅の疲れと残っていた酔いが眠り薬に変わっ
た。寝入ってしまうのに、たいして時間はかからなかった。
第三章 悪夢
ここはどこだ?
ステファンは薄暗い回廊にひとりで立っていた。目をこらして周囲を見回す。
リーデン城? いや、似てはいるが何かが違う。
どこからともなく物音が聞こえ、空気が微かに動くのを感じた。ステファンは神
経を尖らせて身構え、剣を取ろうと腰に手をやる。
……ない!
信じがたいことに、丸腰だった。心細さに胸が震える。
……ステファン……
くぐもった低い声。
「誰だっ!」鋭く叫んで後ろを振り返る。
真っ青な顔をした男が立っていた。濁った目とくしゃくしゃの金髪。
「……叔父上!」
……殺ったのは……お前だ……
「何を……」
……お前は……呪われている………
男は無表情のままステファンを指差した。
「いったい、私が何をしたというのです?」
……う、うう……
男は突然うめき始めたかと思うと、己の喉を両手で押さえた。どす黒い血が指の
間から噴き出してくる。
「うわあっ!」
ステファンは思わず叫んで後ろへ飛びのいた。
……メウ・ロード……
今度は、ざらついた声が背後から忍び寄る。物が腐敗したときのような、嫌な臭
いがした。
奴だ!
ステファンは狩人に追われた野うさぎのように走り出す。後ろを見る必要はない。
少年の頃の恐怖が背筋を這い上がってくる。
回廊はどこまでも続く。出口は見えない、だが引き返すこともできない。
息が切れ、心臓は爆発寸前だ。
「あっ!」
ステファンは急に体勢を崩した。何かにつまずいたらしい。己の足元を見る。
人が横たわっていた。よく知っている美貌。
「アラン!」
半開きになった口から溢れている、おびただしい血。
手を震わせてアランの首筋に触れる。
脈がない!
……メウ・ロード……
強くなる腐敗臭。
「くそっ!」
剣さえあればと思った瞬間、熱い痛みが背中から胸を貫いて……
「わああっ!」
叫び声を上げて、ステファンは飛び起きた。全力で疾走した後のように呼吸が荒
く、心臓の動悸も激しい。身体中に嫌な汗をかいていた。
「……夢か……」
喘ぎながら呟き、胸に手を当てる。冷たい汗が首筋を伝う。疲労と酒が呼んだと
はいえ、生々しく不吉な夢だった。
寝間着の袖で額の汗を拭う。部屋の中は暗く、夜明けにはまだ遠い。ステファン
は再び身体をベッドに横たえた。
こんな悪夢を見るのは何年ぶりだろう。とうに開放されたと思っていたのに……。
いや、そんなことはどうでもいい。少しでも眠らなくては、婚礼での大役に差し支
えるではないか。
心臓の興奮は治まっていなかったが、ステファンは目を閉じた。
……お前は呪われている……
……メウ・ロード……
気味の悪い声が耳の奥で何度も蘇る。眠りは妨げられ、身体の求める休息は得ら
れそうになかった。
「まいったな……」
ステファンはそう呟いて、また身体を起こした。目が暗さに慣れるのを少し待っ
てから、毛布を跳ね除けてベッドから降りる。窓がある方に向かって歩き、カーテ
ンを開けた。西に傾いた月が、白く冷たい光を放っている。
ステファンが十二才のときの夏。
あの日の夜も、白い月が出ていた。
ステファンは背中と腰にひどい怪我をして、自室のベッドに寝かされていた。同
じ日の昼間、暴走中の馬からマリオンを救い出したときに傷を負ったのだ。
アランが水に浸した手巾を絞り、発熱したステファンの額に乗せてくれたときだ
ったと思う。奴が現れたのは……。
物音もなく、気配すらも感じなかった。あの腐敗臭に気づいたとき、奴はすでに
アランの背後に迫っていた。
鋭く尖った三本の爪が、アランに振り下ろされた瞬間を今も忘れてはいない。彼
は自分の身体を楯にして、ステファンを守ろうとした。
最初の一撃は肩に食い込み、次に薄い胸を引き裂いた。絶叫と共に、ほとばしる
鮮血がステファンの顔まで飛んだ。
奴は怪物そのものだった。漆黒の身体、ひとつだけの赤い目、大きく裂けた口、
耳のあたりに生えた二本の角。思い出すだけでも震えが来る。
動けないステファンはベッドから引きずり出され、壁に叩きつけられた。間違い
なく、アランと同じ目にあうのだと思った。
しかし……、化け物は何もしなかった。赤い目を大きくしてステファンを見つめ
たまま、呟くように言ったのだ。
『メウ・ロード(主よ)』と。
そして消えた。煙か何かのように。
あれから、もう十年経つ。ステファンはため息をついて窓の外を眺めた。月の傾
きが増したように感じる。
改めて思い出してみると、ふたりとも生きていることが不思議だった。ステファ
ンはともかく、アランは一カ月も死線をさまよったのだ。勉学を教授するため、リ
ーデン城に招かれていたシド博士が、卓抜した医学知識と外科技術を駆使して治療
にあたってくれたという幸運はあったのだが。
あの化け物はどうして自分を引き裂かなかったのか。何故、メウ・ロードと言っ
たのか。いくら考えても、その謎は解けなかった。
リーデン城の厩舎に残された爪痕を思い出す。間違いなく、あの化け物が再び現
れたのだ。アランの胸にある傷跡と比較してみれば、明らかだった。
襲撃犯の正体を知っているのは、当事者ふたりを除いて、父王とその側近フレス
卿、そして今は亡きカテリーナ王妃しかいない。父王が内密にしておくよう厳命し
たからだ。
化け物が城に出没したと知れたら、人心は著しく動揺するだろうし、その隙に乗
じて帝国の手が伸びてくるかもしれない。それに、ステファンの立場にも微妙な影
を落としかねなかった。
お前は呪われている、呪われた王子だ!
ステファンの叔父、王弟ダリル公爵の吐いた台詞が、化け物と短絡的に結びつく
ことを父王は恐れたのだ。
ステファンは額にかかったひと筋の前髪を引っ張り、それを上目づかいで見た。
鮮やかな緋色。アストール王家は代々金髪と碧眼が特徴で、父王や公爵はむろん、
妹のマリオンもそうだった。
お前にはオリガの血が混じっているから、こんな髪をしているのだ!
お前のような目の色は、王家の者にはいないぞ!
公爵があたりかまわず、ステファンを罵った台詞はよく覚えている。思い出すだ
けで腹が立ってくるほどだ。
父王の庇護があったとはいえ、リーデン城の空気はステファンにとって暖かいも
のではなかった。城内には声高に叫ばずとも、公爵の言葉に共感する者が多くいた
からである。
オリガ――古代聖書に則った暮らしを、頑なに守っている人々のことだ。彼らは
周囲と隔絶した集落を作り、独自の掟に従って生きてきた。貧しくとも静かな生活
を好み、争い事を嫌う。集落の外に出るのは、何かの事情があるときだけだ。
しかし大教会は、信心深い彼らを今も昔も認めてはいない。彼らは教会への献金
をせず、大教会の頂点にいる教王をあがめることも拒んだからだ。
異端と呼ばれ、迫害されたオリガを受け入れたのは、アストールとギルトの両国
だった。それは彼らを保護するためではなく、安い労働力として使うためだった。
今から二百五十年ほど前のことである。
だが年月が経つと、アストールのオリガには変化が現れ始めた。周囲と次第に同
化していくようになり、いくつもの集落が消えていった。国内で最後まで残ったの
は、リーデン城の北にあった集落ただひとつ、そこはまた、ステファンを生んだ母
エレインの故郷でもあった。
とはいえ歴史的に見れば、オリガの娘が王家に嫁ぐなど異例の事態であり、宮中
に騒動が起こるのも無理はない。父王は周りの反対を押し切って母を妻としたが、
大教会には認められず、公式には愛人と同じ扱いだった。
愛人の子に王位を継ぐ資格はない。公爵はステファンを散々罵った後、必ずそう
言った。おそらく彼には、王位への野心があったのだろう。
しかし、公爵はもういない。
ステファンとアランが襲撃された翌日、公爵は自分の邸宅で、夫人と共に何者か
によって殺されてしまったのだ。犯人は未だにわかっていない。
公爵はいなくなっても、ステファンを取り巻く状況は同じだった。髪や目の色に
ついての陰口は相変わらずだったし、ちょっとでも失敗しようものなら、オリガの
血が混じっているから駄目なのだと言われた。
ステファンには生みの母の記憶がない。母は出産後数ヶ月で亡くなっている上に、
絵姿も残っていないからだ。彼にとっての母は乳をくれた乳母や、マリオンの実母
であるカテリーナ王妃だった。
彼女たちには慈しんでもらったと思う。特に王妃は、継子であるステファンにも、
実の子と同じように愛情を注いでくれた。それにはとても感謝している。
だがアストールで生きていくなら、偏見は払拭せねばならなかった。自分の中に
ある根深い劣等感を打ち砕くためにも、必死になって努力してきた。アカデミアの
大学府に入学し優秀な成績を修めたこと、寒村だったメンテルを立派な町に変えた
こと、ギルトの闘技場で当時一級剣闘士だったジュダを屈服させたことなどは、み
なその成果だった。
これだけのことをしてもなお、正式な皇太子となるための立太子式はまだ行われ
ていない。本来なら三年前の成年式と同時に済んでいたはずだった。
立太子式をするには大教会の許可がいる。父王が使者を立てて申請しているにも
かかわらず、返事は未だにない。おそらく母の出自が影響しているのだろう。それ
はステファンの責任ではないのだが、リーデン城に集まる貴族たちはそう思っては
くれなかった。
何をしても認められないのかと絶望的になったこともある。だが、ここで投げ出
したら、努力が全て無駄になってしまう。
空がうっすらと明るくなりかけていた。ステファンは両手で髪をかき上げ、ベッ
ドのところに戻った。寝間着を脱ぎ、ズボンとシャツだけの簡単な服装に着替える。
もう一度眠ろうという気持ちは失せていた。外の空気が無性に吸いたかった。
第四章 少女
城内は眠りに落ちているように静まりかえっていた。
暗い廊下を通り抜け、とりあえず中庭に出てみる。屋内よりは明るいが、日光は
まだ差し込んでいない。白い砂利の敷きつめられた地面には、庭木の作る黒々とし
た影が落ちている。
風が吹き、木々がざわめく。ステファンは新鮮な空気を胸いっぱいに吸いこみ、
悪夢を追い払うように呼気を吐き出した。
死んだ叔父や化け物を頭の中から追放すると、やはりマリオンのことが気になっ
てくる。修道院まで無事にたどり着いているといいのだが。
私がお兄さまを守ってあげる。
マリオンの泣き顔を思い出す。妹を哀れむ気持ちと、禁忌を犯した罪の意識とが
胸の中でせめぎ合う。
他にどうすればよかったのか。今の自分には、結婚式が滞りなく行われるのを祈
るしかないのに。
やるせない思いを抱いてため息を吐き、足元の砂利を軽く蹴った瞬間だった。
何かの音――風や木々の出す音ではないもの――が、微かに聞こえたような気が
した。はっとして周囲を見回すが、何も変わった様子はない。
気のせいかと思い、踵を返して屋内に戻ろうとしたとき……。
再び、同じような音が耳をかすめた。思わず足が止まる。
竪琴が紡ぎ出すような、高く澄んだ音色。それが折り重なって、ひとつの美しい
調べになっていく。初めて聞いたはずなのに、とても懐かしく感じるのは何故だろ
う。
誰が、どこでこの曲を奏でているのか。ステファンは音の出どころを探ろうと耳
をすませた。
上からだ!
そう確信したとたん、ステファンは駆け出した。城内に戻り廊下を走り抜け、屋
上に通じる階段へと向かう。急がなければ消えてしまうような気がして、らせん状
の石段を駆け上がった。
屋上に近づくにつれ、曲が次第にはっきりと聞こえてくる。いつしかステファン
は走るのをやめていた。ゆるやかな音の流れに身をまかせるように上っていく。
流れてくる風を感じて顔を上げると、入り口の扉は開け放たれたままになってい
た。早朝ながらも明るい光が差し込んでいて、ステファンは目を少し細めた。
階段を上りきって屋上に出る。だが、そこで見たものは、想像もしていない光景
だった。
「これは……」驚きのあまり息を呑む。
建物の陰に沈んでいた中庭とは全く違い、光が溢れていた。みずみずしい新緑の
若葉を茂らせた低木と、咲き乱れる色とりどりの花々。それらの間をぬって走る小
径には、鮮やかなモザイクが填め込まれ、精霊を模った白大理石の優美な彫像は、
日差しを受けて輝いていた。カスケイド城の屋上は、贅を尽くした庭園といっても
過言ではなかった。
その庭園の中央、細やかな装飾が施された長椅子に、ひとりの女性が腰掛けてい
た。純白の長いベールを被っていて、しかもステファンに背を向けているため、顔
は見えない。演奏に没頭しているらしく、侵入者には気づいていない様子だった。
邪魔をするつもりはなかった。ステファンは猫を思わせる足取りで歩き、彫像の
後ろ側に身をひそめた。
いったい、どこの誰なのか。
疑問が再び浮かんだとき、澄んだ歌声が旋律に加わった。
この曲を知っている!
懐かしさは確信に変わった。いつどこで聞いたのかは、自分でもわからない。だ
が、胸の奥が激しく震え始めるのを、止めることはできなかった。
ステファンは彫像に寄りかかり、小さく息を吐いた。目の奥がふいに熱くなるの
を感じ、慌てて上を向く。
長いあいだ 探し続けていた
魂と魂をつなぐ深い絆
遠くばかりを 見つめていたけれど
本当に大切なものは 私のそばにあった
愛しい人よ
私の胸に飛びこんでおいで
私は あなたの帰る家
背負ってきた悲しみごと 抱きしめてあげる
名前が変わっても 姿が変わっても
私にはわかる
魂のかたちは変わらないから
時の波に洗われても
きっと あなたを見つけられる
愛しいひとよ 覚えていて
運命に引き裂かれても
すべての命の源で
いつの日か また会えることを……
空を流れる雲が歪んで見えたとき、ステファンは目を閉じた。
瞼の裏に白いカーテンが映る。ゆりかごの軋む音、抱かれたときの柔らかな胸の
感触。甘い匂いと優しい歌声……。
長い間忘れていた大切な記憶だった。熱いものが頬を伝って流れ落ちる。風が吹
き、庭木のざわめく音が聞こえた。
「あっ!」
小さな叫び声に、ステファンはハッとして目を開けた。濡れた頬を慌てて袖口で
拭い、彫像に寄りかかるのをやめて周囲を見回す。
ベールが風にもてあそばれて宙を舞っていた。ステファンは躊躇せず彫像の後ろ
から飛び出して、薄い布を素早くつかまえた。
「あなた、誰?」
おびえたような、だが美しい声が後ろから聞こえた。魅惑的な響きに引かれて振
り向くと、そこにはひとりの少女がステファンを見つめて立っていた。
年は十五か十六ぐらいだろうか。上質の白磁を思わせる肌を持ち、大きな瞳は新
緑をそのまま移したような鮮やかな色をしていた。ゆるく波打つ金褐色の髪は、腰
のあたりまでの長さがある。首には変わった形をした石のペンダントを下げていて、
ベールと同じ色の質素な服が華奢な身体を包んでいた。
彼女は小型の竪琴みたいな楽器を大事そうに抱えなおすと、柔らかな花びらのよ
うな唇をためらいがちに動かした。
「あの……どうかしたの?」
「いや、別にその……」
ステファンは口ごもって、うつむいた。何か言わなければと思えば思うほど、言
葉が出なくなった。胸の奥の、自分でも意識したことのなかった場所が締めつけら
れる。急に息苦しくなり、顔が紅潮してくるのを感じた。
「ベールを返してくれる?」
「ああ……」
ステファンは歯切れの悪い返事をすると、少女に近づいてベールを差し出した。
「拾ってくれてありがとう」
少女はそれを受け取り、可愛らしい笑顔を見せた。胸の鼓動が速くなっていく。
「あなたは、このお城の人なの?」
「いや、違うよ。ちょっと用があってね。君は?」
「私はおじいさまと一緒に、昨日着いたの」
彼女の祖父はそれなりの地位がある人物らしい。だが、貴族の娘にしては着てい
る物が簡素すぎる。
「お城に泊まるなんて初めてだから、なんだか眠れなくて……」
少女は小さなため息をついて、楽器を人形のようにしっかりと抱えた。その仕草
が微笑ましくて、ステファンは表情を和らげた。
「実は私も眠れなかったんだ」
「あなたもそうだったの」
「仕方なく中庭をうろついていたら、君の竪琴の音が聞こえてきて……つい、ここ
に来てしまった」
「もしかして、歌も聞いてた?」
「立ち聞きするつもりはなかったんだが、君の声が……とてもきれいで……」
「上手じゃないのに……、恥ずかしいわ」
少女はふいに表情を曇らせて、うつむいた。
「そんなことはない! もっと自信を持つべきだ」
声がつい高くなった。少女が身をすくませてステファンを見る。
「大声を出してすまなかった。でも、私は嘘を言っていないつもりだよ」
「あ……、ありがとう」
少女はまだ怯えているように見えた。まずかったなと自分でも思う。
「竪琴と歌は誰に教わった?」
「母さまに。それから、これは竪琴じゃないわ」
「いや、でも……」
「よく見て。竪琴よりずっと小さいし、弦の数も違うでしょ」
少女はそう言って、ステファンに楽器を見せた。
「ああ、確かにそうだな。なんていう名前だ?」
「ビューロっていうの」
聞いたことのない楽器の名前だった。
「これは竪琴の原型なんですって。おじいさまがそう言ってたわ」
「へえ、初めて知ったよ。君のおじいさんは物知りだね」
「だって学者ですもの」
学者か、なるほど。それなら城に出入りするのもわかる。名前を知りたかったが、
今ここで訊くのは何となくためらわれた。
「ちょっとだけ、ビューロに触っていいかな?」
「もちろん。どうぞ」
少女は微笑んでステファンにビューロを差し出した。受け取って抱えてみると、
楽器は想像以上に軽い。ぴんと張られた弦を適当に爪弾いてみる。
「あれ?」
がっかりするくらい冴えない音だった。楽器そのものが違うのではないかと思え
るほど、少女の奏でた音色との落差は大きかった。
「ビューロは見た目以上に難しい楽器だから。最初から、きれいな音を出せる人な
んていないわ」
「そうなのか、面白いものだな。君もたくさん練習をしたんだろうね」
「練習? そんなふうに思ったことなかったわ。ビューロを弾いていると、母さま
がそばにいるような気がして……」
「母上は亡くなられたのか」
ステファンの言葉に、少女は黙ってうなずいた。
「……すまなかった」
「いいの、気にしないで」
少女は首を横に振り、うつむいた。艶やかな髪が風に揺れる。
「あの……もしよかったら、さっきの歌をもう一度歌ってくれるかな」
ステファンは優しく話しかけると、少女にビューロを渡した。少女は楽器を受け
取ったものの、表情をこわばらせて何もしようとはしない。
「君はビューロを弾いていると、母上がそばにいるような気がすると言ったね。そ
の気持ち、わかるよ」
少女が顔を上げてステファンを見た。
「あなたの母さまは……」
「私を生んだ母上は赤ん坊の頃に亡くなったし、育ててくれた人も三年前に逝って
しまった。私には、母上との思い出はあまりないんだ」
自分から母親の話をするのは初めてだった。カテリーナ王妃のことはともかく、
生みの母エレインは、偏見に打ち勝つため心の底に封じこめた存在だった。
ビューロの音色と少女の歌が、いつの間にかそのくびきを断ち切っていたのだ。
「いいわ、歌ってあげる」
少女は表情を和らげて言い、長椅子に腰掛けた。ベールを被り直し、おもむろに
ビューロをかまえると、小さな声で呟いた。
「……そんなに見つめないで」
「あ、ああ……悪かった」
慌てて少女に背を向ける。他にどうすればいいのかわからなかった。
調子を整えるように弦を数回弾く音がした後、例の曲が再び始まった。風が穏や
かに吹き、花々の香りが漂ってくる。
ステファンは目を閉じた。白いカーテンが、また蘇る。
ゆりかごの中の赤ん坊は、小さな足をぴくぴくと動かし、何かをつかもうとする
かのように伸ばした自分の手を見つめている。
歌が流れている。何度も耳にした、あの歌。
赤ん坊は自分も歌おうというのか、言葉にならない声を出す。
ステファン……。
聞き覚えのある優しい声。
……母上?
「鐘の音がする……」
少女がふいに呟いて歌と演奏を止めた。ステファンも目を開けて耳をすます。荘
厳な音が遠くのほうから響いてくる。
「しまった!」
鐘の音は明らかに大聖堂のものだった。今日、そこで行われることは――。
「どうしたの?」
「大事な用事を思い出した、もう行かないと」
ステファンは少女のほうを向き、早口で告げた。少女は大きな目を見開いて、唖
然とした顔をしている。
本当は、ここを離れたくない。歌を聴いていたい、少女ともっと話がしたい。
だが自分には果たすべき大役がある。心がどんなに叫ぼうとも、押し殺さなけれ
ばならなかった。
「歌ってくれてありがとう。よかったら君の名前、教えてくれるかな」
「ミレシアよ。あなたは?」
少女は自分の名前を言って、愛くるしい笑顔を見せた。彼女が野に咲く花ならば、
ためらいなく手折って持ち帰ったことだろう。
「私の名はステファン。では、さらばだ」
「さようなら、……ステファン」
ミレシアの声を背に、ステファンは一回も振り返らずに庭を突っ切り、階段を駆
け下りた。
もう一度、逢えるだろうか?
胸の奥が燃えるように熱い。こんな気持ちは初めてだった。
フィリスとマリオンの結婚式は、カスケイド城の北に位置する大聖堂で盛大に行
われた。
挙式後、彼らは成婚パレードを行うためティファに入ったが、ステファンは一足
先に城内へ戻っていた。日没になれば祝宴が始まる。父親代理の役目は終わっても、
アストール王国の代表としての役目はまだ残っているのだ。
ステファンは客間で遅い昼食を摂っていた。テーブルのそばには不機嫌な顔をし
たアランと、普段と変わらない様子のジュダが立っている。
「まだ怒っているのか」
パンをかじりながらアランに訊く。怒っていて当然だった。ミレシアという美少
女に気を取られ、重大な役目を危うく放り出すところだったのだから。運良く式に
間に合ったとはいえ、一歩間違えれば、父王やマリオンに恥をかかせることになり
かねなかった。
「終わっちまったことは仕方ないだろうが。マリオン様のご結婚式には間に合った
んだから、それでいいじゃないか」
ジュダはそうアランに話しかけると、ステファンのカップにお茶を注いだ。
「二度とあんなことはしない。宴が始まる時刻まで、この部屋から一歩も出ない。
神にかけて誓うよ、アラン」
残りのパンを口に運び、お茶で胃の中に流しこむ。本気で言っているつもりだっ
たが、今は空腹に勝てなかった。
「俺がドアのところで見張ってるからいいだろう?」ジュダが後押しする。
だが、アランはステファンとジュダの顔を交互に見て、短いため息を吐いた。
「ステファン様、本当に反省しておられるのですか?」
またか、と思う。全く信用してくれないアランに、ステファンの気持ちも次第に
投げやりなものになっていく。
「悪かった、反省してるよ」
「ならば、真実をおっしゃって下さい。今朝はどちらへ行かれたのですか」
「何度も言っただろう、庭だ」
ステファンは吐き捨てるように言い、ナイフとフォークで肉料理を切り分けた。
茶色のソースが少量跳ねて、テーブルクロスに染みを作る。
「中庭ではお姿を拝見できませんでしたが」
「違う、屋上にあるやつだ」
肉片をフォークで突き刺して、口に入れる。しばらくの間、アランとは話をした
くない気分だった。
「屋上に庭なんかあるんですかい? そいつはすごいや、見てみたいなぁ」
ジュダが目玉をくるくると動かして、嬉しそうに言う。
「屋上に庭など、聞いたこともありません」アランの声は冷ややかだった。
「でも、ここにはそういうのがあるんだろ? 何でも決めつけちまうのは良くない
な、アラン。視野が狭くなるぜ」
「鉢に植えるならいざ知らず、今の技術で屋上に庭を造るのは不可能です」
アランはジュダの台詞を無視して、己の意見を強調した。
「大公様のことだ、何か新しい方法でも編み出したのかもしれないぜ。ま、年寄り
みたいに頭の固いお前さんにゃ、理解できないだろうがな」
「何だって?!」
アランの顔に赤みが差す。そろそろ雲行きが怪しくなってきたようだ。ステファ
ンはお茶を啜り、口を開いた。
「本当だよ、見事な庭だった。私だって最初は自分の目を疑ったくらいだ」
「それほど素晴らしい庭なら、何故評判にならないのでしょうか。陛下はどうして
秘密にしておられるのでしょうか」
「さあね、私にもわからないな」
「それではお答えになっていません。なぜ屋上に行かれたのですか?」
「ただの散歩だ。何度言えばわかるんだ」
ミレシアとの出会いを打ち明けられる状態ではない、と思った。ステファンに近
づく女性が現れると、アランはひどく神経質になる。その気持ちも理解できないわ
けではないのだが……。
「真実をおっしゃって欲しいのです」
アランは急に沈んだ声で言い、目を伏せた。
「昨日の夜といい、ステファン様は私に何か隠しておられます。十五年もお仕えし
てきた私が信用できませんか?」
「何も隠していないぞ。馬鹿なことを言うな、アラン」
何という勘の良さだ! 内心で舌を巻く。だが、どう言われようと、昨夜のマリ
オンとの一件は墓場まで持っていくつもりだった。妹の名誉は守ってやらなければ
ならない。
「とにかく、庭でのんびりしすぎてしまっただけだ。この話は終わりにする」
ステファンは一方的に宣言し、膝にかけたナプキンを取ってテーブルの上に置い
た。これ以上、物を食べる気にはなれなかった。
「少し休む。ふたりとも下がれ」
アランとジュダが部屋を出て行くと、ステファンは早速ベッドに寝そべった。積
み重なった疲労で身体が重い。
……ミレシア……。
少女の顔が脳裏に蘇った瞬間、胸の奥が締めつけられた。
もう一度逢いたい、そして……。
ステファンは深々とため息を吐き、目を閉じた。
第五章 皇太子
祝宴は日没と同時に始まった。
大広間では豪華な料理と上質の酒が惜しげもなく放出され、宮廷楽士たちが華や
かな曲を奏でている。きらびやかな衣装を身につけた王侯貴族たちは音楽に合わせ
て踊ったり、他愛ないおしゃべりに興じたりしていた。
ステファンは儀礼上、数人の上級貴族令嬢と踊ったが、彼女たちのように無邪気
に宴会を楽しむことはできなかった。人目を避け、大広間の壁に寄りかかって、今
宵の主役ふたりを遠くから眺めてみる。
フィリスもマリオンも、にこやかな笑顔を見せていた。特にフィリスのほうは、
こちらが恥ずかしくなるほど嬉しそうだった。対するマリオンはどうかと言えば、
昨夜のこともあって、何となくぎこちない感じに見えてしまう。
結婚したくない。妹はそれだけを告げるために危険を冒したのだろうか。本当に
伝えたかったことは別にあったのではないか?
だが、確かめるすべはない。マリオンは今やギルトの大公妃となったからだ。
「ステファン王子じゃないか」
背中で聞き覚えのある声がした。嫌な予感を胸にして振り返る。
「失礼致しました、ヘクター殿下。直々にお声をかけていただけるとは光栄に存じ
ます」
ステファンは口許に笑みを浮かべてよどみなく言い、派手に着飾った青年にてい
ねいなお辞儀をした。
ギルト公国の隣、ハイデルク王国のヘクター皇太子。年はステファンやフィリス
と同じ二十二才だが、彼の肉体は衣装でも隠しきれないほどたるんでいた。すでに
相当な量の酒を飲んでいるらしく、輪状の襟飾りの上に乗った丸い顔は真っ赤で、
茶色の目も血走っている。おそらく祝宴が始まる前から飲んでいたのだろう。ギル
ト王家とは遠戚に当たるため、祝宴に呼ばれたのだ。
「ふん、心にもない世辞を言うな」
ヘクターは薄い唇を歪めて言うと、酒臭い息を吐き出した。
「疑り深いお方だ。私は真実を申し上げているのですよ」
(3)へ続く